ブッダヴァチャナの宝石箱

第十章 戒があることについて(Ⅱ)




サマナの仕事

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻294頁521項

 サマナがしなければならない仕事はこの三種類です。三種類とは何でしょうか。三種類とは、

(1)最高の戒の実践を遵守し、

(2)最高の心の実践を遵守し、

(3)最高の智慧の実践を遵守します。

 比丘のみなさん。サマナがしなければならないサマナの仕事は、このような三種類があります。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん。「私の満足は最高の戒を遵守し、最高の心の実践を遵守し、最高の智慧の実践を遵守することに十分厳格でなければならない」と、このように心に留めなければなりません。比丘のみなさん。みなさんこのように心に留めておくべきです。





農家の仕事

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻295頁523項

 農家長者が(籾米を手に入れるために)しなければならない仕事は三種類あります。三種類とは何でしょうか。三種類とは、この世界の農家長者は、

①先ず田んぼを耕し、掻き均してから、

②ふさわしい時に苗を植え、

③時に応じて水を入れたり、水を抜いたりします。

比丘のみなさん。農家長者が(籾米を手にするために)しなければならない仕事はこの三種類です。

 比丘のみなさん。同じように(聖向聖果を得るために)比丘がしなければならない仕事は三種類あります。三種類とは何でしょうか。三種類とは、

①最高の戒の実践を遵守し、

②最高の心の実践を遵守し、

③最高の智慧の実践を遵守します。

比丘のみなさん。比丘が(聖向聖果を得るために)しなければならない仕事はこの三つです。

 比丘のみなさん。だからこのことは、みさなん。「私の満足は、最高の戒の実践を遵守し、最高の心の実践を遵守し、最高の智慧の実践を遵守することに十分厳格でなければならない」とこのように心に留めなければなりません。比丘のみなさん。みなさんこのように心に留めておくべきです。





一所懸命しましょう

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻309頁532項

 比丘のみなさん。農家長者が急いでしなければならない仕事はこの三種類です。三種類とは何でしょうか。三種類とは、農家長者は急いで田んぼを耕して掻き均し、それから急いで苗を植え、それから急いで水を入れたり水を抜いたりします。

 比丘のみなさん。農家長者はこれらの三種類の仕事を急いでしなければなりません。しかしその農家長者は「私の稲は今日成長し、明日実をつけ、明後日熟さなければならない」と、このようにする魔力や威力はありません。正しくは、当然その稲が季節に応じて変化して行く時間があり、当然成長したり実をつけたり熟したりします。

 比丘のみなさん。同じように比丘が急いでしなければならない仕事は、この三種類です。三種類は何でしょうか。三種類は最高の戒の実践を遵守し、最高の心の実践を遵守し、そして最高の智慧の実践を遵守することです。

 しかしその比丘は「私の心は今日、あるいは明日、あるいは明後日、すべての執着が無くなって、すべての漏から解脱しなさい」と、このようにできる魔力あるいは威力はありません。正しくは当然その比丘が最高の戒の実践、最高の心の実践、最高の智慧の実践をするにふさわしい時間があり、心は取がなくなってすべての漏から解脱できます。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん「私の満足は、最高の戒の実践を遵守すること、最高の心の実践を遵守すること、最高の智慧の実践を遵守することに十分厳格でなければならない」とこのように心に留めなければなりません。比丘のみなさん。みなさんこのように心に留めておくべきです。





煩悩を捨てる道具

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻296頁524項

 比丘のみなさん。あなたは三学、つまり戒学(増上戒)・心学(増上定)・智慧学(増上慧)の勉強をすることができますか。

 「猊下。三学の勉強はできます。猊下」。

 比丘のみなさん。 三学、つまり増上戒学・増上心学・増上慧学の勉強をなさい。

 比丘のみなさん。最高の戒学でも最高の心学でも最高の慧学でも勉強すれば、最高の戒学、最高の心学、最高の慧学を勉強している時は貪りを捨て、怒りを捨て、愚かさを捨てることができます。貪りと怒りと愚かさを捨てることであなたは悪の行動をせず、そして罪である物と接しません。





戒があるなら煩悩を焼く系統にすべき

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 21巻18頁12項

 比丘のみなさん。みなさんは完璧な戒、完璧なパーティモッガのある人でいなさい。パーティモッガ戒(二二七戒)で細心の注意を払い、完璧な行儀作法とゴーチャラ(良く行く所)がある人でいなさい。普段から小さな罪でもすべての罪の害が見え、三学のすべてを遵守なさい。

 比丘のみなさん。このように完璧な戒があれば、みなさんが更にしなければならないことは何でしょうか。

 比丘のみなさん。比丘は歩いていても、立っていても、座っていても、寝て目覚めている時でも、その比丘の貪りと復讐心がなく、その人の沈鬱と眠気、浮つき、焦燥、疑念は既に捨てることができ、始めた努力が弛まず、サティも安定して混濁せず、体も静まって不安定にならず、心も一つに静まっています。

 比丘のみなさん。このようにできる比丘は、歩いていても、立っていても、座っていても、寝て目覚めている時でも、私は「輪廻の害に恐れがあり、煩悩を焼く努力がある人で、休みなく努力をする人であり、絶えず自分を解脱の道に追い遣る人」と言います。





聖人が愛す戒

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻3429頁1412項
祇園精舎にて

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの聖なる弟子は、聖人が満足する戒(アリヤカンタシーラ)であるすべての戒が揃っている人です。つまり

欠けず(戒条の初めの項目、あるいは終わりの項目のどの項目も犯さない)、

突き出ず(戒条の中間の項目を犯さない)、

汚れがなく(どの戒条も欠かさず)、

まだらでなく(どこにある戒条も欠かさず)、

自立した人であり(欲望の奴隷でなく、見返りを期待する商売のような戒でなく)、

称賛を知り(智者が熟慮すれば「善い」「正しい」と称賛するので、使い物になる戒)、

欲望傲慢に撫でられず(欲望が手を触れることがなく、傲慢が手を触れることもない、つまり他人をけなして自分の自慢をするための持戒ではない)、そして同時にサマーディになります。

 (母牛は食べ物を反芻していても目は常に子牛を追っていて、目を離さず気を配っているとブッダが譬えているように、常にチェックして心を配り続ける人の戒。戒を熟慮する行動は、シーラーヌサティカンマダーナ(戒随念処)に分類され、このような戒のある人の心はサマーディに近く、そしてこのような戒はサマーディを非常に良く受け入れる基礎です)。

括弧内の説明は、ターン・プッタタートによるもの。





戒と智慧は常に一緒

パーリ・ブッダバーシタ
長部シーラカンタヴァッガ 9巻158頁193項

 バラモンさん。この二つのうちの一つを除けてしまって、一つだけがある人をバラモンと規定し、そして一つだけある人が『私はバラモンだ』と言うなら、『正しく言っている。嘘を述べる必要はない』と言うことができるでしょうか。

 「ゴータマ様、この二つの一つを除くことはできません。戒は当然智慧の汚れを清潔にし、智慧は戒を清潔にするので、戒がある所はどこでも智慧があり、智慧がある所はどこでも戒があります。戒のある人には智慧があり、智慧のある人には戒があり、すべての智者は戒と智慧は世界で最高の物と言います。

 ゴータマ様。手で手を洗い、足で足を洗うように、戒は当然智慧を洗って清潔にし、智慧も戒を洗って清潔にします。戒がある所はどこでも智慧があり、智慧がある所はどこでも戒があります。戒がある人には智慧があり、智慧がある人には戒があり、すべての智者は当然戒と智慧は世界で最高に素晴らしい物と言います」。

 バラモンさん。その通りです、バラモンさん。戒は当然智慧を洗って清潔にし、智慧は戒を洗って清潔にします。戒がある所はどこでも智慧があり、智慧がある所はどこでも戒があります。戒のある人には智慧があり、智慧のある人には戒があり、すべての智者は、戒と智慧は、当然世界で最高の物と言います。

 バラモンさん。手で手を洗い足で足を洗うように、戒は当然智慧を洗って純潔にし、智慧は戒を洗って純潔にします。戒のある所はどこでも智慧があり、智慧がある所はどこでも戒があります。戒のある人には智慧があり、智慧がある人には戒があり、すべての識者は、戒と智慧は世界で最高に素晴らしい物と言います。





先ず戒と見解を洗って清潔にする

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻220頁747項

 バーヒヤさん。それならこのことは、先ずすべての善の初めである物を洗って清潔になさい。すべての善の初めである物とは何でしょうか。すべての善の初めの物とは、純潔で清浄な戒と正しい見解です。

 バーヒヤさん。あなたの戒が純潔清浄で、そして見解が正しい見解なら、その時あなたは戒に依存し、戒に立って四念処の練習をするべきです。四念処とは何でしょうか。四念処とは、バーヒヤさん。

 この場合あなたは体の中の体を休まず熟慮して見、すべての受の中の受を休まず熟慮して見、心の中の心を休まず熟慮して見、すべてのダンマの中のダンマを休まず熟慮して見、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡った感覚があり、サティで世界の貪りと怒りをなくさなせればなりません。

 バーヒヤさん。あなたが戒に依存し、戒に立って四念処をこのように練習している時はいつでも、その時あなたの日夜は、発展だけを望める形で過ぎていき、衰退はありません。





戒は四念処の敷台

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻192頁687項
祇園精舎にて

 ある比丘が、集団から離れて一人で住んで油断のない人になり煩悩を焼く努力をしたいと望んで、世尊に簡単なダンマの説明を求めました。

 比丘。それならこのことは、すべての善の初めである物を先ず清潔になさい。すべての善である物の初めとは何でしょうか。初めの物とは純潔清浄な戒と正しい見解です。

 比丘。あなたの戒が純潔清浄で見解が正しい見解の時はいつでも、その時あなたは戒に依存し、戒に立って三つの方法で四念処の練習をなさい。

 四念処とは何でしょうか。四念処とは、比丘。あなたは内部である体の中の体を休まず熟慮して見、外部である体の中の体を休ます熟慮して見、外部と内部の両方の体の中の体を休まず熟慮して見、煩悩を焼く努力があり、全身に行き渡る感覚があり、サティがあり、世俗の貪りと怒りをなくしてしまう人でいなさい。

 (つづいて「受」と「心」と「ダンマ」について、体と同じように話されています)。

 比丘。あなたが戒に依存し戒に立っている時はいつでも、この四念処をこのように三つの方法で練習すれば、その時あなたの日夜は、すべての善の発展だけを望むことができる形で過ぎて行き、衰退はありません。

 (その後その比丘は出て行って努力し、阿羅漢の一人になりました)。





戒は四念処の敷台(別の意味)

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻249頁828項
祇園精舎にて

 比丘。もしそうなら、これは先ず、すべての善の初めの物を拭って清潔になさい。すべての善の初めとは何でしょうか。比丘。この場合あなたは、パーティモッガ戒で細心の注意をし、行儀作法とゴーチャラ(好んで行く場所)が完璧な人になり、普段から小さくてもすべての罪の危険を見、すべての教条を学んで遵守なさい。

 比丘。あなたがパーティモッガ戒で細心の注意を払っている時はいつでも、行儀作法とゴーチャラ(良く行く場所)が完璧で、平素から小さな物でもすべての罪の危険が見え、すべての戒条を学んで遵守したら、その時あなたは戒に依存し戒に立って四念処の訓練をするべきです。

 四念処とは何でしょうか。四念処とは、

 比丘。この場合あなたは、体の中の体を休まず熟慮して見、すべての受の中の受を休まず熟慮して見、心の中の心を休まず熟慮して見、すべてのダンマの中のダンマを休まず熟慮して見、煩悩を焼き払う努力があり、全身に行き渡る感覚があり、サティがあり、世界の貪りと怒りをなくしてしまう人でいなさい。

 比丘。あなたが戒に依存し戒に立っている時はいつでも、このように四念処の訓練をすれば、その時あなたの日夜は、すべての善の発展を望める形で過ぎて行き、衰退はありません。

 (その時その比丘は世尊の言葉に深く感銘し、座から立ち上がって拝礼し、右肩を向けて時計回りした後去って行きました。その後彼は群れから離れて一人で暮し、注意深く煩悩を焼き払う努力をし、ダンマの流れに自分を追いやって、間もなく生きているうちに、最高の智慧で最高に利益のある梵行を最高に明らかにすることができ、阿羅漢の一人になりました)。





戒は七覚支の敷台

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻112頁409項

 比丘のみなさん。動物が次の四つの動作をしている時、つまり歩く時、立つ時、座る時、寝る時、すべての動物は大地に依存し大地に立つことでその動作ができます。比丘のみなさん。同じように比丘は戒に依存し戒に立ち、比丘のみなさん。比丘が戒に依存し戒に立てば、当然七覚支を生じさせることができ、七覚支をたくさんすることができます。

 比丘のみなさん。どうしたら比丘は戒に依存し、戒に立って、当然七覚支の練習を生じさせ、七覚支を増やすことができるでしょうか。比丘のみなさん。

 このダンマヴィナヤの比丘は当然ヴィヴェカ(群れから離れて暮らすこと。遠離)に依存し、ヴィラーガ(貪欲を離れること)に依存し、ニローダ(滅)に依存し、手放すことに傾いて行く類の七覚支のサティの練習をし、当然七覚支のダンマヴチャヤ(教えを選ぶこと。択法)の練習をし、当然七覚支のヴィリヤ(精進)の練習をし、

 七覚支のピーティ(喜悦)の練習をし、七覚支のパサッティ(軽安)の練習をし、七覚支のサマーディ(専心)の練習をし、そして七覚支のウベカー(捨。見守ること)の練習をします。比丘のみなさん。このように比丘は戒に依存し、戒に立って、当然七覚支の練習を生じさせ、当然七覚支をたくさんすることができます。





戒は八正道の敷台

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻69頁270項

 比丘のみなさん。人が力を使わなければならない仕事はみな、このように大地に依存し、大地に立つことでそれらの力仕事をすることができます。同じように比丘のみなさん。比丘は戒に依存し戒に立って、当然八正道を生じさせることができ、当然八正道を増やすことができます。

 比丘のみなさん。比丘はどのように戒に依存し、戒に立って、当然八正道を生じさせることができ、当然八正道を増やすことができるでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、当然正しい見解の訓練をし、

当然正しい望みの訓練をし、当然正しい言葉の訓練をし、当然涅槃に傾く類の正しい業の訓練をし、当然正しい生業の訓練をし、当然正しい努力の訓練をし、当然正しいサティの訓練をし、当然正しいサマーディ(専心)の訓練をします。

 比丘のみなさん。比丘はこのように戒に依存し戒に立って、当然八正道を生じさせることができ、当然八正道を増やすことができます。





戒は八正道の曙

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻38頁140項

 比丘のみなさん。旭日が昇る時、曙(金銀の光)が射して来るのは、当然初めに見えるニミッタ(前兆)です。比丘のみなさん。同じように比丘に八正道が生じるには、戒が具わることが前兆です。

 戒が完璧な比丘はこれを期待することができます。つまり彼は八正道を生じさせることができ、八正道を増やすことができます。比丘のみなさん。戒が具わった人はどのように当然八正道を生じさせることができ、当然八正道を増やすことができるでしょうか。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤでは、最終的に貪瞋痴から出てしまう類の、当然正しい見解の練習をし、当然正しい望みの練習をし、当然正しい言葉の練習をし、当然正しい業の練習をし、当然正しい生業の練習をし、当然正しい努力の練習をし、当然正しいサティの練習をし、当然正しいサマーディの練習をします。

 比丘のみなさん。このように戒が具わった比丘は、当然八正道を生じさせ、当然八正道を増やすことができます。





戒が具われば一級の支援がある

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻42頁158項

 比丘のみなさん。一級のダンマは、非常に八正道を生じさせる恩恵のあるダンマです。それはどのようでしょうか。一級のダンマとは完璧な戒です。比丘のみなさん。比丘の戒が完璧なら、彼はこれを期待できます。つまり八正道の練習を生じさせることができ、八正道を増やすことができます。

 比丘のみなさん。戒が具わった比丘は、どのように当然八正道の練習を生じさせることができ、当然八正道を増やすことができるでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、最終的に貪・瞋・痴から出る類の当然正しい見解の練習をし、当然正しい望みの練習をし、当然正しい言葉の練習をし、

当然正しい業の練習をし、当然正しい生業の練習をし、当然正しい努力の練習をし、当然正しいサティの練習をし、当然正しいサマーディの練習をします。比丘のみなさん。戒が完璧な比丘は、このように当然八正道を生じさせることができ、当然八正道を増やすことができます。





戒が具われば八正道を目一杯発展させる

パーリ・ブッダバーシタ
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻46頁176項

 比丘のみなさん。戒が具わっていることほど八正道を生じさせ、そして生じたものを目一杯発展させるダンマは、私には一つも見えません。比丘のみなさん。比丘の戒が完璧なら、彼は必ずこれを期待できます。つまり彼は八正道の練習を生じさせることができ、八正道を増やすことができます。

 比丘のみなさん。戒が具わっている比丘はどのように当然八正道を生じさせ、当然八正道を増やすことができるのでしょうか。比丘のみなさん。このダンマヴィナヤの比丘は、最終的に貪・瞋・痴から出る類の、当然正しい見解を練習し、当然正しい望みの練習をし、当然正しい言葉の練習をし、

当然正しい業の練習をし、当然正しい生業の練習をし、当然正しい努力の練習をし、当然正しいサティの練習をし、当然正しいサマーディの練習をします。比丘のみなさん。戒が具わっている比丘は、当然このように八正道を生じさせることができ、当然八正道を増やすことができます。





戒のある人はダンマの真髄に到達する

パーリ・ブッダバーシタ
増支部タカサニバータ 24巻4頁3項

 比丘のみなさん。戒があれば戒で完璧な人のアヴィパティサーラ(悔恨がないこと)も居場所が一斉に揃い、アヴィパティサーラ(悔恨がないこと)があれば、アヴィパティサーラで完璧な人の歓喜も居場所が一斉に揃い、歓喜があれば、歓喜で完璧な人の喜悦も居場所が一斉に揃い、喜悦があれば、喜悦で完璧な人のパッサディ(軽安)も居場所が一斉に揃い、

パッサディがあれば、パッサディで完璧な人の幸福も居場所が一斉に揃い、幸福があれば、幸福で完璧な人の正しいサマーディも居場所が一斉に揃い、正しいサマーディがあれば、正しいサマーディで完璧な人のヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)も居場所が一斉に揃い、

ヤターブータニャーナダッサナがあれば、ヤターブータニャーナダッサナが完璧な人のニッピダーヴィラーガ(厭離離欲)も居場所が一斉に揃い、ニッピダーヴィラーガがあれば、ニッピダーヴィラーガが完璧な人のヴィムッティニャーナダッサナ(解脱智見)も居場所が一斉に揃います。

 比丘のみなさん。枝と葉が豊富な木は外皮も豊富で、内皮も豊富で、辺材も豊富で、芯材も豊富なように、比丘のみなさん。戒があれば、戒が完璧な人のアヴィパティサーラ(無悔恨)も居場所があり、アヴィパティサーラ(無悔恨)があれば、アヴィパティサーラで完璧な人の歓喜も居場所があり、歓喜があれば、歓喜で完璧な人の喜悦も居場所があり、

喜悦があれば、喜悦で完璧な人のパッサディ(軽安)も居場所があり、パッサディがあれば、パッサディで完璧な人の幸福も居場所があり、幸福があれば、幸福で完璧な人の正しいサマーディも居場所があり、正しいサマーディがあれば、正しいサマーディで完璧な人のヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)も居場所があり、

ヤターブータニャーナダッサナがあれば、ヤターブータニャーナダッサナで完璧な人のニッピダーヴィラーガ(厭離離欲)も居場所があり、ニッピダーラーガ(厭離離欲)があれば、このようにニッピダーラーガが完璧な人のヴィムッテイニャーナダッサナ(解脱智見)も居場所があります。





善である戒の威力

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ダサカニバータ 24巻1頁1項
祇園精舎にて

 「猊下。善であるすべての戒は何が目指す利益であり、何が功徳ですか」と、プラアーナンダが世尊に質問しました。

 アーナンダ。善であるすべての戒はアヴィパティサーラ(無悔恨)が目指す利益であり、アヴィパティサーラが功徳です。

 「猊下。ではアヴィパティサーラ(無悔恨)は何目指す利益であり、何が功徳ですか」。

 アーナンダ。アヴィパティサーラは目指す利益である歓喜があり、功徳である歓喜があります。

 「猊下。では歓喜は何が目指す利益で、何が功徳ですか」。

 アーナンダ。歓喜は目指す利益です喜悦があり、喜悦が功徳です。

 「猊下、では喜悦は何が目指す利益であり、何が功徳ですか」。

 アーナンダ。喜悦は目指す利益である軽安があり、軽安が功徳です。

 「猊下。では軽安は何が目指す利益であり、何が功徳ですか」。

 アーナンダ。軽安には目指す利益である幸福があり、幸福が功徳です。

 「猊下。では幸福は何が目指す利益で、何が功徳ですか」。

 アーナンダ。幸福には目指す利益であるサマーディがあり、サマーディが功徳です。

 「猊下。ではサマーディは何が目指す利益で、何が功徳ですか」。

 アーナンダ。サマーディには目指す利益であるヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)があり、如実智見が功徳です。

 「猊下。では如実智見は何が目指す利益で、何が功徳ですか」。

 アーナンダ。如実智見には目指す利益であるニッピダーヴィラーガ(厭離離欲)があり、ニッピダーヴィラーガが功徳です。

 「猊下。では厭離離欲は何が目指す利益で、何が功徳ですか」。

 アーナンダ。厭離離欲には目指す利益であるヴィムッティニャーナダッサナ(解脱智見)があり、ヴィムッティニャーナダッサナが功徳です。

 アーナンダ。このように善い戒はみな無悔恨が目指す利益としてあり、無悔恨功徳で、

 無悔恨は目指す利益である歓喜があり、歓喜が功徳であり、

 歓喜は目指す利益である喜悦があり、喜悦が功徳であり、

 喜悦は目指す利益である軽安があり、軽安が功徳であり、

 軽安は目指す利益である幸福があり、幸福が功徳であり、

 幸福は目指す利益であるサマーディがあり、サマーディが功徳であり、

 サマーディは目指す利益であるヤターブータニャーナダッサナ(如実智見)があり、

 如実智見が功徳であり、

 如実智見は目指す利益である厭離離欲があり、厭離離欲が功徳であり、

 厭離離欲には目指す利益である解脱智見があり、解脱智見が功徳です。

 アーナンダ。すべての善である戒は、当然このように段階的に阿羅漢にします。





戒を完璧にする人の功徳

パーリ・ブッダバーシタ
中部アーカンケーヤ経 12巻58頁73項

 比丘のみなさん。みなさん、完璧な戒を持し、完璧なパーティモッカ(二二七戒)があるようになさい。みなさんはパーティモッガ戒で細心の注意をし、行儀作法とゴーチャラ(好んで行く場所)を完璧になさい。小さなすべての罪の害が見える人であり、すべての教条を学習して遵守なさい。

 比丘のみなさん。比丘が「私はすべての梵行仲間から愛され、喜ばれ、尊敬され、称賛される存在であるべきだ」とこのように望むなら、あなたはすべての戒を完璧にするべきです。心の内面を静かにするダンマがあり、定から離れない人、ヴィパッサナーもある人、そしてスンニャガーラヴァッタに励む人におなりなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「私は八物、つまりチーヴァラ(衣)、食べ物、住まい、そして医薬品の貰い物がある人でいるべきだ」と望むなら、あなたはすべての戒を完璧にするべきです。心の内面を静かにするダンマがあり、定から離れない人、ヴィパッサナーもある人、そしてスンニャガーラ(空に住むこと)の勤めに励む人におなりなさい。

 比丘のみなさん。「私がどの支援者のチーヴァラ、食べ物、住まい、そして医薬品を消費するにも、それらの支援者に大きな結果と大きな功徳がなければならない」と望むなら、あなたはすべての戒を完璧になさい。心の内面を静かにするダンマがあり、定から離れない人、ヴィパッサナーもある人、そしてスンニャガーラヴァッタ(空の家に住むことを勤めとすること)を発展させる人におなりなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「既に死別した親族に信仰があり、私を思っていたことが彼らの大きな成果、大きな功徳になるべきだ」と望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める物であるダンマによって定から離れない人におなりなさい。ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「私は不満と喜びに耐えられなければならない。更に不満が私を苦しめないよう、まだ生じてくる不満を支配し踏み潰さなければならない」と望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人におなりなさい。ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「私は臆病に堪えなければならない。さらに臆病が私を苦しめないよう、まだ生じてくる臆病を支配し、踏み潰さなければならない」とこのように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人におなりなさい。ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「最高の心であり、生きているうちに出合うスッカヴィハーラ(幸福な住まい)である四つの定を、念願どおりに手に入れ、簡単に手に入れ、難しくなく簡単に手に入れるべきだ」とこのように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人におなりなさ。ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「これらの解脱のどれも形を越えてしまい、形のないダンマ、静かなものになり、名身でそれらの解脱に触れるべきだ」と、このように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「サンヨージャナ(生き物を輪廻に結び付ける煩悩。十結)の三つが無くなって、落ちることのない人、将来悟りがあり涅槃が確実な人、預流になるべきだ」とこのように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「十結の三つが無くなり、貪りと怒りと惑溺が薄くなって、一来になるべきだ」と、このように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「十結の初等の五つを無くして、そこで般涅槃して当然その世界に戻らないオッパーティカ(突然生まれる人。不還)になるべきだ、」と、このように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「いろんな神通力を見せられるべきだ」と、このように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「天耳があるべきだ」とこのように望むならすべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「熟考して、自分の心で他の動物の心、他の人物の心を知るべきだ」と、このように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「過去にあった様々な界を回想するべきだ」とこのように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「人間の普通の目を超えた清浄な天眼で、すべての生き物を見るべきだ」と、このように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 比丘のみなさん。比丘が「漏を絶滅させて、生きているうちに心解脱、慧解脱を、最高の智慧で明らかにし、そして常にその高い感覚の中にいるべきだ」と、このように望むなら、すべての戒を完璧にし、内面の心を静める道具であるダンマによって定から離れない人になり、ヴィパッサナーもあり、そしてすべてのスンニャガーラ(空の家に住む、つまり常に心を空にしていること)の勤めを発展させなさい。

 私、如行が「比丘のみなさん。みなさんは完璧な戒、完璧なパーティモッガで慎重になさい。みなさんは行儀作法とゴーチャラ(好く行く所)について、完璧なパーティモッガで細心の注意を払いなさい。すべての罪、小さな罪でも、すべての害が見える人であり、すべての教条を学ぶべきことと受け入れる人でいなさい」とこのように言うのは、どれもこのような理由に依存しています。





希望より上にいる人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻137頁452項

 比丘のみなさん。希望より上にいる人と呼ばれる人は、どのような人でしょうか。

 みなさん。このダンマヴィナヤの比丘は阿羅漢キーナーサバです。彼は「この比丘はすべての漏がなくなって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいる」と聞いても、彼は「すべての漏がなくなって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で私が明らかにし、常にその感覚の中にいるのはいつだろう」と、このように考えることはあり得ません。

 それはなぜでしょうか。彼の解脱の望みは、彼がまだ到達していない間は抑えられているからです。

 比丘のみなさん。これです。私が「希望より上にいる人」と呼ぶのは。





国王に力があれば

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ティカニカーヤ 20巻87頁284項

 比丘のみなさん。国王に力があり、盗族の力が衰えている時は、国王自身が出入りするにも、あるいは国境の田舎へ通達を出すにも安全であり、バラモンや長者たちも出入り、あるいは国の外で仕事の手配をするのに便利なように、比丘のみなさん。戒を愛している比丘に力があり、下賤な比丘の力が衰えていれば、その時下賤な比丘たちは劣勢側で、サンガの中で黙っている人でなければなりません。

 比丘のみなさん。大衆の利益のため、大衆を幸福にするため、大衆の多くが発展するため、そしてすべての天人と人間が幸福になるために、このような原因が生じます。





偉大な徳に出合う

パーリ・ブッダバーシタ
増支部パンチャカニバータ 22巻271頁199項

 比丘のみなさん。戒のある出家が良家に出入りすると、その一族すべての人間は五つの条件で、当然たくさんの功徳に遭遇します。五つの条件とは何でしょうか。

(1)家に来た戒のある出家を見て、すべての人間が帰依する時はいつでも、その時、その一族は天国のための実践項目を実践すると言われます。

(2)家に来た戒のある出家を、すべての人が受け入れ拝礼して座を勧める時はいつでも、その時、その一族は身分の高い家系に生まれるための実践項目の実践をすると言われます。

(3)家に来た戒のある出家に対して、すべての人が汚れ、つまりケチを排除することができる時はいつでも、その時、その一族は大きな名誉や栄誉のための実践項目を実践すると言われます。

(4)家に来た戒のある出家に、すべての人がサティに応じ力に応じて布施をする時はいつでも、その時、その一族は大きな消費材のための実践項目を実践すると言われます。

(5)家に来た戒のある出家に、すべての人が当然いろいろ質問してダンマを聞く時はいつでも、その時、その一族は大きな智慧を得るための実践項目を実践すると言われます。

 比丘のみなさん。戒のある出家はどんな家に行っても、その家のすべての人間がこのような五つの条件で、当然たくさん功徳に出遭います。






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