2.人類のただ一つの問題





1970年4月22日


 午前四時半になりました。これから、途中になっている話をすることができます。初めに「どうすれば苦を防ぐことができるか、そして苦を解決できるか」、特に質問の主題である「在家として」と話してきたことを思い出してください。問題のすべては「なぜ生まれたか」という問題にあります。

 誰が賛同してもしなくても、いろんな物を、現在まですっと観察して学習して来た私の感覚では、すべての問題は「なぜ生まれて来たのか」という一つの問題にあると感じます。だからこの段階では「なぜ生まれて来たのか」という一つの問題次第という形で私が話すのを理解するために、この問題に関心を持ってください。

 子供たちに「どうすれば勉強が良くできるようになりますか」と質問されると、私は「先ず、なぜ生れたのかを知らなければなりません。そうすれば勉強が良くできるようになります」と答えます。大人は大抵「どうすれば仕事が成功しますか」と質問しますが、私は「なぜ生まれたのかを知らなければなりません。知れば仕事は成功します」と答えます。

 老人の多くは「どうタンマの実践をすれば滅苦ができますか」と質問しますが、私は「なぜ生まれたのかを知らなければなりません」と答えます。今は「なぜ生まれて来たのか」を知らないので、どうタンマの実践をしても、どのタンマの実践をしてもすべて間違いになります。なぜ生まれたのかを知らないからです。

 だから「どうすれば在家の生活の苦を防ぐことができるか」という問題は、「なぜ生まれて来たのか」を知らなければならないことに集約されます。勉強して職業を営み、仕事の結果を得て、食べて使って名声名誉を得、自分が望む色んな物を手に入れても、なぜ生まれて来たのかを知らなければ、すべて間違った望みになります。

 なぜ生まれたのかを知らなければ、勉強も仕事も、飲食をすることも、これは下品な言葉ですが、なぜ生まれたのかを知らなければ、食っても、あるいはいただいても、全部間違った状態になります。だからすべての問題は、たった一つの問題に掛かっていると考えて見てください。

 昨夜「命は二頭の水牛に牽かせなければならない。そうすれば苦を防ぐことができる」という話をしました。これも、なぜ生まれたかを知る話です。何の利益のために生まれたかを知れば、次に「どうしなければならないか」から「この命に二頭の水牛を繋がなければならない」まで知ります。

 一頭の水牛を知識と言い、もう一頭の水牛を労働力と言います。だから一番の水牛はなぜ生まれたかを知らなければなりません。みなさんはなぜ生まれたかを知らないので、大学にいる指しゃぶりをしている子供です。だから二度と指しゃぶりをしている子供にならないために、これを知らなければなりません。

 これが目前の問題、つまり大学のイメージを幼児から脱させなければならない問題です。そして目を瞑ったまま(何も知らず)、大学の教育は理想の教育と言われ、あるいは好まれているとおりに迷ってはいけません。本当は、まだなぜ生まれたのかを知らない指しゃぶりをしている幼児の話だからです。これは重要な話、不注意でない話です。ここで不注意(パマーダ)について、ちょっとお話したいと思います。

 ブッダダンマの言葉の「パマーダ」の意味は広く、傲慢だけを意味するタイ語のように狭くありません。タンマ語のパマーダは、タイ語、あるいは何語にも訳すことができないので、「パマーダ」「パマーダでない」と、原語のまま使ってください。パマーダという言葉は、望ましくないものすべてが含まれるので、無知もパマーダ、傲慢もパマーダ、怠惰もパマーダ、本気で障害と闘わないこともパマーダと言い、パマーダに含まれます。

 もし今、みなさんがまだ目を瞑ったまま「自分は何か」を知らなければ、みなさんは指しゃぶりをしている子供か、それとも最高学府の大学生ですか。こういうのも、自覚しなくてもパマーダと言います。タイ語のプラマートは狭く、意図があり、そして自覚があり、そして傲慢あるいは不注意です。パーリ語、あるいはタンマ語はもっと遠く、自覚しなくてもパマーダと言います。

 だからパマーダでないことから始め、つまりパマーダを知ることから始め、自覚がないこともパマーダでないことになります。

 みなさんは毎朝毎晩、ブッダの最期の訓辞で勤めをします。つまり「パマーダ(不注意)でないことで完璧に到達なさい」という、ブッダが般涅槃する前の言葉を、毎朝毎晩比丘も沙弥も唱えています。しかしなぜ生まれて来たのかを知らなければパマーダで、朝も夕も、まだ口だけでペラペラ唱えています。これもまだパマーダです。だからパマーダを防ぐために思い出してください。そうすれば、なぜ生まれて来たのかを早く知る努力ができます。これから、なぜ生まれて来たのかという題目で話します。

 初めに「私は生まれたくて生まれたのではないので、この問題の責任は取らない」と言う人が時々います。このようなら、それこそが最高にパマーダ(不注意)な人と知るべきです。「生まれたくて生まれたのではない。両親が生まれさせた」とか、あるいは何かそのようで、「私の知った事ではない」と言うほど、最高にパマーダで、愚かさ足すパマーダ、他にも何かいろいろです。

 このような問題があるなら、その部分は考えないで、「私は生まれたのだから、生まれて来たことの目的に従って正しくしなければならない、と受け入れなければならない義務があり、自分が知っても知らなくても、逃れることはできない」と、生まれてしまった部分を考えてください、という言葉で終わらせてしまいたいと思います。

 私たちを生まれさせたものは、私たちの言い訳を聞いてくれないので、生まれてしまった責任を受け入れなければなりません。そしてなぜ生まれたのかを知り、それで正しく行動しなければなりません。なぜ何のために生まれたかを知ろうと知るまいと、なぜ生まれたかを知る義務があると、問題を終わらせていただきます。

 この生まれることは一つの物の威力下にありますが、最初の智慧がある人間は「最高に利益がある最高に善い」と見えたように言ったからです。これは心の面の問題、精神の面の問題です。

 物質主義の人たちはこの問題を受け入れず、そして生まれさせる物があると認めません。複雑だからです。彼らはそう言います。彼らは、生まれたら物質が欲しいので物を生産し、欲しい物の生産を援ける神様であるテクノロジーを欲しがり、望みどおり成功させます。こういうのを私は物質主義者と呼びます。彼らは、私が今考えているような問題を考えようとしないで、私のことを「なぜ生まれたか、あるいは何が生まれさせるかなど、考える必要のないことを考えるバカ」と非難します。

 しかし私たち、つまり精神面の輝きで発展している東洋人は考えます。考えなければならず、そしてたくさん考えたことがあり、なぜ生まれたか、何が生まれさせるのかを知りました。しかも限界を越えるほど知らず、ちょうど良いだけ、生まれることの苦を消滅させるだけ知りました。これが仏教、すなわち人間、特に一般の人、みなさんが質問したような、在家が滅苦のために知らなければならない知識です。

 だから何が生まれさせるかまで遡って、なぜ生まれたかを考えてください。生まれさせる物を知ることができれば、なぜ生まれたか、つまり私たちを生まれさせたものの望みで生まれたと、簡単に考えることができます。

 何が生まれさせるのか。精神面の輝きで繁栄している東洋人の言葉で言えば、その時代、その地域の人がふさわしいと見たように話しました。ある人たちは「神様が私たちを生まれさせ、私たちを創った」と言いますが、仏教教団員はプラタムという言葉を使って「プラタムが生まれさせた」と言います。

 次に自由な考えが生まれ、神様やプラタムという言葉を使わないで、自然という言葉を使い「自然が生まれさせる」と言うこともできます。しかし仏教で言う自然は、プラタムという言葉に含まれることを忘れないでください。

 これです。みなさんが好んで使う自然という言葉は、仏教でプラタムと言うものに含まれると理解しなければなりません。タンマ、あるいはプラタムという言葉は広く、ありとあらゆるものを網羅するからです。自然も、自然の法則も、自然の法則による人間の義務も、その義務の実践から受け取る結果も、タンマという一語で呼ばれます。四種類のものを種類別に分ければ何百万種類になるかしれませんが、すべてタンマという一語で呼ばれます。

 タンマとは今言っているプラタムで、このプラタムは教科書で暗記するような「ブッダの教え」という意味だけでなく、いろんな物にする威力、つまり自然の法則も含めたすべての物を意味します。だから仏教教団員は、「プラタムは私たちの創造者と見なす」と見ることができます。そして何をさせるために生まれさせたのか、ぼやけない不動の目的があります。

 他の人たちはプラタムと呼ばず神様と呼びます。それでも良いです。みなさんは神様という言葉を理解するべきです。神様という言葉はパーリ語でなく、西洋の言葉でなく、タイ語だからです。西洋人には God など西洋人の神様という言葉があり、 God の代わりに使う言葉は何種類もありますが、仏教教団員も正しく十分な状態のプラタムを知らないように、彼らも神様、あるいは God を知りません。

 タイ語の本当の神様はプラタムで、世界を創り、世界を支配して法則で経過させる義務を行う、それがプラタムです。あるいは神様と呼んでも良いです。しかし子供たちは間違って教えられるので、神様が人物、精霊、あるいは何でも、人のような気持ちがあるものになりました。

 人のように神様に考えさせ、欲情に貪欲な神様などもいます。少なくとも人のように怒りを知り、嫌うことを知り、愛すことを知り、満足を知っているので、神様という言葉の正しい意味と違ってしまいました。

 そして神様も、語り尽せないほど多くの能力、あるいは Qualification があり、何でもでき、あらゆる義務があり、私たちも人のような義務だけ求めます。それは神様に対して正しくなく、正当ではありません。それが神様を知らないことです。

 神様を知らず、プラタムを知らなければ、神様、あるいはプラタムが私たちに何をさせたいのかも知りません。だからみなさん、十分に神様を知り、プラタムを知ってしまうべきで、そうすれば神様、あるいはプラタムが私たちに何をさせたいのか知ります。そうすれば「自然が私たちに何をさせたいのか」というのと同じ話になります。

 ここで自然という言葉について話すと、みなさんは「自然とは人間が作っていない、人間が作った物でない、自然に転がりまわる物」と、いつものように少しだけ知ります。これだけ知れば、自然という言葉のすべての意味の少しを知ったと言います。

 タンマ語、宗教語の自然という言葉は最高に広く、神様という言葉と同じで何もかも自然であり、自然でない物は何もありません。そして更に二つに分け、作るものがある物を自然と呼び、作ることより上にある物も自然と呼びます。例えば最高に高い話、涅槃、涅槃も自然です。しかし出家したことがない人、パーリ語を勉強したことがない人はこのように知らず、このように聞かないので、このように理解しません。パーリ語ではすべての物に「自然」という言葉を使います。

 世界の話も自然、タンマの話も自然、世界を越えた、何もかも越えた最高の話も自然と呼びます。だから涅槃は、死なない自然で、何も作り出すことができない物で、このように作り出す物の終わりである自然です。深遠で、みなさんは聞いても理解できないでしょうね。みなさんの大学ではこのように自然を学ばず、相も変わらず指しゃぶりしている子供の、土・水・火・風の自然を学んでいるからです。

 砂利や石、熱、光、音、何でも全部物質的な自然で、物質でない自然は知りません。そして自然と認めません。だからパーリ語の、あるいは仏教の自然を理解すれば、非常に問題が無くなります。つまり「自然は人に何をさせたいか」を教えます。

 「人」は、タンマ語で言えば自然の産物で、みなさんが西洋の科学で学んだものも、人間や動物は自然の産物と理解できます。それは初めは世界に無く、それから生まれたと生物学を学べば知ります。地球も初めには無くて、それから生まれました。タンマ語では「作り出す。変化させる」と言い、自然が作り出します。そにれは人のような心も意志もありませんが、いろんな物を作って生じさせることができます。

 地球が太陽から分裂して欠片になったのでも、あるいは 星雲 が凝縮して地球になったのでも、みなさんは、自然の意志と呼ぶかどうか、考えて見てください。自然は人でないと見なせば、意志と見なせないかもしれません。しかし今私には広範囲に使える言語があるので、命や心や感覚や考えがなくても、その中に意味があります。

 ジッとしていない物、常に回転し変化している物を良く注目して見てご覧なさい。自然には意志と同じ状態の意味があります。自然には進化があると、あるいは常に新しい方、珍しい方へ変化することが進化であると認めなければなりません。どんな目的でも、それの最後、あるいは終わりに至るためです。

 だから自然が休むことなく、尽きることなく弛まず何かを作り出すことを、それの終わりに至るためと見なすべきです。ここで物質面の終りなら崩壊するだけ、残らず崩壊して初めの状態に戻るだけかもしれませんが、これは物質面の話で、命や心がある人の話ではありません。だから命や心がある人の話はそれ以上に、それより善い、それより高尚な終わりがあります。それは精神の終わりの話、精神の輝きの話、あるいは私が長く話してきたような Spiritual-Enlightenment(精神的な悟り)の話です。

 これです。物質面は物質の終わりに至らせ、精神面は精神面の終わりに到達させます。これです。神様の望み、あるいは自然の望みと一致するのは。プラタムは精神面の話で重要なので、精神面の終わりがあり、心と呼ぶものが、この心は高くなれると言う物の限界まで高い心になります。

 ここでプラタムが人間を創った目的は何か、意図は何かと言えば、人間であることの最高地点に至らせるためです。神様も同じで、キリスト教の教えにハッキリと書かれています。まだユダヤ教の時から「人間は最終的に神様と一緒になるため」とハッキリ言い、そしてそこで終わります。今人間は不潔で、闇で、焦燥と苦である人間の世界にいるので、神様が喜んで神様の領域に受け入れてくれるまで宗教の実践させます。その後は何にもなる必要はありません。

 神様の宗教を信じる人たちの終点は、このように描かれています。しかし私たちは彼らを理解しないで、彼らを「バカみたい」と軽蔑します。みなさんはキリスト教の要旨を知らないから、バカみたいと言って軽蔑することもあると、挑みたいと思います。というのは、タイ人が口だけで仏教を信じるように、キリスト教徒でも口だけでキリスト教を信じ、それを知らない人もいます。向こうの人は神様を知らなければ、こっちの人はプラタムを知らないからです。

 みなさんがプラタムを知れば、問題は何もなくなり、このような質問もしません。そしてスアンモーク(ターン・プッタタートのお寺)に来る必要もありません。このような問題を質問するのは、プラタムを知らない証拠です。だから「私たちはプラタムを知るまでプラタムを学ぶため、あるいは理解するために、どこかで出合えば、いろんな問題はなくなる」と言うにふさわしいです。

 プラタムを知れば、なぜ生まれたのか、誰が何の目的で生まれさせたのか、そしてこれからどのように最後まで到達しなければならないのかを知ります。

 プラタムを知るなら、必ずそのように知らなければなりません。今はまだ、プラタムを知ると言うほどは知りません。それが勉強で成功しない原因です。子供であることから始めるので、勉強も仕事も、苦にならない類の「仕事の結果を消費すること」も上手く行かず、あるのは大騒ぎ、大混乱、あるいは苦ばかりです。

 他の文化や宗教は神様と見なし、仏教教団員はプラタムと見なすタンマと呼び、私たちはタンマと呼ぶものの望みでしなければなりません。それが望むようにしなければなりません。「私たちにタンマを持たせるために、プラタムが私たちを創った」と言えば、間違う余地はありません。

 みなさんが聞いて分かるか分からないか、好むか好まないかに関わらず、プラタムは私たちにタンマを持たせるために私たちを作りました。タンマを持たせるために人間を作りました。タンマがあれば動物と違うので、大昔から「タンマは動物と違わせるため」という言葉があります。「食べ物を探すこと。眠る幸福を探求すること。臆病を知って危険から逃げること。そして性交を営むこと。この四つは人も動物も変わらない。タンマを取り出してしまえば、人は動物と同じ」という言葉があります。

 「アーハラニッダーバヤ メートゥンニャチャ=食べ物を探すこと、眠る幸福の探求、臆病を知ること、危険から逃げること。この四種類は人も動物も同じ」。「ダンモー ヒ テーサンアディコー ヴァセソー=タンマだけが、人と動物の違いを生じさせる」。「ダンメン ニーナー パスビ サマーナー=タンマを取り出してしまえば、人は動物と同じ」と、この言葉を暗記しておくと善いです。

 これには「タンマは人を動物でなくする」という要旨があります。タンマが人を動物と違うように作ったのは、人間らしいタンマがあるよう望んだからです。今私たちは「人」あるいは「人間」と自称しますが、それにはタンマがなければなりません。タンマがない人は動物と何も変わりません。ここで言うタンマは人のためのタンマ、人間のためのタンマで、なぜ生まれたかを知り、そして最高にします。

 神様について話しても同じで、神様は人と人間は違うよう、そして神様と一緒にいるよう望みます。自然について言えば、自然は休まず進化させたいと望み、人間まで進化させ、そして人間であることの終りまで行かせ、最後には、正しく完璧なタンマがある所で終わります。プラタムは私たちにタンマを持たせたいと望んでいると知り、大まかな言い方では「タンマは、タンマを持たせるために人間を創った」と言います。

 ここで今タンマがあるか、みなさんは自分で答えることができます。この世界の人間はタンマがあるか、タイ人はもうタンマがあるか、特に一人の人、あなた自身はもうタンマがあるか、私がいつ話しても支障があります。私は「本当にタンマがあれば、今のように複雑でなく、大騒ぎせず、大混乱しない」と答えられるだけです。

 世界でも国でも個人でも、タンマがあればこのように嫌らしい問題はありません。これに関して私たちは、それぞれ内部である人(自分自身)だけを知ることにしましょう。しかし社会を見れば、みなさんはそれ以上に、社会は今どのようかを知ります。

 社会がどうかを知れば、心の面で社会から離れることができます。身体は社会と関わりがあり、避けることはできませんが、心の面では汚れた社会から離れることができます。つまりタンマがあり、道具であるタンマに依存し、そしてタンマから利益を得ることができ、私たちを作ったプラタムの望みと一致させることができます。

 この部分はみなさん、「社会と分れない。社会から分れられない」と嘘を言い、言い訳しないでいただきたいと思います。友達が煙草を吸ったら自分も吸わなければならない。友達がお酒を飲んだら自分も飲まなければならない。友達が性に関して放蕩無頼をしたら、自分も放蕩しなければならない。私は社会から分れられない。こういうのは「言い訳のため、悪をするために嘘を言う人」と言います。

 自然が私たちを作ったのは、精神面は社会から分れて、一人で涅槃へ行くことができるからです。身体面も、十分勇敢なら社会から離れることができます。社会と一緒にいるならプラタムに反逆せず、社会に抵抗する側の人でなければなりません。

 大学の学生たちが、あの党この党に関わる政治闘争に加わったと新聞記事で読んだことがあります。しかしプラタムのために純粋な気持ちでしたのかどうか、まだ疑問があります。これらの学生たちが政治的、社会的闘争をするなら、タンマのため、プラタムの望みでの正しさのためでなければなりません。それも良いです。社会で暮らしても、このような状態で暮らせば利益があります。

 しかしプラタムでなく、プラタムのものでなく、アタム(非タンマ)であり、あるいは間違ったタンマの方へ引きずられるなら使い物になりません。それはプラタムの目的と違います。プラタムはそのように望まず、私たちにタンマがあるよう望みます。プラタムは、私たちにいつまでもタンマがあるようにするために、つまり最高のボロマタムまで善く、高くするために私たちを創りました。

 「ボロマタム」と呼ぶものは涅槃、不死などいろんな呼び方があります。それが人間の最高のボロマタムです。だから「プラタムは私たちにタンマを持たせるため、ボロマタムに至らせるために私たちを創った」と見なしてください。これは避けることができない、拒否できないものです。拒否すれば間違って混乱して大変です。

 今みなさんは在家になること、還俗して在家になることを目指すので、在家を基準にしても、私は「人間であるのは、タンマを持つため、ボロマタムの頂点に至るため」と主張します。在家はボロマタムに向かって旅をしなければならず、出家もボロマタムを目指して旅をしなければなりません。誰が早いか遅いかは、誰が正しくするか間違ってするかです。出家するのは早く行くためで、早く行くためにほとんどの関係を断ちます。

 しかし早く行かないで、理想に背いている人も見えます。出家にもいろんなのがいるので、在家の方が早く行くこともあります。常に純粋な心で行動する在家なら、固定しているもの、そこで麻痺しているものがなく、早くレベルが上がり、そして心が進化します。

 かつて愛したもの、崇拝したものも可愛くないもの、崇拝したくないものになり、別の愛すもの、崇拝するものに移って行き、幾らもせずに可愛くなくなり、崇拝すべきでなくなり、それ以上移動できない頂点であるもの、つまりボロマタムに到達するまで移動して行きます。

 だから在家たちは、何時間かは欲情に陶酔し、何時間かは休憩を求め、何時間かは暇で、ジッとしていること、涅槃の味がある何も妨害のない静かさがありますが、関心がなく、観察しません。そして崇拝している物のほとんどは皮膚の味の話です。だからほとんどの在家の生活は、そのようになってしまっています。今文化が衰退しているからです。

 仏教徒の文化がまだ濃ければ、自分がこのような、そのような時間が全部揃っています。このようにタンマがある静かな時間もあります。みなさんは今、物質面、皮膚の面の話に熱狂するよう教えられているので静かな時間がなく、これらの若い男女の学生は狂う用意、自殺する用意、邪見あるいは無明で誤った珍しいことを何でもする用意があります。

 「仏教と伝統クラブ」が大学内に設立されたことは、本当はプラタムの望みで最高に正しいと見なします。そこで、それが口先だけ名前だけで、結果はないに等しくなければ良いのですが。

 どのような状態のプラタムを知らなければならないかは、私たちがタンマを持つためにプラタムが私たちを創ったのなら、逃げることも避けることも拒否もできなので、タンマを持つように努力しなければなりません。だから最初の問題は「プラタムを持つため」と答えることができます。なぜ生まれたかはボロマタムのため、つまりボロマタムに至るまで、ずっとタンマがあるためです。

 次に結果が、非常に喜ばしいもう一つの結果がほしいです。なぜ生まれたかは「苦がないために生まれた。苦にならないために生まれた」と、心で念じてお守りにしておいてください。これは聞いて意味が分かりませんが、何とか実践できます。つまり、取り敢えず「苦にならないために生まれた」を教えにしておきます。

 だから何か残念なこと、失望することがあった時も泣かないでください。それはあなたの過ちではありません。あなたの過ちでなくても生じ、そして悲しんで泣きます。こういうのは愚かな人で、「なぜ生まれたか」を知りません。少なくとも、取り敢えず「苦がないために生まれた」と見なさなければなりません。だからどんな状態であれ、どんなレベルであれ苦が生じたら、「これは私のためではない」と払い捨てなければなりません。

 自殺については言うまでもありません。それは狂気すぎます。私たちはそれほど「なぜか」を知る必要はなく、「それは自分のためではない。苦は自分のためではない。私に苦があってはならない」とだけ知って、その問題を払い捨てます。そして知識、あるいは知性で問題を解決します。

 失望を苦と呼ぶこともできます。つまり望みどおりになりません。ここで若い人は希望を崇拝しがちで、間違った状態の希望を崇拝し、望みどおりにならなければならないと思い込み、思い通りにならないと死んでしまう方が良くなります。

 これは最高に愚かな人です。自然はいつでも思い通りになるために創ったのではなく、そして自然は愚かな人の思い通りになりたがらず、賢い人、つまり自然を良く知る人の思い通りになりたがるからです。だから賢くなって、自然と闘えるだけ十分に自然を知らなければなりません。そうすれば思い通りになります。つまり若い人のように、愚かに望みません。

 私たちは、自然の法則に従った正しく深遠な希望を持てば失望することはありません。あるいは深遠なタンマの言葉で言えば、何も望みません。私たちが何も望まないのは、自然は神聖なもの、あるいは厳格で、誰にも負けず、一貫して自然の法則になり、自然の法則と違うように望むことはできないと知っているからです。次に私たちは自然と連携し、自然の法則、あるいはプラタムで正しくなるようにすれば失望しません。

 みなさんの勉強を自然の法則に合わせ、仕事を自然の法則に合わせ、子や妻や何がいても自然の法則に合わせれば失望はありません。タンマがあれば、この人生に失望という言葉はありません。次に愚かな若者は煩悩の威力で望み、それは必ず自然に反すので、どの瞬間も失望しなければなりません。

 いつも失望で飢えていて、望みすぎか、あるいは誤った方法、逸れた方法で望むので、四六時中真っ暗で悶々としています。これがその人にタンマがなく、プラタムがないために地獄になること、四六時中失望で焦燥していることです。だから希望を崇拝するなら正しく崇拝します。希望が自然の法則と一致すれば失望しないからです。

 だから自然を知るために生まれ、そして自然つまりプラタムあるいは神様と一緒に行くと言うことです。こういうのは失望しません。私は「苦にならないために生まれた」という言葉を使います。

 だからみなさんは泣かなくても良いです。心配しなくても良いです。くよくよしなくても、苦になることはしなくても良いです。みなさんがボンヤリして苦が生じたら、「これは私の問題ではない。苦が無いようにやり直さなければならない」と急いで払い捨て、知識と知性でします。そうすればプラタムの方へ進歩し、進化し、頂点つまりボロマタムに至るまで苦はありません。

 どんな状態でも、どれだけでも苦が生じれば間違いという意味で、自覚があってもなくても、意図してもしなくても、プラタムに反したと見なしてください。だからそれを悔まないでください。最高に自然である病気が生じても、それを苦にしないでください、悔やまないでください。病気の治療も苦にする必要はなく、死も恐れる必要はありません。死も苦にする必要はなく、死ぬのも恐れなくて良いです。

 心配、気苦労、疑念、恐れを苦と言うなら、「それは私の物ではないので、恐れなくても良い」と言います。一旦こうしておきます。頑固にこうしておきます。今はまだ阿羅漢でなくても、取り敢えず阿羅漢の教えを掴んで、「苦は私の物ではない。私はどれも受け入れない」と、このように練習すれば、最高のプラタムの実践です。

 聞いて多少滑稽な例えを挙げさせていただきます。森の中で虎に出遭っても恐れて苦になる必要はなく、木に登るのも恐れず、苦にせずに登り、走って逃げるにも恐れず、苦にせずに走って逃げ、虎と闘ってほとんど虎を殴らなければならなくても、恐れず、苦にせずに虎を殴ります。

 「私は苦になるために生まれて来たのではない」と、何としてもこのような原則を憶えておけば何でも善くできます。恐怖と苦があれば木登りもできず、失敗ばかりで木から落ち、虎に喰われてしまいます。恐れず、そして苦にしないで、絶えず常自覚があれば木登りも上手くでき、走るのも上手く走れ、虎との闘いも、一撃で虎が死ぬかもしれません。ね、恐れてはならず、苦になってもいけません。

 「私は苦になるために生まれたのではない」。この文句をそらんじて、プラタムの方法で正しく使ってください。邪見で悪を行う口実のための、ヤクザな空の心にしないでください。「私は苦になる必要はない」。それで刑務所でも、どこでも収監されても良い。苦になる必要はない。どんな悪をしても良い。そして苦になる必要はない」。こういうのは、ヤクザな空の心です。ヤクザの理想は「私は苦のために生まれたのではない」と言い、そして苦を知らず、苦を幸福か何かと見ます。

 「何が苦か」を善悪正誤を知れば、避けてしまうことを知り、あるいは何が心を苦しめる物かを知れば、何も欲しがりません。それです。「私は、どんな場合にも苦にならないために生まれた」という角度で捉えてください。そして知識があり、知性があり、常自覚があり、苦になるものを生じさせず、来させないために実践して解決します。

 しかし来てしまったら、受け取らず、来ないようにする方法を探す努力をすれば、「虎である苦と直面する」と言います。苦が生じたら、あるいは来たら、虎を殺すため、あるいは避けるため、虎から逃げるために、苦でないこと、苦がないことで明るく微笑みます。

 これがプラタムのたった一つの目的です。つまり人を苦にしないため、タンマがある苦にならない人にするためです。私たちが生まれたのは、プラタムが私たちを創ったからで、私たちは自分を創ったプラタムの目的に合わせなければなりません。そうすれば問題は無くなります。

 なぜ生まれたかという問題は、「私たちを創った、あるいは生じさせたプラタムの目的でするため」と、最高に善く答えます。そのプラタムを神様、あるいは自然と呼ぶこともでき、いずれも人間に苦が無いように、苦がない状態、つまりプラタム、あるいは神様と同じ状態でいさせることが目的でありです。

 ここで無知に創られ、生まれた子供は何も知らず、しつけや教育があります。あるいはテクノロジーを好んでいる西洋人のように非常に迷っている善くない文化は、プラタムから離れ、プラタムから離れて火のように煮えたぎった世界を造ります。東洋の仏教教団員である私たちは、精神面の輝きを維持し、なぜ生まれたかを知って、西洋の尻を追わないでください。

 テクノロジーを持つなら二番目の水牛として、つまり力の水牛としてでなければなりません。そして一番の水牛、知識のある水牛、なぜ生まれたか知っている水牛を基準にし、二番目の水牛はついて来させます。そうすれば快適に到達できます。テクノロジーは身体の面の生活のためだけで、私たちの先祖は適度なだけ求めました。今の西洋人のようにたくさん求めず、衣・食・住・薬で便利に暮らせるだけ求めました

 私たちには管理して防ぐ特別に高尚なものがあったので、欠乏しても苦になりませんでした。餓死するほど欠乏しても苦になりませんでした。これが精神面の輝きです。だから私たちは自分を奴隷にする物を作る狂人ではなく、そして私たちは欲しがる物質面、皮膚の面の物を惜しんで奪い合って殺し合いません。

 これは、みなさんが見えるまで見なければならない birds eye view のようなものです。つまりみなさんは鳥のように高く飛んで、何がどうなっているか隅々まで見下ろさなければなりません。そうすれば成功させることを知ります。

 なぜ生まれたかという問題を見るよう勧めるのは、高みに行って見下ろし、すべての人生は何のためかを知らせるのと同じです。山頂にいる人が下の人を見降ろして下界を見下ろ。こういうのは間違う余地はありません。ちょうど明るくなって来ました。

 今日はこれで終わります。



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