ブッダヴァチャナの宝石箱

第十五章 ダンマに関してガサツでないことについて



(第六章と対)




    懇願して誘う人

比丘のみなさん。

可愛がることに依存して支援する利益を求める

可愛がる人である教祖が、

すべての弟子にすべきことは何でも、

私はみなさんにしました。

比丘のみなさん。それはすべての木の根元。

それはすべての廃屋。


比丘のみなさん。煩悩を燃やす努力をなさい。

油断してはいけません。

みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。

これです。私がみなさんに繰り返し教える言葉は。

   (相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻441頁674項)




オウムや九官鳥でない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 三蔵22巻100頁74項

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然(各種の)ダンマの学習である経、応頌、授記、偈、自説、如是語経、本生経、未曾有法、方広を勉強し、彼は当然そのダンマの深い意味を智慧で知ります。このような比丘をダンマ住者、ダンマで暮らす人と言います。

 比丘のみなさん。私はこのように学習が多い比丘も説明し、規定が多い人も説明し、解説が多い人も説明し、たくさん考える人も説明し、そしてダンマで暮らす比丘もこのように説明しました。

 比丘のみなさん。可愛がることに依存して支援する利益を求める可愛がる教祖が、すべての弟子にすべきことは何でも、私はみなさんにしました。比丘のみなさん。それはすべての木の根元、それはすべての廃屋。比丘のみなさん。煩悩を燃やす努力をなさい。油断してはいけません。みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。これです、みなさんに繰り返し教える言葉は。





ダンマの袋

パーリ・ブッダバーシ
 増支部パンチャカニバータ 22巻99頁73項

 このダンマヴィナヤの比丘は当然(各種の)ダンマの学習である経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を勉強します。しかし彼は日がな一日ダンマの学習で時間を浪費する訳ではなく、心の内面を鎮めるダンマがある遠離(人との交流のない生活)を放り投げません。このような比丘をダンマ住者、ダンマで暮す人と言います。

 比丘のみなさん。私はこのように学習が多い人も説明し、規定が多い人も説明し、解説が多い人も説明し、たくさん考える人も説明し、ダンマに住む比丘も説明しました。

 比丘のみなさん。可愛がることに依存して、支援する利益を求める可愛がる教祖が、すべての弟子にすべきことは何でも、私はみなさんにしました。比丘のみなさん。それはすべての木の根元、それはすべての廃屋。比丘のみなさん。煩悩を燃やす努力をなさい。油断してはいけません。みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。これが、みなさんに繰り返し教える言葉です。





毒ヘビでない学習

パーリ・ブッダバーシタ
中部 22巻100頁74項

 比丘のみなさん。この場合の良家の子息は(各種の)ダンマである経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を勉強します。その良家の子息がダンマを勉強すると、そのダンマの要旨を智慧で注意深く熟慮し、智慧で慎重に熟慮すればそれらのダンマは、当然その良家の子息の検証(その人の罪や誤りを捕えるという意味)に耐えます。

 それらの良家の子息は(ダンマ、あるいは何らかの教義の)欠点に注目して、ダンマを勉強して何らかの教義を攻撃する道具にすれば功徳になると考えないので、多くの智者がどんな恩恵や利益のためにダンマを学んでも、それらの良家の子息はその恩恵や利益を受け取ります。

 だからそれらのダンマは、良家の子息が良く掴んだダンマになり、支援する利益のためになり、永遠にそれらの良家の子息自身の幸福のためになります。それはなぜでしょうか。それはその良家の子息がすべてのダンマを良く掴むからです。

 比丘のみなさん。ヘビを捕まえたい人がヘビを探して歩いて大きなヘビを見つけると、羊の足のような棒でそのヘビをしっかり押さえつけ、それから首をしっかり掴むので、ヘビがその人の手や腕、あるいは体のどこかに巻きついても、その人はその毒ヘビに絡まれることが原因で死ぬこともなく、あるいは死ぬほどの苦も味わいません。それはなぜでしょうか。ヘビをしっかり掴んでいるからです。

 比丘のみなさん。同じようにこの場合の良家の子息が(各種の)ダンマを学習し、そのダンマを学習するとダンマの要旨を智慧で注意深く熟慮し、智慧で注意深く熟慮すれば、それらのダンマは当然その良家の子息の証明(その人の罪や誤りを捕えるという意味)に耐えます。

 それらの良家の子息は(ダンマ、あるいはいずれかの教義の)欠点に注目してダンマを勉強し、そして「何らかの教義を攻撃する道具にすれば功徳になる」と考えません。すべての智者がどんな恩恵や利益のためにダンマの学習をしても、それらの良家の子息はその恩恵や利益を受け取ることができます。

 だからそれらのダンマはその良家の子息が良く掴むことができた物になり、支援する利益のためになり、永遠にその人たち自身の幸福のためになります。それはなぜでしょうか。それは良家の子息がすべてのダンマを良く掴んでいるからです。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん、私のどの言葉の意味も、そのようにその項目を憶えておくべきです。みなさんがまだ理解できなれば、私がその項目を復習してます。あるいはみなさんが、賢い比丘に質問しても良いです。





話すべき話題で会話する人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻525頁1662項

 比丘のみなさん。「あなたはこのダンマヴィナヤをよく知らない。私はこのダンマヴィナヤを良く知っている。あなたがこのダンマヴィナヤを良く知っているはずがない。あなたの実践は間違っていて私の実践は正しい。先に言うべきことをあなたは後で言い、後で言うべきことをあなたは先に言うので、あなたの言葉には利益がない。

私の言葉は利益になる。あなたが得意だったことは変化してしまった。私はあなたの言葉を払うことができる。間違った言葉を取り消すためにあなたは私に抑えらた。できるなら反論して見なさい」とこのように掴み方が違う言葉を言ってはいけません。

 みなさん、このような言葉を言うべきではありません。それはなぜでしょうか。そう述べることには利益がなく、梵行の糸口でなく、倦怠、欲情の弛緩、滅尽、抑制、最高の知識、すべてを知ること、そして涅槃のためにならないからです。

 比丘のみなさん。みなさんが話す時は「苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の滅尽はこのよう、そして苦を絶滅させる実践項目はこのよう」と、このように話しなさい。それはなぜでしょうか。そのように述べることには利益があり、梵行の糸口であり、倦怠、欲情の弛緩、滅尽、抑制、最高の知識、すべてを知ること、そして涅槃のためになるからです。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の滅尽、これが苦の絶滅のために実践する項目」と、このように知る努力をなさい。





消えない本物

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ドゥカニバータ 20巻92頁292項

 比丘のみなさん。この場合の比丘教団員は、華麗な言葉、美しい響きの詩に綴り直されたスッタンタはどれも系列外の物であり弟子の言葉なので、これらのスッタンタを述べる人がいても彼は良く聞かず、耳を穿って聞かず、良く知る決意をせず、そして自分が勉強するべき物と理解しません。

 比丘のみなさん。如行(ブッダの一人称。漢訳は如来))の言葉であるスッタンタは深遠な意味があり、空だけについて話すロークッタラ(訳注:世界から出る話。第一義)で、これらのスッタンタを話す人がいると、彼は当然良く聞き、当然耳を掘って聞き、当然すべて知ろうと決意し、そして当然自分が勉強しなければならないものと理解するので、

みんなで勉強し、質問攻めにし、「これはどういうこと? どんな意味があるの?」と、互いに復習して質問し合います。このようにすることで彼は、当然閉じてあるダンマを開け、まだ現れていないダンマを現わし、すべてのダンマの疑念を減らすことができます。

 比丘のみなさん。私は「この比丘教団員はお互いに質問し合うことで到達することができ、外部の人の詳しい説明によってではない最高の教団員と見なす」と言います。





努力の頂点

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ドゥカニバータ 20巻60頁248項

 比丘のみなさん。基本であり、主であるこの二つの努力は、世界で実行するのが難しいものです。二つとは何でしょうか。二つとは、家を治める在家は衣食住薬を手に入れるために努力しなければならないこと、これが一つで、家を出て出家して家に関わらない出家はすべての煩悩を捨てる努力をしなければならないこと、これがもう一つです。

 比丘のみなさん。基本であり主であるこの二つの努力は、世界でするのが難しいものです。比丘のみなさん。基本であり主であるこの二つの努力の中でも、すべてのウパディ(しがらみ。依)を捨てる努力は努力の頂点です。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん「私たちはウパディを全部捨てるために基本であり主である努力をする」とこのように心に留めるべきです。比丘のみなさん。みなさん、このように心に留めるべきです。





アハンカーラがない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻170頁472項

 サーリプッタ。私がダンマを簡略に説いても、詳細に説いても、簡略かつ詳細に説いても、望んでダンマを知る人はいます。

 「猊下、その時です。簡略にでも、詳細にでも、簡略かつ詳細にでも、ダンマを説くの にふさわしい時が来ました。ダンマを知る人は必ずいます」プラサーリプッダが答えました。

 サーリプッタ。だからこのことは、みなさん「識がある体が原因でアハンカーラ(私という感覚。我見)ママンカーラ(私の物という感覚。我所有)マーナヌサヤ(本性の中に眠っている煩悩。慢随眠)が生じてはならない。外部に見える他のすべての原因で生じてはならない。

比丘がチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(慧解脱)のどちらかに到達すれば、アハンカーラ、ママンカーラ、マーマヌサヤはない。私たちはその心解脱、智慧解脱に到達する」と、このように心に留めなければなりません。サーリプッタ。みなさん。このように心に留めなければなりません。

 サーリプッタ。比丘に識のある体が原因で生じるアハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤがなく、そして体内にあるそれ以外の物が原因で生じるアハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤがなく、そして彼が心解脱、智慧解脱のどちらかに到達すれば、

アハンカーラ、ママンカーラ、マーナヌサヤはなく、その人は心解脱・智慧解脱に到達し、そして常にその高い感覚の中にいます。サーリプッタ。私はその比丘を「欲望を断つことができ、サンニョージャナ(生き物を輪廻に結び付ける煩悩。結)を壊し、悪魔の顔を正しく知ることで苦を終わらせた」と言います。





宗教を衰退させない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻198頁160項

 比丘のみなさん。これらの四つの原因は、当然正法を維持させ、衰退するほど汚しません。四つとは何でしょうか。四つとは、

(1)比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、正しい使い方の子音節と、正しい使い方の子音節の意味で正しいと見なされている経を学ぶので、当然そのように正しい意義があります。比丘のみなさん。これが正法を維持することができ、衰退するほど汚さない初めの原因です。

(2)比丘のみなさん。もう一つ、言うことを聞く人である比丘たちは、言うことを聞く人にする原因があり、忍耐があり、篤い敬意で教えを受け入れます。比丘のみなさん。これが正法を維持させることができ、衰退するほど汚さない二つ目の場合です。

(3)比丘のみなさん。もう一つ、これらの比丘は博学でブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)に精通していて、ダンマを維持し、律を維持し、題目を維持します。これらの比丘たちは、すべての経の内容を熱心に人に教え、この方々が亡くなってもすべての経は根源(アーチャン=先生)に欠けず、依存して伝承する人がいます。比丘のみなさん。これが正法を維持することができ、衰退するほど汚さない三つ目の場合です。

(4)比丘のみなさん。もう一つ、長老比丘たちは八物を蓄財せず、三学を衰退させず、蓋の威力で堕落した心がなく、わき目も振らずにヴィヴェカダンマ(群れを離れて一人で住むこと。遠離)の仕事をし、まだ到達していないものに到達し、まだ達成していないものを達成し、まだ明らかにしていないことを明らかにするために、当然努力を始めます。

 後から出家した比丘たちがこれらの長老比丘を見て、そのような様式を手本にし、後輩比丘たちは八物を収集せず、三学を衰退させず、蓋の威力で堕落した心がなく、一心にヴィヴェカダンマの仕事をし、まだ到達していないものに到達し、まだ達成していないものを達成し、まだ明らかにしていないことを明らかにするために、当然努力を始めます。

 比丘のみなさん。これが正法を維持することができ、衰退するほど汚さない四番目の場合です。

 比丘のみなさん。この四つの原因は当然正法を維持することができ、衰退するほど汚しません。





教祖を友にできる人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ウパリバンナーサ マハースンニャタ経 14巻244頁355項

 アーナンダ。すべての弟子は敵になるために教祖に要求し、友になるために要求しないのはどうしてでしょうね、アーナンダ。この場合、可愛がることの利益を求めて可愛がる教祖は、すべての弟子に「これはみなさんを支援する利益のためになります。

 これはみなさんたちの幸福のためになります」とダンマを話しても、それらの弟子は良く聞かず、耳を掘って聞かず、すべてを知ろうと決意せず、教祖の教えを故意に違うものにしてしまいます。

 アーナンダ。このような弟子はみな、友になるために要求しないで、敵になるために教祖に要求する人と言います。アーナンダ。友になるために教祖に要求し、敵になるために要求しない弟子たちはどのようでしょう。アーナンダ。この場合可愛がることの利益を求めて可愛がる教祖が「これはみなさん全員を支援する利益のためになります。

 これはみなさん全員の幸福のためになります」とダンマを説くと、これらの弟子たちは当然良く聞き、耳を掘って聞き、すべてを知ろうと決意し、そして教祖の教えを故意に違うものにしません。アーナンダ。このような弟子たちすべてを、敵になるために教祖に要求せず、友になるために教祖に要求する人と言います。

 アーナンダ。だからこのことはみなさん、友になるために教祖に要求し、敵になるために要求してはいけません。そうすればみなさん全員の幸福のためになり、支援する利益のためになります。

 アーナンダ。私は土鍋屋が(成型したばかりの)まだ濡れている土鍋を扱うように、みなさんを大切に扱う努力はしません。アーナンダ。私は休まず叱ります。アーナンダ、私は休まず咎めます。本質である道果がある人は耐えられます。





牛を飼うべき人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部エーカーダサカ 24巻281頁224項

 比丘のみなさん。このような十一種の長所がある牛飼いは、当然収入を増やすために牛を飼うにふさわしいです。十一種の長所はどんなでしょうか。十一種とは、この場合の牛飼いは牛の体を知っている人で、牛の状態に賢く、ハエの卵をほじり出し、傷を塞ぎ、煙でいぶし、

牛を導く船着き場を知り、牛が飲むべき水を知り、牛が歩くべき道を知り、行くべき場所に関して賢く、牛の乳を多少残して搾り、群れのリーダーである雄牛に常に特別に名誉を与える人です。比丘のみなさん。このような十一種の長所のある牛飼いは、牛を飼って収入を増やすにふさわしいです。

 比丘のみなさん。同じように十一種の長所がある比丘は、当然このダンマヴィナヤ(法と律)で発展するにふさわしいです。十一種の長所は何でしょうか。

 このダンマヴィナヤの比丘は形を知り、状態に関して賢く、ハエの卵をほじり出し、傷を塞ぎ、煙で燻し、行くべき船着き場を知り、飲むべき水を知り、歩く道を知り、行くべき場所に賢く、「牛乳を残らず搾って」しまわず、長老や出家して長い人、サンガの父である人、サンガの指導者を、常に特別に尊重することで非常に尊敬する人です。


形を知る人たち

 比丘のみなさん。形を知る人である比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然「どんな形もすべて形と言う。つまりマハーブータルーパ(四大種形)は四つあり、そしてウパーダーヤルーパ(取がある形)は四大種形が依存する形」と、このように真実のままに知ります。比丘のみなさん。形を知る人である比丘はこのようです。


状態に関して賢い人たち

 比丘のみなさん。状態に賢い人である比丘はどのようでしょうか。みなさん。この場合の比丘は当然「愚かな人は商標であるカンマ(行為)があり、智者は商標であるカンマがある」と、このように真実のままに知っています。比丘のみなさん。状態に関して賢い人である比丘はこのようです。


ハエの卵を穿らない族

 比丘のみなさん。つききりでハエの卵を穿る比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は忍耐があり、生じている欲情について熟考し、悪意について熟考し、他人を困らせることについて熟考して捨てて減らし、終わらせ、無くします。そして忍耐があり、生じているすべての悪や低劣さを捨てて減らし、終わらせ、無くします。比丘のみなさん。ハエの卵を就ききりで穿る人である比丘はこのようです。


傷を塞ぐ人たち

 比丘のみなさん。傷を塞ぐ人である比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で考えを知っても、全体をまとめてでも各部分に分けてでも執着する心がなく、

悪で低劣な物である貪欲と憂いは、根に集中しないことが原因で、目・耳・鼻・舌・体・心に注意しない人に流れて行くので、彼はそれらの根を塞ぐ行動をし、目・耳・鼻・舌・体・心に細心の注意を払って維持します。比丘のみなさん。傷を塞ぐ人である比丘はこのようです。


煙で燻す人たち

 比丘のみなさん。煙で燻す人である比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、他人から聞いて学んだように詳しくダンマを説きます。比丘のみなさん。煙で燻す(薫陶する)人である比丘はこのようです。


行くべき船着き場を知っている人たち

 比丘のみなさん。行くべき場所を知る人である比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘はブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)に精通し、ダンマを維持し律を維持し題目を維持している博学者に出会うと、ふさわしい時に「発展なさった方、このブッダヴァチャナはどのようですか。このブッダヴァチャナの意味はどうですか」

と質問攻めにするので、その博学の人は秘されたことを明らかにし、深いことを浅くし、そしてその比丘にとっていろんな疑問の基盤であるすべてのダンマの疑念を減らします。比丘のみなさん。行くべき船着き場を知る人である比丘はこのようです。


飲むべき水を知っている人たち

 比丘のみなさん。飲むべき水を知っている比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、如行が公開したダンマヴィナヤ(法と律)を誰かが説くと、彼はダンマの知識を得、深い意味を得、ダンマに依存する喜びを得ます。比丘のみなさん。飲む水を知っている比丘はこのようです。


歩くべき道を知っている人たち

 比丘のみなさん。歩く道を知る比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然八正道を真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。歩く道を知る比丘はこのようです。


行くべき場所に賢い人たち

 比丘のみなさん。行くべき場所に関して賢い比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然四念処を真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。行くべき場所に賢い比丘はこのようです。


牛乳を残して絞る人たち

 比丘のみなさん。牛乳を残して搾ることを知っている比丘はどのようでしょうか。みなさん。信仰のある在家たちは当然この宗教の比丘に対して、チーヴァラ(衣)や食べ物や住まい、医薬品八物を喜んで寄進する気持ちがあります。彼らがこのように何でも喜んですることに、比丘はこれらのチーヴァラなどの四依(衣食住薬)を受ける程度を知る人です。比丘のみなさん。牛乳を多少残して搾る比丘はこのようです。


年長者を敬う人たち

 比丘のみなさん。長老であるすべての比丘を、最高に尊敬する比丘はどのようでしょうか。みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、出家して歳月が長いサンガの父である長老であるすべての比丘に対して、陰でも日向でも慈しみのある行動、発言、考えを心がけています。比丘のみなさん。長老であるすべての比丘を特別に敬う比丘はこのようです。

 比丘のみなさん。これらの十一種項の長所のある比丘は、当然このダンマヴィナヤで成長繁栄するにふさわしいです。





柵の中の子

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻198頁700項

 比丘のみなさん。みなさんは親の縄張りである遊ぶべき場所で遊びなさい。みなさんが親の縄張りである遊ぶべき場所で遊べば、悪魔に機会はなく、悪魔が思いのままにする好機はありません。そのような遊ぶべき場所はどこでしょうか。自分の親の縄張りである遊ぶべき場所は四念処です。四つの念処とは何でしょうか。四つとは、

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、常に体を熟慮して見、煩悩を焼き滅ぼす努力があり、全身に行き渡った感覚があり、世界の貪りと悩みを排除するサティがあります。

 彼は常に、すべての受の中の受を熟慮して見、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、貪りと世界の憂いを排除できるサティがあります。

 彼は常に、心の中の心を熟慮して見、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、貪りと世界の憂いを排除するサティがあります。

 彼は常に、ダンマの中のダンマを熟慮して見、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、貪りと世界の憂いを排除するサティがあります。

 比丘のみなさん。これが親の縄張りである、比丘が遊ぶべき場所です。





柵の中の子の発展法

パーリ・ブッダバーシタ
中部ウパリパンナーサ ガナカモッガラーナ経 14巻82頁94項

 バラモンさん。このダンマヴィナヤで、私は段階的な学習、段階的な行動、(弟子に順に掴ませる教え方があるように)段階的に実践できる規則を規定しました。

 バラモンさん。馬の調教に熟練した人が調教する馬を手に入れると、初めは当然遮眼革(目隠し)を装着し、それから他の訓練をするように、バラモンさん。如行が訓練する人を受け入れると、

初めは当然「おいでなさい比丘。あなたは戒のある人になり、パーティモッガ戒で細心の注意をし、行儀作法とゴーチャラ(好んで行く場所)を完璧にし、平素から小さな罪と見なされていることでも、すべての罪の害が見え、すべての教条を学んで遵守しなさい」と、このように指導します。

 バラモンさん。その比丘が戒のある人になったら、如行は当然「おいでなさい比丘。あなたはすべての根に注意深い人になり、目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触に触れ、心で概念を感じても、すべてをまとめた形でも、部分に分けてでも、それを掴みません。

 悪で下品な物、つまり貪りと憂いは根に注意を払わないことが原因で、必ず目・耳・鼻・舌・体・心に注意しない人に流れて行くので、私たちはその根を塞ぐために実践します。あなたは根を維持し、目・耳・鼻・舌・体・心に細心の注意をなさい」と、このように指導します。

 バラモンさん。その比丘が根に注意深い人になったら、如行は当然「おいでなさい比丘。あなたは食べ物の適量を知る人になり、絶妙な熟慮をしてから食べなさい。遊びのため、酔うため、飾るために食べるのでなく、この体を維持するため、命を維持するため、困苦を防止するため、梵行を援けるためだけに食べます。

私たちは古い受(空腹)を排除してしまい、新しい受(苦しいほどの満腹)を生じさせません。歳を重ねていくこと、食べ物による害がないこと、そして安楽で楽しいことは私たちにあります」と、このように指導します。

 バラモンさん。その比丘が食べ物の適量を知る人になったら、如行は当然「おいでなさい、比丘。あなたは(眠気から)目覚める道具であるダンマの努力をなさい。昼から宵の口まで歩くこと座ることで、すべての妨害するものから清潔になりなさい。

夜中になったら獅子王のように寝ることができ、つまり右に傾いて足の上に足をのせ、起きることに自覚があり、夜の終わりになったら起き上がって、再び歩くこと座ることで、心を妨害するものから清潔になります」とこのように指導します。

 バラモンさん。その比丘が(眠気から)目覚める道具であるダンマに努力する人になったら、如行は当然「おいでなさい比丘。あなたは静寂な住まい、つまり森、木の根元、山、小川、洞窟、墓地、密林、野外、ワラの山(のどれか一つ)に住みなさい。食事の後、食事から戻ったら、足を組んで座って体を真っ直ぐにしてサティを現前に維持し、世界の貪りを捨て、貪りのない心になり、

常に待ち構えて貪りを拭い、復讐心を捨て、復讐心のない心になり、悲のある人になり、すべての生き物を助けたいと願う心があり、いつでも復讐心を拭い、こん沈睡眠(眠気と沈鬱)を捨て、心の明るさだけを目指し、こん沈睡眠のない心があり、全身に行き渡る自覚があり、いつでもこん沈睡眠を拭い、

掉挙悪作を捨て、散漫でなく、内面が鎮まっている心があり、いつでも掉挙悪作を拭い、疑蓋を捨て、疑念を超えてしまい、すべての善について(疑念で)『これは何だ、これはどうだ』と言う必要はなく、常に待ち構えて掉挙悪作を拭います」と、指導します。

 その比丘が、心を憂鬱にし、智慧を後退させる五つの害を捨てれば、愛欲が静まり、すべての悪が静まって、ヴィヴェカ(遠離)から生じたヴィタッカ(尋)・ヴィチャーラ(伺)・ピーティ(喜悦)・スッガ(幸福)しかない初禅に到達します。

 ヴィッタッカ・ヴィチャーラ(考え)が静まれば、、ヴィタッカ・ヴィチャーラがなく、あるのはサマーディから生じたピーティとスッガだけの、心を明るくするものである二禅に到達します。

 ピーティが薄れると当然捨になり、自覚があり、ナーマカーヤ(名身)でスッガを味わい、聖人が「この定の人は捨にいる人で、サティがあり幸福である」と言う三禅に到達します。

 そして幸福も苦も捨ててしまうことができるので、愁苦と過去の愁苦が消滅して、苦も幸福もない、あるのは捨ゆえに純潔な自然であるサティだけの四禅に到達しす。

 バラモンさん。有学(学ぶべきことがある人)である比丘はまだ阿羅漢向に到達していないので、それ以上の物がない努力から生じた安全なダンマである涅槃を望んでいます。今述べた教えは、これらすべての比丘のための教えです。

 バラモンさん。漏がなくなり、梵行が終わり、しなければならないことが終わり、重荷を下ろし、到達した自分の利益があり、消滅した有のサンニョージャナ(結)があり、正しく知ることで解脱した阿羅漢である比丘は誰でも、これらすべてのダンマ(教え)は、現生での幸福のため、そしてそれらの比丘全員にとっての常自覚のためになります。





移り気でない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部アッダカニバータ 23巻343頁184項

 比丘のみなさん。これら八つの原因は、涅槃に到達するための実践の仕事がまだ終わっていない比丘にとって、当然損害にならないためになります。八つの原因とは何でしょうか。八つとは、

(1)普請をすることに満足しない人、

(2)お喋りに満足しない人、

(3)寝ることに満足しない人、

(4)集団で交わることに満足しない人、

(5)すべての根の門を管理する人、

(6)食べる適度を知る人、

(7)身体的に快い接触を生じさせる行為に満足しない人、

(8)一貫性がなく仕事を拡大して、遅らせることに満足しない人です。

 比丘のみなさん。これら八つの原因は、当然まだ涅槃に到達するための実践の仕事が終わっていない比丘にとって、損害でならないためになります。





歌を歌わない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻335頁547項

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤでは、歌を歌うのは泣くこと、踊りを踊るのは狂った状態、歯が見えるほど笑うのは子供の症状と見なします。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん、歌を歌うこと、踊りを踊ることを根絶やしにしてしまい、ダンマを楽しむすべての善人に対して控え目に微笑むだけにすべきです。





油断のない人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻316頁683項

 比丘のみなさん。みなさんは夜中や夜明け前に鳴く老いたキツネの声を聞いたことがありますか。

 「あります。猊下」。

 比丘のみなさん。あの老いたキツネはライ病に罹っています。アレが駆けて行きたい所どこに駆けて行っても、立ちたい所どこに立っても、座りたい所どこに座っても、寝たい所どこに寝ても、(ライ病の威力で爽快さを求めることができないので)冷たい風でさえ体に突き刺さります。

 比丘のみなさん。これは比丘にとって善いことです。つまりこの場合の比丘は、サキヤプティヤサマナと宣言し、そして本当に自分はそうだと感じます。比丘のみなさん。だからこのことはみなさん、「私たちは全員、油断のない人になる。なっている」と、このように心に留めなければなりません。





ダンマにふさわしいダンマの行動をする人

パーリ・ブッダバーシタ
長部マハーヴァッガ 10巻160頁129項

 アーナンダ。ダンマにふさわしい品行、最高に正しいダンマの品行をする比丘、比丘尼、清信士、清信女は誰でも、その人は当然最高の敬意で如行を尊敬し、帰依し、崇拝すると言われます。

 アーナンダ。だからこのことはみなさん、「私たちはダンマにふさわしい品行、最高に正しいダンマの品行をする」と、このように心に留めなければなりません。アーナンダ。みなさん、このように心に留めておくべきです。





死が無駄でない人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ウパリパンナーサ ダンタブーミ経 14巻271頁403項

 アッギヴェッサナさん。まだキーナーサバ(阿羅漢)でない長老、あるいは中年の比丘、あるいは新参の比丘でも、亡くなれば、まだ修行が終わらなくても、当然「死んだ。亡くなった」と見なされます。まだ訓練をしていない国王の老いた象、あるいは中年の象、あるいは若い象でも、まだ訓練が終わっていなくても、死ねば当然「死んだ。亡くなった」と見なされるのと同じです。

 アギヴェッサナさん。ギーナーサバ(阿羅漢)である長老比丘、あるいは中年の比丘、あるいは新参の比丘でも亡くなれば、当然「死んだ。訓練から去るように亡くなった」と見なされます。彼らが良く訓練した国王の老いた象、あるいは中年の象、あるいは若い象でも、死ねば「死んだ。訓練から去るように亡くなった」と見なされるのと同じです。





宗教から零れ落ちない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻2頁2項

 比丘のみなさん。これらの四つの原因がある人は、当然「このダンマヴィナヤから零れ落ちない人」と言うことができます。四つの原因とは何でしょうか。四つとは、

(1)敵から離れる道具である戒(アリヤシーラ)がある人、

(2)敵から離れる道具であるサマーディ(アリヤサマーディ)がある人、

(3)敵から離れる道具である智慧(アリヤパンニャー)がある人、

(4)敵から離れる道具である解脱(アリヤヴィムッティ)がある人です。

 比丘のみなさん。この四つの原因がある人は、当然「このダンマヴィナヤから落ち零れない人」と言うことができます。




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