16.仏教の基礎である脱出

(仏教徒の文化)





1970年4月5日

 四時四十五分になりました。中途になっていること、在家に関わる話について、引き続きお話します。このシリーズの講義は、在家について話すつもりです。在家に関した話は基礎の話なので、善い在家なら、その後何でも善くでき、涅槃まで行けるからです。だから在家に関わる話を、あらゆる面、あらゆる角度から見ていきます。

 今日は、在家の基礎である脱出についてお話します。つまり直接宗教に関わる文化、あるいは短く「仏教徒の文化」と言います。それぞれの人間集団は必要やふさわしさに応じて、当然自分自身の文化が少しずつ生まれます。必要とふさわしさは、分けることができません。あるいは本当は言葉は別でも要旨は同じです。言語的には別でも、実践面では同じものです。

 必要は何かを生じさせ、それはいつでも必要にふさわしく生じます。すべての言語、すべての民族の文化はこのような状態があります。私たち仏教徒も仏教を受け入れた時に、自分たちの文化が生まれました。誰でも善い方を掴むのは当たり前なので、首を長くしてより善いものを探し、何か見つかれば自分にある物より善い物に関心を寄せ、受け入れることに興味があります。

 しかしそれは、熟慮して見る知性次第で、正しいか誤りかは知性次第です。愚かなら危険なものを受け入れます。しかし善い方を手に入れる望みで受け入れます。愚かなら悪い方を善い方にすることもあります。だから文化に関わる話、特に現代の文化の話には最高に注意深くしてください。

 これを呼ぶ言葉はたくさんあり、みなさんも日頃聞いています。私たちには文化、風俗習慣、伝統、慣習、いろんな儀式など幾つもあります。全部間違いであることも、全部正しいこともあり、知識と知性がどれだけあり、どれだけ介入するかによりけりです。

 それぞれの言葉で一番重要なのは文化(ワッタナタム)という言葉で、それは進歩発展を生じさせる道具です。私たちには風俗習慣、伝統、儀式があり、それは風俗習慣、伝統、儀式による文化に関わる実践規則で、その結果最高に盲信すれば、妄信文化です。

 ここで忠告したいのは、ワッタナ、あるいは発展という言葉は二つの意味があること、あるいは曖昧なことです。語句としては「増える」、あるいは「散らかる」という意味で、それがワッタナという言葉です。ひどく散らかって害が生じることもあり、草ぼうぼう、あるいは頭の毛が「ボサボサ」のようなのを、パーリ語でヴァッタナと言います。だから問題を生じさせて複雑困難にするワッタナです。

 「世界を散らかす人になるな」という言葉を思い出してください。この場合の「散らかす」もワッタナで、パーリ語はこのようです。私が発展について話せば、あるいは現代のようにワッタナという言葉を使えば、それは増やすことです。間違って発展すれば、以前より複雑困難になる方向へ発展します。これも時々あり、厄介な方へ発展し、何種類もの問題が重なります。

 今私は仏教徒の文化について話しています。仏教を根源とする仏教徒式の、物質的にも抽象的にも正しい発展という意味です。「仏教を根源とする」と言うのは、その文化は仏教の教えから伸びて来たという意味です。風俗習慣、伝統でしているなら、それが何から生じたのか見えません。何に由来していると見る必要はありません。先祖たちがして来たように残した手本でしています。

 そして時には霊験がある神聖な形にし、しなければならず、しなければ衰退する話、悪運になる話もあります。だから儀式になり、その結果私たちは何でも儀式である伝統習慣、形式でします。その結果「そのような儀式でする」と言い、最後には儀式だけになり、形式的と呼ぶ愚かさになることもあります。

 儀式ならまだ見事なのもあります。儀式という言葉は方法なので、正しい意味があります。そして協力して厳格な儀式にします。しかし度を越して形式的になると、私は迷信の範囲になると考えます。だから儀式は使い物になりますが、形式的なのは使えません。迷信である文化になります。これは由来や意味を観察する方法として話しています。みなさんも自分で考えてください。自分で熟考して見てください。

 次に「基礎の脱出」という言葉になりました。基礎という言葉もあり、一般の教えという意味です。偉大な脱出は仏教のヴィムッティ、解脱という脱出で、涅槃へ行くのは偉大な脱出であり、目的はそこにあります。こ次に「基礎である脱出」はどの場合でも、どの問題でも、あるいは在家の職務の中、どこででも脱出しなければならないという意味です。全部まとめて「在家の脱出の基礎」と言います。あるいは「在家の、基礎的な脱出は、宗教から伸びて来た文化次第」と言います。

 これも仏教教団員である在家であることを明示していますが、このタンマは場所や時間、人を限定しないので、どの在家にも使うことができる点が特別です。タンマは正しさなので、正しい話なら全部タンマです。今仏教教団員のために話していますが、自分が仏教徒であることに責任を持たなければならないので、仏教徒のもの、あるいはそれだけのものと言いがちです。

 私たちは他の側、他の人たちの責任を取る必要はありませんが、自分たちの側、つまり仏教徒の責任は取らなければなりません。私たちには、何も批判しないで行動し、そして全心、全力で行動している伝統習慣である文化があります。

 次は仏教に基礎がある文化と呼べるものは何があるか、分けて見ます。今私は仏教について話し、そして在家だけに注目するので、「在家の基礎である脱出」という言葉を使います。一つずつ見ると、勉強や理解、あるいは実践に便利なように一項ずつにできます。そして混乱するほど、複雑なほど、大変なほど沢山あるので、私の感覚では十項に注目するだけで十分と考えます。

 第一項は、勤勉と言いたいと思います。みなさんは、勤勉は宗教と関係ないと考えるかもしれません。そう考えるのも正しいですが、仏教はこれも教えていることを忘れないでください。ブッダが出家したばかりの時、マガタ国から来た見知らぬ客がピンピサーラ王に会い、どこの誰で、どこから来て、どうしたかという会話をしました。

 ブッダは「勤勉なサキャ一族の」と答え、それからいろいろ適当に話しました。しかしブッダは「ヒマラヤの山麓に住むサキャ一族は、勤勉な一族です」と主張したかったように見えます。だから私は、勇敢や何やらと一緒に、勤勉について思います。

 世界で生きて危機を脱すには、勤勉でなければなりません。そうでなければ生き残れず、脱出できません。闘いは本能の感覚ですが、勤勉も闘いの一つです。このような感覚が沢山あれば勇敢になり、合わせて「勤勉努力」と言います。これは自然が強制するので、あまり教える必要はありません。勤勉でなければ死んでしまい、今まで生き残っていません。

 特に現代社会は、知らないうちに非常に勤勉になっています。私は「勤勉な人はブッダの血筋」と見なします。ブッダはそのような教えを教え、私たちタイ人も勤勉努力があり、いつでも闘いがありました。つまりこの土地(インドシナ半島)まで移動してきました。

 これはみなさんも良く知っています。タイ民族の歴史は、タイ(自主独立という意味)という名にふさわしい勤勉努力と勇敢が習性としてあるので、危機を脱して来られました。何に勤勉かと言えば、義務に勤勉で、何の義務かは、危機を脱す義務です。だからこの勤勉努力は、最初の、基本の危機を脱す道具です。

 二項目は、礼儀正しいしとやかさについて話したいと思います。礼儀のあるしとやかさもタンマの教えです。庶民の、あるいは血統の、肉の、あの国この国、あの民族この民族の風俗習慣、伝統と捉えないでください。本当は仏教の教えです。礼儀正しさには嫌らしさがなく、しとやかさは可愛らしくするもの(可愛げ)があるという意味です。

 それで私たちは嫌らしさがなく、そして可愛らしくさせる部分があれば、出会った人に勝つので、出会った人、お付き合いする人の心情に勝つ道具、あるいは何か特別な威力の一つです。だからある時ある時期ある時代、私たちは力の弱い人でしたが、それでも力の強い人に礼儀正しさや穏やかさで勝つことができ、悪い出来事も温和さを知ることで、今日まで国を危機から救うことができました。

 昔の人は「草藪を見なさい。風が吹いても折れない草藪を見なさい。固い木は嵐が来ると、バタバタと折れてしまう」と教えました。子供も理解できます。ブッダは極めてこの話を理解されたので、いろんな律を初め、しとやかさを教えました。みなさん、主たる教えであるパーティモッカ律と、パーティモッカ以外の律、いろんなアビサマーチャーラ(正品行)を調べて見ると、言葉や態度、いろんな物の使い方にしとやかでないことがたくさんあるので、律の罪科の話、アーバッティに気づきます。

 このしとやかさは、分岐した他の基礎の教えを生じさせ、そして最高に重要なことは、年寄りに対して礼儀正しくしとやかであることです。簡単に言えば「年寄りの言うことを聞く」で、これは昔は非常にたくさんあり、「百パーセント」と言います。そして今は何パーセントも残っていません。子供たちが「老人は愚かで騙され易く、進歩しない」と自慢するからです。

 老人たちがしない種類の勉強をたくさんする子供は、老人を敬うことが少なすぎ、心がその分だけ強情になります。しかし「自分はできる、能力がある、善いものがある」と考えます。これは注意深くしてください。年寄りは愚かかもしれませんが、私は「必要でないこと、必要でないものを知らない愚かさ」と言いたいと思います。年寄りは、生活に必要ない話は子や孫より愚かですが、生活に必要なことは常に年寄りの方が賢いです。

 膨れ上がった話は、必要以上に膨れ上がった話はみなさんの方が年寄りより賢いかもしれません。しかし必要なこと、本当に危機を脱す援けになる話は、見てください。頭が古いと見ている両親、先生の方が、どの場合にも達人かもしれません。その方々は、みなさんが命の危機を脱せるよう育てることを知り、そして自然の基本の感覚による自然で簡単な教えがあります。

 これをまとめて「誰に対しても、特に年長者に対して礼儀正しくしとやか」と言います。友人同朋・家の客、国の賓客の話は礼儀正しくしとやかでなければならない状態にあります。

 次に初めの二つはペアで、一つは強く、もう一つはしとやかですが、それは矛盾しない別々の側面です。敵や障害に対して強く、しとやかであるべき時にはしとやかで、別々の場所で使う道具であるしとやかさがあり、互いの障害になりません。強さが頑固になるのを防ぐために、私たちにはしとやかさがあり、そのしとやかさを弱くしないために強さがあります。

 第三項は恩を知ることについて話したいと思います。恩を知ることは、昔から教えとされてきた善人かどうか人を測る物差しです。恩を知らない性質は危険を意味し、付き合ってはいけません。精神面が残虐で凶悪過ぎ、恩がある人に有り難さを感じず、愛しません。昔の人はよく犬を引き合いにして、「犬は非常に恩を知っている」と言いました。犬はこの感覚に敏感ですが、猿、オナガザル、テナガザルなどはこの感覚がありません。

 私は、テナガザルは恩を感じる方法がないので毎日餌を与える人に噛みつくことができる、と観察して見ています。沙弥も噛まれたことがあり、台所の女性も噛まれたことがあります。アレの感情はいつも煮えたぎっていて、悪い感情になり易く、それで噛みつきます。餌をやる時、期待より遅いと噛み付きます。

 必ず噛まれるのは、入って行って餌をやる前に戻る動きをすると、毎日餌をやっているにも関わらず、飛んで来て噛みます。しかし犬を見てください。叩いても噛みつきません。

 私たちが望む「恩を知ること」は、本能以上の感覚、考えの話で、そして訓練しなければならない話です。何千年も前の古代の民族には、この教えが沢山ありました。この世界には中国、エジプト、インド、あるいは同じように古い古代の民族がいました。中国の恩返しの話「二十四孝」は、絵を展示している建物に描いてあるので、みなさんも行って「ああ現代は、嘲笑する滑稽な話になった」と熟慮して見てください。

 過去に本当にあった話です。彼らは恩返しに酔い、恩返しに陶酔したように子孫に教えたので、それもあり得ます。しかし現代になると、バカな話、愚かすぎる話になりました。

 母が蚊に刺されないように自分が身代わりに刺された話、水を手に入れるために氷の上に寝て、母に二匹の魚を差し上げた話がありますが、こういうのはあり得る本当の話と、誰も信じません。それは現代人の感覚を標準にするからです。昔の人のタンマの陶酔を標準にすれば、それはあり得ます。彼らは何代も何十代もそのように教え、孝行に関してそのような習性の子になるまで教えたからです。

 しかし私はそこまでは望みません。この話を話して聞かせ、あるいはこの種の絵をありありと描いて見せるのは、孝行な習性を生じさせる一助にしたいだけです。氷の上に寝て氷を溶かして魚を獲り、病気の母に食べさせた子の絵を見せるのなどは、心は実話と信じなくても、同時にその絵を見た子にふさわしい孝行な考えを創ります。だから私はこの種の絵をたくさん描いて、知らないうちに心に孝行を生じさせる導火線にします。

 中には「あり得ない話を描いて、邪魔で目障りで場所塞ぎだ。、あるいは子供に嘲笑させる」と言うほどバカな人がいます。しかし年寄りは例のとおり賢いです。愚かだと文句を言われる年寄りは、この話をそのように話して聞かせると、あるいは絵を見せると、例によって「見た人の心に恩を感じる気持ちの導火線に火を点ける」、あるいは「準備になる」、あるいは「維持されるのを期待する」賢さがあります。

 だからみなさん良く観察して見て、恩を知ることは危機を脱す道具であることを忘れないでください。人が父母に孝行しなくなれば、この世界は沈没するので、私たちは、利益があり恩があるすべての物に恩返しをしなければなりません。家の中の生活用具や道具の恩を知れば、あまり壊れず、紛失せず、あるいはいつでも心に忠告するものになります。

 この県で昔、しかしまだ話されていて、自分で見た人もまだいるある中国人が、中国から天秤を担いでやって来て危機を脱し、女富豪にまでなりました。そういう人がいます。その人は天秤棒に金箔を貼って崇拝したと言います。これは物質にも恩を知る習性です。私たちも道路、渓谷、沼、運河、池、水路、すべての恩を知らなければなりません。そうでなければそれを維持せず、有益に使う方法はありません。

 畜生のレベルにも恩を知らなければなりません。それは同じ世界に生きる友で、世界を住みやすくし、見事にし、あるいは利益があるようにし、美しくさえしています。蝶や鳴く小鳥がいることにも感謝し、恩返しをし、それらが危機を脱すよう援けなければなりません。更に人間同士は世界を共にする友人で、知らないうちに助けられているので、恩返しをしなければなりません。

 私たちが強く、あるいは賢くなるのは敵のお蔭なので、敵にも恩返しをしなければなりません。少なくとも「敵が私を賢くする」と感謝します。しかし恩返しをするかしないかは別の話です。恩返しは報いることで、感謝、あるいは恩を感じるのは心の中の感覚です。どんな方法で敵に恩返しをするかは、その人を善人にするだけです。これが敵への恩返しです。

 ここまでできれば、恩返しの面で最高に素晴らしい人間、最高に善い人間です。恩を知る人ばかりなら、この世界は殺し合って戦う隙はありません。それは「人間は世界を共にする」と言う、分けることができない関係で、相互に利益があり恩があります。

 第四項は真の戒について話したいと思います。「正直」という言葉は少なすぎるので、ここでは正戒という言葉を使います。タイ人の文化は種族の始まりから戒があり誠実がある人もあり、そして仏教を受け入れた時に増えました。この戒や誠実があるのは、みなさんもどういう意味か理解できます。正直で、誠があり、戒つまり人間同朋に対して危険のない実践があります。

 人間同朋に対して危険な行動をしないことを「戒がある」と言い、人間同朋に対して誠実であることを誠があると言います。戒があり誠があれば加害できません。そして信頼できる人です。だからお寺の言葉、昔の言葉と見下さないでください。今人間は非常に戒がなく誠がなくなっていて、利益である皮膚面の楽しさ、美味さの道具の奴隷になっているという意味です。

 それは、私たちに少しずつ戒と誠を見過ごさせ、戒と誠を侮辱させる威力があり、生活が支配するので、戒と誠を侮辱できます。これは、もともと戒と誠があることで脱出があり、何かがある、タイの個性にふさわしくありません。

 この言葉は非常に拡大でき、ヤクザな人、盗賊たちまで、戒や誠について規則がなければならないほどです。盗賊たちは一食でも食事をくれた人の物は盗まないなど、このようです。ある盗賊たちは、雨風を防ぐ住まいを一時期貸してくれた人の家には、泥棒に入りません。こういうのも、ヤクザな人、盗人たちも、戒や誠を神様や大事な物のように信じている戒の話、誠の話です。

 彼らが守らなければ、盗賊という仕事がある彼らも破滅し死滅します。だからみなさんたちのような善人に戒がなく、誠がないことについては言うまでもありません。詳しく話すには時間が足りないので、次回に話したいと思います。

 第五項は節約の話です。節約について話すと、ほとんどの人は仏教の教えに依存する必要はないと考えます。そう言う人は、仏教の教えは最高に節約する話と知らないことを意味するので、いろんな律の話、タンマの話を見てください。

 律の中のパーティモッカ(二二七戒)とアビサマーチャーラ(正品行)に、節約しない人、生活用具を乱暴に使う人、時間を節約しない、力を節約しない、利益のあるものを価値に見合うように節約しない比丘に罰を科す項目が何項もあり、大便を力んで排泄するのを禁じる規則まであります。

 これも節約の話で、病気を治療する薬がない貧しい人の立場の節約の話ですが、大便を力んで出すことは何種類もの病気、特に痔疾などの原因なので、病気を生じさせない節約です。これを最後に話して見せます。

 サンドーサは節約の基礎なので、節約と言えば「サンドーサ(知足)」について話さなければなりません。「サンドーサは弱くする、怠け者にする、勤勉でなくする」と誤解する人がいます。それは愚かな人が言うこと、仏教教団員でありながら仏教を知らない人が言うことです。サンドーサは心の力を生じさせます。手に入れた物、所有している物に満足すれば、心に力が生じて落胆、無気力、倦怠を補償して涵養する力になります。

 だからブッダは「サントゥッティー パラマン ダナン=サンドーサは最高の財産」、つまり最高の財産のように満足させると、このように教えられています。農家は一回土を掘り返して、一度掘り返したとサンドーサで満足し、もう一度掘り返して満足します。次に他の農家が「こりゃあ、やってられん。苗を植えて実るまで後どれだけやったら終わるんだ。それなら盗んだ方が良い」と言えば、このように正反対に違います。

 サンドーサは常に心を涵養して満足させ、喜ばせ、そして節約させるので、必要以上の物を持つ必要はありません。今私たちは西洋の尻を追い、愚かに頭を下げて幾つもの項目で西洋の尻を追い、生活に必要のない物を持とうとしています。目・耳・鼻・舌・体・心を通した美味しさの話に夢中になっているので、タイ人はサンドーサでないことにどんどん支配され、節約できません。

 今給料が足りない問題は、重要部分である節約しないことに原因があります。節約する習性があれば足ります。足りなくても困りません。まだ必要がある時は不足でも喜びがあり、そしてあるだけで満足できます。「欲しいものが手に入らなければ、今あるものを喜ばなければならない」という不変の教えを遵守します。学校で学んだことがある学生は、一般の金言であるこの言葉を聞きます。

 節約について話す時、プラアーナンダが仏教を信奉しない邪見の王に、節約する話で仏教を信奉させた三蔵の話を例にしたいと思います。その王は見下して挑むように「この僧はバカばかり」と言い、そして偶々チーウォン(衣)をどう使うか質問すると、プラアーナンダが順を追って、「クティがアブ、蚊、風、陽射し、寒さを防ぐように、クティであるチーウォンがあります」と答えました。

 破れたらどうする。このように継ぎを当てます。

 非常に古くなったらどうする。二重にします。一枚が擦り切れても、二重に補強します。

 継ぎをしても擦り切れて使えなくなったらどうする。それは寝る時敷く布にして、畳んで敷いて寝ます。

 それがボロになって、そのようにできなくなったらどうする。何度も畳んで小さくして、座布団にします。

 それもできないようになったらどうする。そうしたら足拭き布にします。

 足拭き布にもならなくなったらどうする。そうしたら燃やして灰を土と牛糞と混ぜ、クティの壁に塗って新しくします。

 これは、土でできたクティは古くなると醜く、汚く、臭くなるので、このように混ぜた水で撫でるという意味で、生活には灰も必要です。燃やして出た灰まで使って水と牛糞と土と混ぜて、壁に塗って美しくし、醜さを消します。その都のヤクザな国王は、それで仏教に帰依しました。

 みなさんは仏教の教えの節約、つまり楽しさや美味しさのための節約、あるいはケチで有益に使わないなど必要のない節約ではなく、利益がある節約を見ます。

 ここでの節約は利益であり、節約と利益を休まず見て、最後の瞬間まで見ると、サンドーサによるものです。持つ必要のない物を求めて混乱し、時間を無駄にしません。必要なだけを求めて所有し、そして最後まで有益に使います。

 必要以上に求める決意は罪で、必要以上に蓄えるのも罪で、必要以上に使うのも、極めて罪です。みなさん、それは最高に罪で、他のたくさんの悪や誤りをさせる根源と憶えておいてください。必要以上に求めるのは現代の人間と同じで、必要以上に求めれば殺し合い、休む術はありません。これは必要以上に求めます。

 仏教の教えでは『アティローボー ヒ パーパコー=貪りすぎるのは下賎』とあります。貪りすぎるのは下賎で、アティローボー=貪りすぎ、ヒ=も、パーパコー=下賎。つまり欲しがって、そして必要以上に求め、必要以上に所有し、あるいは必要以上に使うのは下賎なものです。他の宗教、キリスト教などもこのように教えています。必要以上に求めるのが罪なのは、神様の望みに反すからです。節約とサンドーサの話をこのように知ってください。

 第六項は慈しみ、寛容な心です。メッター(慈しみ)は、ミトラ(友情)という意味で、ミトラは愛の感覚、あるいは善意です。タイ人は仏教の威力によるメッターがあります。みなさんは、西洋人がタイ人の寛容さを称賛して現在の新聞のあちこちに書いているのは、私たちは西洋人より利己主義が少ないと言うことができる、と見ることができます。

 西洋人は何かが目隠ししているるような深い利己主義を教える先生で、身勝手でないことではありません。私たちは基礎である仏教の教えで利己主義を無くす慈悲(メッター・カルナー)があります。

 昔からこの辺りには「鳥が喰えば徳になり、人が喰えば布施になる」という言葉が至る所にあります。「鳥が喰えば徳になり、人が食えば布施になる」というのは、彼らは自分で実を取ることを望まずに、蒔いて育てるという意味です。あるいは自分が収穫することを望んでも、鳥や動物が喰って(自分が)食べられなくても徳になり、他人が盗んで食べてしまえば布施になるので自分は困らず、自分で食べるより却って徳になります。

 これが基礎で、このようです。だから慈悲に溢れていて、盗んで食べる泥棒に怒らず、食べに来た鳥や動物を撃たず、それらに食べさせます。その分も作っているからです。

 私はインドの祇園精舎に近いサーヴァッディーで、田んぼの所有者は骨と筋だけの体で稲を刈っていて、傍で猿が一斉に食べているのを見ました。飼い主がいない猿が、稲刈りをする人と競争で食べていました。それも「ああ、昔のタイの人の文化と同じだ」と感じました。「鳥が喰えば徳になり、人が食えば布施になる」は、動物も愛すよう教える宗教の威力です。動物も食べなければならないので食べさせ、作る時は余分に作ります。

 私たちタイ人は、そこまででなくなってしまったんじゃないでしょうか。しかしまだメッター・カルナー(慈・悲)はたくさん残っていて、寛容な心があり、客が来たら食べさせなければならず、どんな種類の客でも必ず食べさせます。時には盗みに来たと思う人でも、食べさせなければなりません。そしてこれをヤクザな人から守る鎧にし、愛を道具にして憎しみや怒りに勝ちます。寛大な心、情け深い心、慈悲があることについて、たくさん考えて見てください。

 第七項は忍耐です。仏教ではカンティー(堪忍)と言い、この堪忍がある人は強いタンマがある人です。難しいからです。堪忍はし難しく、私たちは知らないうちに怒りを生じさせます。習性を訓練して文化の中、血の中で熟させなければ、堪忍するのは難しいです。

 例えば同じインドシナ半島のカンボジアなどの国は、堪忍がないために国の独立性を失いました。歴史の本を読んだことがありますが、タイの指導者は、フランスが威圧してきた時、忍耐で勝利することができました。忍耐が自制させ、回顧させ、考えさせ、条件を緩和させ、受け入れるべきことを受け入れさせたので、危機を脱すことができました。

 これは本当の世俗の話ですが、忍耐で危機を脱すことができました。もっと高いタンマの話は、非常に必要です。だから、まだこのように若いみなさんは怒りを生じさせないで、感情に振り回されないで、堪忍する練習をたくさんしてください。

 長期間の堪忍は待てることで、待てるのは長い期間です。私たちの子供は小さな時から忍耐できなくで、小さな時から好色で勉強が挫折します。こういうのは忍耐がないからです。だから堪忍という言葉は意味が広く、何でも忍耐すること、そして煩悩の抑圧に忍耐することとまとめます。

 次に堪忍は明るくなければならず、微笑まなければならず、胸の中が焼かれるような苦ではありません。そういうのは危機を脱せません。明るさがあるようにするために排出させ、何でも解決しなければなりません。パーリ語ではカンティ=忍耐がある、ソーラッチャ=明るい微笑みがあると言います。カンティとソーラッチャは双子です。

 第八項は、容赦することについて話したいと思います。赦すことができ( tolerance )、相手が赦さない時は、自分が赦す側になり、あるいは双方が「赦す」と言います。赦して罪と見なさないことを、容赦すると言います。今は「俺、俺の物」が著しくて赦しません。「俺は正しい側なので何も譲歩しない」という狂気で妥協できません。

 本当は赦す人、容赦する人が勝者で、容赦できない人は愚かな敗者です。容赦したら敗者の側と理解しないでください。ブッダは容赦する人を称賛しています。今生じていて、拡大しつつある悪いことをすべて消滅させ、そしてもう一方の人を容赦し、自分が悪くなくても悪いと容赦し、あるいは事を静めるために何でも容赦します。ブッダはこのような人を称賛しています。

 だから容赦できること、あるいは赦すことは極めて必要です。それは基本的な文化で、私たちタイ人は歴史の中で常に容赦してきたので、いつでも許し合う伝統習慣があります。僧が勤めをするように、勤めとして容赦するよう教え、赦しを乞い、赦しを与えるのは日常の教えです。みなさんは雨安居していないので勤めの儀式を見ていませんが、他のを見てるかもしれません。

 第九項は煩悩の言いなりにならないことです。これは他の項目と分けたいと思います。本当は他の項目の中にありますが、分けて重要な教えとしてハッキリさせます。煩悩の言いなりにならないことは、彼らが一般の言葉で言うような低い気持ちに従わないことです。

 心には低い気持ちと高い気持ちがあります。次に低い方の気持ちの言いなりにならないで、高い気持ちをしっかり掴めば、煩悩の威力でしません。煩悩の威力に従わないでタンマを基礎にし、プラタムに従います。対で書けば「煩悩に従わず、プラタムに従う」と言い、プラタムの目的に従います。

 煩悩の言いなりは西洋の尻を追う原因です。これは西洋を非難しているのではなく、時間の節約のために「皮膚の、物質の、materialism の幸福だけを考えている」と言います。西洋人は、彼らに豊富にあって陶酔しているものを materialism と見なしませんが、仏教の教えで見ると、ああいうのは全部物質主義、欲しい気持ちの言いなりになる物質の話、あるいは煩悩の話で、満足を知らず、過剰を知りません。

 私たちは自分を管理して煩悩に従わないようにし、プラタム、あるいは西洋人が「死んでしまった」という神様の心に従わなければなりません。神様はまだいるので、私たちは神様に従わなければなりません。つまり煩悩の言いなりになりません。神様は私たちを護り、西洋の尻を追わないよう私たちを守るお守りです。

 みなさん、ノートしておいてください。「煩悩の言いなりにならないことは、タイ人の最高の文化」です。煩悩の言いなりになれば煩悩の奴隷であり、タイ人であることが失われます。タイ(という言葉)は(自主独立であり)奴隷でないからです。これは話しました。煩悩の言いなりになれば、頭まですっかり奴隷で、奴隷であることに頭まで浸かります。

 最後の第十項をまとめて言うと、自分自身の手本があることです。仏教徒は、食、住、眠、寝、生、老、病、死、どんな場合にも仏教徒の手本があり、これだけで十分です。食べること、眠ること、生老病死に、私たちの手本があり、誰の尻も追いません。詳細は仏教徒である在家はどうしなければならないか、初めの講義でたくさん話しました。

 これも「輪廻の中の、この宇宙の中のすべての物はどのようか」、世界を知り、自分を知り、何も「俺、俺のもの」と執着しなくなるまで知るからです。これが「俺、俺の物」と執着しなくなるまで自分を知り、世界を知ることです。だから仏教徒の手本である特別な「食、寝、生・老・病・死の実践規則」が生まれます。

 だから「自分の手本がある。仏教徒の手本、自分自身の手本がある」と、一般の問題を解決する教えとして守ってください。昔からある手本でします。あるいは少しずつ手に入れ、同じ基礎があることで、つまりすべての物を真実のままに正しく知ることで増やしていくこともできます。知れば正しい手本を持つことができます。これが最後の項目です。

 すべては仏教徒の文化であり、そして在家の基礎的な脱出の教えと捉えてください。

 勤勉、勇敢、プラタムで死も受け入れることが第一項です。

 第二項は礼儀正しくしとやかで、年寄りに聞き従うまで拡大します。

 第三項は恩を知る。

 第四項は戒と誠がある。

 第五項は節約、サンドーサ(知足)。

 第六項は慈悲、寛容、情け深い心がある。

 第七項は堪忍、忍耐、明るい笑顔もある。

 第八項は容赦で赦すことができ、いろんな事を静めるために容赦する側になる。

 第九項は煩悩の言いなりにならず、プラタム、あるいは神様の心に従う。

 第十項は、食、住、寝、生老病死のすべての場合に、仏教徒だけの手本がある。

 全部を「仏教徒の文化は、仏教徒である在家の基礎、脱出の基礎」と呼んでください。最終目的に行く、つまり輪廻からの解脱を支援する基礎です。これが仏教徒の文化です。このように広い範囲があるものです。現在も一般在家の基本である脱出です。

 子供も大人も、女性も男性も、四住期のすべての段階、つまり学生も在家も隠遁者も遊行者も、関心を持ってください。

 時間になりました。ツグミも蝉も時間だと鳴いているので、これで終わります。




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