12.在家の性の感覚を管理する





1970年4月28日

 四時四十五分になりました。在家の問題である、性の感覚に関わる問題についてお話します。これから、特に管理について熟慮します。提出された質問の中に、「どのようにすれば性の欲情である感覚を減らせるか」という項目がありました。これは当然、これについて適度に、あるいは正しくしたいという意味であり、断つ、あるいは消滅させるという意味ではありません。

 性の感覚、あるいは欲情の管理に関わる問題は、在家と出家は同じではありません。出家は先に行きたい、早く行きたい、善く行きたい、そのような何かで、管理あるいは解決する目的は、まだ早く行きたくない、あるいは先に行きたくない在家より多くなければなりません。

 だからパーリ語の在家という言葉には、家を治める人、妻子と混み合っている人、香の良いものを塗ったり撫でたりしている人という説明があります。今日は、直接在家の問題についてお話し、出家の話は撚り合わせるだけで、自然にこの意味を知ります。

 寄せられた質問では、直接欲情という言葉が使われています。パーリ語ではラーガと呼ぶ欲情という言葉は、パーリ語、あるいはタンマ語の規則では意味が広く、性の面の欲情だけでなく、心の面の粘着である、何かに心を寄せて夢中になる感覚も意味します。しかしタイ語では性の面、愛欲面の欲情を意味します。

 ここでも、今日私は性の面、愛欲面の話だけをしても、タンマ語の欲情は広く、直接性の話でないものに欲情することでも、玩具や何か好きな物、愛して欲しくなり、最高に大切にして惜しむ物でも良く、小さな子や孫への愛の感覚も欲情と言う、と知っておいてください。

 タイ語の欲情は性の面の欲情を意味し、そして三つの時世の感覚を意味します。過去の時間も欲情を感じることがあり、現在のことを欲情することもあり、あるいは将来欲情の感覚があるよう考えておくこともできます。だから問題が沢山あります。ほとんどの問題は目前に生じた欲情で、現在感情(心の中の想念、概念という意味)が生じて、感情に直面している時の方が多いです。

 それでもそれは繋がっていると理解しておいてください。つまり過去の感情、過去の思いや考えが、心の話である現在になり、欲情が生じればいつでも、現在の話になります。過去の欲情、あるいは過去の欲情の基盤であるものを思い出して考えると、心の中のダンマーラマナ(想念。法界)になり、現在の欲情が生じるという意味です。

 現在の話は、現前に現れた形・声・香・味・触・考えですが、これらも最後には過去の感情になって、いつでも戻って来られます。未来のことも同じで、過去に通過したことがある形・声・香・味・触も、将来はこのようだ、あのようだと考えること、感じることができるという意味で、それを考えれば現在のダンマーラマナ(想念)になり、そしてそれは同じだけ心を妨害し、考えでは現在になります。

 だからラーガあるいは欲情と呼ぶものは広い関連がある、あるいはこのように深いと知らなければなりません。目前だけの問題解決に夢中になっても、現在だけでは最高に善い結果はないので、過去の感覚、あるいは未来の考えや夢なども管理しなければなりません。ラーガ、欲情の意味や語句はどのようか、どう規定してあるかを比較して見ます。

 次に語句ではなく、本物について話します。それは何か、欲情とは何かを理解するのは、難しい話です。この感覚の新人、あるいは世界の感覚の新人でも、欲情という感覚は心の面の機械の一種にすぎないと理解するのは困難です。ここでの機械は物質ではなく心の話で、mechanism という、機械と同じ状態があり、次々に繋がった義務を行い、そして機械のように確実な結果を生じさせるので確実と言います。

 産業に使う機械は物質面の機械で、物質である実体がありますが、今話している機械は、良く見れば、見えれば、同じ抽象面の形が見えます。つまり構成要素、あるいはすべての義務を行う部分であるものがなければならず、そして連携した時、順に機械のように確実な仕事が生じなければなりません。「機械のように」というのは、いつでも同じに繰り返すという意味です。詩にまとめたことがあります。

   その欲情に触れるのは体の中の機械

   感情が根に出合えば

   規則的に正確に働く

   しかし世界は熟した性の宝石と迷う

 最初の行の「その欲情に触れるのは体の中の機械」は、目・耳・鼻・舌・体・心が形・声・臭・味・触・考えに触れるのは、私たちの体の中の一種の機械で、外処入と内処入が触れ合えば想が生じ、想が生じれば受が生じ、満足して欲情する感覚、受になるという意味です。このように生じる状態は機械のように確かで、最高に素早く回転する機械のように、ほとんど意識できません。

 だから人の体内にある機械ですが、直接体ではなく、それは mentality の mechanism です。このようなのを、私は mentality と言い、あまり spiritual や何かではありません。つまり体に関わりがある心の話で、spiritual である考えや知性の話ではありません。

 二行目と三行目の「感情が根に出合えば、規則的に正確に働く」は、それ自体が説明しています。その感情である外部の形・声・臭・味・触・考えが、根、つまり目・耳・鼻・舌・体・心に出合うと、規則的に働いて識が生じ、触が生じ、想が生じ、受が生じ、このように正確な機械です。四行目の「しかし世界は、熟した性の宝石と迷う」の、この言葉は詩の言葉で、このようでなければなりません。

 意味は「世界(世俗)の人、在家は、最高に素晴らしいものと迷い、宝石と迷う」です。「熟した性」とは、「欲情の感覚がいっぱいの心」です。これは「人が知らない話は素晴らしいと理解して惑溺し、何よりも崇拝するが、本当は体の中に組み込まれた心の面、精神面の機械でしかない」と、指摘して見せるためです。

 だから私たちは、この話の惑溺はどのようか、どのように迷うか、どのように愚かか、どのように賢いか、自分で知ることができます。欲界の段階の一般の動物、つまり世界のすべての普通の動物はこの話が理解できないで、この話に非常に迷います。それ以上に複雑なこと、つまり互いに影響し合い、互いに援け合って強まる心と体の関係がまだあるからです。

 体が元気で丈夫ならこの面の感覚も強く、あるいは心の面も良く考えられ、それがこの感覚を強くするので非常に問題です。つまり関係する問題は、複雑に絡み合っています。しかし欲情と呼ぶものは体の中の機械にすぎず、感情が根に出合えば機械のように働くと言わなければならないと、このように知れば非常に利益があり、迷いを軽くします。

 次に利益があるので、この話に関わる知識、考え、あるいは昔の文化について話したいと思います。つまり私たちは心の面、あるいは宗教面の文化はインドから受け入れ、インドはこの種の文化の根源と認めています。あるいは一般に見ています。インドにも多種多様の探求があります。彼らはこの欲情に関わる話を思い切り探求し、実践する人が学びやすいように、特にヨーガについてそのように規定しました。

 ヨーガとは念処をすることで、念処をする人をヨギーと言います。だから欲情を支配することに関わる話は、ヨギーの人たちにとって直接の問題なので、ヨギーであるために精一杯探求しました。あるいは実践しているヨギーたちが、実践してどのように感じたか、どのような事実があるかを書いておき、話しておき、教えておきました。

 彼らは「意識下の欲情は、普通の欲情を溜めることによってある」と教えています。

 彼らは、人が異性を見た時、あるいは声を聞いた時、あるいは異性に関した何でもあれば、心の中に欲情と呼ぶ一種の感情が生まれると説明しています。本当は「感情が根に触れると規則的に働く」と、先ほど述べた原則から脱すことはできません。智慧がなく、サティがなく、知識がない時に欲情が生まれます。しかし欲情と呼ぶものは初めに炙ります。彼らは「炙る」という言葉を使い、骨髄を炙ります。

 満杯になった感覚が骨髄まで駈けて行って、骨の中の骨髄を炙って水にし、透明な液体にして滴らせ、現代の言葉で prostate (前立腺)という溜めておく袋の中に現れます。これは欲情の基盤である物を見る度、あるいは聞く度、嗅ぐ度、触れる度に増えます。沢山溜まると意識下の欲情が増え、意図せずに欲情を感じることが多くなります。そして極めて妨害になり、あの話この話を勉強したいのに、考えたいのに、性の感覚が妨害し、邪魔をします。これが意識下の欲情です。

 ヨギーの人たちは非常に問題と見、非常に損害と見るので話して教えました。それが最高度になると夢を見るほど妨害し、善くない、美しくない状態の夢です。あるいはそれが増えると袋の中に溜まった水が、夢で流出するからです。ヨギーの教えでは、それをすべてが瓦解すると見なします。ヨギーでは破滅します。だから彼らは外部から防止し、形を見、声を聞き、臭いを嗅いだなどの時にサティがぼんやりしないよう注意するよう教えます。

 だから、彼らはこのような状態で良く知っていると言うことです。正しいか、あるいは現代の知識と一致するかどうかは基準ではありません。現代人の現代の知識が間違っていることもあり、あるいは昔の人の知識が間違っていることもあるからです。しかし利益があるもの、援けになるもの、それが正しいです。だから私は、援けになる、あるいは利益になる検証事項を、正しいとします。

 この教えは、彼らは厳格に支配しなければならない出家であるヨギーに話していて、在家、凡人、普通の人は、このような教えを守らないかもしれません。彼らは欲しがり、あるいは反対に善いもの、彼らが最高に欲しがる(欲情する)良いもの、高尚なものと見てしまうからです。

 しかしいずれにしても限界を越えれば在家にも極めて害があるので、これは知って管理しなければならない話です。この彼らがヨギーのために規定した教えは、私たちに出家の手法面で、欲情がこのような状態の機械なら、管理できると見ることができる、あるいは人は狂人にならずに欲情の感覚を消滅させることができると、理解させます。

 目・耳・鼻・舌・体・心、何でも、常自覚で欲情の感覚を管理すれば意識下で妨害するものを溜めないので、非常に常自覚があります。だから形を見、声を聞き、臭いなどを嗅ぐ度に管理できる人は欲情を作らない人、欲情を溜めない人、欲情を防止できる人です。そして健康、あるいは述べたような状態で自然のままに放置している人より健康です。

 だから阿羅漢、あるいは阿羅漢であることは不可能ではなく、可能なことです。そして阿羅漢はこの感覚を遮断して生じさせず、その後溜めないだけなので、バカみたいな人、サティが異常な人、心が異常な人である必要はありません。ラーガ、欲情の消滅は、心の面、あるいは身体面の異常がなく、自然の当たり前の法則で経過します。

 現代人は、阿羅漢は普通の人のような感覚が無くなったので、異常がある人と疑いがちです。だから欲情という感覚について、機械のような状態で良く知って管理できれば、結果は善くなります。体と心の力、これらを良く管理しておけば、それは知性を育てる力になります

 。極限までいった一回の欲情は体力を低下させます。しかし管理できれば体力、知力を増進するものになり、強く深く考える義務を行うよう脳を援けます。それらに敗北すれば体力を消耗させ、知力を急激に衰弱させます。それは消費であり、得ること、あるいは集めることではありません。

 欲情があると感じないことは、心の力、知性の力を集中しますが、同じように心の力が高く、知性の力が高い人が欲情すると、より多く、より広く、より深く欲情します。それは自然の法則でこのようです。だから私たちはそれを感じ防止すること、適度に解決することでそれを良く知ります。

 みなさんは在家の話、在家がするべき在家の話だけ欲しいという原則があるなら、出家とはレベルが違うと知るべきです。次に私も在家のレベルについてだけ話します。あるいは私は在家だけの話にできないので、広く、あるいは一般的な原則を話し、それをみなさんが自分で判断して在家にふさわしく、ちょうど良く切り捨ててください。

 欲情が心の平安にとって危険な問題になれば、あるいは管理できない人がこの感覚を思い切り放置すれば、身体面も心の面も破滅することがあります。それを管理する問題は、在家にも出家にも生じます。

 次に広く一般的な管理についてお話すると、物理的な管理、あるいは身体的な管理が一つ、心の管理がもう一つで、関連はあっても、このような二つに分けることができます。物理的、身体的、皮膚の面しか知らない人たちは、当然皮膚の面だけ管理しようとし、心の面、精神面に関心のある人は、心の面、精神面を管理しようとします。このようなので引き寄せて合わせなければならず、できれば最高に善いです。

 物理的な管理について話せば、手術、薬物の使用、体に加害して不能にする物理的な行動があります。これらはインド、あるいは周辺国、あるいは文化的発展レベルが同等の国では、何千年も前からあります。

 このことに関した本に、何千年も前のユダヤ人は、この感覚を管理するために子供に手術をしたと書いてあります。女の風俗医がいて、町内を歩き回って生まれた子供の将来のこの面の強烈な感情を管理するために手術をしたいと望む家は、この医者に手術させました。

 子供の臍の緒を切る医者のような風俗的な医者で、医者はその子が成長した後、強烈な感覚がないように、生まれたばかりの時に女児の器官、局部を切り取ります。このように書かれています。少年や若者にもします。これが手術の例です。そして欲情を援けるため、あるいは欲情を減らすために昔の指南書から探し出した薬の使用もあります。

 体を不能にする方は強烈で、インドのある種のヨギーたちは体を苦しめて痩せこけた人になり、常に体の痛みがあるので性的な感覚は減少し、妨害しません。彼らは「これだけで満足できる」と満足します。しかしそれは宗教の話、教義の話で、「神様は愛してくださる。私たちが体を苦しめて不能にすれば、神様に愛され、徳を得る」と書かれています。

 彼らは「このようにすれば欲情が減り、私たちを妨害しないので快適だ」と直接言わず、このような人物話法で「神様に愛され、死んだら天国へ行き、そのような所へ行く」と話します。これを抑圧による欲情の管理、あるいは欲情をなくすこと、あるいは体の器官を加害すると言います。これらを、物理的な管理は物理的、身体的なことだけと言います。

 次に心の面、精神面は、考えや知識の力を使って考えや知識を成熟させ、ニャーナダッサナ(智見)と呼べる程度まで生じさせ、心の強い感覚、この望まない感覚を支配できます。心に関しては、私たちが受ける仏教の教えや忠告と同じようにあります。しかし出来たばかりと理解しないでください。仏教以前からあったかもしれません。

 厭逆(パティクラ)・不浄(アスバ)・、厭逆想・不浄想の教え、出家したその日に、私が菩薩堂でタチャパンチャカカンマターナ(皮五業処)を教えたのは、それらが厭逆のものに見えるよう、喜んで欲情しないようにするためです。そうすれば渋染めの衣をまとうにふさわしくなります。

 しかし全部は取り上げられないので、髪・体毛・爪・歯・皮膚だけを取り上げ、それの厭逆と、それを美しいと迷ったことを学びました。これも欲情である感覚を学ぶ話で、欲情を防止し、性の感覚を支配したいと望みます。

 不浄想も同じ意味があります。私たちが美しいと見ているもの全部、全身を美しくないと見させます。墓地の死体などを見に行かせ、自然に変化して行く体の真実の状況を見て、衝撃や憐れみを感じるものにし、欲情である感覚を抑制します。祖父母たちは「美は死体にある」と教えました。

 いろんな死体を見て、タンマの面の美と見なす、善人にする、あるいは煩悩に勝つ援けになる自然の真実を発見します。勤勉に死体にある美を見に行き、そして勤勉に厭逆想、不浄想をします。これは一般的な基礎であり、イロハのレベルで、一般的な基礎はこのようにしなければなりません。

 もっと高くするには、ダートゥであること、自然に経過すること、それ以上ではないことを熟慮します。つまり欲情、欲情を感じることから最高の惑溺まで自然の欺瞞の話と見ます。処入である目・耳・鼻・舌・体・心の欺瞞、処入を通した自然の欺瞞であり、私たちは愚かで知る間がないので、迷って最高の満足と感じます。こういうのも善いです。

 騙されて見っとも無いと見れば、欲情が薄くなりますが、それにはたくさん「それは何かの欺瞞であり、私を奴隷にする」と本当に感じ、本当に理解し、本当に見るまでしなければなりません。

 「これは最高に恥ずかしい敗北だ。特に出家には」と、敗北の形で見ても良いです。しかし庶民は、敗北と見ません。勝利、得ること、何かを消費すること、素晴らしいものを味わうことと見ます。敗北と見ません。これも愚かさ、あるいは迷いと見なさなければなりません。すごい威力の欺瞞がなければ人は敗北せず、あるいは迷いません。次にそれは一枚上なので、人は勝利と迷い、良いものを手に入れる最高のことと迷います。

 だから普通の人である人間は、何もかもこのためにするほど、これの奴隷になります。たくさんお金を稼いでも、あっという間にこれに関わることに使い尽くし、生涯このようにしています。みなさん、良く熟慮して見てください。宗教の言い回しで言えば、悪魔の奴隷です。騙されること、あるいは敗北は悪魔の奴隷、下僕、奉公人、魔王の奴隷です。魔王は引っ張って行って、自分がしたいようにさせることができます。

 この感覚に溺れた人は、別の煩悩に引っ張られて行って、どんな種類の何でもできます。それは欲情や愛のせいで別の煩悩と関わり、それがまた怒らせ、憎ませ、恐れさせ、悲しませ、何でもいろいろできます。こういうのを彼らは、魔王の奴隷は、引っ張って行って何かをさせる魔王の言いなりと言います。

 みなさんが知らなければ、愛と怒りと、憎しみと恐れと悲しみは、それぞれ別の話だと理解しますが、根源は欲情、心に埋まっている愛にあります。思い通りに得られなければ怒り、時には前もって怒っておくこともあり、前もって恐れておくこともあり、前もって嫉妬しておくこともあります。すべての種類の悲しみ、苦は、愛や自分が愛しているものへの執着から生じます。

 だからすべての悲しみは愛から生じると見なします。簡単に言えば、愛は悲しみ、恐怖、苦の原因と言います。他のいろいろ、嫉妬、妬み、焼きもち、何でも愛に根源があります。このすべての行動を人物話法(人物を主語に話す話法。擬人法)で言えば、魔王が人の鼻先を引っ張って行って何でもでき、魔王の威力になる話です。

 次に仏教の教えでの最高の智慧は、「自然の法則で生じる心の中の感覚は、自然の感覚にすぎない」と熟慮して見ることです。だから、今の人が聞いてもあまり意味が分からない言葉を使えば、「それはそれだけ」です。欲情は欲情だけです。この人は自分ではなく、私、彼でもなく、ただ人だけなのと同じです。欲情もただの欲情にすぎず、自分でも何でもありません。

 私たちは素晴らしい実体と感じ、崇拝しますが、タンマでは「それは欲情にすぎない」と言います。話したように、機械のように正確に自然の法則で生じる感覚です。これが「それはそれだけ」という言葉の意味で、何も素晴らしくはありません。だから欲情がある度に間に合う常自覚があり、「ほら、それは欲情にすぎないよ」と自分に教えてください。そうすれば常自覚である感覚が「欲情にすぎない」と生じます。

 良く防止するには、生じる前に防止しなければなりません。欲情に傾いたら「欲情にすぎない」と言います。これを「兆の時から、欲情の感覚がよぎった時から防ぐ常自覚がある」と言います。過去に何度も、何十回も負けたことがあるかもしれませんが、「またコイツが来た」とすかさず知り、それだけで停止し、それを最高度にしない賢い人になるべきです。だから「それはそれだけ」と知る知識こそ、仏教が教えたい最高に素晴らしい知識です。

 本物、本気の物、高尚な物にしないで、「それだけ」と知ってください。「自然に経過し、絶えず変化しているダートゥ(分子)にすぎない。動物でも人物でも、自分でも彼でもない。動物ではない。人物、動物ではない」とパッチャヴェッカナ(省察)するのと同じです。これは目的がある話し方で、ほとんどの目的は「これはこれだけ」です。「体は体だけ」、自然のダートゥだけで、何か実体のあるものにしません。だから「最高の味」とか何とかいう最高の幸受は、自然のそのような有り様以上に素晴らしい物ではありません。

 次に仏教の教えの応用にするには、仏教の本体である中道と呼ぶものを見なければなりません。中道、中間の、真ん中にある実践。在家でも出家でも、それぞれの中道がなければなりません。在家が欲情に関わるには、あるいは欲情の話の望みがどれだけあっても、中道と呼べる範囲内、「溺れない程度」限度内に限られます。迷いは反対側で、あっち側とこっち側に迷います。

 一方に迷うのは奴隷であり、その味に惑溺する結果神様になり、それをこちら側に思い切り溺れると言います。もう一方、反対側へ思い切り溺れるのは嫌悪し、憎悪し、それを攻撃してしまい、中には性器を切り落とし、性の感覚の腺を切ってしまい、手術で話を終わりにする人もいます。これを「こちら側に思い切り」と言います。

 次に中道は正常な人で、これらと関わるには、どのようでも正しくします。在家なら、ブッダが説かれている性の話に関わる在家の教えで適度に実践をすれば、これだけで正しいと言います。これも結果を受け取り、ちょうど良い、苦がなく、あるいは苦が少なくなります。しかし心の面の発展で、これらの知識があり、理解があり、長くなって適度に時間が経過すれば、自然に移動して高くなり、倦怠が生じ、飽き飽きし、その後二度とそれらの奴隷にならないと言います。

 梵行期(学生期)は規則どおり正しくし、その決まりをバカみたいなものにしてはいけないと、いつも話している教えを忘れないでください。そうすれば、高くなって、善い在家になれます。この善い在家期は、できるだけ、ふさわしいだけ、あるいは正しいだけ、すべての種類の性の感情を味わう期間です。

 在家である時が終わると良く知り、最後には「ああ、それは欲情と感じる感覚だけ。あるいは何もかもそれと感じるだけ。しばらく狂ったが止めよう」と物事を知り、そして隠遁者になり、遊行者になれます。これが課題としてなければ、この話を通過しなければ、そうなれません。

 だから中道と呼ぶものは、このようにする望みがあります。あるいは世界にし、世界に関わり、あるいは世界を消費し、世界のいろんな味を味わうには、いつでも正しさがあるだけにすれば、最後には移動し、より高い所に移動し、これらのものに飽き飽きします。だから欲情の味を消費するには、何らかの食べ物を食べるのと同じようにします。

 この「食べ物」という言葉を、みなさんは、必ず口から食べなければならないと誤解しています。タンマではそのような意味ではなく、食べ物とは結果もたらすものという意味です。食べ物は何らかの結果になる元で、結果になるものは何でも、彼らは食べ物と呼びました。食べ物は、「原因」という言葉と同じです。

 食べ物は、目・耳・鼻・舌・体・心からもあり、目・耳・鼻・舌・体・心から入って原因になるものは全部食べ物と言います。美しい形の状態で入ってくる食べ物は、目で食べる食べ物で、響きの良い音の形で入って来るのは耳の食べ物で、良い香りとして入って来るのは鼻の食べ物で、口から入るのは舌を通じた食べ物で、私たちは口からの食べ物しか知りません。

 皮膚から入って来れば、特にこのように異性間の皮膚の接触で、ここで過去の感情、あるいは未来の感情を思い、内心で考えて心の中に結果が生じれば、タンマーラマナ(想念)の側、考えの側の食べ物と言います。

 自然は「人は目・耳・鼻・舌・体・心のどこからも食べ物を食べなければならない」状態にしました。だから正しい方法で食べ、後先まで良く知り、「それはそれだけ」にし、そして食べることができます。美しい形、美しい声などに関わることもできますが、常自覚で適度に、あるいは律で関われば利益がある正しさで、在家にふさわしいです。

 仏教の教えでは、これらを断つよう提案、あるいはお願いし、何一つ強制していません。それは不可能で、無理にすれば狂う話になるからです。仏教は狂う話でなく、利益になり、何としても世界を通過できるよう望むので、通過するまで、正しい方法で世界を味わわなければなりません。だから形・声・香・味・接触の話を正しい方法、それらを奴隷にする状態で関わり、みなさんがそれの奴隷にならないでください。

 「それを奴隷にし、それの奴隷にならない」と、憶えやすい題目があります。あるいは少なくとも五分五分で、すべての場合を自分の課題にしてください。どこで、いつ、どのように形・声・香・味・接触と関わっても常に課題にします。そうすれば世界はみなさんにとって課題になり、間もなくみなさんは知り、勝利し、世界より上にいることができます。

 まとめればこの問題は欲情について良く知り、欲情を管理し、そして欲情を心の面、精神面の教育の利益のために使い、バカみたいにそれをすっかり消滅させるよう勧めません。そしてそれの奴隷になるよう教えません。あるいはこの味を神様にするようにも教えません。これを中道と言います。

 この世界のすべての物と正しく関わる正しい生活を中道と言い、中道の威力で、世界に沈んでいることから世界の上で暮らすことへ、ローキヤからロークッタラへ、正しく旅をするよう支援するだけです。

 だから在家の生活で、どうしたらそのような状態で欲情の感覚を管理できるかは、これらすべての提言から自分で考えてください。そして、今はまだ僧であることを忘れないでください。話したのは、在家になった時の話です。

 ツグミが終わりの時間を告げたので、今日はこれで終わります。




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