13.空と在家





1970年14月30日

 二十時四十五分になりました。今日は、前回と非常に関係のある、空と在家についてお話します。私たちは在家であることに関して、あれこれ沢山の問題があり、そしてここで空の知識があれば、それらのいろんな問題を簡単に解決できるとまとめることができます。つまり空の知識は、人間、特に在家にとってなければならない最高に重要な知識です。

 在家と空の話をすると、タイのある種の人は首を横に振り、「それは協調できる話」と理解せず、反対に在家にこのような話を教えるのを禁じる人までいます。在家に話す人を「時と場所を間違っている」と非難する人もいます。

 私もかつてはそのように理解していましたが、たくさん勉強し、たくさん観察し、沢山経験すると、「空についての話は、在家にとって永遠に利益になる」とブッダが言われているように理解し、同感しました。

 もう一度この短い話をすると、ダンマディンナという清信士が率いるある在家の一団がブッダを訪ねて来て、在家にとって永遠に利益があるダンマを説いてくださいとお願いしました。彼がブッダに「私共のような在家は、子や妻に挟まれて寝て、いろんな香りの良い物を塗って」と言うと、

 ブッダは「イェー テー スッタンター スンニャタッパティサンユッター=特に空があるスッタンタのどれでも、タターガターバーシター=如行が公開した、ガンピーラー=深遠で、ガンピーラッター=深遠な義があり、ローックッタラー=世界より上にあり、これはすべての在家にとって永遠に支援になる利益がある」と言われました。

 逐語訳すれば「すべての在家にとって、永遠に支援する利益がある」で、スンニャタッパティサンユッタースッタンターの話です。

 「スッタンター」は聞いたことがないかもしれません。スッタンタとは手本(経)です。「スッタ、スータラ」という言葉は、糸、縦糸という言葉から来ていて、縦糸に使う糸をスッタと言いました。あるいは織機に使う糸をスッタと言いましたが、ここでは縦糸のような教えを意味します。だからスッタンターとは手本、あるいは基準です。教え、訓話、規則、いろんな物がこの言葉に含まれるので、手本と呼ぶことも、短く教えと呼ぶこともできます。

 どの手本・教えも、スンヤタッパティサンユッター=特に空があります。この「特にある」という言葉は、パーリ語をタイ語に訳すと、「関連がある」で、つまり分れていません。次にスンニャタッパティサンユッターは、「と関わっている」「と関わっているもの」「と関わっている所の」、言い方次第です。もう一度タイ語で言えば、「空に関わりのある教えの手本のどれでも、すべての在家にとって、永遠に援ける利益がある」になります。

 みなさんが短く憶えるには、「空の話、あるいは空に関わる話は、すべての在家を永遠に支援する利益がある」と言います。スッタンターという言葉が「手本」という意味であることの問題はありません。パティサンユッター=と関わりがある、スンニャター=空、スンニャターは「空」で、空という言葉を違う意味に訳せば間違いです。みなさん注意してください。

 クルンテープ(バンコクのこと)の知識者集団、お寺の学僧たちはスンニャターを「無」と訳しました。聞いて見てください。スンニャターを無と訳します。どうしようもありません。それは間違いです。スンニャターという言葉は、空っぽという意味です。ターは名詞化する接尾句で、スンニャは空っぽで、空の状態です。次に空っぽの状態と訳せば逐語的な訳で、要旨は空です。

 空の話、空の話に関して述べておいた手本とは、「基本として空の話がある」という意味で、在家を永遠に援ける利益がある教えを意味します。だからスンニャターという言葉は空と訳すべきで、他の言葉に訳してはいけません。そうすれば語句としても意味でも正しいです。

 次にみなさんは、昔の言葉でも現代の言葉でも、いろんなレベルのいろんな意味があり、一つ一つに、いろんなレベルや深さがあると知らなければなりません。だからスンニャター=「空っぽ」「空」は、誤った見解である誤ったものもあり、正しい見解である正しいものもあります。

 そしてそれ以上にもっと広く、空という言葉はいろんな種類のいろんな物を意味するほど広く、間違った教えの基盤であるものもあり、正しいのもあります。次に最初に空という言葉について話します。「空」とは「無い」という意味ですが、意味は幾つものレベルがあります。

 一番に物理面、私たちが物理面の話という物質面では、空は何も無いことを意味し、vacuum と呼ぶように何もなく、何も物質がないという意味です。一番は物質の話で、体という意味もあります。つまり物質がなければ体もなく、何もありません。これも空の一種です。

 二番目は心の話で、失神した人のように考えや意識がない心、こういうのが心の面の空です。

 三番目は、今私が話しているのは知性の空、タンマの面の知性の空で、私が好んで「精神」と言う面の空の話で、「俺、俺の物」という考えがないことを意味します。

 良く復習して見てください。それぞれまったく違います。

1.物理的、物質的、身体的空は何もないこと。

2.心の面の空は、何も感覚がないこと。

3.精神面の空は、まだ何でもすべて感じたり考えたり出来、体も何もありますが、「俺、俺の物」という感覚だけがない、これを精神面の空と言います。本当は別の呼び方をするべきですが、何と呼んだらよいか分からないので、このように呼んできました。

 physical =物理的、 mental =体と関わっている心の面、 spiritual =知性や見解の面、という三つの言葉を思ってください。他の人は別の言葉を使うかもしれません。あるいはこの言葉を認めないかもしれませんが、私はどう話したら良いか分からないので、このように「物理的、心の面、精神面」、短く、「physical、mental、spiritual」と呼びます。

 この三種類の空は同じではありません。何もない物質的、身体的空はここでは話しません。心の面の空は何も考えないこと、死、あるいは失神のような心で、ここで話すことではないので、ここでは精神面、あるいは知性面の空についてだけお話します。

 感じたり思ったり考えたりしている心の中は、conception (概念)、あるいは perception (理解)がなくても、それは「俺、俺の物」という感覚によってあります。egoism、 egoistic concept、呼び方次第ですが、それは「俺、俺の物」に関わりがあるという意味です。どんな種類の考えも「俺、俺の物」である意味があり、何を狙うかによって、egoism、 egoisticism 、あるいは egoistic idea と呼ぶことがあります。

 egoistic concept 「俺、俺の物」「私、私の物」である感覚が、見ること、聞くこと、嗅ぐことから作り出され、これが、conceptual thought、つまり「俺、俺の物」と理解する感覚に変化した心の行為です。これがあれば「空でない」と言い、これが無ければあるのは知性だけで、それを空と言います。俺が空、俺の物が空です。

 だから正しい空、あるいはスンニャターは「俺」、あるいは「俺の物」という理解、あるいは、アハンカーラ、ママンカーラがないことと定義することができます。アハンカーラとは「俺」、ママンカーラとは「俺の物」です。ここでの空は「俺、俺の物」という理解である考えや感覚がないことで、例えば普通は、普通に見ると、心に何も衝撃がない時は、私たちに「俺、俺の物」であるものは何もありません。

 例えば今みなさんは気持ちの中に「俺、俺の物」である何もありません。つまり私の話を聞いたり、他のことを考えたり、何も「俺、俺の物」と執着していません。普段私たちは「俺、俺の物」という理解はありませんが、考えが介入するとそれが生じます。

 私たちが幸福で気分が良い時はいつでも、その間中「俺、俺の物」の話が妨害していないからです。しかし原因や縁があればそれが妨害し、貪り、ラーガになり、欲情になり、怒りあるいはドーサになり、迷い、堂々巡り、疑念、散漫、煩悶もあります。これを貪・瞋・痴になると言います。その時は「俺、俺の物」があり、空ではありません。「俺、俺の物」が空ではありません。

 だからこの感覚や考えに貪・瞋・痴が混じっていなければ空、「俺、俺の物」が空(カラ)」と言うことができます。しかし全部をまとめて「取による執着がない」と言います。この執着は貪りにも、怒りにも、迷いにもなります。貪りがあるのは「俺」が欲しがり、手に入れたいからで、怒りがあるのは「俺」が望みどおりに得られないからで、迷いはまだ疑念があり、まだ関心があって掴んでいるからです。

 だから心が空なら、貪り・怒り・迷いに妨害されず、「俺、俺の物」である感覚に妨害されないので、私たちは快適です。こういうのを「空っぽの心」「空の心」と言って快適ですが、もう一つ「知性があること」と、規定させていただきます。心に「俺、俺の物」である感覚はなくても、知性がいっぱいあります。

 ここでの知性は「俺、俺の物」がないことです。「俺、俺の物」である感覚がある時は、すべての愚かさの中でも最高に愚かだと、しっかり憶え、しっかり教えにしてください。「俺、俺の物」に関して生じる感覚や考えは、すべての愚かさの中で最高に愚かなので、この愚かさがなければ、自然に知性があります。

 ここまで来ると「俺、俺の物」がない部分なので、それをもっと上手にハッキリ掴むために、もう一度広く見ます。初めに、私たちが寝る時、このような時「俺、俺の物」である感覚はないと考えなければなりません。疲れたら普通に寝て休まなければなりませんが、それは私たちの手腕でなく、自然のものなので今は話しません。本当はその時も「俺、俺の物」がない時ですが、それは自然です。

 自然の手腕なので、自分の知識や学問にしないでください。それでも「俺、俺の物」がなければ快適で、幸福があると理解してください。

 自然の状態で「俺、俺の物」が空でなければ、みなさんは狂ってしまい、ここでこのように座っていません。とっくの昔に狂って死んでいます。だから自然に「俺、俺の物」がなく、このように眠るのは命を維持する大きな利益があります。しかし自然の物なので、自分が実践したこと、あるいはしたことと言いません。寝室へ行って眠るのも、自分で調整すること、あるいは支配できることではありません。

 残っている次の話は、偶然心に俺が無くなる話です。賓客がスアンモークを訪ねて来て、このような場所に座って、寝て、立って、歩くと、このような自然の偶然によってその人の「俺、俺の物」が無くなります。爽快に歩き回り、幸福で気持ち良くほほ笑み、「どうしてこんなに清々しいのだろう。なぜこんなに、言いようもなく気持ちが良いのか分からない」と呟くほどです。

 このように言う人が時々います。これは「俺、俺の物」がないから爽やかなのです。しかしこの空は、その人やいろんな物による偶然の話で、パーリ語ではタダンカと言い、偶然という意味です。

 心がそのようになれる最高にふさわしい場所を選ぶことに、無関心ではいられません。だから私たちは海岸へ走って行ったり、山の上へ休息に行ったり、あるいは自然が悪い感情を吐き出させてくれる場所へ行きます。悪い感情の話は全部「俺、俺の物」に関わっています。次に私たちは、何もしなくても自然が悪い感情を止めてくれる所へ行きます。このようなのも偶然と言います。

 これが二番目の空で、一番目は眠ることなど自然になる空で、二番目は話したように偶然そうなります。

 三番目は自分で支配し、注意し、自分で手配します。それが念処やヴィパッサナーを学びます。そしてそれで実践した実践の結果である空ですが、それも実践できている間だけで、時にはぼんやりし、あるいは厳格に実践できません。それは支配している一時だけです。それでも非常に善くなり、一番二番より非常に善いです。

 欲しい時いつでもすることができるからです。そしてできるようになるまですれば非常に善く、非常にたくさん支配できます。習慣になり、習性になるまで練習すれば、非常に快適です。常にタンマの実践をし、サマナのタンマを満たす人は、このような幸福が沢山あります。

 次に四番目は、煩悩が本当に無くなった空で、阿羅漢の空です。阿羅漢の空がある心は、煩悩がありません。初等の聖人、預流、一来、不還も空はありますが、最高ではありません。まだ煩悩のすべてが消滅してなく、まだ幾つか残っています。こういうのは部分的な空ですが、阿羅漢の空の部類に含めます。つまり一部の煩悩を捨てることができ、その部分の煩悩は二度と妨害しません。私たちが支配する空と違います。

 みなさん、良く見てください。全部で四つあり、初めは自然に眠る等、こういうのはしない方が良いですが、これが一番です。次の三つは関心を持つべきものです。

〇環境によって偶然なる空。このような結果になるよう環境を整える努力をします。

〇自分で支配できる空。念処をし、ヴィパッサナーをして支配します。

〇煩悩が無くなった空。

 これがヤクザでない、本当の空である空です。一方のヤクザな空は、何も掴まないから空だと言い、そして下品なことをいろいろして、「俺は何も執着していない」と言い訳します。これをヤクザな空と言います。中には理解できないで、このヤクザな空の話を空だと言い、わざと言い、わざとし、書いて揶揄した人もいます。

 私を揶揄する記事を書いた新聞もあります。筆者のヤクザな空ばかりです。仏教の空ではありません。例えば空の心があれば義務はどのようか知り、心が空でなければ自分の義務を知らず、国を愛さないなど、そのような何かです。それはわざと言う空の心、ヤクザな空の心です。

 知性で完璧な正しい空の心は「義務を行う」と知り、どんな義務でもその義務を行い、すべての義務を知性で行い、傲慢、「俺、俺の物」、煩悩欲望でしません。国への愛で義務をしても、それは知性ですることです。「俺、俺の物」は空っぽでも知性は満ちている。これは詩の言葉で話しています。つまり「俺、俺の物」という理解は空っぽですが、知性がいっぱいあります。

 兵士なら義務を思う気持ちで闘えば、その義務はタンマの一つです。タンマは義務、義務はタンマです。だから義務を行う知性があり、それはタンマの実践です。兵士は怒り、憎悪、憤怒で闘いません。俺が貴様を死なせる。このように戦えば殺人であり、罪です。純粋に遂行すべき義務を行う心で戦えば、在家の性(さが)として、あるいは兵士の義務として正しくいので、そういうのは殺人の罪はありません。

 タンマであること、あるいは正しさを維持するために義務を遂行し、人を殺す意図はないからです。つまり貪り・怒り・迷いでしないで、知性でするからです。だから仏教の教えで正しい空の心がある人は、在家でも出家でも、自分がどのような状況下にいても、すべての義務を遂行できます。在家ならどのレベルの在家か、農家、清信士、清信女なら「俺、俺の物」が混じっていない心に、義務を知る知性を混ぜて、するべき義務をすることができます。

 しかしそれはするのが難しく、「俺、俺の物」でぼんやりしがちです。「俺、俺の物」の話ですれば罪です。田を耕すのも、動物を死なすので罪です。知っていても「奴らは来たくてここへ来たのだから構うものか」と、カエルや田ガニ、何であろうと、それらを死なせてしまう。このような怒り、ドーサは罪です。

 しかしするべき義務を行う気持ちと自覚と智慧があり、怒って憎まず、何にも腹を立てなければ何も罪は見えず、殺す意図は見えません。だから仏教の教えで正しい空の心があれば、罪を防ぐことができます。

 もう一度復習しても良いです。「空、空、空」という時、言い訳をするヤクザな空が一つで、「私は空の心で徳もなく、罪もなく、盗んでも殺しても思いのまま。罪はない。どんな悪を行っても罪はない」。これはヤクザな空の心で、話す必要はありません。そこでヤクザでないのは何か、見なければなりません。

 物質の話、物理的な話なら、この空は無を意味し、心の話なら、何も考えや思いのない心を意味します。しかし知性、タンマの面、精神面の話なら「俺、俺の物」という気持ちがないことを意味します。だから「俺、俺の物という感覚がない」と、はっきり規定しなければなりません。

 「俺、俺の物」という感覚がない空は、段階的に分けることができます。眠りなどの自然の空はどこにもある基礎で、環境で偶然になる空は一つのレベルで、そして自分で支配する、管理する空、これがもう一つのレベルで、最後は煩悩が無くなった空です。しかしまとめれば「俺、俺の物がない空」という意味があれば正しいです。

 眠っている時は知性が満ちてないので切り捨て、残りは三つです。偶然になる空、そして知性がある空は快適で幸福で、そして支配している空は更に知性が多くなり、そして煩悩が無くなった空は、益々明になる知性で暮らします。煩悩は愚かさだからです。

 これが、在家を永遠に支援する利益がある空です。「俺、俺の物」という感覚はありませんが、しなければならない義務を知る知性がいっぱいあり、そして幸福で快適に義務を行います。

 私が「心が空になると仕事が幸福になり、心がぎゅうぎゅう詰めになると仕事が苦になる」と話すと、認める人はあまりいません。心が「俺、俺の物」で窮屈だと、幸福であるものは何もありません。仕事も飽き飽きし、働くのも必要だから働きます。こういうのは幸福ではありません。それは貪りに強制され、誘惑されてするので、幸福はありません。

 煩悩がない心で働けば幸福で気分が良く、心がすっきりして正常で、仕事をすると楽しく感じます。時には他人にさせなくても楽しく、あるいは楽しくない仕事、汚れて綺麗でない仕事でも楽しく働けます。どうぞ心を空ですっきり爽快にし、何をするにも、満足を感じてしてください。

 だからスンニャター、つまり空の知識がある在家は、生き地獄へ落ちないと保証するものがある在家です。爽やかな気持ちで生活し、苦がなく、苦を知らず、得しても嗤うことができ、損しても嗤うことができます。本当にこの知識があれば、した仕事に儲けがあっても嗤うことができ、した仕事が赤字でも嗤うことができます。あるのは知性ばかりで、何かを悲しむ、あるいは何かに怒る「俺、俺の物」はありません。

 病気になっても嗤うことができ、死ななければならなくても嗤うことができ、富豪で快適でも嗤うことができ、惑溺しません。ブッダの正しい手本での空の心がある人で、惑溺がないと言います。

 ちょっと特別な話をしたいと思います。仏教式の正しい空を「スンニャター娘」と名付けて、ある時、スンニャター娘の話を楽しく話したことがあります。彼らは空が好きでなく、空を恐れます。一般の人は、空なら何も無いので、彼らは高い所から投げ捨てられ、宙に浮くように考え、ゆらゆら落ちて何も無いと考えるので空を恐れます。彼らは空と呼ぶものを望まず、興味がありません。

 そこで私が「空は最高に美しい娘で、そしていつでも若く、老いを知らず、その娘と結婚した人は、その後苦がない」と騙して話すと、彼らはようやく聞く気になり、知りたくなり、説明してくださいと言いました。このようです。

 そこで私は、彼らが自分で知るよう、自分で考えるように、問題を出しました。

 どんな方法でも、神様か天人からいろんな宝石で飾ったダイヤの箱をもらったと仮定します。その箱は上等な黄金で、あらゆる種類の宝石や真珠で飾りつけてあります。黄金の箱はダイヤモンドやルビーや宝石が埋め込まれ、高価な真珠の特別な網で覆ってあります。言葉で表せる限り最高の箱をもらったら、みなさんはその箱に何を入れますか。お金を入れるなら、最高にバカです。

 箱は黄金でできていて、ダイヤモンドで飾られ、真珠で覆われているので、その箱にお金を入れればバカな話です。ダイヤモンドを入れてもバカな話です。箱の方が高価で、ダイヤモンドも何もかもあるからです。中には、貸金の契約書を入れると考える人もいました。見てください。これはもっと大バカで、貸金の契約書である紙を入れます。

 多少タンマの面の常自覚がある人が、母親の遺骨を入れると言うのは、まだ善いです。両親の遺骨をその箱に入れる方がふさわしいです。結局、木の箱に何を入れるのがふさわしいか知る人は誰もいませんでした。

 私は「その箱に入れる価値があるのは、スンニャター娘だけです」と教えました。それで彼らは、私たちの苦を皆無にするもの、二度と苦が無い人にする「俺、俺の物」がないタンマ、スンニャター娘について更に知りたくなりました。これがなぜ、いつでも娘なのかは、それを作る原因と縁がないからです。

 空は作る原因と縁がなく、いつまでもそのままで変化しないという意味と言えば、いつでも娘で、大人にならず、老いや死がないという意味です。これは無我、あるいは空という言葉の本当の意味です。作るものがないのは、人を無苦にし、すべての種類の苦を消滅させるからです。だからその箱の中で寝るにふさわしい価値があります。

 次にどうしたらスンニャター娘と結婚できるかと質問されたので、「まだ尻尾が燃えている幽霊でいるなら、結婚はできない」と言いました。スンニャター娘は、尻尾に火が点いている幽霊、つまり「俺、俺の物」があり、貪りがあり、怒りがあり、迷いがある愚かな人、尻尾に火が点いていて消し方を知らないような人と結婚したがらないからです。

 体に火が付いていなくても、尾に火がついています。このように尾が火事になっている悪霊は、スンニャター娘と結婚する日はないと言います。その火を消さなければなりません。そうすれば最期の一瞬に、尾に残っている火も消えてしまいます。

 みなさん、結婚したかったら、努力しなければなりません。だから自分の尾に火が付いていないかどうか、振り向いてご覧なさい。だから「尾がある」と言うと、非難と感じます。つまり尾がある動物のように愚かで、そして愚かさには、貪り・怒り・迷いの火が点いています。いつでも尾に火がついています。そこで消し、尾の火を消し、尾があるのを止め、愚かな動物を止めてしまえば、スンニャター娘と結婚できます。

 これは、スンニャター娘を憶えるために話した人物話法(人物を主体にして話す話法。擬人法)の話です。みなさんが憶えて行って、もっと面白く、楽しく話して聞かせることもできます。

 人間の最高に素晴らしい物はスンニャター娘で、話した箱に入れるにふさわしいです。同じくらいふさわしいものはありません。それは涅槃の意味「ニッバーナ パラマン スンニャン=涅槃は最高に空っぽ」です。だからスンニャター娘は涅槃のイメージなので、涅槃と呼ぶものは、他に熱を消すものがない、賢明で清潔で、明るく静寂な心を意味するこの箱にいるべきです。

 みなさん考えて見てください。煩悩の話のどこも、空で消さなければなりません。しかし時には愚かで見えず、説明ができません。貪りも空で消し、怒りも空で消し、迷いも空で消し、人の心を焼くどんな種類の火も、空で消さなければなりません。

 次に在家は非常に火の近くにいて、燃え上がる話が出家より多いので、在家は出家より空がなければなりません。火が多いので、消す水をたくさん欲しがります。だからブッダは理論として非常に正しく、「空の話は永遠に在家を援ける利益がある」と言われました。空は火を鎮火させる物だからです。この空は「俺、俺の物」の conception を無くします。そしてどのように貪りが生じ、怒りが生じ、迷いが生じても、あるいはそれが生じていても、サティがこの項目に届いた途端に消えます。

 私はもっと広い意味にするので、防止もでき、解決もでき、幸福を得ることもできます。空という言葉は、原因にも結果にも使うことができます。原因は防止と解決に使うことができ、結果は極めて幸福で、涅槃は究極の幸福です。「俺、俺の物」がないので、煩悩が生じないからです。だから正しい空の知識があれば、貪・瞋・痴が生じ難く、実践もできれば、生じることはできません。

 在家が小さな時からこの教えを受け、薫陶されれば、間違いをする余地はありません。あるのは明と知識と心のタンマの境地で発展するだけで、どんどん高くなり、死を待たずに阿羅漢になります。だから空の話の理解があることは、いつでもそれ自体がタンマの実践です。

 空の話の正しい知識は、私たちの生活を自動的に、いつでもタンマの実践にします。このように非常に価値があります。これを知っていれば、何も間違いはできず、盗むことはできず、誰かに何かすること、人を殺す、人の物を盗む、他人が愛すものを犯すなど、どれもできません。自動的にできないようになります。その知識が正しいので、できません。同じように「俺、俺の物」である愚かさは、自動的に何でもできます。

 「俺、俺の物」がない空、知性は、自ずと誤りや悪をすることができないので、善行をします。これを「吉祥」と言います。あるいは何でも在家の呼び方次第で、縁起が良いこと、吉祥、瑞祥、拠り所、在家の何か、最高に晴らしいもの、あるいは仏教の本体、つまり中道を生じさせます。

 みなさん、私が「中道は仏教の本体です」と言ったのを忘れないでください。それは間違いをせず、あるのは正しさだけで、いつでも正しいです。空の話の理解があれば、いつでも自動的に中道になり、丁度良いことが生じます。すべてが中間で、多すぎず少なすぎず、高すぎず低すぎず、すべてが正しく丁度良くなります。

 在家に関しても「探求があり、保有があり、消費があり、性の話、欲情の話、名声名誉の話があり、正しくすれば害はない」と言いたいと思います。適度に正しく求め、適度に正しく保有し、そして適度に正しく消費します。この三つは物質面、財産面の話で、空の話は在家でもそれを丁度良く、正しくする助けをします。

 愛欲の話、性に関わる感覚、あるいは異性間の営みの話になりました。こういうのは、何もかも「俺、俺の物である執着の話」という知識があれば、適度にしかせず、正しくしかしません。どんな種類の異性間の営みをするにも、まだ捨てられなければ適度でふさわしく、あるいは正しく、あるいは一種の心の食べ物として必要なだけにします。

 ご飯を食べる時、適度に、そして正しく食べるように、セックスも心の食べ物の一種なので、適度に、そして正しく食べます。あるいは、愛欲面で闇雲に溺れる話ではなく、純粋な生殖の話にします。そのようなら異性間の営みは正しく、そして適度になります。これも空の話を良く知ることです。

 名誉名声については、空について良く知っていれば、職位に酔わず、名声に狂わず、職位があっても、名誉名声があっても、どんなに有名でも嘲笑することができ、名誉名声に迷いません。それをどんな利益のためにどう使うか、どのようにすべきでないか、正しく適度にすることができます。

 短く言えば「性・食・名誉」で、性・食・名誉の三つは、在家の生活に使う最も短い言葉です。「在家の話はこの三つ以外に何もない」と私が言うのが本当かどうか、logic で考えて、分類して、試して見ることもできます。性・食・名誉。努力して勉強するのも、努力して職業を持って仕事をするのもこれのためで、すべて食べるため、性のため、名誉のためです。在家の目的と目標は、すべてこの、食・性・名誉の話です。

 次に愚かで、この三つを目を瞑ってすれば、この三つはこの目で見える地獄になります。「俺、俺の物」ですれば、食べること、性の話、名誉の話は現世の地獄になり、生き地獄に落ちます。目を開けて良く調べ、常自覚があれば執着しない話で、「俺、俺の物」でしないので、地獄に落ちず、火にならず、何も焼き炙りません。

 人間がしなければならないことを正しくする話に、私たちが通過しなければならないことを正しくする話になります。勉強や試験と同じです。食べること、性の話、名誉の話が苦を生じさせないことで、在家であることの精神試験に合格します。だから心は高く進化し、この話より上にいます。

 だから第一住期である梵行期(学生期)には、これらのいろんなことを努力して良く学び、良く理解し、手本である規則の中で善く暮らします。第二住期である在家になったら、食べること、性のこと、名誉のことに勝利できれば問題はありません。

 食べることに在家の義務を最高に良く行う人で、食べること、性の話、名誉の話、家族のこと、子のこと、孫のこと、すべてに問題はありません。次に間もなく、これらすべてに善い理解をし、心は第三住期、隠遁者に移動し、そして最後は第四住期の遊行者になり、世界で暮らして他人の光明になります。

 これが、「俺、俺の物」がない話を良く知って、何としても「俺、俺の物」がない実践をすることです。「ダイヤモンドの箱の中に住んでいるスンニャター娘と結婚し、その後は一切苦がない」と言います。人間がしなければならないどの話のどの場合にも、正しく適度にする人になります。もっと嬉しい言い方をすれば、いつでも涅槃があります。

 スンニャター(空)とは「俺、俺の物」がない空という意味で、「俺、俺の物」がなく、つまり死の前に死んでいます。死の前に死んだ人で、俺が消滅してしまうことは、死の前に、体が崩壊する前に死ぬことです。だから涅槃の味を味わう時間がたくさん残っています。現世で、生きているうちに涅槃に遭遇し、そして涅槃の味を味わう時間がたくさん残っています。

 偶然の空なら偶然の涅槃で、自分で抑圧して支配した空なら、抑圧した、あるいは支配した涅槃で、煩悩が消滅した空なら永遠に本当の涅槃です。

 涅槃は涼しいという意味で、三つのレベルがあります。偶然になるなら、空の威力でそうなり、そして偶然の涅槃、タダンガニッバーナの涼しさです。良い実践、正しい実践で注意深く「俺、俺の物」がなければ、支配し強圧した空、ヴィッカムバナニッバーナで、自分で支配した涅槃を得ます。煩悩が本当に消滅して煩悩がない時は涼しく快適で、現世で完璧な涅槃、生涯涼しい涅槃であるサムッチェダニッバーナ(断涅槃)になります。

 これがスンニャタッパティサンユッター スッタンターの利益で、在家への贈り物として、生きているうちに何らかの種類の涅槃を受け取らせます。死ぬのを待つ必要はありません。彼らが言うように何万生も、何十万生も待つ必要はありません。みなさん、良く聞いてください。お寺の後援者たちは、あと何万生、何十万生後に涅槃すると言います。

 そう言うのは、何が何だか知らずに憶測で、あるいは間違って言い伝えられているように話します。間違って推測し、間違って話し、次々に間違います。本当の涅槃は死ぬ前に得なければなりません。そうすれば涅槃です。死ぬ前に、体が死ぬ前に涅槃を得なければならなりません。俺を死なせれば涅槃し、命が崩壊する前、棺に入る前に涅槃を味わう時間があります。

 だから在家の人全員が、棺に入る前に、段階的な何らかの種類の涅槃を得る決意をしてください。これは空の威力でします。自分の力が本当に尽きたら、このような場所、環境に走って来れば、心が鎮まってタダンカニッバーナの類の涅槃になるので、それも非常に善いです。そして、アーナーパーナサティ式に、あるいは何でも心を支配する知識と理解があるように努力して勉強し、より高い、より良い涅槃を得ます。

 しかしまだ厳密で完璧な涅槃ではないので、まだまだ実践しなければなりません。あるいは、煩悩、欲望、取がなくなるまで、たくさん世界を通過し、人生を通過しなければなりません。そうすれば本当の涅槃になります。そして、ここでは僧か在家か言う必要はありません。俺がなくなってしまえば僧も在家もないからです。それは自然による純粋な自然です。

 だから忘れてしまいましょう。在家か出家かに執着しないでください。貼りつく物のように、そこで詰まってしまいます。心の話だけを知り、そして心を発展させ、特に現前の義務を正しく行えば、そうすればそれ自体が善いことで、そのこと自体が発展です。少なくとも基本の涅槃を得ます。

 つまり涼しくすることを知り、習性になるまで管理すると、その後それは厳密になります。「俺、俺の物」が生まれる習慣を擦り減らし、擦り減らして無くせば、それは二度と生じられません。それが取が終わり、煩悩欲望が終わった人、「俺、俺の物」が終わった人で、完璧な阿羅漢と言います。

 「阿羅漢の話は高い話で、在家は触れるべきでない。あるいは思うべきでない」と捉えないでください。そうです。阿羅漢という言葉を思うべきではない、思えば狂います。しかし私は、どうすれば「俺、俺の物」である感覚が生じないかだけを思います。「俺、俺の物」が生じる習慣がない習性にしてください。阿羅漢になったかならないかは、それからゆっくり知りましょう。

 それに知る必要はなく、知るのは「今は快適で、苦がまったくない。今あるのは本当の涼しさだけ。外皮であるこの体が崩壊するまで、永遠に熱さはない」だけで十分です。これを死ぬ前の涅槃と言います。涅槃は死ぬ前に死ななければなりません。そういう意味があります。

 みなさん、最高に重要なこと、最高に素晴らしいことは食べること、性のこと、名誉のことではありません。最高に素晴らしいことはまったく苦がないことと見てください。「俺、俺の物」が生じないので苦が全くない状況は最高の話で、生き物は最終的にそこへ到達し、そこで終わらなければなりません。そうすれば生まれたことが無駄になりません。食べること、性のこと、名誉の話は道具、生活できるようにする道具と同じです。

 そして生き物は、知識、experience、特に高い精神面、抽象面の experience で進化するので、勉強、職業、仕事、お金、食べること、性の話、名誉の話は、教育の試練です。そして次々に試練があり、最高になり、すべての物より上にある心になります。それは「今俺、俺の物であるものである執着が無くなった。永遠に涅槃の涼しさだ」と測ることができます。この体が崩壊する時終われば、問題は終わると言います。

 死んだらまた生まれる、あるいは死んだらもう生まれないと信じるのは自由ですが、どちらでも私たちはこのようにしなければなりません。つまり「俺、俺の物」を消滅させるだけです。もう一度生まれるとしても、これをしなければならず、死んだら終わりでも、死ぬ前にこれを得るために、これをしなければなりません。

 できなければ先に死ななければなりません。そして来世はもっと善くなります。私たちはこれをするので、来世は必ず善くなります。

 だから「死んだらまた生まれるか否か」という話は考えないでください。今は力の限り、これをしなければならないとだけ考えれば、再び生まれる人にも生まれない人にも、どちらにとっても正しいです。ブッダはすべての在家のために「どんな実践規範であろうと、空に関わるものだけが、永遠に在家を援ける利益がある」と、正しく言われていると見えます。これが空と在家の話です。

 今日はこれで終わります。




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