ブッダヴァチャナの宝石箱

第十七章 心の毒の終わりについて




(第八章と対)




    懇願して誘う人

比丘のみなさん。

可愛がることに依存して支援する利益を求める

可愛がる人である教祖が

すべての弟子にすべきことは何でも、

私はみなさんにしました。


比丘のみなさん。それはすべての木の根元。

それはすべての廃屋。


比丘のみなさん。煩悩を燃やす努力をなさい。

油断してはいけません。

みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。

これです。私がみなさんに繰り返し教える言葉は。

   (相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻441頁674項)





チーヴァラの下にある池

パーリ・ブッダバーシタ(仏説)
中部ムーラパンナーサ 三蔵12巻561頁482項

 比丘のみなさん。サマナにふさわしい実践項目を実践する比丘はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。比丘に貪りがたくさんあって貪りを捨てることができ、復讐心がたくさんあって、復讐心を捨てることができる比丘は、怒りっぽい人も怒りを捨てることができ、怒りを抱く人も怒りを抱くのを捨てることができ、恩知らずな人も恩知らずを捨てることができ、目上の人と対等に振る舞う人も、目上の人と対等に振る舞うことを捨てることができ、

妬み深い人も妬みを捨てることができ、ケチな人もケチを捨てることができ、自慢する人も自慢を捨てることができ、策略の多い人も策略を捨てることができ、下賤な望みのある人も下賤な望みを捨てることができ、間違った考えのある人で間違った考えを捨てることができれば、

 比丘のみなさん。サマナを憂欝にするものであり、サマナ・バラモンの害であり、サマナの渋汁であり、動物を悪趣に生まれさせ、そしてすべての動物が悪趣で報いを受け取らなければならない原因である貪りなどがある煩悩を捨てたので、私はその比丘を「サマナにふさわしい実践項目を実践する人」と呼びます。その正しい実践をする人は、当然自分は純潔な人で、そしてすべての悪で下品なものから脱したと、熟慮して見ます。

 熟慮して自分がこのように見えれば喜びが生じ、喜べば喜悦が生じ、心に喜悦があれば名身も静まり、名身が静まれば幸福を味わい、幸福なら心は安定し、その正しい実践者は、恨みがなく復讐心がない偉大な美徳の豊かな慈がある心、悲がある心、喜がある心、捨のある心を第一、第二、第三、第四、上方、投げる方向である下方、すべての方向から世界全体へ広げます。

 比丘のみなさん、清潔で澄みきっている冷たい美味しそうな水があり、昇り降りし易い桟橋がある蓮池は、非常に暑い時、全身が蒸れて熱く疲れて喉が渇いている男が、東、あるいは西、北、南から来ても、その男がその池に到達すれば、喉の渇きと暑さによる焦燥を解消できるように、比丘のみなさん。

家を出て出家した良家の子息は、カッティヤ(王族である武士)の家系でも、バラモン(司祭)の家系でも、ヴェッサ(町人)の家系でも、スッダ(賎民)の家系でも、家に関わる利益を望まない人で、そして私が公開したダンマヴィナヤに依存し、このように慈・悲・喜・捨を育てれば当然内部が静まり、私は「サマナにふさわしい実践項目を実践した人」と呼びます。

 家を出て出家した良家の子息がカッティヤの家系でも、バラモンの家系でも、ヴェッサの家系でも、スッダの家系でも、家に関わることの利益を望まない人で、そしてすべての漏が絶滅して、漏を探すことができない心解脱、智慧解脱に到達し、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができれば、すべての漏がそのように終わったので、私はその人を「サマナ」と呼びます。





世界の毒薬を避ける人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻135頁262項

 比丘のみなさん。色も匂いも味も完璧で、毒薬が入っている飲み物が入った青銅カップがあり、その時非常に暑くて体中が蒸れて熱く、疲れ切って喉が渇いた男が来ると、みんなが「この青銅カップの飲み物は色も匂いも味も完璧で、あなたにとって好機ですが、これには毒薬が入っています。飲みたければ飲んでも良いです。飲んでいる時はその色や匂いや味の虜になりますが、飲めばあなたは死ぬか、死ぬほどの苦を受け取ります」と言います。

 比丘のみなさん。その時男に「猛烈な喉の渇きは冷たい水、あるいは薄いヨーグルト、あるいはマッダローニカ(という飲み物)、あるいはローナソジラカ(という飲み物)で癒せる。これは苦になるので、利益にならないその水を飲むべきではない」と、このような考えが生じ、その男は熟慮して、飲まずにその青銅カップを置いてしまいます。だからその男はそれによって死に至らず、あるいは死ぬほどの苦を受けません。

 比丘のみなさん。同じように過去でも未来でも現在でも同じです。世界の可愛い物を無常と見、苦と見、無我と見、突き刺す物、恐ろしい物と見るサマナ・バラモンは、そのサマナ・バラモンは欲望を捨ててしまうことができます。欲望を捨ててしまうことができた人たちはウパディ(しがらみ。依)を捨てることができ、ウパディを捨てた人たちは苦を捨てられ、苦を捨てた人たちは、生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦、心の苦・憂いから脱し、如行は当然「彼らは苦から脱した」と言います。





谷底に落ちない人

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻561頁1730項

 比丘のみなさん。当然苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の絶滅はこのよう、苦を消滅させる実践項目はこのようと真実のままに知るサマナ・バラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンは、当然、生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・体の苦・心の苦・憂いを生じさせる原因と縁を喜びません。

 彼がその種の変化をさせる原因と縁を喜ばないで暮らせば、当然生などを生じさせる類の原因と縁を二度と作りません。彼がその原因と縁を作らなければ、絶対に生の谷、老の谷、死の谷、悲の谷、嘆きの谷、体の苦の谷、心の苦の谷、憂いの谷に落ちません。そのサマナ、あるいはバラモンは、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・苦・体の苦・心の苦・憂いから脱し、如行は当然「彼らは当然苦から脱した」と言います。

 比丘のみなさん。だからこれは、みなさん。「苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の絶滅はこのよう、苦を絶滅させる実践項目はこのよう」と知る努力するべきです。





仲違いする必要のない人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ガンダヴァーラヴァッガ 19巻525頁1662項

 比丘のみなさん。みなさんは「あなたはこのダンマヴィナヤを良く知らない。私はこのダンマヴィナヤのすべてを知っている。初めに言うべき言葉をあなたは後に言い、後に言うべき言葉をあなたは先に言う。

だからあなたの言葉には利益がない。私の言葉は利益がある。あなたが得意だったことは変ってしまった。私はあなたの言葉を奪って粉々にした。間違った言葉を抜き取るために、私はあなたを制圧した。できるなら反論して見なさい」と、このように別々の執着をさせる原因になる言葉を言ってはいけません。

 みなさん、なぜそのような言葉を言うべきではないのでしょうか。そう述べることには利益がなく、梵行の糸口でなく、倦怠、弛緩、滅尽、静まり、最高の知識、完璧な知識、そして涅槃のためにならないからです。

 比丘のみなさん。みなさんが話す時は「苦はこのよう、苦を生じさせる原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦を消滅させる実践項目はこのよう」という話だけをしなさい。それはなぜでしょうか。そう述べることには利益があり、梵行の糸口でなく、忍耐、(執着の)弛緩。滅尽、静まり、最高の知識、完璧な知識、そして完璧な涅槃のためになるからです。





柵の中にいるべきでない人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ガンダヴァーラヴァッガ 22巻164頁127項

 比丘のみなさん。五つの原因がある比丘は群れから離れて一人で住むべき人です。五つの原因とは何でしょうか。五つとは、

(1)このダンマヴィナヤの比丘はあるだけ、手に入るだけのチーヴァラ(衣)に満足を知る人で、

(2)あるだけ、手に入るだけの食べ物に満足を知る人で、

(3)あるだけ、手に入るだけの住まいに満足を知る人で、

(4)あるだけ、手に入るだけの医薬品八物に満足を知る人で、

(5)愛欲を避ける考えを非常に重視する人です。

 比丘のみなさん。これらの五種類がある比丘は、群れから解放されて一人で住むべき人です。





休まず努力する人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻17頁11項

 比丘のみなさん。比丘が歩いている時、愛欲の考え、あるいは恨みの考え、あるいは他人を苦しめるだけの考えが生じ、そしてそれらの考えを受け止めずに捨て、残らず抜き取って終わりにしてしまえば、そのような比丘は歩いていても「下賤なものを恐れ、煩悩を焼く努力を始め、絶えず煩悩を焼くことに身を捧げる人」と言います。

 比丘のみなさん。比丘が立っている時、愛欲の考え、恨みの考え、あるいは他人を困らせるだけの考えが生じ、そしてその考えを受け入れずに払い捨てて跡形もなく抜き取って終わりにすれば、そのような比丘は、たとえ歩いていても、下賤なものを恐れ、煩悩を焼く努力を始め、絶えず煩悩を焼くことに身を捧げる人と言います。

 比丘のみなさん。比丘が座っている時、愛欲の考え、恨みの考え、他人を困らせるだけの考えが生じ、そしてその考えを受け入れず、払い捨てて残らず抜き取って終わらせれば、そのような比丘は、歩いていても下賤なものに恐怖を感じ、煩悩を焼く努力を始め、絶えず煩悩を焼くことに身を捧げる人と言います。

 比丘のみなさん。比丘が寝ている時、愛欲の考え、恨みの考え、他人を困らせるだけの考えが生じて、そしてその考えを払い捨て、跡形もなく抜き取って終わらせるなら、そのような比丘は、寝ていても煩悩を焼く努力を始め、下賤なものに恐怖を感じ、絶えず煩悩を焼くことに身を捧げる人と言います。





鳥モチに掛かった猿にならなくてもよい人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻199頁703項

 比丘のみなさん。みなさんは父親の領域である、遊ぶべき場所で遊びなさい。みなさんが父親の領域である遊ぶべき場所で遊んでいれば悪魔に好機はなく、悪魔が思いのままにする機会はありません。

 比丘のみなさん。比丘にとって父親の領域である遊ぶべき場所はどのような所でしょうか。そのような領域である場所は四念処です。四念処とは何でしょうか。四つとは、

(1)このダンマヴィナヤの比丘は、当然常に体の中の体を熟慮して見、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、貪りと世俗の憂いを排除してしまうサティがあります。

(2)当然常にすべての受の中の受を熟慮して見、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、貪りと世間の憂いを排除してしまうサティがあります。

(3)当然絶えず心の中の心を熟慮して見、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、貪りと世俗の憂いを排除してしまうサティがあります。

(4)当然常にすべてのダンマの中のダンマを熟慮して、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、貪りと世間の憂いを排除してしまうサティがあります。

 比丘のみなさん。この四念処が、比丘にとって父の領域である遊ぶべき場所です。





還俗より上にいる人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻79頁296項

 比丘のみなさん。ガンガ(ガンジス川)は通常東側が低く、東側へ流れます。その時大勢の人の集団がスコップや鋤を持って、「私たち全員でガンガの水を逆流させてみよう」と決意したら、比丘のみなさん。みなさんはこれをどのように理解しますか。たくさんの人が望むように、ガンガを逆流させることは成功すると思いますか。

 「スガタ様。成功しませんよ」。

 比丘のみなさん。成功させられないのはどうしてですか。

 「スガタ様。それはガンガは通常東側が低く、東へ流れて行くので、ガンガの水を逆流させるのは簡単ではありません。大勢の人たちを無駄に疲労困憊させるだけです。そしてそのようにしている間中、あるのは困難だけです、スガタ様」。

 比丘のみなさん。同じように国王、あるいは国王の重臣、友人、あるいは親戚親族が、八正道の訓練をして八正道の行動を増やしている比丘に「渋染の布をまとうことはあなたにとって何の利益もない。何だって頭を剃り、瓦(鉢のこと)を持って乞食をしているんですか。あなたは還俗して財産を使い、そして徳を積みなさい」と、このように財産を自由に使うように言います。

 比丘のみなさん。八正道の練習をし、八正道の行動を増やしているその比丘が、勉強を止めて在家の低い暮らしに戻ることはあり得ないことです。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。その比丘の心はヴィヴェカ(群れから離れること。遠離)へ傾き、ヴィヴェカへ偏り、永遠にヴィヴェカに流れていくので、低い生活に戻ることはあり得ないことです。

 比丘のみなさん。比丘はどのように八正道の訓練をし、八正道の行動を増やすでしょうか。このダンマヴィナヤの比丘は当然正しい見解の練習をし、当然正しい考えの訓練をし、当然正しい言葉の訓練をし、当然正しい業の訓練をし、当然正しい生業の訓練をし、当然正しい努力の訓練をし、当然正しいサティの訓練をし、当然正しいサマーディの訓練をし、それぞれは当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、そして手放すことに傾いて行きます。

 比丘のみなさん。当然八正道の訓練をし、八正道の行動を増やしている比丘は、このようです。





預流の徳行

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻297頁526項

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は戒を完璧にし、サマーディを十分にし、智慧を十分にする人で、彼はまだ多少教条を犯すことがあり、そしてそれらの小さな罪から出なければなりません。それはなぜでしょうか。それは小さな教条を犯し、小さな罪から出なければならないことから生じる、ロークッタラへの到達の乏しさを知り、言う人が誰もいないからです。

 更に彼は、梵行にふさわしい梵行の初めである教条のどれにも安定した戒があり、確かな戒があり、すべての教条を学んで順守する人です。その比丘はサンニョージャナ(動物を輪廻に結びつける煩悩。十結)の三つ(有身見と疑と戒禁取)がなくなったソターパンナ(預流者。涅槃の流れにたどり着いた人)であり、落ちて普通にならない人、将来確実に悟ることが約束された人です。

 比丘のみなさん。その比丘は三つのサンニョージャナがなくなったので、最高でもあと七回人間と天人の有へ輪廻しなければならず、そして苦を終わらせることができる人です。

 比丘のみなさん。その比丘はサンニョージャナの三つが終わったので、二三の家系(註)に輪廻しなければならず、そして当然苦を終わらせる行動をします。

 比丘のみなさん。その比丘は三つのサンニョージャナがなくなったので、一回だけ種がある人、つまり一回だけ人間の世界に生まれ、そして当然苦を終わらせる行動をします。

註: 人間のような家系、人間らしい家柄に生まれるという意味。





一来の徳行

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻298頁526項

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は戒を完璧にし、サマーディを完璧にし、智慧を完璧にする人で、彼はまだ小さな教条を犯し、そして小さな罪から出なければならないことがあります。それはなぜでしょうか。

 それは小さな教条を犯し、小さな罪を出なければならないことから生じるロークッタラの到達の貧しさを、知って言う人が誰もいないからです。更に梵行にふさわしい梵行の初めである教条のどれにも、彼は安定した戒があり、それらの教条に確かな戒があり、すべての教条を学んで遵守する人です。

 その比丘は三つのサンニョージャナ(結)が終わったので、貪・瞋・痴が薄くなり、減り、サカダーガミー(一来者)になり、もう一度だけこの世界に来て、そして当然苦を終わらせる行動をします。


 


不還の徳行

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻298頁526項

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は戒を完璧にし、サマーディを完璧にし、智慧を十分にする人で、彼はまだ小さな教条を犯し、小さな罪からでなければならないことがあります。それはなぜでしょうか、それは小さな教条を犯し、小さな罪を出なければならないことから生じるロークッタラの到達の貧しさを、知って言う人が誰もいないからです。

 更に梵行にふさわしい梵行の初めである教条のどれにも、彼は確かな戒があり、それらの教条に安定した戒があり、すべての教条を学んで遵守する人です。

 その比丘は、サンニョージャナ(結)の五つ(有身見と疑と戒禁取と貪欲と瞋恚)がなくなって、突然生まれる人アナーガミー(不還者)になり、その界で涅槃に入り、その世界から戻って来ないのは当然です。





(別の意味・五種類のアナーガミー)

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻300頁527項

 比丘のみなさん。その比丘はサンニョージャナ(十結)の初めの五つがなくなって、有頂天へ行く上部の流れがある人です。

 比丘のみなさん。その比丘はサンニョージャナの初めの五つがなくなって、努力して完全に涅槃に入る人です。

 比丘のみなさん。その比丘はサンニョージャナの初歩の五つがなくなって、努力しなくても完全に涅槃に入る人です。

 比丘のみなさん、その比丘はサンニョージャナの初歩の五つがなくなって、寿命の半分を過ぎて、ほとんど最期に近い頃、完全に涅槃に入る人です。

 比丘のみなさん。その比丘はサンニョージャナの初歩の五つがなくなって、年齢が寿命の半分にならないうちに、完全に涅槃に入る人です。





阿羅漢の徳行

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻300頁527項

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は戒を完璧にし、サマーディを完璧にし、智慧を完璧にする人です。彼はまだ小さな教条を犯すことがあり、小さな罪からでなければならないことがあります。それはなぜでしょうか。それは小さな教条を犯し、小さな罪から出なければならないことから生じるロークッタラの到達の貧しさを、知って言う人が誰もいないからです。

 更に、梵行にふさわしい梵行の初めである教条のどれにも安定した戒があり、それらの教条に確かな戒があり、すべての教条を遵守する人です。その比丘は、漏が尽きたので漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその高い感覚の中にいます。





心の毒がなくなったから仏教を公開する

パーリ・ブッダバーシタ
論蔵マハーヴァッガ 4巻39頁32項
パラナシーのイシパタナマラガダーヤヴァンの森で、最初の六十人の阿羅漢に

 比丘のみなさん。如行は天の物も人間の物も、すべての首かせから脱しました。みなさんも、天の物も人間の物も、すべての首かせから脱しました。比丘のみなさん。みなさんは多くの人の幸福のため、世界を可愛がるため、人間と天人双方を支援する利益のため、幸福のために遊説なさい。二人同じ方向へ行ってはいけません。

 比丘のみなさん。みなさんは初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しいダンマを説きなさい。意義と細部のどちらも完璧な素晴らしい実践規範を公開しなさい。目の中のゴミが僅かしかない動物もいます。これらの動物は当然ダンマを聞かないので、得られるべき恩恵がありません。ダンマを知り尽くす人がきっといます。

 比丘のみなさん。私もウルヴェーラーセーナーニガマへ説法に行きます。




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