財宝を指差す人
アーナンダ。
私は、土鍋屋がまだ(成形したばかりの)濡れている柔らかい土鍋を扱うように、
あなたたちを大事にする努力はしません。
アーナンダ、私は休まず叱ります。
アーナンダ、私は休まず咎めます。
本質である道果がある人は耐えられます。
(中部ウパリパンナーサ マハースンニャタースッタ14巻245頁356項)
私たちは、常に叱ってくれ、
常に罰を与えてくれる智慧のある人は誰でも、
「その人は宝を指さす人だ。こういう知識者とつき合うべきだ。
このような知識者とつき合えば良いことばかりで、悪いことは何もない」
と見なければなりません。
(小部ダンマパダ バンディタヴァッガ 24巻25頁16項)
四方に引っ張られる人
比丘のみなさん。律儀(抑制して防止すること)のない比丘はどうでしょうか。
比丘のみなさん。この場合の比丘は、目で形を見、耳で声を聞き、鼻で臭いを嗅ぎ、舌で味を見、体で触れ、心で考えを感じた時、可愛いらしいい感情(訳註1)に平伏し、嫌いな感情に憤る至身念(訳注2)を維持しない人であり、感情と一緒に漂う心があり、その人に生じた悪である罪を完全に消滅させるチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(慧解脱)を真実のままに知りません。
比丘のみなさん。例えば棲む場所が違い、生活する場所が違う六種類の動物を捕まえて丈夫な紐で繋いでおいて、つまりヘビを掴まえて丈夫な紐で縛り、ワニを捕まえ小鳥を捕まえ犬を捕まえ、狐を捕まえ猿を捕まえてそれぞれを丈夫な紐で繋いで、全部の紐を一つに結わえて放します。
比丘のみなさん。その時それらの動物はそれぞれ棲む場所や餌を探す場所が違うので、ヘビはシロアリの塚に入ろうとし、ワニは水へ入ろうとし、小鳥は空へ飛び立とうとし、犬は里へ行こうとし、狐は墓地へ行こうとし、猿は森へ行こうとし、自分の棲み処や餌場へ行くために引っ張り合います。六種類の動物が疲れ切った時、他の動物より力のある動物が他の動物を引っぱって行きます。
比丘のみなさん。同じように身至念の練習をたくさんしない比丘は、目はその比丘を気に入った形へ引っぱり、気に入らない形は彼をぞっとさせる物になり、耳はその比丘を美しい音の方へ引っ張り、聞き苦しい音は彼をぞっとさせる音になり、鼻はその比丘を芳しい物の方へ引っぱり、嗅ぎたくない臭いは彼をぞっとさせる臭いになり、
舌はその比丘が喜ぶ味の方へ引っぱり、喜べない味は彼をぞっとさせる味になり、体はその比丘を魅惑する接触の方へ引っぱり、魅惑しない接触は彼をぞっとさせる接触になり、心はその比丘を気に入った考えに引っぱり、気に入らない考えは彼をぞっとさせる考えになります。
比丘のみなさん。律儀(抑制)のない比丘はこのようです。
訳註1:心が捉えている物。心の中の概念。心の中身。
訳注2:体が不浄であることを思い出していること。カーヤガタサティ。
ネズミゆえに死ぬ猫
比丘のみなさん。以前にあった話です。家の塀際のゴミ捨て場の穴の近くで、子ネズミが餌を探しに出て来たら捕まえて喰ってしまおうと期待して、ネズミを待ち伏せしている猫がいました。
比丘のみなさん。その時子ネズミが餌を探しに出て来たので、猫が素早く捕まえて(生きたまま)呑み込むと、子ネズミは猫の腸に噛みついたり、腸の端に噛みついたりしたので、猫はネズミに噛まれたことが原因で死に至り、あるいは死ぬほどの苦を味わいました。
比丘のみなさん。同じようにこの場合の比丘は、朝チーヴァラ(衣)を身につけ鉢を持って、集落や町へ托鉢に行くと、体を維持せず、言葉を維持せず、心を維持せず、サティを維持せず、すべての処入(根)に集中せず、その集落あるいは町の女性が悪をまとっているを見ます。女性が悪をまとっているのを見ると情欲がその人の心を突き刺します。その比丘の心は情欲に刺されることで当然死に至るか、あるいは死ぬほどの苦を味わいます。
比丘のみなさん。「アリヤヴィナヤ(聖なる律という意味で、ブッダの教団を指す)での死ぬ」とは、「ダンマの学習を止めて在家の低い暮らしに戻る」と言う人です。「死ぬほどの苦」とは、カンマの生活規則で罪から出なければならないほど、非常に憂欝な何らかの戒に触れる人です。
徳が生れない田
比丘のみなさん。五つがある王の象は、王にふさわしくない象であり、王の乗り物でなく、王と共にバーラミーを積むと見なされません。五つとは何でしょうか。五つとは、この場合の王の象はすべての形に堪えられず、すべての声に堪えられず、すべての臭いに堪えられず、すべての味に堪えられず、すべての触に堪えられない王の象です
比丘のみなさん。すべての形に堪えられない王の象はどんな象でしょうか。みなさん。この場合の王の象は、戦場に出ると、騎象隊でも、騎馬隊でも、戦車隊でも、(敵側の)居並んだ軍勢でも、それらを見ると怖気づいて後ずさりし、前線に出ることができません。比丘のみなさん、このような象を「すべての形に堪えられない王の象」と言います。
比丘のみなさん。すべての声に堪えられない王の象はどのような象でしょうか。比丘のみなさん。この場合の王の象が戦場に出て、騎象隊でも、騎馬隊でも、戦車隊でも、(敵側の)居並んだ軍勢でも、鳴り響く陣太鼓やホラ貝や鉦の音などを聞くと、怖気づいて後ずさりし、戦場に出ることができません。比丘のみなさん、このような王の象をすべての音に堪えられない象と言います。
比丘のみなさん。すべての臭いに堪えられない王の象はどのような象でしょうか。みなさん。この場合の王の象が戦場に出て、先頭にいる百戦錬磨の王の象の大小便の臭いを嗅ぐと、怖気づいて後ずさりし、戦場に出ることができません。比丘のみなさん。このような象をすべての臭いに堪えられない王の象と言います。
比丘のみなさん。すべての味に堪えられない王の象はどのような王の象でしょうか。みなさん。この場合の王の象が戦場に出て、一食か二食、三食、四食、あるいは五食の餌と水が貰えないと、尻込みして後退してしまい、闘うことができません。比丘のみなさん。このような象をすべての味に堪えられない王の象と言います。
比丘のみなさん。すべての触に堪えられない王の象はどんな王の象でしょうか。みなさん。この場合の王の象が戦場に出て、敵が素早く射た一本、あるいは二本、三本、四本、あるいは五本の矢が刺さると、怖気づいて後退し、戦場に出られません。比丘のみなさん。このような象を、すべての触に堪えられない王の象と呼びます。
比丘のみなさん。同じように五つの理由がある比丘は、崇拝する物にふさわしくなく、迎える物にふさわしくなく、徳を積む物にふさわしくなく、合掌するにふさわしくない人で、社会にとって素晴らしい徳の田ではありません。その五つの理由は何でしょうか。五つの理由とは、この場合の比丘はすべての形に堪えられず、すべての声に堪えられず、すべての臭いに堪えられず、すべての味に堪えられず、すべての触に堪えられない人です。
比丘のみなさん。すべての形に堪えられない比丘とはどんな人でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は目で形を見ると喜びの基盤である形が気に入り、心を(好きでも嫌いでない)中間にすることができません。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての形に堪えられない比丘と言います。
比丘のみなさん。すべての音に堪えられない比丘とはどんな人でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は耳で声を聞くと、喜びの基盤である声が気に入り、心を中間にすることができない人です。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての声に堪えられない比丘と言います。
比丘のみなさん。すべての臭いに堪えられない比丘とはどんな人でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は鼻で臭いを嗅ぐと、喜びの基盤である臭いが気に入り、心を中間にすることができない人です。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての臭いに堪えられない比丘と言います。
比丘のみなさん。すべての味に堪えられない比丘とはどんな人でしょうか。みなさん。この場合の比丘は、舌で味を味わうと、喜びの基盤である味が気に入り、心を中間にすることができない人です。比丘のみなさん。このような比丘をすべての味に堪えられない比丘と言います。
比丘のみなさん。すべての触に堪えられない比丘とはどんな人でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は体で触を感じると喜びの基盤である触を気に入り、心を中間にすることができない人です。比丘のみなさん。このような比丘を、すべての触に堪えられない比丘と言います。
この五つの要素がある比丘は当然お供え物にふさわしくなく、迎える物にふさわしくなく、徳を積む物にふさわしくなく、合掌されるにふさわしくない人で、世界の素晴らしい徳の田ではありません。
埃を見ただけで魂消る
比丘のみなさん。ある種の武士は(敵の軍隊が舞上げる)埃を見ただけで魂消て怯え、震える心を抑えることができず、闘うことができません。武士の中にはこのような武士もいます。この種の武士も世界にいます。
このような武士に譬えられる出家も、比丘集団にいます。比丘集団で探すことができます。この場合の比丘は埃を見ただけで魂消て怯え、恐ろしさで心を抑えることができず、梵行を続けることができないで梵行をする気力がないことを表明し、在家の低い生活に戻ると言います。
その比丘にとって「埃」とは何でしょうか。比丘のみなさん。この場合、比丘が「村や町の娘や若い主婦は姿形が美しくて目の保養になる。非常に可愛いくてツヤの良い肌をし、非常に良いスタイルをしている」と聞くことです。
その比丘はその噂を聞いただけですっかり怯え、心が震えるのを抑えることができず、梵行を続けることができないで梵行をする気持ちが萎えたことを表明し、俗人の低い生活に戻ると言います。美人の噂を聞いたことが、その比丘にとって「埃」です。
比丘のみなさん。その武士が(敵軍が舞上げる)埃を見ただけで魂消て怯え、心が震えるのを抑えることができず、闘えないように、比丘のみなさん。この場合の出家はその種の武士に譬えられると、私は言います。比丘のみなさん。このような一番目の武士のような出家は、比丘集団にいます。比丘集団で探すことができます。
敵の勝利の旗の先端を見ただけで魂消る
比丘のみなさん。ある種の武士は埃に堪えることはできますが、敵の勝利の旗の先端を見るだけで魂消て怯え、心を抑えることができないほど動揺して闘うことができません。この場合のこのような武士は二番目の武士で、世界にい、世界で探すことができます。
比丘のみなさん。このような武士に譬えられる出家も比丘の中にい、比丘の中で探すことができます。この場合の比丘は、埃に堪えることはできますが、「敵の勝利の旗の先端」を見ただけで怖気づいて憂鬱になり、心を抑えることができないほど怯えて、梵行を続けることができず、ダンマを学習する気力を失ったことを表明し、還俗して在家の低い生活に戻ると言います。
その人にとって「敵軍の勝利の旗の先端」とは、何でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、先ほどの噂を聞くだけでなく、美しい容姿で、肌とスタイルが最高に美しく、目を楽しませる娘や主婦を自分自身で見ます。
その美しい女性を見ると怖気づいて苦悩し、心を抑えることができないほど怯えて、梵行を維持することができず、ダンマを学習する気力を失ったことを表明し、還俗して在家の低い生活に戻ると言います。この比丘にとって美人を見ることが「敵軍の勝利の旗の先端」です。
比丘のみなさん。埃に堪えることはできますが、敵軍の勝利の旗の先端を見ただけで怖気づいて苦悩し、心を抑えることができないほど怯えて、闘うことができない武士のようです。比丘のみなさん。この出家は、その種の武士に譬えられると私は言います。比丘のみなさん。この場合の二番目の武士に譬えられる出家は比丘の集団にい、比丘集団で探すことができます。
敵の雄叫びを聞いただけで魂消る
比丘のみなさん。ある種の武士は埃に堪えることができ、勝利の旗の先端に堪えることもできますが、敵軍の雄叫びを聞いただけで怖気づき、心を抑えることができないほど怯えて闘うことができません。このようなこの場合の武士は三番目の武士で、世界にいて、世界で探すことができます。
比丘のみなさん。このような武士に譬えられる出家も比丘集団にいます。比丘集団で探すことができます。この場合の比丘は「埃」に堪え、「敵の勝利の旗の先端」にも堪えられますが、「敵の雄叫び」を聞いただけで怖気づいて苦悩し、心を抑えることができないほど怯えて梵行を続けることができず、学習する気力を失ったことを表明し、還俗して在家の低い生活に戻ると言います。
この比丘にとって「敵の雄叫び」とは何でしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、森や木の根元や空き家に住んでいて、クスクス笑い、大声で笑い、からかって楽しそうに誘う女性がいると、その比丘は怖気づいて苦悩し、心を抑えられないほど怯えて梵行を続けることができず、学習する気力を失ったことを表明し、還俗して在家の低い生活に戻ると言います。この比丘にとって女性の誘惑が「敵の叫び声」です。
比丘のみなさん。埃に堪え、勝利の旗の先端にも堪えられますが、敵の歓声を聞いただけで魂消て苦悩し、心を抑えることができないほど怯えて闘うことができないこの種の武士に譬えられる人がいます。比丘のみなさん。この場合の出家は三番目の武士に譬えられる出家で、比丘集団にい、比丘集団で探すことができます。
戦闘を始めたばかりで魂消る
比丘のみなさん。ある種の武士は埃に堪え、勝利の旗の先端に堪え、敵の雄叫びに堪えることができても、戦い始めただけで降参します。この場合のこのような武士は四番目の武士で、世界にい、世界で探すことができます。
比丘のみなさん。このような武士に譬えられる出家も比丘集団にいて、比丘集団で探すことができます。この場合の比丘は「埃」に堪え、「敵の勝利の旗の先端」に堪え、「歓声」に堪えることができますが、戦闘が始まると降参します。その比丘にとって「戦闘」とは何でしょうか。
比丘のみなさん。比丘は森や木の根元や空き家に住んでいますが、近寄って押して座り、押して寝、重なって座り、重なって寝る女性がいます。そのような行動をされると、梵行を返上すると言う前に、梵行を続ける意志がないと表明する前に交合します。このような行動をされることがその比丘にとって「戦闘」です。
比丘のみなさん。埃に堪え、旗の先端に堪え、敵の歓声に堪えることもできますが、戦闘を始めたばかりで降参する武士と同じです。比丘のみなさん。この出家はその種の武士に例えられると私は言います。比丘のみなさん。この場合の四番目の武士に譬えられる出家は、比丘集団にい、比丘集団で探すことができます。
即死する人
比丘のみなさん。ある武士は刀と盾を持ち、弓と矢筒を差して前線で必至で戦いますが、敵は必死で戦う彼を殺します。比丘のみなさん。このような武士は一番目の武士で、世界にいます。世界で探すことができます。
比丘のみなさん。この種の武士に譬えられる出家も比丘集団にいます。この場合の比丘はどこかの集落や町に住んでいて、朝チーヴァラ(衣)を着て鉢を持って、托鉢のためにその集落や町に行くと、体を維持せず、言葉を維持せず、心を維持せず、サティがなく、すべての根に注意せず、集落や町の女性が悪をまとっているのを見ます。
女性が悪をまとっているのを見ると、彼の心は欲情に突き刺されます。その比丘は欲情に突き刺され、梵行を止めると言う前に、修行をする気力がないと表明する前に交合します。
比丘のみなさん。刀と盾を持ち、矢と矢筒を差して身に迫った闘いに加わり、必死で闘い、必死で戦っている時に敵に殺された武士と同じです。比丘のみなさん。その出家は戦場で死んだ武士に譬えられると私は言います。比丘のみなさん。このような一番目の武士に譬えられる出家が比丘集団にいます。比丘集団で探すことができます。
途中で死ぬ人
比丘のみなさん。この場合の武士は、刀と盾を持ち、矢と矢筒を差して目前の戦いに加わって必死で闘い、必死で戦っている時に敵に斬られ、満身創痍になり、仲間が彼を親族に引き渡すために戦場から運び出し、親族が一族の屋敷に連れ戻る前に、彼は途中で死にます。比丘のみなさん。このような武士は二番目の種類の武士で、世界にいます。世界で探すことができます。
比丘のみなさん。この種の武士に譬えられる出家も、比丘集団にいます。比丘集団で探すことができます。この場合の比丘はどこかの集落や町に住んでいて、朝チーヴァラ(衣)を纏って鉢を持ち、托鉢するためにその集落や町へ行き、その集落や町の女性が悪を纏っているのを見、女性が悪を纏っているのを見ると、彼は欲情に突き刺されます。
その比丘は心が欲情に刺されて体がカッカし、心がイライラして「止めよう。お寺へ帰ろう。『先輩方、私は欲情に炙られました、欲情に支配されました、私はこれ以上梵行を続けることができないので、梵行する気力を失ったと表明し、梵行を止めて、還俗して在家の低い生活に戻ります』とみんなに言おう」と考えます。その比丘はお寺へ帰り着く前に、途中で梵行をする気力がないことを表明し、梵行を止めて在家の低い生活に戻ると言います。
比丘のみなさん。刀と盾を持って、矢と矢筒を差して目前の戦いに加わり、必死で闘っている時満身創痍になり、仲間が親族に引き渡すために戦場から運び出して、親族が屋敷に連れ帰る前に途中で死んでしまう武士と同じです。比丘のみなさん。この出家は、途中で死んだ武士に譬えられると私は言います。比丘のみなさん。このようなこの場合の出家は、二番目の武士に譬えられる出家で、比丘集団にいます。比丘集団で探すことができます。
家で死ぬ人
比丘のみなさん。ある武士は刀と盾を持ち、矢と矢筒を差して目前の戦いに参加して必死に闘い、必死で戦っている時敵に斬り付けられて満身創痍になり、仲間が彼を親族に引き渡すために戦場から運び出し、親族が一族の屋敷に連れ帰って傷の手当てをします。
親族が傷の手当てをしても、彼はその傷が原因で死にます。比丘のみなさん。このような武士は、三番目の種類の武士で、世界にいます。世界で探すことができます。
比丘のみなさん。この武士に譬えられる出家も比丘集団にいます。比丘集団で探すことができます。この場合の比丘は、どこかの集落か町に住んでいて、朝チーヴァラ(衣)をまとって鉢を持ち、托鉢をするためにその集落や町に入り、体を維持せず、言葉を維持せず、心を維持せず、サティを維持せず、すべての根に注意しないでその集落や町の女性が悪を纏っているのを見ます。女性が悪を纏っているのを見ると、彼の心は欲情に突き刺されます。
その比丘は心が欲情に刺されると体がカッカし、心がイライラして「止めよう。お寺へ帰ろう。『先輩方、私は欲情に炙られました、欲情に支配されました、私はこれ以上梵行を続けることができないので、梵行する気力を失ったと表明し、梵行を止めて還俗し、在家の低い生活に戻ります』とみんなに言おう」と考えます。
その比丘はお寺へ帰り着くと、比丘全員に「先輩方。私は欲情に炙られ、欲情に支配されました。私はこれから梵行をすることはできないので、梵行をする気力がないことを表明し、梵行を止めて在家の低い生活に戻ると言わなければなりません」と言います。
一緒に梵行をしてきた仲間は、彼にサティを持つよう忠告し、「先輩。世尊は『愛欲の旨味は少なく苦が多い。困ったことが多い。愛欲の害は思いの他多い。愛欲の問題はすべて骨の一節、肉の欠片、草の松明、燃える炭の穴、夢、借り物、果物、挽肉用のまな板、槍と鉾、毒ヘビの頭などと同じ。それらは旨味が少なく苦が多く、困ったことが多い。愛欲による害は非常に多いから』とおっしゃっています。
どうそ先輩。梵行を喜んでください。先輩。修行に失望して、止めて在家の低い暮らしに戻るとおっしゃらないでください」と、考えを変えるよう忠告します。
その比丘は、共に梵行をしてきた仲間がこのようにサティを持つよう忠告し、このように出口が見え、考えを変えるよう指導しても、「先輩のみなさん。世尊が『すべて愛欲は旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲による罪は非常に多い』とおっしゃっているのは事実ですが、それでも私は今後梵行をすることはできません。梵行をする気力がないので、梵行を止めて在家の低い生活に戻ると言わなければなりません」と、このように言い張ります。
結局その比丘は梵行をする気力を無くしたことを表明し、学習を止めて在家の低い生活に戻ると言います。
比丘のみなさん。刀と盾を持ち、矢と矢筒を差して差し迫った戦いに加わり、必死に闘い、必死で戦っている時に敵に斬り付けられ、満身創痍になり、仲間が彼を親族に引き渡すために戦場から運び出し、親族たちは一族の屋敷に連れ帰って傷の手当てをしますが、親族が傷の手当てをしている最中に、その傷が原因で死んだ武士と同じです。
比丘のみなさん。その出家は、親族の家で死んだ類の武士に譬えられると、私は言います。比丘のみなさん。このようなこの場合の出家は、三番目の武士に譬えられる出家で、比丘集団にいます。比丘集団に見られます。
命拾いをする人
比丘のみなさん。ある武士は刀と盾を持ち、矢と矢筒を差して目前の戦いに参加し、必死に闘い、必死で戦っている時に敵に斬られ、満身創痍になり、仲間が彼を親族に引き渡すために戦場から運び出し、親族たちが一族の屋敷に連れ帰って傷の手当てをします。親族の手当によって彼の傷は快癒します。比丘のみなさん。このようなこの場合の比丘は、四番目の武士で、世界にいます。世界で探すことができます。
比丘のみなさん。この武士に譬えられる出家も比丘集団にいます。比丘集団で探すことができます。この場合の比丘はどこかの集落や町に住んでいて、朝チーヴァラ(衣)をまとって鉢を持ち、托鉢をするためにその集落や町に行き、体を維持せず、言葉を維持せず、心を維持せず、サティを維持せず、すべての根に注意しないので、その集落や町で女性が悪を纏っているのを見ます。女性が悪を纏っているのを見ると、欲情がその人の心を突き刺します。
その比丘は心が欲情に突き刺されて体がカッカし、心がイライラし、「止めよう。お寺へ帰って、『先輩のみなさん、私は欲情に炙られました、欲情に支配されました、私はこれ以上梵行を続けることができないので、梵行する気力を失ったことを表明して、還俗して在家の低い生活に戻ります』と言おう」と考えます。
その比丘はお寺へ帰り着くと、比丘全員に「先輩方。私は欲情に炙られ、欲情に支配されました。私はこれから梵行をすることができないので、学習をする気力がないので、学習を止めて在家の低い生活に戻ると表明しなければなりません」と言います。
一緒に梵行をしてきた仲間が、彼にサティを持つよう忠告し、「先輩。世尊は『愛欲の旨味は少なく苦が多い。困ったことが多い。愛欲の罪は思いの他多い。愛欲の問題はすべて、骨の一節、肉の欠片、草の松明、燃える炭の穴、夢、借り物、果物、挽肉用のまな板、槍と鉾、毒ヘビの頭のようだ。それらの物は旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲による罪は非常に多いから』とおっしゃっています。
どうそ先輩。梵行を喜んでください。先輩。修行に失望して、止めて在家の低い暮らしに戻るとおっしゃらないでください」と、考えを変えるように忠告します。
その比丘は、一緒に梵行をしてきた仲間がこのようにサティを持つよう忠告すると、このように出口が見え、「先輩のみなさん。私は梵行を続ける努力をし、梵行を喜びます。先輩のみなさん。今私は、学習に失望したから止めると言いません。在家の低い暮らしに戻りません」と同意します。
比丘のみなさん。刀と盾を持ち、矢と矢筒を差して目前の戦いに参加し、必死に闘い、必死で戦っている時敵に斬りつけられ、満身創痍になります。仲間が彼を親族に引き渡すために戦場から運び出して、親族たちが一族の屋敷に連れ帰り、みんなで傷の手当てをすると、親族の手当てを受けて傷が完治する武士と同じです。
比丘のみなさん。その出家は、生き延びた武士と同じと私は言います。比丘のみなさん。このようなこの場合の出家は四番目の武士に譬えられる出家で、比丘集団にいます。比丘集団に見つけることができます。
型破りで行き過ぎた人
比丘のみなさん。良家の顧問のように振る舞う比丘に五つの行動があれば、その一族全員から愛想を尽かされ、満足が消え、尊敬されず、望ましい状況でなくなります。五つとは何でしょうか。
(1)まだ親しくないのに、親しい態度をとる。
(2)任されていないことに介入する。
(3)敵側の人と付き合う。
(4)耳許でヒソヒソ話をするのを好む。
(5)お願い事が多すぎる
比丘のみなさん。良家の顧問のように振る舞う比丘にこのような五つの行動があれば、一族全員から愛想を尽かされ、不満に思われ、尊敬されず、望ましい状況でなくなります。
節操のない人
比丘のみなさん。次の五つの原因のある人は、一緒に梵行をしている友人に「その人に再び悪化しないダンマがあっても(つまり漏を消滅させた人でも)、きっと下賤な比丘に違いない」と、嫌悪や疑念を生じさせます。その五つの原因とは何でしょうか。
(1)しばしば遊女屋(風俗店)へ出入りする。
(2)しばしば未亡人の住まいに出入りする。
(3)しばしば独身女性(ハイミス)の住まいに出入りする。
(4)しばしば去勢された人の住まいに出入りする。
(5)しばしば比丘尼の住まいに出入りする。
比丘のみなさん。このような五つがある比丘は、一緒に梵行をしている友人に、「その人に再び悪化しないダンマがあっても、きっと下賤な比丘に違いない」と、嫌悪と疑念を生じさせます。
註:去勢された人というのは、当時のインドでは性の道具の一種だったと理解します。しかし中にはオカマと訳す人もいます。(前者は他人の意志によるもので、後者は自分の意志によるものと理解します)。
家に出入りするのが好きな人
比丘のみなさん。この五つの罪は、比丘が普通に良家一族を訪れる罪です。五つは何でしょうか。
(1)何も告げずに遊びに行くことで当然戒に触れる。
(2)人に聞かれない場所で女性と同座することで当然戒に触れる。
(3)人に見えない場所で女性と同座することで当然戒に触れる。
(4)女性に五六語以上法を説くことで当然戒に触れる。
(5)愛欲の考えに偏ることが当然多すぎる。
比丘のみなさん。このような五種類の罪は、比丘が普段良家を訪れることの罪です。
庶民と交わるのが好きな人
比丘のみなさん。これらの五種類の罪は、良家を訪れ、適当な時刻を過ぎても交わっていることの罪です。五種類とは何でしょうか。
(1)当然彼はしばしば女性を見、
(2)見れば体が近づくことがあり、
(3)体が近づけば親しさが生じ、
(4)親しくなれば機会が生じ、
(5)比丘の心が低くなった時、これらの結果を期待します。
つまり彼は重苦しい罪に満ちた梵行に堪えなければなりません。でなければダンマの学習を返上して在家の低い生活に戻る(還俗する)と言わなければなりません。
比丘のみなさん。この五種類は比丘が良家を訪れ、適当な時刻を過ぎても交ることの害です。
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