1.人生は水牛の二頭立て





1970年4月21日


 今日はみなさんにとって最初の講義の日です。今日は前置きだけ、つまりみなさんが知りたいことを理解するために、一般的な話から始めます。みなさんが書いてくれたメモから、何をどう話すべきか、要点をまとめました。

 前置きとして「どのように実践すれば苦が生じないよう防止できるか」、あるいは「在家に生じている苦の解決法」という、みなさんが知りたい主題でお話します。在家のことを知りたがるのは正しいです。みなさんは永遠に僧でいる訳でなく、還俗して在家に戻らなければならない立場として、在家の問題の解決法を知りたいからです。

 しかし私は「在家・出家について話す必要はない。人間のための普遍的な話をするべきだ」と、別の方向から話したいと思います。

 みなさんは、在家も出家も、煩悩と苦の話は同じと理解しなければなりません。在家の話は低くて粗いだけで同じ話で、在家も出家も、苦があれば執着が原因です。在家も出家も、すべて欲望・取から生じ、そして時にはまったく同じこともあるので、在家のか出家のか分からなくなります。煩悩も苦も、僧と在家の区別がない心の問題だからです。

 その人が僧でも在家のように考えることができ、在家でも僧のように考えることができるので、時には同じこともあります。特に現代の僧は在家のように考えることが非常に多いです。しかし特に「煩悩は同じ」という点を見てください。貪り、怒り、迷い、欲望、執着は、僧のも在家のも同じです。苦は全部煩悩から生まれるのも同じです。このように広く見てください。

 それに、僧と在家に分けるのは小さなことで、苦について話せばほとんど同じなので、まとめて人間について話す方が良いです。ご質問の「苦を防ぐには、あるいは苦を解決するにはどうするか」という問題については詳しく話さないで、前置きのような広い原則をお話します。しかしそれも直接回答です。

 この項目については、基礎として「人生は水牛の二頭立てでなければならない」という話をしたいと思います。タイ人は水牛を使って田を耕すので、水牛で田を耕すことに例えると、「人生(命)が水牛の二頭立てなら、生じている苦を消滅させることができ、そしてまだ生じない苦を防ぐこともできる」としっかり記憶するために、水牛で田を耕す話を symbolic に話します。

 みなさんは水牛で田を耕す様子を知らないのと、そして日に日に知らなくなっているので、水牛で耕す話をしたいと思います。私はみなさんより前に、二頭の水牛で田を耕す時代に生まれました。今は一頭で耕し、機械で耕すこともあります。私たちの先祖は二頭の水牛で耕し、そしてこの二頭は同じようだと理解してはいけません。一頭は賢く、体が小さいことも痩せていることもあり、力はありませんが、彼らが「元牛」と呼ぶ賢い水牛で、もう一頭は体が大きくて頑丈で、彼らは「末牛」と呼びます。

 飼い主が細い棒で叩き、大声で命令するのは元牛だけで、末牛は耳が聞こえなくても構いません。話を聞く必要はありません。つまり飼い主が「右」とか「左」とか言う時は、初めの水牛に右や左に行くように言います。二番目の水牛はバカで、初めの水牛に止まれと言っても歩き続けて、曲がることがあります。

 これです。二頭の水牛は同じ働きをするのではないと知っておいてください。二頭同時に命令を聞くのではなく、最初の水牛は「知る牛」と言って賢く、二番目の水牛は「力牛」と言って強いです。初めの水牛はもう一頭に力を依存するので、田んぼが上手く耕せます。一頭は知識、もう一頭は力です。田を耕すには、このような非常に善い状態があります。

 私たち人の人生も、二頭の水牛を繋がなければなりません。一頭は知識で、もう一頭は力で、一頭しかない人生は問題があります。一頭しか繋いでなければ力だけで、知識に欠ければその人生は非常に危険です。非常に危険になります。

 しかし偶々知識だけなら危険ではありませんが、少ししか仕事ができません。でも安全です。この人生に一頭だけ、つまり知識の水牛だけ繋いであれば、まだ安全です。ゆっくり、あるいはちょうど良いかも知れません。しかし力の水牛しか繋いでなければ、危険なので注意しなければなりません。みなさん全員、そして世界中のほとんどの人が、今一頭だけ、力の水牛だけ繋いでいます。

 ここで私たち東洋人は、精神的な輝きに満ちていた、と指摘したいと思います。自分で訳してもいいです。spiritual enlightenment (精神的な悟り)は、東洋の財産である、精神面の輝きで、すべての宗教は東洋で生まれていることが分かります。キリスト教はパレスチナで生まれたので東洋で、仏教、バラモン教、道教、儒教、ゾロアスター教、全部東洋です。だから東洋は精神的な輝きで繁栄しました。

 西洋にあるのは、腹と口に関わる知識ばかりで、非常に進歩して、今みなさんが崇拝している「テクノロジー」と呼ぶまでになりました。西洋人はテクノロジーを崇拝して、テクノロジーである腹と口の話で呼吸をしていて、精神面の輝きは消失しました。昔信仰していた宗教は全部捨てました。彼らは今、神様は死んでしまったと言います。今は何も信じる必要はありません。

 西洋に残っているのはテクノロジーだけです。西洋人たちにはテクノロジーしかありません。良く聞いてください。それは二番目の水牛、力の水牛で、何を推進することもでき、月の世界へ行くこともできます。あるいは今発展しているテクノロジーに関して、幾らでも腹と口の話はできますが、精神面の輝き、spiritual enlightenment はありません。

 これです。これを見て、理解してください。でなければたくさん知ることはできません。そして重要なことは、今世界がどうなっているか知りません。今世界は面白くて楽しいか、崇拝するべきか、みなさん自身で考えて見てください。どんどん悪くなり、どんどん汚くなっています。昔はこのように暑いと、(高床式家屋の)床下の縁台で、明け方まで快適に眠ることができました。

 今は怖くて寝る気になりません。銃で射殺する人がいるかもしれないからです。ドアを閉めた家の中に寝ていても、安全ではありません。昔は、朝まで床下の縁台で眠っていられました。ここでみなさん、クルンテープ(バンコクのこと)を見てください。昼日中に強奪や強姦ばかりです。今は女の人を拉致して連れて行って利益を得ます。

 外国を見ればクルンテープ以上で、ある国には、一秒ごとに強姦事件があります。そういうニュースを見たことがあります。こういうのは、昔はありませんでした。それが腹と口と、目・耳・鼻・舌の味しかないテクノロジーの結果、あるいは物質的な物、何を求めることもでき、月の世界へ行くことでも何でもできますが、精神の輝きはなく、その結果何のために生まれたか知らないことの結果です。

 私たち東洋には、長い年月伝承してきた遺産である精神的な輝きがあり、そして今は少しずつ薄れています。与える物はテクノロジーしかない西洋の尻を追っているからです。みなさん、西洋を見てください。彼らが私たちにくれるのはテクノロジーだけです。私たちには持ち切れないほどの財産、精神的な輝きがいっぱいあります。

 つまり昔は精神的に穏やかで平和でした。自動車がなくても、預金がなくても、何もなくても人間として穏やかな幸福がありました。次に西洋に関わり、西洋の尻を追い、テクノロジーの結果に酔い始め、昔からの遺産である精神面の輝きを捨てました。今西洋の尻を追って、みなさんは西洋主義で西洋人の先生に教わり、外国へ留学して学問知識を求め、最後の結果は、何らかのテクノロジーを持ち帰って来ます。

 みなさんは、今基本的にすべての学問(science)は、テクノロジーの奴隷にされていると、良く見なければなりません。数学も科学も何学も、全部テクノロジーの奴隷になります。つまりテクノロジーに使うことだけを目的にしています。昔は、これらを精神面の知識、あるいは精神面の輝きに使いました。あるいはどちらに使うこともできました。今みなさんが勉強するのは、文学でも科学でも、何学を勉強しても全部テクノロジーの奴隷になります。

 私が本当のことを言っているかいないか、後で自分で考えて見てください。今世界中の人が勉強している学問は全部、テクノロジーの道具、あるいは用具にするためで、東洋の遺産である精神の輝きの道具に使ったことはない、と言います。私たちの先祖が、苦や道徳面の複雑な問題に遭遇しなかったのは、精神面の輝きであるタンマや宗教を教えとして守っていたからです。彼らに力がなかった訳ではありません。

 生計を営むこと、発明やら何やらの知識はありましたが、彼らは月の世界へ行きたいと思わず、ちょうど良いだけでした。あるいは『アティローポー ヒ パーパコー=貪欲すぎるのも下賤』というブッダの言葉を守り、必要のないことをしたいと考えませんでした。アティローポーとは貪りすぎという意味で、ヒは「も」、パーパコーは下賤という意味で、「貪りすぎも下賤」です。

 テクノロジーの奴隷になっている人たちは、際限なく貪欲で、際限なく道具や用品を欲しがり、月の世界、火星の世界へ行きたがり、何の世界、幾つの世界でもキリがありません。これは「貪欲すぎるのも下賤」というブッダの言葉と一致します。下賤は苦であり、世界中が不安になります。みなさん、調べてみてください。この世界のあちこちで戦争をしているのは、すべて貪り過ぎが原因と分かります。闘う相手はどこの国でも構わず、戦争をするのは貪りすぎだけです。

 宗教はどの宗教も同じ教えを守ると知ってください。貪り過ぎは下賤。彼らは、仏教のようにハッキリ言わないだけです。仏教は『アティローポー ヒ パーパコー』と、ハッキリ言い、キリスト教は「必要以上に求め、あるいは所有すれば罪」と言っています。求めすぎ、あるいは貪りすぎる人は、必ず他人を非常に困らせ、そして本人もあるべき以上の苦があるからです。

 だから適度に求め、適度に所有するように教えます。どれくらいかは自分の自由にしてください。うまく言えません。適度に。ちょうど良く。適度を越えないでください。どの宗教も同じです。求めるにも所有するにも、適度にするよう教えています。それ以上は必要がなく、それは苦を生じさせる話なので下賤と言います。

 次に私たちに精神面の知識、あるいは光があるので「貪り過ぎは下賤」と知ります。だから私たちの先祖は貪りすぎたことがなく、適度に貪りました。西洋人たちがそれを見て、「そういうのは怠け者だ」「こういうのは遅れている」と言いました。彼らにそう言われて勘違いし、先祖たちの子孫である私たちは、西洋人のように貪りすぎるようになり、目・耳・鼻・舌・皮膚の美味しさを、際限なく貪ります。

 それです。私たちの先祖は二頭の水牛を繋いでいたと、良く見てください。精神の輝きを代々遺産として受け継ぎ、そして生計を営むことがあり、農業でも何でもすることができました。そして一人の人間が幸福になるのにちょうど良く、国中の人も幸福で、床下の縁台で涼をとりながら朝まで眠れるくらい、誰もが満足していました。

 これが、私たちタイ人の非常に素晴らしい文化です。つまり二頭の水牛を繋いだ生活文化で、精神の輝き spiritual enlightenment は知識のある水牛であり、生きる知識で、彼らにできる範囲の少しのテクノロジーは二番目の水牛で、二頭の水牛を繋いだ人生がちょうど良いです。だからこういうのは快適でした。

 西洋人たちはうっかり物質の奴隷に陥ったので、テクノロジーの方向へ急速に進歩して、山より大きな真っ黒い二番目の水牛しかいません。山より大きな、鬼のような水牛一頭しかいません。spiritual enlightenment (精神的な悟り)の方はいません。私たちの先祖とこのように違います。子孫たちはどちらにもでき、非難する人は誰もいません。みなさんは民主主義を崇拝しているので、どちらにもできます。西洋人のように一頭立てにもでき、先祖のように二頭立てにもできます。

 しかし今私は、先祖たちにはみなさんが質問したような「どうしたら苦を防ぐことができるか。生じてしまった苦を解決することができるか」という問題はなかったと言っています。自分の中に苦を防ぐ神聖なお守りがあったので、彼らにこういう問題はありませんでした。つまり二頭立ての人生が「苦を生じさせない、困窮しない、現代のように下賤で卑猥にならない」お守りでした。

 これが前置きです。良く聞いて、現代の複雑な問題の原因、根源を良く知ってください。お爺さんお婆さんたちには、こういう問題は一度もありませんでした。防ぐお守りである正しいタイの文化があったからです。タイの最高度の精神文化の痕跡は非常にたくさんあります。

 あそこに記念に作ったナリケーという池の、子供を寝かしつける歌も、spiritual enlightenment 面の高い文化があった人間の痕跡、あるいは形骸です。みなさん自身も「ナリケー椰子は蜜蝋の海の中」が何かを知りません。この歌は、この地域に仏教が繁栄していた、千年も前から知られていました。これがぞっとするような「良い物を捨てたこと」、あるいは「再び闇に、暗黒に戻ること」です。

 みなさんは二頭立ての生き方ができるかどうか、それが問題です。論理の話は、絶対に二頭立てでなければならない、と言って終わります。しかしまだ、みなさんに二頭の水牛を繋いだ生き方ができるかどうかという、実践の問題が残っています。現在の世界は水牛一頭で、テクノロジーの方へ回転していくだけです。

 ここで「学問知識は知識ではないのか」という質問もいただいています。私もそれを知識と認めますが、知るべきことかどうか分かりません。それに知るべきことを間違って知っています。たとえば spiritual enlightenment (精神的な悟り)を時代遅れで古臭いと見ています。大学生は、タンマあるいは宗教は時代遅れで、現代的なのは西洋の物だけと見て、列をなして西洋を真似ます。

 しかし西洋のある人たち、あるいは少数派は目覚めて、反対に「アジアは非常に素晴らしい」と見ていることを忘れないでください。だから素晴らしいものを求めて東洋へ来ます。寝言の哲学だけでない、本当の宗教である東洋の宗教を学びに来ます。

 アメリカでもイギリスでもどこでも、西洋の大学で教えている仏教は哲学の状態で、そして寝言の哲学で、宗教である実践法を教えません。宗教である実践を教えるなら、根が感情である形・声・臭・味・触・考えを受け取った時、変調させて欲望・執着を生じさせないように、どうしたら目・耳・鼻・舌・体・心の六根を管理し、自分の支配下におけるか教えなければなりません。そのように訓練すれば宗教になります。

 しかし彼らは反対に、あの論理この論理を話し、涅槃の話、無我や空の話でも何でも、すべて哲学で話し、論理で話します。このように教えれば、あと何生教えても仏教に到達できません。それは寝言の哲学です。賢い西洋人の中には、わざわざ我が国へ来て「カンマッダーン ヴィパッサナー」、つまり自分の目・耳・鼻・舌・体・心に勝つにはどうするかという実践法を勉強します。これが宗教です。

 向こうでは、もっぱら哲学の形で教え、いろんな哲学と比較し、なぜこうか、なぜそうかとロジックの論理を仮定し、一つのレベルの答が出ると、なぜそうかと問い、答えられるとなぜそうなるかと問います。これが膨れ上がった哲学です。ブッダは必要以上に知るよう望まれませんでした。滅苦をするには滅苦ができるだけを知るべきで、なぜそうか、なぜそうなるのか問う必要はありません。

 お百姓は、土をこのようにして肥料にすれば植物が茂り、植物が茂れば実を食べられると知っているだけで、なぜそうか知る必要はありません。なぜ土をそうするのか、なぜそれを土に混ぜるのか、知る必要はありません。無理に知れば寝言の話です。

 今みなさんは寝言の部分を知ろうとするので、頭から溢れるほど知識があっても、危機を脱すことができない状態になります。小さな話、大きな話、最高の話、どんな話でも「知識が頭から溢れても、危機を脱すことができない」形になります。

 こういうのを私は「寝言の哲学」と言います。西洋人が外国のいろんな大学で教えて勉強しているのは、仏教ではありません。宗教ではなく哲学、あるいは論理、あるいは成り行きで何かになります。だから頭から溢れるほど知っても、何の利益もありません。人生に小さな二頭の水牛を繋いで、知るべき知識だけを知り、力も必要なだけあり、そして人生が平和だった私たちの先祖には敵いません。

 みなさん、終わりを知らない大きな水牛だけに夢中にならないよう、良く注意してください。食べること、性、名誉、仕事の成功で、目・耳・鼻・舌などを養う糧を求める力はあっても、精神面の話はありません。こういうのがみなさんの大学内で胎動し始めました。大学内で殴り合いや殺し合いがあります。大学内に紛争があります。昔はこういう施設にはありませんでしたが、今はあります。

 黒い大きな水牛だけを好む病原菌がいて、大切な元牛、つまり人生とは何か、人生の目的は何かを知る知識である水牛がいないので、こういう知識はありません。大学では人生とは何かを spiritual enlightenment の面から教えていないとみなさんは見えていて、自分の心で明らかになっています。

 彼らは biology の面、あるいは何の面も教えますが、何の利益もなく、知らないのと同じ、あるいは常に間違っているのと同じで、何のために生まれたかを教えません。「人は何のために生まれたか」を教えている学校、大学はどこでも見たことがありません。彼らはあらゆる学問を教え、いろんなテクニックを教えます。そうです。一番の知識の水牛がいなくて、いるのは力の水牛だけ。そうなってしまいました。

 みなさんの頭から溢れるほどある知識は、すべて撫で回す話になり、全部引っ掴んで撫で回します。なぜ生まれたかという項目を知らないからです。今みなさんは、なぜ生まれて来たのか、明らかに知っていません。だからみなさんにある知識はどれも、際限なく撫で回すだけで、終わりがなく、何を、どこで、何のために使うのかを知らりません。せいぜい腹と口のことに使うだけです。

 だから知識を持つのは職業をするため、何らかの仕事をしてお金を得て自分の願望を育むためで、全部煩悩欲望です。なぜ生まれて来たか知らないからです。なぜ生まれて来たか正しく知っていれば、そのすべてをその目的のために使うことができます。なぜ生まれて来たか、正しく知ってください。

 私はよく「人間が得るべき最高に善いものを得るために生まれて来た」と断言します。みなさんはそれが何か知らないので、みなさんが毎日取り組んでいる勉強でも何でも、腹と口の美味しさのため以外に、なぜそれをするのか、何のためにするのか知りません。それは二番目の水牛の話でしかなく、なぜ生まれて来たのか、この人生にはどんな目的があるのか、何が人生のゴールなのかなどを知る初めの水牛の話はありません。

 撫で回す話はどんどん増えて、月の世界へ行くのは人間の最高の知識を全部知り尽くすためと、ある西洋人が言っているように、人間はテクノロジーの勉強をどんどん増やしています。私は信じませんが、彼が嘘を言っていると言わない礼儀はあります。彼は、本当はこれは何の問題解決もできないと、月の世界へ行っても人類の平和の問題は解決できないと、知っているかもしれません。

 しかし彼は世界の危機の問題を解決し、平和にするとか何とか、あのように言わなければならなかったのかも知れません。しかし私は信じません。ここでまた他の世界を撫で回し、どの世界でも勝手ですが、撫で回して模索して撫で回し続け、結局、いろんな問題をどう解決できるか知りません。

 みなさん、この項目をヴィパッサナーしなければなりません。つまり適度に静寂な場所で目を閉じて、「この世界はどんな状況か、自分はどんな状況にいるか、人間を生んだ自然の望みと合っているか」と熟慮します。

 スライドにして映して見せた昔話も、神様は世界を善くするため、住み易くするため、美しくするため、素晴らしくするために人間を創ったと教えています。神様が人間を創ったのは、世界を美しく住み易く、そして素晴らしくするためです。今世界の人間が増え、世界は住み易く、美しく、素晴らしくなったかどうか、考えて見てください。ヴィパッサナーして見てください。先ずこの項目を深く熟慮してしまってください。

 それで今どうか、みなさん自身は今どうか、どんな状況にいるか、何かになったか、二番目の水牛しか知らない現代人の狂気の醜さ、嫌らしさ、哀れさ、悲しさを見てください。それを今みなさんは、これから仏教のタンマを勉強する軌道上にいると言います。つまり問題、あるいは問題である苦を見なければなりません。

 先ずその問題を、問題として正しく見なければならず、そうすれば正しく問題解決ができます。少なくとも痛みや熱や病気とはどんなものかを知り、その解決方を知ることができます。みなさんに問題や苦が見えなくて、苦や何やらを解決して防ぐ方法の答えを、私に求めるなら、滑稽です。

 時には、私もみなさんも、何が問題か、あるいは苦かを知らずに、どちらも目を瞑っていて、それで唾を飛ばして問題解決や苦の解決の話をするだけのこともあります。今、どこでもこういう状態になっています。クルンテープ(バンコク)でもどこでも話すだけで、話している人自身も何か知りません。それで聞いてみると、珍しくていい、楽しくていい。あのタンマ、このタンマが、何か素晴らしくて最高に見えます。

 苦を知ることから始め、それから「苦の原因は何か」にしてください。そうすれば反対の状態である「どうすれば滅苦ができるか」を知り、そして正しい方法を知ります。仏教の四聖諦は四項目あり、苦とは何か①、苦の原因は何か②、苦がまったくないことはどのようか③、そしてどんな方法で滅苦ができるか④。これが仏教の本質と言われる四聖諦です。

 今は違う形で、問題がないのに趣味で学び、趣味で知ります。つまり苦がないのに趣味で滅苦の実践をします。お寺へ行く人、お寺に近づく人のほとんどはこうです。若者や学生や生徒たちが仏教に興味を持つのはほとんどこの形で、問題に遭遇し、そしてその問題を追跡するのではありません。

 大学で仏教の知識として教えるなら、それは論理や哲学の話で、精神面の輝きも何も生じさせることはできません。それは混乱した話、精神面の複雑で込み入った話になります。そして勉強する項目が間違いだらけなら非常に混乱し、学ぶ人は何も掴めません。だから仏教を学べば学ぶほど仏教を知りません。

 私は教職員議会へ行って「三蔵を学べば学ぶほど仏教が分からない」と話しましたが、あの人たちは、私が言ったことには理由がないと、まったく信じませんでした。三蔵を学べば学ぶほど仏教を知りません。三蔵は語学や文学の形の中にあるので、勉強を始めると文学や語学に夢中になるからです。アビダンマを勉強しても論理や哲学の話で、論理や哲学に夢中になります。心が苦の問題に遭遇しなければ滅苦に関心がないので、三蔵を学べば学ぶほど仏教を知りません。このようです。後で考えて見てください。

 本当は人生を学び、自然を学び、自分を学ばなければなりません。そうすれば仏教を知ります。三蔵も勉強の仕方を教えていますが、正しく学び、正しく集め、直接滅苦の方法として使う以外は、膨大すぎて掌握できません。夢中になって語学や文学のように勉強すれば道はありません。たとえばパリエン(パーリ語試験)九段、十段等を勉強してマハーパリエンになっても、滅苦をするものを何も知りません。

 語学のように勉強すれば、オウムや九官鳥のように喋れるだけなので、三蔵を勉強しても仏教を知りません。勉強して、自分自身の煩悩や心の苦に近づかなければなりません。ブッダはそのように教え『世界も、世界の原因も、世界を消滅させることも、世界を消滅させる道も、まだ生きている、まだ心と識がある身丈二メートルばかりの体にあると、私は規定する』と言われています。

 みなさんのようにまだ命があり、まだ生きているこの体の中に世界があり、世界の原因があり、世界の消滅があり、そして世界を消滅させる道があります。ブッダはこれらに関して三蔵を見なさいと言われず、身丈二メートルばかりの体の中の命を見るように言われているという意味です。

 これが、私が「直接命を学ばなければならない。直接心を学ばなければならない、つまり直接煩悩や苦を学ばなければならない」と言っている項目です。そうすれば「本当の仏教」の類の仏教を知ります。そうでなければ文学や語学やその他いろんな、仏教の外皮か内皮か何かです。

 これを「広く見てこの命と呼ぶものを知る」と言います。生物学の命は取り上げません。それについては話しません。細胞の中の protoplasm (原形質)が新鮮ならば生きていると言うようなのは、関係ありません。そういう物質的な命は仏教と関係ありません。タンマの面、spiritual sense の面なら仏教の話です。どの宗教も同じです。命という言葉は、生物学の命を意味しません。

 あるいは普通に「まだ生きている。まだ死んでいない」という意味ではありません。みなさんが「生きている」と言うのは、そういうのは語学の命です。命にはそれ以上のものがあるので、十分ではありません。時には「アイツにはもう命がない」と言うことができるからです。まだ生きているのに、その人を指差して、命がないと言います。つまり命という言葉の意味の命がありません。

 キリストは聖書で「命を捨ててしまえば、命を得る」と言っています。命を捨ててしまえば、命を得る。短くこれだけです。キリスト教徒も聞いて意味が分からないかも知れません。そしてみなさんは、このように奇妙な言い回しは、更に意味が分かりません。このバカみたいな命を捨ててしまえば、神様の永遠の命がもらえます。これを命を管理するタイプの命で、これも命と呼びます。

  Life という言葉はいろんな意味があり、 Life を捨てると life を得ます。今バカみたいな命があって、いつでも二番目の水牛に溺れていて、それから二頭の水牛の価値が分かり、そして正しく生きることができる新しい賢い命になることができ、そして永遠の命と呼ぶ神様に到達できます。仏教教団員は「アマタタンマ、アマタバーヴァ(不死)」と言い、死を知らない命です。

 本当の命は死を知りません。まだ死を知っていれば命ではありません。このようです。みなさんが知っている命は物質面だけ、あるいは庶民の言葉だけで、宗教の言葉の命を知りません。今私は精神面の命、物質でない命と言います。自分がまだ知らないものは何か、良く考えて見てください。

 spiritual enlightenment という言葉の enlightenment とは、悟り、つまり輝かしい知識です。輝かしい知識に、更に spiritual、つまりタンマの面の精神面に限定します。だから物質面の知識は利益がありません。そして enlightenment というものを甘く見てはいけません。知るという言葉はいろんな言葉、いろんなレベルがあるので、みなさんは、それが何か知らないかも知れません。

 みなさんが本を読み、大学の勉強をすると、knowledge とか何とか呼ぶ知識を得ます。それはただの知識でしかなく、その知識を使って reasoning と呼ぶ理屈で勉強し研究すると、understanding、あるいはそのようなものが得られます。それは convince (納得)と言って、knowledge より一段深いですが、まだ enlightenment ではありません。それは論理に依存しているからです。

 知識( knowledge )はテキストや本に依存して勉強するので低すぎ、これらの理解( understanding )は、論拠( reasoning )に依存するので理論の奴隷であり、明らかな知識( enlightenment )ではありません。

 次にみなさんは理解したその知識を、心で知るものを知るために使います。つまり人生でのいろんな経験を教訓にしても、それでもまだ enlightenment という制限があります。spiritual な、つまり高いタンマである精神や心の面の experience でなければなりません。

 子供の頃はどうだったか。子供の頃から今まで、人生でどんな経験をしたか。どう辛かったか。どう嬉しかったか。煩悩はどうかなど。これらを spiritual experience (精神的経験)と言います。こういうことを、煩悩とは何か、苦とは何かが realization というように分かるまで、本で勉強した知識を使って、もう一度勉強します。そうすれば enlightenment(悟り)の類になります。

 だから knowledge に頼ることはできず、一般の理解もまだ信頼できません。まだ道理に左右されるからです。だから理屈を越えた、つまりずっと前からあり、そして今も見えている真実でなければなりません。たとえば性欲が生じてラーガが生じたらどう熱いか、道理を駆使する必要はなく、本の知識も使う必要はありません。本の知識が「ラーガは熱いもの」と教えていても、それはオウムが話すのと同じです。あるいは「ラーガは熱いものに違いない」という道理を使えば、それは推測にすぎません。

 ラーガがあったことがなければなりません。そうすればどう熱いか本当に知ります。それを spiritual experience と言い、enlightenment の material で、他の分野の enlightenment は使いません。精神面、心に関したもの、つまり苦と滅苦だけです。spiritual enlightenment は、東洋の国には溢れていました。仏教があり、ゾロアスター教があり、そしてヴェーダーンタ、つまりヒンドゥー教があり、そして道教、儒教、キリスト教、シーク教、イスラム教など、精神面の光ばかりです。

 しかしみなさんはそれらの宗教を理解していません。あるいはそれらの宗教の人も、どんどん自分の宗教を理解しなくなっています。昔と違って、益々理解できません。そして信仰も止めてしまいます。理解もなく、その上信じようとせず、受け入れようとしないので、私たちは東洋の素晴らしいものをどんどん消滅させ、どんどん西洋の哲学の奴隷になっています。

   私がこう話して、西洋人が怒ることも恐れません。どこででもこう言います。西洋人たちにもこう話し、書くにもこう書きます。彼らが怒ることを恐れません。真実を言っていると信じることが一つ。そしてみなさんを、昔からあった高尚なものに引き戻すため、昔からあった善いものに引き戻すために話しているからです。

 今伝統を捨て、習慣を破って、悪魔であるもの、人間の人間であることを破壊し、世界の平和を消滅させる人たちの物を好んでいるので、みなさんを本来の、元の状態に引き戻します。それは個人のことなので、できます。世界全体を引き戻すことはできませんが、「何がどうか、命とは何か、なぜ生まれてきたか、人間が得るべき最高に善いものを得るにはどうするか」を考え直すようお願いすることで、一人ずつ引き戻すことはできます。

 今私は大学生であるみなさん、あるいは同レベルの人にお話しているので、「最高レベルの教育があると自惚れないでください」と忠告させていただきます。まだみなさんは「何のために生まれてきたのか」という問の答えも知らないからです。みなさんは、自分がなぜ生まれたかということも知りません。この知識が欠けています。だから高等教育(理想の教育)ではありません。

 みなさんが勉強しているのを高等教育と言うなら、指しゃぶりをしている子供の高等教育で、飴玉である食べる話、性の話、名誉の話しか知らない人間の「高等教育」です。みなさんが大学を卒業すると、食べる話、性の話、名誉の話しか知らない普通の人間が、テクノロジーの奴隷である人間の高等教育と見なす、高等教育がある人になります。

 「高等教育」という言葉を借りて使うと、仏教教団員が嗤います。仏教教団員の高等教育は、聖向・聖果・涅槃に到達するまで実践することを意味するからです。仏教教団員が「高等教育」「最高の知識」、何でも最高と言うものは、聖向・聖果・涅槃を意味します。大学の課程を修了することに高等教育という言葉を使うなら、聖向聖果涅槃には、何という言葉を使ったら良いでしょう。

 こうお話すのは、その「高等教育」は、指しゃぶりをしている子供、なぜ生まれて来たかを知らない子供の「高等教育」だということを、忘れないようにするためです。「なぜ生まれて来たか」を知らなければ、みなさんを指しゃぶりをしている子供と呼びたいと思います。高等教育の大学生でなく、まだ「なぜ生まれて来たのか」を知らない、指しゃぶりをしている子供と言います。

 一般社会では、みなさんは最高学府の大学生ですが、スアンモークの社会では指しゃぶりの子供です。なぜ生まれて来たかをまだ知らないからです。これです。みなさんは「どうすれば苦が生じないように防ぐことができるか。そしてどうしたら生じている苦を消滅させられるか」と、本当の高等教育の形の質問をしたので、これを後で考えて見てください。

 これです。本当の高等教育であり、高等教育の問題は。これを知れば指しゃぶりの子供ではなく、高等教育を修了した人です。だから簡単に「みなさんは、二頭の水牛を命に繋いで、二頭の水牛で経過させなければならない」と言います。テクノロジーと spiritual enlightenment が並行すれば、仏教の指しゃぶりの子供を脱し、仏教教団員と呼べるレベルまで成長した人間になります。

 今日は前置きについて話しました。「あることをハッキリ理解させる、範囲の広い話」という意味です。そして後日「苦とは何か。苦の原因は何か。苦を消滅させる方法は何か」について、詳しくお話します。命に二頭の水牛を繋ぐ話をしたのは、「私たちは体に関した学問と、精神に関した学問のどちらも発展させなければならない」と、簡単に見ただけです。

 この二つの言葉、つまり、普通の人の言葉と、聖人が話す言葉の両方を知らなければなりません。「ヒト語、タンマ語」という小さな本を読めば、二つの言語を知ることができます。生まれること「生」という言葉などは、ヒト語では母親の腹から生まれることですが、タンマ語では「俺、俺のもの」という conception thought (概念。考え) が生まれることを意味します。

 生まれるという言葉は、このように意味が違うと言います。これは例です。みなさんが、何でもタンマ語の意味で知れば、二頭の水牛を正しく知ります。二頭の水牛の知識を、正しく、そして漏らさず全部知ります。

 今日の前置きについては、これで終ります。

~・~・~・~・~

 今日「なぜ私たちはこのように、地面に座るのだろう」と不思議に思ったら、これはブッダを思い出して不注意を防ぐために、私がそうしたと、ブッダを思ってください。みなさんはクルンテープの、何十万も何百万もするビルに座って勉強しています。みなさんは何十万、何百万ものビルに座って教え、学んでいますが、今私は、地面に座ってくださいと言います。

 ブッダは地面の上で生まれ、菩提樹の木陰の地面の上で大悟し、そして弟子たちに教えたのも、ほとんど地面の上で、最後に地面の上で涅槃したからです。だから私は何百万もするビルは欲しくありません。こうすることは、テクノロジーの奴隷から解放する方法です。こういうのは、木陰の地面の上に座る、ブッダの弟子のような生活で、そして静寂な時間です。




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