検事になられるみなさん。今回の私の講義は、ご存知のように「仏教の教えと実践も含めた道徳」です。この題目から、二つに分けられる話があると、当然明らかに見えます。つまり仏教と道徳で、どちらも実践法があります。この機会にみなさん、宗教と道徳と呼ぶ物の違いについて熟慮するために、時間を犠牲になさるようお誘いします。だから今日の講義のテーマは「仏教の教えと道徳」です。
一般の人は、道徳は宗教、あるいは宗教と比肩する、あるいは少なくとも宗教の一部と見るかもしれません。このように見るのは、あるいは言うのは正しいです。しかし本当の論理で言えば、宗教と道徳と呼ぶものは規則が違うので同じと見なすべきではありません。私たちは「道徳は宗教」あるいは「宗教の一部」と一般の感覚で捉えるより、理論で熟慮する手法を基準にするべきです。
ここでの道徳とは、一般の言葉で moral というものと結論するべきです。本当を言えば、この言葉についてはあまり重要ではありませんが、しっかり定義しなければ非常に厄介なので、重要です。タイ語で道徳と呼ぶものと moral は、言語としてはあまり一致しませんが、今捉えている意味としては一致しています。いずれにしても道徳という言葉について熟慮するなら、ここでもう一つの言葉、倫理学、あるいは一般に ethics というものについて熟慮していただきたいと思います。
私たちが道徳と見なしている moral という言葉は、理論よりむしろ実践に注目し、ethics の方は実践より理論に注目します。そして一般の論説に使っているethics と呼ぶものは、学生は moral philosophy と解釈し、聞くと哲学に近く、あるいは philosophy です。しかし私たちはそこまで意味を広げるべきでなく、道徳に関わる学問だけであるべきです。moral philosophy と言っても、この話に関した本を開いてみれば、いつでも ethics と入れ替えて使うことができます。
一方の moral は、直接実践規則を意味しますが、それでも時には、あるいは作家によっては、入れ替えて、あるいは混合して使うことがあります。だからここで道徳について話すのは、moral philosophy や ethics と呼ぶものを除いた moral だけについて話し、そして道徳と呼びます。
タイ語の道徳という言葉は、きちっと定義できる意味は実践規定で、ほとんどは社会に関わる平安と安楽を生じさせるための実践です。人がその結果を受け取っても、結果はほとんどは社会に注目し、大きな塊でとして一緒に受け取ります。
一方の「宗教」あるいは religion と呼ぶものは、ほとんど個人に注目します。一人の人の二つの実践行動の能力は同じではないからです。できる人は宗教の教え、あるいは宗教の実践を遠くまでできますが、道徳の方は、少なくとも誰でも同じに、あるいは等しく一定レベルまでなければならないと限定されます。
以上の理由で道徳に関わる実践規則は低いレベルにあります。つまり誰でも同じに実践できます。これは、moralと religion、ここでは道徳と宗教と呼ぶものの違いを分けて見せる必要がある一つの項目です。
次に、この二つの状態、あるいは能力の限界である部分を熟慮して見ます。
道徳と呼ぶものは、人間の道理で、あるいは望みで、必要によって人間が創ったもの、定めたものの領域にあると、即座に見えます。宗教と呼ぶものはそうではなく、それ以上で、直接真実である領域、あるいは状態でなければならず、隠された自然、あるいは私たちが理解できない自然が規定した、あるいは人が作ったものです。
道徳は人間が作ったものなら、あるいは人間の望みで作ったものなら、状況によって、時代によって、国や地域によって、あるいは時と場合によって違うかもしれません。まだ人間が作った領域にあるものということができます。簡単に man made 、つまり人間が作ったものと言います。
宗教は真理である自然の真実で、人が作ることはできません。人が規定できず、人はこれらの法則を管理、あるいは設定できません。これを、ある能力で経過すると言います。道徳と宗教の違いはこのようです。
この二つの基礎の部分を熟慮して見ると、道徳と呼ぶものは学問、あるいは科学と言っても良いですが、その規則で維持、あるいは進行していると見ることができます。つまり証明できる、試すことができる目前の理由を基礎にしています。そしてその基礎の上に道徳を規定しています。しかし宗教と呼ぶものはそのようではありません。
つまり普通の人が原則を掴むより、理論で検証して試せるより、そして一緒に使えないくらい深いです。だから宗教と呼ばれるものは学問の系統で維持、あるいは進行できないので、もっと隠されたものの系統で経過しなければなりません。それは哲学、あるいは philosophy と呼ぶものでも良いです。あるいはいろんな mythology のような検証できない神聖な奇跡の強い信仰ででも良いです。しかし要するに見えない物、社会の科学の原則、そして一般の人の目で証明できない、試験できないものでなければなりません。
「一般の人には」と規定しておいてください。「聖人には」ではありません。宗教と呼ぶものは深く隠れたもの、あるいは一般の人には理解できないもので、哲学の系統の中にある物としなければなりませんが、聖人にとってそれは明らかにされたもの、聞いて分かるものです。一般の基準で言うと、そして一般の人には、智者のための宗教は、哲学の規則で維持し、進行する基本があると見なさなければなりません。
つまり一般の人の知性で証明や試験できないものなので、道理で絶妙に熟考する理由に、たくさん依存しなければなりません。智者のためでない宗教はいろんな信仰に依存します。これが宗教の基礎です。道徳が公開された、あるいは科学と呼ぶ規則で維持、進行するように、宗教と呼ぶものは、これらの基礎で維持、あるいは進行できます。
次に二つのものの進行である状態について熟慮して見ます。
私たちは、道徳と呼ぶものは、一般人のためのものである時は、一般人の common sense で進行し、社会の目前の問題がどんな考えを生じさせても、その common sense に従って道徳の形になると見ることができます。
宗教と呼ぶもの、特に仏教はそのような common sense を使うことはできません。厳格で不変の自然の秘密があり、その自然の真実に至らなければなりません。そして心の苦を解決できる直接テクニックの形の実践原則がなければなりません。「ブッダはテクニックに形でぴったりした滅苦のための教えの言葉を説かれている」と見えているように、common sense になる余地はありません。
しかしいずれにしても、たくさんではないだけ、あるいは仏教に使わなければならないほどぴったりしていないだけで、道徳の話にもテクニックはあると言うことができます。道徳は少ない、あるいは低い結果を目指すので、滅苦をするほど、あるいは完全に煩悩を滅すほど力がある必要はないからです。これも宗教と道徳と呼ぶものの違いをハッキリと表しています。
範囲について熟慮して見ると、教育、あるいは実践、あるいは実践の結果の範囲でも、道徳の範囲をブッダは広く目指し、団体あるいは国際間の社会の話になり、そして政治その他の social な利益を狙い、その結果 international な状態になりました。
一方宗教の範囲はその形に注目せず、人に注目する individual で、結果を注視するなら、individual な結果です。自然が共生する必要がある理由、異なる結果に注目する理由で、道徳は社会の安楽である結果に注目します。そして社会という言葉は国際間、あるいは世界中、あるいは全世界まで広い意味があります。宗教は、自分だけのためにさせたがるに近く、その人の能力だけ、自分の知性の力だけ到達させます。だから範囲が違い、目的が違うと見ることができます。
次にこの二つが生じた原因について熟慮して見ます。
道徳を生じさせる原因は社会の困窮と、誰でも、疑うまでもなく見ることができます。社会に困窮が生じたので、社会の困窮を防いで解決するために道徳が必要になりました。宗教が生まれる本当の原因は、神秘的な物の恐怖など、心の面の問題を意味します。何という言葉を使えば良いか分からないので、私は「神秘」という言葉を使います。神秘的な物に対する恐怖、あるいは隠された問題の恐怖が、宗教と呼ばれるものを生じさせた根源の一つです。
社会の困窮はどんな説明も必要なく、互いに尊重し合わないで暮らし、互いに侵害し合って暮らすようなことと理解できます。これが道徳を生じさせる原因である社会の困窮です。
三蔵の中のパーリであるアッガンスッタにある例は、彼らが法学の始まりの話として使っている話と同じで、語られている王と仮定される神様の話は、本当は三蔵の中のブッダの言葉である経にあります。
話は、人が初めて世界に住んだ時、人間が世界に初めて住んだ時、道徳の問題はありませんでした。当時の人は必要がなく、望まず、あまり探求しませんでした。麦などは森に自然に生えていて、朝採りに行くと、翌日には元どおりにあるというように、いろんな物は自然に手に入れることができました。需要に応える物はどこにでもあり、溢れるほどあり、自然の暮らしは安楽だったという意味です。
しかしその後人数口が増えると、需要に応える物が不足したので、互いに権利の侵略が生じ、食べる物、住む場所を分け合わなければならなくなったので、道徳、あるいは法律、あるいは集団の規定ができました。これは「社会の困窮は道徳と呼ぶものの始まりである」と見ることができます。
仏教、あるいは宗教全般の始まりは、神秘的な物の恐怖を意味し、人間が説明できない、理解できない物を意味します。人の知性で説明できない心の面の、精神の面の困苦であるその他の問題です。仏教のように高い宗教と言えば、滅苦、煩悩の消滅、欲望の消滅の話があり、涅槃に到達するという言葉があり、これは人が理解できる範囲を越えた神秘の話です。
この神秘は、死んだ後生まれるのか否か、死んだ後良く生まれるか悪く生まれるかなどの恐怖まで低く拡大しました。その人にとって神秘である物への恐怖もあります。神様に執着するなどの信仰の道を行く宗教も、これも恐怖、神様や自分が理解できない物の規則に反した実践に対しての恐怖や苦に依存します。原始人のような、 primitive と呼ぶ原初の宗教まで低くしても、火を恐れ、雷を恐れ、風を恐れ、このように雨でも何でも恐れたのは、自分が説明できない、自分が勝利できない神秘な物を恐れる話です。
理解できないものに対する恐怖は、宗教と呼ぶものを生まれさせた原因で、滅苦、あるいはその恐怖を何としても消滅させてしまい、軽快で冷静な心がある人にすることの探求を生じさせたので、宗教である実践規範が生まれました。
道徳と呼ぶものは社会的な困窮が原因にあり、宗教と呼ぶものは自分が理解できない物、そして常に心の穏やかさを妨害するものの恐怖が原因にあると見ることができます。別の系統のよう大きな開きがあります。
これからこの二つのものの目的である結果について熟慮してください。
道徳は疑うまでもなく、善と呼ぶものを目指します。善と呼ぶものが何か、意見が分かれるほど議論し合っても、道徳のすべての系統は結果として善を目指します。だから道徳家が世界中で討論する道徳の問題は、この部分で完全に終わらせるため、善と呼ぶものを道徳の目的にするための「何が善で、何が悪か」です。
宗教と呼ぶもの、特に仏教は「善と呼ぶものは悪と違わない」と、つまりまだ最高ではないと規定しているので、善の上に行かなければならないと言います。道徳の目的と違います。ある宗教教義では「最高の善」という言葉で宗教の最高の物と規定しても、その最高の善は、普通の、通常の善と違うある種の善を意味します。しかし仏教を基準にすれば、善の上に行かせる結果を目指し、善や悪の問題に妨害されなければ、道徳と呼ぶものが善だけを目指している時、宗教と呼ぶものが本当に目指す結果と呼びます。
更に狭めて見れば、知って理解できる物について、道徳は「一般の人が欲しがる幸福」と呼ぶような幸福だけを目指しますが、宗教であるもの、あるいは宗教が目指すものは一般の人が欲しがる幸福以上の、良い言葉が見つからない物です。だからサンティ(静寂)、あるいはニッバーナ(涅槃)など仏教にある言葉に依存しなければなりません。
つまり普通の幸福以上です。普通の幸福には一般の言葉を使い、happiness という言葉に使います。こういうのは、まだそれ以上の意味を表す言葉があると理解できます。例えば bliss あるいは peace などは更に高い意味があり、bliss に満足した人は happiness を嫌うことができるほどです。
仏教の教えでサンティ、あるいはニッバーナと呼ぶものは happiness あるいは幸福と呼ぶ意味より上にあります。宗教と呼ぶものが目指す結果は、道徳と呼ぶものより遠くへ行きます。これを人間が得るべき最高点と呼ぶことができる所に真実があります。しかしそれはまだ別々のレベルにあります。
道徳の面で私たちが得るべき最高に良い頂点である物は、述べたように社会の静かさで、宗教の目的で人間が手に入れるべき最高に良い物は、個々の人の心が、心の苦と、苦の原因から同時に脱出することを意味します。
私は厳格でハッキリした言葉の定義をするべきです。道徳の面の幸福である結果に「幸福」、あるいは「社会の平安」という言葉を使うのは正しく、そして明解と見なします。しかしこの言葉を宗教の目的に使うことはできないので、パーリ語でヴィムッティと言う「脱出」、あるいは「解脱」という言葉があります。
解脱という言葉は、あらゆる種類の虐待、束縛、捕縛の威力からの脱出を意味します。まだ幸福があり、平安があり、そして幸福を喜ぶことを、幸福の味、あるいはその安楽の味に縛られ、覆われていると言います。心は安楽、あるいは安楽の味に夢中になっていて、そして更に渇望し、あるいは少なくともそれが変化してほしくない、あるいは消えないよう、いつまでも自分にあるよう願います。しかしそれら物は誰の威力下にもないので、変化し、その人を苦にします。
だから幸福、あるいは安楽、あるいは幸福の味、あるいはもっともっと幸福になることを期待して執着することで、前もって苦が生じます。このようなのは脱出とは呼ばず、目いっぱいの愛着です。その幸福が人間のより高い幸福、あるいは「天国の」、あるいは「梵天界の」と呼ぶ幸福でも、どれも心を執着させる物です。宗教面の好みは、そのような愛着の幸福だけでは喜んで満足できません。
そしてすべての幸福があらゆる種類の愛着の基盤なら、幸福と呼ぶものに満足しないので、向きを変えて「脱出」と呼ぶものに関心を寄せます。つまりすべての執着するものである幸福と苦から出ることができます。これが宗教と呼ぶものの本当の目的です。
道徳は社会の平安である結果だけを目指し、宗教は個々人の脱出を目指し、はっきりと見える相違があるとまとめることができます。
次に、道徳と呼ぶ物と宗教と呼ぶ物の実践法について熟慮します。
道徳と呼ぶものでも、宗教と呼ぶものでも、次のようにまとめられる非常に似ている実践体系、あるいは実践方法があります。
道徳は大部分は実践の部分である自己管理を目指します。自分を支配すること、あるいは煩悩を支配することは、品行の実践を生じさせないからです。宗教も同じで、自分を管理することを実践の最初の初歩とします。だから宗教に関わりがある道徳は、当然初歩の段階の基礎である実践があり、全ては自分自身を支配することばかりです。
信仰である側の宗教も、例えば最高に本当の宗教のとして神様を信じ、本当の宗教の重要な要旨である実践は、信仰で行動することです。つまり希望の表明、信仰、そしてこのような心の祈願、祈り、すべては自分自身を強制して行動させ、あるいは信じさせ、あるいは祈願させます。
智慧になる種類の宗教は別の系統になり、祈願はなくても煩悩を断つ方法があります。教育して煩悩を知り、煩悩の原因を知り、そして煩悩を断つ努力をし、あるいは煩悩の原因を消滅させます。これが智慧で進行する種類の宗教の実践で、どれも本気で行動するよう自分を強制しなければなりません。。
基本である信仰に依存する宗教は、心を信仰に縛り付けることに依然し、神様と呼ぶ架空の物にしっかり埋め込んで、煩悩が覆って踏みにじる機会を与えない状態で煩悩を管理する、あるいは排除する望みがあります。
一度に全体を見れば、道徳と、二種類の宗教の道徳に関した教えは、どちらも自分自身を強制する状態があると分かります。基礎として神様を信仰する宗教も、基礎として智慧に依存し、自分自身の行動に依存する宗教も、道徳部分の基礎は自分自身を強制することにあります。
これは、宗教に関わる道徳も、宗教とは相違があると見させます。道徳は自分自身を強制するだけの実践規則に依存します。信仰、あるいは祈願、あるいは煩悩を断ち、煩悩を抑える方便を使う、あるいは何らかの煩悩を断つこと以上の実践に、基礎として依存する宗教は、本当の宗教と呼ぶ物の目的に至るまで深くするには、自分を強制するだけでは不十分です。
次に一般の人が何とか自分で掴める状態で簡単に見るには、得る結果、あるいは生じる結果を見ます。
道徳の実践から得る結果、あるいは生じる結果は、犠牲、忍耐、自分を支配することなどの実践の結果から生じる善の一種です。その方法では「無常・苦・無我」で熟慮する智慧に関わりません。しかしその宗教の側の実践から得るべき結果は、智慧から生じる結果、あるいは高い、あるいは深い、あるいは緻密な智慧になる結果でなければなりません。
信仰に依存し、祈願する儀式に依存する宗教でも、心の中の恐怖を排除し、高くするために智慧のある人が智慧のある人らしく規定した様式で祈願します。教えて信じさせる、あるいは神聖なものを崇拝して祈願するよう教え、神様などは非常に緻密で絶妙です。普通の考えでする訳ではありません。だから彼らも智慧の一種と見なしています。以上の理由で、道徳の面の辞書の言葉で、moral virtue(道徳的美徳) と intellectual virtue (知的美徳)という二語に出合います。
前者は善、あるいは社会が望む実践規則で実践することから生じた善の結果を意味し、煩悩、あるいは姿が見えない種類の何らかの恐怖を排除するために隠れた智慧に関わりません。しかし後者は恐怖、あるいはその人だけの深い個人的な苦を排除する、その宗教を悟った人である教祖が残した実践規則から生じる結果を意味します。
だからその信仰、あるいは祈願が智慧に関わらなくても、道徳と比べた時、完璧な宗教の目指す結果は、当然何らかの意味の智慧を狙っていると理解、あるいは信じないでください。これは道徳と呼ぶものと宗教と呼ぶものの違いを明らかに表しています。
比較して見る最後は、衰退を基準にして、つまり道徳面の衰退と宗教の衰退は、どのように違う結果かがあるか比較して見ます。
道徳面の衰退は社会を混乱させる結果にし、永遠の危機と呼ぶ、例えば社会が戦争などになります。宗教の衰退から生じる結果は人物を暗くし、人の心の中に闇を生じさせます。
社会に永久的な危機が生じるというのは、ここではどんな解決より上の混乱、社会で平穏に暮らせないことを意味します。これが道徳の衰退の結果です。
心の暗さの方は、人が自分だけの内面の問題を解決できない暗さという意味で、焦燥や心の深層の混乱として生じ、排除することができないので、人間が得るべき最高に善い物を得られなくします。これを宗教の衰退、あるいは宗教がないことから生じる心の暗さと言います。
これは、道徳と呼ぶものと宗教と呼ぶものは、いずれにしても一つにはなれないということをハッキリと指摘して見せています。一時道徳を宗教の一部として加えても、目的のレベルが違い、いろんな規則の道が違います。
私が講義しなければならない項目は、道徳と宗教二つあるので、今後の講義の便宜のために、一つの段階の違いをハッキリ見せる努力をします。
次に道徳と呼ぶものと宗教と呼ぶものが同じでなければ、どんな関係があるのかという項目について熟慮します。この問題に答えるために、私は道徳と宗教、両方の基盤である基礎と呼ぶものについて熟慮して見ます。
一般に道徳は外部、物質側、あるいは体の側に重く関わり、宗教は心の側に関わり、あるいは心の側を重要とします。このように述べるのは、聞いてだいたい意味が分かりますが、そのように述べるべきではありません。道徳と宗教は基盤に依存しなければならないと言うべきで、パーリ語でドゥヴァーラ=門と呼ぶもの、基盤、発生源という意味で、三門は体の門、言葉の門、心の門です。
このような理由で、道徳と呼ぶものは心、常自覚、考えや見解、あるいはいろんな見解に関わっています。私たちが道徳の実践行動をする時、盤石な基礎があるようにするには、その道徳は理想である基礎に依存しなければなりません。あるいは基礎として何等かの宗教の側の哲学に依存しなければなりません。だから道徳と呼ぶものは、パーリ語でディッティと呼ぶ知識や理解に依存しなければなりません。タイ語のデッッティは傲慢を意味しがちですが、パーリ語では自分が今掌握している見方を意味します。
特に仏教を見れば、仏教では、道徳の部分である実践項目は段階的に分類できると、ハッキリ見ることができます。最も低いのは風俗習慣、あるいは文化全般に関わり、これは、ほとんど仏教の教えと言うことはできません。どの宗教とも共通であり、仏教以前からあるからです。仏教が生まれるとこれらについて述べ、あるいはこれらを取り入れることを認めました。
だからブッダバーシタに関わっている道徳は、本当の仏教と言うことはできません。あるいは伝統習慣、あるいは文化より高い五戒などのレベルの道徳、五つのダンマは更に高くなりますが、それでも仏教の本物、あるいは仏教の本物である道徳と言うべきではありません。同じ理由、つまり仏教はこのレベルの道徳を強調していても、他の宗教にもあり、共通であり、仏教以前からあるからです。
道徳は規則、伝統、文化、あるいは五戒、あるいは五つのダンマに関わり、まだ考え、見方であるディッティに直接関わりません。少し移動すれば、身体・言葉・心、あるいは意に分けた、十善と呼ぶもう一つの道徳の教えになります。
身体と言葉は、五つの道徳と変わりません。殺生をしない、盗まない、性的な侵害をしないなどと変わらず、言葉も虚偽を言わない、暴言を言わない、告げ口をしない、利益の無い饒舌を言わない、それ以上ではありませんが、意業である最後の部分、心に関わる部分は「貪らない、狙わない、恨まない、加害を企まない、邪見でない」正しい見解があるとあります。
最後の正しい見解は「宗教と関わりのある道徳と呼ぶものは、直接知性と考え方に注目し、そして一般の道徳以上と見なすべき。私たちは正しい見解を道徳の根源とするので、すべての物に対して正しい理解をしなければならず、特にすべての自然の正しい理解を」と、説明して見せるものです。
自然と呼ぶものは、いずれにしても秘密、例えば徳と罪があり、善行をすれば善果があり、悪行をすれば悪果があるなど、普通の人が理解できない秘密があります。だから同時に、正しい見解は二つのレベルに分けなければなりません。つまり道徳と関わる正しい見解が一つと、直接宗教の教えに関わる高いレベルの正しい見解が一つです。
道徳に関わるレベルの正しい見解をブッダは低いレベルとします。たとえば徳と罪はある、善行をすれば良い結果があり、悪行をすれは悪い結果があるという理解です。そして善行だけに執着し、あるいは「この世界はある。他の世界もある。来世はある」、あるいは「人間と反対の人間でない動物もいる」、あるいは「天人のように人間と違う動物もいる」という考え方、見方から「父母はいる、先生はいる」という言葉を使うような考えや信仰があります。
つまり親や先生は一つの善の施設であり、神聖さがあると認めさせることを目指します。重要でない、あるいは意味がないと否定するのは誤った見解と見なします。
しかしいずれにしても、このレベルの正しい見解は低いレベル、道徳に関わっている初等のレベルです。例えば「善行善果、悪行悪果」という教えがある正しい見解は、こういうのが最高レベルだと理解しないでください。最高レベルの正しい見解は、自分を善悪より上にいさせることができ、善と悪に絡まれない状態でなければなりません。そうすれば高いレベルの正しい見解であり、直接宗教の側の正しい見解であり、道徳の側の正しい見解ではありません。
一般的な道徳はこのような正しい見解と関わる規則がなく、先の世界、あるいは他の世界について「ある」とか「ない」とか熟慮せず、そして道徳レベルの正しい見解も、どんなカンマを作っても、そのカンマの厳格な結果を受け取る仏教の正しい見解のように、善いカンマ、悪いカンマという基準がない、と熟慮して見るべきです。
これは、宗教に関わっている道徳、そして知性、あるいはディッティ(見解)に基礎があるレベルの道徳、その上正しい見解という同じ名前でも、このような正しい見解は二種類に分類でき、つまり道徳レベルの正しい見解と宗教のレベルの正しい見解はこのように違うとハッキリと指摘して見せるものです。
考えの面ではすべてディッティと言いますが、道徳の側であるものと宗教の側であるものに分けられます。道徳側は社会の静かさだけの増進を目指し、宗教の側は特に個人の脱出の増進を目指すからです。
すべては道徳と宗教の違いはどのようかハッキリ見せ、そして曖昧にならないように、道徳と宗教を明らかに区別して境界線を引く定義です。
私が順に述べた道理を更に明らかに理解するために、ここで私はもう一度理解するために例を挙げるべきです。取り上げる例は、不浄な物と不浄でない物です。これらの言葉は、一部の方にとっては奇妙な言葉、新しい言葉かもしれませんが、私は学ぶ、あるいは理解する努力をしていただきたいと思います。
不浄とは汚れ、不潔、あるいは厭わしいという意味です。知識者は「一般の人は不浄を知らず、そして不浄な物を不浄でないと理解しているので、不浄な物を迷って愛し、あるいは嫌悪すべき物を可愛い、望ましいと言う」と捉えます。
この言葉は実践の初心者のために一般に使われているのと同じで、指導者は髪・体毛・歯・皮膚、あるいは身体のいろんな部分は不浄な物と教えますが、人は不浄と見ません。欲情などの煩悩に支配されているので罪を作り、あるいは不浄な物が原因でするべきでないことができます。
初心者レベルの一般の人は、不浄な物を初めて見ると「不浄な物を見た」と言います。私は、これは多少良くなったと見なします。つまり、何とか不浄な物を不浄と見ることができます。例えばこの身体を不浄な物と見、そして恍惚としない正常な心があり、あるいはある種の道徳を犯しません。しかしもっと善くするにはどうするべきか、続けて熟慮して見ます。
もう一段移動すれば、普通の人が不浄でないと見る物も不浄と見るまで高い智慧のある人です。机、いす、板等、これらの物は皮膚のように腐って膿んだ不浄な物ではないので、普通の人は不浄と見なしませんが、このレベルまで高くなった智慧があれば、別の状態の不浄で、それも不浄に見えます。
不浄を見ることは、腐って膿む物を見るだけでは不十分です。少なすぎ、清潔と見なしている物でも不浄です。それは欺瞞するので、つまり無常であるのに騙して恒常と見せ、執着すべきでないのに騙して執着させます。このようなので、机や椅子、あるいはこれらの物も不浄です。大便や小便などのような物だけが不浄ではありません。
熟慮して見れば、このレベルの明らかな見解は、一段階明るく澄んだ、あるいはもう一段階高くなった知性で、机やイスも大便や小便と同じように不浄と見え、ダイヤ、サファイヤ、水晶、金銀の指輪も、大小便と同じ不浄な物に見えます。
次にそれ以上に良い考え、あるいはもっとはっきりした考えがあり、それ以上に高い心があればどのように見るか、考えて見ます。
次に不浄も不浄でない物もないと見る、もう一つのレベルになりました。何らかの物を「これは不浄、これは不浄でない」と理解するのはまだ一種の愚かさで、本当は「すべての物は不浄、あるいは不浄でない」と捉えるべきではありません。不浄という感覚があるべきでなく、あるいは不浄でないと感じるべきではありません。これは阿羅漢の心で、何は不浄、何は不浄でないという感覚はありません。
このようなら、普通の凡人は、大小便、あるいは皮膚も不浄な物でなく、ある時はハッキリと見、そしておぞましく感じても、煩悩に支配されると、不潔な物を不浄と見ないほどだと、熟慮して見ます。これが一般人で、一つのレベルです。もっと高くなり、それは不浄、それらは不浄と見えれば、惑溺の基盤である髪・体毛・爪・歯・皮膚、あるいは血肉身体に惑溺すべきではありません。それは不浄だからです。
これも一つのレベル、つまり多少良いレベルの凡人、何でも不浄でないと言う程度の凡人は低劣な凡人です。不浄な物に迷わない普通の凡人は、善いレベルの凡人、あるいはカンラヤーナチョンと言います。
しかし高いレベルになると、何とか見える知性があるので、「良い物も悪い物も、命があってもなくても、それは同じだけ不浄だ。すべての無常であるものは苦であり、無我であり、同じだけ不浄で同じだけ嫌悪させる」と見ます。こういうのは聖人のレベルの心ですが、まだ最高レベルには至らず、預流、一来、不還、あるいは何でもまだ初等の聖人です。
取、執着をすっかり落とした聖人に至れば、つまり阿羅漢レベルなら、不浄、不浄でないという問題はありません。だから「不浄か不浄でないか」に関わる問題はその方にはなく、その方の心は最高に涼しく、あるいは不浄か不浄でないかに関した問題はありません。
これも、道徳の側ではいろんな物が同じに、全部不浄に、あるいは不浄ではない、あるいはまったく不浄でないと見える段階にはならないと比較して見せるためです。道徳のレベルでは不浄と不浄でない物があり、人が不浄な物を嫌い、不浄でない物に満足するのは、道徳の教えで正しいです。
しかし宗教の教えになると、何が嬉しいか分からないほど同じだけ不浄になり、最高レベルまで高くなれば、不浄な物、あるいは不浄はなく、「すべての物は取で関わるべきでない。欲しがる物、なりたがる物はない」と言うようになります。すべては道徳と宗教に関して私たちの心に生じる感覚がどのように違うか、基準の違いを表しています。
取り上げた例がややこしければ、「肉を食べる、野菜を食べる」など、もっと卑近な例を挙げたいと思います。道徳の問題は、どの国どの言語でも、肉食は善い、あるいは善くない、菜食は肉食より良い結果がある、あるいはないという問題があります。その結果道徳面での何らかの考えや見解が生じ、肉食をせず菜食だけをする vegetarian である人たちが現れます。
そのような道徳のレベルでは、肉、あるいは野菜と捉えるので、肉を食べるか、食べるべきでないかという道徳の問題があります。そしていろんな判断があり、その結果肉食をする人たちとしない人たちに分かれます。執着すれば、肉食か菜食かに執着することにふさわしい複雑困難になるので、まだ肉、あるいは野菜という感覚があれば、まだ静かではありません。
道徳より高い仏教の教えで考えが高くなれば、肉はなく、野菜もなく、肉を食べる、野菜を食べるという感覚もなく、肉、あるいは野菜を食べる意図もないので、「食べ物を食べる」になります。
知性が十分完璧にあれば、害を生じさせる種類の食べ物は食べず、同時に肉、あるいは野菜という厄介な問題もありません。だからこのような基礎のある人、あるいは仏教の教えを遵守する人の食は、砂漠の真ん中で我が子の肉を食べるだけになります。
私は三蔵の中のエピソードを使います。話は、夫婦が幼い子供を抱いて砂漠を横断し、道に迷っているうちに子が死んだので、死んだ子の肉を食べなければなりません。それはどれだけ食べられるでしょうか。意味は、死なないだけ食べます。死なないだけ食べれば、砂漠で我が子の肉を食べるのと同じなので、肉を食べるのではなく「食べ物を食べる」と言います。
しかし何等かの美味しさ、あるいは何等かの不味さのために食べれば、確実に何らかの「肉や野菜を食べる」と言います。あるいは「これは勤め、執着すべき実践」と執着して食べれば、こういうのは必ず肉や野菜があります。そして肉や野菜という取によって、実践者自身にとって面倒な意味が増えます。
だから、道徳であるレベルでは野菜があり、肉があり、そして野菜を食べること、肉を食べることがあり、肉や野菜を食べることに関わる問題があります。しかし宗教の側は野菜や肉があると感じないほど深い自然の真実に到達するので、野菜を食べること、肉を食べることはありません。あるのは砂漠の中で死んだ我が子の肉である「食べ物を食べること」だけです。
もう一つ、食べ物を食べる譬えは「車軸に垂らす油だけ」と言います。これは三蔵の中の言い回しを使っています。現代風に言えば、いろんな自動車に垂らす油です。車輪、あるいは車軸に垂らす油は、流れるほどの量でなく、滑りを良くするだけです。食べ物を食べること、あるいは飲み物を飲むことが、砂漠の中で我が子の肉を食べるよう、あるいは車軸に垂らす油のようなら、肉を食べる、野菜を食べることに関して厄介な問題は生じません。
宗教の側の教えは、人を自然の真実に到達させたいと、そして執着であるあれこれの感覚をなくしたいと望み、それで話は終わります。しかし道徳のレベルではこのように捉える目的はないので、肉を食べる、野菜を食べる、良い悪い、どういうのが罪でどういうのが徳という、このような問題がたくさんあります。
すべては道徳あるいは道徳の実践と呼ぶものと、宗教あるいは本当の宗教の教えで実践する系統と呼ぶものの違いを指摘して見せるものです。これは道徳と宗教の違いを明らかに見せている見本です。
もう一つ、道徳家の理解はまだ少なく、宗教家の感覚や考えを理解することができない例を挙げます。例えばヴェッサンダラ王子が無邪気な子を残酷な人であるチュージャカに与えた話の問題は、道徳の面から熟慮すれば、理解してしまう場合以外は、ヴェッサンドラ王子は使い物になりません。
ヴェッサンドラ王子の話が本当にあったか本当でないか、ブッダは本当にそのようにしたのかしなかったのか、これは問題ではなく、話す必要はなく、ここで判断する必要もありません。その教典の内容にあるというだけで、その教典の内容は道徳と宗教の違いを指摘しています。
道徳の規則で言えば、ヴェッサンドラ王子がそのようにしたのは、つまり小さな子を残酷な人に与え、それから叩くのも鞭で打つのも売るのも自由なのは、非常に道徳に欠けます。これは道徳家の視線で見るからで、道徳家は普通の動物の常識の善悪正誤だけの感覚しかないからです。
一方宗教の側は個人の本当の脱出に注目し、愛あるいは取、あるいは愛着を問題である物、あるいは夢中に成せて苦や輪廻や煩悩に閉じ込めるものと見るので、断つべきものであり、取を断つことがあり、あるいは最愛以上に愛す子、あるいはそのようなものを与えることで煩悩を断ちます。
最高に愛していればいるだけ、残酷な人にそのように与えることに最高に意味があります。宗教の側の最高の試練の実践訓練です。試練の訓練にすぎなくとも、あるいは一つの課題にしても、これは宗教家と道徳家は別の系統を行き、このような場合理解できる余地はないと指摘するものです。
私はこの話でタンマの会議の席で論争したことがあり、ヴェッサンドラ王子が子を与えたことは間違いか正しいか、長いこと反論し合いました。しかし私たちが初めから、述べたような項目で宗教とは何か、道徳とは何かという違い、あるいはハッキリ線引きする境界線を知っていれば、矛盾はないと思います。
ヴェッサンドラ王子は最高にそのようにしました。ブッダになる人は極めてそのようにすべきです。すべては、溢れるほど価値がある物を得て、世界のすべての動物を救うための投資です。だからヴェッサンドラ王子は勇敢に投資し、そして道徳でなく、宗教の教えの成り行きにしました。
これらの例は、道徳と宗教はどのように違う目的があるかを見せるために取り上げましたが、同時に、道徳は作ったもの、つまり man made であり、宗教は自然の truth 、自然の真実です。これは忘れるべきではありません。人は煩悩の威力下にあり、人は更に無明・取の威力下にあるので、人が作った物は当たり前に煩悩、欲望、取が混じっていると理解しなければなりません。だから人の道徳は、国により、あるいは土地により、時代により時により、高低の違いがあります。
例えば、ある人たちは、確実に死が近い人は注射して死なせ、あるいは牛や水牛など乗り物である動物の死が確実なら、彼らは急いで死なせ、道徳で正しい行動と見なします。あまり苦しまないで、早く死ぬことができるので、あまり苦しませないことが道徳的正しさです。しかし世界の対角にいる人は認めることができません。それは道徳を実践する人の心のレベルが、宗教家の心のレベルと違うからです。
身体を基準として注目する道徳家は、そのようにすることを正しいことと見なしますが、高いレベルの心を標準にするほど高くなった道徳家は、賛成しないかもしれません。本当の宗教の側は、自然の規則、自然の法則を基準にするので、すべての自然現象に耐えることができ、このような諍いは生じる余地はありません。そしてぶつかり合うことなく品行の実践をすることができます。これは後で何らかの説明をする時混乱しないために、道徳と宗教は本当にレベルが違うと見ることができます。
さて私が、仏教の教えを常に基準にしている仏教教団員に観察するようお勧めする最後の項目は、前年の講義で説明した仏教の要旨である教えです。仏教の要旨は、悪を行わないのが一つ、そして精一杯善を行うのが一つ、そして心を最高に純潔にするのが一つです。どれが道徳のレベルか、どれが本当の宗教か、熟慮して見てください。
あるいはもう一つの分類で、仏教教団員が好きな分け方は利益を三つのレベルに分け、①この世界、普通の世界、現在の世界に関わる利益が一つ、②来世、あるいはこの世界より高い別の世界の利益、そして③世界に関わらない第一義の利益で、このような三つのレベルです。この三つのうちどのレベルが道徳の部分で、どのレベルが道徳以上か、つまり宗教の本物か熟慮して見てください。私が冒頭で、次のようにお話した基準で熟慮できます。
初めの二つの利益を作るのはまだ道徳のレベルで、悪を憎み善を保護し、善に執着するために、善悪だけを判断する問題があります。このようなのは本当の道徳で、社会の混迷を抑止でき、社会に平安を生じさせます。しかし個人の脱出を生じさせるには、心を捕縛するすべての物から脱するには不十分です。だから心を完璧に純潔にする、あるいは世界を越えた、世界に関わらない利益を作る、という三項目があります。
「心を完全に純潔にする」とは、善や悪に夢中になる領域より高くし、善の結果、悪の結果に熱中させません。もしまだ迷って何等かものを愛し、迷って憎めば、それは非常に静かではありません。善悪は愛す、あるいは憎む結果になり、悪である物は不満を生じさせ、善である物は満足を生じさせるので、その種の心は最高に純潔と見なしません。
最高に純潔な心は、もっと賢くなければなりません。「善と悪は同じだけ心を妨害する物」と見えるまで賢く、どんなに違う状態があっても、同じだけ妨害するので、善と悪の希望、あるいは善と悪の結果をどちらも手放します。そうすれば心を憂鬱にする物が何もない純潔清潔な段階、最後の段階であり、本当の宗教と呼ぶものと見なします。別の呼び方をすれば「世界を越えた利益」、第一義諦の利益で、説明は同じです。
「まだ世界に関わりのある利益」とは、その利益が世界に生まれさせ、望み通り世界にいさせるという意味です。しかし更に高くなると、「世界に夢中になっていれば、あるいはまだ世界の領域は自由ではない、愛着している物と一緒に七転八倒しなければならない」と見ます。だから最高の利益とは世界と関わらない心です。これを第一義諦の利益と言います。
述べたような状態は、道徳の領域より上にあり、この世界のどんな人たちの道徳と呼ぶものも、このような目的、あるいはこのような実践の状態はありません。だから道徳はまだ世界と関わっているのが一つ、まだこの世界に溢れている善や悪と関わっているのが一つと、まったく違う本物の宗教である部分を取り上げて見せました。
本物の宗教は世界に関わらないことを目指し、世界に満杯に詰まっている善悪より上にいることを目指し、仏教の教えを区別する基準にして、道徳と宗教の違いをハッキリと指摘して見せています。
要旨を掴むためにもう一度まとめると、道徳は人間が作ることができる領域にあり、 man made であり、宗教は宗教自体の個性であり、本当の意味は自然の真実の規則に依存し、人間が考え、あるいは人間の要求に従って作ることはできません。
道徳の基礎は常識で、科学と呼ぶ物でも、証明や試験できる物に従って進行し、宗教は述べた物の上に基礎があります。普通の人間の感覚で証明できません。哲学の思考を使わなければなりません。この基盤として哲学に依存するのが一つです。もう一つは智慧のない一般の人のために彼らが良く規定しておいた制度で信じることに依存します。しかし明らかに指摘できないもので、Mythology、あるいは何でも、宗教と呼ぶものの基礎、基盤と呼べるものです。
道徳は普通の知性がある人の common sense で実施しますが、宗教の本物は明らかな知識に依存しなければなりません。そして特別なテクニックと言うことができます。
道徳の範囲は社会になり、international、つまり国際、あるいは大きな社会まで広く、宗教と呼ぶものの範囲は一人だけで、知性次第、知識の力次第です。それぞれの人の知性と能力は、同じにできません。あるいは交換できません。
道徳の原因は、社会の困難が道徳を生じさせますが、宗教と呼ぶものの原因は暗さ、あるいは自分が理解できない、まだ隠されている物に対する恐怖、例えば煩悩に勝つことができないと恐怖が生じるなど、あるいは野蛮人が雷を恐れるなど、自然の恐怖も秘された物の恐怖と言い、それが宗教の根源です。
道徳は最高に善い結果を目指し、本当の宗教は、最後には善の束縛を越えた脱出を目指します。
道徳の実践は基盤である自己管理に依存し、宗教はそれを越えなければなりません。煩悩、あるいは祈願の儀式を知る知性、あるいは慰撫で恐怖を消すことでも、それらを断つ知性に依存します。
道徳の結果は、作られた規律の実践から生じた社会の静かさで、宗教の結果は、個々人の知性から生じた結果で、同じでなく、一緒にもできません。
道徳がないことは社会に混乱困難を生じさせ、宗教がないことは一人一人を暗くします。
これが「実践法も含めた仏教の教えと道徳」と、決められた主題で講義する勤めを引き受けた、道徳と宗教の違いです。
だから初日の今日は範囲を分け、今後、説明の言葉を聞いた時混乱しないために、述べたように道徳と宗教と呼ぶものの違いを明らかにしました。時間になりましたので、これで終わらせていただきます。
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