ブッダヴァチャナの宝石箱

第十三章 煩悩の威力でしないことについて



(第四章と対)





   懇願して誘う人

比丘のみなさん。

可愛がることに依存して支援する利益を求める

可愛がる人である教祖がすべての弟子にすべきことは何でも、

私はみなさんにしました。


比丘のみなさん。それはすべての木の根元、それはすべての廃屋。


比丘のみなさん。煩悩を燃やす努力をなさい。

油断してはいけません。

みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。

これです。私がみなさんに繰り返し教える言葉は。
   (相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻441頁674項)




海まで流れ下る丸太

パーリ・ブッダバーシタ
相応部サラーヤタナヴァッガ 三蔵18巻23頁322項

 比丘のみなさん。みなさんはガンガ(ガンジス川)に浮かんで海に流れ着く大きな丸太を見たことがありますか。

 「見たことがあります、スガタ様」比丘全員が答えました。

 比丘のみなさん。その丸太が内の岸、外の岸に引っ掛からず、水中に沈まず、陸に上がって乾かず、人間に捕まらず、人間に盗まれず、渦に揉まれず、途中で自然に腐らない丸太は、浮いて流れて海に突入します。ガンガは海に傾き、海に傾斜し、海に注いでいるからです。

 比丘のみなさん。みなさんも内の岸にも外の岸にも引っ掛からず、真中で沈まず、陸に上がって乾かず、人間に捕まらず、人間に盗まれず、渦に揉まれず、途中で自然に腐らなければ、みなさんは涅槃に流れて行きます。正しい見解は涅槃に傾き、涅槃に傾斜し、涅槃に注いでいるからです。

 話し終わると、一人の比丘が世尊に「スガタ様。内の岸、外の岸とは何ですか。真中に沈むとは何のことで、陸に引っかかるとは何のことで、人間に捕まるとは何で、人間に盗まれるとは何で、渦に揉まれるとは何で、途中で自然に腐るとは何のことですか」と質問しました。

 比丘のみなさん。『内の岸』とは六内処(六境)で、『外の岸』とは六外処(六根)で、『真中に沈む』とはナンディラーガ(喜貪)で、『陸に引っ掛かって乾く』とはアスミマーナ(私がいるという理解)で、『人間に捕まる』とは、この場合は在家と交わる比丘で、

一緒に楽しみ一緒に悲しみ、これらの在家が幸福な時は幸福で、それらの在家が苦の時は苦になり、それらの在家に生じた仕事を自分の仕事にします。この比丘を私は人間に捕まった比丘と言います。

『人間に盗まれる』とは、この場合のある比丘は「この戒で、この勤めで、あるいはこの苦行で力のある天人になる。あるいは力のない天人になる」と、このように何らかの天人衆になることを望んで梵行をします。この比丘を私は、人間に盗まれると言います。『渦に揉まれる』とは、五欲です。『途中で自然に腐った』比丘とは何でしょうか。

 この場合の比丘は破戒者であり、下賤な生き方をし、不潔で、自分でも自分を疑うような振る舞いがあり、隠しておかなければならない行動があり、サマナではないのにサマナだと言い、梵行をしていないのに梵行をしていると宣言し、内部がドロドロに腐って、ゴミ捨て場のように積もった本性があります。この比丘を私は、自ら内部が腐ってしまった人と言います。





森に住むのを選ぶ人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャッカニバータ 22巻328頁313項

 ナーギタさん。里の近くに住んでいるこのダンマヴィナヤの比丘が、座ってサマーディに入っている人を見ると、私に「今、寺男がその比丘、あるいはその沙弥の妨害になり、サマーディから出させているかもしれない」と、このような考えが生じました。だから私は、その比丘が里の近くに住むことに満足しません。

 ナーギタさん。森の中で座って居眠りをしていても、森に住むのを勤めとしているこのダンマヴィナヤの比丘を見ると、私に「この人は眠気で心の焦燥を軽減しているかもしれない。だから心の中をアランニャサンニャー(林想。森を意識する)にして、それを今の一つだけの感情にする」という考えが生じました。だから私は、その比丘が森に住むことに満足します。

 ナーギタさん。森の中で座ってサマーディをして心がサマーディにならなくても、森に住むことを勤めとしているこのダンマヴィナヤの比丘を見ると、私に「この人はもしかしたら、今はまだサマーディではない心をサマーディにできるかもしれない。あるいはサマーディになった心を堅固に維持するかもしれない」という考えが生じました。だから私は、その比丘が森に暮らすことに満足します。

 ナーギタさん。森に住むことを勤めと捉え、森の中で座ってサマーディに入ることを遵守しているこのダンマヴィナヤの比丘を見ると、私は「この人は今はまだ解脱していない心を脱ぎ捨てて、解脱できるかもしれない。あるいは解脱した心を維持するかもしれない」と、このような考えが生じました。だから私は、この比丘が森に住むことに満足します。

 ナーギタさん。里の近くに住むこのダンマヴィナヤの比丘が、四依、つまりチーヴァラ(衣)、食べ物、住まい、そして薬剤八物を得るのを見ると、その比丘はまだ遠離する場所を犠牲にし、静寂な森に住むことを犠牲にするほど貰い物を期待し、名声を期待して人里や村や都へ行って住みます。だから私は、その比丘が里の近くに暮らすことに満足しません。

 ナーギタさん。森に住むことを勤めとするこのダンマヴィナヤの比丘が、四依、つまりチーヴァラ、食べ物、住まい、そして医薬八物を手に入れるのを見ると、その比丘は貰い物と称賛を好まず、遠離する場所を犠牲にせず、静寂な森の住まいを犠牲にしません。だから私は、その比丘が森に住むことに本当に満足します。

 ナーギタさん。私自身も遠くへ旅をして、前にも後ろにも誰も見ることがない時は爽快で、大小便をするのも気分が良いです。





五つの危険に勝つ人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻117頁78項

 比丘のみなさん。この将来の危険は五つあります。この危険が見える比丘は、まだ到達していないものに到達するため、まだ達成していないことを達成するため、まだ明らかにしていないものを急いで明らかにするために、本当に油断がある人であってはならず、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、常にそのような行動をするよう自分を追いやる人でなければなりません。


(1)このダンマヴィナヤの比丘は、「今私はまだ若く、まだ若輩で、まだ熱中世代で、漆黒の髪があり、まだ成長期だ。しかしこの体に老いが訪れる時がある。老いに支配された老人は、智者の方々の教えに注意するにも便利でなく、そして密林である静寂な住まいに住むのも簡単ではない。

望まないもの、望ましくないもの、喜ばしくないもの(つまり老い)が訪れる前に、まだ到達しないものに到達するため、まだ達成しないものに達成するため、まだ明らかにしていないものを急いで明らかにするために、私は急いで努力をする。それは到達した人にし、どんなに老いても安楽に暮らせる」とこのように熟慮して明らかに見ます。

 比丘のみなさん。これが将来の危険の一つ目です。見える比丘は、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、本当に油断のある人であるべきでなく、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでも自分をそのように追いやらなければなりません。

(2)もう一つ、比丘は「今私は患いが少なく、病気が少なく、火界が常に体を温めるので冷え過ぎず、熱過ぎず、適度で努力するにふさわしい。しかしいつの日かこの体に病が訪れる日がある。病原菌に支配された病人が、智者の方々の教えを静かに洞察するのも便利ではなく、密林である静寂な住まいに住むのも簡単ではない。

望まないもの、望ましくないもの、喜ばしくないもの(つまり病)が訪れる前に、まだ到達しないものに到達するため、まだ達成しないものに達成するため、まだ明らかにしていないものを急いで明らかにするために、私は急いで努力をする。それは到達した人にし、病気でも安楽に暮らせる」とこのように熟慮して明らかに見ます。比丘のみなさん。これが将来の危険の二番目です。

 見える比丘は、まだ到達していないものに到達するため、まだ達成していないものを達成するため、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、本当に油断のある人であるべきでなく、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでも自分をそのように追いやらなければなりません。

(3)もう一つ、比丘は「今稲穂は美しく、食べ物(飯塊)は得やすい。食べ物を探す努力で命を維持するに便利が良い。しかしいつか乞食しにくく、籾米を失い、食べ物(飯)も得にくい時があり、食べ物を探して命を維持する便利が悪くなる。乞食をしにくい時は、全員が乞食しやすい場所に移動するので、そのような時は集団に混じって暮らす人が増え、集団に混じれば、智者の方々の教えを静かに考えるのも簡単ではない。

そして密林である静寂な住まいに住むのも、簡単ではない。望まないもの、望ましくないもの、喜ばしくないもの(つまり乞食がしにくい)が訪れる前に、まだ到達しないものに到達するため、まだ達成しないものに達成するため、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、私は急いで努力をする。それは到達した人にし、乞食が困難になっても安楽に暮らせる」とこのように熟慮して明らかに見ます。

 比丘のみなさん。これが将来の危険の三番目です。見える比丘は、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、本当に油断のある人であるべきでなく、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでも自分をそのように追いやらなければなりません。

(4)もう一つ、比丘は「今は一つにまとまって、楽しく仲違せず、牛乳と水のように気が合い、互いに愛し合う人の眼差しで見ているが、いつか危険、つまり山賊が勢力を増して、領地次第の田舎の人は散り散りに移住してしまう時がある。そのような危険がある時は、安全な場所に大勢の人が移動し、そんな時は人の集団に混じることになる。

集団に混じれば、智者の方々の教えを静かに考えるもの簡単ではない。そして密林である静寂な住まいに住むのも、簡単ではない。望まないもの、望ましくないもの、喜ばしくないもの(つまり山賊の難)が訪れる前に、まだ到達しないものに到達するために、まだ達成しないものに達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、私は急いで努力をする。

それは到達した人にし、山賊による難があっても安楽に暮らせる」とこのように熟慮して明らかに見ます。

 比丘のみなさん。これが将来の危険の四番目です。見える比丘は、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、本当に油断のある人であるべきでなく、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでも自分をそのように追いやらなければなりません。

(5)もう一つ、比丘は「今サンガは団結して髪を剃り合い、言い争いをせず、話題が同じで平安に暮らしているが、いつかサンガが分裂する時がある。サンガが分裂すれば智者の教えを静かに洞察するにも便利が悪く、密林である静寂な住まいに住むのも簡単ではない。

 望まないもの、望ましくないもの、喜ばしくないもの(つまりサンガの分裂)が訪れる前に、まだ到達しないものに到達するため、まだ達成しないものに達成するため、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、私は急いで努力をする。それは到達した人にし、サンガが分裂しても安楽に暮らせる」とこのように熟慮して明らかに見ます。

 比丘のみなさん。これが将来の危険の五番目です。見える比丘は、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、本当に油断のある人であるべきでなく、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでも自分をそのように追いやらなければなりません。

 比丘のみなさん。これが五つの将来の危険です。見える比丘は油断のある人であるべきでなく、煩悩を焼く努力をし、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないことを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、いつでも自分をそのような行動に追いやらなければなりません。





森に暮らす人は五つの危険に勝つ

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻115頁77項

 比丘のみなさん。森で暮らす比丘に見えている将来の危険は五種類あり、本当に油断のある人であるべきでなく、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを急いで明らかにするために、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでも自分をそのように追いやらなければなりません。

(1)森に住んでいるこのダンマヴィナヤの比丘は「今私は森に一人で住んでいる。毒ヘビやサソリ、あるいはムカデが森に一人で住んでいる私を噛むに違いない。だからそれが原因で死ぬことはあり得る。

私は急いでまだ到達しないものに到達するため、まだ達成しないものに達成するため、まだ明らかにしていないものを明らかにするために努力をする」と、このように熟慮して明らかに見ます。比丘のみなさん。これが見える森に住んでいる比丘に見えている将来の危険の一つ目です。

 本当に油断のある人であるべきでなく、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでもそのように自分を追いやらなければなりません。

(2)もう一つ、森に住む比丘が「今私は森に一人で住んでいる。一人で森に住んでいれば、うっかり転ぶことがあるかも知れず、食べる物が毒になることもあるかも知れず、良い水が悪くなるかも知れず、痰が悪化するかも知れず、敵が暴れるように風に毒があるかも知れない。

私の死はこれが原因に違いない。その危険はあるに違いない。私は急いでまだ到達しないものに到達するため、まだ達成しないものに達成するため、まだ明らかにしていないものを明らかにするために努力をする」と、このように熟慮して明らかに見ます。比丘のみなさん。これが森に住んでいる比丘がみている将来の危険の二つ目です。

 本当に油断のない人でなければならず、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでもそのように自分を追いやらなければなりません。

(3)もう一つ、森に住んでいる比丘は「今私は一人で森に住んでいる。一人で森に住んでいれば、いろんな動物が一緒にやって来るに違いない。獅子もいるし、大トラもいるし、黄トラもいるし、熊やヒョウもいる。これらの猛獣が私の命を奪うかも知れない。

私の死はこれが原因に違いない。その危険は私にあるに違いない。私は急いでまだ到達しないものに到達するため、まだ達成しないものに達成するため、まだ明らかにしていないものを明らかにするために努力をする」と、このように熟慮して明らかに見ます。比丘のみなさん。これが森に住んでいる比丘はが見ている将来の危険の三つ目です。

 本当に油断があってはならず、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、いつでもそのように自分を追いやらなければなりません。

(4)もう一つ、森に住む比丘が「今私は一人で森に住んでいる。私が一人で森に住んでいる時、強盗をした人、あるいはまだ強盗をしていなくても(するつもりのある)悪人たちが同じ道を歩くに違いない。それらの悪人たちが私の命を奪うに違いない。私の死はそれが原因に違いない。その危険は私に訪れるに違いない。

私は、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないことを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、努力しなければならない」と、このように熟慮して見ます。比丘のみなさん。これが森に住んでいる比丘がみている将来の危険の四つ目です。

 本当に油断のない人であるべきで、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないことを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、煩悩を焼く努力をし、自分をそのように後押ししなければなりません。

(5)もう一つ、森に住んでいる比丘は「今私は森に一人で住んでいる。森には非人間(幽霊、妖怪、鬼神など)が住んでいるので、それらが私の命を奪うに違いない。私の死はそれが原因に違いない。その危険は私に訪れるに違いない。

私はまだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないことを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、努力しなければならない」と、このように熟慮して見ます。比丘のみなさん。これが森に住んでいる比丘に見ている将来の危険の五つ目です。

 本当に油断のない人でいるべきで、まだ到達していないものに到達するために、まだ達成していないことを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、煩悩を焼く努力をし、自分をそのように後押しするべきです。

 比丘のみなさん。この五つのが森に住む比丘に見えている将来の危険で、本当に油断のある人であるべきでなく、また到達しないものに到達するために、まだ達成していないものを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために煩悩を焼く努力をし、そのように自分を後押しするべきです。





汚れがなくなった人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラバンナーサ ヴァットゥーパマ経 12巻65頁93項

 比丘のみなさん。心を憂鬱にするものはどのようでしょうか。比丘のみなさん。均衡をなくすローバ、つまり貪りは心を憂鬱にするもので、恨みは心を憂鬱にするもので、怒りは心を憂鬱にするもので、憤懣は心を憂鬱にするもので、忘恩は心を憂鬱にするもので、偉い人と対等に振る舞うことは心を憂鬱にするもので、妬みは心を憂鬱にするもので、

ケチは心を憂鬱にするもので、欺瞞は心を憂鬱にするもので、自慢は心を憂鬱にするもので、頑固は心を憂鬱にするもので、善の競争は心を憂鬱にするもので、傲慢は心を憂鬱にするもので、他人を軽蔑することは心を憂鬱にするもので、陶酔は心を憂鬱にするもので、油断は心を憂鬱にするものです。

 比丘のみなさん。比丘が「均衡をなくすローバ、つまり貪りは心を憂鬱にするもの」と、このように明らかに知れば、彼は心を憂鬱にするものである均衡をなくすローバ、つまり貪りを捨ててしまうことができます。

 その人が「復讐心は心を憂鬱にするもの」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする復讐心を捨ててしまうことができます。 

 その人が「怒りは心を憂鬱にするもの」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする怒りを捨ててしまうことができます。

 その人が「憤懣は心を憂鬱にするもの」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする憤懣を捨ててしまうことができます。

 その人が「恩知らずは心を憂鬱にするもの」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする忘恩を捨ててしまうことができます。

 その人が「偉い人と対等に振る舞うことは心を憂鬱にするもの」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にするものである自分をお偉方と対等に振る舞うことを捨ててしまうことができます。

 その人が「妬みは心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする妬みを捨ててしまうことができます。

 その人が「ケチは心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にするケチを捨ててしまうことができます。

 その人が「欺瞞(策略)は心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする欺瞞(策略)を捨ててしまうことができます。

 その人が「自慢は心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする自慢を捨ててしまうことができます。

 その人が「頑固は心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする頑固を捨ててしまうことができます。

 その人が「善の競争は心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする競争心を捨ててしまうことができます。

 その人が「傲慢は心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする傲慢を捨ててしまうことができます。

 その人が「侮蔑は心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする侮蔑を捨ててしまうことができます。

 その人が「陶酔は心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知れば、心を憂鬱にする陶酔を捨ててしまうことができます。

 その人が「油断は心を憂鬱にするものだ」とこのように明らかに知ることができれば、心を憂鬱にする油断を捨ててしまうことができます。


 比丘のみなさん。比丘が「貪りは均衡がない、つまり貪りは心を憂鬱にする」と知れば、その時はいつでも心を憂鬱にする貪りは、彼が捨てることのできるものです。

 更にその人が、復讐心、怒り、怒りを抱くこと、忘恩、偉い人と対等に振る舞うこと、妬み、ケチ、欺瞞、自慢、頑固、競い合い、傲慢、侮辱、陶酔、油断は心を憂鬱にするものだと明らかに知れば、心を憂鬱にするこれらのものは、彼が捨てることができるものです。

 その時その比丘は、「だからブッダは煩悩から離れた人であり、正しく悟った人であり、明と明を得る実践項目の揃った人であり、良く行った人であり、世界を明らかに知る人であり、訓練すべき人を誰よりもよく訓練できる人であり、すべての人間と天人の先生であり、ダンマによって知る人、目覚めた人、明るい人であり、

ダンマを分類して動物に教えることができる人だ」とこのように揺らがないブッダへの信仰がある人で、「ダンマはブッダが良く説かれたものであり、学んで実践する人は、自分自身で見るべきものであり、時を限定しないでいつでも、実践して結果を出すことができるものであり、『どうぞ来て見てください』と言うにふさわしいものであり、自分自身に取り入れることができるものであり、

知る人は自分だけで知ることができるもの」とこのように、教えを確信する信仰のある人で、「ブッダの弟子である僧は良く実践する人であり、ブッダの弟子である僧は真っ直ぐ実践する人であり、ブッダの弟子である僧は苦から出るダンマを知るために実践する人であり、

ブッダの弟子である僧は適度に実践する人であり、つまり四組八段階、それがブッダの弟子である僧です。すなわち人々が奉げ物を持ってくるにふさわしい僧であり、人々が迎えて供養するにふさわしい僧であり、人々からタクシナーターナ(右肩を相手に向けて時計回りする礼)を受けるにふさわしい僧であり、一般の人が合掌礼拝するにふさわしい僧であり、これ以上の徳の田はない世界の徳の田だ」とこのように僧に揺るがない信仰のある人です。

 比丘のみなさん。その比丘が煩悩を捨てることができ、吐き出し、脱し、捨て、払い捨てることができると、「私はブッダ、プラタム(教え)、僧に揺るぎない帰依がある」と明らかな意義の知識、明らかなダンマの知識を得、当然ダンマがある喜びを得、喜びがあれば喜悦が生じ、心に喜悦があれば体も静まり、体が静まった比丘は当然幸福を味わい、幸福があれば当然心は安定します。

 比丘のみなさん。比丘が「煩悩を捨てることができた。吐き出した。脱した。捨てた。払い捨てることができた」と、このように義の明らかな知識、ダンマの明らかな知識を得ると、彼は当然ダンマがある喜びを得、喜びがあれば喜悦が生じ、心に喜悦があれば体も静まり、体が静まった比丘は当然幸福を味わい、幸福があれば当然心は安定します。

 比丘のみなさん。このように戒があり、このように智慧がある比丘は、スープとどんなにたくさんのおかずがある黒い粒の混じらない真白な小麦の食べ物を食べても、その「食べること」は彼にとって危険ではありません(彼を憂鬱にしません)。比丘のみなさん。

 汚れに触れた不潔な布も、清潔な水に至れば当然真白で清潔な布になるように、あるいはルツボに至った金が純粋な金になるように、比丘のみなさん、このように戒があり、このようにダンマがあり、このように智慧がある人は、スープ付きの黒い粒の混じらない真白な小麦の食べ物と、そしてどんなにたくさんのおかずがある食事を食べても、その「食べること」は彼にとって危険ではありません。

 比丘のみなさん。その比丘は心に慈があり、悲があり、喜があり、捨があり、第一、第二、第三、第四の方向、そして上と下、横切る方向に広げ、すべての世界に広げ、広大な慈・悲・喜・捨のある心で、恨みのない、復讐心のない、計ることのできない大きな心に到達しています。彼は当然「これはある。劣悪なものはある。緻密なものはある。もっと良いこの想の脱出の方便はまだある」とこのように明らかに知ります。

 彼がこのように知り、このように見れば、当然漏つまり愛欲、有、そして無明から解脱し、心がすべての漏から解脱すれば「解脱した」と知るニャーナ(智)があり、彼は当然「生は終わった。梵行は終わった。するべきことは終わった。このようになるためにすることはもうない」と明確に知ります。

 比丘のみなさん。私はこの比丘を「内面の沐浴剤、内面の洗浄剤で沐浴した人」と呼びます。





名簿にある人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 21巻34頁26項

 比丘のみなさん。騙さず、ダラダラと際限なく喋らず、賢く、頑固でなく、心にサマーディがある比丘は誰でも、比丘のみなさん。これらの比丘は私の人です。比丘のみなさん。これらの比丘はこのダンマヴィナヤから出て行かず、そして彼はこのダンマヴィナヤで発展します。





型破りでない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻134頁450項

 比丘のみなさん。一般大衆から信頼されている比丘にこの三種類の行動があれば、大衆の利益になる人、大衆を幸福にする人で、大衆の発展のためにし、支援する利益のためにになり、人間と天人の幸福のためになると言われます。三種類の行動とは何でしょうか。三種類とは、

(1)仏教の滅苦の教えと一致する身体の行動に大衆を誘う。

(2)仏教の滅苦の教えと一致する言葉の行動に大衆を誘う。

(3)仏教の滅苦の教えと一致する心の行動に大衆を誘う。

 比丘のみなさん。一般大衆から信頼されている比丘にこの三種類の行動があれば、大衆に利益を得させる人、大衆を幸福にする人で、大衆の発展のためにし、支援する利益のためになり、人間と天人の幸福のためになる人と言われます。





ダンマを捨てない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻355頁564項

 比丘のみなさん。比丘たちの心が一つで、互いに楽しく仲違いをせず、乳と水のように溶け合い、互いに愛の眼差しで見ている方向は、比丘のみなさん、(苦労して)歩いて行かなければならなくても、その方向は私にとって安楽な方向で、考えるだけについては言うまでもありません。

 この場合の比丘は三種類のダンマを捨ててしまい、そして揃って三種類のダンマをたくさんしたからと確信します。彼らが捨てた三種類のダンマは何でしょうか。三種類とは、

(1)愛欲の考え

(2)悪意の考え

(3)他人に迷惑をかける考え

 これらの三種類のダンマを、彼らは捨ててしまいました。


 それらの比丘が増やした三種類のダンマは、

(1)愛欲を避け、愛欲から出る考え

(2)害意でしない考え

(3)他人を困らせない考え

 この三種類のダンマは、これらの比丘が揃って遵守して増やしたダンマです。

 比丘のみなさん。比丘たちの心が一つにまとまって、互いに楽しく、仲違せず、乳と水のように溶け合い互いに愛の眼差しで見る方向は、比丘のみなさん、たとえ(苦労して)歩いて行かなければならなくても、その方向は私にとって安楽な方向です。考えるだけについては言うまでもありません。

 この場合、比丘が三種類のダンマを捨ててしまい、そして代わりに三種類のダンマを増やしたからと確信します。





明るさしかない日々

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャッカニバータ 22巻483頁355項

 比丘のみなさん。六つがある比丘の日々は、当然すべての善の発展だけが期待できる状態で過ぎて行き、衰退はありません。六種類とは何でしょうか。六種類とは、この場合の比丘は、

(1)チーヴァラ(衣)、食べ物、住まい、医薬品八物に関して足ることを知っているので、望みが少なく苦がなく、

(2)信仰がある人で、

(3)戒がある人で、

(4)努力を始めた人で、

(5)サティがある人で、

(6)智慧がある人です。

 比丘のみなさん。このような六つの要素がある比丘の日々は、当然すべての善の発展だけが期待できる状態で過ぎて行き、衰退はありません。





釘づけにされない人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ チェトーギーラ経 12巻208頁230項

 比丘のみなさん。心を釘づけにする五本の釘が、比丘が捨てることができたものであれば、その比丘がこのダンマヴィナヤで発展、成長、繁栄に達すこと、これはあり得ることです。比丘のみなさん。心を釘づけにする五つの釘は、比丘がどのように捨てることができたものでしょうか。

 このダンマヴィナヤの比丘は、当然教祖を疑わず、当然納得して信頼し、当然帰依します。述べたような比丘、その比丘の心は当然、煩悩を焼き滅ぼす努力、継続してする努力、連続している努力、そして安定した基礎である努力に傾いて行きます。誰の心でもこのような努力に傾いていけば、それがこのような状態で捨てることができた一本目の釘です。

 比丘のみなさん。もう一つ比丘は当然ダンマを疑わず、当然納得して信頼し、当然帰依します。述べたような比丘、その比丘の心は、当然、煩悩を焼き滅ぼす努力、継続してする努力、連続している努力、そして安定した基礎である努力に傾いて行きます。誰の心でも、このような努力に傾いて行けば、それがこのような状態で捨てることができた二本目の釘です。

 比丘のみなさん。もう一つ比丘は当然僧サンガを疑わず、当然納得して信じ、当然帰依します。このような比丘、その比丘の心は、当然、煩悩を焼き滅ぼすものである努力、連続してする努力、継続してする努力、そして安定した基盤である努力に傾いて行きます。誰の心でもこのような努力に傾いて行けば、それが彼がこのような状態で捨てることができた三本目の釘です。

 比丘のみなさん。もう一つ比丘は当然三学を疑わず、当然納得して信頼し、当然帰依し、述べたような比丘、その比丘の心は、当然煩悩を焼き滅ぼす努力、継続してする努力、連続している努力、そして安定した基盤である努力に傾いて行きます。誰の心でもこのような努力に傾いていけば、それが、このような状態で捨てることができた四本目の釘です。

 比丘のみなさん。もう一つ比丘は一緒に梵行をするすべての仲間に対して怒りの考えをせず、不満に思わず、怒りの心が生じて釘になりません。述べたような比丘、その比丘の心は当然煩悩を焼き滅ぼす努力、継続してする努力、連続している努力、そして安定した基盤である努力に傾いて行きます。誰の心でもこのような努力に傾いて行けば、それがこのような状態で捨てることができた五本目の釘です。

 比丘のみなさん。心を釘づけにする五本の釘を捨てることができた比丘は、このダンマヴィナヤで発展、成長、繁栄することができます。これはあり得ることです。





還俗を回避できた人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻29頁56項

 「比丘のみなさん。そうです。体が重くなってくるとどの方向も暗くなり、すべてのダンマが明るくなく、ティーナミッダ(沈鬱と眠気。こん沈睡眠)に心を掴まれ、心に逆らって梵行をし、すべてのダンマに疑念があります。

 これらの症状は、当然すべての根の門を管理せず、食べ物の適量を知らず、休まず眠気に勝つ気持ちがなく、善であるすべてのダンマが明らかに見えず、宵の口から宵の終わりまで菩提分(三十七道品)を実践する努力をしません。

 比丘のみなさん。だからこのことは「私はすべての根の門を管理する人であり、食べ物の適量を知る人であり、絶えず眠気に勝つ心があり、すべての善が明らかに見える人であり、宵の口から宵の終わりまで継続して菩提分(三十七道品)を実践する努力をする」と、このように心に留めなければなりません」。

 その比丘はこの訓辞を謙虚に受け入れて、集団から離れて一人で住み、油断をせずに煩悩を焼き、そのように自分を追いやって阿羅漢になりました。





ハエに集られない人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 21巻17頁11項

 比丘のみなさん。比丘が歩いていても立っていても座っていても、寝てまだ眠っていない時でも、彼に愛欲の考えが生じても、他人を困らせる考えが生じても、その比丘がその考えを受け入れず捨ててしまい、抜き捨ててしまい、跡形もなく終わらせてしまえば、

そのような比丘が歩いていても、立っていても、座っていても、寝ていても、私は「煩悩を焼く努力のある人。煩悩の奴隷になることを恐れる人。いつでも変わらず努力を始めた人。そしてそのように自分を追いやる人」と言います。





ハエに集られない人(別の経)

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ダサカニバータ 24巻17頁12項

 比丘のみなさん。五つを捨てられ、五つが揃った人を、私は「すべての徳行がある人。梵行が終わった人。このダンマヴィナヤの頂点である人」と呼びます。

 比丘のみなさん。五つを捨てた比丘とはどんなでしょうか。比丘のみなさん。貪欲はこのダンマヴィナヤの比丘が捨てることができたもので、瞋恚は彼が捨てることができたもので、眠気と沈鬱は彼が捨てることができたもので、散漫は彼が捨てることができたもので、疑は彼が捨てることができたものです。

 比丘のみなさん。五つが揃っている比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、アセカ(無学。学ぶべきことがない人。つまり阿羅漢)である戒が揃っている人であり、無学であるサマーディが揃っている人であり、無学である智慧が揃っている人であり、無学である解脱が揃った人であり、無学である解脱智見が揃った人です。

 比丘のみなさん。このような比丘を、五つが揃った人と言います。

 比丘のみなさん。五つを捨てることができ、五つが揃っている比丘を、私は「すべての徳行がある人、このダンマヴィナヤの人の頂点であり、梵行が終わった人」と呼びます。





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