19.現代文明の中の下賤な心の状態
瞋・痴





1970年5月8日

 四時四十五分になりました。また残っている講義を続けることができます。私は今、新式文明の下賎な心について話しています。前回は貪りの側面の下賎な心があることについて、新式文明からどのように生じるかを話しました。今日は、怒りと迷いの側の下賎な心についてお話します。

 新方式文明という言葉の意味を、いつでも、そしてハッキリと思い出してください。新式文明はテクノロジー文明、あるいは産業文明で、古式文明は精神面の輝きです。何も観察できなければ、新式文明は宵になると「明日は誰と殺し合いをしよう。どのように有利になろう」とだけ考え、昔式文明は、宵になると「サッペー サッター アヴェラー アバヤープチャー アニーカー スキー アッターナン パリダラントゥ」、このように考えるとだけ観察します。

 つまり夜になったら、慈しみを広げ、生老病死の友を思い、すべての動物を思い、神様を思い、宗教を思います。これが、今の人が古臭いと見る昔式文明です。このようです。新式文明は「明日はどのように彼を殺して、どれだけたくさん手に入れよう」、あるいは「どれだけ彼より有利になり、どれだけ増やそう」と言います。これが二つの文明、あるいは二つの様式の違いの意味を理解させる、短い要旨です。

 次にドーサ(怒り)の面の下賎な心があることについてお話します。新しく来た人のために、この貪・瞋・痴は、みなさんはどう分類するか、あるいはどう定義するか知らなければ、簡単に繰り返させていただきます。初めのローバ(貪り)のグループは引き寄せるため、二番目のドーサ(怒り)のグループは突き放すため、あるいは攻撃してしまうためで、正反対です。

 一つは手に入れて大切に抱えて感情を味わい、もう一つは押し出して残らないように消滅させてしまいます。三番目のモーハ(痴)のグループは愚かで疑い、躊躇い、望みと騙され易さでキリもなく考えて周囲を見ます。こういうのは、引き寄せる、あるいは払い除ける様子はありません。まとめると、①引き寄せる、②突き放す、③堂々巡りです。これを原則にすれば、簡単に貪・瞋・痴に分けることができます。

 一番の貪りについては、お話しました。つまり引き寄せて抱きしめ、感情を味わうことが自分の幸福です。

 二番目はドーサ=悪意、コーダ=怒り、パヤバーダ=復讐心、そして他にいろんな名前の物がありますが、消滅させたい、あるいは突き放したい部類です。ドーサ、あるいは悪意のグループは身勝手に根源があります。「人間の最高の悪霊は身勝手」と憶えておいてください。テクノロジー、あるいは産業が、私たちに使い切れないお金、物、財産を持たせたことから始めたと言いたいと思います。

 偉大な威力がある生産を増やすことができる知識は、私たちに使い切れないお金や物を持たせ、余ったお金が沢山あれば、罪を犯す誘惑や機会が増えるからです。今私が「使い切れないお金があれば、罪を作る誘惑や機会が増える。それは罪を作るよう誘惑し、お金が沢山あるので大きな罪を作る機会が増える」と言うのに、みなさんは同意するでしょうか。

 必要以上にお金を稼ぐことは、それ自体がタンマでなく、貪りであり、何かであり、それに根源があることを表しています。使い切れないお金を持てば持つほど、利己主義が増大するので、タンマであること、あるいは善を行う代わりに、考えも罪をたくさん作る方へ流れます。私たちに元からある利己主義の分だけ、探求して増やすことができます。たくさん手に入れれば、それが利己主義を広く深くするよう誘惑、あるいは刺激します。

 簡単に見えるのは、利己主義でお金を稼いで、使い切れなければ、使い切れないだけ利己主義が拡大するだけです。次に利己主義か拡大すればするだけ、利己主義でする賢さで、競争、奪い合い、妬みが増えます。この世界で明らかに見えるのは、利己主義でする賢さによる利己主義が増えれば、その分だけ競争、奪い合い、嫉妬が増え、競争、奪い合い、妬みが増えれば、その分だけ、他人や他の動物の命の価値を無視します。

 競争や妬みは心を覆い隠して真っ暗にする威力があるので、他の生き物の命、他人の命を命ではないと無視します。これまで私たちは精神の輝きがある文明で、命。あるいは他人の体と命の権利を非常に尊重していました。技術と産業の文明になると、利己主義の雲が世界を覆い、他の命、他の動物の命を無意味なものと見、最後には植民地主義になって世界中を占領しました。

 この主義は、あるいはこれは人間が精神面の明るさで繁栄していた時代には一度もありませんでした。昔から精神面の輝きで繁栄した人間の半球に植民地主義はなく、あったのは、述べたように物質文明へ転げて行く半球にだけでした。

 使い切れないお金や財産、権力、運があると、利己主義が拡大して植民地主義になります。これは深く加害する最高に下賎な心があることです。占領主義はみなさんも良く理解しています。武器だけでなく、地下の道具を利用し、文化、宗教、何かの技術、いろんな哲学、これらすべてを占領する道具に使いました。文化面の占領は、文化を他人を征伐する道具、自国の物にする道具にしました。

 これは武力を使う占領より、極めて凶悪です。武器の使用による占領だけでも、私たちはほとんど耐えがたいです。タイの歴史でも、武器の使用による占領の話で、非常に痛烈な痛みと打撲を負いましたが、心の面である文化的な侵略ほど悪くありません。つまり彼らが主義や何やらを私たちの心に押し付け、私たちは彼らの主義を崇拝し、彼らに従うのを受け入れる。こういうのは心の面の占領です。

 次に二つの力を集め、国を占領する人たちは権力で駄目なら呪文でします。「力で駄目なら呪文で」。これは俚言の言葉で、このようです。使い切れないお金があり、たくさん威力のある人はみな、てんでに競争で占領します。要するに、手に入れることだけを考え、誰の命も考えず、誰の名誉も考えず、誰の文明も考えず、手に入れることだけを考えます。彼らを自分の威力下に置き、物質的な利益を掻き寄せて自分の物にします。

 彼らの宗教を信奉するために、私たちが占領されたのではなく、西洋人は私たちの宗教を信じるために占領したのでもありません。そういうのは一度もあったことがありません。あったのは、他人の背中で米を作るための占領だけです。これが「手に入れることだけを考えること」です。手に入れることだけを考える習性は、益々手に入れることだけを考え、他人の命や他人の命の価値を無視することに慣れて、習性になります。

 この主義は、畜生から始まっていると観察して見てください。昔は死に関して、人間と畜生は同じ価値があると見ていました。しかし現代になると畜生は価値がない物になり、殺したいように殺すことができます。殺すために使う物を見てください。殺虫剤、除草剤などは飛行機を使って散布します。飛行機で散布しなくても、庶民が普段使っている道具でも小動物を殺すには非常に威力があり、何万、何十万、何百万も窒息死します。

 現代の殺虫剤の威力を見てください。そうです。「虫を駆除する利益がほしい。そうすれば作物が収穫できる」という視点で見て、「自分は知らないうちに鬼の心、悪魔の心が増えている」と見ません。まったく気づきません。自分の心は鬼のように、悪魔のように残虐だと気づかずに、一度に何十万、何百万の生き物を殺すことで、魑魅魍魎になります。心に衝撃を受けることは微塵もなく、憐れみの情は微塵もなく、最後にたくさんの精神の問題が生じます。

 だから心を、精神を慈悲の状態に維持して他の命を自分と同じと見れば、精神面の深い結果があります。物質面の利益に反す場合もあるかもしれませんが、価値を比較すれば(物質面の利益は)精神面の損失より非常に少なく、精神面の利益は非常に価値があります。

 残虐な種が心に入るので、後で人を殺します。虫を殺した後、虫より良い動物を殺し、それから同じ方法で殺人になるからです。だから殺虫剤スプレーのように、同じ人間に原子爆弾を投下する準備ができます。

 次に私たちが望まない他のもの、それもついてきます。「集団殺戮」、こういうのが、人間同朋を愉しく殺す状態で生じ、少し疑いがあると、その人たちが敵かどうか、まだ証明できなくても、集団殺戮に賛成します。人間同胞の命には価値がありません。昔の人なら、他人を殺すより自分が死を受け入れる方がマシです。現代は、ちょっと疑いがあるだけで、少数集団を集団殺戮します。

 みなさん、極度の集団殺戮時代である、現代までの政治の歴史、戦争の歴史を自分で見てください。これは新式文明の結果で、古い文明にはありません。挑発するもの、あるいは騙して殺し合いをさせるものが増え、その結果志願して死にに行き、あるいは死ぬために強制的に行かされます。この「強制的に」という言葉は、みなさん、純粋な意味を掴んでください。お金で強制することもでき、欲情で強制することもできます。

 欲情を望んで、お金を望んで兵士が戦いで死を受け入れるのもたくさんあります。法律があるので、行かない訳にはいかないので、規則に強制されて行くより多いです。だから騙されることも強制です。愛する物、好きな物で騙されて、心を騙して死ぬことができます。だから新式文明は、最後には何万、何十万、何百万もの人を死なせる行動があります。殺人の道具がたくさんあり、効率が上がるからです。

 みなさん、他人に加害する下賎な心がどのように生じるのか、利己主義が根源という角度で見てください。次に物質式発展は新方式、産業技術式で、それは私たちにお金と権力を持たせました。「使い切れない権力は、他人を支配する方に拡大し、他人の命の価値を考えないほど低劣な習性になる」と言います。爆弾を投下して、一度に何万、何十万の人を殺すことができます。

 心の面、精神面の文化が別の薫陶をされたので、昔はできませんでした。一度に何万、何十万、何百万の人間同朋を殺すより、自分が走って逃げるのを選びました。大昔は集団同士、民族同士、国同士でも、殺し合いや小さな争い事があり、戦争に拡大することがあれば、その戦いは自分を守るためが一つ、そして他人の利益を自分の物にするためが一つ、それしかありませんでした。

 二つしかありません。簡単に言うと、他人が侵害して来た時は自分を護って戦わなければならないと言います。それ以上なら、あるいはもっと悪ければ他人の物を自分の物にします。テクノロジーの時代になると、他の側が世界の所有者になるのを恐れて戦争をし、前の二つと違います。

 以前は、身を守るため、そして他人の物、他人の財産を自分のものにするために戦争をしました。次に新式発展は、他人が世界の所有者になるのを恐れて戦争をするまで拡大しました。そこでどちら側も、相手が世界の主人になるのを恐れるので、滅亡に向かう戦争が生じます。彼らがどんなに高尚なものと見なしても、私は下賎な心と見ます。

 世界の主人になろうという野望は下賎な心です。そして他人が世界の主人になるのを恐れて競争します。あるいは相手が世界の主人になって自分を侵害するのを恐れるのでも何でも、下賎な心の病であり、理由が正しくない望み、理由が正しくない恐れです。

 戦争と呼ぶものは、時により時代により文明により変化します。身を護る戦争について言えば限度があり、限度を越えた防衛は誤り、犯罪と見なします。宗教の教義を守れば、身を護ることは、本当に自分を護るだけの範囲内で行動でき、道理を越えた護身、遠くに線を引く類の護身は認められません。反対に赦すよう、容認してしまうよう教えます。他人の利益を奪って自分の物にする部分は更になく、更にできません。

 今は、身を護る話、他人の利益を盗む話を考える必要はありません。「私は世界の主人になりたい。世界のすべてを私の物にして、私の権力下に置きたい」。それはローバの面でも下賤で、ドーサの面でも下賎で、モーハの面でも下賎です。それは貪り過ぎ、他人に危害を加えすぎ、そして愚かで、すべきでないことをし過ぎます。

 それでどんな結果があるか、みなさん見てください。それは普通以上に自分を苦しめ、他人を苦しめます。世界の主人になるための戦いに行くのを受け入れさせ、死を受け入れさせ、普通以上に何でもいろんなことをさせるよう調整しなければなりません。

 だから人は昔よりも死にに行くのを志願し、本当の民主主義の時代に、昔よりたくさん騙して、死にに行かせることができます。物質主義に酔っている民主主義だからです。この民主主義の人たち全員が物質主義に酔っているので、物質主義のために死を志願します。だからこの民主主義の時代は独裁主義、あるいは何主義でも、昔よりたくさん死にに行く人を探すことができます。

 これもテクノロジーの結果、産業か何かの結果です。人を皮膚に迷わせるという意味です。皮膚の美味しさに迷えば喜んで死を志願できます。その人は皮膚の面の美味しい話に騙されて戦いに行かされ、何としても所属集団、あるいは国の皮膚の味を手に入れるために戦います。しかし彼らはもっと美しく、「名誉のため、正義のため、公正のため、何のため」と言います。

 みなさん、どこに公正があるか見てください。今しているのは自分の利益のためです。偉大な権力のある国は、あちら側がアジアを占領する恐れがあるから、あるいは世界を占領する恐れがあるからと、桁外れの大きなことを言い、ハッキリと大声で公表します。向こう側が世界を占領するといけないからと、このように大声で言います。

 自国の人を戦いに行くよう誘うだけでなく、他の国々も仲間になって戦うよう誘うので大きな集団になり、何か国もが一つの集団になり、死のため、破滅のために戦います。一人の人を戦いに誘うのではなく、何のためでもなく、戦うために、赦しなさいと教えている神様の命に背くために集団になって戦う仲間になるよう、他の国を誘います。これが新式文明の時代のドーサ(怒り)、他人に加害しようと考える人間の下賎な心です。

 このドーサが行動に移されると、初めは内心の加害心でしかなかったドーサが怒りになります。直面すると、闘うと、少ししか血を流さない戦いにも怒りがあります。頭に血が上るくらい怒ると命を命と見ません。命について考えず、徳について考えず、神様や何かについて考えないで、鹿や魚を殺すように、虫を殺すように人を殺します。人間に原子爆弾を投下するのは、私たちがDDTを撒いて虫を殺すのと同じです。同じ意味があります。

 次に怒りになると長期ものに成長し、長期の怒りは復讐心、恨み、復讐の企てになります。ドーサとコーダ(怒り)と、アーカータ(復讐・恨み・復讐の企て)は三つの部分になっていて、連携して働き、連携して増大します。

 今世界は、恨みや復讐を企てることで満ちています。みなさんに天眼があれば、世界の空気は恨みと復讐の企ての空気で満ちていると見えます。世界中に放送しているラジオ(短波放送)が話しているのは、恨みと復讐の企てしかないことから、簡単に見ることができます。世界の空気は悪意で覆われていると言います。

 こちら側はあちら側に悪意を抱き、あちら側はこちら側に悪意を抱き、タイがどちら側にいても、反対側に悪意を抱き、恨みと復讐を企てる香気に満ちた空気です。ドーサ(瞋恚)からコーダ(怒り)になり、コーダからアーカータ(復讐の企て)になり、そして「恐怖の国土」になります。この言葉もぴったりです。この世界全体が恐怖の国土と言うのは、恐怖の感覚に満ちています。

 恐怖がいっぱいなので、清潔で明るく静かな心の人は誰もいません。負けている側も恐れ、勝っている側も恐れます。勝ってもその勝利は本当でない勝利、一時的な勝利で、再び負けに転じることもあると知っているので、恐れます。見てください。彼らは世界中で闘っていて、今誰も、恐怖に満ちていない人はいません。

 神様の望みに対して下賎な心があり、このように神様の望みどおりにしないことで、世界中に戦いが増えています。世界中で戦い、そしてどんどん増えています。だから恐怖の国土は世界中にどんどん拡大しています。そして別の世界にも溢れます。これらの人間たちは、月の世界へ行っても恐怖から逃れられません。結果は、絶えず心の面、精神面の驚愕を生じさせます。

 だから人間集団に心の面、精神面の異常が生じます。そして下賎な方になり、高い方になりません。正反対です。下賎と高いは正反対です。高くなければ美しくなく、清々しくなく、その後何もないので、それは下賎とすぐに見えます。物質面も下賎で、精神面も下賎で、最高に大きくて深い下賎です。

 新式文明の、あるいは新式文明でのドーサの側の、つまり他人に加害する下賎な心の状態を指摘して見せるには、十分だと思います。

 次は三番目のモーハ(痴)の面の下賎な心を見ます。モーハ(莫迦、つまり惑溺。愚か)という言葉は、いろんな呼び名があり、暗いという意味です。モーハの代名詞、あるいは同義語は、アンダカーラがあります。アンダは暗闇で、カーラは行為なので、アンダカーラは盲人のような闇の行動です。私がこの時代を「現代は精神の闇の時代」と呼ぶにふさわしい、盲人のような闇の行動です。

 精神面の闇の時代とは、私たちの眼球は盲でなく、医学が進歩して眼球を取り換えることなどもできます。眼球は盲でなくても精神面が盲、精神の目が盲。それが精神面の闇です。これが闇の時代の世界です。このように闇なのはアンダカーラ、つまり盲人のように闇の行動であるモーハの威力です。モーハとアンダカーラは同じものです。闇ならばすべての物がバーラ(闇)になり、私たちが闇なら、闇の精神があります。

 バーラという言葉は、みなさんはタイ語だけを勉強するので、このバーラ(タイ語では「ヤクザな」という意味)を、彼らは「弱い」、「愚か」と訳すと知りません。愚かなら、他人を苛めるのは当たり前です。本当の言葉は弱い、あるいは愚かという意味です。生まれたばかりの赤ん坊もバーラと言います。何も間違いをしない、誰も苛めないのにバーラです。

 パーリ語ではバーラと言い、「まだ弱い」という意味です。弱い果物、弱い何かもバーラと言います。次に高くなって成長すると、バーラであることは愚かさにあります。生まれたばかりの赤ん坊は、まだ何も知らないので、愚かと同じということができます。あるいは知恵が発達していないので、これも愚かと見なします。

 バーラであることは弱さで、すべてに対して弱く、知識に弱く、体の成長に弱く、何もかも弱いです。それには「無知」、「まだ知らない」という意味があります。これを「基礎のモーハ」と言います。私たちは基礎のバーラ、モーハがあります。バーラの人は愚かな人、あるいは弱い人で、それで何ができるかと言えば、間違いばかりです。弱い人、愚かな人は、間違えられるだけすべての間違いをします。

 次に現代人、テクノロジー文明の世界は極めてバーラな物が増えています。みなさん聞いて意味が分かりますか。テクノロジー、あるいは産業の面では最高に賢いですが、パーラであることが増えています。弱い人、あるいは神様を知らない、あるいは最高の物を知らない愚かな人が増え、その結果「なぜ生まれたか」を知りません。物質主義について何も考えず、そして「なぜ生まれたか」を知る必要もありません。

 みなさん。この時代、新式文明の時代は「人間は親もなく、先生もなく、神様もなく、宗教もなく、徳もなく、罪もなく、地獄もなく、天国もない時代」と良く見てください。昔の人は親、先生、年寄りがいる話、あるいは尊敬する考えしかなかったので、親、先生、年寄りを一番にしました。私はみなさんを「まだ年が若く、五、六十年前、六、七十年前のように年寄りを尊敬していた時代を見ることができなかった」と、軽蔑して話したくありません。

 私の子供の頃は寺の子(当時の伝統で、何年かお寺に預けて教育してもらう子をこう呼んだ)で、寺に住んで、何百回、何千回、年寄りを拝んだか知れません。アーチャンが強制したからです。お寺の敷地の草原で走って遊んでいる時、年寄りがお寺を通って用事に行くと、拝まなければなりませんでした。拝まなければ鞭で打たれ、それ以上はありません。

 本当の仕事をしていて、菜園の土を掘っていました。たまたま私がいる寺は、寺の中を通り抜けて向こう側へ行く道があったので、年寄りが来るとスコップを捨てて、膝をついて拝まなければなりませんでした。ここでの年寄りは善人だけでなく、善くない人、バカみたいな人も判断する必要はありません。私たちは善い年寄りか悪い年寄りか判断できないので、年寄りを見れば拝み、拝まなければ鞭を受けました。

 名誉がある善い年寄りは知っていたので心から拝みましたが、知らない年寄りを拝む時は、ためらいがちに拝みました。そして時にはバカみたいな人と勝手に括っている人でも、その人の頭が白髪頭なら拝まなければなりませんでした。これが私の子供時代です。みなさんの時代は見ないでしょうね。子供の頃からどうかしてしまいました。次に一般庶民、国民は年寄りを敬い、一つの集落には年寄りがいなければなりませんでした。

 砂を運ぶ計画をするには、村に一人いる長老に言えば、村中の子や孫がついて来て、ちょっとの間に運んだ砂が、巨大な山になりました。今はどこでもできません。スアンモークでは、今砂の山は五千バーツも買わなければなりません。この世代、後の世代は全部買いました。昔なら年寄りの権力が子や孫を尻尾のように、房のように引き連れて来て砂を運ぶことができ、散財しませんでした。このように関わりがあります。

 年寄りがいるのといないのは全然違います。当時は年寄りが止めれば、一度で全部止まり、アンダパーラ(ヤクザな人)はいませんでした。だから当時の人は、(高床式家屋の)床下の竹の輿で、風に吹かれて明け方まで快適に眠ることができました。今そのように寝れば銃で撃たれて死にます。礼儀正しくしとやかな文化が無くなったから、年寄りがいないからです。

 だから年寄りを敬うことは最高に素晴らしいことです。バカみたいな人をその中に含めてもまだ善く、子供たちの心をしとやかにします。親を敬うことも、毎晩足元に平伏さなければならない昔のようではありません。今はしません。現代の先生はふざけて遊ぶためのもので、敵のように「野郎」とか何とか呼ぶ、こういうのもあります。

 私は外国式の大卒の先生に学んだことはありませんが、「先生がいない。先生のように敬う気持ちがない。友達のようにからかってふざけても、民主主義なので先生は知らん振りをしなければならない。生徒が爆竹に火を点けて先生の足元に投げつけたければでき、何も誤りと見なさない。何も損失と見なさない」と、人々が話すのを聞いたことがあります。

 知らないうちに先生の不在が生じ、親、先生、年寄りの意味は消滅しました。現代の世界、現代式文明はこのようです。誰もが皮膚を崇拝するからです。

 次にもっと高い神様や宗教を見ると、それもありません。神様は死にました。宗教は必要なく、政治の道具にするだけです。私たちが西洋人と呼ぶ外国の若者、どこの国か知りませんが、ここに来たほとんどの peace corp (平和部隊。アメリカの国際協力隊)の人たちに「何の宗教を信じていますか」と質問すると、ほとんど、平均して八十パーセントが「私は宗教はありません」と、誇らしそうに答えます。

 それから「あなたの血肉の宗教は何ですか」と試しにこのように質問すると、「両親はキリスト教ですか」という意味ですが、彼らは「私は宗教がない人で、今は宗教がない人で、宗教を持ちたくありません」と答えます。「ではなぜここへ来たのですか」。「人生の問題を解決する知識を学ぶために来ました」。これです。最高にバカです。

 人生の問題を解決するもの、それが宗教です。しかし彼らは宗教と呼ぶ物を求めて来ているのに、宗教がない人だと否定します。彼らは何でも科学的な角度、あるは自然の法則で見るよう、すべて科学で見るよう教えられ、宗教という形で見ませんが、それが宗教です。自分を自然の法則に合わせて正しくすること、それは最高に宗教で、苦を完全に消滅させることができます。

 彼らは宗教を見過ごして宗教のない人、神様のない人、神様が死んだ人を志します。次に同時に徳がなく、罪がなく、地獄がなく、天国が無くなります。徳や罪は意に関せず、気にするのは自分が得る利益だけです。それが徳の話か罪の話かは知らないで、物質である利益だけを欲しがります。

徳と言わせれば徳と言います。つまりそれを得れば善で、地獄天国は話す必要はありません。経典の中、あるいは菩薩堂の壁に書いてあるのはバカみたいな話と見なし、話す必要はありません。利益が天国です。利益は天国なので、地獄を恐れる必要はありません。

 今、彼らに何の宗教があるのかと言えば、それは彼らが最高に崇拝しているもの、拝金教、物質教です。物質を崇拝し、皮膚の陶酔を崇拝し、最後はこれらの物を手に入れさせる物を崇拝するので、テクノロジーを崇拝し、息を吸う時も吐く時もテクノロジーで呼吸します。息を吐くにもテクノロジーで、息を吸うにもテクノロジーです。彼らが欲しい物、渇望し、常に飢えている物を手に入れる援けになるからです。

 これを「今の世界はテクノロジー教を信じていて、心が下賎な病気は、神様の代わり、宗教の代わりに、物質の美味しさを手に入れる物を崇拝する」と言います。これは心が下賎な病気であり、モーハ(痴)であり、心が下賎な病気の類のモーハです。だからモーハと呼ぶ行動があり、バーラと呼ぶもの、つまり知恵の弱さ、力の弱さ、考えの弱さ、何でも弱く、するべきでないことをし、するべきでないことで溢れます。

 みなさんに「クルンテープ(バンコク)の市場のすべての商業区域を歩いて、店やデパートで売っている物で何が生活に必要か調べて見れば、九十五パーセントは生活に必要のない物と気づきます」と話したことがあります。なぜ九十五パーセントもあるのかは、愚かさ、これらの人間のバーラのせいです。生活に必要なものは五パーセントだけで、九五パーセントは必要ありません。高価なら高価なほど、生活に必要のない物ばかりです。

 次にその愚かさ、バーラはそれを生活に必要なものと見ます。これはみなさん自身も注意してください。バーラがまだ沢山あれば、生活に必要ない物が最高に生活に必要な物に見えることもあります。しなくても良いことに熱中し、するべきでないことをするのはまだ軽症で、百パーセントしたがらないこと、それもします。そしてそれをするべきこと、そして最高に名誉があると見ます。

 私はこのように見、このように感じます。それは宗教に酔い、神様やら何やらに非常に酔っているからかもしれません。しかし私はこのように感じ、「今しなくても良い事をするのが増えている」と、このように言います。

 今流行っていて、最高に素晴らしいと言い、最高の腕があると言うもの、例えば人間の心臓移植、あるいはそのレベルの何かの移植、そのレベルの知識や能力は、私はする必要がないと言います。するのは愚かさでする話です。つまり「それは素晴らしい。卓絶している。難しい。名誉がある。だから私は是が非でもしなければならない」と迷ってします。

 これほどの行動でも、心臓移植程でも、それは愚かで、神様はするのを望みません。見合う利益がないからです。投資してするのは複雑で困難で時間が掛かるので、その時間に他のことをする方が良いです。心臓移植をしなければならないほどは、必要ありません。自然に任せる方が良いです。心臓移植、あるいはこのレベルの何かは一時の結果しか得られません。自然に逆らいすぎるので、一時だけの結果しかありません。

 一時だけ使う結果しかないので、する価値はありません。そして神様の望みに逆らいます。普通以上に困難にするという意味です。道理から言ってもすべきでなく、見合った価値がありません。慈悲のため、何のためという口実は、むしろ苦になり、あるべき以上の苦を受け取らせるためです。それに長く生きられても障害者に近く、半分障害者です。これがするべきでないこと、神様がするべきでないと規定したことをすることです。

 「するべきでない」でなく、「するべきでない以上」で、する必要はありません。こういうのがこれから増え、このような状態のしなくても良いいろんなものが増えます。宇宙開発事業で月へ行き、火星へ行くのもしなくても良いことで、神様の意思に逆らうバカみたいな話で、この世界を平和にしてからになさい。これが神様の望みです。次にそのような事はする必要がなく、見合う価値がなく、心臓移植と同じで、大変な苦労を投資しなければならず、いろんな物を浪費し尽くし、結果は少し、短い期間だけです。

 あるいはこの知識は知る必要のない知識で、まだ世界の平和に関わりがありません。知らなければならない知識は、世界平和に関わらなければなりません。だからするべきでないことに使う時間と労力と考えと、頭脳とお金を、しなければならないことに使う方が世界は良くなります。だからこのようにするのはモーハと見なします。

 それぞれの国の宇宙開発事業は何十万、何百万バーツです。そのお金で世界を善くすることもできます。そうすれば結果があり、長期的には完璧に着実に成果が得られます。だからまだしなくても良いことはしなくても良いです。すればモーハであり、下賎な心で、しなくても良いことをし、本当にするべき、本当にしなければならないことをしません。名誉を望むから、あるいは珍しい何かは利己主義になるからです。

 しかしこの宇宙事業は戦争計画の一部です。こういうのは更に巨大な悪です。宇宙の知識を他人を攻撃する道具にし、機会にするためです。こういうのも、極めて巨大な悪になります。本当の理論の探求にしても、しなくても良いこと、するべきでないことをする愚かさで、しなければならないことを見過ごすので、下賎な心と見なします。

 細々したことですが、世界に響きわたっている、例えば人口が増えすぎるので調節しなければならない、物理的受胎調節の話は、物理的手段を使って心の面に関わりません。これもしなくても良いことをする愚かさでして、良い結果でなく、悪い結果を受け取ります。物理的受胎調節とは薬の使用、物質の使用、皮膚の面の方法の使用を意味します。簡単で子供でもでき、間もなく少年少女の服のポケット、ズボンのポケットの中は受胎調節の道具でいっぱいになります。

 それで人間の道徳はどうなるでしょうか。物理的受胎調節がこのように普及すれば、世界の人の道徳はどうなるか、という角度で見てください。不邪淫戒に関わる道徳、あるいは残っている性の面の道徳はなくなります。そしてますます皮膚の崇拝が増え、皮膚を神様として崇拝する人間が増えるので、それまで以上に下賎な心の、それまで以上に悪い人間の世界になります。

 受胎調節は精神面で調節しなければなりません。つまり昔の人がしたように、あるいは教えているように心を支配し、物理的手法でしません。宗教の規則、決められているいろんな文化面、心の面ですれば、当たり前にできるものになります。ユダヤ人、あるいはヘブライ人の昔の文化は、数えてみたことがありますが、不変の規則、決まりがあるので、月のうちに三四回しか妻の寝室へ行きません。

 ワンプラは行ってはいけません。一か月に何日もワンプラがあります。sabbath (安息日)、宿曜の日、生理の経血がある間は入ってはならず、病気でも入れません。残りは月に三四日しかありません。そしてまだ他に妻の部屋にいるのは三時間を越えないという規則があります。今の人のように一晩中妻の部屋で寝ません。そして規則を守って決められた服装で入らなければなりません。一晩中、一日中、一か月中、一年中、裸で一緒に寝ていません。

 ハッキリと禁止しています。これが精神面の受胎調節です。だから簡単に人口が溢れる問題はありません。もし人口が増えたら、若者たちの心の道徳を消滅させる物理的な受胎調節を探さないで、他の方法を探さなければなりません。私はこれを、しなくても良いこと、極めてするべきでないことをするべきこと、あるいはしなければならないことと迷っていると見なします。だからこの世界は道徳のない世界になります。

は  これが物理的受胎調節から生じる精神面の衰退で、神様は同意しません。自然も同意しません。プラタムも同意しません。神様の、プラタムの、自然の規則通りに最高に善く自分の義務を実行してみれば、これらの問題は生じません。あるいは解決できる状態、管理できる状態で生じます。

世界のモーハ(迷い)の側の下賎な心はどのようにびっしり繁茂するか、見本として十分たくさん話しました。

 次に最後の一つは、現代の世界の教育は極めてモーハ(痴。愚かさ。迷い)になり、学べば学ぶほどモーハになると見ます。学べば学ぶほどモーハになるとは、知らなくても良いことを知り、そして知らなければならないことを知らないので、闇、精神面の弱さが、世界の若者の心に生じます。

 だから現代式教育制度は世界中にヒッピーをもたらす結果があります。ヒッピーは点在するだけでなく、世界にどんどん増えています。だから現代式教育、あるいは現代式哲学、あるいは何でも現代式のものは世界中にヒッピーを溢れさせる行動で、精神面の最高の暗闇があります。

 まとめると新式文明であるテクノロジー文明は、ローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)を増やし、従来の文明、 spiritual enlightenment(精神的な悟り)は、終始ローバ、ドーサ、モーハを防止、あるいは消滅させます。

、  だから新式文明の下賎な心があることは、見本として詳しく取り上げたように、貪・瞋・痴を増やします。私が話したのは全部ではなく、ローバはこのよう、ドーサはこのよう、モーハはこのようという見本に過ぎません。残った他のものは、みなさん自身で考えて見てください。

 ツグミが、今日の時間は終わりだと告げました。




次へ ホームページへ 法話目次へ