ブッダヴァチャナの宝石箱

第十二章 正しい生活について




   懇願して誘う人


比丘のみなさん。

可愛がることに依存して支援する利益を求める

可愛がる教祖がすべての弟子にすべきことは何でも、

私はみなさんにしました。


比丘のみなさん。それはすべての木の根元。

それはすべての廃屋。


比丘のみなさん。煩悩を燃やす努力をなさい。

油断してはいけません。

みなさん。後で焦慮する人になってはいけません。

これです。私がみなさんに繰り返し教える言葉は。

  相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻441頁674項)




1.貰い物について


貰い物について熟知している人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 三蔵16巻278頁573項

 比丘のみなさん。貰い物(幸運)と称賛は、努力から生じたこれ以上の物がない安全なダンマである涅槃への到達にとって、凶悪で下品で打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛の魅力、下賤な害、それらから脱す方便を真実のままに知るサマナやバラモン(修行者)は誰でも、最高の智慧で静かなダンマを明らかにすることができ、そのダンマの中にいることができます。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛を生じさせる原因を知り、消滅を知り、魅力を知り、下賤な害を知り、脱す方便を真実のままに知るサマナやバラモンは誰でも、静かなダンマを最高の智慧で明らかにして、そしてそのダンマの中にいることができます。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛を知り、貰い物と称賛が生じる原因を知り、貰い物と称賛の絶滅を知り、貰い物と称賛を消滅させる実践を知るサマナやバラモンは誰でも、当然静かなダンマを最高の智慧で明らかにし、そして静かなダンマに到達し、そのダンマの中にいることができます。





現生の幸福の危険を知る人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻280頁580項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じた、それ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、凶悪で下品で打ちのめされるような危険です。比丘のみなさん。私は『貰い物と称賛は、漏を滅亡させた阿羅漢にとっても危険と言う』と言います。

 世尊がこのように言われると、プラアーナンダが「貰い物と称賛は、どんな種類の漏を絶滅させた人にとって危険なのですか、猊下」と質問しました。

 アーナンダ。私は、貰い物と称賛は、二度と悪化することのない心解脱にとって危険とは言いません。しかし貰い物と称賛は、煩悩を焼き払う努力をし、鎮める物に自分を追いやって到達することができる、不注意でない人である比丘の、現世での幸福にとって危険と言います。

アーナンダ。貰い物と称賛は、努力から生じた、これ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、このように凶悪で下品で、打ちのめされるような危険です。

 アーナンダ。だからこれは、みなさん『私たちは貰い物と称賛に未練を生じさせない。更に貰い物と称賛が、私たちの心を支配することがあってはならない』とこのように心に留めなければなりません。アーナンダ。あなたたちはこのように心に留めなければなりません。





群れから離れるべき人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻164頁127項

 比丘のみなさん。比丘に五種類のダンマがあれば、サンガから離れるにふさわしいです。五種類のダンマとは何でしょうか。五種類とは、つまりこのダンマヴィナヤの比丘は、

(1)その時あるだけのチーヴァラに満足を知る人で、

(2)その時あるだけ、手に入るだけの食べ物に満足を知る人で、

(3)その時あるだけの住まいに満足を知る人で、

(4)その時あるだけの医薬品八物に満足を知る人で、

(5)愛欲から出る考えが多い人です。

 比丘のみなさん。比丘にこれら五種類のダンマがあれば、比丘の群れから離れるにふさわしいです。





尊敬すべき人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部サッタカニバータ 23巻1頁1項

 比丘のみなさん。比丘に七つのダンマがあれば、当然一緒に梵行をする仲間から愛され、満足され、尊敬され、称賛される人です。七つのダンマとは何でしょうか。七つとは、このダンマヴィナヤの比丘は、

(1)貰い物(幸運)を欲しがらない人で、

(2)崇拝を欲しがらない人で、

(3)目立ちたがらない人で、

(4)(煩悩の奴隷であることに)恥を知る人で、

(5)(煩悩の奴隷であることに)恐れを知る人で、

(6)望みが少ない人で、

(7)ダンマの流れで正しい考えのある人です。

 比丘のみなさん。比丘に七種類のダンマがあれば、当然一緒に梵行する仲間から愛され、満足され、尊敬され、称賛される人です。





可愛い人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部アッダカニバータ 23巻158頁94項

 比丘のみなさん。比丘に八つのダンマがあれば、当然一緒に梵行を行なう友人から愛され、満足され、尊敬され、称賛される人です。八つのダンマとは何でしょうか。八つとは、

(1)このダンマヴィナヤの比丘は、貰い物を欲しがらない人で、

(2)称賛を欲しがらない人で、

(3)目立ちたがらない人で、

(4)時を知る人で、

(5)適度を知る人で、

(6)心が清潔な人で、

(7)多弁でない人で、

(8)梵行仲間を悪罵しない人です。

 比丘のみなさん。比丘にこの七つのダンマがあれば、当然梵行仲間から愛され、満足され、尊敬され、称賛される人です。





善い比丘

パーリ・ブッダバーシタ
増支部アッダカニバータ 23巻163頁97項

 比丘のみなさん。善い比丘は、

(1)生じた貰い物より上にいる(註)べきで、

(2)生じた貰い物の喜びより上にいるべきで、

(3)生じた職位より上にいるべきで、

(4)生じた職位の喜びより上にいるべきで、

(5)生じた称賛より上にいるべきで、

(6)生じた称賛の喜びより上にいるべきで、

(7)生じた低劣な望みより上にいるべきで、

(8)生じた悪友より上にいるべきです。

 比丘のみなさん。何の利益のためにそのようにするべきでしょうか。それは、比丘がそのようにしなければ、一切が台無しになり、焦燥させる漏が生じますが、比丘が貰い物(等)より上にいれば、一切を台無しにし焦燥させる漏は当然生じないからです。比丘のみなさん。だから比丘はこれらの利益に依存してこのようにしなければなりません。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん「私たちは貰い物より上に、貰い物の衰退より上に、職位より上に、職位の衰退より上に、称賛より上に、称賛の衰退より上に、低劣な望みより上に、悪友より上にいさせるべきだ」とこのように心に留めるべきです。

 比丘のみなさん、このように心に留めなければなりません。

註:この場合の「上にいる」とは、それに心が支配され、煩悩や苦が生じることを許さないという意味。





2.聖人の生活習慣について

出家らしい暮らしをする人

パーリ・ブッダバーシタ
論蔵マハーヴァッガ 4巻106頁87項

 比丘のみなさん。私は、具足戒を授ける人は(具足戒をうけた人に)次の四つの縁である物を教えるべきと規定します。

 「出家は自力で求められるご飯を食べることに依存し、生涯その努力をするべきです。受け取るべき特別に生じる貰い物は、サンガに献じられた食べ物、サンガだけの食べ物、食事の招待、くじで供えられる食べ物、半月毎に供えられる食べ物、菩薩日に供えられる食べ物、そして新月の翌日、あるいは満月の翌日に供えられる食べ物です」。

 「出家は捨ててある布で作ったチーヴァラに依存し、生涯その努力をするべきです。受け取るべき特別に生じる貰い物は、樹皮の布、木綿の布、絹の布、毛織物、亜麻布、そして混紡の布です」。

 「出家は住まいとして木の根元に依存し、生涯その努力をすべきです。受け取るべき特別に生じる貰い物は、精舎、一列だけの家、二階建ての家、平家、そして洞窟です」。

 「出家は腐尿で作った薬に依存し、生涯その努力をすべきです。受け取るべき特別に生じる貰い物は、澄んだバター、濃いバター、油、蜂蜜、そしてサトウキビ汁です」。





聖人の血統の人

パーリ・ブッダバーシタ

増支部チャドゥカニバータ 21巻35頁28項

 比丘のみなさん。この四聖種(聖人の血統であるダンマ)は最高のダンマで、永遠で、昔からの手本であり、打ち捨てられることなく、打ち捨てられたことがなく、捨てられておらず、捨てられることもない、智者であるサマナ・バラモンの誰も反論しないダンマです。

 四種類とは何でしょう。四種類とは

(1)このダンマヴィナヤの比丘は、今あるだけのチーヴァラ(三衣)に満足を知る人で、今あるだけのチーヴァラに満足を知ることを称賛する人で、チーヴァラのために不正をせず、ふさわしくない求め方をせず、チーヴァラを得られなくても心悶々とせず、チーヴァラを手に入れても喜んで陶酔せず、輪廻の害の部分が見え、いつでも自分を抜き出す方便に関した智慧があり、そのチーヴァラをまといます。

 更にその時あるだけのチーヴァラに満足することを自慢して他人を貶しません。賢く、怠慢でなく、今あるチーヴァラに満足を知ることに安定したサティがある比丘は誰でも、私はその比丘を「昔から最高のダンマと分かっている聖種に安住している人」と言います。

(2)もう一つ、比丘は今ある食べ物に満足することを知る人で、あるだけの食べ物に満足することを称賛する人で、食べ物を不法な手段で手に入れず、食べ物がなくても心配せず、食べ物を得ても喜んで陶酔せず、輪廻の害の部分が見え、いつでも自分を抜き出す方便に関した智慧でその食べ物を食べます。

 更に今ある食べ物に満足することを自慢して他人を貶さず、賢く怠慢でなく、今ある食べ物に満足する自覚があり、安定したサティがある比丘は誰でも、私はこの比丘を「昔から最高のダンマと分かっている聖種に安住している人」と言います。

(3)もう一つ、今ある住まいに満足することを知る人であり、そして今ある住まいに満足することを称賛する人である比丘は、住まいに関してふさわしくない不法な求め方をせず、住まいがなくても心配せず、住まいが得られても喜んで陶酔せず、輪廻の害の部分が見え、いつも自分を抜き出す方便に智慧があり、その食べ物を食べます。

 更に今ある住まいに満足することを自慢して他人を貶さず、賢く怠慢でなく、今ある住まいに満足することに自覚があり、安定したサティがある比丘は誰でも、私はその比丘を「昔から最高に素晴らしいダンマと分かっている聖種に安住している人」と言います。

(4)もう一つ。満たすべきことを満たして喜ぶ比丘は、満たすべきことを満たして喜び、捨てるべきものを捨てることを喜びます。更に、そのことで自慢し、他人を貶しません。賢く怠慢でなく、満たすべきものを満たすこと、捨てるべきものを捨てる自覚があり、確かなサティがある比丘は誰でも、私はその比丘を「昔から最高のダンマと分かっている聖種に安住している人」と言います。

 比丘のみなさん。これら四種類の聖種は最高のダンマであり、永遠であり、昔からの伝統であり、捨てられず、捨てて顧みられなかったことがなく、捨てられていない、今後捨てられることもない、智者であるサマナ・バラモンは誰も反論しないダンマと分かっています。

 比丘のみなさん。これらの四聖種が揃っている人は、東に住んでも西に住んでも、北に住んでも南に住んでも、当然彼は一方的に喜びを踏みつけ、喜びに踏みつけられることはありません。それはなぜでしょうか。それは智慧のある比丘は当然、喜びも不満も踏みつけることができるからです。





聖人らしく暮らす人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ダサカニバータ 24巻31頁20項

 比丘のみなさん。すべての聖人の今までの暮らしでも、今の暮らしでも、これからの暮らしでも、聖人らしい生活にはこれら十種類があります。十種類とは何でしょうか。十種類とは、

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、五つを捨てて無くすことができ、六つが揃い、あるのは守りだけで、四方に凭れる壁があり、「真実はそれぞれの方向に沈む」という考えを抜き取ってしまった人であり、探求が完全に終わった人であり、濁っていない考えがあり、静まった身行があり、善く解脱した心があり、善く解脱する知識に関わる智慧のある人です。

 比丘のみなさん。(1)五つを捨ててなくした比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は貪欲を捨て、復讐心を捨て、沈鬱と眠気を捨て、落ち着きのなさを捨て、疑蓋を捨てた人です。比丘のみなさん。このような比丘は五つ(五蓋)を捨てることができた人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。(2)六つがある比丘とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で概念を知っても、喜びも悲しみもせず、捨があり、サティがあり、自覚がある人です。比丘のみなさん。このような比丘は六つが揃っている人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。(3)守りしかない比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘はサティで心を護ります。比丘のみなさん。このような比丘を守りしかない人と呼びます。

 比丘のみなさん。(4)四方に凭れる壁のある人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は熟慮して(付き合うべき人、使うべき物、ダンマを)使い、熟慮して(我慢すべき受、言葉、感情を)我慢し、熟慮して(避けるべき物、人、ダンマを)避け、熟慮して(あらゆる悪の考えを)減らします。比丘のみなさん。このような比丘は四方に凭れかかる壁のある人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。(5)「真実は別々の方向になる」という考えを、抜き取ってしまった比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は「世界は変わらないとか、世界は不変ではないとか、世界に終わりはあるとか、世界に終わりはないとか、命と体は同じとか、命と体は同じではないとか、

動物は死んでまた生まれるとか、動物は死んでまた生まれないとか、動物は死んでまた生まれるのもいるし、また生まれないのもいるし、動物は死んでまた生まれるのもいるし、また生まれないのもいるし、動物が死んでまた生まれるのでもないのもいる」という、大勢のサマナ・バラモンのいろんな見方が、いろんな方向になるという考えを振り払い、吐き出し、放棄してしまいます。

 比丘のみなさん。こういうのを、真実は別々の方向になるという考えを抜き取ってしまった人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。(6)探求を完全に捨てた比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、愛欲の探求を捨て、有の探求を捨てた人で、彼の梵行の探求も静まりまった人です。比丘のみなさん。このような比丘を、完璧に探求を捨てた人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。(7)濁った考えをしない比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、愛欲の考えを捨てた人であり、復讐の考えを捨てた人であり、加害の考えを捨てた人です。比丘のみなさん。このような比丘を濁った考えのない人と呼びます。

 比丘のみなさん。(8)静かに静まった身行のある比丘は、どのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、幸福も苦も捨ててしまうことができ、そして憂いと過去の憂いが消滅することで、苦もなく、幸福もなく、あるのは捨による純粋な自然であるサティだけの四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。このような比丘は静かに静まった身行がある人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。(9)良く解脱する心がある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は貪り、怒り、愚かさから脱した心がある人です。比丘のみなさん。このような比丘は良く解脱する心がある人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。(10)良く解脱する智慧がある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然「私は貪りと怒りと愚かさを捨ててしまった。先端が腐ったウチワヤシのように、二度と芽が出ないように根こそぎ抜いてしまった」と、このように明らかに知ります。比丘のみなさん。このような比丘は良く解脱する智慧のある人と呼ばれます。

  比丘のみなさん。遠い昔、聖人らしく暮らした聖人たちはこの十項の聖人らしさで暮らし、比丘のみなさん。遠い将来、聖人らしく暮らす聖人たちもこの十項の聖人らしさで暮らし、比丘のみなさん。現在聖人らしく暮らしている聖人全員も、この十項の聖人らしさで暮らしています。

 比丘のみなさん。聖人らしく暮らすことは、すべての聖人が暮らしてきたのも、今暮らしているのも、今後暮らすのでも、これらの十項があります。





生涯記念すべき場所を記念する人

パーリ・ブッダバーシタ 
増支部ティカニカーヤ 20巻134頁451項

 比丘のみなさん。聖水灌頂礼を受けた国王が、生涯回想する三つの場所はどこでしょうか。三つの場所とは、聖水灌頂礼を受けた国王が生まれた町は、その国王が生涯思い出す最初の場所で、国王が聖水灌頂礼を受けた町は、その国王が生涯思い出す場所の二番目で、聖水灌頂礼を受けた国王が戦って戦勝し、占領することができた町は、その国王が生涯思い出す場所の三番目です。

 比丘のみなさん。同じように三つの場所は、比丘が生涯思い出す場所です。三つの場所とはどこでしょうか。三か所とは、

 比丘のみなさん。剃髪して渋染の布をまとい、家を出て家に関わらない人になった場所は、比丘が生涯思い出すべき最初の場所です。

 比丘のみなさん。「苦はこのよう、苦を生じさせる原因はこのよう、苦の絶滅はこのよう、苦を絶滅させる実践方法はこのよう」と真実のままに明らかに知った人は、その場所が、その比丘が生涯思い出すべき場所の二番目です。

 比丘のみなさん。最高の智慧で漏を絶滅させて、現生で心解脱、智慧解脱を明らかにし、そして常にその高い感覚の中にいる比丘は、そこがどこであろうと、その場所はその比丘が生涯思い出すべき場所の三番目です。

 比丘のみなさん。これらの三つの場所は、比丘が生涯思い出すべき場所です。





自問する人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ダサカニバータ 24巻91頁48項

 比丘のみなさん。この十の試験問題は、出家が絶えず自問しなければならないことです。十は何でしょうか。十とは、

(1) 出家は「今私は在家と違う生活があるか(サマナのどんな行動も、私はその行動をしなければならない)」と、絶えず熟慮しなければなりません。

(2) 出家は「私の命は他人によって養われている(彼らにとって養い易い人にならなければならない)」と絶えず熟慮しなければなりません。

(3) 出家は「今よりもっと善くしなければならない行動や言葉はまだある(これだけではない)」と絶えず熟慮しなければなりません。

(4) 出家は「自分で自分を、戒で非難することができるかどうか」と、絶えず熟慮しなければなりません。

(5) 出家は「智者が熟慮熟考したら、戒で私を非難することができるか」と絶えず熟慮しなければなりません。

(6) 出家は「私は心を喜ばせる物、愛する物すべてから離れなければならない」と絶えず熟慮しなければなりません。

(7) 出家は「私は自分のカンマがあり、カンマの結果を受け取る人であり、生まれさせるカンマがあり、血縁になるカンマがあり、依存するカンマがある。善いことをしても悪いことをしてもそのカンマの結果を受け取る人だ」と絶えず熟慮しなければなりません。

(8) 出家は「日夜は過ぎて行く。今私は何をしているだろう」と絶えず熟慮しなれればなりません。

(9) 出家は「私は廃屋を非常に喜んでいるか」と絶えず熟慮しなければなりません。

(10)出家は「自分が到達した人間のダンマより素晴らしい、聖人になることができる特別な智慧はあるか。それがあれば一緒に梵行する仲間から質問された時恥ずかしくない」と絶えず熟慮しなければなりません。

 比丘のみなさん。この十項目の自問は、出家が常に熟慮しなければならないことです。






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