ブッダヴァチャナの宝石箱

 第十六章 宣言を忘れないことについてⅡ




初禅に達した人

パーリ・ブッダバーシタ
 中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻505頁471項

 比丘のみなさん。その比丘が、心を憂欝にし智慧の力を後退させる五蓋を捨てることができれば、愛欲とすべての悪が静まることで初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 初禅にはヴィヴェカ(群れから離れて一人で住むこと。遠離)から生じたヴィタカ(思惟)・ヴィチャーラ(考察)があり、ピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)があり、彼は遠離から生じた喜悦と幸福に全身が濡れ、一回り濡れ、彼の体のどの部分も遠離から生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。沐浴師あるいは賢いその助手でも、青銅のタライで水浴をする時、体を擦る粉を振り撒いてそれを水で湿らせおくと、夕方になると粉の固まりからヤニが出て固まって流れ落ちなくなるように、比丘のみなさん、遠離から生じた喜悦と幸福で全身を濡らし、一回り湿らせると、彼の全身のども部分も、遠離から生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。





二禅に達した人

パーリ・ブッダバーシタ 
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻505頁472項

 比丘のみなさん。もう一つ、ヴィタカ(思惟)・ヴィチャーラ(考察)が静まることで、比丘は一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、ヴィタカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの、心の内面を明るくするものである二禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 彼はサマーディから生じた喜悦と幸福で全体を濡らし、全身を一回り濡らし、彼の体のどの部分もサマーディから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。水が渦になっていて、東にも南にも西にも北にも水口がなく、雨が降れば水が増える深い淵は、雨が降っている間中淵の冷たい水が跳ね上がって撒き散らすので、その淵のどの部分も冷たい水に触れない部分がないように、比丘のみなさん。この水浴はサマーディから生じた喜悦と幸福で全身を濡らし、全体を湿らせ、彼の体のどの部分も、サマーディから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありませせん。





三禅に達した人

パーリ・ブッダバーシタ 
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻506頁473項

 比丘のみなさん。もう一つ、喜悦が薄れることで比丘は常自覚があり名身で幸福を味わう捨にいる人で、聖人の方々が「この禅定に達した人は、捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言われる三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。

 彼は喜悦がない幸福だけで全身を湿らせ、一通り湿らせ、彼の体のどの部分も、喜悦のない幸福に触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。水連の沼、紅蓮の沼、白蓮の沼では、水連の花、紅蓮の花、白蓮の花があり、水の中で生まれて水面下で成長し、まだ水から出ないで水面下に沈んでいる群れもあり、それらは先端から根まで全部冷たい水に浸かっているので、それらの蓮のどの部分も、水に触れない部分がないように、比丘のみなさん。この水浴は喜悦のない幸福だけで全身を湿らせ、隈なく湿らせ、彼の体のどの部分も喜悦のない幸福に触れない部分はありません。





四禅に達した人

パーリ・ブッダバーシタ 
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻507頁474項

 比丘のみなさん。もう一つ、幸福と苦を捨ててしまえることで、憂いと過去の憂いが消滅することで、比丘は苦も幸福もなく、あるのは捨による純潔な自然であるサティだけの四禅に達し、そして常にその高い感覚の中にいます。彼は座って明るく澄んだ清浄な心を全身に行き渡らせ、彼の体のどの部分も、明るく澄んだ清浄な心に触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。座って頭からすっぽり全身を白い布で覆っている男の全身は、布に触れて(覆われて)いない部分がないように、比丘のみなさん。比丘は座って全身に明るく澄んだ純潔な心を行き渡らせ、彼の体のどの部分も明るく澄んだ清浄な心に触れていない部分はありません。





宿命智

パーリ・ブッダバーシタ 
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻507頁475項

 比丘のみなさん。その比丘の心が安定して純潔清浄で、煩悩がなく随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然である、このように動揺しないよう維持すれば、彼は心を宿命智に傾け、過去に暮らした幾つもの蘊を思い出します。

 一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、幾つもの宇宙の崩壊、幾つもの宇宙の生成、幾つもの宇宙の崩壊と生成を「その生の私の名前はこう、姓はこうで、こういう階級があり、こういう食べ物があり、このような幸福と苦を味わい、

 何歳で寿命が終わり、その世が終わるとどこに生まれ、どういう姓名、どういう階級、どういう食べ物で、どのような幸福と苦を味わい、幾つで寿命が終わり、その生が終わると、次はどこに生まれた」と回想します。彼はこのように、過去に暮らした蘊について、状態と状況と一緒に回想します。

 比丘のみなさん。ある人が自宅を出てよその家へ行き、それからまた別の人の家へ行き、それからその家を出て自宅へ戻ると、その人は「私は自分の家を出て他人の家へ行き、その家で立って座ってこのように話し、黙り、それからまた別の人の家へ行き、その家でもこのように立って座ってこのように話し、黙り、それからその家を出て自分の家へ戻った」と思い出すように、比丘のみなさん。

 比丘は過去に暮らしたことのある幾つもの蘊を、一つの生、二つの生、三つの生、四つの生、五つの生、十の生、二十の生、三十の生、四十の生、五十の生、百の生、千の生、十万の生、幾つもの宇宙の崩壊、幾つもの宇宙の生成、幾つもの宇宙の崩壊と生成を、「その生での私の名前はこうで、姓はこうで、こういう階級があり、こういう食べ物があり、このような幸福と苦と味わい、

 何歳で寿命が終わり、その世が終わるとどこに生まれて、どういう姓名、どういう階級、どういう食べ物で、どのような幸福と苦を味わい、幾つで命が終わり、その生が終わると、次はどこに生まれた」と回想します。このように過去に暮らした蘊について、状態と状況も同時に思い出します。





天眼智

パーリ・ブッダバーシタ 
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻508頁476項

 比丘のみなさん。その比丘の心が純潔で煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然であり、このように揺らがない状態で安定すれば、彼は心を天眼智に傾けます。彼は普通の目より純潔な天の目があり、当然逝く動物、生まれる動物が見え、下賤か上品か、良い身分か悪い身分か、苦か幸福かが見えます。

 彼は「みなさん、これらの動物は不正な体、不正な言葉、不正な考えがあり、すべての聖人を非難する間違った見解があり、邪見により間違った仕事を営み、体が壊れて死んだ後は、揃って悪諏・報いを受ける場所・地獄に生まれます。みなさん。正しい体、正しい言葉、正しい考えがあり、すべての聖人を非難せず、正しい見解があり、

正しい見解によって正しい仕事を営むこれらの動物、体が壊れて死んだ後は、当然揃って善諏、天国へ行きます」と、動物をカンマで明らかに知る人です。彼は普通の人間より純潔な天眼があり、死ぬ動物と生まれる動物、劣悪か上品か、善い生まれか悪い生まれか、苦か幸福か見え、カンマでこのようになった動物を明らかに知ります。

 比丘のみなさん。門が向き合っている二軒の家に目の良い人が間に立てば、家に入る人、出る人、歩いて出入りする人が真っ直ぐ行くか曲がるか見えるように、みなさん。普通の人間より純潔な天眼がある比丘は、動物が行き、生まれるのが見え、劣悪か善良か、良い身分か悪い身分か、苦があるか幸福があるかが見え、カンマによって到達した動物の群れを、明らかに知ります。





漏尽智が本当のサマナにする

パーリ・ブッダバーシタ 

中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻509頁477項

 比丘のみなさん。その比丘の心が純潔で煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事にふさわしいしなやかな自然であり、このように揺らがない状態で安定すれば、彼は心を漏神智に傾け、彼は当然「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅に至らせる道はこのよう」、そして「これがすべての漏、これがすべての漏の原因、これがすべての漏の消滅、これがすべての漏の消滅に至らせる実践」と、真実のままに知ります。

 彼がこのように知りこのように見えれば、欲漏、有漏、無明漏から脱し、心が解脱すれば「心が解脱した」と洞察する智が生じます。彼は「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事を成功させた。このような暮らし(解脱)のためにしなければならない仕事は、他に何もない」とこのように知ります。

 比丘のみなさん。山の中の澄んだ水の淵の畔に目の良い人が立って見ると、砂利や小石や止まっている魚、泳ぎ回っている魚の群れなど色んなものが見え、その人は「この淵の水は澄んで濁っていない。貝や小石や砂利、いろんな魚の群れが、水の中で泳いでいる」と、このように心に留めるのと同じです。

 比丘のみなさん。同じように比丘は当然、「苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦が消滅するとこのよう、苦の消滅に至らせる方法はこのよう」、そして「これがすべての漏、これがすべての漏の原因、これがすべての漏の消滅、これがすべての漏の消滅に至らせる方法」と、真実のままに明らかに知ります。

 彼がこのように知りこのように見えた時、心は欲漏、有漏、無明漏から解脱し、心が解脱すれば「心が解脱した」と洞察するニャーナ(智)が生じ、彼は「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は終わった。このようである(解脱)ためにするべき仕事は他にない」と明らかに知ります。

 比丘のみなさん。述べたような仕事が終わった比丘を、私は「サマナ」「バラモン」「マハータカ」「ヴェーダグー」「ソッティヤ」「アリ=聖人」「阿羅漢」などと呼びます。

 (「憂鬱になり、もう一度生まれなければならない方へ傾き、焦燥になり、結果である苦があり、生老病死の基盤である、悪で下品な物が静まることでサマナになり、悪で下品な物を超えることでバラモンになり、悪で下品な物を浴びないことでマハータカになり、

悪で下品な物が終わったと知ることでヴェーダグーになり、悪で下品な物に傾かないことでソータティアになり、悪で下品な物から離れることでアリヤ、聖人になり、悪で下品な物から遠退くことで阿羅漢になる」と説かれています)。





教条を犯すくらいなら死を受け入れる

パーリ・ブッダバーシタ 
小部ウダーナニカーヤ 25巻155頁118項

 比丘のみなさん。海は当然一定の水位に止まって岸に溢れないように、比丘のみなさん、私がすべての弟子のために規定したどんな教条も、すべての弟子は、たとえ命を失わなければならなくても、当然教条を犯すことはありません。

 比丘のみなさん。私がすべての弟子のために規定した教条のどの項目も、私のすべての弟子が、たとえ命を失わなければならなくも当然その教条を犯すことがないのは、このダンマヴィナヤの不思議であり、あり難いことです。
 すべての比丘がこれを見ると、このダンマヴィナヤに極めて満足します。





違うものを重要な原則にしない人

パーリ・ブッダバーシタ 
小部ウダーナニカーヤ 25巻155頁118項

 比丘のみなさん。この場合の良家の子息は信仰があり、家を出て出家して家に関わらないのは、「私は生・老・死・悲しみ・嘆き、体の苦、心の苦、憂悶に支配されている苦の海に落ちた人であり、目前に苦がある。どうすれば苦の海の終わりを実現させることができるだろう」と、このように考えるからです。

 このように考えた時、その良家の子息は信仰で出家します。出家すると貰い物と称賛を生じさせることができ、彼はその貰い物と称賛を喜ぶ心がなく、その貰い物と称賛について考えず、その貰い物と称賛で傲慢にならず、その貰い物と称賛に油断するほど陶酔せず、油断しなければ彼は戒の完璧さを生じさせることができます。

 彼は戒が完璧なことを喜びますが、その完璧な戒について一通り考えず、その戒が完璧なことで傲慢にならず、その戒の完璧さに酔わず、その戒が完璧なことで油断せず、油断しなければ彼はサマーディ(三昧)の完璧さを生じさせることができます。

 彼はそのサマーディの完璧さを喜びますが、そのサマーディの完璧さに関して一通り考えず、そのサマーディの完璧さで傲慢にならず、そのサマーディの完璧さに酔わず、そのサマーディの完璧さで油断せず、油断しなければ彼はニャーナダッサナ(智見)を生じさせることができます。

 彼はそのニャーナダッサナを喜ぶ心はありますが、そのニャーナダッサナについて一通り考えず、そのニャーナダッサナで傲慢にならず、そのニャーナダッサナに陶酔せず、そのニャーナダッサナで不注意にならず、不注意にならなければサマヤヴィモッカ(時解脱)が生じます。

 比丘のみなさん。これは当然あり得ます。つまりその比丘の時解脱が衰退することもあり得ます。


(別の内容)

 比丘のみなさん。芯材を求める男が芯材を探し回り、芯のある大木を見つけて「これが心材だ」と思って心材を持ち帰ります。

 目のある人がこの人を見ると「この人は心材を知り、辺材を知り、内皮を知り、外皮を知り、枝先の若葉を知っている。この人は心材がほしくて心材を探して心材のある大木を見つけ、『これが心材だ』と考えて心材だけを持ち帰る。彼が心材で作らなければならないものは、確実に完成する」とこのように言います。

 比丘のみなさん。同じようにこれは当然あり得ず、そうなる機会はありません。つまりその比丘のそのアサマヤヴィモッカ(非時解脱)が衰退することは。

 比丘のみなさん。この梵行には、貰い物と称賛が功徳としてあるわけではありません。この梵行は、戒の達成が功徳としてあるわけではありません。この梵行は、サマーディの達成が功徳としてあるわけではありません。この梵行はニャーナダッサナ(智見)に到達することが功徳としてあるわけではありません。

 比丘のみなさん。何も悪化させないチェトーヴィムッティ(心解脱)があり、この梵行はチェトーヴィムッティが目指す利益であり、チェトーヴィムッティが心髄であり、チェトーヴィムッティが梵行の終わりです。





五蘊の「秘密」を知る

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部ガンダヴァーラヴァッガ 17巻63頁102項
竹林精舎にて

 ソーナさん。当然形・受・想・行の状態を知り、それが生じる原因を知り、その消滅を知り、消滅させる実践項目を知るサマナ・バラモンは誰でも、当然形・受・想・行・識の状態を知り、生じる原因を知り、消滅を知り、消滅させる実践項目を知っています。

 ソーナさん。そのサマナ・バラモンがすべてのサマナの中のサマナと仮定されても、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、本当のサマナ、あるいはバラモンであり、そして生きている間に最高の智慧で、サマナあるいはバラモンであることの利益を明らかにし、その感覚の中にいます。





取蘊の秘密を知る

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部ガンダヴァーラヴァッガ 17巻195頁294項

 比丘のみなさん。五取蘊の旨味を知り、害を知り、そして払い捨てる方便を真実のままに知っているサマナ・バラモンは誰でも、比丘のみなさん。そのサマナ・バラモンはすべてのサマナの中のサマナ、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、本当のサマナ・バラモンであり、そして生きている間にサマナであること、バラモンであることの利益を最高の智慧で明らかにし、その感覚の中にいることができます。





四大種の秘密を知る

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部ニダーナヴァッガ 16巻209頁417項

 比丘のみなさん。これらの四大種(土・水・火・風)の旨味を知り、害を知り、払い捨てる方便を真実のままに知っているサマナ・バラモンは誰でも、比丘のみなさん、

そのサマナ・バラモンはすべてのサマナの中のサマナと仮定されても、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、本当のサマナ・バラモンであり、そして生きている間に最高の智慧で、サマナであること、バラモンであることの利益を明らかにし、その感覚の中にいることができます。





六根の秘密を知る

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部マハーヴァーラヴァッガ 17巻273頁911項

 比丘のみなさん。当然これらの六根の発生を知り、消滅を知り、味を知り、害を知り、そして捨てる方便を真実のままに知っているサマナ・バラモンは誰でも、比丘のみなさん。

そのサマナ・バラモンはすべてのサマナの中のサマナと仮定されても、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、本当のサマナ・バラモンであり、そして生きている間に最高の智慧で、サマナであること、バラモンであることの利益を明らかにし、その感覚の中にいることができます。





五根の秘密を知る

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部ニダーナヴァッガ 16巻209頁417項

 比丘のみなさん。当然五根(信仰・精進・サティ・サマーディ智慧)の発生を知り、消滅を知り、味を知り、害を知り、そして捨てる方便を真実のままに知っているサマナ・バラモンは誰でも、比丘のみなさん。

そのサマナ・バラモンがすべてのサマナの中のサマナと仮定されても、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、本当のサマナ・バラモンであり、そして生きている間に最高の智慧でサマナであること、バラモンであることの利益を明らかにし、その感覚の中にいることができます。





縁起を知ればサマナになる

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻273頁911項

 比丘のみなさん。老死を知り、老死の原因を知り、老死の消滅を知り、老死の消滅に至らせる実践項目を知っているサマナ・バラモンは誰でも、

 当然生を知り、生を生じさせる原因を知り、生の消滅を知り、生の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然有を知り、有を生じさせる原因を知り、有の消滅を知り、有の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然取を知り、取を生じさせる原因を知り、取の消滅を知り、取の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然欲を知り、欲が生じる原因を知り、欲の消滅を知り、欲の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然受を知り、受が生じる原因を知り、受の消滅を知り、受の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然触を知り、触が生じる原因を知り、触の消滅を知り、触の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然六処を知り、六処が生じる原因を知り、六処の消滅を知り、六処の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然、形を知り、形が生じる原因を知り、形の消滅を知り、形の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然識を知り、識が生じる原因を知り、識の消滅を知り、識の消滅に至らせる実践項目を知り、

 当然行を知り、行が生じる原因を知り、行の消滅を知り、行の消滅に至らせる実践項目を知ります。

 比丘のみなさん。そのサマナ・バラモンはすべてのサマナの中のサマナと仮定されても、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、本当のサマナ、あるいはバラモンであり、そして生きている間に最高の智慧で、サマナであること、バラモンであることの利益を明らかにし、その感覚の中にいることができます。





四聖諦を知ればサマナになれる

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻542頁1701項

 比丘のみなさん。当然苦はこのようと真実のままに知り、苦が生じる原因はこのようと真実のままに知り、苦の消滅はこのようと真実のままに知り、苦の消滅に至らせる実践項目はこのようと真実のままに知っているサマナ・バラモンは誰でも、比丘のみなさん。

 そのサマナ・バラモンはすべてのサマナの中のサマナと仮定されても、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、本当のサマナあるいはバラモンであり、そしてサマナであることの利益、バラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができ、そしてその感覚の中にいます。




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