17.在家の世界の破滅





1970年5月6日

 四時四十五分になりました。引き続き、中途になっている講義をすることができます。今日は在家の世界の、特に現代の破滅についてお話します。いろんな角度から在家について述べた今までの講義、特に在家の目的であるものと、成功させる方法を復習してください。

 今日は障害である物と、障害以上の衰退、そして最後に没落をもたらすものについて話します。これをパーリ語でハーヤナダンマと言います。中には、どうして一種のタンマと呼ぶのか理解できない人がいるかもしれません。このような場合のタンマという言葉は、善い側にも悪い側にも使うことができる中立の言葉で、前に形容詞を持って来てハーヤナダンマ(破滅)、あるいはヴァタナダンマ(発展)などにすると理解してください。

 ヴァタナダンマ(発展)なら成長する側のタンマで、ハーヤナダンマ(破滅)は衰退する側のタンマです。そしてアダンマと呼ぶものも一つの側のタンマです。つまり衰退する側のタンマ、あるいは発展する側のタンマの望みを消滅させるタンマと理解しておくべきです。そしてタンマという言葉は、形のもの(物質)でも、名のもの(抽象)でも、混合したものでも良く、形でも名でもないものも意味します。

 このようならダンマという言葉はすべての物を意味するので、私はダンマという言葉を、命がある物もない物もすべてを意味するために「もの」と訳します。在家世界の破滅は、在家は生活様式、あるいは目的、あるいはこうありたいと保証するすべての物があり、一つの制度の状態があります。それは最高に大きなものです。在家の施設は出家の住まいと違います。いろんな相違がありますが、特に生活様式が違います。

 目的は同じでも、どちらも同じ人間の終点に到達しても、在家の施設は規則として規定してある独自の行動、あるいは生活があります。だから在家の施設、あるいは在家の世界と呼びます。特に「現代の」と言うのは、どんどん今までと違って来ているからです。どんどん違えば、目的に対して近いか遠いかという意味で、ここでは衰退と見、在家の目的、あるいは在家の施設から、どんどん遠退いていると見ます。

 衰退の状態を熟慮すると、ハーヤナ、あるいは破滅と言うものは、明らかに見えているのは、在家の目的を目指すことの衰退です。四住期の教えの発展でない状態に進みますが、気づかないうちに生き地獄に落ちたような、ある種の苦に耐える状態に沈んでいます。ここで衰退という言葉は二つの意味があります。四住期の教えで歩くことの衰退と、気づかずに苦に耐える衰退です。

 四住期の教えで歩くことの衰退と言うのは、共通の理解になるまで四住期について説明したので、何とか理解できます。現代の在家の世界は、当然四住期の教えで歩くことを見過ごし、あるいは遠退いています。つまり梵行(学生)期もすっかり汚れ、正しい、あるいは純潔清浄な在家になることができないので、在家期も泥だらけになり、隠遁期である静かな、あるいは内面の学習探求をする時期に導きません。

 このようなら、遊行者の状態で誰かに教えるものは何もありません。それは泥だらけと言う状態であり、四住期の教えにならないと簡単に見ることができます。これは一般の、あるいはかなり下品な言葉で、このようです。どの住期も泥だらけなので目的を誤り、知らないうちに人生は生き地獄に落ちたようになります。

 生き地獄に落ちる。これは目を楽しませるような苦に耐えるという意味で、感じている、見えているのもありますが、ほとんどは感じていません。気づいていれば落ちず、あるいは出て来るために足掻く努力をするからです。だから生き地獄に落ちるのは、当然気づいてない話で、感じるのは鬱陶しさ、あるいは焦燥、あるいはイライラだけなのは事実ですが、それを、車軸が蓮の花に見える類の楽しさと見ます。

 若い人は放蕩無頼を素晴らしいこと、高尚なことと見てしまいます。それは心を休まず苦しめることでしかないのに、彼らはその部分に関して知らん振りをします。あるいは何かを探して食べて飲む部分を隠蔽して、陶酔の味がある放蕩無頼の部分しか見ません。この生き地獄に注意深くしてください。それは恐ろしい様相、走って逃げるべき状況は現われませんが、どんどん深く、どんどん引っ張って行く状況が現われます。

 いろんなアパーヤムッカ(悪趣の原因)の話を詳しく観察して見ると、映画を見ることは、特に道徳を消滅させます。放蕩無頼な遊びは、現代は至る所に溢れ、いろんな名前で呼ばれ、いろんな状態があります。見ること、飲むこと、接触などから生じる受(感覚)は、熱い(苦の)ものですが、反対に美味しいもの、楽しいものと感じます。

 涼しいと言うのは正しくなく、気持ちを散漫にさせ、煩わせ、焦燥させます。しかし塗り重ねた美味しさがあり、人は望ましいものと見て、昔からある文化を消滅させます。それは益々恐ろしくないものに見え、あるいは我を忘れる機会があり、益々深みにはまり、世界中至る所がそうなっています。

 私たちは知性、あるいはヴィチャーラナニャーナ(考察智)を使わなければなりません。あるいは内部の目、つまり目を閉じて見、内部の目で世界を隈なく見ると言います。それは報道、あるいはいろんな公共機関が広報している報道で見ることができます。熱湯を掛けられた犬のような症状がある人は、自分がどうしたいのかも知らずに、どれほど焦燥して転げ回っているか、自分で気づくことができます。

 国を出て他国へ行く外国人が増え、国を出るのは仕事や事業のため、あるいは利益を得る結果を望むためです。彼の利益、儲けについては言わなくても良いです。しかし国を出て、自分で欲しいと感じている物を探求する外国人がいますが、探している物が何か知りません。その人は焦燥と困難しか感じず、自分の国にあるいろんな物を解決できないので、仕方なく、理由が分からない焦燥、心が幸福でないことを解決できるものを求めて旅立つからです。

 この種の人も、どんどん増えて、ここに来る人までいます。調べて見ると、質問して見ると、生きるとは何か、なぜ生まれたかを知らない状態の闇、暗闇の話で、何が焦燥を生じさせる原因かを知らず、煩悩欲望の話を知らず、執着の話を知りません。こういうのが増えていて、世界中を闇雲に駈け回ります。そしてほとんどは、かつて精神面で繁栄していた東洋に駈けて来ます。

 これは、知らないうちに生き地獄に苦しめられていることを表すものです。知っているのは幸福でないことと焦燥だけです。私たちが外国と呼ぶ西洋には、これらを静めることができるものは何もありません。あるのは益々増やすものばかりで、目が眩むほど陶酔します。

 その一方で限度を越えた自由、見誤った自由に転げて行き、ピッピーの精神は今世界中でブームになっていて、ピッピーがいるべきでない国も真似をする人が増えています。これが現代の在家の世界の精神面の衰退です。在家施設にいる人として、この項目をたくさん観察して見てください。

 次に一つずつ熟慮して、ちょっと明らかにさせることができます。重要な原因、あるいは話の要旨は、現代の世界は野蛮に戻るほど目を遮る光の類の愚かさがあることです。これは聞いて意味が分かりません。あるいは混乱します。現代社会は、どう学んだら良いか分からないほど、あらゆる分野の教育で発展しているのに、それでもまだ愚かになるのは、その光が目を隠すからです。

 光が目を遮る、あるいはハッキリ見えないのは、何十種類ものたくさんの光が、めちゃくちゃな方向からドッと射すので、ハッキリ見えません。そしてその目の眩みは、夢遊病者のように古代の野蛮に向かって歩いて行きます。

 結果、あるいは現象を見れば簡単に見えます。つまり畜生より加害し合い、探求するにも「野蛮さに満ちた」というように、善悪正誤、正義不正義を見る必要がなく、どちらも同じと見なします。これが野蛮です。このような状態でてんでに探求すれば奪い合いがあり、いろんな方法で、原始時代よりも凶悪な殺し合いの戦いをします。

 原始時代は現代のように多量の殺害をしません。一度の爆弾投下で何十万もの人を死なせる、現代のような残虐はありませんでした。野蛮な世界は、あの建物に彼が次のように書いたので見てください。

 現代は蛮勇の世界

 星を集めてカバンに入れる

 シヴィライズは要るという意味

 私たちの世界は原始時代に戻る

 世界のシヴィライズという言葉は「要る」という意味だけで、際限なく美味しく、楽しく、星や月、あるいは威力下にあるものは何でも自分のカバンに入れておきます。これは狂った話で、最高に野蛮な話で、するべきでないことをします。そして異常に露骨で危険、あるいは非常に危険に賭けるので、「野蛮な突進」と言います。現代の世界はこのような状態ばかりで、世界中目を瞑っているような、陶酔しているような進歩ばかりで、それを発展と見ますが、本当は破滅で、世界に沈む衰退をもたらします。

 次は、それもふさわしい行為にする結果をもたらすと言います。例えば気違いじみた物質の奴隷である教育制度で、精神の繁栄、輝き、発展のための教育制度がありません。現代の世界の教育はこのようです。この項目は冒頭で物質主義についてたくさんお話したので、みなさんが自分で見えるだけ十分に明らかです。

 これが物質主義で、物質を神様として崇めます。生老病死の苦の問題の解決さえ物質による解決を目指し、物質だけに依存します。すべては dialectic materialism (弁証法的物質主義)であり、心は物質の副産物でしかありません。

 どんな教育も物質主義の状態で制定されています。基礎の教育も言うまでもなく、先々のテクノロジーのためで、テクノロジーは物質である結果をもたらします。次に哲学であり、宗教であり、心の話である教育も、物質の奴隷、家来にされ、結局宗教は物質的利益を探求する道具に使われます。非常にたくさんある宗教の使命は政治の利益のためです。政治は物資探求の話です。

 残っている大きな部類は、膨張した哲学、何十何百にも枝分かれした哲学ですが、精神面の輝きにすることはできません。反対に混乱させます。そして取り上げて利益に使う分野次第、政治の利益のためで、人の心を刺激して政治に陶酔させるため、あるいは政治の計画を自分の望みどおりに進める能力にします。政治のためなら物質である結果のためなので、「彼らはどの分野の教育制度も、物質的利益を追求する道具にする方向になるようにする」と言います。心が物質の奴隷だからです。

 このような場合の物質とは物質から得られる美味しさを意味し、彼らは美しい言葉で、際限なく「善い生活」と言います。残念なことに、みなさんは二十年か三十年しか生きていないので、時代の違いが少ししか見えません。何十年も、百年も生きた人と同じではありません。

 七、八十年前の人はどのような暮らしをしていたか、現代はどのような暮らしか、その時代はどんなことを撫で回し、現代はどんなことを撫で回すか。非常にたくさんの部分が表と裏のように違います。あと何百年も経てばもっと違いがあります。みなさんが歴史や考古学を勉強する時は、これらを知るために勉強してください。

 簡単な例は、今残っている、私たちが見ているような形の、美しくて巨大な寺や塔はなぜ生まれたのでしょうか。現代ではこのように生じません。あるいはまったく生じません。昔は精神面の幸福を崇拝し、布施をし、善行をし、精神面の静かさがあれば幸福を感じたので、これらの物が一つの形で生まれました。現代になると、人は身体面の幸福を欲しがり、それで何が生じるか、みなさんも見てください。

 ホールや劇場のように陶酔させる施設ができ、愛国心を煽る記念碑もたくさん出来、厚くなりました。それを薄くしたがり、薄れさせて消してしまい、赦してしまい、考えないようにした昔のようではありません。現代は刺激して、永劫に憎み合わせます。これは物質的な話で、精神の話ではありません。心の面の記念も、物質の話です。

 次に家庭内の生活、家やいろんな物を持つことは遠い隔たりがあり、すべて物質だけを考えていることを表しています。子や孫がいれば、それに名誉などがあるよう望み、高く売るために美人コンテストなどがあります。昔は若い娘がこのような類のもの(露わな姿)を見せることを不吉と見て、彼らは「猥褻は不吉」と言いました。すごく年を取った人は、若い人が腕や脚を高く挙げるのをテレビで見ると、卒倒するなど、このようです。このような心の違いを比較して見てください。

 これはすべて、このような好みが生じられる、物質の奴隷である教育の結果です。精神面の輝きのための分野の教育はありません。私はこのような話題の会議で提案したことがありますが、内心で嘲笑されました。そして固い声で「このような話を現代教育に入れる時間がなく、方法がなく、機会がなく、このように考えるふさわしさがない」と、百パーセント反論されました。これが世界中の在家制度の衰退であり、物質の奴隷にする教育をします。

 次に現代行われている行動につい見ると、神様、あるいは自然の資源を急速に掻き集めて、みんなで絶滅させている行動です。急速に絶滅させるために、世界中すべての手で急いて掻き集め、みんなで自然あるいは神様の資源を絶滅させています。みなさんが「工業、あるいはテクノロジー」と呼ぶもの、あるいは非常に崇拝しているものこそ、神様の資源を絶滅させる道具です。

 統計によると、西洋の非常に発展した国一国だけで、一日に五十八億ガロンの石油を消費しています。車やいろんな物を使うにも石油を使わなければなりません。一日でこれだけ、一か月、一年、何十年では幾らでしょう。それに一国だけです。あと何十、何百の国があります。

 私が「神様の資源を使い尽くす」と言うのは、九十五パーセントは必要のない物質面の利益のために使っているからです。次に私は、必要か必要でないか、彼らと違った見方をするバカみたいな人になります。自動車、汽車、飛行機、あるいは飛行機以上の何かは、みんな石油を使い、そして人間が作る必要がないもので、月へ行くなどは、人間が作る必要のないものです。

 それはまだほんの僅かです。今の世界の人が飛んで行ったり来たりするのを見ると最高に石油を使います。あるいは今の世界で、一日中、一晩中、猛スピードで車を運転しているのも最高に石油を使います。これは必要のない話で、これはバカが創って必要にした話です。

 みなさん、この真実、あるいは秘密を考えて見てください。みなさんがクルンテープ(バンコク)にいて、車を運転してバーンセーン(チョンブリ県にある避暑地)に行くのは、必要か必要でないか考えて見てください。あるいは他の歓楽を求めに行くのは、必要ありません。これは石油の消費の半分にもなります。そして彼らが「仕事、用事」と言うのは、わざと仕事と言うものばかりで、する必要がないのに仕事、用事になります。

 車に乗って見に行った時、あるいはそれらの場所へ遊びに行った時、私は非常に自分を恥ずかしく思いました。行くように熱心に誘う人がいたので、私がそのような場所へ行かせたバカ者にならないか心配ました。私も行きました。そしてそれは、私も彼らと一緒にわずかでも神様の石油の一部を浪費した悲しさ、ショック、惨めさしかありませんでした。

 タイの国内で、人は膨大な石油を浪費しています。みなさん、心を公正にして、どのような状態で石油を燃焼するか、特に有り余るお金がある人はどのような状態で石油を消費するか、考えて見てください。彼らは、自分の楽しみを求めれば見合うと考えます。そして彼らがたくさんのお金をどこから持って来るのかと言えば、このように作る必要のないものを作ります。こういうのはどうでしょうか。

 私は「みんなで自然の資源、あるいは神様の資源を使い尽くす」と言います。私が話しているのは石油だけですが、他の鉱物、木材、生きている動物からこの世界の生老病死の友、親しい人たちまで、みんなで使い尽くします。凶悪な武器で絶滅させる準備があり、親しい人を絶滅させます。鉱物から植物、穀物、人間まで、私は「神様の、つまり自然の資源」と言い、私たちはみんなで、それを野蛮に絶滅させます。

 さて、説明して時間を無駄にする必要はないので、毎日どれだけ、必要もなく消滅させているか、そしてこれが食糧の不足、物資の不足から生じる問題の発生が急速すぎて、ぞっとするような衰退の一つと見えるまで見てください。

 石油が世界から無くなれば、原子力など他のエネルギーを探さなければなりません。それはもっと大変です。石油の使用を知らなかった時代、石油を使うことを知らなかった未開人の時代、あるいは森に住んでいた、まだ何百年でもない私たちの先祖は、石油を使うことを知りませんでした。ランプには他の物を使い、当時手に入った物、あった物を使い、石油や発電機などは使いませんでした。

 人は穏やかに暮らし、神様や自然の財産を使い尽くさないので、自然は繁栄しました。そして現代の子孫の手に渡ると短い時間に浪費し、あと幾らもしないで尽きることもあります。競争、略奪、加害、あるいは戦争をもたらすあらゆる方向の問題が生じます。

 これも「精神面の衰退」と呼ぶものの見本で、どんどん増えて散らかります。あるいは物質面でどんどん発展します。だから在家、あるいは在家の世界はこの罪を受け取る人、この結果を受け取る人です。

 次は悪い力になり、現代は宗教を政治の奴隷にして政治に奉仕させるために、宗教を奴隷にして政治に奉仕させます。自分は最高に目を瞑って物質面の利益を望み、道具に使える物を見つけると全部使って、宗教も政治の利益のために使います。

 例えば宗教の教えも、物質を求める道具に使える面、あるいは部分だけを選び、宗教の話は、みんなで物質の探求をするため、みんなで物質を作るための話だけ話します。物質面の探求に強さを生じさせる項目なら話し、その他は黙ってしまいます。

 宗教を心を刺激するものとして話し、哲学のようなもので愛国心、民族主義を生じさせるのもあります。形式的な儀式の状態でも何でも、宗教を政治の道具に使います。あるいは戦争でも宗教儀式をします。時には、宗教が生き残るために他人を殺さなければならないと言い訳します。これは、教えで正しくすれば、まだ何とか美しく、あるいは見られます。

 もし本当に世界のタンマの存在のために戦うなら、それは善であり正しいです。しかし今は「俺、俺の物」のために闘い、それで宗教のため、あれのため、これのためと言い訳します。だから宗教を戦いや他人を殺すことの家来として使います。

 みなさんが智慧で問題を熟慮して見れば、神様が死ぬのを認めると言うほど、宗教を政治の奴隷、物質の奴隷、物質を探求する奴隷にしているのが見えます。神様を信じる宗教の人は、「神様は死んだので、神様を思う必要はない。私たちには新しい神様、つまり求める利益がある」と言います。教典の中に書いてある神様は亡くなりましたが、怖くなると宗教儀式をし、当てにならない神様に懇願します。

 彼らには本当の神様である、物質から得る、あるいは他人を殺すことから得る利益があり、物質を皮膚の面の利益にします。しかし人はまだ心の中で神様を信じているので、宗教儀式をします。こういうのは愚かさ、迷いでします。愚かさが「神様は死んだからタンマは必要ない」と理解させます。次は貪りで、目の前が真っ暗になるほどの貪りは、宗教を蹂躙し、あるいは跨いで物質を求め、宗教を物質の奴隷にします。これは貪りゆえです。

 次に一つの凶悪なもの、恐怖があります。恐怖が誰かを支配すると何でもできます。非常に恐怖を感じると、正しいものを間違ったものにします。ブッダが「お守りの仏像」と呼ぶ死を防ぐお守りにされたのは、恐怖があるからで、他のものではありません。初めに恐怖があり、愚かさが加わると臆病と愚かさになります。そしてそれはいろんな物を非常に変化させます。

 仏像は追想するもの、あるいはブッダーヌサティ(仏隨念)をする道具ではなく、彼らの恐怖を防ぐ物、霊験のある物になりました。あるいは金持ちになりたい、魅力的になりたいなど、そのような霊験のある仏像に依存します。こういうのも「宗教を物質の奴隷として使う」と言います。そして今どんどん増え、飽和点に達すにはまだ時間があります。

 臆病や愚かさが飽和点に達すと、少しずつ溶けて、別の時代になります。今は増えている時代で、飽和点に達せば下がります。滑稽なのは、お守りがない西洋人も好きになって最高に高いものを買うことです。そう聞きました。こういうのは昔はありませんでした。

 私は、西洋人は賢いと尊敬したことがありますが、臆病で愚かな人の仲間になりました。西洋人はタイ人より臆病なので、愚かさもより愚かです。だからみんなで宗教を政治の奴隷にし、物質面に奉仕させ、神様を死なせ、タンマを死なせ、儀式だけします。こういうのを私は「世界の人間の最高の精神面の衰退」と言います。

 次に行動面を簡単に見ると、人間は今まさにこのような症状で神様に反逆し、プラタムに反逆し、自然に反逆して、神様、プラタム、自然と呼ぶ物に対して正直でなく、忠実でなく、身も命も捧げません。神様を持ちたくなければ、あるいはプラタムを信奉したくなければ、確実不変の自然の法則を信じてください。

 人間は今(それらを)騙して、避けて自分の利益を求め、自分の利益のためにこれらを使います。敬意、あるいは忠実を使いません。いつでも前で拝んで後ろで騙し、そして神様、プラタム、あるいは自然のものを盗んでしまいます。これは、正義や公正など何も考えずに、たくさんの物を自分の利益に、自分の皮膚の利益にするという意味です。

 そして同時に、今重い罰を与えている神様、プラタムのことを考えないほど愚かです。誰が神様の物を盗むこともできます。しかし神様が罰を与えているのは見えません。これは最高に可哀想な人です。人間は神様の物を盗んで、そして何も知らず、あるいはすごく少し知るだけで、非常に困窮しています。これは神様の罰です。最後には、人間は神様と戦っている状況があります。

 みなさん、良く見てください。世界中の人間は、今神様と戦争をしています。みなさんが幼稚園児のように見るなら、人間は仲間同士で闘っているように、コミュニストと民主主義が戦っているように見えます。これを「みなさんは幼児のように見ている」と言うのをお許しください。

 民主主義とコミュニズムが戦うのは幼児のような闘いで、双方が戦っていることは事実ですが、その闘いは、神様の望みに逆らうものです。神様は闘いを禁じているのに、人は頑固で神様に挑戦し、戦って神様に当てつけします。だから誰かの望みに逆らうことを、私は、その人と戦争すると見なします。

 神様はそのようにさせたくありませんが、私たちはわざと神様を侮辱してそのようにすることが、どんどん増えています。神様は皮膚に陶酔しないよう望んでいますが、私たちは神様に当てつけ、皮膚の陶酔をどんどん増やしています。神様は、自然にある神様の財産、資源を節約するよう望んでいますが、私たちは節約しないで浪費し、述べたように急速に消滅させます。

 このようにたくさんの、何十も、何百もの話は、神様に宣戦布告し、休まず神様と戦争する行為です。このような状態が見えれば、「大人のように見る。幼児のように見ない」と言います。

 人間同士で殺し合うことは、神様と戦争することで、極めて神様の望みに逆らうことです。これを「宗教が人間を管理できないので、人間が神様あるいはプラタム、あるいは自然と戦争をし、宗教面の破産でも何でも生じる」と言います。あるのは口だけ、気づかない、解決できない、解決する力がない、そしてどう解決したらよいか分からない大混乱だけで、タイも含めたこの世界に増えています。

 物質の時代は物質しか残りません。お寺、菩薩堂、仏塔、あるいは出家するだけの僧など、これらは物質で、物質と見なしてください。以前彼らは心の代表で、仏塔は精神面の輝きの代表でした。今私たちはこれらの物を踏みにじって価値のない物にし、欲しくない物にしました。仏塔に残っているのはレンガやコンクリートで、精神面の輝きではなく、昔のように、精神面の輝きを生じさせる助けになりません。

 今は自慢するため、観光や何やらの利益のためにあり、これもすっかり物質の話になりました。そしてどんどん酷くなっています。これを、宗教はこのような状態に踏みつけられていると言います。

 次は人になり、出家である宗教の担当者も、在家と一緒に物質の奴隷になりました。全部でなくてもそのようになりつつあります。出家も在家の尻を追って物質の奴隷になる人が増えています。伝統習慣でする出家、あるいは在家や世界と関わる状態で出家の義務をし、どんどん変化した結果、在家と同じ目的になりました。

 出家が在家のように良い暮らしを望めばぼんやりし、在家のように良い暮らしをしたがれば在家に、つまり在家と同じ物質の奴隷になります。だから僧は決して良い暮らしを望まないで、ブッダが暮らされたような暮らしをしてください。

 ブッダも今の私たちのように猫の皿でご飯を食べ、濠で水浴をし、ここのみなさんのように、死んでいるように暮らしました。猫のように、鉢に一緒に入れた食べ物を食べ、そして最高に自然な暮らしです。猫皿で食べ、濠で水浴をするのは、こういう意味があります。特別な物、豪華な物、便利な物は必要ありません。

 小川で水浴をしても良く、ほとんどがこのようでした。そうでなければ出家は在家のようにし、そして最後には在家たちのご機嫌をとります。それが破産です。つまり安定がガラガラと崩れ、出家は煩悩に抵抗することで在家を導くことができません。

 出家が煩悩に抵抗することに関して在家の指導者になれない。それが破産です。そして出家は愚かさによる依怙贔屓で、在家の好みや自分の煩悩の好みで宗教を布教します。これを「彼はモーハーガティ(愚かさによる贔屓)で宗教を布教する」と言います。在家を正しい道に引き寄せる人ではありません。これは在家の衰退の話でもあります。僧の衰退の話ではなく、煩悩に抵抗する善い指導者がいない在家の衰退の話です。

 「在家の制度の衰退は今どのようか、どのように増えているか、聞くと恐ろしい」と見えるように、項目別にお話しました。最後に「恐れてはいけない。みなさん恐れてはいけません」と、少しまとめるべきだと思います。それらの話にならない人たちと、私たちは離れてしまうことができるからです。

 みなさん「離れられない」と理解するほど愚かにならないでください。愚かな人は「友達が煙草を吸うから、私も吸わなければならない。私は一度止めることができたが、友達が来るとまた吸う」と言います。こういうのは、自分はこれらの人から離れることはできないと考えています。ここで私は「話にならない人たちから身を翻して離れて来られる」と主張します。話にならない人という言葉を使います。みなさんこの言葉を憶えてください。

 私たちは、話しても話にならない人たちから離れてしまう、強さがなければなりません。そして、あまり教育の話を膨張させないでください。親である一般の在家は、教育を膨張させて目を瞑ってしまいます。子供が出世するため、何かのために勉強させるのは物質のためで、勉強させるお金がなくても、自分は幸福が消え、教えが消え、規則が消え、正しさもなくなるまで、わざわざ苦労して貧乏します。子や孫の教育の膨張が、このように家族全体の困窮や混乱を生じさせます。

 みなさんが大きくなって、将来子や孫ができ、そして仕事がなければ、「勉強ができない」と、あるいは「勉強してもする仕事がない」と後悔します。誰でもこのように教育を膨張させているので、これは将来に起こる問題です。だからそのように膨れ上がらせないでください。後悔しないでください。

 上品な人であること、あるいは幸福な善人であることは現代のような教育と関係ないと憶えておいてください。現代のような教育とは無関係です。私は「人間が上品な人であること、あるいは幸福な善人であることは、現代のような教育とは無関係」と挑んで、断言します。現代式の教育は、人を善人にすることはできません。だから現代式の学校に入らなくても、幸福な善人になることはできます。

 私たちの祖父母や先祖は、このような勉強をしたことがありませんが、善人で幸福でした。だから勉強できないことを恐れないでください。勉強できない、留学できない、何ができなくても心配ないでください。私たちはこの種の教育に関わりなく、善人になり幸福になることができます。

 関われるなら、関わる機会と力があるなら、善人になり幸福になる道具として関わり、それを神様のように崇拝しないでください。物質に溺れる結果がある教育を、崇拝しないください。冒頭で述べたように、私たちを生き地獄に落とします。

 暮らしについて言えば、土の小屋に住んでも良いです。土の小屋に住んでいた時、人間は非常に幸福でしたが、現代のような建物や邸宅に住むようになった時、生き地獄になりました。仮に今、私は土の小屋に住んでも幸福になれます。そしてここのような、お寺の周辺のような田舎の小さな村に住んでも、クルンテープ(バンコク)のような、ニューヨークのような大都市のように暮らさなくても、幸福でいられます。

 (都会は)不潔と、心の面、精神面の焦燥の密林で、これから悪霊になってしまいます。後先も考えない競争の中で暮らし、首都の競争がいっぱいだからです。

 田舎に住んで、昔ながらの生活をしている人は、心の中に都会のような競争がなく、涼しさがあり、非常に清潔があります。このように見てください。そうすれば、そのような教育を受けられない、そのように暮らせない、そのように発展しないと心配しません。それは生き地獄に落ちるというような発展だからです。こう言うのは、「私はそのように発展しない」と心配しないよう、忠告するためです。

 そのような発展がなくても、善や幸福で暮らすことができます。そして精神の衰退はありません。みなさんは善い在家、あるいは善い世界の国民で、確実に四住期の形の発展があります。

 一度生まれたことを無駄にしないで、四住期で段階的に進歩し、世界を良く知った人になり、冷静さがあり、そして他人の明かりになることで、確実に正しい方法で他人を支援します。間違った道を歩けば別の方向へ行き、淵や地獄に沈みます。正しい道を行けば心、精神の清潔、空、静かさになり、善人になり、自分にも他人にも幸福があります。

 述べたような衰退に支配されないようにしてください。心の、精神の発達を発展させ、話にならない人たちから離れることができるようにしてください。そしてこれが神様、あるいはプラタム、あるいは自然でも、それが私たちにくれた民主主義です。どうぞ、この利益を得ることを知ってください。

 ツグミが、時間の終わりだと鳴いているので、これで終わります。




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