ブッダヴァチャナの宝石箱

第八章 心の毒について




    財宝を指差す人


 アーナンダ。

 私は、土鍋屋がまだ(成形したばかりの)濡れている柔らかい土鍋を扱うように、

 あなたたちを大事にする努力はしません。

 アーナンダ、私は休まず叱ります。

 アーナンダ、私は休まず咎めます。

 本質である道果がある人は耐えられます。

   (中部ウパリパンナーサ マハースンニャタースッタ14巻245頁356項)



 私たちは、常に叱ってくれ、

 常に罰を与えてくれる智慧のある人は誰でも、

 「その人は宝を指さす人だ。こういう知識者とつき合うべきだ。

 このような知識者とつき合えば良いことばかりで、悪いことは何もない」

 と見なければなりません。

    (小部ダンマパダ バンディタヴァッガ 24巻25頁16項)









チーヴァラの中に潜んでいる剣

パーリ・ブッダバーシタ(仏説)
相応部カンダワーラヴァッカ 三蔵17巻62頁101項

 比丘のみなさん。大衆はみなさんのことを「サマナ」「サマナ」と知っていて、みなさんも彼らに「みなさんは何ですか」と訊かれれば、「私はサマナです」と宣言します。

 比丘のみなさん。みなさんがサマナと呼ばれるなら、そして自分はサマナだと宣言するなら、「サマナにふさわしい実践項目は何でも実践しよう。私たちのそのような実践によってサマナという呼び名が事実になり、そしてサマナと言う私たちの宣言も事実になる。

更に私たちがチーヴァラ(三衣)や食べ物や住まいや医薬品八物を使うことで、それらの支援者の布施は大きな成果と大きな功徳がある。そして私たちの出家であることは不毛でなく、大きな結果、大きな儲けがある」とこのように心に留めるべきです。

 比丘のみなさん。比丘の誰でも貪欲がたくさんあり、まだ貪欲を捨てることができず、復讐心があり、まだ復讐心を捨てることができず、怒りがあり、まだ怒り易さを捨てることができず、怒りを抱き、まだ怒りを抱くのを捨てることができず、他人の恩を知らず、まだ恩知らずな性質を捨てることができず、

目上の人と対等に振る舞い、目上の人と対等に振る舞うのを捨てることができず、嫉妬し、まだ嫉妬を捨てることができず、ケチで、まだケチを捨てることができず、自慢好きで、まだ自慢好きを捨てることができず、策略家で、まだ策略を捨てることができず、下賤な望みがあり、まだ下賤な望みを捨てることができず、間違った考えがあり、

まだ間違った考えを捨てることができなければ、比丘のみなさん。これらのサマナを汚す物、サマナの罪、サマナの渋であり、動物を悪に生まれさせ、そしてすべての動物が悪趣で生きなければならない原因である煩悩や貪欲などを捨てることができないので、私は、その比丘はサマナにふさわしい実践項目を実践している人と呼びません。

 比丘のみなさん。比丘の外衣で包んだ非常に鋭い、良く砥いだ両刃の剣のように、比丘のみなさん。この比丘の出家であることは、両刃の剣に譬えられると言います。比丘のみなさん。外衣を維持する人が外衣を維持することだけでサマナであるのではないと、私は言います。

 



世界の毒薬

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッカ 16巻122頁260項

 比丘のみなさん。青銅カップに色も匂いも味も完璧な、毒薬入りの飲み物を入れ、その時非常に暑くて、体中がムシムシして疲れて喉が渇いている男が来て、みんなが「ね、発展した方。このカップは色も匂いも味も完璧だが、毒薬が入っています。飲みたければ飲んでもいいです。

 飲んでいる時は色や匂いや味に心を奪われますが、飲めば旦那は死ぬか、あるいは死ぬほどの苦を味わいます」とこのように言います。その男は熟慮する間もなく急いで飲み干し、それが原因で死ぬか、死ぬほどの苦を味わいます。

 同じように比丘のみなさん。過去、未来、現在のサマナやバラモンの誰でも、気安く愛している世界の物を当然変わらない物と見、幸福な物と見、実体があると見、突き刺さない物と見、安全な物と見る人は当然欲望を育て、欲望が育てば煩悩が育ち、煩悩が育てば苦が育ち、苦が育てば、そのサマナやバラモンは当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・心の悩みから脱しません。

 私如行は、当然「そのサマナやバラモンは、当然苦から脱しない」と言います。





谷底に落ちる人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッカ 16巻122頁260項

 比丘のみなさん。苦はこのよう、苦の原因はこのよう、苦の完全な消滅はこのよう、苦を完全に消滅させる実践項目はこのようと、真実のままに見ないサマナあるいはバラモンは誰でも、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・心の悩みを作り出す原因や縁を喜びます。

 彼がそれらを作る原因と縁を喜べばそれらを作る原因と縁を作り、その原因と縁を作れば生まれることの谷に落ち、老の谷に落ち、死の谷に落ち、悲しみの谷に落ち、嘆きの谷に落ち、体の苦の谷に落ち、心の苦の谷に落ち、苦悩の谷に落ちます。

 そのサマナあるいはバラモンたちは、当然生・老・死・悲しみ・嘆き・体の苦・心の苦・苦悩から脱せません。如行は「その人たちは、当然苦から脱しない」とこのように言います。





争うことしか念頭にない人

パーリ・ブッダバーシタ
中部ウパリバンナーサ 14巻295頁440項

 「比丘のみなさん。お止めなさい、みなさん。勝手な思い込みをしてはいけません。喧嘩をしてはいけません。諍いをしてはいけません。口喧嘩をしてはいけません」。(二三度このように繰り返す)。

 このようにおっしゃると、ある比丘が「ダンマの主人である世尊、止まってください。どうぞ追求を続けさせてください、猊下。世尊。現世の幸福にいさせてください、猊下。私たちは決めつけること、ケンカをすること、諍いをすること、口喧嘩をすることで白黒をつけます」とこのように申し上げました。

 時は朝だったので、世尊はチーヴァラをまとって鉢を持って托鉢するためにコーサンビーの町へ行かれました。コーサンビーの町を托鉢して歩かれ、食事から戻られると八物を持ったまま、立ってこの詩を詠まれました。

 新参同士が大声で怒鳴り合っても、愚かなことと思う人はいない

 仲違いをしても、もっと良くする考えの人は誰もいない

 我を忘れた学者たちは、自分が話したいように話したいと望むので

 どう話したところで無駄なお喋りで

 喧嘩の原因である煩悩まで導かない


 あの人は私を罵り、私を攻撃し、私に勝ち、私の財産を盗んだと恨んでいる人の、

 その人たちの怨念は当然治まらない

 あの人は私を罵った、私を攻撃した、私に勝った、私の財産を盗んだと恨みを抱かない人の、

 その人たちの怨念は、当然抑えることができる

 
 いつの時代でも、すべての恨みは恨むことで治まったことはなく

 恨まないことでこそ鎮めることができる

 このダンマは古いもので、永久に使うことができる

 他の人たちは「私たちが分裂するのはこれが原因だ」と考えない


 原因を思うことができる人たちは

 その感覚によって当然悪意を制止できるbr>
 (煩悩の行動で)心を一つにすることは

 国を奪い、庶民の脛や脚を折り、人々を殺し、

 牛馬を使って財産を運ぶ野蛮な人たちにもあるのに

 どうしてみなさんにないはずがあろうか


 善い生活をし、道を同じくする知識者であり、

 自分を脱出に導いてくれる友が得られなければ、

 一部の領地を捨てる国王のように、

 森の中で単独行動をする象のように、

 一人で行動しなさい


 愚かな人との友情はあり得ないので、一人で行動する方が善い

 一人で遊行すべきであり、罪を作るべきではない

 野望が少ない森の象のように、野望が少ない人でいなさい」


 このように詠み終わると、世尊はバーロガローナカーラガーマへ行かれました。





八種類の悍馬

パーリ・ブッダバーシタ
増支部アッダカニバータ 23巻194頁104項

 比丘のみなさん。八種類の悍馬とその害、八種類の強情な人とその害について説明します。みなさんこれをお聞きなさい。

車を捨てる馬

 比丘のみなさん。この場合の悍馬は御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、反対に後退して車を外します。悍馬の中には、ここまでのもいます。これが悍馬の害の一番目です。

 比丘のみなさん。この例は、比丘全員がある比丘を破戒で告発すると、破戒で告発された比丘は当然「私は憶えていません。思い出せません」とこのように罪をごまかします。比丘のみなさん。御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、反対に後退して車を外す悍馬のようです。

 比丘のみなさん。この出家に例えられる悍馬がいると言います。比丘のみなさん。出家者の中にはここまでする人もいます。これは強情な人の一番目の罪です。

棒を折る馬

 比丘のみなさん。この場合の悍馬は御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、当然後ろに転がって線香を潰し、マイトリーダン(お仕置きをする棒)を折ります。悍馬の中には、ここまでのもいます。これが悍馬の二番目の害です。

 比丘のみなさん。すべての比丘がある比丘を破戒で告発すると、すべての比丘から破戒で告発された比丘は、反対に「あなたたちの言うことに何の利益があるのか。愚かでどうしようもない人たちだ。あなたたちは言うべきことを知っているのか」と、このように言い返します。

 比丘のみなさん。御者が「行け」と知らせるために合図すると、後ろへ転げて当然線香やマイトリーダン(先端が鉤になっている棒)を折る悍馬のようです。私はこの出家に例えられる悍馬がいると言います。比丘のみなさん。出家の中にはここまでの人がいます。これが強情な人の罪の二番目です。

車の柄を蹴る馬

 比丘のみなさん。この場合の悍馬は、御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、脚を上げて車の柄を蹴飛ばし、そして当然車の柄を踏みつけます。悍馬の中にはここまでのもいます。これが悍馬の害の三番目です。

 比丘のみなさん。すべての比丘がある比丘を破戒で告発すると、すべての比丘から破戒で告発されたその比丘は、反対に「あなたこそこの戒に触れます。あなたが先に罪を返しなさい」と、このように告発した人に罪を押しつけます。

 みなさん。御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、脚で車の柄を弾いて蹴飛ばし、車の柄を踏みつける悍馬のようです。比丘のみなさん。この出家に例えられる悍馬がいると言います。出家の中にはここまでの人がいます。これが強情な人の罪の三番目です。

車を転覆させる馬

 比丘のみなさん。この場合の悍馬は、御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、間違った道を歩いて当然車を転覆させます。比丘のみなさん。悍馬の中にはここまでのもいます。これが悍馬の害の四番目です。

 比丘のみなさん。すべての比丘がある比丘を破戒で告発すると、破戒で告発されたその比丘は、反対に他の物でごまかし、代わりに別の問題を話題にして憤慨を表し、敵意と恨みを露わにします。

 比丘のみなさん。御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、間違った道を歩いて、当然車を転覆させる悍馬のようです。比丘のみなさん。私はこの出家に例えられる悍馬がいると言います。比丘のみなさん。出家の中にはここまでの人がいます。これが強情な人の罪の四番目です。

車を壊す馬

 比丘のみなさん。この場合の悍馬は、御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、当然思い切り飛び上がります。悍馬の中にはそこまでのもいます。これが悍馬の害の五番目です。

 比丘のみなさん。すべての比丘がある比丘を破戒で告発すると、すべての比丘に破戒で告発されたその比丘は、僧たちの最中で、反対に体を揺すり腕を振って話をします。比丘のみなさん。御者が「行け」と知らせるために棒で突くと、当然思い切り飛び上がる悍馬のようです。私はその出家に例えられる悍馬がいると言います。出家の中にはここまでの人がいます。これが強情な人の罪の五番目です。

手綱を噛み切る馬

 比丘のみなさん。この場合の悍馬は、御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、当然合図を無視し、反対に手綱を噛み切って自分の思いのままに突っ走ります。悍馬の中にはここまでのもいます。これは悍馬の害の六番目です。

 比丘のみなさん。すべての比丘がある比丘を破戒で告発すると、告発されたその比丘は、サンガを気にせず、告発を重大と見ず、まだ罪を落としていないのに離れて行きます。御者が「行け」と知らせるために棒で突くと、合図を気にせず、手綱に噛みついて自分の思いのままに突っ走る悍馬のようです。

 比丘のみなさん。私はこの出家に例えられる悍馬がいると言います。比丘のみなさん。出家の中にはここまでの人もいます。これが強情な人の罪の六番目です。

突っ立っている馬

 比丘のみなさん。その悍馬に譬えられるのは、御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、前進しようとせず、後退しようともせず、埋めてある柱のように、そこにじっと突っ立っています。悍馬の中にはここまでのもいます。これが七番目の悍馬の害です。

 比丘のみなさん。すべての比丘がある比丘を破戒で告発すると、すべての比丘に告発されたその比丘は、破戒したとも、あるいは破戒には当たらないとも言おうとしません。その比丘は当然何も話さないことでサンガに迷惑を掛けます。

 比丘のみなさん。御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、前進も後退もしようとせず、埋め込まれた柱のようにただじっと突っ立っている悍馬のようです。比丘のみなさん。私はこの出家に例えられる悍馬がいると言います。出家の中にはここまでの人がいます。これが強情な人の罪の七番目です。

  うずくまる馬
 
 比丘のみなさん。この場合の悍馬は、御者が「行け」と知らせるために棒で合図すると、反対に前足でひざまずき、後足で跪いてそこにうずくまります。悍馬の中にはここまでのもいます。これが悍馬の害の八番目です。

 比丘のみなさん。すべての比丘がある比丘を破戒で告発すると、すべての比丘に破戒で告発されたその比丘は、反対に「どうして先輩のみなさんは難癖をつけるのがお好きなんだろう。今私に『勉強をやめて在家の低い暮らしに戻る』と言う時間くらいください」とこのように言います。

 そしてその後、その比丘は学習を止めて世界の低い生活に戻り、おまけに「これで先輩のみなさんもご満足なさいな」と、このように愚弄します。比丘のみなさん。御者が「行け」と知らせるために棒で突くと、前足で跪き、後足で跪き、四足でそこにうずくまる悍馬のようです。

 比丘のみなさん。私はこの比丘に例えられる悍馬がいると言います。比丘のみなさん。出家の中にはここまでの人がいます。これが強情な人の罪の八番目です。





サンガを破壊しようと考える必要がある人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 21巻325頁243項

 アーナンダ。これらの四つの権力の利益を見る比丘は、サンガの分裂を喜びます。四つとは何でしょう。四つとは、

(1)この場合の下賎な比丘は破戒者であり、下賎な生活をし、不潔で、自分で自分を疑う振る舞いがあり、隠しておかなければならない行動があり、サマナではないのにサマナと宣言し、内部がドロドロに腐った人で、ゴミ捨て場のように積み重なった本性があります。

 その下賎な比丘は「すべての比丘が、私は破戒者で下賎な暮らしをし、不潔で、自分で自分を疑う振る舞いがあり、隠しておかなければならない行動があり、サマナではないのにサマナと宣言し、内部がドロドロに腐った人で、ゴミ捨て場のように積み重なった本性があると知ったら、比丘たちが心を一つにすれば、比丘の資格が奪われるかもしれない。しかし分裂してしまえば私を破滅させることはできない」とこのように心配します。

 下賎な比丘は一番目のこの威力の利益を見るので、サンガの消滅を喜びます。

(2)もう一つ、下賎な比丘は誤った見解の人で、どちらか一極に偏った考えがあります。その下賎な比丘は「比丘全員が、私は誤った見解の人で一極に偏った考えがあると知ったら、比丘たちが心を一つにした時は、私を破滅させることができる。しかし分裂してしまえば、私を破滅させない」とこのように心配します。下賎な比丘は二番目のこの威力の利益を見るので、サンガの消滅を喜びます。

(3)もう一つ、下賎な比丘は間違った生活をする人であり、間違った生活を維持します。その下賎な比丘は「私が間違った生活を維持していると比丘全員が知ったら、比丘が心を一つにした時は、私を破滅させことができる。しかし分裂してしまえば、私を破滅させない」と、このように心配します。下賎な比丘は三番目のこの威力の利益を見るので、サンガの消滅を喜びます。

(4)もう一つ、下賎な比丘は貰い物を望み、崇拝を望み、生じた称賛を望む人です。その下賎な比丘は「もしすべての比丘が、私が貰い物を望み、崇拝を望み、称賛を望んでいると知ったら、比丘が心を一つにした時は、私を崇拝し尊敬し信仰しなくなる。しかし分裂してしまえば、私を崇拝し尊敬し信仰する」とこのように心配します。下賎な比丘は四番目のこの威力の利益を見るので、サンガの消滅を喜びます。

 アーナンダ。下賎な比丘はこれらの四つの威力を見るので、サンガを分裂させるのを喜びます。





肥溜めに沈んだ人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 21巻325頁243項

 ある比丘が「アーナンダさん、世尊はすべての出来事を収集され、それで判断なさって、プラデーヴァダッタは一劫の間、悪趣や地獄に生まれなければならず、助けることはできないと予言なさったのですか。それとも何らかの例えである予言ですか」と質問する比丘がいたので、プラアーナンダは「世尊の予言は当然いつでも真実です」と答えました。

 世尊がそれを知って、ブッダヴァチャナをお話になりました。

 アーナンダ。その比丘はひょっとすると出家して日の浅い新参僧か、あるいは愚かで粗暴な長老かもしれません。私が一面的に予言したことが二面的になることはありません。アーナンダ。私がすべての出来事を考慮して、そしてデーヴァダッタのことのように予言をする人は、デーヴァダッタ以外に一人も見えません。

 アーナンダ。デーヴァダッタの白いダンマが鋭い毛先ほども見えている間は、「プラデーヴァダッタは悪趣に生まれ、一劫の間地獄の動物にならなければならず、何も助けられない」と予言しません。アーナンダ。デーヴァダッタの白いダンマが毛先ほども見えなければ、その時私は「プラデーヴァダッタは必ず悪趣に生まれ、一劫の間地獄の動物でいなければならない。何も助けはない」と予言します。

 アーナンダ。縁まで肥が溢れている深い肥溜めに、ある悪人はその肥溜に深々と沈むべきです。中には助ける利益を望み、そのような状況でも安全の喜びを望んで、肥溜から彼を引き揚げてやろうとする人がいて、その人は近寄って肥溜の周りを歩き回りますが、掴んで引き上げてやれる肥で汚れていない部分は毛の先ほども見えません。

 同じように、アーナンダ。体毛の鋭い先ほどもデーヴァダッタの白いダンマが見えなければ、その時私は、敢えて「デーヴァダッタは悪趣に生まれ、一劫の間地獄の動物にならなければならない。助けることはできない」と予言します。





カラスの性根

パーリ・ブッダバーシタ 
増支部ダサカニバータ 24巻159頁77項

 比丘のみなさん。カラスは十の悪がある動物です。十とは何でしょう。十とは、

(1)カラスは善を消滅させる動物で、

(2)乱暴な動物で、

(3)野心のある動物で、

(4)大食いな動物で、

(5)下賤な動物で、

(6)生き物への憐れみがない動物で、

(7)無力な動物で、

(8)鳴き声が騒々しい動物で、

(9)サティを放置した動物で、

(10)食べ物を集める動物です。

 比丘のみなさん。カラスはこれらの十の悪がある動物です。


 比丘のみなさん。下賎な比丘もカラスと同じ十の不正法のある人です。十とは何でしょうか。十とは、

(1)下賎な比丘は善を消滅させる人で、

(2)粗暴な人で、

(3)野心のある人で、

(4)大食いな人で、

(5)下賤な人で、

(6)生き物への憐れみがない人で、

(7)無力な人で、

(8)騒々しい声で叫ぶ人で、

(9)サティを放置した人で、

(10)食べ物を集める人です。


 比丘のみなさん。下賎な比丘はこの十の不正法のある人です。






病気の巣である僧

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 21巻191頁157項

比丘のみなさん。この二種類の病気があります。二種類とは何でしょうか。二種類とは体の病気と心の病気です。

 比丘のみなさん。一年、二年、三年、四年、五年、十年、二十年、三十年、四十年、五十年、百年、病気がないと確認できる動物、そして百年以上病気がな確認できる動物もいます。比丘のみなさん。しかしほんの一瞬の間でも心の病気がないと主張できる動物は、阿羅漢以外にはこの世界で見つけるのは非常に難しいと見なします。

 比丘のみなさん。これらの出家の病気の四種類とは何でしょうか。四種類とは、

(1)この場合の比丘は貪欲な人で、貪欲が原因で常に焦慮し、今ある衣食住薬に満足することを知りません。

(2)その比丘が貪欲なら、常に貪欲が原因でイライラしていて、あるだけの衣食住薬に満足することを知らず、当然他人に機嫌をとってもらいたい、そして貰い物や称賛を得るたい下賎な望みがあります。

(3)その比丘は、他人から機嫌を取ってもらうため、そして貰い物や称賛を得るために駆け回って掻き集める努力をします。

(4)その比丘は当然良家に出入りする計画を考え、良家で座る計画を考え、良家でダンマを話す計画を考え、大小便を我慢して一族と交際する計画を考えます。

 比丘のみなさん。この四種類が出家の病気です。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん「私たちは貪欲な人にならない。貪欲ゆえに焦慮する人にならない。今ある衣と食べ物と住まいと解熱剤に満足することを知る人だ。他人に付ききりでご機嫌をとってもらいたい、そして貰い物と称賛を得るたい下賎な望みを持たない。

他人からつき切りでご機嫌をとってもらうため、そして貰い物と称賛を得るために駆け回り、掻き集める努力をしない。寒さ、暑さ、飢え、渇き、虻や蚊や風や日差し、そしてすべての這いまわる動物との接触に耐える人であり、強烈に下品な様々な言葉に堪える人であり、強烈で辛辣で辛酸な苦、命を奪うくらい不愉快な受に耐える人だ」と、

このように心に留めなければなりません。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めなければなりません。





柵の中にいるべき人

パーリ・ブッダバーシタ 
増支部パンチャカニバータ 22巻164頁127項

 比丘のみなさん。五つの原因がある人はまだ群れから解放されて一人で住むべきでない人です。五つの原因とは何でしょう。五つとは、

(1)彼は今あるチーヴァラ(衣)に満足を知らず、

(2)まだ托鉢で得る食べ物に満足を知らず、

(3)まだ今ある住まいに満足を知らず、

(4)まだ今ある八物医薬品に満足を知らず、

(5)まだ非常に愛欲に傾いた考えがあります。

 比丘のみなさん。これらの五つの原因がある比丘は、まだ群れから解放されて一人で暮すべきでない人です。





一年中怠慢な人

パーリ・ブッダバーシタ
増支部チャドゥカニバータ 21巻16頁11項

 比丘のみなさん。比丘が歩いている時愛欲の考え、あるいは恨みの考え、あるいは無駄に他人を困難させる考えが生じ、そして比丘がその憂を受け入れ、捨てず、抜き出さず、すっかり終わりにしなければ、このような比丘は歩いていても「煩悩を焼く努力をしない人、低劣な物の恐さを知らない怠け者、いつも下賤な努力のある人」と言います。

 比丘が立っている時愛欲の考え、あるいは恨みの考え、あるいは無駄に他人を困らせる考えが生じ、そして比丘がその憂を受け入れ、捨てず、抜き出さず、すっかり終わりにしなければ、このような比丘は、立っていても「煩悩を焼く努力をしない人で、下賎な物の恐さを知らない怠け者で、いつも劣悪な努力のある人」と言います。

 比丘が座っている時愛欲の考え、あるいは恨みの考え、あるいは無駄に他人を困らせる考えが生じ、そして比丘がその憂を受け入れ、捨てず、抜き出さず、すっかり終わりにしなければ、このような比丘は座っていても「煩悩を焼く努力をしない人、下賎な物の恐さを知らない怠け者、いつも劣悪な努力のある人」と言います。

 比丘が寝ている時愛欲の考え、あるいは恨みの考え、あるいは無駄に他人を困らせる考えが生じ、そして比丘がその憂を受け入れ、捨てず、抜き出さず、すっかり終わりにしなければ、このような比丘は寝ていても「煩悩を焼く努力をしない人、下賎な物の恐さを知らない怠け者、いつも劣悪な努力のある人」と言います。





鳥モチに掛かった猿

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部マハーワーラヴァッガ 19巻198頁701項

 比丘のみなさん。デコボコして平坦でなく、行くのが大変で、人間集団にとっても猿の群れにとっても遊ぶ場所ではないヒマラヤの国もあり、猿の群れにとっては遊ぶ場所でも、人間集団には遊ぶ場所でない所もあり、そして猿の群れも人間集団も遊べる平坦で楽しいヒマラヤ地方もあります。

 比丘のみなさん。そこにです、猟師が猿を捕まえるために、猿の道に粘っこい鳥モチを仕掛けると、生まれつきバカでない猿はその鳥モチを見て当然避けて通ります。一方生まれつきバカな猿、生まれつき落ち着きのない猿が近寄って手で触って見ると、手が鳥モチに貼り付きます。

 すると貼り付いた手を引き離そうと貼り付いていない方の手で掴むので、二つ目の手も貼りつき、貼り付いた両手を鳥モチから離そうと片方の足で押すと、足が貼り付きます。そこで貼り付いた両手と片足を外そうと、もう片方の足で押すと、両脚が貼り付きます。すると猿は、貼り付いた両手両足を外そうという猿なりの考えで噛みつくので、口も貼りつきます。

 比丘のみなさん。その猿は、そのような五つの状態で鳥モチに貼り付き、猟師次第で破滅に至るまで、大きなため息をついて寝ていました。比丘のみなさん。猟師はその猿を刺して持ち上げ、何処へも捨てようとせず、自分の行きたい所へ去って行きました。比丘のみなさん。猿が遊びに行くべきでない地域に立ち入ると、これほどになります。

 比丘のみなさん。だからこのことは、みなさんが遊びに行くべきでない領域へ行ってはいけません。遊びに行くべきでない領域へ行けば悪魔の好機、悪魔が自分のしたいようにする好機です。

 比丘のみなさん。比丘が遊びに行くべきでない領域はどんなでしょうか。その領域とは五欲です。五欲とはどんなものでしょうか。五つとは、望ましく、愛して求め、喜ばしく、誘惑して惚れさせる物で、愛欲の基盤、欲情の基盤である目で見るべき形、耳で聞くべき声、鼻で嗅ぐべき臭い、舌で味合うべき味、体で感じる触です。比丘のみなさん。これが比丘が遊びに行くべきでない領域です。





酔って夢中になるから還俗する

パーリ・ブッダバーシタ 
増支部ティカニカーヤ 20巻185頁478項

 比丘のみなさん。この三種類の陶酔があります。三種類は、まだ若いという陶酔、まだ病気がないという陶酔、まだ生きているという陶酔です。

 比丘のみなさん。ダンマを聞かない凡夫は「まだ若い」と陶酔するので、当然不正な体の振る舞いをし、不正な言葉の振る舞いをし、不正な心の振る舞いをします。体と言葉と心の不正な振る舞いをすれば、体が崩壊して死んだ後当然苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行きます。

 比丘のみなさん。ダンマを聞かない凡夫は「まだ病気がない」と陶酔するので、当然不正な体の振る舞いをし、不正な言葉の振る舞いをし、間違った心の振る舞いをします。体と言葉と心の不正な振る舞いをすれば、体の崩壊によって死んだ後当然苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行きます。

 比丘のみなさん。ダンマを聞かない凡夫は「まだ生きている」と陶酔するので、当然不正な体の振る舞いをし、不正な言葉の振る舞いをし、間違った心の振る舞いをします。体と言葉と心の不正な振る舞いをすれば、体の崩壊によって死んだ後当然苦界、悪趣、報いを受ける場所、地獄へ行きます。

 比丘のみなさん。まだ若いという陶酔で酔っている人、まだ病気がないという陶酔で酔っている人、まだ生きているという陶酔で酔っている人は、当然還俗して在家の低い暮らしに戻ると言います。





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