11.在家の性の問題





1970年4月27日

 四時四十五分になりました。提出された問題に沿って、あらゆる角度から在家についてお話する時間です。「在家の欲情の管理をどうするか」について、問題が寄せられたので、今日は「在家の性の問題」と題してお話します。

 「性」とは当然異性間という意味で、一方の性だけではありません。異性は反対の性がなければなりません。そうすると異性間の問題が生じます。そしてここで「性」と呼ぶものは在家の話の、在家という言葉の重要な要旨であると知ってください。性と呼ぶものがなければ在家のいろんな問題はなく、性という言葉もありません。

 パーリ(ブッダの言葉である経)に、滑稽な文章があります。カラーヴァーサ、あるいは家を治める人という意味のガルハサの、ゲハ、あるいは家とは「隠すもの」という意味です。アダムとイブが神様の果物を食べたと言われるほど人間が高い感覚を持つようになると、何が善で何が悪か、何が男で何が女か、何が善く何が善くないか、布をまとっているか布をまとっていないかなどと感じるようになりました。これはキリスト教で語られている内容です。

 しかし仏教の教典にも「人間が恥と恥でないことを知り始めたので布をまとった。そして性の営みの時に他人の目から隠さなければならないので、隠すものが出来た」とあります。それまでは畜生と同じで「自分は人で、あっちは動物」という感覚はなく、女、男と感じず、恥、恥でないいう感覚もありませんでした。

 それから少しずつ感覚が生じて高くなり、これは恥ずかしいものと感じるまでになり、隠す物を作り、閉められる部屋ができ、自分の異性間の行為を他人に見せないように防ぐものができました。ゲハという言葉は、他人に見られたくないものを他人に見られないように防ぐ物を意味します。滑稽と言うのは、家という言葉は、このような意味があるという意味です。パーリ(ブッダの言葉である経)もこのように述べています。

 昔の未開人が性に関して恥を感じ始めたので、家という言葉が生まれ、家の中にいる人は恥を隠すために、家や閉められる部屋を使いました。これは小さなことでなく、必ず何らかの問題が生じる、我慢できなくなる話ということです。これも性の問題に含まれます。

 この「性」というものは、在家の重要な要旨と観察して見てください。性の話がなければ在家の話もないように見えます。生活を営むことは動物にもあり、それはもっと低い基礎です。性の話の意味は、これらの恥や何かに厄介な問題を生じさせるほど特別なものがあります。人が家に夢中になって出家できないのは何の話か、それは性の話が家に夢中にさせ、出家できなくさせると見ることができます。

 もう一つ異性に対して奴隷以上の奴隷のような疲労困憊を受け入れるのは、性の話だからです。気づかないで心で忠実になり、これほど犠牲を受け入れるのは、性というものに意味があるからです。だから性の話は在家の話と見なします。

 次に十分な意味がある性という言葉は、年齢に達した人、あるいは性に関わる器官が機能する体がある人間、人物でなければなりません。だから小さな子供や、性に関わる器官やリンパ腺などが十分でない人は問題ありません。性は性の感覚がある人、性の感覚があるまで、生殖ができるまで大人になった人、成長した人の話です。

 性の感覚は隠されていて複雑で、例えばジークムント・フロイトが「人間のいろんな motive(動機) は、性の感覚から来ている」と言うほどです。熟慮して見れば真実が見えますが、彼が話す言葉は曖昧で、あるいは性に関わっていると言えるほど広いと認めなければなりません。「ゆえ」という言葉を使うなら、「ゆえ」という言葉は関わっているという意味でなければ、何でも「性ゆえ」にしてしまうのも正しくありません。

 positive な方では、この世界の在家の生活で、あれを欲しがり、これを欲しがり、それを欲しがるのは性に関わりがあります。例えば衣服を装うのは性に関わりがあり、あるいは仕事をするのも、泥棒で人の物を盗むのも性の話が根源にあります。あるいは生きて居たい、死にたくない。これも性の話です。命がある動物の深層の感覚で、感覚の旨味である物のために生きたいからです。

 次に服装が性に関わりがあるのは、自覚していなくても異性を魅了したいからです。だから幾重にも複雑に隠されています。罪を犯すのも性の話に原因があります。みなさん、それはどうか、自分で考えてください。

 negative な面は、もっと深く考えなければなりません。たとえば出家するのは、性の話を捨てて出家するのは、性の話が後押しし、つまり嫌悪します。間接的な言葉で「性に関連して」と言っても同じで、だから出家します。本当は、出家しないのも性に夢中になっているからで、出家しないのも性ゆえです。そして出家するのも性ゆえですが、negative な反対側で、異性間の話のおぞましさを嫌悪します。

 笑い話で、仙人たちの宣誓の言葉の話があります。何人もの仙人が、「このことで過ちを犯したら、付きっ切りで世話をする女性が侍り、妻子がいて、子や女房が酷くもつれ合っている人に生まれさせてください」と宣誓します。だから聞いた人は、その人は本当に盗んで行かないと信じます。仙人が「もし間違いをしたら、セックスを豊富にしてください」とここまで宣誓すれば、最高を意味します。それは対角になり、性と呼ぶものの恐怖、おぞましさ、嫌悪が後押しして出家させます。

 あるいは他の言い回しでは「ブラフマ=梵天」という言葉を使い、ブラフマになり、形界の動物、無形界の動物の類の高い心があり、性と関わりません。性は直接心をそのように後押しするものではありませんが、性と呼ぶものへの嫌悪や恐れあるいは倦怠が、心をそのように後押しします。

 だから意味の広い「性に関わる」という言葉を使わなければなりません。性に関わる感覚が家のことを考えさせることもあり、家から出させることもあります。positive か negative かの違いだけです。

  だからみなさんも山頂に登ったように心を高くして熟慮して見れば、「性の話は小さなことではなく、世界のすべての話」と見えます。「世界のすべての話」という言葉を使ってもまだ足りず、世界の外の話も性の威力、性と呼ぶものの威力に関わっています。さて今世界の動き、世界の成り行きを見ると、フロイトなどは「性に関わる話ゆえに」と主張しています。それで考えて見ると、何とか真実を見ることができます。

 月へ行くのは、性とどんな関わりがあるでしょうか。それは何段階、幾重にも考えなければなりません。名誉名声を求めるのは、異性と交渉をする道具にするために、何か良いものを求める深い部分に原因があります。独身なら良い妻を欲しがり、その人に妻子がいれば、妻に気に入られるためということもあります。だから夫の名誉などは、簡単に見えない深い感覚である妻の気持ち次第で、深い心理学です。

 家長は家族のために名誉を作りたいと望み、家族は深い部分では性の意味があります。生きるために食べるのも性のためです。愛欲の話は直接性の話です。名誉の話は性の話の子分です。だから「私は名誉が欲しい。私は名誉が欲しい」と大きなことを言わないでください。これは注意してください。名誉の話はまだ性の話から脱してません。深い所に隠れているだけで、出家するのも、反対に後押しをする性の威力から脱していません。

 昔の出家、ブッダの時代は直接性の話に見えます。ブッダが修行者たちに「なぜ出家したのか、なぜ祭祀をするのか、なぜ修行者になったのか」と質問すると、彼らは「女性のため」と答え、彼らは来世、次の有で高くなるセックスを狙っています。それ以上に高い考えがないので、人間同士の性を好まず、天人や天国など、人間より高い性の話を好みました。

 今餌、あるいは性の感覚を養う物のために、自動車や船やスピードボートで、世界中を行ったり来たりして探求している人は言うまでもありません。百万の金があっても足らず、一億あっても足らず、十億でも足らず、百億でも足りません。お金を求め、名誉を求め、何でもまとめて心の深奥に隠れている性に関わる話が原因で、死んでも今より良い物を得るために生まれたいと望みます。

 だから自分の愚かさで「神様の世界も欲情で満ちている」と一括りにします。あるいは愚かな仏教徒は「涅槃は欲情面で最高の国。あるいは愛欲の類の自分が求める物がある」と言います。

 これは「性の話はポジティブな面もネガティブな面も、つまり得るためにも回避するためにも、人間に何でもさせる根源。あるいは原因」と見てしまってください。だから恐ろしいものか恐ろしくないものか、なぜその仙人は非常に恐れたのか、考えて見てください。性の威力はいろんな理想を支配し、あるいは抜き取ってしまうことができると言うことができます。

 昨日は人間の最高の理想について話し、そして気づかないうちに理想を支配する物、あるいはみなさんの理想を抜いて捨ててしまうものは性の話、あるいはセックスであり、同時に人間を四六時中性の奴隷にするので、性を理想にすると話しました。これは、一般の中間の在家の意味です。在家は性の話に理想があり、そうでなければ在家という言葉の一般的な意味の在家ではありません。

 セックスを意味する性の威力、あるいは性の力は、知らないうちに他のすべての理想を押し流し、性を理想にしてしまうことができると知っておいてください。「人間の最高に善いものを得るために生まれた」という人間としての理想が、知らないうちに木っ端微塵にされるのは、性のせいです。そして最後は奴隷に、昼も夜も、性の奴隷になります。

 これについてパーリで直接話されているブッダバーシタ(ブッダの言葉)があり、  「女性の形のように男の心を支配し維持しているどんな種類の形も見えず、
 女性の声のように男の心を支配し維持している声は見えず、
 女性の匂いのように男の心を支配して維持している種類の匂いは見えず、
 女性の味のように男の心を支配して維持している種類の味は見えず、
 女性の接触のように男の心を支配して維持している種類の接触は見えず、
 女性に関わる想い、夢などのように男の心を支配して維持している種類の想念は見えません」と言われています。

 反対に言えば「男性の形・音・匂い・味・接触・考えのように支配するもの」で、「どちらの性も」で、「男性に関わる話ほど、女性の心を支配して維持するものは何も見えず、そして男性の話ほど女性の心を支配して維持しているものは何も見えません」になります。みなさんは自分で説明できます。子供でもなく、十全な体があり十分な性の感覚があるので、それはどう真実か、自分で説明できます。

 女性の形、あるいは女性の声、女性の匂い、女性の味、女性の接触は広い意味にして、女性に関わるとしてください。例えば舌での味、あるいは何の味でも、自分が愛して気に入っている異性によって味付けされ、あるいは食べる時に異性がいるなどは異性に関わりがあります。それを女性から生じた味、あるいは女性に関わりがある味と言います。このように意味が広いです。

 今私たちは、客である人を目・耳・鼻・舌・体・心のすべての面で、あらゆる歓楽施設に溺れさせるために、性の話を道具にしているのを見ることができます。ブッダが言われたとおりですが、誰も気づく人はなく、損害、あるいは危険と見る人は誰もいません。気づかないうちに志願して性の奴隷になっているからです。お金を稼ぎ、財産や名誉や名声を求めるのも、それらのものをたくさん手に入れるためです。

 次に特に詳細に学ばなければならない部分になりました。つまり性、セックス、これらは六処の欺瞞にすぎず、「セックスは六処の欺瞞にすぎない」と、みなさんが学んで理解しなければならない定義です。次に欺瞞という言葉には、大変なことになると知らなければ知らない分だけ、それは欺瞞することができ、大変なことになると知れば、途端に欺瞞が止まり、騙せなくなるという重大な問題があります。

 「欺瞞」という言葉は非常に深遠な意味があり、大変なことになると知らない間は大変なことになると知りません。あるいは真実を知りません。今セックスは世界中の人の心を支配し、世界中の誰も騙されていると気づかれずに、世界中の人を騙しています。気づかれないからこそ欺瞞できます。気づかれてしまえば騙すことはできません。セックスは、六処の欺瞞にすぎません。目・耳・鼻・舌・体・心の欺瞞、あるいは目・耳・鼻・舌・体・心を通した欺瞞にすぎないと短く端折ります。

 セックスという言葉を目・耳・鼻・舌・体・心の六つで説明します。欺瞞というのは二種類あり、敵のように騙すのが一つ。そして人間が知ることができない、感じることができない自然の欺瞞。これがもう一つです。本当は自然の欺瞞ばかりです。私たちが非常に愚かなら、自然の欺瞞について知りません。だから人対人の欺瞞はすごく浅いですが、自然の欺瞞は人が感じないほど深いと見ることができます。

 一人の人がセックスの物でもう一人を騙して迷わせ、彼らが歓楽施設などを作り、そして人を使ってお金を巻き上げさせます。道具であるセックスに依存して人が人を騙すのは大したことはありません。あるいは異性であるその人自身が、性の話でもう一人を欺瞞する。これも欺瞞の話ですが、このように人を騙すのは自然の欺瞞ほどではありません。自然は人間の目・耳・鼻・舌・体・心の感覚を今感じているように騙し、そしてそれが欺瞞であると気づかせません。

 これについては、たくさん話さなければならないので時間が掛かります。しかし目・耳・鼻・舌・体・心を通して感じる味は欺瞞とまとめることができます。心理学では imagination、つまり概念、あるいは自然に作った、知らずに作ったイメージと言います。異性の話はどれも、目・耳・鼻・舌・体・心を通した何でも、一番重要なのは皮膚の接触です。

 過去想(記憶)で味付けされるので、心がもう一度イメージを作り上げ、私たちは自然にそれを知る術はありません。異性の形・声・香・味・触・考えでも何でも、それは私たちの心に入れない物質なので、みなさん良く聞いてください。声、匂い、女性の体などは、私たちの心に入ることはできません。しかし心が素早く自動的に、何もかもそれと同じイマジネーションを創れば、そうすれば人の心に入ることができます。

 これを証明するのは大変ですが、簡単な理由で証明できます。例えば自分が愛している異性の声は、レコードやテープに記録してもその種の感覚を生じさせることができます。匂いも、味も、何でも同じです。だから人は、偽の人形やら何やら偽物を使ってイマジネーションを創ることができれば、性の用事ができます。

 しかしイマジネーションを創ることができなければ、それはできません。本物の人でも、本当に愛している人でも、私たちにそのように感じさせる感覚を創るものがなければ、何も意味はありません。例えばその時どんな理由でも、憎しみや倦怠が生じれば、その人は性の感覚を創ることはできません。

 だからブッダが言われたように、心を支配し続けるものは、気づかずに自動的に作られるイマジネーションです。そしてそれはイマジネーションと認識できないほど、極めて早いです。大きな原則はこれだけです。細かいことはみなさんが探して観察してください。だから「セックスは六処の欺瞞にすぎない」と定義して話すことができます。今感じているセックスは六処の欺瞞にすぎません。六処とは目・耳・鼻・舌・体・心です。

 次に誰の六処かは、「六処の」と大まかに言うことができます。そして何の六処かは、最高に秘されたものである自然のものです。プラタム、あるいは自然の法則、あるは自然の何でも、自然は隠されたものです。そしてこれはこのような状態で人間を騙せる状態に創られました。

 そうでなければ人間は絶滅します。それは生殖に掛かっています。だから自然は人より、あるいは何よりも賢く、私たちが神様、あるいはプラタムと呼ばなければならないほど生きている動物、あるいはすべての生物を六処を通したセックスで騙すことができます。

 次の目的であるものは生殖です。次に生殖は楽しい話でなく、嫌らしく、おぞましく、子ができたら世話をして育てなければならないなど、人間は好きでないように、最高に嫌いなように、非常に大変ですが、気づかずに志願してするのは、自然が欺瞞するからです。生殖だけで気づかない「賃金」がなければ、誰も生殖をする人はいません。

 だからセックス、あるいは六処の欺瞞は、自然が人を雇って、普通ではしたがらないことをさせる道具、あるいは賃金です。つまり苦労、不潔、大騒動、大混乱を人はしたがりませんが、気づかれずに支配して、騙してさせる道具、あるいは賃金があります。だから生殖のための腺を創り、六処の最高の感覚を生じさせ、六処が最高に刺激されると、目・耳・鼻・舌・皮膚が最高に深く繊細に、最高にふさわしく刺激されます。それが旨味、あるいはパーリ語でアッサーダと言うものです。

 アッサーダとは、目を通じた美味さ、耳を通じた美味さ、鼻を通じた美味さ、舌を通じた美味さ、皮膚を通じた美味さであり、人や動物がこれに敗北し、奴隷になるのを受け入れるほど美味です。だから私は、自然には、普通では人間がしたがらないことをさせる道具、あるいは賃金であるセックスがある、と見なします。神様は巧妙で、自然は巧妙で、愚かさがいっぱいの人間より巧妙な策を使います。

 自然の方が上手で、すべてを組み入れました。この行動がなければ人間は生まれず、今まで繁殖できずに絶滅したか、あるいは生まれません。だから生じて今まで繁殖してきたのは、目・耳・鼻・舌・体・心を通じた最高の味である性の感覚に依っています。自分自身のサティを喚起するために言えば賃金と言い、自然は私たちを雇って、普通ではしたがらない、不潔な大騒ぎをさせます。

 続いて畜生を見てください。犬などの畜生は腺が最高に成熟すると、生殖以外に他の生活はありません。死ぬまで戦います。私の所の犬も死んだことがあり、性の感覚が最高になる数日の間に、噛み合って死にました。犬は何のためにするのか知りませんが、六処の最高の味のためと考え、力の限り努力して、死ぬまで闘います。そして雇い主である自然がこの秘密を動物に気づかれないように隠したので、犬は生殖のためと知りません。

 次に植物まで下げて植物学を勉強すると、それにも異性があり、生殖のために様々な種類の雄しべと雌しべが出会うために最高にジタバタ探求し合い、これのために生きるのは同じです。そして自然は、いろいろ手援けをします。雄しべと雌しべが一つの花にあれば、出合うのは簡単です。そして何としても出合うために悪戦苦闘し、出合わなければ死を受け入れません。

 だから差し芽に賢い人は、芽の先端を切って差して芽を出させる時、蕾が出始めた枝を選びます。例えばこの針花は先端を切って差しますが、花のある枝を差せば絶対に枯れません。生殖をしたいので、花を咲かせて生殖したいので、何としても生殖するまで命を護り、早く、あるいは簡単に根を出します。

 別々の花にある雄しべ雌しべは受粉を援ける物がなければなりません。常に待ち受けていて、そして何キロも離れた所から風が運んで来るまで、水が運んで来るまで、護って維持します。雄しべが水に浮いて流れて来て、水中の雌しべに出合うのは何キロメートルというのもあります。

 みなさん、それは命ある物のすべてだと、このような角度から学習してください。植物は動物や人ほど美味さを感じる器官がないだけで、感じる物は必ずあります。そうでなければ、生殖のために苦闘や努力をしません。だからこれも自然の、神様の欺瞞の範囲にあります。生き物は大したことはなく、植物から動物、そして人になると、人はたくさんの処入があり、目・耳・鼻・舌・体・心があり、そして高い性能があり、たくさんの味を受け取れるので、動物より植物より、処入を通じたセックスに溺れます。

 それで自慢をしないでください。それはより愚かで、より騙されます。その結果、早く際限なく手にする希望や考えがあり、天人界に天人を仮定します。天人は欲情以外に意味がなく、仕事をせず、人間のようにタンマの実践もしないで、昼も夜も四六時中欲情に溺れるだけです。むしろ欲情面に煩い人の夢の考えで、天人の話を規定しました。仮に彼らが話すことが真実なら最高に狂った話で、人間より欲情の奴隷です。

 だからみなさんはこの話に、「セックスは自然が欺瞞するため、あるいは人間を雇って、普通ではしたがらないことをさせるための六処の欺瞞」と、良く理解してください。生殖にこのように困難、厄介、痛みがあると知れば、人間はしたがりません。しかし神様、あるいは自然がそれを賃金にする点が巧妙です。そしてそれはどれほど問題があるか、みなさんも良く知っています。あるいはこの世界に静かさがないのは、このせいですが、幾重にも重っています。

 戦争で一日に何百、何千も殺し合うのも、セックスあるいは欲情に根源がありますが、幾重にも複雑になっています。兵士は何のために戦うのか、給料や報奨のためなのかは欲情のためで、国の名誉のためというは国の安定のためで、自分も安定する機会があるから、欲情を味わうためです。フロイトが言ったように、何でも実に沢山、ここに集約することができます。

 だから目を開け耳を開けて他の人より先に目覚めて賢くなった人間が、性の面、あるいは異性間の行動に関して、ああいう戒、こういう戒と、律の規定をしました。たとえば私たちが常に口にしている「カーメースミッチャーチャーラ(不邪淫)」が戒になり、経として、学問として記され、欲情に関わる苦を生じさせないため、あるいは欲情の奴隷であることを減らすため、何とか見られる規律で暮らさせるための、完璧な規定になりました。

 だから正しい性の営みがあることはタンマの振る舞いと規定されました。私が今話しているようなタンマの振る舞いです。正しい性の営みはタンマの行動です。だから彼らは、害を減らして利益を生じさせるために、そのように正しくさせる話についてたくさんの経を書きました。

 みなさんは聞いて、利益が生じるはずはないと思うかもしれません。つまり正しい知識があれば、この欲情は世界から出るよう後押しをします。だから慎重で賢く、溺れすぎない状態の異性間の営みがなければなりません。そうすれば間もなく自分を抜き出すことができ、それから出て行こうと、あるいはその威力より上にいようと考えます。出家して仙人などになるなどは、昔の話です。

 正しく純粋なこれらの経を書いた目的をまとめた人は、適度で、適切な正しい営みがあること、そして間もなく倦怠して、出家したくなる状態を目指したからです。だからこれらの経もプラタムの経であり、これらの用事の正しい実践はタンマの実践です。

 在家はこの話を避けられず、避け切れないので、正しく、そして適度に関わらなければなりません。そうすれば倦怠し、あるいはそれを良く知り、その結果これから離れたくなります。これは人生は旅の最高点に到達するまで旅すること、という人間の理想と一致します。だから彼らは、これは人生全体の一部分と見なします。

 だから正しい学生になることを教え、それから正しい在家になることを教えれば、隠遁者や遊行者になるのは簡単です。私たちがこれらの話を正しく知れば極めて利益があり、長い間、そして「すべての門で敗北する」状態のセックスの奴隷にならずに済みます。知る状態で関わり、通過することができます。

 次にどの知識、どの種の知識に依存するのでしょうか。仏教の教えを遵守するなら、どの場合にも使えるように説かれた教えがあります。それに勝つために何かを知るには、いつも三種類知らなければなりません。アッサーダ=人を騙すために使う旨味を知り、アーディナヴァ=人にとって危険な害や悪を知り、そしてニッサラナ=それより上の威力を持つ方便、普通の言葉で「それに勝つ道具」というのを知ります。

 もう一度復習すると、人を魅惑して騙すために使う旨味、ここでは欲情の性の味を知ります。そして近づいて溺れた人を焼き炙る低劣な害を知ります。そしてそれより上にいる道具を知ります。そうすれば「これに関して説かれた経」と話したものと同じです。彼らもこの三つを教えました。旨味を教え、欺瞞や煽情はどのようかを早く教え、そうすれば痛みや突き刺すこと、焼き炙ることなどはどのようか、その時に知ります。

 これだけ知れば「それは危険だ」と見るに十分で、自分を引き抜くことができます。それの旨味に惑溺しません。それは輪廻します。私たちは誘惑し、欺瞞し、奴隷にするその旨味を知ります。解決法はその誘惑に迷ないことで、ニッサラナと言います。

 欲情を避けてしまうことを、彼らはニッサラナ(出離)、あるいはネッカンマ(離欲)と言います。性の密林である在家から出て、出家することをネッカンマと言います。家から出ます。これがニッサラナ、その威力から出てしまう道具です。私たちはその威力から脱しますが、体が出家して森の中で修行者になる面だけを意味せず、初めの話、初めの教えが十分で知識と賢さがあれば家の中でもできます。そして無関心でいられ、あるいは管理できます。

 そしてふさわしいだけ、あるいはしなければならない必要なだけし、あるいはまったくしないでもいられます。つまりその後はそれの奴隷になりません。そうすれば知識と賢さがあり、それを通過した人のように暮らすことができます。こういう人もいました。

 昔あった話で、その夫婦はモーカサ、あるいは涅槃への旅の道連れで、性の行為なしに足並みを合わせて一緒に行くこともでき、そして私たちが旨味を知り、害を知り、出る道具の三つを知れば、家にいても正しくなれるとあります。しかし離れて行くより難しいので、家から離れる方が好まれました。

 家で暮らさなければならないなら、同じ教えを使います。つまり知れば賢くなり、それらの物の欺瞞より上にいるので、狂わず、迷わず、良く見るように限界を越えて陶酔しません。私は、現代人は際限なくセックスの奴隷になっていると見ます。

 何もかもこれのためで、これに集約され、外国でたくさんの知識や学問を学ぶのは、高い職業に就くため、高給取りになるためで、これのため、あるいはこれの道具のために使います。直接これのためでも、これの道具にするためでも良いです。人間を溺れさせる非常に高価なたくさんの道具があり、これは性に関わる在家の問題に見えます。

 知らなければならない最後の話は、これらを管理して「自分」を抜き出してしまうことは、若い人が考えているように、愚か者や狂った人の話ではないということです。

 彼らはこれがなければ狂人になり、自然で必ず好むものを好まないサティが異常な人になると考えるかもしれません。それもあり得ます。しかしそれは少しで、本の少し正しいです。去勢された人や性器が完全でない人は感じず、あるいは欲しがりません。そういうのも普通でない狂った人もバカな人の中に含めると言います。しかしサティが異常でこれらに関わらない人、あるいはこれらを嫌う人は、本当に狂っている人たちです。

 しかしこれらに関わらない聖人方は狂人ではなく、これらを良く知っている人です。聖人になりつつある人、今これらのものと闘っている人も狂人ではありません。だから家から出て出家することは、これらを捨てるため、これらと闘うためであり、狂人でなく、狂人と呼ばれるべき人ではありません。

 みなさん、「家から出た僧はバカみたいな人で、サティが十全でないので、魅力的なものに興味がない」と考える人は、「そのサティが異常な人は、その人がセックスの奴隷でありすぎるから旨味が見えず、害が見えず、出る方便が見えない」と観察して見てください。それでこの人たちを「狂人だからそれに関わらず、それに関心がない」と非難することができます。

 だからこれらのものの抑圧をなくす実践規範があり、あるいは努力があることは狂人の話ではありません。その人たちのようにひどく狂わないために、私たちを狂人と言う人たちのように狂いすぎないために、とりあえず適度にするために、そして最後にはそれに勝つために、闘わなければならない話です。

 だから性の感覚を脅す、あるいは捨てる、あるいは抑圧するために努力する人たちは、狂人ではありません。そうです。いろんなことは手法が間違えば狂人になることは事実なので、本当に正しい手法の話にしなければなりません。

 すべてが在家の性の問題で、このようです。先ずこの問題を知って、それからゆっくり問題解決の方法、あるいはどうすればそれに勝てるかについてお話します。

 時間になりました。今日はこれで十分とツグミが鳴いています。




次へ ホームページへ 法話目次へ