ブッダヴァチャナの宝石箱

第三章 栄誉と貰い物について




財宝を指差す人


 アーナンダ。

 私は、土鍋屋がまだ(成形したばかりの)濡れている柔らかい土鍋を扱うように、

 あなたたちを大事にする努力はしません。

 アーナンダ、私は休まず叱ります。

 アーナンダ、私は休まず咎めます。

 本質である道果がある人は耐えられます。

(中部ウパリパンナーサ マハースンニャタースッタ14巻245頁356項)



 私たちは、常に叱ってくれ、

 常に罰を与えてくれる智慧のある人は誰でも、

 「その人は宝を指さす人だ。こういう知識者とつき合うべきだ。

 このような知識者とつき合えば良いことばかりで、悪いことは何もない」

 と見なければなりません。

 (小部ダンマパダ バンディタヴァッガ 24巻25頁16項)







貰い物の魔力

パーリ・ブッダバーシタ
相応部 ニダーナヴァッガ 三蔵16巻278頁573項
サーヴァディーに近い祇園精舎にて

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、最高の努力から生じたこの上なく安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。
 比丘のみなさん。貰い物と称賛の誘惑を知らず、下賤な罪を知らず、脱す方法である方便を真実のままに知らないサマナ・バラモンは、素晴らしい智慧で明らかにして静かさに至る行動はできません。

 比丘のみなさん。貰い物と事実である称賛について、生じさせる原因を知らず、消滅を知らず、誘惑を知らず、下賤な害を知らず、脱す方法である方便を知らなければ、そのサマナ・バラモンは素晴らしい智慧で明らかにして、静かさに到達する行動はできません。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛を知らず、貰い物や称賛の原因を知らず、貰い物と称賛の消滅を知らず、貰い物と称賛を消滅させる方法を知らなければ、それらのサマナ・バラモンは、素晴らしい智慧で明らかにし、そして静かさに至る行動はできません。


 比丘のみなさん。頑健な男が粗い刃のある紐をスネに巻きつけて何度も擦ると、その紐は当然皮を切り、皮を切れば当然肌を切り、肌を切れば当然肉を切り、肉を切れば当然腱を切り、腱を切れば当然骨を切り、骨を切れば当然骨髄で止まります。比丘のみなさん。貰い物と称賛も、同じように当然皮を切り、皮が切れれば当然肌が切れ、肌が切れれば当然肉が切れ、肉が切れれば当然腱が切れ、腱が切れれば当然骨が切れ、骨が切れれば、当然骨髄で止まります。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、最高の努力から生じたこの上なく安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。だからこのことは、みなさん。「私は貰い物と生じた称賛に未練はない。更に貰い物と生じた称賛が、私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。





ライ病の犬

パーリ・ブッダバーシタ
 相応部ニダーナヴァッガ 16巻270頁553項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、最高の努力から生じたこれの上なく安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で乱暴で、打ちのめされるような危険です。比丘のみなさん。昔あった話です。みなさん、住んでいる狐を、今日の明け方見ましたか。

 「見ました。猊下」。

 比丘のみなさん。あの狐はライ病で、地面を走っても気分が悪く、木の根元にいても気分が悪く、外にいても気分が悪く、どこへ行っても、どこにいても、どこに座っても、そこで苦を味わうだけです。

 比丘のみなさん。この宗教のある比丘も同じで、貰い物と称賛に支配されれば、心がそれから離れなくなり、空き家に行っても気分が悪く、木の根元に行っても気分が悪く、野外にいても気分が悪く、彼はどこにいても、どこに座っても、どこに寝ても、そこで苦を味わうだけです。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、これに勝るダンマはない努力から生じた安全なダンマである涅槃への到達にとって、このように残酷で下品で打ちのめされるような危険です。だからこのことは「私は貰い物や生じた称賛に未練はない。更に、貰い物と生じた称賛が私の心を支配することがあってはならない」と、このように注意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。





モリが刺さったカメ

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部ニダーナヴァッガ 16巻267頁542項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、これ以上のダンマはない、努力から生じた安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。以前にあった話です。ある深い渕の中に、(長い間)同じ種類のカメが群れになってたくさん棲んでいました。その時一匹のカメがもう一匹のカメの巣を訪ねて行って、「カメさんや。あっちの方へ餌を獲りに行っちゃいけないよ」と言いました。

(二番目の)カメが忠告に逆らってそこへ行くと、猟師に見つかってモリで突かれました。しばらくして(二番目の)カメが(最初の)カメの住まいを訪ねると、(最初の)カメは(二番目の)カメが遠くから歩いて来るのを見て、「カメさんや。あんた、あっちの方へ餌を探しに行かなかったかい」と声を掛けました。

 「カメさん。行っちまったよ」。

 「どうだったね、カメさん。刺されたり叩かれたりしなかったかい」。

 「カメさん。刺されて叩かれちまったよ。ほら、モリの紐がまだ背中にくっ付いているだろう」。

 「カメさんや。刺されても叩かれてもいい気味だよ。あんたの親父も祖父さんもこのモリの紐で苦しんで死んだんだよ。今はあんたも行ってしまった。もうあんたは俺たちの仲間じゃない」。

 比丘のみなさん。「漁師」とは「罪のある悪魔」の、「紐付きモリ」は「貰い物と称賛」の、「紐」は「ナンディラーガ=夢中になって望むこと。喜貪」の代名詞です。比丘のみなさん、私は、貰い物と称賛を美味しいと思って夢中になっている比丘、あるいは欲しくて奔走している比丘は、モリの紐で苦しみ、罪のある悪魔次第で死に至る比丘と言います。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じたこれ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。だからこのことはみなさん。「私は貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に貰い物と生じた称賛が、私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように注意しなければなりません。





釣り針を飲み込んだ魚

パーリ・ブッダバーシタ 
相応部ニダーナヴァッガ 16巻266頁538項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じたこれ以上のダンマはない安全なダンマである、涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。釣り人が餌のついた釣り針を深い渕に投げ込むと、餌を喰うことだけを考えている魚は、釣り針を飲み込みます。釣り針を飲み込んだ魚は、漁師次第で、当然死ぬまで苦しみます。

 比丘のみなさん。「釣り人」とは「罪のある悪魔」の、「釣り針」は「貰い物と称賛」の代名詞です。比丘のみなさん、貰い物と生じた称賛を美味いと感じて虜になっている比丘、あるいは欲しくて身悶えしている比丘は誰でも、その比丘は悪魔の釣り針を飲み込んで、釣り人次第で死ぬまで苦しむと私は言います。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じた、これ以上のダンマはない幸福なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。だからこのことはみなさん。「私は貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に、貰い物と生じた称賛が、私の心を支配することがあってはならない」と、このように注意しなければなりません。比丘のみなさん。このように注意しなければなりません。





大便を食べる人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻269頁547項

 比丘。貰い物と称賛は、これに勝るダンマはない努力から生じた安全なダンマである涅槃への到達にとって、残酷で下品で、打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。大便を食べるカンサラカ(糞を食べる動物の名)のように大便で満腹し、腹は大便で膨れ、その上、それの前には大きな大便の山があります。だからそれは「私は食べ物である大便があり、大便で満腹し、大便で腹が膨れ、更に私の前には大きな大便の山がある。他のカンサラカは徳が少なく、名誉が少なく、大便の貰い物が豊かでない」と、このように他のカンサラカを軽蔑します。

 比丘のみなさん。この宗教の比丘にもそのような人がいます。貰い物と称賛に支配されて、心がそれから離れられなくなり、朝チーヴァラ(衣)をまとって鉢を持ち、その村や町へ托鉢に行って、そこで満足して満腹するまで食べます。彼は翌日の食事にも招待され、食べ物も鉢いっぱい持ち帰ります。

 比丘のみなさん。寺に戻ると比丘仲間の中で、(カンサラカのように)「私はお腹いっぱい満足するまで食べた。その上明日の食事にも招待され、食べ物も鉢いっぱい持ち帰った。私はチーヴァラや托鉢や住まいや医薬品八物(註)が豊富にある。他の比丘は徳が少なく、積んだ徳の威力が小さいので、チーヴァラや托鉢や住まいや医薬品八物が豊富でない」と、このように冗舌になります。

 比丘のみなさん。その比丘は貰い物と称賛に支配されて、心がそれから離れなくなり、当然戒を愛している他の比丘を軽蔑します。比丘のみなさん。その種の無益な人の貰い物は、当然苦になり、無益で、永遠に援けになりません。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じたこれ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。だからこのことは、みなさん。「私は貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に、貰い物と生じた称賛が、私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。

註: 個人所有を許されている物。下衣、中衣、外衣、鉢、剃刀、縫い針、腰帯、水を濾す筒




茨の藪に引っ掛かった人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻268頁545項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じたこれに勝るダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、下品で残酷で打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。毛の長いヤギが茨の藪に入り、そこに絡まって巻き付いて苦しんで死んでいるように、比丘のみなさん、この宗教の比丘のある人は、貰い物と称賛に支配され、心がそれから離れなくなり、朝チーヴァラ(衣)をまとって鉢を持ち、村や町に托鉢に行くと、そこに引っ掛かり、そこに関わって、そこで苦や破滅を受け取ります。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じたこれ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。だからこのことは、「私は貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に貰い物と生じた称賛が、私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。





槍の毒を浴びた人

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻270頁551項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じた、これ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、下品で残酷で打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。毒を塗った槍は誰を突き刺すでしょうか。貰い物と称賛は、まだ勉強しなければならない人、まだ自分が期待するものの終わりに到達していない比丘を追い掛けて来ます。比丘のみなさん。槍とは、貰い物と称賛の代名詞です。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、これ以上のダンマはない努力から生じた安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。

 だからこのことは、「私は貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に貰い物と生じた称賛が、私の心を覆う支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。





落雷

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻270頁549項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、これ以上のダンマはない努力から生じた安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。赤く輝く雷は、落ちて誰の頭に当たるでしょうか。比丘のみなさん。貰い物と称賛は、まだ勉強しなければならない、自分が望むものの終わりに到達していない比丘を追って来ます。比丘のみなさん。赤々と燃えている落雷は、貰い物と称賛の代名詞です。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、これ以上のダンマはない努力から生じた安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。

 だからこのことは、「私は貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に貰い物と生じた称賛が、私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。


 


ヴェーラムバー風

パーリ・ブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻271頁555項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じた、これ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。ヴェーラムバー(ジェット気流)という風は上空にだけ吹いている風です。そこまで飛んで行った鳥はその風に吹き飛ばされます。その風に吹き飛ばされれば、鳥の脚は一方へ吹き飛ばされ、翼はもう一方へ吹き飛ばされ、頭はもう一方へ吹き飛ばされ、体はもう一方へ吹き飛ばされます。

 比丘のみなさん。この宗教のある比丘も同じで、彼は貰い物と生じた称賛に支配され、心がそれから離れられなくなり、朝チーヴァラ(衣)を纏って鉢を持ってその村や町へ托鉢に行き、体を維持せず、言葉を維持せず、心を維持せず、サティを持たず、根に注意しません。

 比丘のみなさん、その比丘はその土地の女性が悪をまとっているのを見ます。女性が悪をまとっているのを見ると、彼の心は欲情に突き刺され、心が欲情に刺されると、学習を返上して(還俗し)在家の低い生活に戻ると言います。比丘のみなさん。彼のチーヴァラ(三衣)はある比丘たちに、鉢はある比丘たちに、座布団はある比丘たちに、針箱はある比丘たちにと、ヴェーラムバー風に吹き飛ばされて飛散する鳥の体のようにバラバラになります。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、これ以上のダンマはない努力から生じた安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。だからこのことは、「私たちは、貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に、貰い物と生じた称賛が、私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。





潰された猛犬の子

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ニダーナヴァッガ 16巻284頁593項

 比丘のみなさん。プラデーヴァダッタたちに生じた貰い物と称賛を喜んではいけません。アジャータサットルー王子が朝夕五百台の車と五百膳の食事で支援している間、その間中プラデーヴァダッタが望めるのはすべての善の衰退だけで、発展は望めません。

 比丘のみなさん。猛犬の子犬の鼻を押し潰せば、その子犬はその行為によって以前より獰猛になります。同じように比丘のみなさん。アジャータサットルー王子が昼も夜も五百台の車と、五百の膳を届けてプラデーヴァダッタを支援している間中、プラデーヴァダッタが望めるのはすべての善の衰退だけで、発展は望めません。

 比丘のみなさん。貰い物と生じた称賛は、これ以上のダンマはない努力から生じた安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。だからこのことは、「私は、貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に貰い物と生じた称賛が私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。





貰い物に溺れた人の破滅

パーリ・ブッダバーシタ
増支部ニダーナヴァッガ 16巻282頁582項

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じたこれ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。

 比丘のみなさん。プラデーヴァダッタは貰い物と称賛に支配され、心がそれから離れられなくなってサンガを破壊します。

 比丘のみなさん。プラデーヴァダッタは貰い物と称賛に支配され、心がそれから離れられなくなって、彼の善であるダンマの根(ね)はなくなります。

 比丘のみなさん。プラデーヴァダッタは貰い物と称賛に支配され、心がそれから離れなくなって、彼の純白なダンマは消滅します。

 比丘のみなさん。貰い物と称賛は、努力から生じたこれ以上のダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、残虐で下品で打ちのめされるような危険です。

 だからこれは、「私は、貰い物あるいは生じた称賛に未練はない。更に貰い物と生じた称賛が私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません。





自らを殺すために実をつける

パーリブッダバーシタ
相応部ニダーナヴァッガ 16巻283頁586項

 比丘のみなさん。プラデーヴァダッタに生じた貰い物と称賛は、自分を殺すため、自分を破滅させるためです。

 比丘のみなさん。バナナが実をつける時は自分を殺すため、自分を破滅させるために実がなるように、比丘のみなさん。プラデーヴァダッタに生じた貰い物と称賛は、自分を殺すため、自分を破滅させるためです。

 比丘のみなさん。竹に実が成る時は自分を殺すため、自分を破滅させるためのように、比丘のみなさん。プラデーヴァダッタに生じた貰い物と称賛は、自分を殺すため、自分を破滅させるためです。

 比丘のみなさん。芦に実が成る時は自分を殺すため、自分を破滅させるためのように、比丘のみなさん。プラデーヴァダッタに生じた貰い物と称賛は、自分を殺すため、自分を破滅させるためです。

 比丘のみなさん。雌のアッサダーラ馬(雄ロバと雌馬の子)が孕むのは自分の死のため、自分の破滅のためのように、比丘のみなさん。プラデーヴァダッタに生じた貰い物と称賛は、自分を殺すため、自分の破滅のためです。

 比丘のみなさん。貰い物と生じた称賛は、努力から生じたこれに勝るダンマはない安全なダンマである涅槃への到達にとって、このように下品で残酷で打ちのめされるような危険です。

 だからこのことは、「私は貰い物、あるいは生じた称賛に未練はない。更に貰い物と生じた称賛が、私の心を支配することがあってはならない」と、このように留意しなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めなければなりません」。

 世尊はこのように言われ、スガタ(良く行った)教祖は次のように復唱なさいました。

 「バナナの実はバナナの木を殺し、竹の実は竹を殺し、芦の実は芦の木を殺し、アッサダーラ馬の胎内の子が母を殺すように、貰い物は当然悪人を殺します」。






著作目次へ ホームページへ 次へ