14.在家とボーディサッタの理想





1970年5月1日

 四時四十五分になりました。今日は在家とボーディサッタ(菩薩)の理想についてお話します。観察して見ると、私は在家の話しかしてなく、ボーディサッタの理想である今日まで、在家に関して話し続けていると見えます。要点はボーディサッタという言葉にあります。

 中には、ボーディサッタは僧なのか、それとも在家なのか知らない人もいます。この話も難しいです。ある人たちは一つの話を聞き、そしていろんなグループがあり、中にはボーディサッタに関わる規定、あるいは話を新たに創作した人たちもいるので、別の意味があります。

 しかしいずれにしても、ボーディサッタは出家も在家もどちらもあり得ます。そして大部分は在家です。テーラワーダでは畜生まで低くしていて、ジャータカの猿が耳を洗う話などでは、ボーディサッタは猿の王で、このようです。そして畜生から水中の魚、陸の動物、空の動物、人、樹神までいます。

 次にボーディサッタという言葉について熟慮します。ボーディサッタという言葉は、ボーディとサッタの二語でできています。ボーディは知識、あるいは最高の話を指す悟りという意味で、サッタは動物です。ボーディサッタという言葉はパーリ語の規則で、何種類もの接合形に変貌させることができ、接合句をどんな形に変化させるかで、どんな意味も捉えることができます。この接合句は、少なくとも三種類の意味になります。

 つまりボーディサッタとは「ボーディのための動物」、あるいは「ボーディのある動物」、そして「ボーディを使う動物」です。ボーディのため、ボーディのある、ボーディを使うと、少なくともこの三つあります。

 ボーディのための動物は、ブッダになるためにボーディを得る努力をしているという意味です。ボーディがある動物はボーディがあり、智慧があり、適度に何でもあるという意味で、ボーディがあるボーディサッタという言葉の十分な意味です。ボーディを使う動物は、その知性を使って自分のため、あるいは他人のための仕事である義務を行うという意味で、ボーディサッタという言葉に関わりがあり、自分と他人の利益になることをします。

 ボーディのために努力する動物という意味でも、幾つかは取りあえず自分のため、自分が悟るためで、他にもまだ他人を援けることを目指します。なぜ動物がボーディを持つのかは、自分を援け、あるいは同時に他人も援けるためです。ボーディを使う動物は、むしろ他人の利益を狙います。ボーディサッタという言葉を文法の語形で見れば、意味は少なくとも三つあります。こういうのを文法上と言います。

 次に事実上、あるいは実情は、テーラワーダと大乗のすべての話をまとめると、いろんな行動の目的があり、これも三つに分けることができます。初めの意味はブッダになるために努力をしています。これはテーラワーダで、このボーディサッタという言葉の意味を「ブッダになるための努力」と言います。

 ジャータカに五百以上ある話はこの意味ばかりで、ブッダになるために自分を徳で満たそうと訓練している動物や人や樹神です。あるいは、ブッダになる人は菩提樹の木の下でブッダになる最後の一時間まで、畜生や人間や樹神に生まれることができると、言い方次第です。

 「大悟する前、まだボーディサッタだった」とブッダ自身を呼んでいるブッダバーシタがあり、「ブッダの言葉によるブッダの伝記」の中のいろんな話で読むことができます。「ブッダの言葉によるブッダの伝記」にあるたくさんの話に「大悟する前まだボーディサッタだった」とあり、そこで暮らして、そのような何かをしたとあります。これがテーラワーダ、つまり南側のタイ、ビルマ、スリランカの仏教の見解で、このように信じています。

 大乗の人たちは今述べたような話を重要と見ません。彼らにはボーディの意味が少なくとも二つあります。次に、それにはどんな理由、あるいは必要があるか追跡して見ると、大乗のボーディサッタは仏命に応える人と規定できるかもしれません。これは私が勝手に規定しました。そしてボーディサッタはボーディサッタの戒を遵守する人で、二つの意味があります。テーラワーダの意味と合わせると三つの意味があります。

 二番目の意味、大乗の初めの意味は、かなり広大な話があります。みなさんもアヴァローギテスヴァラボーディサッタ(弥勒菩薩)を見たことや聞いたことがあります。クティの前、池の柱に一柱あるのを、彼らは弥勒菩薩と呼びます。ある種のボーディサッタは何人もいて、一人はブッダに付き添い、ブッダの望みに応える義務を行います。

 これは大乗の物語で、ブッダにはいろんなレベルがいると言うほど広大です。ブッダはすべてのブッダの根源で、そしてブッダの禅定から生まれたたくさんのブッダがいます。普通の人間の姿で現れたブッダあり、合わせると何百、何千です。

 元のブッダの禅定から生まれたブッダの一人をアミターバブッダ(阿弥陀仏)と言い、アミターバブッダに付き添っているボーディサッタが、このアヴァローギテスヴァラ(弥勒菩薩)です。ある一時代のインドや、大乗が広まった仏教国で信仰され、本堂に安置する大きな物から家で台の上に安置する小さな物まで、いろんなサイズの弥勒菩薩像が、至る所にありました。タイでもたくさん発見されています。

 ワットプラタート・チャイヤーでも美しい像、お話した像が発掘されました。知りたければ考古学を勉強してください。私は、宗教に関わるだけを話します。

 美術面でなく宗教に関わることなら、大乗は大乗と言うにふさわしく、最高に多くの人を集めて、自分たちの宗教を信じさせたと理解します。大きな乗り物はたくさんの人を運ぶことができるというのは、愚かな人も一緒に運ばなければならないという意味です。そしてこの世界のほとんどは愚かで臆病な人です。そして夢中になって無我、空の話だけを掴んでいて、何人も理解できません。

 そしてライバルである他の宗教、バラモン教、ヒンドゥー教などは神様がいるので、愚かで臆病な人は神様を依存する物として信仰し、信じ、そして祈願します。こういうのは、彼らの心の中の問題が無くなるので、知性で自分を援ける宗教より、助けてくれる神様がいる宗教を信仰したがります。

 大乗の人たちは仏教に神様を欲しがりました。それまではなかったので欲しくなって、神様を創るにはどうしたかは、さっき話したように規定しました。ブッダの話を拡大して初めのブッダがあり、そして初めのブッダの禅定から生まれたブッダがあり、それぞれのブッダに、ブッダの望みに応える菩薩が侍っていて、阿弥陀仏にはアヴァローギテスヴァラ(弥勒)という菩薩がいます。

 言葉を分解すると、アヴァローギテ+アサヴァラで、イサヴァラとはバラモン教、ヒンドゥー教のシバ神です。だから愚かで臆病な大衆にシバ神を与えました。そしてそのアヴァローギテスヴァラが世界の世話をし、慈悲で世界を見ているので、何か欲しい人は、動物を援けることでブッダの望みに応える弥勒菩薩にねだることも、懇願もできると規定しました。

 この弥勒菩薩は使用人のような人、阿弥陀仏に仕える人の状態であるという重要点があります。だから弥勒菩薩像の額の辺り、額の上、冠の縁に、少なくとも一柱、多くければ何柱も、あちこちに仏像があります。これはブッダに使える人であることを表しています。弥勒菩薩像の中に仏像が含まれているので、弥勒菩薩を拝む人はブッダを拝んでいる意味もあり、弥勒菩薩を拝んでいる意味もあります。

 これは少し浅くなり、臆病で愚かな多くの人々を簡単に引き寄せて、勝利できました。大乗仏教はこのような形で神様がいる宗教と闘かったので、ボーディサッタの理想は、仏教を維持することでブッダの命令に応え、仏教を信じる人を援ける人になりました。この意味のボーディサッタはブッダの宗教を維持する人、仏教を信じる大衆を援ける人です。

 だからボーディサッタはブッダになるために努力をする人というテーラワーダの意味と違います。大乗の意味は、その後の多くの動物を援けることでブッダの命令に応える義務になりました。

 三番目の意味も大乗のもので、菩薩戒を持す人なら誰でも良いです。菩薩戒の重要な項目は一つしかなく、最後の人間同朋を援けてから、自分が涅槃します。

 つまりたった一人でもまだ最後の人が残っていれば、その人はまだ涅槃しません。涅槃に入りません。このような戒を持すことを、菩薩戒を持すと言います。これは理想だけで実際にはできません。人間は休みなく生まれてくるので、菩薩が最後の人まで援けるには、いつまでも待たなければなりません。動物は次々に生まれて来るので、涅槃する機会はないという意味です。

 しかしその部分を反論する項目と捉えて時間を無駄にしないでください。自分を援ける前に他人を援ける人の理想と捉え、それで最後の人間を援けてから涅槃する戒を遵守し、宣誓し、誓願します。あるいは何とでも言い方次第です。 

 この三つの意味を比較して見てください。一番の意味はテーラワーダ式で、ボーディサッタはブッダになるために努力する人です。二番目の意味は大乗で、菩薩は宗教を愛すことでも、動物を援けて拠り所になることでも、ブッダの望みに応える人です。三番目の意味も大乗で、菩薩は菩薩の戒を守る人です。

 テーラワーダと大乗に分けるのは、意味、あるいは大きな原則を掴むためで、本当は細々したことは同じで、どちらにもあります。他人を援ける、あるいはブッダの望みで行うことはテーラワーダにもありますが、あまり話さず、大乗のように重大なこととしません。

 大乗のある宗派は何も話しません。話すのは菩薩の戒を遵守する話だけです。テーラワーダは「ボーディサッタはブッダになるために努力する人」と広くします。次に意味だけを掴めば何も支障はなく、そして誰でもしなければならない義務になり、そして行動できます。だから普通に家を治めている在家も、三つ全部の意味のボーディサッタになれます。

 時には私が「ウッパーティカ」あるいは「オッパーティカ」と言う方法で、つまり心がそのような時、そのように生まれるという方法で、そうなっている時もあります。心がブッダになることを目指し、ブッダになりたいと誓願すれば、その時はボーディサッタになります。ブッダの宗教を維持し、人間同胞の拠り所になりたいと目指せば、それは二番目の意味の菩薩になり、人により時により、他人を援ける名誉名声について考えれば小菩薩になります。

 これを「ボーディサッタの理想は在家が行動できる」と言います。そして在家は、オッパーティカの意味のボーディサッタになることができます。つまり考えているように生まれる教えがあります。これは前回詳しくお話しました。

 盗賊のように考えた時は盗賊に生まれ、学者のように考えれば学者に生まれ、畜生のように考えれば畜生になり、餓鬼や阿修羅のように考えた時は餓鬼や阿修羅になり、ボーディサッタのように考えれば、その時ボーディサッタになっています。このような教えは害がなく、利益だけがあります。次に私たちは、できるだけ利益になるように使う努力をし、それぞれの教えを受け入れます。

 この辺、タイの南部は、かつてテーラワーダと大乗を信奉したことがあり、そして残っている遺跡や遺物の痕跡を見ると、大乗の方が普及し繁栄していたと言うことができます。まだ残っている史跡もあります。次に文化に関わる庶民の感覚や考えは、菩薩になる大乗の状態があります。将来ブッダの境地を望むのは、テーラワーダも大乗も一緒で、昔の人、あるいは先祖たちが「将来ブッダの一人になれますよう」と誓願したのが、古い蛇腹式ノートに沢山あります。

 そのノートの最後に、このような請願の言葉があり、「様々な徳や善を積むことで、私を将来のブッダの一人にしてください」と、そのノートを書き写したのまであります。それはボーディサッタの理想です。そしてその人は在家で「ブッダの一人にしてください」と、遠い未来に望みを描き、あるいは望みました。

 だからボーディサッタの理想を一つの意味にまとめれば、他人を援け、他人を援け、他人を援けます。三つに分けたのはもう話しましたが、大きな意味一つだけにすれば、他人のことだけを考えます。だからこのボーディサッタの理想は、利己主義に満ちている現代の世界には非常に必要です。

 この話は「現代の人間の最高に凶悪な危険は、利己主義」と、常に考えていなければなりません。みなさん見てください。政治でも経済でも何でも、すべて利己主義に集約されます。だから現代人は宗教や神様のことを考えず、テクノロジー=利己主義の道具を崇拝し、神様を掃き棄て、宗教を掃き棄てます。

 子供たちは神様、宗教という、これらの言葉を聞かず、聞くのはすべての分野のテクノロジーという言葉ばかりです。これが利己主義の威力です。自分の利益、物質面、身体的な美味さを際限なく探求したがり、何らかの方法で、際限なく他人の物を自分の物にしたがります。これだけ貪欲があれば恐怖もたくさんあり、身を守るテクノロジーの知識を際限なく使います。

 だから何処もかしこも利己主義の話に夢中になり、世界は、ますます火のように熱い世界になります。利己主義のせいです。だから本当は、世界はボーディサッタの理想、つまり私たちの体や命を他人のために捨てられることを求めています。キリスト教、特にイエスの教えは、最高のボーディサッタの理想です。

 「自分を愛す以上に他人を愛しなさい」。「自分に危害を成した人を赦しなさい」。これは完璧なボーディサッタの理想です。ヘブライ語か何かでヨサファトと言う人は、イエスはボーディサッタの一人と説明する努力をして、キリスト教徒を呑み込みました。

 ヨサファットの話を探して読んでみてください。イエスはボーディサッタの一人と説明しているのがあります。しかし私はそこまではしません。それは侵略しすぎです。私は、「イエスの理想はボーディサッタの理想。、つまり自分のことを考えず、他人のことだけを考える」と見えるよう指摘する努力をするだけです。

 この世界がイエスを信じ、イエスの教えを実践すれば最高に快適で、弥勒菩薩の世界です。今のようではありません。今は悪霊か悪魔が世界を支配していて、世界の利己主義を酷くしているので、このようです。本当はこの世界は、世界にいろんな危機をもたらす何よりも、ボーディサッタの理想を最高に求めています。だからこの言葉が好きなら、この理想が好きなら、在家でも「私たちはできる。私たちはなれる」と信じ、他人のことだけを考え、利己主義をなくす努力をします。

 世俗的な理想でも、スポーツの理想は、sporting spirit 利己主義にさせず、赦させます。だから本当のスポーツマンは誰でも、ボーディサッタの理想の中にいる人です。今観察して見ると、本当のスポーツマンは一人も見えず、偽のスポーツマンばかりです。大学のスポーツも偽のスポーツで、火炎瓶か何か、競技場で危害を加え合うほど身勝手です。

 そして応援団は最高に利己主義です、利己主義になっている心があり、百パーセント自分のチームを応援し、相手のチームは一パーセントも応援しません。だから応援団は、むしろ悪霊あるいは悪魔の話で、利己主義、あるいは身勝手を増強します。次に選手自身も身勝手ばかりで殴り合い、そして公正さがなく、いつでも有利になることを考えます。

 しかし口では「スポーツをすると規則を守り、公正を愛す」と言います。しかし心はそうではありません。だから本当のスポーツマンになるだけで、ボーディサッタの理想になり、競技場を走り回るボーディサッタがいます。つまり例外なく他人のことだけ、正しさだけを考え、そして赦すことで、何かできることで、休まず身勝手を消滅させ、相手が侵略して自分より有利になっても、赦すことができます。

 だからみなさん。ここに来ない人でも、ボーディサッタの理想、つまり他人のことだけを考え、自分のことばかり考えないことは、世界の人の暮らしのすべての場合に必要と、善く勉強するようお願いします。このような気持ちになり、このような望みがあり、そしてこのように行動すればいつでも、その時はボーディサッタです。競技場へ入るにも、悪霊になるためより、ボーディサッタになるための方が善いです。

 みなさんが大学で勉強するにも「私は所属社会の利益のために、この世界で生きる人間」と広く考え、自分一人のことは忘れても良く、子や妻がいるなら忘れても良く、重要としてはいけません。自分も、自分の子や妻も世界の利益のため。こういうのを、利己主義でないと言います。自分の家族の楽しさ美味しさだけが欲しいなら、悪霊の一種から脱せません。だんだん不注意になり、少しずつ不注意になり、醜い利己主義の一種になります。

 ボーディサッタの理想が支配すれば善い家族で、その家族は尊敬すべき、崇拝すべき、隣人のことだけを考え、国のことだけを考え、動物も含めた地球全体を考える善い生き方をします。ね、心の中に目いっぱい慈しみがあり、慈しみが溢れています。

 みなさんがもし家長、主婦なら、あるいは何であっても、所属社会の利益が本当に見えている時、世界の幸福のために自分の利益を犠牲にできることより善いこと、高尚なことは何もありません。それを「偉大な人」、あるいは、何か本当に至高のものと呼ぶべきです。他人より有利になり、身勝手で、たくさんの人を殺せる偉大な人は、偉大な人ではありません。

 権力のままに勝手に文句を言い、自分で勝手に、あるいは同類の愚かな人に「偉大」と持ち上げられます。この世界は愚かな人が多いので、そのような偉大な人を好みます。本当に偉大な人は、仏教のボーディサッタのように、身勝手でなく、他人のことを考え、他人を援け、世界を援けなければなりません。

 私が話すのは、みなさんにボーディサッタという言葉の意味を理解してもらうこと、そしてどこにあるのか知らないので「それは私たちの話ではない。それは高すぎる。昔の人のバカみたいな、古臭い理想」と、遠くへ投げ捨ててしまわないためです。

 そのように考えないでください。本当は誰でも努力しなければならないことで、自然は、すべての人がそのようであるよう望んでいます。そして現在の世界の状況は、世界の複雑困難な問題を終わらせるために、全員がそのようであるよう望んでいます。彼らが政治や外交や経済政策や何やら、いろんなもので解決しようと考えるのは、極めて軽薄で軽率な話です。

 世界がこのような時代は「極めて軽薄軽率な星座に差し掛かっているので、鹿や魚を殺すように殺戮する」と言います。「昔の人がミガサンジー(殺戮時代)と呼ぶ時代になった」と言います。つまりお互いを人間と認めて尊敬せず小動物と見なすので、殺して絶滅させてしまいます。これを彼らはミガサンジーと言い、鹿や魚のように殺します。未だかつて、現代のように簡単に大量に殺す時代はありませんでした。

 だからこの理想を、在家と共にあるものと見てください。どんなに低劣な在家でも、謙虚でない、あるいは分を越えて思い上がる話と理解しないで、ボーディサッタになることを目標とすべきです。私はその側面から見ないで、自然、神様、あるいはプラタムの側面から見て、すべての人がこの理想を持って、身勝手でなく、他人のことだけを考えるよう望みます。

 次はボーディサッタになるバーラミー(波羅蜜)についてお話します。バーラミーとは向こう岸へ渡る道具、あるいは望みを満たす物でも良く、意味は同じです。向こう岸へ渡る物とは、私たちは向こう岸へ渡りたいからです。望みを満たす物とは、何を望んでもバーラミーを積まなければならないという意味で、そうすれば望みどおりに満ちて来ます。

 そしてすべての人間の望みの中で、苦の話を越えて向こう岸、つまり苦のない所へ行ってしまうことより高尚なこと何もありません。テーラワーダの教えではバーラミーは十あり、

①布施、
②戒、
③出離、
④智慧、
⑤精進、
⑥堪忍、
⑦真誠、
⑧決意、
⑨慈しみ、
⑩捨です。

 ボーディサッタはこれらのバーラミーを満たし、ふさわしい時にブッダになられました。彼らは、四阿僧祇(一阿僧祇は、一千万の二十乗)、十万劫という、驚くべき数字にしています。このボーディサッタ、私たちが尊敬しているブッダになった人は、バーラミーを積み始めてから、四阿僧祇、十万劫の時間を経て、二千年ほど前に悟ってブッダになられました。

 こういう話は、驚くべき数字について話さないでください。びっくりして信じません。問題を解決するには、私が使った方法にします。生という言葉の一つの生は「自分」という考えが一度生まれたことです。それなら一日に何十生も何百生もあります。生まれて一回棺に入るのを、一生と言うのではありません。そうしません。一度「俺」という考えが生じて、そして一度消滅したら、それを一生と数えます。

 だから普通の人はたくさん生まれることができ、一日に何十回、何百回も、一か月には何十万回、一年には何百万回、何千万回、何年もなら何阿僧祇です。四阿僧祇、十万劫は、これらの徳を全部満たすために、ちょっとたくさんしなければならない、ということにしましょう。

 布施は休まず布施をするよう、自分を訓練しなければなりません。子供の中には布施が好きで、布施に勤しむ子供がいます。この布施の訓練は尊敬すべきです。お金があったら乞食にやり、友達にやってお菓子を買って食べたりします。これが布施という言葉の意味で、他人の利益のために与え、自分のためではありません。

 だからボーディサッタの布施は、他人の利益に注目しなければなりません。お爺さんお婆さんが「天国の宮殿のために布施をしなさい」と教えるように、天国の宮殿と引き換えではありません。

 シーラ(戒)は自分を支配して、言葉の面、体(行動)の面を正しく、規律があるようにすることです。これが戒で、自分を規律の中にいさせます。

 ネッカンマ(出離)は欲情から離れることです。欲情の奴隷に落ちないよう努力するという意味で、それが出離です。私たちが出家して僧や沙弥になるのも出離と言います。僧や沙弥のような出家をしなければ、何らかの方法で欲情、性の話の奴隷にならない努力をし、こういうのも出離と言います。

 パンニャー(智慧)は知るべきことを知るべき量だけ知るという意味で、智慧と言います。知っても何も有益に使うことができない、哲学者のように膨れ上がるほど知るのではありません。知るべきことを知るというのは、苦が無いようにする話を知ります。苦に関した人生の問題解決を知ります。

 ヴィリヤ(精進)は努力です。実践を終わらせ、努力がある習性にする努力です。「雨は金床を針にする」という言葉があります。これは降参しないボーディサッタのバーラミーに含まれます。

 カンティ(堪忍)は忍耐で、努力と対で、間に合わなければ努力を続けることができず、痛みがあります。我慢でき、待てなければなりません。

 サッチャ(誠実)は最後にします。私は在家のタンマについて話したことがあり、サッチャを前に持ってきましたが、同じです。つまり一緒にあって使えます。サッチャ、誠意は、正直も含めた誠意です。この誠意は周辺まで広げて、自分自身に誠実、時間に誠実、職務に誠実、理想に誠実。こういうのを自分に誠実と言います。そして他人にも誠実、つまり正直です。こういうのを一般に、他人に正直で、自分にも正直と言い、二つ合わせてサッチャ・誠実です。

 アディッターナ(決意)は強い決心という意味で、強い決意はしっかり心を埋め、すべての気力をそれに集めること、これを決意と言います。

 メッター(慈しみ)は説明する必要はありません。つまり自分を愛すように、あるいは自分以上に他人を愛すことです。それは当然、他人を援けることまで含まれ、愛すだけではありません。

 ウペッカー(捨)は仕様がない時に我慢できる、あるいは平然としていられることです。いろんなものが自分の望みどおりに良くならない時に、狂ってしまいません。例えば慈しみで動物を飼って、そして病気になり、その動物は確実に死ななければならず、目の前で死んで行く時、もし苦になれば使い物になりません。まだ賢い人でなく、まだボーディサッタではありません。

 私たちは捨がなければなりません。解決できる能力で解決します。それが死ななければならない時は捨になれます。次に動物に限らず、子や妻、両親、誰でも、仕方がない場合には、捨でなければなりません。捨という言葉は別の話まで意味が広く、平然としていなければならないことを意味します。ぐらぐら揺れない心、崩れない心があれば、これを「捨」と言い、静かに見守っていられます。

 合わせて十種類、これをバーラミーと言います。みなさん、在家が実践すべきでないのはどれか、あるいは実践できないのはどれか、熟慮して見てください。十種類どれも、在家が能力に応じて実践すべきに見えます。そして実践できるものに見えます。出離は欲情に勝つ努力をし、欲情の抑圧を回避し、性の話に関わることをするには知性でし、欲情の惑溺でしません。

 そして智慧があり、この意味は一般的で広く、在家は自分を援ける智慧がなければなりません。精進は努力があり、堪忍があり、正直で、仕事をする決意があり、そして初歩の慈しみがあり、そして解決できない場合は、捨があります。これが在家を最高に幸福にし、尊敬すべき、崇拝すべき在家にします。こうでなければ苦や憂悶がある在家で、もっと低ければロクデナシです。

 何としてもボーディサッタの理想を理解し、そして述べたような状態の理想を実践する道具を手に入れてください。この言葉、この理想が好きなら、他の教えでなく、このような教えでしても善いです。この教えを守るだけで、それでも十分だからです。このように実践していれば、それは中道であり、在家のタンマがあり、お話したように実践しなければならない何でも揃っています。

 実践するために持って来て集めたタンマの題目は、どのようにでもできます。同じ結果になるので、どの system でも良いです。ここでは「ボーディサッタの理想」という言葉を使い、そして十項全部のバーラミーを満たします。最後にはブッダに、あるいは目標である何にでもなれます。「自分の側も他人の側も、洩らさず利益を満たす人、すべての利益を満たす人」と言います。

 今、在家とボーディサッタの理想についてお話しました。持ち帰って自由な心で、自分の道理で考えてください。一般の人の声を聞くと、彼らは、在家はボーディサッタの理想に関わってはいけないと反論しますが、私は、関わらなければならないと主張します。

 関わらなければ、この世界はあっという間に消滅し、地獄の世界になり、世界中火焔地獄になります。人間にボーディサッタの理想があれば弥勒菩薩の世界になり、正反対の住み良い世界になります。どうぞ考えて見てください。みなさんは在家になっても、この理想に関わらなければなりません。

 ツグミが時間の終わりを告げているので、終わります。




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