20.現代文明の下賤な心の状態・身勝手





1970年5月9日

 四時四十五分になりました。前回に残っている講義を続けることができます。今日は同じ題目、まとめて言えば「現代式文化の下賎な心の状態」という題でお話します。前の二回は、ローバ、ドーサ、モーハの形の下賎な心の状態を述べ、今日は全部まとめて、身勝手について述べます。みなさん理解して、そして私が挙げた三つの名前の煩悩は身勝手から生じると、自分に生じている感覚で明らかに見てください。

 ローバ(貪)は求めるべき以上に求めることです。身勝手だから欲しがり、あるいは探求し、あるいは必要以上に保有します。

 ドーサ(瞋)は怒り、加害心、善意でない、恨み、復讐を企てるなどです。これらは自分が貪ったように得られないことで、身勝手から生じます。自分が望んだように得られない身勝手は、憎み、怒り、復讐を生じさせます。

 モーハ(痴)は愚かさ、迷い、疑念で、自分が貪っている物の中を堂々巡りしています。それも一つの形に伸びた身勝手です。

 だからローバ、ドーサ、モーハはすべて身勝手に基盤があると、この真実をハッキリ見てください。別の呼び方では、人間の普通のレベルを越えた「俺、俺の物」である執着と言います。これが「身勝手」「利己主義」と呼ぶものです。これは理解できるよう話さなければなりません。なぜなら、これは人間を低劣にするただ一つのこと、あるいはただ一つの物だからです。

 そして人間は発展すれば発展するほど、これ一つだけ、つまり身勝手だけのせいで下賎な心の状態があります。身勝手とは畜生以上の、あるいは植物以上の生物の心の感覚として、自然にある水準より濃い感覚を意味します。だから身勝手な感覚と、身勝手に関わる物について、十分に理解しなければなりません。

 今身勝手を一般に、selfishness と呼びます。みなさん必ず聞いたことがあるはずで、そして友達を非難したこともあります。selfish な人たちは、嫌らしい、あるいは危険と感じた時という意味ですが、自分がある感覚、あるいは動物の普通の水準の身勝手は selfishness と呼びません。むしろ egoism、あるいは egoistと、このように呼びます。それぞれレベルが違うからです。

 生物は必ず「自分がいる」、あるいは「自分」という感覚があり、だから生きたがり、命を維持して生き延びたがります。servive、あるいは survival は生物にあるもので、植物にもあり、自分あるいは種、つまり自分の子孫が生き延びるために闘う努力をします。自分のため、その植物が生き延びるため、そして自分の子孫が今後繁栄するために闘います。こういうのはまだ selfish とは言いません。

 それは egoism の感覚で、まだ非常に弱く、そして生き延びるための重要な縁です。すべての生物にこの感覚がなければ種は絶えてしまい、世界に残りません。畜生も同じで、自分がある感覚は植物よりたくさんあります。人になると明らかに高く、人間の身勝手は信じられないほど高いです。そして善いものと騙す状態に高く、善いものと迷って見る状態の悪い物です。

 だから私たちは、「身勝手は自分を愛すことではない」、あるいは「自分を大切にすることではない」と厳格に区別しなければなりません。死なないために普通に生きたいだけ、それが自分を愛すこと、自分を大切にすることです。あるいは正しい方の発展を望む、それも自分の利益になります。一方身勝手は、下賎な感覚を狙うことに意味があります。

 犬は観察しやすい動物で、もう一匹が近づくと嫌らしくウーウー唸ります。他の動物はあまりしません。そして腹いっぱい食べた犬は、まだ座って唸っていて、他の犬に残った餌を食べさせません。このようなのは身勝手の話になります。私が勉強した頃の教科書には、草原の犬が草の番をしていて、吠えて牛に食べさせない話が載っていました。これが完璧な身勝手の状態です。

 自分は食べられません。犬は草を食べませんが、牛に食べさせようとしません。犬は他の水準の動物より賢いので、他の動物より高い身勝手を知っています。みなさん、自分を愛し自分を大切にする基本の感覚より高い身勝手を、区別することを知るべきです。

 仏教では、善を行うことで自分を愛し、自分を大切にするよう教えます。しかし身勝手でしません。selfish な人を、私たちはこのように良く見なければなりません。人間が現れ始めた時代、世界に道徳が生れた頃まで遠く見ると、そ非常に昔で、何万年、あるいは少なくとも何千年前かも知れません。三蔵のパーリ(ブッダの言葉である経)に、これについて語り、教えられたブッダの言葉があります。

 世界に人間が現れ初めた時、何かを自分の物と支配する人は誰もいませんでした。朝起きたら森へ行って、自然にある植物、特に森に生えている米を採って、そして毎日食べました。倉庫はなく、蔵もなく、長い間このように平安に暮らしました。何でも森で採って来て食べ、住まいで炊いて食べました。その後賢い人が生まれて、「私たちは何だってこのような苦労をするのだ」と考えたので、倉庫ができ、蔵ができ、そして採って来て倉庫や蔵に蓄えました。

 その後もっと身勝手な人が現れて全部蓄えました。幾らあっても全部蓄えたので成長が間に合わなくなり、生えるのが間に合わなくなり、「栽培しなければならない自分の物十いう感覚のもの」を持ち始めました。農業が生まれ、自分の物である種を蒔く土地を所有しました。その後もっと身勝手な人が「自分で苦労なんかしないで、他人の物を盗もう」と考え、その社会は混乱しました。

 だから人間は集会して、姿形が美しく、丈夫で賢い人をすべてを支配する首長として選びました。その社会が合意した項目の間違いをした人に罰を与え、そして褒め、褒美を与え、あるいはするべきこと何でもする義務がありました。世界に初めて王と呼ぶ人が生まれ、彼らは「仮の王」と呼びました。つまり全員から王として選出された人です。

 この話を少し観察すると、身勝手が原因で規則や法律が生まれ、王が生まれたと簡単に見ることができます。それまでどおり身勝手がなければ、これらのものは必要ありませんでした。だから身勝手な人、身勝手をし始めた人がいたから統治制度が生まれたと、もう少し深く見ます。身勝手がなければ統治制度は必要はありません。このような状態で身勝手を知ってください。

 森に自然に生えている麦を拾いに行って食べていた時代は、まだ身勝手ではありません。お腹が空き、喉が渇くと、生きていたいのでそうしましたが、まだ selfishness ではなく、その後、全部を盗んで倉庫に入れ、蔵に入れた時、selfishness が始まりました。次に仲間が作った物、育てた物を盗むのは、完璧な、あるいは百パーセント selfishness です。

 話したら、キリスト教徒たちの最高の教典に「人間は善悪を知った時から苦が始まった」とあることについて話したいと思います。アダムとイブが神様に背いてその果物を食べた時、問題が生じました。その前は問題はありませんでした。Tree of knowledge of good and evil がその木の名前です。善悪を知る木。それまで人間はこの知識がなく、善悪、功罪、苦楽、男女、高低を区別(discriminate)することを知らず、動物のようで、動物に近く、半分人、半分猿のようでした。

 人間がこれらの対の物を知る時代になると、善悪、功罪、苦楽などが人間の問題になり始めました。その教典には、神様が禁じた果物を食べたので、その途端に「私は衣服を着けていない」「それは女。これは男」と知ったので問題が生じたと、人物話法(註)で書いてあります。彼らは original sin、つまり初めの罪、原罪と呼びます。罪の始まりで、そして現在まで続いています。善悪を知ると、善悪、功罪、苦楽、男女で苦闘することを知ります。

 生殖する動物は人間のように雌雄、男女の感覚はありません。皮膚の感覚、いろんなリンパ腺の感覚で行動し、雌雄、男女と感じません。しかし人間は知って執着します。だからそこで、身勝手が始まり、そこに「私、あの人」があり、勝手に自分の味方、他人の味方をしたがります。

 何が善で何が悪かを知ると、限りなく善く、善く、善くするので、身勝手が胎動し始めます。「善悪を知れば危機からの脱出」、あるいは「人間の最高」と理解しないでください。執着するために善悪を知ります。次に食べた果物の他に、もう一本身勝手のない木の実があり、彼らは Tree of life と呼びます。そしてその木を人間が食べないように、神様は隠すことができました。彼らの話はこれで終わりです。

 その後人間が心の面、精神面で賢い時代になり、ブッダが生まれて執着しないことを教えました。実践が成功すれば永遠の命( Eternal life )を得ます。バイブルでは、Tree of life 命の木と呼び、意味は永遠の命で、死を知らない命、生まれることを知らない命を生じさせることではありません。人間は(身勝手のない木の実を)食べていません。彼らの教典は、これで終わりです。

 しかしブッダ、あるいは同種の人物が生まれて、人間をその木の実を食べたのと同じにしました。つまり死を知らない命があり、「自分」と執着しない、「死ぬ自分」と執着しないようにするダンマ、仏教のアマタダンマ(不死)を知りました。他の宗教には別のものがあります。この話は、人間の罪の始まりは身勝手と見せるためです。

 区別を知り、これは女性、これは男性、これは雄、これは雌になり、私の夫、私の妻という執着になりました。それまで執着したことがなく、執着を知りませんでした。感じませんでした。アダムとイブは最初のカップルで、初めは知りませんでしたが、その木の実を食べると、知りました。人間がそれらを知り始めた時代を意味します。執着する方向の善を知り悪を知り始めると、苦があり、最高に高くなって執着を消滅させる段階までになり、それで苦がなくなります。

 今私たちは執着を消滅させる経過を知りません。現代式教育の発展で、反対に更に「俺、俺のもの」が増えます。私は「現代式」という言葉を使います。みなさん、(現代式という言葉を)取ってしまわないでください。捨ててしまわないでください。ただ「教育」と言えば別の意味があります。現代の教育と言えば、この時代の、テクノロジーの時代のという意味にしてください。

 「身勝手」という言葉を知れば、現代式文明の下賎な心があることを簡単に理解できます。二回ともテクノロジーについて話し、人間は今テクノロジーを崇拝し、そして教育も含めてそれぞれの分野のテクノロジーに分かれているとお話しました。

 テクノロジーについて話しても同じです。本当は害でなく、何も危険はありませんが、偶々身勝手で近づいて関わり、身勝手の奴隷になる類のテクノロジーを創る人間がいます。このような状態で人間が創ったテクノロジーは身勝手を増やす道具になります。だからみなさん、タンマである心で良く見てください。タンマになるよう話すなら、「そのテクノロジーは仏教の如意足」と言わなければなりません。

 如意足については「成功の道具」という題名の初めでたくさん話しました。テクノロジーの知識は直接成功の道具であり、仏教の如意足と規定することができます。完璧でも完璧でなくても同じ規則があります。つまり成功を援けるもので、成功を生じさせる援けをする点に意味があります。これが「テクノロジー」というもの、あるいは発見した深いテクニックの意味です。

 次にみなさん、如意足が愚かな(バーラである)人の手に落ちれば最高に危険と、もう少し見てください。仏教の如意足が愚かな人に手に落ちれば最高に危険です。愚かな人は身勝手で、他人に危害を与えるために使うからです。仏教のチャンダ(満足)、ヴィリヤ(精進)、チッタ(心)、ヴィマンサー(考慮)は、聖向聖果涅槃への到達を生じさせるために使う道具ですが、それを悪い方の sublimate (純化)に使い、自分の利益のために使って、身勝手で他人を苦しめることもできます。

 このようにハッキリ言う方が善いです。神通力や奇跡と呼ぶものを、人々は正しい方向、成すべき方向に使いたがりますが、鬼や悪魔は、殺し合う戦いの道具にします。鬼や悪霊や神は、神通力や威力や奇跡の力があれば、殺し合いをするために使います。それはこのように両刃に使えます。正しい方法で使えば正当で最高の利益があり、誤って使えば不正な方向で最高の害があります。

 今世界はテクノロジーをどのように使っているか、みなさんが見れば、身勝手のために使い、自分の身勝手を成功させる道具にしていると明らかに見ることができます。みなさんがこれを理解すれば、テクノロジーで繁栄している現代式文明の下賎な心の状況を理解し、現代、あるいはテクノロジーの時代の世界は身勝手がいっぱいの世界と、すぐに見ることができます。

 つまり草原の犬くらい身勝手があり、自分は食べたり使ったりしなくても、食べ残し、使い残しでも惜しんで、唸って脅し、他人に危害を与えます。現代のテクノロジーの時代の世界は、著しい身勝手で、草原の犬レベルです。

 明け方の時間を、他人を非難する時間にすると考えないでください。この時間は心が冷静で正常なので、ブッダがニャーナ(智)で世界を照らして見られたように、私も現代の状況の深さを真実のままに見るために、この土地は今どのようか、山頂から麓を見下ろすように見ます。さてみなさん、見てください。今みなさんにある身勝手を増やさないのは、どの分野のテクノロジーでしょうか。

 私たちは身勝手で探求するので、欲望を増やすため、あるいは自分の成功のために探求します。教育、政治、経済のテクノロジーも、産業のテクノロジーも、軍事のテクノロジーも、身勝手を増やす道具であり、自分の身勝手な望みを成功させます。だから最高に恐ろしいゾッとする世界で、身勝手な望みを達成させるテクノロジーに満ちた現代式文明です。

 だから私はまとめて「私は、種類別に詳しく見えるよう、貪・瞋・痴に分けて話した」と言います。しかし今、それは「身勝手、下賎な心があること」という一語に集約されるとまとめます。現代式文明の中にこのように深く、神様を捨ててテクノロジーを神様にしてしまうほど広くあります。その結果、世界の至る所に混迷、困窮が生じます。それが下賎です。下賎は、苦を生じさせる所ならどこにでもあります。

 次にみなさん、これから良く見て、「今世界の人は、テクノロジーのお陰で欲しいもの何でも揃っているが、たった一つ欠けているのは、テクノロジーから生じる苦、あるいは悪を防ぐ物だけ」と、身勝手の結果を見ます。私たちの世界に今欠けている物はたった一つ。それは、これらの物から苦が生じないように防ぐものです。定義の言葉を話せば、このように言わなければなりません。

 私たちは、自分が所有している物から苦が生じないよう防ぐもの以外は、何でもあります。私たちが身勝手で所有すれば所有するほど、影のように付いて来る苦が増えます。そしてこれらの物から苦が生じないように防ぐものは、まだ私たちにありません。身勝手しかないので、反対の物、つまり身勝手でないことがなければなりません。これがダンマ、あるいは仏教のプラタムと呼ぶもので、身勝手でないことに集約されます。

 仏教の要旨は「サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ=すべての物は誰も、自分、自分のものと執着すべきでない」という短い一文にあります。仏教の要旨があれば、人間の支配下にあるすべての物から生じるすべての種類の苦を防ぐことができます。今財産があり学識があり能力があり福分があっても、すべては苦になり、そして苦を防ぐ霊験あるお守りはありません。

 だからみなさん良く注意して、それらの仲間にならないでください。自分にある物から生じる苦を防ぐものを持ってください。みなさんは教育があり、知識があり、そして職業があり、何があっても、それは身勝手が原因の苦を生じさせるので、苦が生じないよう防止するお守りである物がなければなりません。

 今人間は身勝手が望むとおり何でも所有し、それでびっしりと厚い苦が生じ、そして苦を防ぐものを持っていません。これが下賎な心があることです。自覚しても自覚しなくても、現代文明の下賎な心があることと呼ばなければなりません。自覚しないでこのようにすれば「物がたくさんあり、物質面の発展、良い生活に見える」と言います。これが、自覚なしに下賎な心があることです。

 多少名誉ある言い方をすれば「上流の人の下賎な心」と言います。これは皮肉になります。上流の人の下賎な心があれば、何でもあり、豪華絢爛になるほど何でもあっても、それでも自分が所有する物から生じる苦があります。上流の人の下賎な心、能力がある人の下賎な心があります。また皮肉に、非難の言葉になってしまいます。

 しかしその人が感じなければ非難の言葉と見ません。その人はきっと、現代の素晴らしい用品用具食品など何でもあり、スイッチを押すだけで何でも思い通りになるような電化製品があることは、天国の天人より良いと見ているからです。

 だから解決、あるいは上流の人の下賎な心があることを防止できません。それはまだ、非常に身勝手があります。今彼らは、いろんな仕事をするロボットの素晴らしさを自慢します。そういうロボット、こういうロボット、どんどんすごくなり、何でも人間より良くできます。それです。良く見てください。それも身勝手が増える話で、どんどん良い生活になりますが、影のように付いてくる、上流の人の下賎な心があることも増えます。

 人間は今、上流の人、あるいは能力のある人の下賎な心を持つために、このようになる話だけに熱狂し、私たちには魔法の物、天の物、何かの物のような何でもあります。しかし地獄の動物であることから脱せません。身勝手があるからです。それはどのように地獄の動物以上か、私がちょっと話して聞かせます。

 今私たちにはどういう人がいるでしょう。そういう人、こういう人、あらゆる人がいます。お金持ち、美人、達人、賢い人、世界の外に行く人、何でもいますが、一人だけ足りないのは善人です。身勝手のない善男善女はまだいません。一人欠けているのは善人と言います。美人、お金持ち、達人、有能な人、何である人もみんないます。幾人に何人いるか知れないほどいます。どんな種類の人も、悪人も、何の人もいますが、善人はいません。

 この「善人」を、私は「神様の言うことを聞く人」という意味にします。私の神様はプラタムで、私はプラタムと呼びます。他の人は神様と呼んでも自由です。本当はプラタムが神様で、世界を創った人、生じさせる人、支配する人、世界を破壊する人、あるいは何でも、プラタムという言葉に集約されます。

 私たちには神様に聞き従う善人がいません。気を付けてください。若いみなさんはもうすぐ大学を卒業しますが、神様に欠けるかどうか注意してください。何時かそうなります。現代の人は、神様は死んだと見なしています。タイ人も、神様がいない西洋の尻を追っています。私の子供の頃の教科書にあった詩には「素直に神様を信じるのは、愚鈍な亀、蟹、魚」とありました。

 みなさんが宗教に厳格な人をバカらしい古臭い人と見るように、現代人は、正直で素直で神様を信じる人を「愚鈍な亀、蟹、魚の人」と見積ります。神様を夢中で信じる人は古臭くバカらしいです。彼らは何十年こう言っています。もっと前からかもしれません。「タイ語事始め」の本を読むと、このような文章があります。

 現代の世界、愛欲誘惑館にしか入りません。だからみなさんにはラジオがあり、テレビがあり、音楽があり、二十四時間いつでも聞く物があります。これは、愛欲誘惑館に入る状態を増やし、ホールの中、欲情の感覚の刺激を増やすだけの場所にいます。

 次にラジオ、テレビ、あるいは他のいろんな道具が沢山あるので、欲情面、目・耳・鼻・舌・体からの感覚をどのようにでも刺激でき、自然の要求の何百倍、何千倍にもできます。しかし今私は、身勝手がこのような状態に進歩させることについて話しています。

 注意してください。上流の人の下賎な心があれば、現代の意味の良い生活を狙っている、という項目になりました。現代は良い生活をしたがり、何をするにも、勉強や職業も良い生活のためで、「良い生活をしたい」という叫びが世界中に轟いています。しかしみなさん、憶えておいてください。ブッダは「良い暮らし」を「ちょうど良く暮らす」と言われています。どう違うでしょうか。みなさんがガサツで大雑把になれば、同じに見ることもあります。

 現代の良い暮らしは、ブッダの「ちょうど良い暮らし」と雲泥の差があります。現代の良い暮らしは際限なく欲望煩悩を育て、どれだけ身勝手を育てても、益々良い生活を要求するばかりです。一台の車で足らず何台も欲しがり、家があっても足らずビルを欲しがり、邸宅を欲しがり、このように続きます。現代の良い暮らしはこのような意味で、際限がありません。ブッダは良い暮らしでも「ちょうど良い暮らし」と言われました。

 みなさん「ちょうど良い」を考えて見てください。私たちは土の小屋に住んでも、ビルや邸宅に住んでいるより高い心で快適に暮らすことができます。ビルや邸宅に住みたいと渇望すれば、それだけ心が悪くなり、それだけ身勝手が増え、他人や周りの利益を掻き集めて自分の物にすることが増えるだけで、邸宅を建てるために何十万、何百万、何千万のお金を探さなければなりません。土の小屋に住めば、それほど身勝手でなくて済みます。

 今私たちは田舎の小さな村で暮らすのを好みません。街で、首都で、大都市でひしめき合って、身勝手のジャングルでひしめき合って暮らす、大都市で列になって暮らす、という人がこの中にもいるかもしれません。

 そのようにたくさん固まって暮らすのは、都市の大きさの分だけ身勝手な人にならなければなりません。そうでなければ暮らせません。歩いていては時間が足りないので、走らなければならず、走っても時間が足りないので車で群れになって走らなければならないほどです。そうすれば身勝手な気持ちに間に合います。

 だから身勝手は、都会にぎっしり詰まっています。まばらにある小さな小屋に住んでいる田舎には珍しく、少ししかなく、そして首都のように、身勝手、あるいは selfish と言うほど多くありません。だからそっちを切望すればするほど、下賎な心になります。

 みなさんは同感しないかもしれませんが、私は、クルンテープや他の国の首都、外国の、西洋の一番大きな首都を観察して見るようお願いします。見てください。大きければ大きいほど身勝手が多くなるばかりです。身勝手の威力で大きくなることができるからです。

 これほどの身勝手がなければ、狂ってここまで大きくなるまで造りません。自然が求めるだけです。だから大きい分だけ、美しい分だけ、何かであるだけ、それだけ身勝手の結果です。だから大地に溢れ、世界に溢れているほどたくさんの、あるいは何かの下賎な心の状態です。

 心の面を見ると、更にいろんな方法の身勝手があり、私が一番好きな例はスポーツです。みなさんのスポーツは、今身勝手の教科書です。本当のスポーツは身勝手でないことを競い合います。赦せること、降参出来ること、規則に違反しないこと、不利な立場に甘んじること、我慢出来ること、怒らないこと、これが本当の sporting spirit で、競技場に下りるのは、このような訓練をするためです。

 誰かが自分の脛を蹴っても我慢し、その人が自ら恥ずかしくなるまで微笑み、その後は再びしません。今は誰かが自分の脛を蹴ると、口を殴ってしまうんでしょ、みなさんの競技場では。

 そして応援団は身勝手の悪霊たちです。チームになって座って応援するよう組織されているのは、身勝手の悪霊です。小さな子供の習性を身勝手にするからです。だから競技場の中のすべては身勝手の訓練をするため、身勝手を増やすためです。テクノロジーの時代のスポーツ、現代のスポーツのテクノロジーは、身勝手な悪霊を増やします。

 純粋なスポーツなら徹頭徹尾、身勝手を消滅させます。座って見る人は応援するためでなく、誰にスポーツマンシップがたくさんあるかを見ます。私が座ってスポーツをする人を見ると、誰がスポーツマン精神を身につけているか、行動にあるかハッキリ見えます。

 だから現代のスポーツは、身勝手のために、身勝手を増やす、身勝手なスポーツです。だから運動場で火炎瓶が爆発するのはいい気味です。スポーツが身勝手を増進させるからです。国内のスポーツもこのようで、国際間のスポーツもこのようです。これは競技場にも、スポーツ界にもある、現代式文明の下賎な心です。

 見てご覧なさい。世界がどんどん拠り所を失い、人間がどんどん拠り所を失うのは、身勝手が著しく高くなっているからです。それから公正な心で見ると、 spirit、あるいはそれらの物の精神をすっかり変えてしまいます。スポーツの精神は、身勝手を支援するものに変えられて、勝利だけを目指すからです。タンマ(公正)であること、あるいは勝利を目指すスポーツマンを目指しません。

 最高に劣悪な「仕返し」という言葉があります。この大学があの大学にスポーツで負けると、次回は「仕返し」という言葉を使います。みなさん、彼らに教えてください。仕返しという言葉はスポーツの辞書にはありません。今は、仕返しなどの言葉がいっぱいで、仕返しより悪い言葉もあります。純粋なスポーツの辞書には、これらの言葉はありません。これが現代式文明の下賎な心があることです。

 続いて、彼らが好み、称賛し、尊敬している、少しずつ蓄える備蓄、節約などは、その言葉の本当の意味、あるいは正しい意味は「身勝手ではない」と見て行きます。彼らは自分が苦から脱すために備蓄しましたが、今は、身勝手を増やし、そして他人を攻撃するために備蓄します。あれこれ集めて他人を攻撃する用具を集めます。集めた部分は戦争の道具で、世界から他人を掃滅させてしまうために備蓄します。

 さて、個人の貯蓄を認め、一年貯め、私たちは収入が少ないので新年が来たらそれを使います。何に使うかは、新年にご馳走して酒を飲み、豚を食べ、鶏を食べます。中国から来た中国人たちは、毎日野菜を食べ、マカーム(タマリンド)の葉を塩茹でして食べ、タイ人の友達がなぜそうするのか訊くと、その中国人は、腹の中の何の病気か知りませんが「病気で他の物は食べられない」と答えました。

 その後その中国人は金持ちになり、店を持って商売をし、それで豚や鶏を食べたので、同じ人が「あれ、どうして今は豚や鶏を買って食べるんだね」と訊くと、彼はハハッと笑って、「治った。その病気は治ったよ」と言いました。これは実話で、私の作り話ではありません。名前は伏せておく方が善いです。

 少しずつ蓄えて、新年や何かの折りにご馳走するのは身勝手のため、あるいは身勝手による自分の楽しみ、美味しさのためです。布施して食べさせる話ではありません。そのお金で貧しい人を新年に支援するのではありません。一番良いのは、たくさん貯めて新年に世界一周旅行をします。一年貯めなければ、世界一周には足りません。この蓄えは、身勝手による身勝手のため、自分一人のだけのためです。この文化は、ちびちび貯める身勝手の文化です。みなさんは今、このようにしているかどうか、考えて見てください。

 ブッダのダンマで言えば貯金用の缶に少しずつ貯めて、一年になったら一度貧しい人に配ります。こういうのは、少し身勝手で無くなります。しかし気を付けてください。その中に深く隠れているメンツを立てる話になります。あるいはその布施は、来世の極楽の御殿を買うためになります。そのようなら身勝手の話です。

 (仏教の)支援者の布施はまだ安全ではありません。支援者の多くは身勝手で布施をし、そして身勝手を増やします。徳や善を積むのは身勝手を増やすことです。一バーツの投資で、死んだら宮殿一棟もらえるからです。この布施は、死んだら来世で宮殿一つ、二つ、三つになり、天女か何女か知りませんが、それは非常に高価で、一バーツの投資と比較すると、異常な儲けがあり、何百倍か何千倍か知れません。

 ブッダがそのように教えたと言う人がいれば、その人は嘘つきです。人に布施をさせるための善意の話であることは事実ですが、それだけで麻痺する状態で教えるのは、人を身勝手な考えに埋もれさせる行為で、反対の結果、苦である別の症状が生じます。短所を見れば身勝手で、長所を見ても身勝手で、こういうのはできません。本当の布施をする徳の話が、身勝手の方に教えられてしまいます。次に国中に生じる悪い話、いろんなアパーヤムッカ(悪趣への門)の話は身勝手です。

 アパーヤムッカはみなさんも暗唱できます。呑んで酔うのは、最高に愚かな身勝手のせいです。サティや意識を狂わせるために酔う水を呑むのは、最高に愚かな身勝手です。夜遊び、夜中に陶酔する物を求めるのは魑魅魍魎のような身勝手で、家で寝ている方が良いです。催し物を見るのはどんどん卑猥な話になるようで、映画や何かも、四五十年前と比べると今の映画は卑猥だと、みなさんにも明らかに見えます。

 他のたくさんのものも上流の人の卑猥に展開して行きます。ギャンブルはアパーヤムッカです。ギャンブルは早く金持ちになりたい身勝手で、我慢して稲作をし田んぼを耕すことができません。仕事を怠けるのは、自分が楽をしたいからと見ることができます。本当は疲れたくない身勝手が原因で、貧乏に甘んじることに耐えています。こういうのは二重の身勝手です。

 最後に、悪人と友人として付き合うのは欲望煩悩の餌で、悪人群を富ませます。だから自分も欲望煩悩の餌を食べるために、悪人と同じ舞台に立ちます。それは悪の身勝手です。

 六つのアパーヤムッカは身勝手の結果です。あるいは身勝手の威力でします。次にそれは、アパーヤ(悪趣)、地獄、畜生、餓鬼、阿修羅に導きます。私が詳しく書いた本があり、簡単に読むことができるので、要旨だけにします。

 地獄は今ここでの焦燥です。これもアパーヤムッカなどで話したように身勝手から生じます。畜生は愚かさです。愚かさは畜生の意味です。私たちも愚かになってするべきでないことをし、身勝手のためのテクノロジーの奴隷になります。これは畜生以上に愚かなので、何倍も畜生です。

 餓鬼は飢えで、飢えのシンボルです。口は針の孔くらいで、腹は山くらいあります。今人間はこのような症状があります、口は針の孔だけで腹は山くらいあり、何に飢えているのか知らないほど飢えています。月の世界に行くのも、どこに行くのも飢えの話です。知識の飢え、学識の飢え、物質の飢え、欲情の飢えです。間違った文明は、人間を餓鬼よりも飢えさせ、何倍も餓鬼にします。

 阿修羅は臆病、恐怖という意味です。今私たちは、生活は恐怖で過ぎているとハッキリと見えます。内部では強盗を恐れ、泥棒を恐れ、恐喝を恐れ、拉致を恐れ、それは世界のどこにでもあり、増えています。そして戦争を恐れ、主義に負けることを恐れ、世界中が恐怖の領土になっています。これが阿修羅で、阿修羅の意味です。

 地獄、餓鬼、畜生、阿修羅が世界中に溢れているのは、たった一つの物、テクノロジーのせいです。テクノロジーが身勝手を増大させます。このような状態の身勝手を、良く見てください。

 これらの人は反対の種類の問題解決をしたがりません。彼らは、身勝手に由来すると知らないので、身勝手を解決せず、苦から脱すためにあの身勝手この身勝手を増やし、被い隠し、拡散させます。戦争によって世界を平和にしようとします。こういうのは、どれくらい狂っているか、みなさん考えてみてください。戦争で世界に平和を生じさせます。これが現代人のする事です。

 いろんな問題を精神面で解決しないで、いつでも物質面の解決をします。産児制限なども物質的に管理するので、青少年の道徳を崩壊させます。精神面で調整、つまり梵行者たちの厳格な振る舞いである善い文化の中で忍耐すれば、これらの低劣な物は生じません。しかし現代人は精神面の産児制限をしたがらず、身勝手を増やす、あるいは道徳の劣悪を増やす物理的な受胎調節を増やします。

 あるいは二つを併用することも受け入れません。物理的な方法だけなので、精神面のことを何も知らなくなります。抜け出せないほどテクノロジーの奴隷になっているので、精神面の道具に依存して道徳面の衰退の問題を解決しません。いつでも物質的な道具やテクノロジーで解決したがります。

 これです。最後に人間は執着しないことを恐れていると、一項だけお話したいと思います。執着しないことを恐れて愛し、執着します。仏教国のこのタイで、空っぽの心の話、あるいは執着しない話を始めた時、彼らは私を狂人と見積もって、新聞や他の何か、何にでも揶揄する記事を書き、「空っぽの心の話、あるいは執着しない話は狂った話」と、口で言う人もいました。

 これは精神面の話、あるいは精神面の解決を狂った話と見る、最高に下賎な心です。執着しない話を学んで、執着しない話を知ってしまわなければ、この世界の危機を解決する術はありません。個人的にも社会としても、解決する術はありません。私がたっぷり一時間話したように、本当の原因は身勝手にあるからです。

 これらの危機の本当の原因は身勝手にあります。身勝手は執着から生じます。そして身勝手を無くすには、執着に対処するのが正しい方法です。執着は煩悩の話、欲望の話で、本気で正しくする決意をすれば、知性の話です。

 だから何でも知性でしてください。執着でしないでください。そうすれば知性で、仏教の要旨で「何物も執着すべきではない」と知ります。「サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ」は、みなさんが心で暗唱し、何としても実践しなければならない呪文です。

 『何物も執着すべきではない』。これは、人間が危機を脱すために、神様が下さった身勝手を攻撃する道具です。しかし今人間は、人は執着しないことを恐れて、それについて話しません。教えようとしません。彼らは国を愛すよう教え、愛国主義で国に迷わせ、あるいはそのような何かにさせます。最高に強烈に執着させ、国中が死も辞さない。これも口先だけで、本当に死ぬ時は転向し、隠して別の身勝手になります。次々にこのようです。

 現代の世界の人は身勝手でないことを好みません。執着しないのを好みません。身勝手を無くす話を教える勇気がなく、執着をなくす話を教える勇気がないので、学校、大学、どこででも学生の身勝手を増やす状態の教育をします。だからこの種の学校や大学を開設しないでください。そうすれば世界は、人間が何も知らず森の中で麦を摘んで食べていた時代のように善く、苦しめ合いはありません。

 今は教えれば教えるほど、身勝手による苦しめ合いがあります。だから、身勝手をなくす話を教えない学校で、火炎瓶が炸裂します。あるいは現代の世界の学校教育の課程は、身勝手を消滅させるには十分ではありません。その上、どんどん著しい身勝手を増やします。

 私たちの少年少女は皮膚の面、物質面の美味しさを最大限に、全身全霊で渇望します。これが身勝手を増やすことです。

 さてここで一度、「これが、テクノロジーの方にだけ進歩した現代の世界の進歩繁栄の中にある下賎な心の状態」と、まとめることができます。私は、世界は今最高に進歩し、最高に素晴らしく、何でも最高にありますが、世界中に上流の人の下賎な心の状態がぶ厚くあり、身勝手の世界であり、身勝手の道具であるテクノロジーを崇拝すると言います。身勝手の威力で蒔いて育てたからです。

 現代文明にある下賎な心の状態を、このように見てください。これを理解すれば、すべての問題を解決できます。みなさんがここへ来たのはタンマが欲しいから、人生の問題を解決するためです。みなさんは、今崇拝している身勝手である生活を、良く知ってしまわなければなりません。

 そうすればいろんな問題を全部解決できます。還俗して在家になったら、一般の人のように頭を垂れてテクノロジーの奴隷になる、何も知らない在家でなく、良く知っている在家になります。

 ツグミや蝉が、時間の終わりを告げています。




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