財宝を指差す人
アーナンダ。
私は、土鍋屋が(成形したばかりの)まだ濡れている柔らかい土鍋を扱うように、
あなたたちを大事にする努力はしません。
アーナンダ、私は休まず叱ります。
アーナンダ、私は休まず咎めます。
本質である道果がある人は耐えられます。
(中部ウパリパンナーサ マハースンニャタースッタ14巻245頁356項)
私たちは、常に叱ってくれ、
常に罰を与えてくれる智慧のある人は誰でも、
「その人は宝を指さす人だ。こういう知識者とつき合うべきだ。
このような知識者とつき合えば良いことばかりで、悪いことは何もない」
と見なければなりません。
(小部ダンマパダ バンディタヴァッガ 24巻25頁16項)
利益ばかり考える人
比丘のみなさん。比丘教団員には二種類あります。二種類は何でしょうか。二種類とは、利益を重く見て正法を重く見ない比丘教団員と、正法を重く見て利益を重く見ない比丘教団員です。
比丘のみなさん。利益を重く見て正法を重く見ない比丘教団員はどのようでしょうか。みなさん。この場合、家を治めている在家の面前で、「あの比丘はウパトーパーガヴィムッタ(倶分解脱)の聖人で、あの比丘はパンニャーヴィムッタ(智慧解脱)の聖人で、あの比丘はカーヤサッギー(身証)の聖人で、
あの比丘はディッタパッタ(見至)の聖人で、あの比丘はサッダーヴィムッタ(信解脱)の聖人で、あの比丘はダンマーヌサーリー(隋法行)の聖人で、あの比丘はサッターヌサーリー(隋信行)の聖人で、あの比丘は美しい戒で美しい生活をし、そしてあの比丘は破戒で下劣な生活をしている」などと褒め合います。
それらの比丘は、当然そのように褒め合うことで貰い物があります。貰い物があれば、それらの比丘は一斉に貰い物の味に夢中になって陶酔し、害の面が見えず、その貰い物を消費する苦から出る方便を明らかに知る人ではありません。
比丘のみなさん。このような比丘教団員を、私は「利益を重視して、正法を重視しない教団員」と言います。
飯に見合う価値がない
比丘のみなさん。この場合の比丘がどこかの村や町に行って住むと、長者や長者の息子が訪ねて行って、翌朝の食事に招聘します。その比丘はその食事を望んで招聘を受け入れ、夜が過ぎて朝になると、チーヴァラ(衣)をまとって鉢を持ち、招聘者である長者あるいは長者の息子の家へ行って用意された座に座ります。
長者、あるいは長者の息子は、上等な食べる物かじる物でもてなし、満足して止めるまで自ら給仕をします。その時その比丘に「本当に素晴らしい。この長者あるいは長者の息子は、上等な食べる物、噛じる物で、満腹して止めるまで自らもてなす」という考えが生じます。
その比丘は続いて「明日の朝ももう一度、この長者、あるいは長者の息子が、上等な食べる物、噛む物でもてなしてくれないかなあ」とこのように望みます。
彼はその料理の味が癖になり、料理の味に溺れ、料理の味の喜びに平伏し、害の部分が見えず、その料理を食べる苦から出る方便を明らかに知る人ではありません。その比丘は、座って食べている時に自分でも気づかずに欲情の考えをし、恨む方向の考えや他人を困らせる方向の考えをします。
比丘のみなさん。私は「このような比丘に献じられる布施には、大きな結果はない」と言います。なぜでしょうか。その比丘は、酔っている人だからです。
身の程知らずにまねばかりする人
比丘のみなさん。これは以前にあった話です。ある森の近くに大きな池があり、たくさんの象がその池に依存していました。象は池に下りて鼻を使って蓮根を抜き、水中で粘土がきれいに落ちるまで揺すって、それから口に入れて良く噛んで呑み込みます。これらの象のこのような食事は、当然体の色艶を良くし、力になり、そして死に至ること、あるいは死ぬほどの苦はありません。それらの象は食べ方を知っているからです。
比丘のみなさん。小さな子象たちは大人の象を真似たがり、その蓮池へ下りて行って鼻を使って蓮根を引き抜くことはできますが、水中で揺すらずに、まだ粘土がついているのに口に入れ、良く噛まないで呑み込みます。子象たちのこのような食事は、当然体の色艶を良くせず、体力をつけず、死に至らしめ、あるいは死ぬほどの苦を受け取らせます。それらの子象たちは食べ方を知らないからです。
比丘のみなさん。同じようにこの場合の多くの長老比丘は、チーヴァラ(衣)をまとって鉢を持って托鉢のために村や町へ行き、それらの長老比丘が当然そこでタンマを説くと、長老比丘を尊敬している在家は、尊敬の態度を表します。更にそれらの長老比丘はその貰い物に心を奪われず、平伏せず、陶酔しない害の部分が見える人で、その苦から出る方便を明らかにしてから貰い物を食べることを知っている人です。
その長老比丘たちの食事は、当然体の艶が良くし、体力をつけ、死に至ること、あるいは死ぬほどの苦はありません。それらの方々は、食べ方を知っているからです。
比丘のみなさん。年のいかない比丘がそれらの長老比丘を真似たくて、朝チーヴァラをまとって鉢を持ち、村や町に托鉢に行き、彼がそこでタンマを説くと、年のいかないその比丘を尊敬する在家たちは、当然尊敬する態度を表します。
更にその年の若い比丘たちは心を奪われ、平伏し、陶酔し、その貰い物の害の部分が見えず、その苦から出る方便を明らかにしてから食べることを知らない人です。その食事は当然ツヤの良い体にせず、体力をつけず、反対に死に至らしめ、あるいは死ぬほどの苦を受け取らせます。それらの人は食べ方を知らないからです。
比丘のみなさん。だからこのことはみなさん、「私たちは貰い物である縁に溺れず、平伏せず、陶酔しない人になる。その貰い物である縁を食べる苦から出るものである方便を明らかに知る人になる」と、このように心に留めなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。
猟師の罠に掛かる
比丘のみなさん。五欲には五つあります。五つとは何でしょうか。五つとは、可愛いらしく、満足すべき、誘惑して欲しがらせるもの、心を魅惑するものであり、欲情して愛させる基盤である①目で見える形、②耳で聞こえる声、③鼻で嗅ぐ臭い、④舌で味わう味、そして⑤体で触れる触です。比丘のみなさん。五欲はこの五つがあります。
比丘のみなさん。この五欲に首丈になってひれ伏し、惑溺するサマナやバラモンは誰でも、害の部分が見えず、その五欲を味わう苦から出る方便を明らかに知らない人で、五欲を味わっているそのサマナやバラモンは、誰もが「罪のある悪魔の心次第で、破滅に至る人」と理解すべき人です。
比丘のみなさん。罠に掛かって罠に落ちて横たわっている野性の鹿は、猟師が近づいて来ても逃げられないように、比丘のみなさん。そのサマナやバラモンたちも五欲に首丈になって平伏し、惑溺するので、害の部分が見えず、その五欲を味わう苦から出る方便を明らかに知る人でなく、その五欲を味わっています。誰もが「罪のある悪魔の心次第で、破滅に至る人」と誰もが理解するべき人です。
繋がれている人
比丘のみなさん。比丘でも比丘尼でも、心を繋いでいる五つの物を断ち切れない人は、その出家の日夜は、当然善の衰退だけが望め、発展を望むことはできずに過ぎて行きます。心を繋ぐ五つとは何でしょうか。
比丘のみなさん。この場合の比丘はまだすべての愛欲に欲情がある人で、すべての愛欲に満足し、愛し、渇望し、焦燥し、欲しくてたまらない人です。
このような比丘は誰でも、その人の心は当然煩悩を焼く努力、継続してする努力、絶え間のない努力、そして安定した努力に傾きません。それが、彼がまだ断ち切ることができない、最初の心を繋ぐ物です。
比丘のみなさん。もう一つ、まだ体に欲情がある比丘は体に満足し、愛し、渇望し、焦燥し、体が欲しくてたまらない人です。このような比丘の心は、当然煩悩を焼く努力、継続してする努力、絶え間のない努力、そして安定した努力に傾きません。それが、彼がまだ断ち切ることができない、心を繋ぐものの二番目です。
比丘のみなさん。もう一つ、形に欲情がある比丘は形に満足し、愛し、渇望し、焦燥し、形が欲しくてたまらない人です。このような比丘の心は当然、煩悩を焼く努力、継続してする努力、絶え間のない努力、そして安定した努力に傾きません。それが、彼がまだ断ち切ることができない、心を繋ぐ物の三番目です。
比丘のみなさん。もう一つ、欲しいだけ、満腹するまでご飯を食べ、そして眠りに幸福を求め、ゴロゴロと横になっていることに幸福を求め、横になっているばかりで立ち上がろうとしない比丘は、述べたような比丘の心は当然、煩悩を焼く努力、継続してする努力、絶え間のない努力、そして安定した努力に傾きません。それが、彼がまだ断ち切ることができない、心を繋ぐ物の四番目です。
比丘のみなさん。もう一つ、「私はこの戒で、この勤めで、この苦行で、あるいはこの梵行で、偉大な力の天人、あるいは小さな力の天人の、いずれかの天人になる」と願って梵行を行なう比丘は、述べたような比丘の心は当然煩悩を焼く努力、継続してする努力、絶え間ない努力、そして安定した努力に傾きません。それが、彼がまだ断ち切ることができない、心を繋ぐ物の五番目です。
比丘のみなさん。比丘でも比丘尼でも、まだ五種類の心を繋ぐ物を断ち切れない出家は誰でも、その出家の日夜は当然すべての善の衰退を期待できる状態で過ぎて行き、発展を望むことはできません。下半月の日々は、月の色も明るくなく、円も狭く、輝きも衰え、大きさも萎んでいくのと同じです。
ヘビ使いはヘビゆえに死ぬ
比丘のみなさん。種は小さく、成長すると大木になり、成長するとたくさんの木々を覆う品種があります。成長したその木に覆われたすべての木は、当然少しずつ枯れて腐り、最後には消滅します。今言ったような木は何でしょうか。
比丘のみなさん。そのような木は菩提樹、ガジュマル、ミラック、フサナリイチジク、カッチャカ、そしてカピッダナです。これは、種は小さいけれど成長すると大木になり、当然たくさんの木を覆い、その大木に覆われた木は大きく折れ、小さく折れ、最後には腐って絶滅します。
比丘のみなさん。同じように世界の良家の子息がすべての愛欲の中の何かを捨てて家を出て、出家して家に関わらない人になり、その出家は、反対に今までどおりの愛欲、あるいは(大変なことになると知らないで集めた)以前より悪い愛欲で粉々にされ、梵行から脱落しなければなりません。
敵である比丘
比丘のみなさん。この五つの状態がある比丘である友は、誰もが付き合うべきでない人です。五つとは何でしょう。五つとは、
(1)その比丘は、他人を仕事に使うのが好きで、
(2)よく問題を起こし、
(3)先生レベルの長老たちに敵対し、
(4)目的もなく遠くへ遊びに行き、
(5)ふさわしい時間にタンマを説き、誘い、励まし慰め、楽しませる能力がありません。
比丘のみなさん。このような五つの状態がある比丘である友人は、誰も付き合うべきではありません。
彷徨好きな病気
比丘のみなさん。この五つの害は、当てもなく遠くへ行くのが好きな人の害です。五つは何でしょうか。五つは、
(1)彼は当然まだ到達していないものに到達せず、
(2)当然既に到達したものも衰退し、
(3)到達しても何かに熟達した人でなく、
(4)なるのは人生を困難にする病気だけで、
(5)そして友人がいない人です。
比丘のみなさん。この五つの害は、目的もなく遠くへ行くのが好きな人の害です。
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