18.現代文明の下賤な心の状態・貪り





1970年5月7日

 四時四十五分になりました。これから在家について、問題を提出されたみなさんの希望で、在家に関してだけお話します。今日は現代式文明の下賎な心の状態についてお話します。聞くと悲愴に感じ、あるいは驚愕します。しかし非常に熟慮すべき、あるいは必要な話です。もしこの種の話を見過ごしてしまえば、在家のいろんな問題を解決できないので、話さなければなりません。

 このように空気が涼しい時刻は、人を罵るため、あるいは誰かを楽しく罵る時間ではありません。ブッダは、私たちが「ニャーナ(智)で世界を照らして見る」と言う、高い山の頂に立って世界の隅々まで、どんな状況かを見るために使われたと理解してください。そしてブッダは、誰が援けるべき状況にあるかご覧になり、明るくなったら、援けるために、その方面を通行する努力をなさいました。

 私たちも同じです。このように空気が気持ち良い夜明けの時刻は、、いろんな問題や、私自身も含めた世界中に範囲を広げて、その解決法を見つけるために、正常な心で何かを見ることに使うべきです。

 今私は、現代文明の下賎な心の状況について話して、あるいは言及しているので、正常な心、あるいはタンマである心で、私が固人的な見解で話すように、あるいはそれらの威力が生じさせた考えや感覚で、本当にあるかどうか熟慮して見てください。

 「下賎な心の状況」は、ほとんど何も説明する必要はありません。しかし要旨では、人間という名にふさわしくないほど人間の心が低くなるという意味です。もしみなさんがこの定義を好きなら、「下賎な心の状態とは、人間の心が人間と呼ぶにふさわしくないほど落ちること」と注目してください。

 「人間の意味は高い心」、あるいは「清潔で、拝みたくなり、尊敬、崇拝したくなり、高い心の人の群れ」と、繰り返し話したことがあります。そして苦にならないのを高い心と言い、今それは低い方になり、不潔で暗く焦燥するのを下賎な心と言います。

 現代式の文明という言葉は何とか理解できています。しかし「文明(アーラヤダンマ)という言葉は一杯喰わせる話」と言わせていただきます。アーラヤ、あるいはアリヤは、タイ語で聖人という言葉と同じです。アーラヤダンマは聖人のタンマですが、それは名前にふさわしくなりません。これは、この言葉を規定した人が、その時そこだけにふさわしい意味以外に何も狙わなかったからです。

 善い物、高い物について話すことを狙ったので、アーラヤを入れてアーラヤダンマにしました。もう一方の、西洋の civilization (文明) という言葉の根源にどんな意味があるのかは、まだ確かではありません。しかしアリヤ、あるいはアーラヤという言葉と一致しないことは確かです。本当にこのようなら、それは聖人について思うことを忘れた、あるいはまったく関心がない、タイ語のこの言葉を規定した人の愚かさです。 

 次に現代の文明という言葉について、みなさんもだいたい見えると思います。私は、今の、今世紀から今日までを意味しています。現代文明の要旨は物質文明で、宗教の言葉では皮膚の文明と言います。それは皮膚の利益のための皮膚の話、あるいは皮膚の利益のための道具です。すべてをまとめて「皮膚の文明は、重要な原則である物質面の発展がある」と言います。

 イタリアがアビシニア(エチオピアの旧名)を侵略した時、アビシニアの黒い未開人たちが「西洋の文明が来た!」と叫びました。それは大砲を意味し、戦車を意味し、アビシニア人を殺す何かを意味しました。アビシニアの人たちは互いに「気を付けろ。西洋の文明が来たぞ」と叫びました。みなさん。肌が黒いことで未開人と見なすなら、本当の未開人でも、「これが西洋の文明で、私たちの昔からの文明ではない」と、これほどまで知っていると、考えて見てください。

 だから西洋の文明は、未開人を虐げる道具、物質で、「ある種の大砲文化は欲情の縁である物質をもたらす結果のため」と言います。大砲文化と欲情文化は夫婦です。だから熟慮して良く見れば、現代式文明は大砲と欲情以外には何もありません。これが非難でも嘲笑でも、あるいは何であっても、ありのままの事実として話しています。

 だから現代式文明という言葉をこのような形で理解しておく方が良く、この方が安全です。これは在家として避けることができないものです。だから「在家のタンマは在家が知らなければならないもの。正しく行動しなければならないもの」と言われるように、在家が知らなければならない、理解しなければならない、正しく対処しなければならないものとして話しました。

 次に下賎な心の状態とは何かについてお話します。下賎な心の状態と言うものは、仏教の教えでは、煩悩の状態で三種類あります。

1.貪りから生じる下賎な心は、膨れ上がった皮膚、あるいは膨れ上がった欲情。

2.怒りから生じる下賎な心は、膨れ上がった殺し合い。

3.迷いから生じる下賎な心は、するべきでないことを、膨れ上がるほどする。

 短くまとめれば、貪りによる下賎な心は膨れ上がった欲情、膨れ上がった皮膚で、怒りによる下賎な心は、膨れ上がった殺し合いで、愚かさよる下賎な心は、膨れ上がったするべきでないことをすることです。これは、仏教の教えで見た時、現代に本当にあるか、みなさんが良く知らなければならない項目です。

 私たちはタイ人で、仏教教団員で、仏教の教えを掴んで貪り・怒り・迷いであるローバ、ドーサ、モーハを最高に憎んでいます。ローバ(貪り)は、ラーガや、他にもまだ名詞があり、ドーサ(怒り)は、コーダや、まだ他の名詞があり、モーハ(迷い)はアンダカーラ=暗黒や、他にも名詞があります。だからみなさんが他の名前を見たら観察して、この三つのどれかに集約できると知ってください。つまり私たちの口癖になっている、ローバ、ドーサ、モーハ(貪・瞋・痴)しかありません。

 今私は初めのもの、膨張した皮膚であるローバ、あるいはラーガから生じる下賎な心について話します。これは今世界中に蔓延していて、みなさんの方が良く知っているので、私は説明しません。そしてみなさんは在家で、出家して来たばかりで、そしてすぐにまた在家に戻るので、これらの近くにいます。

 膨れ上がった皮膚と言うのは、三つのどの場合にも使えるので、「膨れ上がった」という言葉を思わなければなりません。

 力、あるいは energy と呼ぶものについて思って見ると、力が沢山あって溢れると、その力は自然に、自ずとどちらかの方向へ溢れます。食べ物をたくさん食べると余剰の力が生じ、職務をするエネルギーが余っればどっちへ溢れるでしょうか。それは欲情の方向の感覚へ溢れます。みなさんはそれを、高い心と呼びますか。それとも下賎な心と呼びますか。ここで私は「下賎な心」と呼びます。つまりそれは煩悩の威力で猥褻の方に溢れます。

 気を付けてください。この余ったエネルギーには気を付けてください。今私たちには、飲ませ食べさせ、あるいは力を創るための世界のテクノロジーの知識があります。それは余るほど多く、それでどっちへ溢れるでしょうか。それは欲情の方へ、猥褻な方へ溢れます。

 だから物質面の結果は、当然皮膚の方ばかりです。非常に称賛され、世界にびっしり生じるいろんな発明は、溢れれば、膨れ上がれば、欲情の方へ膨れ上がり、人間にとって必要な用事や仕事の方へ膨れ上がりません。だから売るため、何かするために至る所に散らばっている物は、人間にとって必要な物ではないと見ることができます。

 みなさん。心を善くして、平らに、タンマに、公正にして、クルンテープ(タイではバンコクをこう呼ぶ)の市場を、「それは人間の生活に何パーセント必要か。人間の生活に必要ない、無くてもよい物は何パーセントか」歩いて調査するよう願いします。

 そして豪華で美しく非常に高価なものは、それらの物に含まれ、そして欲情のためになり、下賎な心の方に溢れて行きます。しかし彼らは反対に、それこそが最高、最高になる物、あるいは望ましい物、あるいは低い美しい物と崇拝しています。このように良く見れば、膨張、過剰に気付き、限度を超え、神様が決めた限界を超えた著し貪欲にする原因と気づきます。

 欲しがる、あるいは探求、あるいは所有しておく、あるいは人間がするべき必要を越えた消費。こういうのを膨れ上がると言い、貪りです。パーリ(ブッダの言葉)には「アティローボー ヒ パーパコー=貪り過ぎは下賤」とあります。言葉はこのようです。貪りすぎは下賤。アティローボー ヒ パーパコー。どうぞ憶えてください。

 次に、どういうのを膨れ上がった皮膚と言うのかを見て行きます。それは、人間の生活に必要な縁、必要な物の範囲を決めて分ければ、難しくありません。必要な食、衣、住、治療薬はどのようで、過剰なのはどのようでしょうか。今私たちは、過剰にしたいと望むばかりです。

 何でも過剰になれば、それは欲情の方向に溢れます。必要を超えれば、それは欲情の方へ溢れます。食も、衣も、住んで寝る所も、治療薬も、必要を越えれば、あるいは過剰なら、欲情の方向へ溢れるだけです。このように過剰なら、それは「生活に必要な縁」と呼ぶ物ではありません。

 仏教の教えで「人間の生活に必要な四依(衣・食・住・薬)」と呼ぶ物は、本当に必要な範囲内にあり、それらが過剰ならここでの依ではありません。過剰な物、欲情の依になり、欲情面の過多をもたらします。それはみなさんを騙すこともできます。「この縁を探求しなければならない。そして生活に必要な物だ」と騙すこともあるので、注意してください。それは知らないうちに依でなくなります。こういうのは溢れさせ、その結果欲情になり、過剰な皮膚になります。

 「現代下賎な心があるのは、これらが過剰だから」と言うのは、見てください。みなさん。周到に注意深く、詳しく見れば、極めてハッキリ見せる状態のものが一つあると気づきます。「誘惑する意図」という言葉を憶えてください。誘惑する意図は誘惑する目的、あるいは意図があり、誘惑して他人から利益を得ることが世界の至る所に溢れています。

 特に広告と呼ぶもの、あるいは信じさせる宣伝は騙すもの、誘惑するものです。誘惑する意図。直接欲情の話ならもっと刺激します。映画や劇場のポスター、商品販売のポスターも刺激であり、騙すことであり、愚かにすることです。だから愚かな物を作り、愚かな物を見、お金を払って自分の心を駄目にする物を見ます。それは知らないうちに心を下賎にします。そしてお金を払って下賎な心を買って自分の体に入れます。

 このように世界に蔓延している、様々な有り余る物は、それの精神である誘惑する意図があります。新しい文明、あるいは現代の文明をハッキリ言えば、「酒と女の文明」と言うと熟慮してみてください。この言葉は古く、ギリシャ時代からあります。彼らの古い本当の文明は、酒と女の文明ではありません。石器時代を見ると、布をまとわない未開人の時代は、酒と女の文明はありません。

 それから少し変化して規律のある文明になり、決められた様式があり、実践しなければならない行動が増え、宗教制度が生まれて道徳になり、そして宗教の話に厳格でした。だから最高になり、世界の宗教と密接に関わる文明でした。

 何千年も前の時代は、中国でも、西洋のヘブライ人たちも、宗教あるいは神様に心を預け、そして非常に信じ、非常に畏怖しました。大原則として猥褻なことをしない規律、様式の中にあったので、宗教面の文明でした。

 その後人間は知性の面で良くなり、知性が度を越した結果、自分の考え、思い、感覚を信じるようになり、宗教、神様を信じなくなりました。皮膚の奴隷になって、少しずつ宗教の文明、あるいは神様の文明を捨て、酒と女を神様として崇拝しました。そしてすべての種類の酔うものを、異性間の陶酔の追求をする援けに使います。

 勉強して見ると、ギリシャ人は時代を表裏のように変化させた根源、あるいは手本で、性の話、ほろ酔いの話が従来の文明、宗教の文明を消滅させる話を崇拝するようになったと分かります。それまで宗教の文明があった西洋も、酒と女の文明になりました。そして蔓延し、私たちタイも西洋の尻を追うまでになりました。誰かが怒って何でも、私は恐れません。そしてみなさん全員に「酒と女の文明の話で西洋の尻を追う話には注意してください」と言います。

 酒と女の文明から、話し尽せないほど非常に多くの種類の刺激する意図が見えます。今世界中に蔓延している見本、注意するものとして取り上げるのは、ミニスカートです。今世界中に表出した酒と女の文明はミニスカートで、残りがないほど短いです。

 みなさん、下品な話と、あるいは下品な話を下賎な心で話すと見ないでください。それこそが下賎な心の状態であると、ミニスカートこそ下賎な心の状態であると知らせるために話します。みなさん、自分で「それは何か。何が原因か。結局何のためか」、問題にして自分で考えれば、それは「下賎な心のため、つまり下賎な心がある状態で、下賎な心から生じ、その後も心が下賎であるため」です。

 なぜ短くしなければならないのでしょうか。便利でなく、快適でなく、皮膚の危険を防止せず、あるいは何もできません。それなのになぜ志願してそのようにするのでしょう。それは心が下賎になったこと以外にありません。騙されることを喜び、その後騙すためです。みなさんもこの服装は男性がデザインし、女性も愚かで男性の下賎な心と同じ土俵に上がりると知ることができます。つまり女性を騙して玩具や刺激する物にし、女性の愚かさもそのように志願します。

 女性と男性の下賎な心が合わさってミニスカートが生産され、そしてどんどん短くなった結果、世界中道徳面の厄介な問題になりました。しかし下賎な話、卑猥な話の問題にはなりません。それは問題ではなく、障害ではありません。ミニスカートを穿くことは、世界に道徳があるようにすることの、道徳面の障害です。息を吸っている間中、息を吐いている間中罪だからです。

 みなさん。ミニスカートを穿いている友達に「それは息をしている間中いつでも罪」と教えてください。悪い意図、刺激する意図、つまり釣るためだからです。ミニスカートを穿く時、支配するために、見た人を釣りたいと思うので、それは釣って鼻先を引っ張りたいと望む鬼女です。悪の意図は罪と見なすので、ミニスカートを穿いている間中、新しい獲物を手に入れるまで罪です。これが刺激する意図の初めの項目はミニスカートで、便利なく、刺激する以外に利益がなく、そして履いている間中罪です。

 次はミニスカートを超えた裸の話で、裸を引き寄せる道具にし、刺激する道具にし、自分の支配下に来た人を騙す道具として使う努力をします。露わにするべきでない部分を露わにし、それを最高として好み、食事をする時は、裸のダンスショーがなければならないほどです。私はそういう所へ行ったことがありませんが、行ったことがある人から話しを聞き、いろんな本を読んだりして、そうしていると知っています。

 西洋の兵士、雇われ兵は高給をもらい、そしてストリップショーがある類の食事をして、いつも浪費します。お金が無くなって、新たに手に入れるのもこういう結果のためです。このような話だけでなく、何十種類もあります。今世界の至る所に悪霊文化が蔓延していて、そのようにこのように珍しく変化させ、異常に拡大していると聞いています。

 今スカンジナビア半島の二三か国はこのような話の先進国で、他の国の人たちは、この結果にお金を使うために飛行機に乗って行くと、人々が話しているのを聞いたことがあります。この世界の人間、あるいはこのように下賎な心がある今の人間の世界は、刺激がいっぱいです。

 次に昔からある道徳の改革、あるいは道徳の蹂躙の話になりました。彼らが非常に溺れるものの障害になる、道徳のどの項目も改革してしまい、あるいは少なくても知らん振りしてしまいます。これを「道徳を踏みにじることは罪でなく、カンマでなく、悪でも猥褻でもない」と言います。子や妻も道具か何かのように借りて使える状態が増えています。みなさんが昔からの道徳を守っているなら、この世界に居場所はありません。そして今は、このような文明があります。

 要するに下賎に、下賎に、下賎になることは、どんどん増えているこれらのもので測ることができます。どのように心が下賎になるか表す一つの例は、ある国のある避暑地についての話です。しかし名前は出さないでください、直接の非難になります。有名な避暑地があるある国は、初めは二、三十年前に、その避暑地に旅行に来させる計画があり、静かで美しい自然の写真のポスターを印刷して、人を惹きよせて旅行させました。これは、まだ芸術家の心があるという意味です。

 このような趣味でそこへ旅行し、たくさん行きました。その後そのポスターの写真は助けにならず、誰も行かなくなったので国家主義の話に変えて、その場所と同じくらい有名な軍艦の写真で宣伝しました。それでしばらくの間賑わい、国家主義でもそこへ旅行しました。

 その後軍艦も役に立たなくなり、心を惹くことができないので、楽しく食べる話をポスターの写真にすると、しばらく使えました。最後はビキニの写真で、間接的な裸の写真なので人はそこへ行き、その海岸はビキニの水着や半裸の水着を着た人でいっぱいになりました。

 次に見てください。心はどのように低くなるか、あるいは下賎になるか、初めは芸術家の精神があり、美しい自然が惹きつけ、そして次に国家主義の精神があり、軍艦の名前が連れて来て、その後はそこで食べること、遊ぶこと、面白いこと、庶民の話になり、最後は裸の話になりました。

 このように段階的に下賎な心があることを測れます。それは多分ここだけでなく、どこでも同じで、このように下賎な心があります。だから私は、発明の進歩に応じて次第に心が下賎になり、新しい計画が生まれて進歩すると言います。刺激するための発明が進歩すれば、人間の心はその分だけ下賎になります。これが見ることができる下賎な心の状態、現代式文明の見本です。

 さて次に、男性の下賎な心と、女性の下賎な心はどのようか、分けて見ます。男性の下賎な心は、女性を踏みにじることで下賎で、これは小さな意味ではありません。三蔵、あるいはブッダなどの大学者である方々の考えに由来します。男性の心は、女性の名誉を玩具として蹂躙した時に下賎です。

 パーリ(ブッダの言葉)に「イッティー バルダーナムッタマン=女性はすべての物品の中で最高の品物」とあるように男性が女性を最高の品物として尊重していれば、女性を称賛し玩具にしません。少なくとも母の性として、崇拝すべき性として称賛します。

 一方女性を欲情の玩具と見、欲情面の利益と見なせば、女性を玩具として蹂躙します。パーリの中にある話は、リッチャヴィー族、リッチャヴィーの王は小国で、ブッダの時代の小さな民主主義の国でしたが、マガタ、コーサラなどの偉大な権力の国は、何もできませんでした。大国が戦って、小国であるリッチャヴィーに負けたことがあります。

 ブッダは「女性を玩具として蹂躙する大国がある中で、リッチャヴィー族は女性を尊重する国です」と言われました。しかし他の項目もあり、木を枕にする質実剛健がありました。リッチャヴィーの武士たちは木を枕にして荒いムシロに寝、暗いうちから起きて武器の練習をしました。しかし心や精神面の大原則は女性を評価し、女性を非常に称賛し、女性を持ち上げたことです。

 その後煽情する人がこういうのを止めさせました。つまりスパイがリッチャヴィーの人たちに女性を玩具として蹂躙させたので、欲情の奪い合いになり、団結が崩れて沈んだ国になり、大国マガタの属国になりました。女性を称賛することと女性を蹂躙することには、このような意味があります。

 心が高ければ女性を母親の性として尊重し、心にはまだ道徳があります。道徳があれば永遠に善いです。女性を玩具として蹂躙すれば道徳がなくなり、悪の動物になります。今世界の男性は意図的のこともあり、意図していないこともあり、自覚しない場合もありますが、最初の大原則として女性を蹂躙し、母の性を欲情面の恍惚を探求する道具にします。みなさん「最初に」、あるいは「大原則として」と言ったと憶えて置いてください。

 男性の下賎な心をすべてをまとめると、玩具として女性に溺れることはすべきでなく、母親の性として名誉を与え、あるいは尊重します。

 女性の側、女性に生じる女性の下賎な心を見ると、一致して対になります。つまり男性の玩具のように振る舞い、世界の母である名誉を大切にしません。こう言っても、みなさんを軽蔑していると非難しないでください。まだ何歳でもないみなさんは、女性である先祖がどのように名誉を守って来たか、見ていません。その人たちは現代の女性のように形振り構わず男性の道具にならず、毎年何センチも短くなっていくミニスカートを穿きませんでした。

 現代の女性はそのよう(玩具)になるのを受け入れるので、これが女性の下賎な心で、女性を玩具にする男性と同じ舞台に立ちます。そして先ほど、この女性の服装は男性側がデザインした物であると話したのを忘れないでください。フランスが始まりで、あるいはどこでも男性が女性の服装のデザイナーなので、女性をトムヤムにする(煮たり和えたりする)機会があります。

 そして女性も、喜んで受け入れるだけ十分愚かです。女性の下賎な心は、男性の欺瞞に自分の愚かさを足すことによってあります。男性の欺瞞と女性の愚かさを合わせた明らかな証拠は、ミニスカートや、露わにすべきでない部分を露わにする似たような他の物を受け入れます。

 だから、女性の下賎な心はナガラソーペニー(都娼)のような振る舞いをしたがると言うことができます。しかし私が話しているのは、雇われて稼いでいる都娼ではありません。ナガラとは都、ソーペニーとは美しくする人という意味です。ナガラソーペニーは都を美しくする人を意味し、現代風の美しい服装をし、街を、街全体を美しくするためにミニスカートを穿く女性です。これがダンマの言葉のナガラソーペニーで、俗世の言葉ではありません。

 世俗の言葉のナガラソーペニー(都娼)は、雇われてそういう行為で稼いでいる女性ですが、深いダンマの言葉、精神の言葉では、あちこちの雰囲気を美しくする人を意味します。一般の美しい装いをする人は、その人たちは国を美しくするために、そのような状態で都を美しくするために、町中、国中、世界中ミニスカートを穿いています。

 そしてこの美しさにはいろんな面があり、悪霊の美もあり、人間の美もあり、ブッダを頭とする学者、哲学者の美もあります。次にこの種のナガラソーペニーはどの種類の美か、どの人たちの美でしょうか。私は「幽霊悪霊の美」と言います。国中世界中の女性が誘い合わせて、残りの部分がないような、何パーセントも残っていないミニスカートを穿くのは、世界をそのような美がある幽霊悪霊の世界にするため、幽霊悪霊たちの美です。

 みなさんも次に、衣服 costume、あるいは服装を一世紀ごとに比較して見ると、過去の世紀はどうだったか、絵で簡単に見ることができます。過去の世紀の女性はダイヤモンドを包むようにぴったり隠していて、肌を見ることはできませんでした。中には顔をすっかり隠してしまう国や民族もありました。美しい顔を見ると、見た人にラーガ(貪り)が生じるからです。

 だから彼らは、その人の美しい顔を、見た男性を刺激してラーガを生じさせる物として使わず、そしてその人の美しさに対して、不潔な考えが生じるのを容認しなかったので、顔を覆ってしまいました。これが過去の世紀です。どこの国の女性も、私たちタイも、あるいは西洋の国も全部です。西洋も非常に覆っていました。過去の世紀、あるいは今世紀の初めも、西洋も現在より多く覆っていました。

 今西洋は解放して解放して、開放する方へ引っ張って行きます。彼らは私たちより皮膚の文明の達人だからです。私たちタイもこのことで西洋の尻を追っています。今残っているのは婚礼衣装だけです。体をぴったり覆うのが残っているのは婚礼衣装だけです。他の衣装はどんどん短くなりました。私たちも彼らの尻を追い、残っているのは婚礼衣装だけです。タイの昔の文明の身形はこのようではありませんでした。

 今もタイドレス、タイ女性が身に着けるドレスで、長いドレスができたと聞きました。喜ぶべきことです。しかし装う機会がありません。あるのは短いスカートで装うだけで、何処へでも、菩薩堂にも行きます。だからここで、西洋の御堂が入らせない服装でも、タイの御堂は入らせると、最高のお悔みを表明させていただきます。これです。みなさん考えて見てください。

 みなさんもきっと、私と一緒に、「西洋の御堂が入らさせない服装でも、タイの御堂は入らせる」と悲しむと思います。穿いたら身動きができないほど短いスカートは、西洋の御堂は入らせないのに、タイの御堂は入らせます。だからみなさんに、タイの仏教教団は文明の面で西洋の奴隷になっていると、最高のお悔みを表明させていただきます。西洋人はこのことでも先を行き、タイは後に続きます。

 海岸やチャリエンホテルの所、あるいはどこでも、いろいろ見に行って、一組のカップルが歩いて来るのを見てびっくりしました。人間のカップルと思わないで、人と飼っている動物だと思いました。男性はまだ人に見えましたが、女性は飼っている動物のようでした。二人で歩いて来ると、一人は飼育する人、一人は飼育されている動物に見え、カップルの人間が歩いて来るようには見えませんでした。

 わざわざ見に行ったのではありません。連れて行く人があって、海岸やそのような場所へ遊びに行く機会があった時です。男性はきちんとした身形で、上着を着、長いズボンを穿き、何でもありましたが、一緒に歩いている女性はほとんど何もありません。そして体の器官を隠している服は透けていました。一緒に歩いていて、私は「一人は人で、もう一人は人ではなく、一緒に歩く何かの種類の動物だ」と、びっくりしました。

 水辺にも、チャリエンホテルの辺りでもどこにでもいます。もしかしたら、みなさんの目や心に止まらないかもしれません。みなさんは生まれた時から見ているので、珍しくないからです。この私は罪があり、こういうのが全くない時代に生まれ、そして見たことがないほとんどの人は、初めて見るとびっくりします。

 これが現代人の下賎な心がある方向への変化です。それはもう問題ではない話になりました。穿いて幸福、楽しさ、皮膚の面の味を探求するだけだからです。御堂の言葉で、彼らは flesh と言い、一語で皮膚と言います。一語だけです。Flesh とは、宗教的な意味で不潔で卑猥な物を意味します。つまり宗教は煩悩の基盤である皮膚を管理したいと望み、今世界の人間は、反対に増やします。

 これを彼らは「皮膚の奴隷。皮膚の主人ではない」と言います。宗教は、すべての人間を皮膚の主人にさせたいと望みますが、今の人間は皮膚の奴隷になりたがり、正反対です。だから、多くの女性が、男性の低劣な意図の奴隷になるのを受け入れているのを見ると憐れです。男性も低劣な意図で女性を刺激して騙し、玩具になることを受け入れさせたがります。この世界はびっくりするほど急激に悪化しているので、望ましくない物が溢れます。

 みんさんが復習して考えると、火炎瓶の話があり、それもこれに根源があると見えます。なぜ火炎瓶を爆発させるのか、表面的に見ればこの話と関係はありませんが、これが原因で心が下賎になって火炎瓶を作ります。だから火炎瓶も皮膚の話の下賎な心に根源があります。火炎瓶を作って投げることができる人は、必ず基礎に皮膚の面の最高に下賎な心があると見なします。

 私たちは、この下賎な心は世界のすべての危機の根源であり、憐れむべき殺し合いで何万も何十万も死ぬのは、下賎な心に根源があると広く考え、深く隅々まで見なければなりません。

 傭兵たち、傭兵はお金を撒き餌にして雇わなければならないのは、そのお金で皮膚を求めるためです。彼らが戦いを引き受けて命と引き換えにするのは、お金で皮膚の面の幸福を求めるため、あるいは皮膚を買うためです。次に自分で戦わないで戦わせたい人たちは、皮膚に迷った人たちです。

 たとえばこのような資本家がたくさんのお金を欲しがり、たくさんの財産を欲しがるのは、そのお金や財産は皮膚の利益のためだけです。たくさん、際限なくたくさん所有しておきます。

 労働者も同じように皮膚を欲しがるので、資本家を攻撃します。資本家は水を遮る堤防のように、皮膚の水をたくさん遮り、労働者たちも、同じように非常に皮膚を欲しがるので、自分が皮膚の方へ首を伸ばして口を開けるために、堤防に穴を開けて堤防を崩す努力をします。世界の資本家と労働者の闘いは、皮膚に根源があります。このように見なければなりません。このように見れば最高です。これが、現代の世界の人間の下賎な心です。

 今私は女性の下賎な心について話しています。これから「女性は美しい性で、美しさのために存在する」という項目について話します。人間はこのようになりました。しかし畜生は男、あるいは雄が美しい側で、メスは美しい必要はありません。人間は女性が美しい側になり、女性に美しさがあることが意味、あるいは財産になれば、男性は美しい必要はありません。だから昔から「美しさは女性の財産」と言われ、女性が美しければ値が高く、そのような価値があります。

 しかしどの種の美しさが卑猥な美しさか、あるいは様式の規定で正しい美しさか、危険でない美しさかを知っておかなければなりません。だから「良い美しくしさ」と言うのは良いです。それでなぜ卑猥な話にするのかは、スカートが短くなること、あるいは隠すべき物を隠さないことによってです。それは美しさでなく、美しさの表現でもありません。

 だから露わな姿の美人コンテストは恥知らずコンテストで、美人コンテストではありません。みなさん、良く見てください。あれは、そこまで受け入れることができる、どれほど厚顔かを競うコンテストです。だからまだ「女性は美の象徴」を原則として掴むなら、皮膚が悪化して道徳を消滅させるための誘惑でない、様式で正しい美しさでなければなりません。

 現在の文化、現代文明について十分話したので、次に昔の人の文明について二三話したいと思います。

 先祖たちの昔の文化、あるいは文明は、仕舞っておいて尊重するもの、名誉がある物のような状態に、女性を包んで飾っておきました。だから彼らは宝石や金銀の指輪を隙間なく包むように、隙間なく包む努力をしました。昔の文化は女性をふさわしい状態で包んでおく努力をし、そしてふさわしい状態で飾り付け、現代文明のように、脱いで、脱いで、脱ぎ捨てません。

 「尊重するためにある物のように、価値のある物の状態で包んで飾っておく」という言葉を使います。母の性だからです。ブッダの時代のソーペニー(江戸時代の花魁と同じ)について話せば、ブッダの時代のソーペニーは、普通の人以上に衣装や宝石類や、その他の装飾具で飾っていました。現代の娼婦のように、裸を煽情するものとして使用しません。みなさん、憶えておいてください。

 三蔵のアッタカターを調べると、娼婦であればあるほど、たくさん衣装を着用し、装身具や宝石で飾り、非常に清潔で、何でも普通の人以上でした。そして彼女たちは領主や豪族、大富豪など、豊かな人たちの中にだけいて、放蕩無頼のためではありませんでした。

 だから女性を最高の物品と見なすべきで、母の性として称賛され大切にされたので、隙間なく覆い、見事に立派に飾ります。これが私たちの祖先の昔の文明です。だからその様式の文明には、貪りの面の下賎な心の状態はありません。今私は貪りの話をしています。貪りによる下賎な心は現代式の文明にいっぱいあり、私たちの祖先、あるいは今変わりつつある他の民族の昔の文明にはありませんでした。

 善く抵抗している民族も幾つもあり、サリーの使用を止めない民族もあります。スリランカやインドのサリーは、長い布で体を隙間なく頭まで巻き、彼らはこのような服装を止めようとしません。スリランカのダルマパーラは亡くなる前に「わが国の女性はサリーの使用を止めないでほしい」と望みました。つまり西洋の衣服を着るのを心配しました。このような下賎な心になるのを恐れたからです。

 私たちタイ人も、かつては体を隙間なく覆う衣装があったので、維持し保護するべきです。西洋の尻を追わないでください。追えば着る物を短くすることによる下賎な心があります。刺激するもの、男性の玩具であるために女性の着る物が短く、短く、短くなるのは、膨張して溢れて欲情へ行く心の面の膨張です。そしてそのようにするために、大々的に振興します。

 貪りが原因の下賎な心があることはこのようです。それで怒りと迷いによる下賎な心について話す時間がないので、次の機会に話します。

 今、ツグミが時間の終わりを告げたので、これで終わります。




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