ブッダヴァチャナの宝石箱

第十一章 戒があることについて






    懇願して誘う人


比丘のみなさん。

可愛がることに依存して支援する利益を求める

可愛がる人である教祖が

すべての弟子にすべきことは何でも、

私はみなさんにしました。


比丘のみなさん。それはすべての木の根元。それはすべての廃屋。


比丘のみなさん。煩悩を燃やす努力をなさい。油断してはいけません。

みなさん。後で焦燥する人になってはいけません。

これです。私がみなさんに繰り返し教える言葉は。

  (相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻441頁674項)






支柱(杭)のある人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部サラーヤタナヴァッガ 三蔵18巻247頁249項

 比丘のみなさん。律義(慎み)のある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を味わい、体で接触し、心で概念を知る時、愛らしい感情(心が捉えている物という意味)にひれ伏さず、憎たらしい感情を憎悪せず、心随念に立っている人です。感情に流されない心があり、その人に生じた各種の悪の完全な消滅であるチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(慧解脱)を、当然真実のままに知ります。

 比丘のみなさん。男が棲む場所が違い、餌を獲る場所が違う六種類の動物を、つまりヘビを捕まえて一本の丈夫な紐で繋ぎ、ワニを捕え、小鳥を捕え、犬を捕え、狐を捕え、猿を捕え、それぞれ丈夫な紐で繋いで、それから杭に繋ぐと、比丘のみなさん。

 その時六種類の動物は棲む場所が違い、餌を獲る場所が違うので、自分の餌場へ行こうと引っぱり合います。ヘビはアリ塚へ入ろうとし、ワニは水へ入ろうとし、小鳥は空へ飛び立とうとし、犬は家へ入ろうとし、キツネは墓地へ行こうとし、猿は森へ行こうとします。比丘のみなさん。六種類の動物が疲労困憊した時、その時すべての動物は杭の周りにぼんやり突っ立ち、しょんぼり座り、しょんぼり寝ています。

 同じように、比丘のみなさん。身随念の練習をたくさんする比丘は、目はその比丘が満足する形を探しに行かず、不満な形もうんざりする物にならず、鼻はその比丘が嗅ぎたくなる匂いに引っ張って行かず、嗅ぎたくない臭いもうんざりさせる物でなく、舌はその比丘が喜ぶ味に引っぱって行かず、嫌いな味も彼をうんざりさせる物ではなく、

 体はその比丘を魅惑する接触に引っ張って行かず、魅力のない接触も彼をうんざりさせる物ではなく、心はその比丘を満足する概念に引っぱって行かず、満足しない概念も彼をうんざりさせる物ではありません。比丘のみなさん。律義のある比丘はこのようです。

 比丘のみなさん。杭というのは、身随念の代名詞です。

 比丘のみなさん。だからこれはみなさん「私たちにとって身随念は、たくさん訓練するべきものであり、連れて行ってくれる乗り物にし、依存できる物にするよう休まず努力をし、注意深く増やす努力をし、絶えず望んで努力をしなければならない」と、このように心に留めなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めるべきです。





苦界に落ちない方が良い

パーリ・ブッダバーシタ
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻210頁303項

 比丘のみなさん。根つまり目を、炎を上げて燃えている熱い鉄の刃で突き刺される方が良いです。目で見える形を全体で捉えるのも、部分に分けて捉えるのもまったく良くありません。

 全体をまとめて捉えて喜んで欲情する識も、部分に分けて捉えて喜んで欲情する識も、その時その瞬間にその人が死んだら、彼が行くべき趣は二つ、つまり地獄、あるいは畜生の生まれです。これは確実にあり得ます。比丘のみなさん。その害が見えるので、私はこのように言います。

 比丘のみなさん。根つまり耳を、炎を上げて燃えている熱い鉄のカギで引き裂かれる方が良いです。耳で聞く声を全体で捉えるのも、部分に分けて捉えるのもまったく良くありません。

 全体をまとめて捉えて喜んで欲情する識も、部分に分けた状態で捉えて喜んで欲情する識も、その時その瞬間にその人が死んだら、彼が行くべき所は二つ、つまり地獄か畜生の生まれです。これは確実にあり得す。比丘のみなさん。その害が見えるので、私はこのように言います。

 比丘のみなさん。根つまり鼻を、炎を上げて燃えている熱くて鋭い刀で抉られる方が良いです。鼻で嗅ぐ臭いを全体で捉えるのも、部分に分けて捉えるのもまったく良くありません。

 全体で捉えて喜んで欲情する識も、部分に分けた状態で捉えて喜んで欲情する識も、その時その瞬間にその人が死んだら、彼の行く所は二つ、つまり地獄か畜生の生まれです。これは確実にあり得ます。比丘のみなさん。その害が見えるので、私はこのように言います。

 比丘のみなさん。根つまり舌を、炎を上げて燃えている熱くて鋭利な刃物で切り落とされる方が良いです。舌で味わう味を全体として捉えるのも、部分に分けて捉えるのもまったく良くありません。

 全体として捉えて喜んで欲情する識も、部分に分けた状態で捉えて喜んで欲情する識も、その時その瞬間にその人が死んだら、彼の行く所は二つ、つまり地獄か畜生の生まれです。これは確実にあり得ます。比丘のみなさん。その害が見えるので、私はこのように言います。

 比丘のみなさん。根つまり体を、炎を上げて燃えている熱くて鋭い槍で突かれる方が良いです。その体による触をまとめた状態で捉えるのも、部分に分けて捉えるのもまったく良くありません。

 全体をまとめて捉えて喜んで欲情する識も、部分に分けた状態で捉えて喜んで欲情する識も、その時その瞬間にその人が死んだら、彼の行く所は二つ、つまり地獄か畜生の生まれです。これは確実です。比丘のみなさん。その害が見えるので、私はこのように言います。

 比丘のみなさん。まだ眠る方がまだ良いです。眠ることは害があり、結果がなく、動物にとって惑溺であるのは事実ですが、サンガ(の状況)を破壊することができる低劣な思考に満ちている目覚めは全然良くありません。比丘のみなさん。このように生きている人の低劣な罪が見えるので、私はこうに言います。




徳の田である象

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻178頁139項

 比丘のみなさん。五つの要素のある象は、王にふさわしい象であり、王の財産であり、王の体の一部と見なします。五つの要素とは何でしょうか。この場合の象は①すべての形に堪え、②すべての声に堪え、③すべての臭いに堪え、④すべての味に耐え、⑤すべての触に堪える象です。

 比丘のみなさん。すべての形に堪える象はどのような象でしょうか。比丘のみなさん。この場合の象は戦闘に出ても、騎象隊や騎馬隊や戦車隊、居並らぶ敵軍の声を聞いても怖気づかず、委縮せず、当然一歩も退かず、当然戦闘に入ることができます。比丘のみなさん。このような象は、すべての形に堪えられる象と呼ばれます。

 比丘のみなさん。すべての声に堪える象はどのような象でしょうか。比丘のみなさん。この場合の象は戦闘に出て、騎象隊や騎馬隊や戦車隊や、歩兵隊の声や鳴り響く陣太鼓やホラ貝や鉦の音など、それらを聞いても怖気づかず、委縮せず、当然一歩も退かずに、当然戦場に出ることができます。比丘のみなさん、このような象をすべての音に堪えられる象と呼びます。

 比丘のみなさん。すべての臭いに堪えられる象はどのような象でしょうか。比丘のみなさん。この場合は象が戦場に出た時、先頭にいる百戦錬磨の象の大小便の臭いを嗅いでも怖気づかず、委縮せず、当然一歩も退かず、当然戦場に出ることができます。比丘のみなさん。このような象をすべての臭いに堪えられる象と言います。

 比丘のみなさん。すべての味に耐えられる象はどのような象でしょうか。比丘のみなさん。この場合の象が戦場に出た時、一食か二食、三食、四食、あるいは五食の餌と水が与えられなくても、怖気づいて委縮せず、当然一歩も退かず、当然闘うことができます。比丘のみなさん。このような象をすべての味に耐えられる象と呼びます。

 比丘のみなさん。すべての触に堪えられる象はどんな象でしょうか。比丘のみなさん。この場合の象が戦場に出た時、敵が素早く射た一本、あるいは二本、三本四本、あるいは五本の矢が刺さっても怖気づいて委縮せず、当然一歩も退かず、当然戦場に出ることができます。比丘のみなさん。このような象を、すべての触に堪えられる象と呼びます。

・・・

 比丘のみなさん。同じように五つの原因がある比丘は、表敬のために用意した物で表敬するにべき人、迎えるために用意した物で迎えるべき人、死者の供養のためのタクシナダーナ(表敬作法の一種)を受けるべき人、拝むべき人で、社会にとって最高に素晴らしい徳の田です。五つの原因は何でしょうか。

五つの原因とは、この場合の比丘はすべての形に堪え、すべての音に堪え、すべての臭いに堪え、すべての味に耐え、すべての触に耐えられる人です。

 比丘のみなさん。すべての形に堪える比丘はどんな人でしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は目で形を見ても、喜びと欲の基盤である形に欲情して心を染めず、当然心を正常(好きでも嫌いでない状態)に維持することができます。比丘のみなさん。このような比丘をすべての形に堪えられる比丘と言います。

 比丘のみなさん。すべての音に堪える比丘とはどんな人でしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、耳で音を聞いても、喜びと欲の基盤である音に惚れ込まず、心を正常に維持することができる人です。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての音に堪えられる比丘と言います。

 比丘のみなさん。すべての臭いに堪える比丘とはどんな人でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、鼻で臭いを嗅いでも、喜びと欲の基盤である匂いに欲情して心を染めず、心を正常に維持することができる人です。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての臭いに堪えられる比丘と言います。

 比丘のみなさん。すべての味に耐える比丘とはどんな人でしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、舌で味を味わっても、喜びと欲の基盤である味に惚れ込まず、心を正常に維持することができる人です。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての味に堪えられる比丘と言います。

 比丘のみなさん。すべての触に堪える比丘とはどんな人でしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、体で触を感じても、喜びと欲の基盤である触に欲情して心を染めず、心を正常に維持することができる人です。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての触に堪えられる比丘と言います。

 この五つの要素がある比丘は、当然表敬するために用意した物で表敬するべき人、迎えるために準備した物で迎えるべき人で、死者の供養のためにタクシナダーナ(表敬作法の一種)を受けるべき人、合掌されるべき人、世界にとって最高に素晴らしい徳の田です。





最高の勝者

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻104頁75項

 比丘のみなさん。ある種の武士は(敵軍が舞上げる)埃に堪えることができ、敵の雄叫びに堪えることができ、戦闘に堪えることができ、彼はその戦闘で勝者になり、戦場を占領することができます。この場合のこのような武士は五番目の武士で、世界にいます。世界で見ることができます。

 このような武士に譬えられる出家も比丘集団の中にいます。比丘集団の中に見ることができます。この場合の比丘は埃に堪えることができ、敵の旗の先端に堪えることができ、雄叫びに堪えることができ、殺し合いに堪えることができ、彼はその闘いで勝者になり、戦場を占領することができます。

 その比丘にとって「戦勝」とは何でしょうか。比丘のみなさん。比丘が森、あるいは木の根元、あるいは廃屋に住んでいると、近寄ってきて身を寄せて座り、身を寄せて寝、重なって座り、重なって寝る女性がいます。そのような行動をされた時、彼は振り払ってその場から逃れ、目的地へ避難することができます。

 その比丘は当然静かな座臥所、つまり森、木の根元、山、小川、洞窟、墓地、密林、野外、藁の山のいずれか一つを住まいにします。彼は森か木の根元、あるいは廃屋へ行って当然足を組んで座り、体を真っすぐに立て、サティを現在に維持します。

  彼は世俗の貪りを捨て、貪りのない心があり、休まず心の貪りを拭き取り、復讐心による加害心を捨て、復讐心のない憐れみの人で、すべての動物を援ける望みがあり、常に復讐心による加害心を洗い落とし、沈鬱と眠気を捨て、沈鬱と眠気のない心で心の明るさだけを目指し、常自覚があり、

 心から眠気を洗い落し、落ち着きの無さを捨て、散漫でなく、内部が静まった心があり、常に心から落ち着きの無さを洗い落とし、疑蓋を捨て、疑を越えてしまうことができるので、すべての善に「これは何だ。これはどうだ」と(疑いで)言う必要がなく、休まず心から疑蓋を洗って捨てます。

 その比丘が、心を憂鬱にする物であり、智慧の力を衰えさせる物である五蓋を、すべての愛欲が静まったことで捨てられた時、愛欲とすべての悪が静まって・・・初禅、・・・二禅、・・・三禅、・・・四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 彼の心が盤石で純潔で清浄で、煩悩がなく随煩悩がなく、自然で穏やかで仕事をするにふさわしく維持でき、このように驚愕しない状態に達した時、心を漏尽智に傾け、彼は当然「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の絶滅、これが苦の絶滅に至る実践項目」と真実のままに知ります。そして当然「これらが漏、これが漏を生じさせる原因、これが漏の絶滅、これが漏の絶滅に至る実践項目」と真実のままに知ります。

 このように知り、このように見れば、心は漏、有漏、無明漏から脱出し、心が脱出すれば「脱出した」と知るニャーナ(知ること。智)が生じます。彼は当然「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にはない」と明らかに知ります。

 その比丘が女性を振り捨て、危機から逃れることができ、漏まで終わらせることができることが、その比丘にとって「戦勝」です。比丘のみなさん。埃に堪え、敵の旗の先端に堪え、雄叫びに堪え、殺し合いに堪えられる武士のように、その戦で闘って勝って戦場を統治するように、比丘のみなさん。

この比丘はその種の武士に譬えられると私は言います。比丘のみなさん。このようなこの場合の比丘は、五番目の武士に譬えられる比丘で、比丘集団の中にいます。比丘集団の中で探すことができます。





最高の戦勝者(別の意味)

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻113頁76項

 比丘のみなさん。ある種の武士は刀と盾を持ち、矢と矢筒を差して目の前の戦いに参加し、そこで闘って勝利者になり、そして戦場を占拠できます。この場合のこのような武士は五番目の武士で、世界にい、世界で見ることができます。

 比丘のみなさん。この武士に譬えられる出家も比丘集団の中にいます。比丘集団の中に見ることができます。

 この場合の出家はどこかの集落か村へ行って住んで、朝チーヴァラ(衣)をまとって鉢を持ってその村か町へ托鉢に行くと、体を維持し、言葉を維持し、心を維持し、安定したサティがあり、そしてすべての根に注意を行き渡らせ、目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触を感じ、そして心で感情(心にある概念)を知っても、全体をまとめて捉えず、部分に分けてでも捉えません。

 悪で下賤な物である貪りと怒りは、いずれかの根に注意しないことが原因で、目・耳・鼻・舌・体・心に細心の注意を払わない比丘に流れて行くので、彼はこれらの根を塞ぐために実践し、目・耳・鼻・舌・体・心を維持し、細心の注意を行き渡らせます。

 その比丘は食事をして托鉢から戻ると、当然静寂な座臥所、つまり森、木の根元、山、小川、洞窟、墓地、密林、野外、積み上げた藁山のいずれかを住まいとし、彼は森か木の根元、あるいは廃屋へ行って当然足を組んで座り、体を真っすぐに立て、サティを現在に据えます。

 彼は世俗の貪りを捨て、貪りのない心があり、絶えず心の貪りを拭き取ります。復讐心による加害心を捨て、復讐心のない憐れみの人で、すべての動物を助ける願いがあり、常に復讐心による加害心を洗い落とします。こん沈睡眠(沈鬱と眠気)を捨て、コン沈睡眠のない心で心の明るさだけを目指し、理性があり、心からこん沈睡眠を洗い落し、掉挙悪作(焦燥)を捨て、散漫でなく、内部が静まった心があり、常に心から掉挙悪作を洗い落とします。

 疑蓋を捨て、疑を越えてしまうことができるので、すべての善に「これは何だ。これはこうだ」と(疑いで)言う必要がなく、常に心から疑蓋を洗い捨てます。その比丘は当然心を曇らすものであり、智慧の力を減少させるものである五蓋を、愛欲が全部静まって捨てられた時、愛欲とすべての悪が静まって…………初禅、二禅、三禅、四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
 
 彼の心が盤石で純潔で清浄で、煩悩がなく随煩悩がなく、自然で穏やかで仕事にふさわしいよう維持でき、このように驚愕しない状態に達した時、心を漏尽智に傾け、彼は当然「これが苦、これが苦を生じさせる原因、これが苦の絶滅、これが苦の絶滅に至る実践項目」と真実のままに知ります。

 そして当然「これらが漏、これが漏を生じさせる原因、これが漏の絶滅、これが漏の絶滅に至る実践項目」と真実のままに知ります。このように知り、このように見えれば、心は漏、有漏、無明漏から脱出し、心が脱出すれば「脱出した」と知る智が生じます。彼は当然「生は終わった。梵行は終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にはない」とこのように知ります。

 比丘のみなさん。刀と盾を持ち、矢と矢筒を差して目前の戦いに加わり、その闘いに加って勝者になり、戦場を占拠できる武士に譬えることができます。比丘のみなさん。私はその出家はその武士に譬えられると言います。比丘のみなさん。この場合のこのような出家は五番目の武士に譬えられる出家で、比丘集団の中にいます。比丘集団の中に探すことができます。





枠内にいる人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻154頁111項

 比丘のみなさん。良家の顧問のように振る舞っている比丘に五種類の行動があれば、その一族全員から愛され、満足され、尊敬され、ふさわしい状態にあります。五種類とは何でしょうか。

(1)まだ親しくないのに、親しい態度をとらず、

(2)任されていないことに介入せず、

(3)敵側の人と付き合わず、

(4)内緒話をせず、

(5)頼み事をしすぎない。

 比丘のみなさん。良家の顧問のように振る舞う比丘にこのような五種類の行動があれば、一族全員から愛され、満足され、尊敬され、ふさわしい状況にいます。





森に住むにふさわしい人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 21巻240頁262項

 比丘のみなさん。この四種類の原因がある人は、特に森や密林である静寂な場所に住むのがふさわしいです。四種類の原因とは何でしょうか。四種類とは、

(1)愛欲から出る考えのある人

(2)恨まない考えのある人

(3)虐めない考えのある人

(4)愚鈍でなく智慧のある人

 比丘のみなさん。これらの四種類の原因がある人は森や密林の静寂な場所に住むのがふさわしいです。





女性と連絡しなければならない人

パーリ・ブッダバーシタ
長部マハーヴァッガ 20巻164頁132項

 「猊下。すべての弟子は、女性に対してどのように振る舞うべきでしょうか」とプラアーナンダが質問しました。

 アーナンダ。会わないことです。

 「猊下。まだ会うことがあれば、どのように振る舞うべきでしょうか」。

 アーナンダ。話さないことです。

 「猊下。話さなければならない時は、どのように振る舞うべきでしょうか」。

 話さなければならないなら、サティがあるべきです。





本当に命令に従う人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ムーラパンナーサ 12巻260頁272項

 比丘のみなさん。強奪をする盗賊たちが両側に取手のある鋸で、大小すべての器官を鋸で引いても、そのようにされている最中でも、その盗賊に対して復讐心のある比丘は、その理由で、私の教えどおりにしない人と言われます。

 比丘のみなさん。みなさんこのことは「私の心は異常ではならない。罪である言葉を放たない。可愛がることを知っている人のように暮らし、支援する利益があることだけを考え、慈しみの心があり、怒りの心を介入させない。慈しみのある心をその人に広げ、そして復讐心がない広大な慈しみのある心で暮し、その人も感情(心で想う対象)にして、その人物も含めたすべての動物に広げる」と、このように注意する決意をしなければなりません。

 比丘のみなさん。みなさんこのように心に留めるべきです。





出家の甲羅

パーリ・ブッダバーシタ
相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻222頁320項

 比丘のみなさん。これは前にあった話です。一匹のカメが、夕方小川の岸へ餌を探しに行くと、キツネも夕方小川の岸へ餌を探しに行きました。カメは遠くから近付いて来るキツネを見て、体のすべての部分を引っ込め、最後に頭を甲羅の中に仕舞って、欲のない人になってジッとしていました。

 キツネもカメが餌を探しに来るのを遠くから見て、真っすぐカメの方へ近寄って来て、「いつカメが甲羅から体の部分を出すだろう。すべての部分の五番目は頭なので、そこに噛みついて引っぱり出し、喰ってしまおう」と機会を窺っていました。比丘のみなさん。カメが体を出さない限り、キツネには機会がないので、離れて行かなければなりませんでした。

 比丘のみなさん。同じように罪な心の悪魔も「目か耳か、鼻か舌か、体か心のいずれにしても私にはチャンスがある」と、休まずみなさんの機会を狙っています。比丘のみなさん。だからこのことはみなさん、すべての根の門を管理する人でいなさい。

 目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で接触をし、心で概念を知った時、全部をまとめた状態を全部と捉えても、部分に分けた状態を部分と捉えてもいけません。

 悪で下賤な物、つまり貪りと怒りは、目・耳・鼻・舌・体・心に注意を払わないことが原因で、これらの根に細心の注意を払わない人へ流れて行きます。みなさん、その根を塞ぐために実践なさい。みなさん目・耳・鼻・舌・体・心を維持し、それらの根に細心の注意をなさい。

 比丘のみなさん。みなさんがすべての根の門に細心の注意をしている時はいつでも、その時罪な心の悪魔は、みなさんから隙を奪うことができないので、カメから好機を得られずに去って行かなければならないキツネのように、去って行かなければなりません。

 カメが甲羅に体の部分を引っ込めるように、

 比丘は甲羅、つまり念処で熟慮を維持なさい。

 そうすれば欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、

 他人を苦しめず、誰にも悪意の言葉を言わない完全に消滅した人です。





知識で律儀をして危機を脱した人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ウパリパンナーサ 14巻523頁828項

 比丘のみなさん。人が目の話を真実のままに知っていて、見ていて、形の話を真実のままに知っていて、見ていて、目の明らかな知識の話を、真実のままに知っていて、見ていて、目の触の話を真実のままに知っていて、見ていて、そして目の触から生じる受の話を、幸福や苦である真実のままに知っていて見ていれば、彼は当然目を愛さず、形を愛さず、目による明らかない知識を愛さず、目の触を愛さず、幸福でも苦でも、目の触から生じる受を愛しません。

 愛して溺れなければ囚われず、惑溺せず、その害を熟慮して見る正常さがあり、このようなら彼の五蘊への執着はその後増加が止り、欲望、つまり恍惚とその感情だけを喜ぶ欲情の混じった熱望は薄れて緩み、その後は体の乱れも弱まり、胸騒ぎも静まり、体の焦燥も心の焦燥も薄れ、体の憂鬱も心の憂鬱も薄れ、体と心両面の幸福を味わいます。

 このようになった人の見解は当然正見=正しい理解で、このような人の考えは当然正しい志向で、このようになった人の努力は当然正しい努力で、このようになった人が思い出すのは当然正しい想起(サティ)で、このようになった人のサマーディは当然正しい心の専心(サマーディ)で、彼の身業、口業、生活も初めから純潔で、彼の八正道は、当然このように十二分に発展します。

 彼がこのように八正道を発展させれば、四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支も、当然本当に完璧に発展し、彼の二種類のダンマ、つまりサマタ(鎮まること)とヴィパッサナー(智慧で観察熟慮すること)もしっかり噛み合っていると言われます。





内面から来た慎重な人
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パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 21巻139頁103項
 増支部ティカニカーヤ 21巻141頁104項
増支部ティカニカーヤ 21巻143頁105項

蓋をしてある満杯の鍋の譬え

 比丘のみなさん。満杯で蓋がしてある出家はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤのある出家の歩き方、戻り方、見方、振り向き方、腕の曲げ方、脚の曲げ方、手の伸ばし方、足の伸ばし方、サンガーティ(外衣)の維持し方、鉢の持ち方、チーヴァラの着方は、当然尊敬すべきもので、

その出家も「これは苦、これは苦を生じさせる原因、これは苦の完璧な消滅、これは苦の絶滅に至るための実践」と、このように真実のままに明らかに知っています。比丘のみなさん。満杯で蓋がしてある出家はこのようです。私はこの出家を、蓋がしてある満杯の鍋のようだと言います。


深い水、深い影の譬え

 比丘のみなさん。深い影のある深い出家はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤのある出家の歩き方、戻り方、見方、振り向き方、腕の曲げ方、脚の曲げ方、手の伸ばし方、足の伸ばし方、サンガーティ(外衣)の維持し方、鉢の持ち方、チーヴァラの着方は当然尊敬したくなるもので、

その出家も「これは苦、これは苦を生じさせる原因、これは苦の完璧な消滅、これは苦の絶滅に至るための実践」と、このように真実のままに明らかに知っています。比丘のみなさん。深い影のある深い出家はこのようです。私はこの出家を、深い影のある深い淵のようだと言います。


熟れたマンゴーは皮の色まで熟れている譬え

 比丘のみなさん。皮まで完熟した出家はどのようでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤのある出家の歩き方、戻り方、見方、振り向き方、腕の曲げ方、脚の曲げ方、手の伸ばし方、足の伸ばし方、サンガーティ(外衣)の維持し方、鉢の持ち方、チーヴァラの着方は、当然尊敬すべきもので、

その出家も「これは苦、これは苦を生じさせる原因、これは苦の完璧な消滅、これは苦の絶滅に至るための実践」と真実のままに明らかにと知っています。比丘のみなさん。皮まで熟れた出家はこのようです。この出家は熟れたマンゴーのようだと言います。





根律義の結果を受け取る人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 22巻402頁321項

 比丘のみなさん。根律義があれば戒も習性で具わり、戒があればサマーディも習性で具わり、サマーディがあればヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)も習性で具わり、如実智見があれはニッピダーヴィラーガ(厭離離欲)も習性で具わり、厭離離欲があれば、ヴィムッティニャーナダッサナ(解脱智見)も習性で具わります。

 比丘のみなさん。枝と葉が豊富なら外皮も豊富で、内皮も豊富で、辺材も豊富で、芯材も豊富な樹木のように、根律義があれば戒も習性で具わり、戒があればサマーディも習性で具わり、サマーディがあれば如実智見も習性で具わり、如実智見があれは厭離離欲も習性で具わり、厭離離欲があれば、解脱智見も習性で具わります。





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