3.ブッダの望みと一致させることについて
ダンマの相続者
比丘のみなさん。みなさんは私のダンマの相続者におなりなさい。物の相続者になってはいけません。私の心配は「どうすれば私の弟子全員がダンマの相続者になれるか」ということです。
比丘のみなさん。みなさんが物質の相続者になり、私のダンマの相続者にならなければ、人々から「教祖の弟子は誰もみな普通の物質相続者で、ダンマの相続者ではない」と烙印され、私も「教祖の弟子は全員、普通に物質の相続者で、ダンマの相続者ではない」と非難されます。
比丘のみなさん。みなさん全員が私のダンマの相続者になり、物質の相続者にならなければ、みなさん全員が「教祖の弟子はみなダンマ相続者になった。物質の相続者ではない」とこのように称賛され、私も「教祖の弟子は全員、一斉にダンマ相続者になり、物質相続者ではない」とこのように褒められます。
比丘のみなさん。だからこのことは、みなさん私のダンマの相続者におなりなさい。物質の相続者になってはいけません。みなさんに関しての私の心配は「どうしたら弟子全員が、物質相続者になるようにダンマの相続者になれるか」ということです。
一日一回だけ食べる
比丘のみなさん。私は当然一か所だけに座って食事をします。(つまり一食だけで立ち上がり、その日はもう食べません)。比丘のみなさん。一か所だけで食べている時は、病気が少なく苦が少なく、体が軽快で元気があり、そして平安もあると感じます。
比丘のみなさん。さあ、みなさんも一か所だけに座って食事をなさい。比丘のみなさん。みなさんが一か所だけで食事をすれば、病気が少なく苦が少なく、体が軽快で元気があり、そして安楽もあると感じます。
食事の後は黙想
有名な長老たちが会話をしていて、ゴーシンガサーラの森とは優雅な森という意味の名前だが、どんな種類の比丘が住むからだろうという話題になり、プラアーナンダは博識な比丘が住むからと答え、プラレーワッタは遠離を好む比丘が住むからと答え、プラアヌルッダは天眼のある比丘が住むからと答え、
プラマハーカッサバは頭陀をする比丘と五蘊が完璧な比丘が住むからと答え、プラマハーモッガラーナはアビダンマにすらすらと答えられる比丘がいるからと答え、プラサーリプッタは思い通りにヴィハーラサマパッティに入ることができる比丘がいるからと答え、それぞれ見方が違うので、誰の言葉が金言かを世尊に判断してもらうと、以下のようにお答えになりました。
サーリプッタ。みなさんの言葉は間接的な金言です。みなさん、私の言葉をお聞きなさい。
サーリプッタ。このダンマヴィナヤの比丘は食事の後、托鉢から戻った後、足を組んで座り、体をまっすぐに立ててサティを現前に据え「私の心はすべての漏から解脱していない。私はまだ取がある分だけ座ることを止めない」とこのように望みます。サリープッタ。パーゴーシンガサーラの森は、この種の比丘が住むから優雅なのです。
琵琶の糸を適度に張る人
ソーナさん。あなたが一人で静かに身を潜める場所に行った時、あなたに「世尊の弟子はどの人たちも努力を始めている。私もその弟子の一人だが、それでも私の心はまだ執着しないことで漏から脱すことができない。本当は私の一族は財産がたくさんあり、私は一族の財産を消費して徳を積むことができる。それなら還俗して財産を使い、徳を積む方が良い」という考えが生まれたのではないですか。
「左様でございます、スガタ様」。プラソーナが答えました。
ソーナさん。あなたはこれをどう考えますか。以前あなたが在家だった頃、あなたは琵琶の名手でしたね。
「左様でございます、スガタ様」。
ソーナさん。あなたはこれをどう理解しますか。琵琶の糸を強く張りすぎれば、その時あなたの琵琶は美しい音色が出ましたか。聞き物になりましたか。
「左様ではございません」。
ソーナさん。これをどう理解しますか。あなたの琵琶の糸を緩く張りすぎれば、その時あなたの琵琶は、聴きたくなる良い音色になりましたか。使い物になりましたか。
「いいえ、左様ではございません」。
ソーナさん。しかしあなたの琵琶の糸を強すぎず緩すぎず、ちょうど良い塩梅に調整すれば、その時あなたの琵琶は当然美しい音色になり、聞く価値のある物になるのではありませんか。
「左様でございます、スガタ様」。
ソーナさん。これも同じです。努力を望みすぎれば当然散漫になり、緩みすぎれば怠慢になります。ソーナさん。だからあなたはちょうど良い努力をし、すべての根(註)が同じような自然でなければならないことを理解し、そのちょうど良いことを心に銘じなさい。
「スガタ様。私はそのように実践致します」。
・・・・
その後プラソーナは張りすぎず緩みすぎない適度な努力を維持し、すべての根が同等の自然であることを知り、ちょうど良いことを心に銘じて群れから離れて一人で住み、油断せずに煩悩を焼き尽くす努力をし、自分をその流れに追い込み、間もなく、家を出て出家し、家のない人である良家の息子たちが望むべき最高の梵行の頂点を、生きているうちに最高の智慧によって明らかにすることができ、そして常にその高い感覚の中にいました。
そして「私の生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は終わった。このようになるためにしなければならない他の仕事はない」と、このように知り、プラソーナはこの世界の阿羅漢の一人になりました。
註: この場合の「すべての根」は信、精進、サティ、サマーディ、智慧。
「拠り所であるダンマ」がある人
アーナンダ。サーリプッタは戒蘊、定蘊、智慧蘊、解脱蘊、解脱智見蘊を持って涅槃してしまったのですか。
「スガタ様。サーリプッタさんは、スガタ様の戒蘊、定蘊、智慧蘊、解脱蘊、解脱智見蘊を持って涅槃しません。しかし私にとってサーリプッタさんは、教え、分かるように説明し、実践する勇気を与え、実践に満足するように解説してくださる人でした。
ダンマの説明をなさる時は疲れを知らず梵行をするすべての人を助ける人で、すべての弟子はサーリプッタさんのダンマの醍醐味、ダンマの財産、ダンマによる支援を懐かしんでいます」とプラアーナンダがお答えしました。
アーナンダ。私は前に『すべての愛するもの、気に入ったものが変化して別の状態になること、別離は当然ある。アーナンダ。それは何から生じるのでしょう。縁によって作られて生じ、存在しているものは何でも、壊れるのは当たり前。それは壊れないで、というのは当然あり得ません』と忠告したではないですか。
アーナンダ。大木は芯が残っていて、一部が他の部分より老化して早く崩れるように、アーナンダ。大きなサンガに心髄であるダンマが残っていて、サーリプッタは般涅槃しました。アーナンダ。それはどこから来るのでしょうか。生じ、存在し、縁が作った物は何でも、崩壊するのは当たり前です。それは壊れてはいけないというのは、当然無理なことです。
アーナンダ。だから今でも、私が去った後でも、他のものを拠り所にしないで、誰でも島である自分、拠り所である自分がなければなりません。他のものを拠り所にしないで、島であるダンマ、拠り所であるダンマがなければなりません。
アーナンダ。島である自分、拠り所である自分がある比丘は、どのように島であるダンマ、拠り所であるダンマがあり、他のものを拠り所にしないのでしょうか。
アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は、絶えず体の中の体を熟慮して見、絶えずすべての受の中の受を熟慮して見、絶えず心の中の心を熟慮して見、絶えずすべてのダンマの中のダンマを熟慮して見て、煩悩を焼き滅ぼす努力をし、全身に行き渡るサティがあり、世界の貪りと憂いを排除してしまうことができます。
アーナンダ。このような比丘を「島である自分があり、拠り所である自分があり、他のものを拠り所にしない。島であるダンマがあり、拠り所であるダンマがあり、他のものを拠り所にしない」と言います。
アーナンダ。今でも、私が去った後でも、島である自分があり、拠り所である自分があり、他のものを拠り所にしてはいけません。島であるダンマがあり、拠り所であるダンマがあり、他のものを拠り所にしない人は、アーナンダ。どの比丘も勉学を求める人で、その比丘たちは最高に善い状況にいる人になります。
死に関して真に迂闊でない人
「比丘のみなさん。人が励んでたくさんしているマラナサティ(死について考えること。死随念)は当然大きな成果があり、涅槃を明らかにする大きな功徳があり、最後に涅槃があります。みなさんはマラナサティをしていますか」。
世尊がこのように言われると、ある比丘が「私はマラナサティをしています」と申し上げました。
ブッダ「あなたはどのようにマラナサティをしていますか。比丘」。
比丘: 「私がマラナサティする時は『ああ、私はもしかしたら今日だけ、今晩だけの命かもしれない。世尊の教えを注意深く聞くべきだ。教えの実践をもっとするべきだ』とこのように考えて、このようにマラナサティをしています」。
もう一人の比丘が「私もマラナサティをしています」と申し上げました。
ブッダ: 「あなたはどのようにマラナサティをしていますか。比丘」。
比丘: 「マラナサティをする時私は、『ああ、私は昼の一時しかない命かも知れない。世尊の言葉を注意深く聞くべきだ。教えの実践をもっとするべきだ』とこのように考え、このようにマラナサティをしています」。
もう一人の比丘が「私もマラナサティをしています」と申し上げました。
ブッダ: 「あなたはどのようにマラナサティをしていますか。比丘」。
比丘: 「マラナサティをする時、私は『ああ私は、もしかしたらあと少ししか、この食事を終わるまでしか命がないかもしれない。世尊の教えを注意深く聞くべきだ。教えの実践をもっとするべきだ』と考え、このようにマラナサティをします。
もう一人の比丘が「私もマラナサティをしています」と申し上げました。
ブッダ: 「あなたはどのようにマラナサティをしていますか、比丘よ」。
比丘: 「マラナサティをする時私は、『ああ私は、もしかしたらご飯を四五口食べ終わるまでしか命がないかもしれない。世尊の教えを注意深く聞くべきだ。教えの実践をもっとするべきだ』とこのように考えます。このようにマラナサティをします」。
もう一人の比丘が「私もマラナサティをしています」と申し上げました。
ブッダ: 「あなたはどのようにマラナサティをしていますか。比丘よ」。
比丘: 「マラナサティをする時私は『ああ私は、もしかしたらあと一呼吸しか命がないかもしれない。私は世尊の教えを心に留めるべきだ。教えの実践をもっとするべきだ』と考え、このようにマラナサティをしています」。
言い終わると世尊が言われました。
比丘のみなさん。このように「ああ私は、もしかしたらあと一日、一晩だけしか命がないかもしれない」でも、「私は昼間だけしか命がないかもしれない」でも、「私はこの食事を食べ終わる間だけしか命がないかもしれない」でも、「私は食事を四五口食べている間だけしか命がないかもしれない」でも、
「私は世尊の教えを注意深く聞くべきだ。教えの実践をもっとするべきだ」と、このようにマラナサティをする比丘は、これらの比丘を私は、まだ不注意な人で、遅すぎるアーサワ(煩悩の名前の一つ。漏)の終りのためにマラナサティをしていると言います。
比丘のみなさん。「ああ、私はもしかしたら、ご飯を一口食べる間だけしか命がないかもしれない」でも、「ああ、私はもしかしたら、一呼吸だけしか命がないかもしれない」でも、「だから私は世尊の教えを注意深く聞くべきだ。教えの実践をもっとするべきだ」と、このようにマラナサティをする比丘は、これらの比丘を私は、油断のない人で、本当に漏を終わらせるためにマラナサティをする人と呼びます。
比丘のみなさん。だからこのことについてみなさんは、「私たちは命に油断のない人になり、本当に漏を終わらせるためにマラナサティをする」と、このように心に留めておくべきです。比丘のみなさん。このように心に留めておくべきです。
病気の比丘にとっての脱出口
比丘のみなさん。体力のない病気の比丘が五つのダンマを捨てなければ、彼はこの結果を期待できます。つまり彼は間もなく、生きているうちに、最高の智慧ですべての漏が絶滅した心解脱、智慧解脱を明らかにし、そして常にその高い感覚の中にいます。五つとは何でしょうか。五つとは、
(1)体が美しくないことを常に熟慮して見る人
(2)食べ物の不浄を常に意識している人
(3)世界のすべての物は喜ぶべきでないと常に意識している人
(4)すべての行は変化すると常に認識している人
(5)そして死は、彼が内面で善く意識しているものと認識する。
比丘のみなさん。体力のない比丘がこの五つのダンマを捨てなければ、この結果を期待できます。つまり彼は間もなく、生きているうちに最高の智慧ですべての漏が絶滅した心解脱、智慧解脱を明らかにさせ、そして常にその高い感覚の中にいます。
涅槃の近くにいる人
比丘のみなさん。四種類のダンマがある比丘は衰退できず、あるのは涅槃の近くにいるだけです。四種類のダンマとは何でしょうか。
四種類とは、このダンマヴィナヤの比丘は戒が完璧な人で、すべての根の門を管理する人で、食べ物の適度を知る人で、常にジャーガリヤダンマ(警寝策励。常に睡眠蓋を払って努力すること)のある人です。
比丘のみなさん。戒が完璧な比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は戒のある人で、パーティモッガ戒(二二七戒)に細心の注意をし、完璧な行儀作法と拠り所があり、小さくても、すべての罪の害が見える人で、すべての教条を学んで遵守します。比丘のみなさん。このような比丘を、戒が完璧な人と言います。
比丘のみなさん。すべての根の門を管理する人とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触をし、そして心で概念を受け取っても、全体としても掴まず、部分に分けても掴みません。
悪で下品な物、つまり貪りと憂いは根に注意を払わないことが原因で、目・耳・鼻・舌・体・心に注意をしない比丘に流れていくので、彼はその根を塞ぐために実践し、維持し、目・耳・鼻・舌・体・心に慎重になります。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての根の門を管理する人と言います。
比丘のみなさん。食べ物の適度を知る人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は絶妙な熟慮をしてから食事をし、楽しむため、陶酔のため、飾りのため、潤いのために食べず、この体を維持するため、命を繋ぐため、困窮を防ぐため、梵行を支えるためだけに
「私は古い受(空腹)を排除してしまい、新しい受(満腹で苦しい)を作らない。年齢を重ねること、食による害がないこと、そして穏やかで幸福で楽しく暮らすことは私たちにある」と、このように知って食べます。比丘のみなさん。このような比丘を、食べ物の適度を知る人と言います。
比丘のみなさん。常にジャーガリヤ(眠気を払って努力する)ダンマのある人とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、昼から宵、宵の終わりまで、経行で、座ることで、当然心を妨害する煩悩がない清潔な状態にし、夜半には当然獅子王のように、起き上がることを考えて右脇を下にし、
足に足を重ねて眠り、夜の終わりになったら起き上がって再び経行をすること、再び座ることで、心を妨害している煩悩から清潔になります。比丘のみなさん。このような比丘を、常にジャーガリヤダンマがある人と言います。
比丘のみなさん。この四種類のダンマがある比丘は衰退することはできず、あるのは涅槃の近くにいるだけです。
涅槃を明らかにする人
比丘のみなさん。集団との交わりに満足している比丘は集団との交わりを喜び、集団と交わることに満足し、集団を喜んで集団に満足しているので、彼が孤独な人になって静寂を非常に喜ぶことはあり得ません。
孤独な人でなければ、静寂を喜んでサマーディの心、ヴィパッサナーの心の前兆を掴むこともあり得ません。
サマーディの心、ヴィパッサナーの心の前兆を掴まなければ、ヴィパッサナーの正しい見解(正見)を完璧にすることもあり得ません。
ヴィパッサナーの正しい見解を完璧にしなければ、聖向と聖果の正しいサマーディを完璧にすることもあり得ません。
聖向と聖果の正しいサマーディを完璧にしなければ、サンニョージャナ(動物を輪廻に結び付ける十の煩悩。十結)のすべてを捨てることもあり得ません。
十結のすべてを捨てなければ、涅槃を明らかにすることもあり得ません。
比丘のみなさん。集団との交わりに満足せず、集団との交わりを喜ばず、集団との交わりに満足がなく、集団を喜ばない人で集団を喜ばず、集団に満足しない比丘は、その人が孤独な人になって静寂を非常に喜ぶこと、それはあり得ること、なり得ることです。
一人になって静寂を非常に喜べば、サマーディの心、ヴィパッサナーの心の前兆を掴むことも、あり得ること、なり得ることです。
サマーディの心、ヴィパッサナーの心の相を掴めば、ヴィパッサナーの正しい見解を完璧にすることも、あり得ること、なり得ることです。
ヴィパッサナーの正しい見解を完璧にすれば、聖向聖果の正しいサマーディを完璧にすることも、あり得ること、なり得ることです。
聖向聖果の正しいサマーディを完璧にすれば、サンニョージャナ(生き物を輪廻に結び付ける煩悩。十結)のすべてを捨てることもあり得ること、なり得ることです。
すべてのサンニョージャナを捨てることができれば、涅槃を明らかにすることも、あり得ること、なり得ることです。
ブッダのように正しく暮らす人
比丘のみなさん。私はこの実践項目に確信があります。比丘のみなさん。私はこの実践項目(実践し、教え伝えている梵行)に確信があります。
だからこのことはみなさん、まだ到達していないものに到達するため、まだ達成していないものを達成するため、まだ明らかにしていないものを明らかにするために、より一層の努力を始めなさい。紅蓮の咲く季節、雨季が終わる丸四カ月目(十二月の満月)まで、私はここサーヴァッディーでみなさんを待っています。
この知らせを聞いた田舎の比丘たちはブッダに拝謁するために列をなしてサーヴァッディーに押し寄せました。
名の知れた有名な長老たち、プラサーリプッタ、プラマハーモッガラーナ、プラマハーカッサバ、プラマハーカッチャーニャーナ、プラマハーゴーディタ、プラマハーカッピナ、プラマハージュンダ、プラレーヴァッタ、プラアーナンダ、その他たくさんの長老たちは、新参の比丘をグループに分け、十人毎、二十人毎、三十人毎、四十人毎のグループに説明して教えました。
それらの新参比丘たちは十二月の満月の日までたくさんの有名な長老たちから教えを聞き、説明を聞いて、当然それまでより深く広い特別の意味を知りました。
その時世尊が比丘たちに言われました。
比丘のみなさん。この比丘教団員は信じられないものではありません。比丘のみなさん。この比丘教団員はくだらないものではありません。この比丘教団員はすべて内容のあるダンマだけを維持しています。
比丘のみなさん。崇拝するべき、迎えるべき、右肩を向けて回転する(表敬の作法)べき、拝むべき状態があり、世界の最高の徳の田である教団員がどのような状態でも、この比丘集団はそのような状態があり、この比丘教団員もそのような状態があります。
比丘のみなさん。人の小さな布施に大きな結果があり、たくさんの布施には更に何倍もの結果がある教団員がどんな状態でも、この比丘集団はそのような状態があり、この比丘教団員はそのような状態があります。
比丘のみなさん。世間の人が滅多に見ることができない教団員にどんな状態があっても、この比丘集団にはそのような状態があり、この比丘教団員はそのような状態があります。
比丘のみなさん。食糧を携えなければならないほど遠い道のりを歩いてでも、行って見るべき状態がある教団員がどのようでも、この比丘集団にはそのような状態があり、この比丘教団員にはそのような状態があります。
比丘のみなさん。この比丘集団には漏を消滅させた人、梵行が終わった人、するべき仕事を成功させ、下ろした重荷があり、段階的に到達した自分の利益があり、有のサンニョージャナが終わって、正しく知り尽して解脱した阿羅漢比丘たちがいます。今見える比丘たちもこの比丘集団にいます。
比丘のみなさん。この比丘集団には初めの五つのサンニョージャナ(動物を輪廻に結び付ける煩悩。結)をなくし、オッパーティカ(不還)になってそこで般涅槃し、当然その世界から戻ってこない比丘もいます。今見える比丘もこの比丘集団の中にいます。
比丘のみなさん。この比丘集団には、三つのサンニョージャナが終わり、貪りと怒りと愚かさが軽くなり、サカダーガミー(一来)になり、この世界にもう一度だけ来て、そして苦を終わりにできる比丘たちがいます。今見える比丘たちもこの比丘集団の中にいます。
比丘のみなさん。この比丘集団には、三つのサンニョージャナが終り、ソターパッティ(預流)になり、落ちて普通になることはなく、将来悟ることが確実に約束されている比丘もいます。今見える比丘たちもこの比丘集団にいます。
比丘のみなさん。この比丘集団には、四念処、四正勤、四如意足、五力、六根、七覚支、八正道、慈、悲、喜、捨、不浄、無常、そしてアーナーパーナサティの訓練を、絶えずするべき物として努力する比丘もいます。今見える比丘たちもこの比丘集団にいます。
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