15.在家の力





1970年5月2日

 四時四十五分になりました。今日は「在家の力」についてお話します。力というものは、成功を生じさせる道具なので、すべての成功を生じさせる道具に注目して、広く熟慮しなければなりません。

 そこで今まで話したこと、特に在家の理想について、思い出してください。それは広く、あるいは高くなければなりません。つまり在家という意味を、稼いで家を治めるだけと捉えず、在家は目的まで歩き続ける旅の、ある部分を歩いている旅人という理想を持たせます。

 四住期である梵行(学生)期、在家期、隠遁期、遊行期を思い出してください。これを「人間の最高に遠い目的、あるいは腹と口だけの狭い意味でない、広い意味の人生の目的がある在家」と言います。そして在家の聖人がいるくらい、在家という言葉に重要性を与えることもできます。少なくとも在家であるボーディサッタ(菩薩)になれます。

 そして畜生の中にもいるボーディサッタについて述べている私たちの経典を思い出し、聞ける話、理由がある話、本当の話と見れば、ブッダである種、あるいはブッダである自然、あるいはブッダであるダートゥ(要素。界)は畜生まで、動物全般にあり、それには開花しつつある賢さがあると、よりハッキリ見えます。だから彼らは、畜生でもボーディサッタになる状態で描いています。

 みなさんも聞き慣れている猿が耳を洗う話などの見本があり、ジャータカの中の幾つかの話は、ボーディサッタは信じ難いような、ナマズか何かの魚です。ナマズのようなのは、誰でも愚か、あるいは低い、あるいは何か過ぎると見ていますが、それも動物ということを忘れないでください。まだ開花しないだけで、その命の中にブッダの種があり、少なくともこれから開花しようとしています。

 だから私たち人間は畜生に劣るべきではないと、自分に時々言い聞かせるべきです。不注意になれば、傲慢になれば、知らないうちに畜生より劣る機会、あるいは部分があります。時にはこの理由で停滞して不注意になります。特に現代式の勉強をする人は、不注意になる隙、あるいはこの誤解が非常に多いので、物質面の話に迷いすぎます。

 だから力の基礎、あるいは力をもたせる基礎は理想です。理想を思うことを忘れないで、理想と呼ぶものをいつでも心の中で輝かせてください。少なくとも理想はその人の力であり、良く見れば、理想は基礎である力と見えます。みなさんが理想のない人なら可哀想です。理想があることは何かを知っているという意味で、少なくとも、何が何かということを知っています。これが基礎であり、力の出発点です。

 次に仕事を良く達成させる力についてお話します。提出された質問にもこれがありましたが、働く疲れを防止、解決する形で話します。私は広い意味の力について、仕事をする力を生じさせる、あるいは働いている時の、あるいは働いた後の力について話します。

 働く前も力があり、働いている時も力があり、働き終わっても力があるという意味で、疲労困憊しません。これを正しくしなければ自信がなく、疲れ、散漫になり、働く前、あるいは働いている時、あるいは仕事が終わっても疲労と倦怠があり、知らないうちに人生は苦になります。

 力について話す時、私は全員について、そしてどのグループについても話していますが、正しいか否かは、まだ問題であると、良く観察して見てください。そして人が非常に物質を好めば物質的な力、あるいは物質に関わる力だけを目指し、お金の力、財産の力、使用人や友達の力、あるいはいろんな魔術の力などの方向になります。

 次に力に関する話なら、四つの力があるなど最高に広い教えにすべきと、良く見るようお願いします。一番は体の力、二番は心の力、三番は智慧の力、四番はタンマの力、あるいはプラタムの力でも良いです。体の力、心の力、智慧の力、タンマの力。これも、一つずつ熟慮して見ていきます。

 初めの体の力は、健康、良い衛生がある体の力で、体の力と言います。体に関わりがあればこの項目に含まれ、同じ物質の仲間です。だから財産の力、友達を援ける力から、例えば女性は力である美しさがあり、美しさが多ければ、何かの威力をたくさん使うことができるなど、他の力をもたらすいろんなマヤカシの力などで、「魔術の力は、物質面の省力機と同じ」と言います。このすべてを体の力に含めてください。

 体の力という意味の力、強制する力を使いたいので、何種類、何十種類あっても、すべて体の力の仲間です。例えば女性の美しさは、男の首を引っ張って奴隷のように使う力がある。こういうのを「体に関わりがある力」と言い、全部体の力に含めなければなりません。それは何種類、何十種類あるか、自分で分類して見ることもできす。しかしまとめて体の力と言い、財産の力、友達が助ける力、間接と呼ぶまだたくさんの種類の力に、拡大します。

 これについてはたくさん話しません。探して読んでも良いし、あるいは既に知っているか、あるいは教科書でも読むことができ、何も難しくありません。

 心の力、心の力という言葉は、ここでは智慧の力から分かれました。智慧は三項目なので、智慧と一緒にしないでください。心の力は、希望から決意か何かまで、心の面の力がある心の流れを意味します。しかし私たちの経典の教えで言及する方が善いと思います。

 心の力は信仰、精進、サティ(注意力)、サマーディ(専心)と呼ぶ四つのものと明示し、智慧は三番目に保存しておき、パーリではバラ(力)とも、インドリア(根)とも言います。ナワコワーダの本にもあるので、読んで見てください。ここでは日常の仕事の在家の力はどのようか、という面だけをお話します。

 一番のサッダーは信仰という意味ですが、例えば希望、決意など、信じることから生じるもの、関わりのある何かを指しています。私たちが何らかの希望を持つのは、それを信じることがなければなりません。今は希望について話すことが多く、特に若い人は希望の話を拠り所にしています。「人生は希望によってある」と言うのは、絶望すれば自殺します。このような希望も信仰と呼ばなければなりません。

 本当はこの信仰は名のもの(抽象)で、物質の話ではありませんが、物質に関わらないではいられません。愚かな人は心だけで信仰できないので、物質に依存しなければなりません。特にいろんな霊験のある物、呪術であり、霊験である物は信仰を強くします。だから「霊験のある物」と呼ぶ物は、体の力に入れても良く、心の力でも良いです。霊験のある物を持っている人は体の面の活気があります。この種の信仰は、普通以上に体の力を生じさせるからです。

 しかしこの項目の信仰は、心の面の話である信仰と言いたいと思います。心の力による信仰があり、お守りなどの物質に関わらなくても、基本の段階の知識に関わりがあります。その中に良く入って信仰になり、仏教の信仰はカンマの話を信じ、大きな項目であるブッダの教えを信じます。カンマを信じ、カンマの結果を信じ、行動した人がカンマの結果を受け取ることを信じ、そしてブッダの大悟を信じます。

 これは、このような状態で言及した信仰です。信仰があれば心の力があります。だから自分に何か落ち度があるか、あるいは混乱しているか、きちんとしていないかどうか良く調べて見て、綺麗に片付けてください。

 二番目はヴィリヤ(精進)です。ヴィリヤという言葉は、このような所では心の力の呼び名で、今働いている労力を意味する訳ではありません。ここで教えたいのは、このように勉強をしているみなさんは、パーリ語は奇妙で、一語で関連するいろんな物を呼ぶことができると、まだ知りません。

 例えばヴィリヤ(精進)は、汗を流し垢が零れる努力を意味するのに使いますが、心を変化させて、その種の努力があるようにさせる心の中のものを呼ぶのに使うこともあります。心を「外部の勤勉」にする心の中の感覚、心所を、その人の心の感覚でヴィリヤと呼ぶこともあります。

 簡単な例では、体の面が静まって快適なことを「体の面の静まり」と言いますが、その原因は体の静まりの原因である心の感覚にあるので、その心所である心の感覚も、体の面の静まりと言います。呼び名はこのようです。例えば「カーヤパッサッティ」などは、体の静まりという意味ですが、心の中の名の物(抽象)、体の静まりを生じさせる原因の呼び名でもあります。

 ヴィリヤという言葉も同じで、彼らは心の中の感覚を意味し、それをヴィリヤと言い、それが生じて外部の努力を生じさせれば、それもヴィリヤと言います。そしてヴィリヤは、欲情の力の奇妙な名前で、欲情すると骨髄が炙られて粘液になって外部に流出しますが、このようなのもヴィリヤと言います。これは、パーリ語はこのように広く使うので、混乱して理解できなくならないよう言っておきます。

 もっと簡単な「ダーナ」という言葉は「布施をすること」とだけ知っています。しかしパーリ語では、内部から出す意味もあり、内部にあるという意味です。布施をする考えもダーナと呼び、我慢できずに布施をさせる原因である感覚、心所、それもダーナと言い、与えることもダーナと言い、与えた物質もダーナと呼び、布施する場所もダーナと言い、このようにたくさんです。

 一般原則として、パーリ語はこのように広く使うと知っておいてください。そうすれば非常に疑念が晴れます。ここでのヴィリヤという言葉は、「努力しよう」と意気込ませる心の感覚を意味します。

 三番目のサティは、サティの義務の中で極めて力があります。つまり感じていて、他のものが躓かないよう、あるいは間違って進まないよう、横道に逸れないよう管理するので、サティがあれば、ヴィリヤはいつでも正しく進みます。だからサティは、サティの力の話で欠かすことができない、もう一種類の義務の力に分けられます。

 四番目はサマーディと言い、直接心の力で、心の力の代表で、サマーディがなければなりません。しかしサマーディだけでは脱すことができないので、信仰、精進、サティがなければなりません。次にサマーディは訓練した心の力を意味し、訓練してなく、自然にあってもサマーディと言います。しかしここでは力と呼びません。

 サマーディの力と呼ぶものは、正しい方法で訓練しなければなりません。そうすればサマーディの力、あるいはサマーディバラです。サマーディの一種は自然にあり、私たちが何かをしようと決意するとサマーディが自然に生じます。それも力です。しかしここではそのような意味でなく、自分で生じさせたサマーディという意味にします。

 ある人が銃を持って撃つと、気づかずにサマーディが生じています。こういうのは自然の、自然に関わる、人の心の基本に関わるサマーディです。あるいはみなさんが数学を考えると、自然にサマーディが生じ、そして知性で考えることができます。

 このような自然のサマーディは、自然のレベルの力で、愚かな人にも愚かなりにあり、子供も子供なりにあります。しかし力(バラ)であるサマーディを狙うには、昔からの手本である、いずれかの方法で訓練したサマーディを狙わなければなりません。すべてはまだ中立と見なします。

 ここで「心の力」と呼ぶ信仰、精進、サティ、サマーディは、力と呼ぶものだけを指します。間違って使っても正しく使っても、同じ名前で呼ぶことができます。例えば間違って使うサマーディは他人を苦しめるために使うサマーディで、たくさんあります。

 チッタ(心)は、私たちはまだすべてを知らず、全部を知りません。しかし人間が知っているだけでも少なくはなく、ブッダの時代から神通力、魔力という類のサマーディがあるよう、心を訓練することもできました。少なくとも心の力を鼓舞して、自然の何倍ものことができると感じます。鬼や悪魔の話も、このように聞いて、考えて見てください。

 ラーマキエンのような本には「そう言って三回吹いて撫でると、すべての根の痛みが消え、このように、再び戦うことができた」と詩文にあります。クンパカンか誰か知りません。子供の時読んだことがありますが、今はぼんやりしか覚えていません。叩いたり殴ったりされて倒れ、、脚や腕を骨折し、そして訓練した方法で心を集中させてサマーディになったら、体中を吹いて撫でると、再び立ち上がることができます。

 あるいはアッタカターパーリの中の話に、プラモッガラーナが盗賊に骨を粉々に砕かれても、サマーディの心の力を集中し、空を飛んでブッダに挨拶に行った話があります。これが神通力、あるいは奇跡の面になるサマーディの力です。これが一つです。

 次にそのようなサマーディを、自分がしたい仕事に使うこともできます。このサマーディを聖向聖果涅槃に到達するために使うこともできます。サマーディの威力、あるいは利益はこのようです。それは、私が繰り返し話したようでなければならないということを、忘れないでください。サマーディには、純潔な心、安定した心、義務に敏捷な心の三つがなければなりません。

 心が純潔で清潔で、その時妨害する煩悩がなく、妨害する煩悩が空っぽで、そして盤石で堅固で強固な心なら、一つの感情しかありません。私はこれを「安定し、敏捷で、義務に慣れている心」と呼び、全部をボリストー(純潔)、サマーヒトー(安定)、カンマニヨー(義務に敏捷)と言います。

 カンマニヨーは仕事に敏速で、現代は active と言い、active という言葉は良く話されます。例えば「この人はアクティブ、あの人はアクティブ」などは敏速という意味で、感じるのが早く、体も言葉も、仕事に迅速です。サマーディは体を固くして目を瞑り、座って目を閉じる以外何もできないと理解しないでください。それはサマーディについて何も知らない人の言葉です。

 そしてサマーディの最高の利益は active、つまり義務に敏捷でジッとしてなく、考えることも、行動も、話すことも、どんな仕事にも敏捷で、心に力があります。

 この四つを心の力と言います。信仰=信じる力、精進=努力の力、サティ=思い出して感じるサティの力、そしてサマーディ=つまり心が最高度の力に達すこと。これを心の力と言います。一般の人も体の力、心の力について話し、みなさんも心の力について話していますが、正しくないか、あるいはこのように完璧でないかもしれません。考え直してしまい、勉強でも職務をする時でも、家を治める時でも、このような力があるようにしてください。

 次は智慧の力で、智慧の力は知識という意味で、知識に関わる何にでも拡大することができます。知識に関わる何でも、賢さ、能力、技能、すべてのテクノロジーは智慧、あるいは智慧の力に含めます。技術があることも智慧という言葉に集約されます。智慧の力は博識の力で、何を知るかは自分がすること、自分がする義務を知ります。

 次に入れ替えて使える名前、例えば技能、あるいは何か関わりがある知識、技術や天分か何かがあるなどは、現代は多分テクノロジーと呼びます。みなさんが神様のように崇拝しているすべての分野のテクノロジーの知識も、知恵の力で、まだ涅槃の話を意味しません。この知恵の力は、まだ正しさ、あるいは聖向聖果涅槃を意味せず、意味しているのは知識と心の能力だけで、誤って使うこともできます。

 世俗の言葉で知恵と呼ぶものは、間違った使い方をしても知恵と呼ぶことを忘れないでください。賄賂の面の知恵も賢さの中にあり、知恵の中にあります。正しいこと、すべきことだけをする知恵も、知恵と呼びます。ただの力について言えば中立で、間違ったことをするにも使え、正しいことをするにも使えます。

 中立の知恵は、何でも不正に使うことができ、これを英語で cunning と言い、チェコーという言葉に近いです。聖向聖果涅槃に行く本当の智慧、純粋な智慧は、一定レベルの智慧の話と見ますが、同じ名前なので、注意してください。

 次にみなさん、体の力とは何か、心の力とは何か、なぜ智慧の力を心の力の話に入れないのかは、ここでの智慧は心の知識、心の博識を意味するからと観察し、分けて見ることを知ってください。

 心の力は、良く訓練されて力が生じた心で、知識に関係ありません。一方の智慧は心の知識ですが、知識の部なので、私は智慧の力と言います。これは体も心も関わりがあります。智慧と心は体の中にあり、体は心の基盤で、心は智慧の基盤です。私たちは心の敷台である身体があり、心は智慧の敷台になり、関わり合って分けることはできません。心の中に智慧があり、心は体にあり、三つが依存し合っています。

 まだどこかに何かあるか考えて見てください。どこにあるでしょう。体の力と、心の力と、智慧の力があれば十分と考える人がいるように見えます。私はもう一つタンマの力である正しさの力を加えたいと思います。話した三つは正しさに関わりがありません。関わっているのは力で、力がたくさんあるだけで、まだ正しさと関わっていないからです。だから四番目にタンマの力を加えます。

 タンマの力、あるいはプラタムの力でも良く、これが正しさの力です。しかしプラタムの力と呼ぶ方が神聖で良いです。初めに正しさについて話す時、八正道、八聖道、あるいは中道を日常の教えとして思い出してください。見解の正しさ、望みの正しさ、話すことの正しさ、体の行動の正しさ、生活の正しさ、努力の正しさ、心がいつも思い出す正しさ、そしてサマーディがある正しさに分かれています。

 誤りなら邪道、あるいはミッチャーマッガ、あるいはミッチャッタと言います。正しければサンマーマッガ=正しい道と言い、誤りならミッチャーマッガ=誤った道と言います。誤った道とは、誤った知識や理解、誤った望み、誤った発言、誤った体の行動、誤った生活、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディで、誤りの側です。正しい側は仏教の本体、中道と言い、八正道とも、八聖道とも言います。

 そして正しさの力がなければならず、それがもう一度すべてを管理し、体の力を管理し、心の力を管理し、知識の力を管理して正しい方にします。広く言えば、タンマの力です。

 タンマの力は、間接的に関わりがある、たくさんの物に拡大できます。間違って使っているものを、指摘してお見せします。

 たとえば古い徳の力、昔積んだ功徳で、みなさんが以前にした善、美、正義など、たくさん積んだものが、ここで新しい力になります。善く行った徳や善の力を「以前に善く行動したカンマを、後のカンマを援ける善のカンマにする」と言います。しかし現代人は関心がなく、流れから退いて、これらのものを「幸運」「運」などと呼び、運が善い、巡り合わせが善い、星が善いなど、何かこのような言い方をします。

 それは愚かだから、愚かさの威力と臆病が合わさったからで、愚かさが臆病にし、臆病が愚かにし、互いに助長し合い、それで神や精霊や運勢や星を信じ、正しさ、あるいは本当の善であるカンマ、つまり功徳を望みません。彼らは同じ結果を望んで「幸運」を信じ、「吉祥時」を信じ、「神」を信じますが、本当に助けてくれるのは行動しておいた「本当の徳」で、それが幸運と知りません。

 もう一つ、チャオナーイ(王族)が助けてくれる、ワーサナー(福分)が助けてくれる、バーラミー(波羅蜜)が多い、ワーサナーの威力が助けると言うのに注目しても、過去に積んでおいた善、過去にしておいた正しさから脱せません。チャオナーイについては、本当のチャオナーイなら善いチャオナーイで、チャオナーイという言葉の意味で正しい本当のチャオナーイは善人であり、そして善行をした人だけを助けます。

 チャオナーイが私たちを助けるのは、私たちが善いことをするからです。これが「自分を助ける」という言葉の意味です。自分の善が自分を援け、自分の善が他人を強制して自分を援けさせます。

 ワーサナー(福分)バーラミー(波羅蜜)というものも同じで、正しく、そして本当なら、積んでおいた功徳、しておいた善行から生じます。バカみたいな精霊などによるワーサナー、バーラミーなら長くありません。あるいは何かの不正によるものなら、それも長くありません。

 だから初めの三つの力が正しく進むよう支配するために「タンマの力」「正しさの力」があり、体の力を正しく使い、心の力を正しく使い、知識の力を正しく使うと知らなければなりません。四つの力は、説明しきれない細々した小さなことがあり、力であるすべてのものを網羅します。みなさんも自分で考えて見れば、考えられます。

 次にこの四つの力の中で、どれが一番重要か考えて見ると、すぐに最後の、四番目の「タンマの力」「正しさの力」が最高に重要と見えます。これは spiritual な話、つまり最高に高い側です。体の力は体の話、物理的な話で、心の力、知識の力は普通の mental、あるいは mentality の話で、タンマの正しさの力は spiritual の話です。spiritual の側の力は正しさの極みに達します。

 私は、四番目の力は他の力より遥かに、最高に重要と言います。神様を信じれば「神様の力」と言い、神様を信じる人、本当に神様を信じる人たちは「これは神様の力」と言います。

 体の力、心の力、知識の力は自分自身のものですが、プラタムの力は神様がくれた力です。仏教教団員は神様を信じないので、プラタムの力と言わなければなりません。この正しさは自然のもの、自然の法則なので、このようにすればこのような結果が、そのようにすればそのような結果が、自然の法則で生じます。

 結果である側の自然の法則を正しく、そして自分が望むように知れば、選ばせるための自然は何でもあります。何でも自然のものです。私たちは、自然の法則で正しくする、自然の法則を使う知識があるという意味です。これがここにあるプラタム、ここにあるタンマです。

 中には大雑把に「それはやりすぎで、在家の話を超えている。そのように考えてはいけない」と考える人がいます。在家も最高まで高くなっていく心の力、精神の力を欲しがります。在家のための空の話を良く知ることもこの項目に含まれます。空の話は「在家も空がなければならない、空があれば永久に支援する利益がある」と長々と説明しました。空があり、心で執着しない実践があることが、在家を援ける最高レベルのタンマの力であり、どんな苦や焦燥も在家の生じないよう、すべて防止します。

 子が亡くなった、妻が亡くなった、夫が亡くなったなどの話が生じた時、焦燥せず、苦にもなりません。失敗して赤字になって破産しても苦でなく、あるいはどんな嫌がらせがあっても苦ではなく、僻んで苦になりません。「苦と名がつけば何でも私は欲しくない」と試すこともできます。それが空の力です。幸福、あるいは満足が訪れても嘲笑してそれの奴隷にならず、お金、名誉名声、幸運の威力の奴隷になりません。

 空はこのように援けることができます。だから空もプラタムの力と一緒にできます。それは最高に深遠で繊細で、日常生活の低い仕事を成功させることから、人間を援けてすべての苦に勝利させることまで、最高に spiritual な面の力です。災害が起きても泣く必要はありません。財産が生じても図に乗らず、身の程を忘れません。在家を支援する利益はこのようで、最高と言うのはここが最高です。

 だからみなさんが、現代人のようにテクノロジーだけを崇拝しているなら、「どれだけ聞く耳を持たないか、まだ耳を塞ぎ、目を瞑り、まだどれだけ不注意か」と言います。現代人の主義、現代人の教育ですれば非常に危険です。彼らはタンマの話を忘れ、見落とし、あるいは忘れ切って物質の話、皮膚の話にしているので、すべて間違った側の力、魔王の力、サターンの側の力になり、在家であることは生き地獄に落ちたのと同じです。

 知るべきことを知らないので煩悩に抵抗する力がなく、煩悩は反対に力を増すからです。煩悩に抵抗する力がなければ煩悩は焼き炙り、付きまとい、突き刺すので、私たちは苦しさに耐える在家、不潔な在家で、スライドで映して見たように、死んでも犬は喰いません。タンマの力がないからです。力のある在家なら、力のある在家は不能ではなく、そして目的に到達する力です。このようでなければなりません。

 今日お話したのは題目だけで、詳しくは探して読んでください。まとめると体の力が一つ、心の力が一つ、知識の力が一つ、正しさの力が一つで、すべてはタンマという一語になります。体の力も自然の仲間でありタンマで、心の力も自然であるタンマで、知識、あるいは智慧の力もタンマで、プラタムの力もタンマですが、一つ一つの話に分けなければ実践できないので、もう一段分類しています。

 体の力は、体を営養して力をつけ、良い食事をすることから、良く眠ること、何でも良くすることは衛生の話で、そして友達やその他の環境から体の力を取り囲む物を探します。例えば財産があることは体の力を増やし、人を雇って何かをさせること、あるいは省力機を持つこともできます。

 心の力は、信仰心、精進、サティ、特にサマーディがあるように訓練します。

 知識の面は限度のある知識にし、終わりがないほど浪費する知識、特に現代の哲学と呼ぶものにしないでください。この人が言うこと、あの人が言うこと、すべてが違うことを言い、論議するために何種類あるか知れないのは、羊と山羊を戦わせる終りのない話で、限度がないと言います。

 知識には、自分が知りたいこと、知るべきことの際限がなければなりません。私たちは自分だけの問題があり、その問題を解決し、最後にそれをタンマに、つまり正しくします。これは最高に重要な、しかし聞くと滑稽なブッダバーシタを思ってください。

 「ダンマン スチャリタン チャレー=タンマの行動を正しくしなさい」。タンマの行動を正しくする。これは、タンマの行動さえ、正しくしなければならないと、教え諭されています。つまり不正に行動することもできます。前で拝んで後ろで騙すこともでき、前で拝んで後ろで騙すようにブッダを尊敬することもできます。

 今みなさんは、このような規則があり、このような実践規範があり、その上この規則、この理想に忠実で、そして正しく行動しなければなりません。ここで学生は題目だけ勉強してまだ行動しないので、どのように不正な行動もできます。実践を始めたら正しく行動しなければなりません。何かをそのように騙して覆したと非難されないでください。

 次にまだ少しだけ残っている仕事で疲れる問題は、これらの力を使わなければなりません。私は有利に、あるいは自信を概略で答えることができます。疲れて働く気力がない、あるいは働いている時も疲れて挫け、その結果倦怠する。これは信仰・精進・サティ・サマーディ・智慧である五力、あるいは五根と呼ぶ教えで、新たな力を十分に創ります。

 今私が話している信仰・精進・サティ・サマーディがあり、詳細はナワコワーダの本、あるいはナワコワーダの説明の本で読むことができます。そして私も、先ほど重要な概要だけを説明しました。そして五番目の智慧で終わりです。

 信仰=信じること、精進=努力、サティ=思い出し自覚すること、サマーディ=安定した気力があり、そして智慧は知識です。述べた五種類は世界を覆ってすべての分野に使い、特に聖向聖果涅槃に到達するための実践を目指します。この五つはその目的のためです。

 そして知恵には悪知恵もあるので、ここでの智慧は本当の智慧でなければならないことを忘れないでください。その地下茎だけを求めると言うなら、本当の智慧、正しい智慧だけにするべきです。その種の智慧が基本で、ついて来る他の物を地下茎、つまり幾つもの房である地下茎と言います。

 房状の地下茎である智慧があれば、正しい智慧は望みどおり何でも揃って引き寄せることができるので、十分です。この考え方は他の側の本を読んでもあるので、ブッダ以前の昔のものです。彼らは、一般の教えに使う広い智慧というものを知っていて、私たち仏教の教典にも入っています。彼らは「パンニャー ヒ セッター クサラー ヴァダンティ=賢い人たちは、智慧は最高に素晴らしいものと言う」と、このように言います。

 賢い人たちという言葉を使うのは意味が非常に広く、賢い人なら誰でも、当然「智慧は最高に素晴らしい」と言います。「ナッカッタラージャーリヴァ ターラカーナン=恒星の王である月は、すべての星より際だっているように」。「シーラム シーリー チャーピ サタンチャ サムモー アヌヴァージカー パンヤヴァトー バヴァンティ=シーラも、最愛のものも、善行も、当然智慧の威力になる」。

 つまり智慧は善人のタンマと呼ぶものも引き寄せるので、智慧の威力になります。これらすべての言葉に関心を持ち、あるいは教えとして掴んで、この智慧を使って掻き寄せたい物すべてを掻き寄せます。だから力と呼ぶものは智慧次第で、そして四番目の正しさである智慧です。今日私が話したのは四番目の正しさの力です。悪にも善にも使える、変化する智慧は要らないので、ここでは話しません。

 これが在家の、涅槃へ行くために輪廻の中で旅している人の力です。これは家族の話、子供の話、妻の話、基本的な問題、地元の問題も含めて、このような題目で良く拭き取って片付けます。ノートの中の文字にしておかずに、何としてもそれを使い、何としても応用してください。

 ツグミが、時間の終わりだと鳴きました。




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