ブッダヴァチャナの宝石箱

第十六章 宣言を忘れないことについて




(第七章と対)


    懇願して誘う人

比丘のみなさん。

可愛がることに依存して支援する利益を求める

可愛がる人である教祖が

すべての弟子にすべきことは何でも、

私はみなさんにしました。


比丘のみなさん。それはすべての木の根。

それはすべての廃屋。


比丘のみなさん。煩悩を燃やす努力をなさい。

油断してはいけません。

みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。

これです。私がみなさんに繰り返し教える言葉は。

   (相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻441頁674項)





本当の仏弟子

パーリ・ブッダバーシタ
長部パーディヴァッガ アッガンニャ経 三蔵11巻91頁55項

 ヴァーセッダとみなさん。みなさんは生まれも名前も違い、家系も家名も違い、家を出て出家して家との関わりを望まない人になり、人々に「あなた方は誰ですか」と聞かれれば「私はサキヤプティヤサマナです」とこのように宣言します。

 ヴァーセッダとみなさん。更にサマナやバラモン、天人、悪魔、梵天、あるいはこの世界の誰でも、安定して深く根を下ろし、安定して維持できている人の如行(ブッダの一人称。如来)への信仰を、別の方向へ引っ張っていくことはできません。

 その人は「私はブッダの言葉から生まれた子。ブッダの実子。ダンマによって生まれ、ダンマによって作られたダンマの相続者です」と、このように述べるべきです。それはなぜでしょうか。それは「ダンマカーヤ(法身)」や「ブラフマカーヤ(梵身)」や「ダンマブータ(ダンマの生き物)」や「ブラフマブータ」という言葉は、私の代名詞だからです。





サキヤプッティヤサマナの平等

パーリ・ブッダバーシタ
小部ウダーナ 25巻157頁118項

 比丘のみなさん。ガンガ(ガンジス川)やヤムナー、アジラヴァディー、サラブー、マヒーのような大きな川が大海に流れ注ぐ時、当然自分の名前を捨てて、すべて同じ「海」という名前になるように、比丘のみなさん。四つの階級も、カッティヤ(武士。王族)、バラモン(司祭)、ヴァイシャ(町人)、あるいはスーダラ(賤民)も、出家して如行が公開したダンマヴィナヤに入れば、当然全員が自分の古い姓と名を捨て、当然新たに「サキヤプッティヤサマナ」と呼ばれます。

 比丘のみなさん。カッティヤ(武士。王族)、バラモン(在家僧と百姓)、ヴァイシャ(町人)、あるいはスーダラ(賤民)でも、この四つのどの階級でも、出家して如行が公開したダンマヴィナヤに入れば、当然自分の古い名前と家名を捨て、当然新たに「サキヤプッティヤサマナ」と呼ばれるのは、非常に不可思議で、あり得ないことです。

 このダンマヴィナヤのすべての比丘がこの項目を見れば、当然このダンマヴィナヤに極めて満足します。





本当のサマナ・バラモン

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻334頁546項

 比丘のみなさん。サマナ、あるいはバラモンは当然世界の旨味を世界の旨味と、世界の害を世界の害と、世界から脱す方便を世界から脱す方便と、真実のままに明らかに知っています。

 比丘のみなさん。そのサマナ、あるいはバラモンはすべてのサマナの中のサマナと仮定されても、すべてのバラモンの中のバラモンと仮定されても、本当のサマナ、あるいはバラモンであり、そしてサマナあるいはバラモンであることの利益を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいることができます。





白蓮サマナ

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻117頁89項

 比丘のみなさん。白蓮サマナとはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は正しい見解があり、正しい望みがあり、正しい言葉があり、正しい業があり、正しい生業があり、正しい努力があり、正しく思い出すことがあり、正しく深い専心があり、正しいニャーナ(知ること。智)があり、正しい解脱がありますが、ナーマカーヤ(名身)で八解脱に触れません。

 比丘のみなさん。このような人物を白蓮サマナと言います。





大蓮サマナ

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻117頁89項

 比丘のみなさん。大蓮サマナとはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は正しい見解があり、正しい望みがあり、正しい言葉があり、正しい仕事があり、正しい生業があり、正しい努力があり、正しく思い出すことがあり、正しい決意があり、正しいニャーナ(知ること。智)があり、正しい解脱があり、そしてナーマカーヤ(名身)で八解脱に触れる人です。

 比丘のみなさん。このような人物を大蓮サマナと呼びます。





王太子サマナ

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻117頁87項

 比丘のみなさん。王太子サマナはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は有学(まだ学ぶべきことがある人)で、実践している人であり、努力から生じたそれ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃を、まだ望んでいる人です。

 聖水灌頂の礼を経て王位に就いた王の第一王子で聖水灌頂を受けるべき人ですが、まだ受けてなく王太子の地位を維持している王子のように、比丘のみなさん。有学であり、実践者であり、努力より生じたこれ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃を、まだ望んでいる人です。

 比丘のみなさん。このような人を王太子サマナと言います。





王太子サマナ(別の意味)

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻117頁89項

 比丘のみなさん。王太子サマナとはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は正しい見解があり、正しい志向があり、正しい物言いがあり、正しい仕事があり、正しい生業があり、正しい努力があり、正しい思い出すことがあり、正しく固い決意があります。

 比丘のみなさん。このような人物を王太子サマナと言います。





このダンマヴィナヤのサマナ

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャトゥカニバータ 21巻323頁241項

 比丘のみなさん。(最初の)サマナはこのダンマヴィナヤの中に、二番目のサマナもこのダンマヴィナヤに、三番目のサマナもこのダンマヴィナヤに、四番目のサマナもこのダンマヴィナヤの中にいます。他の教義には他の教義のサマナはいません。比丘のみなさん。みなさんこのように正しく、獅子吼を轟かせなさい。

 比丘のみなさん。(最初の)サマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は三つのサンニョージャナ(結)が終わり、涅槃への流れに初めて到達した人で、落ちて普通になることはなく、将来確実に悟る人です。比丘のみなさん。これが(最初の)サマナです。

 比丘のみなさん。二番目のサマナはどんなでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘はサンニョージャナ(結)の三つが終わり、貪りと怒りと愚かさが減ったので、もう一度だけ来る人で、もう一度だけ世界に来て苦を終わらせることができます。比丘のみなさん。これが二番目のサマナです。

 比丘のみなさん。三番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は初歩の五つのサンニョージャナ(結)を終わらすことができ、(浄居天に)浮生し、当然その界で般涅槃して、当然その世界に戻らない人です。比丘のみなさん、これが三番目のサマナです。

 比丘のみなさん。四番目のサマナはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は漏がなくなって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに素晴らしい智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。これが四番目のサマナです。

 比丘のみなさん。最初のサマナはこのダンマヴィナヤの中、二番目のサマナもこのダンマヴィナヤの中、三番目のサマナもこのダンマヴィナヤの中、四番目のサマナもこのダンマヴィナヤの中にいます。他の教義に他の教義のサマナはいません。比丘のみなさん。みなさんこのように正しく獅子吼を轟かせなさい。





サマナと宣誓するにふさわしい人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻496頁459項

 比丘のみなさん。大衆はみなさんを「サマナ、サマナ」とこのように知っています。みなさんも人々に「あなたは何ですか」と訊かれれば「私はサマナです」と宣言します。

 比丘のみなさん。みなさんがサマナと呼ばれ、そして自分でもサマナと宣言するなら、みなさんは「私をサマナにし、バラモンにするダンマの行動をしなければならない。そのような実践行動によって私のサマナという呼び名は真実になる。そして私がサマナであるという宣言も真実になる。

更に私がどの支援者のチーヴァラ(衣)、食べ物、住まい、そして医薬品八物を消費しても、それらの支援者の布施も大きな成果あり、大きな功徳がある。そして私の出家であることは不毛でなく、自分にとって本当の結果、儲けがある」と、このように心に留めなければなりません。

 比丘のみなさん。みなさん、このように心に留めなければなりません。





慙愧が完璧な人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻496頁460項

 比丘のみなさん。みなさんをサマナにし、バラモンにするダンマはどのダンマでしょうか。

 比丘のみなさん。みなさんは「私は慙(罪を恥じること)と愧(罪を恐れること)がある人にならなければならない」と、心に留めなければなりません。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めるべきです。

 比丘のみなさん。これはきっとみなさんに生じるでしょう。つまり揃って「私たちは慙と愧が揃っていれば、その功徳だけで十分だ」と、それだけで安心しきってしまいます。比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんが更にしなければならない仕事は、まだあるからです。





純潔な身正行のある人

パーリ・ブッダバーシタ 中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻497頁461項

 比丘のみなさん。みなさんが次にもっともっとしなければならない仕事は何でしょうか。それは「私たちの体の、常に変わらない体による正しい振る舞いは純潔で、裏返して見せることができ、公開することができ、突き出る隙が探せない慎み深いものだ。更に私たちは絶対に、この長所で自分を褒め他人を貶さない」と心に留めます。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めなければなりません。

 比丘のみなさん。このことは、きっとみなさんに生じるでしょう。つまり揃って「私たちは慙と愧があり、私たちの体による品行は純潔だ。これだけの長所で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に到達した。これ以上にしなければならないことはもうない」と、それだけで安心しきってしまいます。

 比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんがもっとしなければならないことは、まだあるからです。





純潔な口正行がある人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻497頁462項

 比丘のみなさん。みなさんが次に、更にしなければならない仕事は何でしょうか。それは「私の言葉によるいつも変わらない正しい行動、正行は純潔で、裏返して見せることができ、公開することができ、突き出る隙を探せない慎み深いものだ。更に私たちは、絶対にこの徳を自慢し、他人をけなさない」と注意することです。

 比丘のみなさん。このことは、きっとみなさんに生じます。それは揃って「私たちは慙と愧があり、私たちの体による品行は純潔で、言葉による品行も純潔だ。これだけの調書で十分だ。私たちはサマナの実践の結果に到達した。これ以上にしなければならないことはもうない」と、これだけで安心しきってしまうことです。

 比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんがもっとしなければならないことは、まだあるからです。





純潔な心正行がある人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻498頁463項

 比丘のみなさん。みなさんがもっとしなければならない次の仕事は、何でしょうか。それは「私の心の正行は純潔で、裏返すことができ、公開することができ、突き出る隙を探すことはできない慎みがあるものだ。更に私は、絶対にこの長所を自慢し、他人を貶さない」と注意することです。比丘のみなさん。みなさんこのように心に留めなければなりません。

 比丘のみなさん。このことは、みなさんにきっと生じます。それは揃って「私たちは慙と愧をがあり、体の正行も純潔で、言葉の正行も純潔で、心の正行も純潔で、これだけで十分だ。私たちは、サマナの実践の結果に到達して、これ以上にしなければならない仕事はもうない」と、それだけで安心しきってしまいます。

 比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんがもっとしなければならない仕事は、まだあるからです。





純潔な生業がある人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻498頁464項

 比丘のみなさん。みなさんがまだしなければならない次の仕事は何でしょうか。それは「私の生業は純潔で、裏返すことができ、公開することができ、突き出る隙を探すことはできない。慎み深いものだ。更に私たちは、絶対にその美徳を自慢し、他人を貶さない」と注意することです。

 比丘のみなさん。これはみなさんにきっと生じます。つまり揃って「私たちは慙と愧があり、体の品行も純潔で、言葉の品行も純潔で、心の品行も純潔で、生活も純潔だ。これで十分だ。私たちはサマナの実践の結果に至った。これ以上しなければならない仕事はもうない」と、これだけで安心しきってしまいます。

 比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんがもっとしなければならないことはまだあるからです。





貪りと憂いの流れを止める人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻499頁465項

 比丘のみなさん。みなさんがまだしなければならない次の仕事は何でしょうか。それは「私はすべての根の門を管理する人であり、目で形を見ても、全体をまとめた状態でも、部分に分けた状態でも執着しない。悪で下品な物、つまり貪りと憂いは、根つまり目に注意をしないことが原因で、必ずその人に流れていくので、私はその根を塞ぐために実践して、根つまり目に関して注意を維持する人になる。

耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触し、心で概念を知っても、全部をまとめてでも、部分に分けた状態でも執着しない。悪で下品な物、つまり貪りと憂いは、いずれかの根に注意しないことが原因で、必ずその人に流れていくので、私はそれらの根を塞ぐ実践をし、すべての根に関して注意を維持する人になる」と、必ず心に留めなければなりません。

 比丘のみなさん。このことは、みなさんにきっと生じます。それは揃って「私たちは慙と愧をがあり、体の品行も純潔で、言葉の品行も純潔で、心の品行も純潔で、これだけで十分だ。私たちは、サマナの実践の結果に到達して、これ以上にしなければならない仕事はもうない」と、それだけで安心しきってしまいます。

 比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんがもっとしなければならない仕事は、まだあるからです。





食べる適度を知る人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻500頁466項

 比丘のみなさん。みなさんが更にしなければならない次の仕事は何でしょうか。それは「私はいつでも食べ物を評価する人になり、よく熟慮してから食べる。遊びのため、酔うため、飾るため、装飾するために食べず、この体を維持するため、命を維持するため、困難を防ぐため、梵行を援けるためにだけ食べる。

私はこの受(空腹)を排除してしまい、新しい受(苦しいほどの満腹)を生じさせない。齢を重ねること、食べ物の害がないこと、そして安楽に楽しく暮らすことは私にある」と、このように心に留めるることです。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。

 比丘のみなさん。このことは、みなさんにきっと生じます。それは揃って「私たちは慙と愧をがあり、体の品行も純潔で、言葉の品行も純潔で、心の品行も純潔で、これだけで十分だ。私たちは、サマナの実践の結果に到達して、これ以上にしなければならない仕事はもうない」と、それだけで安心しきってしまいます。

 比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんがもっとしなければならない仕事は、まだあるからです。





煩悩が手出しできないほど目覚めている人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻500頁467項

 比丘のみなさん。みなさんが更にしなければならない次の仕事は何でしょうか。それは「私は目覚める道具であるダンマで、昼から宵まで、中更まで、歩くこと座ることで障碍(心を妨害する煩悩)を完全に拭い去り、夜中になったら獅子のように右を下にし、足に足を重ねて寝、起きる時のことを自覚して寝、夜が終わったら起き上がって、再び歩くこと、座ることで障碍を完全に拭い去る」と、心に留めることです。

 比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。

 比丘のみなさん。このことは、みなさんにきっと生じます。それは揃って「私たちは慙と愧をがあり、体の品行も純潔で、言葉の品行も純潔で、心の品行も純潔で、これだけで十分だ。私たちは、サマナの実践の結果に到達して、これ以上にしなければならない仕事はもうない」と、それだけで安心しきってしまいます。

 比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんがもっとしなければならない仕事は、まだあるからです。





常自覚のある人

パーリ・ブッダバーシタ 
部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻501頁468項

 比丘のみなさん。みなさんが更にしなければならない次の仕事は何でしょうか。それは「私はサティと理性が揃っている人になる。前進、後退、見る、振り返る、曲げる、踏む、サンガーティや鉢やチーヴァラを持つこと、食べ、飲み、噛み、味を見、大小便の排泄、行く、止まる、座る、寝る、眠る、覚める、話す、黙ることを、注意深く自覚する」と、何としても注意しなければなりません。みなさんこのように注意しなければなりません。

  比丘のみなさん。このことは、みなさんにきっと生じます。それは揃って「私たちは慙と愧をがあり、体の品行も純潔で、言葉の品行も純潔で、心の品行も純潔で、これだけで十分だ。私たちは、サマナの実践の結果に到達して、これ以上にしなければならない仕事はもうない」と、それだけで安心しきってしまいます。

 比丘のみなさん。みなさんに教えます。みなさんに忠告します。みなさんがサマナでありたいなら、サマナであることの結果を衰退させてはいけません。みなさんがもっとしなければならない仕事は、まだあるからです。





ヴィヴェカダンマ(遠離)を求める人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ マハーアッサプラ経 12巻502頁469項

 比丘のみなさん。みなさんが更にしなければならない次の仕事は何でしょうか。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は静寂な住まい、つまり森、木の根元、山、小川、洞窟、墓地、密林、野外、藁の山(のどれか一つ)に住んで、食べ終わって托鉢から戻ると、足を組んで座って体を真っ直ぐにし、サティを現前に据えます。

 彼は世界の貪りを捨て、貪りのない心があり、常に貪りを拭い、復讐心を捨て、復讐心のない心があり、悲のある人で、すべての動物を援ける望みがあり、常に復讐心を拭い、こん沈睡眠を捨て、心の明るさだけを目指し、こん沈睡眠のない心があり、自覚があり、心からこん沈睡眠を拭い取り、掉挙悪作を捨て、

散漫でなく、内部が静まった心があり、常に掉挙悪作を拭い、疑蓋を捨て、疑蓋を乗り越えてしまうことができ、すべての善に対して(疑念で)「これは何だ、これはどうだ」と言う必要がなく、常に疑蓋を拭き取ります。

 比丘のみなさん。他人に借金をして仕事を成功させ、全部借りを返してもまだ妻子を養う儲けが山ほどある人は、彼はきっと「以前は他人に借金をして仕事を成功させ、借金を全部返してもまだ妻を養うだけの儲けが山ほど残っている」とこのように幸運に思うように、彼は当然嬉しくて喜び、それが原因で歓喜します。(これが一つ)

 比丘のみなさん。重い病気で苦痛に耐え、食べ物も食べられず体力のない男が、病気でなくなれば食事もでき、体力もつくように、彼は「前には重い病気で苦痛に耐え、食べ物も食べられず体力もなかったが、今は病気が治って食事もでき、体力も戻った」と回想するように、彼は当然嬉しくて喜び、それが原因で歓喜します。(これがもう一つ)

 比丘のみなさん。監獄に入れられた男が監獄から出た時は便利で、罪がなく財産を失わないように、彼は必ず「以前私は監獄に入れられたが、今は出て便利になり、罪がなく、財産を失わない」とこのように回想するように、彼は当然嬉しくて喜び、それが原因で歓喜します。(これがもう一つ)

 比丘のみなさん。自立できないで他人の奴隷(江戸時代の奉公人と同じ)になり、他人に依存して自由に歩き回れない人が、後に奴隷でなくなって自立できれば他人に頼る必要がなく、自由に歩き回ることができ、

彼は必ず「以前私は奴隷で、自立することができなかった。他人に頼らなければならず、自由に歩き回れなかったが、今は奴隷から脱して自立できたので、他人に依存する必要はない。自由に歩き回ることができる」とこのように回想するように、彼は当然嬉しくて喜び、それが原因で歓喜します。(これがもう一つ)

 比丘のみなさん。財産を持って苦難な長旅をする人が難路を抜ければ便利になり、危険がなく、資財を失う必要もないので、彼は必ず「以前は資財を持って難路を旅したが、難路を脱せば危険はなく、資財を失う必要はない」とこのように過去を回想するように、彼は当然嬉しくて喜び、それが原因で歓喜します。

 比丘のみなさん。自分が捨てることができない五つの蓋を、借金をすること、病気になること、監獄に繋がれること、奴隷になること、そして財産を持って難路を旅することのようだと熟慮して見、そして自分の五つの障碍を捨てられたことを、借金がなくなること、病気が治癒すること、監獄から出ること、奴隷から脱すこと、危険から脱すことと熟慮して見ます(彼は当然嬉しくて喜び、それが原因で歓喜します)。







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