法学は慧杖と同じ価値がある



1973年4月29日

 今日はタンマサート・シリーズと規定した初日なので、タンマの教育訓練を受けるために、今日この講義のシリーズを始めたいと思います。

 今日はあまり話すつもりはありません。特に何かを話すというよりは、むしろ一般的な理解です。しかしそれでも、特に興味を持ってよく聞いてください。それは話す言葉に関した話で、私たちは言葉を理解すれば内容を理解するということです。

 話す言葉は、時代により時により、地域により変化して複雑にする点が重要で、時にはあいまいになり、仏教の発祥地であるインドの言葉などは、一語だけで、タイへ入るとこのように意味が変わりました。タイへ入った当初はある意味で、今は少なからず意味が変化しました。だから私たちは、非常にタンマの理解の障害になる、この事実を知るべきです。

 本当の自然で言えば、タンマでも哲学でも、簡単に理解できないのは、現在ある人間の話す言葉が、タンマ、宗教、哲学の世界の新たに発見した一つ一つの意味に使うのに十分でないからです。そして当初も、昔もそのようで、今でもまだそのようで、そのような状況があります。しかし新しく出合った哲学、タンマの面の考えの観点では、講義する言葉が足りません。

 もう一つ、今でもタイ語の話し言葉に関しては非常に困難で、タイ人にタイ語で話しても、説明してタンマを理解し合った物にできません。そして一人一人の言葉の解釈の広さ狭さ、高い低いが少なからずあるので、話し言葉のことで反論し合わなければなりません。外国人に話すのは尚更大変で、タンマの説明を外国人に話して聞かせるのは、タイ人にタイ語で話す何倍も困難です。

 なんなら、言葉に関してはこのようだとハッキリと理解してしまい、そして時には、言葉の意味を初めから正しく理解していれば、非常に援けになります。今日は主にこの話をします。

 夏休みの中の出家は、何かの利益のために、何かを得るために、この機会に何を教育し、何の訓練をするか、私はこれも問題と考えます。得ようと期待する物は、得るべき物より少なすぎることもあり、あるいはほんの少しのこともあります。ここで知識を求めるのは、何の利益のために知識を求めるのか、よく考えて見てください。

 今後も大学で学ぶ教育のためなら、こういうのでも良いです。中には得るだけで十分と考えるかもしれません。しかし本当は、それよりもっと多く得るべきです。つまりタンマの教育は、生きることに関わるすべての話に、生涯その人にとって利益があります。大学の学生でなくても、タンマは、他のことに使って仕事を良くする小さな話と見てしまっても、タンマを学ぶ必要があります。あるいは学ぶにふさわしいです。

 タンマの話は私たち全員の大きな問題で、他の教育はタンマの話のためと見ること。タンマサート(タンマ学)を学ぶことは最高に大きな話と、これをよく考えて見てください。それでタンマを学ぶ、あるいはタンマサートを学ぶのは一部分、少ない部分としてタンマを学ぶのか、良く考えて見てください。タンマの話は死ぬまで、一生の話です。問題は多く尽きることがありません。

 ある人がタンマからほんの少ししか結果を得ていないのを、観察して見たことがあります。これは時間がもったいないです。彼は「すべての問題は何か、私たち一人の生涯のすべての問題は何か」を知らず、そして何がその問題を無くす助けになるか、その問題を解決するか知りません。私は率直に言わなければなりません。

 私は時間の節約のために、理解しやすいために、聞いて分かるよう率直に話すのが好きなので、「侮蔑している」、あるいは「下品に話す」と非難する人がいるような言葉を使います。これは仕方がありません。率直に話すと下品に聞こえることがあります。

 今私たちの時間は少ししかなく、問題が多く、執着して誤解しすぎ、抜き取り難く、起こしても、突いても目覚めず、二度ばかり叩いても目覚めず、頭の皮を二インチばかり剥いでやっと起きます。この発言は聞いて不愉快で、強烈すぎることをお許しください。思い遣りのある、あるいはこのように交代に苦を訴える人間同士と見なしてください。あるいは聞く人は、「私たちは今人間社会の問題が非常にたくさんあり、急いで解決する物を探さなければならない」という状態で聞くべきです。

 人間はずっと問題があり、人類が生まれてから何万年も経っているのに、人類が生まれた当初から現在まで、人類の問題が多い、と言って結論にしてしまいます。次に人間は一人だけで、生まれた時から今まで問題があり、その人間の個人的な問題が増えます。

 特に現代に生まれた人間は、非常に問題が多く、そして気づいていません。私たちが世界に生まれて来て、あるいは非常に強烈な物がある時代の世界で目を開けてから、すべての面、すべての角度、すべての隅を含んだ強い言葉を使います。

 自分で自分の感覚を観察すると、五十年ばかり前は、よく憶えている限りでは、人の問題はこのように多くはありませんでした。たった五十年で、今は問題が多いです。五十年がこのようで、何百年、何千年ならどのようか、あるいは後百年すると人は問題が多くなり、生まれてすぐに狂うに近くなります。今は若者になると狂うでしょ。

 生まれて来ると四方八方に眩暈がするほど問題があり、誰でも神経が弱い病気になります。このような症状は、五十年ほど前にはありませんでした。これは冗談ではなく、本当の話で、そして私たち人間に生じる本当の問題と、良く考えて見てください。

 人間は基本である、基礎である問題があり、そしてそれは却って増えて来て、それらの問題を断つ道具を求めるので、タンマと呼ぶ物を学習し、訓練する努力をします。タンマは信じられる物で、それが人間のすべての種類、すべてのレベル、すべての時代の問題を断つ道具であることは疑うまでもありません。

 私たちは今人間であり、問題があるので、これらのいろんな問題を断つ道具が欲しがり、タンマを学習し訓練します。お話し限りでは、難しすぎない話のように、真実と一致します。つまり問題を断つ助けになる物について話しても、何とか要望に応えることができるものです。

 「断つ」という言葉について思うと、断つには刃がなければ切れず、刃があれば切ることができます。刃がある物をサートと言います。武器という言葉は切り殺して命を奪うための物で、刃がなければダンタ(棒という言葉)を使い、刃があればサートと言います。ダンタは木の棒、あるいは投げるのでも、あるいは飛んでいくピストルも刃のない物に含まれます。刃である速さがあっても、刀の刃のような刃がない物に分類され、刀のような刃があればサートと言います。

 サートという言葉は、特に直接切る物で、木の棒は切ることができません。他の武器として使って問題を解決し、同じ結果を得ることはできますが、このサートという言葉は刃のある物を意味するので、私たちが使っているすべての武器は、刃がある物という意味のサートという言葉と同じ言葉です。

 タンマサートという言葉をどのように理解しているかと言えば、タンマの知識、あるいはタンマに関わる知識の一種と理解しています。サートという言葉は知識だけで、これは元の意味が非常に失われています。サートは切る、切らなければならない物という意味です。

 このサートという言葉を大乗の教典では、解説の類の文書を呼ぶのに使い、アッタカターと呼ぶもの、たくさんの Supplementary もサートと呼びます。本当の文章をスッタと言い、スッタの説明をサートと呼びます。スッタは疑問が生じて理解し難く、これは疑問を断つことができる説明なのでサートと呼びます。ヴィッタヤパティマータラースッティサートのように後ろにサートをつければ、理解が難しいそのスッタの説明です。

 サートという言葉はアッタカターという意味です。こういうのは、そのスッタに関して理解できない疑問を断つ刃がある物である、元の意味を捨てていません。サートとは刃がある物という元の意味を捉えましょう。

 今日私は、タンマサートは智慧の武器と同じ価値があるという主題で話したいと思います。私たちの仏教では武器は智慧、智慧の武器、武器は智慧という言葉があります。意味はタンマサートという言葉と同じです。サートという言葉を文字面の元の意味で説明すれば、タンマサートとは武器、あるいは断つべき物である愚かさ、疑念、いろんな問題を断つために、武器として使われるタンマです。一方タンマの武器、武器であるタンマは、先ほど話したように拡散します。

 武器(アーウット)という言葉は刃があっても良く、なくても良く、誰かを死なせれば武器と呼ぶことができます。しかしサートは刀のように刃のある物だけを意味します。意味を広くすることを認めれば武器という言葉を使い、パーリ(ブッダの言葉)に「ヨーテタ マーラン パンニャーウデーナ=あなたは武器で、つまり智慧で悪魔と闘いなさい」とあるように、武器は智慧で、智慧は武器です。

 智慧の武器(パンニャーウット)は智慧で、タンマサートと言うより意味が広いです。サートであるタンマは狭くなり、限定された範囲でハッキリしています。そして鋭く、愚かさや疑念を断固として切断します。「何の利益があるかは、タンマサートは智慧の武器(パンニャーウット)と同じ価値がある」と良く聞いてください。
 
 智慧の武器は、すべての人が切りたい物を切るために使います。しかし刃があり、鋭い刃がある物を使えば、この鋭さはサートという言葉を使います。しかしパンニャーサートは聞いたことがなく、聞いたことがあるのはタンマサートだけなので、非常に一致する意味があると理解させます。それは人間とどのような関わりがあるか、良く聞いてみてください。

   冒頭で人間は問題があり、人間の問題があると話してきました。問題がなければ何もする必要はありません。何も勉強する必要もありません。何も今のように複雑困難ではありません。今はじっとしていられない問題があり、問題が侵害し、妨害し、焼き炙るので、問題を消滅させてしまう、問題を断ってしまう物を探さなければなりません。

 誰かが、タンマサートは学習課程にすぎず、分野にすぎないと考えるなら、それはタンマサート大学のタンマサートだけの話です。言葉の広い意味は、すべての種類の問題を断つ学問で、タンマサート大学では学んでいないということもあります。人間のすべての種類の問題は、サートであるタンマで切られるべきです。タンマをすべての種類の問題を断つ刃があるサートにします。

 タンマサートという言葉の意味がこのように広く高くても、ある場所、ある施設の目的で、狭く定義されることもあります。しかし私たちのこの言葉は素晴らしく、高い意味、高い理想があると知っておくべきです。だから私は、智慧の武器という言葉である宗教面のタンマ、特に仏教で使う教えに譬えられるべきと考えます。

 次は問題という言葉について、話してもう少しはっきりさせたいと思います。今日は言葉について話すだけで、何も多くは話さないと述べたように、言葉を調整して一致させます。簡単に言えば問題とは質問でなく、question ではありません。問題は problem で、答えなければならない質問だけではありません。それは言葉の話だけです。

 問題はあらゆる種類、あらゆる方向に生じます。食べる米がなければ問題になり、そして何をして食べるか、何らかの危機が生じ、すべて解決し、片付けなければならない問題と言います。行動で答え、行動で質問し、言葉でではありません。人間を苦しめて我慢できなくさせ、解決するために転げ回って探求させる物、それが問題です。

 目を閉じて最高に広く見て、人間のすべての時代の問題を見てください。身体の問題、心の問題、精神の問題は人の部分で、社会の問題は社会の部分で、人物の部分と社会の部分は、時間と時代があり、幾つもの段階に分類できます。

 文字による証拠がない有史以前の時代は、それはどのようだったか知ることができる理由や痕跡があります。例えば石器時代の人が土の中に捨てた物が、その人たちはどのようだったか、どのように暮らしていたかを教えるので、集めて学んで見れば、彼らがどのようであり、どのように暮らし、どんな問題があったか知ることができます。

 もっと遡れば更に遠くなり、そのたびに畜生の問題に近くなります。人は動物より後に生まれたという考えは、確信できます。まだ動物に近かった最初の人間の問題は、畜生の問題に近く、非常に少なく、あるいは非常に簡単、あるいは非常に低いです。その後発展し、人が発展して畜生から遠くなる度に、問題は変化しました。

 文化、あるいは耕作が生じる以前と呼ばれる時代は大きな違いがあり、分かれる一つの点とするべきです。それは大きく違うという意味で、人間はまだ自分で作ることを知らず、自然にある物を採って来て食べなければなりませんでした。これもこちら側です。

 その後栽培することを知り、田を耕すことを知り、人間は自然だけに依存しないで作ることを知りました。それは大きな変化がありまず。だから鍬などの道具で農作物を作ることを知った、文化の始まりと信じます。それで問題はどのように違うか考えて見ます。その人は素手だけで道具がなく、手網以外に道具を知らず、その後田を耕すことを知り、それも非常に違い、脳味噌も非常に違い、問題も変化しました。

 ここで賢くなり、簡単に長く生き延びることを知りました。人が増えると問題も変化しました。人間は知性で蒔いて育てることを知り、自分の能力は畜生を遠くへ捨てました。しかし社会の問題は生じなければなりません。みなさん自分で推測しても良いです。何があるでしょうか。作ることがあれば必ず収穫があり、それは人を豊かな人と貧しい人にします。

 次に賢い人が道具を作って生産すると豊かになり、遅れている人は作れないので貧しい人でいなければなりません。社会の問題が生じ、人同士の違いが生じ、今日まで、今でも、何万年たってもまだ同じ問題があります。つまり人は、大富豪と赤貧の人くらい違い、ずっとこのようです。稼ぐことを知ると言うのが一つの時代です。心の面の探求が遠くなり、心の文化の時代になるまで、心の話はまだ探求がありません。

 物質面の進歩は、誰もが好きなので早くなり、強烈になり、そして簡単にできるようになりました。しかし最後には、これはまだ穏やかな幸福ではないと見る人、あるいは人たちが現れました。食べて、着て、家があり、満足する家があり、法律があり、賢い人が統治し、統治制度があり、あるいは統治者がいれば問題はなくなると考える、そういうことはできません。人にはまだ心の問題があり、恐怖があり、疑念があり、驚愕があり、常に憂慮があって眠れません。

です。だから静かな場所へ遠離する人が現れ、心の話を探求するために一人で住みました。だから心の問題が形になりました。まだ食べることをしっかり安定させることを知らないので、初めはまだなく、その後食べることが安定し、その面の問題がなくなると、代わりに心の問題が生じました。我慢できない人は答えを探しに出掛け、心の面の答えを見つけました。あれこれ焦燥を感じる人は、あのようにこのようにしなければならない宗教の系統が生まれました。

 インドで信じられている話では、これらは仙人、牟尼、ヨギー、家を出たいろんな人たちで、森や密林へ行って、座って物思いや思索をしました。彼らは世界でたくさん経験した人で、年齢も多いので、考えつくことができ、考え出した項目ごとにまとめました。後にその利益にあずかろうと訪ねて行く人があり、あるいは彼自身が他人に利益を与えたいと思い、モン(マントラ)と呼ぶ項目を教え、すべての宗教の初めであるモンと呼ぶ時代はこのように生まれました。

 その後憶え難いので詩や何かに綴り、それもモンと呼びます。誰かが仙人を訪ねると、仙人はモン、つまり私たちの心の問題を解決する非常に重要な一つの教えを教え、必要のない話にまで拡大しました。重要と呼ぶべきでない話もあります。モンがあり、モンになりました。しかしそれは考えないで、人間が知るべき、そして安心できる最高に必要な話だけを、すべての仙人から受け継ぎました。

 何代にもなると、モンがどんどん多くなったので、町や都、あるいは森の先生たちが詩に綴って良くしたこともあり、それをヴェーダ、あるいはプラヴェーダ、あるいはサイヤと呼びました。トライヴェーダと呼ぶ物は、いろんな時代のいろんな仙人から集めた非常に大きな collection で、人間の知性であるヴェーダと呼ぶ物が生まれました。この時代にもたくさんあります。しかし人間は心の問題を少なからず解決できました。

 その後、ブッダが生まれる時代に近づくと、もっと良くでき、内面から見ることが多くなりました。それ以前は外面を見、あるいは外部を見てヴェーダを発見し、太陽、月、天人など外部のいろんな物に関わるモンを発見しましたが、それはないより良く、人の心の苦を解決することができましたが、完璧ではありませんでした。それらの実践規則は多少安心させますが、完全にではありません。

 その後は、本当の宗教と呼ぶ時代で、例えば仏教は内部だけを見るので、内部の知識、煩悩の話、内面に生じる苦の原因である物の知識が生じました。ブッダの時代と呼ぶことができる時代に、この種の宗教が生まれました。プラヴェーダ等の教典は批判されて編集され、使い物にならない物は捨て、まだ使えるものは熟慮する文言に使われ、どんどん内面に傾いた、世界の不思議な時代の一つです。

 インドではこの時代をウパニシャッドと呼びます。アーチャンの近くに座る、あるいは真実の近くに座る、どんな真実の近くに座るかは意味次第です。しかしこの時代は内面を振り返って見、心の中のことを知るまで、心の中に入って心の中に生じた物を見る時代です。ブッダもこの時代に生まれ、他の宗教の教祖もこの時代に生まれています。

 興味深い、あるいは不思議なことは、インドだけでなく、極東の中国でも、内面を見る様式の聡明で深遠な教えのある老子が生まれています。老師の教えの幾つかはブッダと同じ、あるいはブッダに匹敵するものもあり、周囲のいろんな物に愚かさで執着させない道を目指しています。老子の教えはこのようで、ブッダの時代と一致します。

 向こうの西洋では、内面から見始め、内面を知る人もいました。すべての物は流れるという意味の「ペンタレー」の教義を教えたヘラクレイタスという教祖は、無常の話を詳しく強烈に教え、仏教と同じだけ無常を教えました。この人はブッダの時代と同じで、同時代と言うことができます。そしてまだアジアの各地に他の人がいます。この時代はなぜ世界中に内面を見ることが生じ、そして更に深い問題解決の解決ができ、更に良く問題解決ができる知識を発見したのか、不思議なことです。

 これを「宗教が生じ、教祖が生じた時代」と呼びます。二千年、あるいは三千年このようにして来たと言うことができ、二千五百年を基準にする方が良いです。人間が内面を見始め、非常に知性と智慧があり、最高レベルの問題、つまり心の面、精神面の問題を断つことができた時代の、中心である二千五百年です。

 問題はこのように変化して来て、そしてサート、あるいは武器である智慧と呼ぶ物もこのように進歩発展して来ました。サートと呼んでも智慧と呼んでも良く、それは生じる問題につれて高くなりました。そして人間は解決を探求し、その結果断つことができ、消滅させることができました。サート、あるいは並行して来た問題と呼ぶものを見ると、問題は断たれる物で、サートは断つ物、断つための道具で、物質の問題は簡単に断つことができ、心の問題も簡単断つことができ、社会の問題も簡単に断つことができます。

 物質の問題は、例えば昔は自然に生えた物を森へ採りに行く以外に何もしない、あるいは田や何かを作る、これが物質の問題です。耕作を知ると心の面の問題があり、進歩した仕事である義務ができるだけ賢くないので、心を訓練してサマーディにすることを知り、心の能力を普通のレベルより非常に高めることができ、ヨギーか牟尼か何かの、訓練して心を高くする人たちの様式が生まれ、かつて十分でなかった心の力が十分になりました。

 だから良く学習でき、良く記憶でき、良く批評出来、良く判断できました。精神面の問題と呼ぶもう一つの問題に分ければ、自然の深遠な知識と理解が増え、すべての物の「無常・苦・無我」をタンマの教えで知るまで増え、高いレベルの精神面の知識を知った時、それらの問題を断つことができました。

 そしてちょっと不思議なのは、社会の問題も解決できることです。個人の部分の発展で、社会の面は付いてこない分けでなく、それも賢くなります。だからブッダの時代の人は社会の問題も防止し、生じさせないだけの賢さがありました。つまり彼らは自然の体系を維持できました。Spirit あるいは穏やかな状態がある自然の意図も維持することができ、誰も他人より有利になるほど低劣な振舞いをする人はいませんでした。他人より有利になる低劣さは、社会の問題である混乱や危機を生じさせます。

 初めの人間は森の中で採って食べ、過剰な部分を取る人はなく、蔵や倉庫を作って余剰として保存する知恵がなかったからと、段階的に話すことができます。

 その後の時代には、採って来て倉庫に蓄えることを知る、知恵のある異常な人間が現れて豊かになり、他の人は貧しくなり、奪い合いが生じたので「私たちはそのように有利にならない」という規則が生まれました。

 その後、田畑でたくさん生産することを知ると盗みが生じ、それで集会をしなければならなくなりました。これは、経蔵の中のブッダの言葉であるスッタにあるとおりに話しています。このような誤り、例えば盗みのような誤りを防ぐ義務を行う長(おさ)を決め、長は権力があるので仮の大臣、仮の王になり、盗人を追放し、何でも望ましくない物、特に余剰な分を取ることを追放し、そしてまだ愛し合い援け合っていました。

 このように暮らしていると、それが自然に、物質でない心の研究になりました。全員の心が、余剰を取らない、他人より有利にならないというこの項目は徳であり善であると認めました。だからブッダの時代には、人は自動的に問題解決をし、身勝手なだけの金持ちが生じないようにし、貧しい人のことを考える金持ちが生まれたと見ることができます。今は見ることができませんね。

 しかし話しているのは昔の話で、長者、つまり財産がたくさんあり、部下がたくさんいて、兵がたくさんいますが、何を手に入れても社会の利益のために使いました。例えば競争で貧民に布施小屋を作り、金持ちの象徴は布施小屋を競って建てること、競争で寺を建てることで、それは心意気を現しました。だからそれらの奴隷たちはその長者から離れたがりませんでした。彼らは自分の子や孫のように愛し、何でも支援したからです。

 例えば何かの利益を得て競争で布施小屋を建て、それで自分の家の人、家の奴隷を養わないことはあり得ません。彼らは子弟を扶養する養父のように、愛し愛着しました。現代の富豪や資本家という言葉の意味と違います。彼らはどんどん身贔屓になり、競って布施小屋を作りません。現代の資本家は競って布施小屋を作ったことがなく、昔の長者は競って布施小屋を作った人です。これは自然に社会の問題を解決しました。

 人間の知識知性が発展して、このような状態でいろんな問題を切るサータラーになり、そしてタンマを基準にする。これが本当のタンマサートです。みなさんが古くから伝わっているマヌータンマサートの話、マヌータンマサートを規定した人の話を読めば、すぐにこの話を理解できます。つまり彼はタンマをサートにしました。この話はインドで生まれました。マヌータンマサートはインドから受け入れ、マヌータンマサートと規定しました。彼は大昔、ブッダの時代のインドの言葉から翻訳しました。

 タンマとは何か、それから刃があるものサートになり、それはどのようか、いろんな問題をどのように切るかに関心をもってください。人がまだマヌータンマサート式の品行を維持していれば、世界はこのようではありません。まだ愛と慈悲があり、誰もがタンマをしっかり掴んでいたに違いありません。今は全部捨ててしまいました。インドには跡形もなく、物質に向きを変えたので、物的発展と呼ぶ新しい時代になりました。

 物的発展は現代で、物質は最高に発展し、何十年、何百年かけてこうなり、今は物質の発展は最高です。物質のことだけを考え、物質を崇拝し、物質が発展し、心の話は考える必要がなくなりました。

 物質の話は体の話で、幸福や体の面の愉しさ美味しさに注目し、最高の物になりました。今世界中の人は、どんどんこのようになっています。身体の面の幸福を崇拝するので、タンマサートを捨てなければなりません。サートであるタンマを捨てて、捨てて、それで何をサートにするか、自分で見てください。それで現代の人の問題を解決する物は何もありません。

 今時の平和がない世界の問題、あるいは細かい問題を、何が解決できるでしょうか。やくざ者が国中、町中に溢れ、クルンンテープではどうか、みなさんは見ています。何が解決し、何がこの問題を切るサートになるでしょうか。

 今愛欲を崇拝し、識の面の娼婦が世界中に溢れ、最高に扇情的な服装をした女性が世界中に溢れて、人間の心を何らかの物質面へ逸れさせ、何がサートになるでしょうか。今の世界をどんどん支配している識の娼婦から生じる問題を切る、刃があるサートに何かなるでしょうか。何をしているのかも分からず右往左往して、益々女性に挑発的な器官を露わにさせるので、至る所に性犯罪が溢れている社会の問題があります。

 新聞のニュースを見て比較すると、ほとんどの新聞は今、今年、この十二年から十五年の新聞と比較すると、大見出しのニュースはまったく違います。今はヤクザな話、愛欲の話が、一面も裏面も紙面一杯で、写真もあります。

 しかし十年以上前の新聞はこのようではありません。ドキュメントの見出し、あるいは気持ちの良い内容の記事がありました。これは世界がどのように変化したか、肉体文明がどのように発展繁栄したか、どこから取り入れたか、物質が発展したと言われる時代にどのように問題が生じたかを現しています。

 富豪になれば極めて身勝手な富豪で、貧しい人は極めて貧しく、富豪を攻撃しなければなりません。昔式に富豪が競って布施小屋を作れば、貧しい人も世話を受けられるので、この問題は生じません。コミュニストの国の社会主義、あるいはそれ以上の何かは生じません。それは自然に防止するからです。それがタンマサートの、タンマであるサート、サートであるタンマの結果です。刃がある武器であるタンマはこれらの問題を切り取ることができるので、人間は平安に暮らせます。

 次に精神主義の時代は少しずつ薄れ始め、心、あるいは精神を重要とする主義は薄れて、物質を重要と見る主義がどんどん増え、何百年も立たずに、物質面の進歩は走っているようです。例えば月の世界へ行けるなど、物質面の発展は走っているようと言います。すべては人に物質から肉体的な幸福や利益を求めさせる話ばかりで、人の言うことを聞く人も、恥を知る人も、誰かを支援する人もいません。

 みなさんが今、誰かに慈悲を乞うても、全員がタンマを捨てた時、仏教も捨てられ、本当のことを言えば、ほとんどは口だけで信じていています。キリスト教では「神様は死んだ」と言って騒ぎになっています。神様が死んだと見なすのは本当か、あるいは正しくないかどうか、知性のある人の集会で判断すれば、神様は本当に死んだと見る人がいます。つまり神様、あるいは神様と呼ぶものは必要ありません。

 見てください。本当はタンマが神様で、神様は死ねません。そして神様はいつでも必要です。神様が不要なら、あるいは死んだなら、この世界にタンマサートは、タンマである最高に鋭い武器はないという意味です。そうすれば複雑困難なすべての問題が生じます。今タンマサートも残っているのは名前だけ。分かりますか。タンマサート大学の名前にしました。

 残っているのは名前だけにならないように、個人の部分も、社会の部分も、人間の厄介な問題を切る、本当のタンマがなくならないように気を付けてください。本当にあれば、タンマは本当にあり、死にません。神様が死ななければ、社会の問題を切る威力がある物があり、そして並べて売っているすべての新聞紙面の大見出しのような厭わしい話、嫌らしい話、恐ろしい話はなく、人間は平安に暮らします。

 人間の問題という言葉を理解してください。人間は問題があり、そして人間は切る道具を求め、その道具を私は「刃のある物」、あるいは「サート」と呼びます。

 私は初めに、今日はちゃんとした話はしないで、タンマと呼ぶものは意味が変わり、物質になり、タンマである威力になり、何がこのようなタンマか、曖昧さを生じさせる重要な話し言葉についてだけ話すと言いました。タンマサートと呼ぶものが本当にあれば、それは「人類は安全、世界は安全」と教える物です。私たちに本当のタンマサートがあれば、この世界は安全で、人類は安全です。もし刃がある物である、すべての問題を切ることができるタンマがあれば。

 みなさんがタンマサート大学で学ぶだけなら、他の大学で学ぶのと同じ小さな問題を切るだけで、深い問題を切るわけではなく、人間のほとんどの問題、特に何らかの学問を学ぶと言います。それも愛し合うことなく暮らしている人間にとって、多少の問題を切ることができます。

 人間が同じ人間同士として愛せば、法律は不毛で、他人より有利になる人は誰もいません。それ(法律)は少ない部分の問題解決のためで、証拠次第です。それも確実で正しい、あるいは「百パーセント公正ではない」と言うもので、初等裁判所、中等裁判所など、まだ小人も大人もあり、それは証拠次第、判事の脳味噌次第だからです。

 タンマサートと呼ぶものはまだ百パーセントでなく、正しくて良い基盤がなくてはなりません。つまり人間の心は誰でも正しさを崇拝し、正しさや真実であるタンマと呼ぶものを愛します。そして誘い合ってタンマ、あるいはプラタムと呼ぶものをたくさん学べば、これが人間のすべての問題を切るタンマサートになります。

 このようにタンマサートで会計学を学んだだけで、どれだけ問題を断つことができるタンマサートか、それは会計ができない人たちにもできる話です。しかし本当のタンマサートと言えば、人間のすべての問題を解決できなければなりません。根源は一つ、利己主義です。それは人間の発展につれて増えています。これはあと少し見るべきで、それで十分です。

   人間がまだ動物に近ければ、利己主義は動物のように非常に少なく、高くなると掻き集めて倉庫に入れることを知り、あれこれ生産することを知り、省力機がありたくさん生産し、金持ちになるとたくさん掻き集め、それらの人はまだ貧しいです。問題が生じて殺し合うのは、今でもこのような利己主義に原因があり、私たちの利己主義がなくなれば世界は平和になります。

 平和で、一瞬で弥勒菩薩の世界になり、全員の身勝手がなくなれば一瞬のうちに、この世界は弥勒菩薩の世界になります。今は誰も他人を愛さず、掻き集めて自分の物にしても満足を知らず、幾ら手に入れても満足を知りません。

 だからこの、何としても利己主義を消滅させる項目を見ます。この知識が本当のタンマサートです。法律は必要なく、刑務所も必要なく、望ましくない物を要らなくする結果があります。そして厭わしい物、嫌らしい物、国中に溢れているヤクザ者は、道にもどこにもいません。

 タンマサートと呼ぶものがあり、それが世界を支配するだけで、本当の弥勒菩薩の世界で、コミュニストが宣伝して信じさせるような弥勒菩薩の世界ではありません。本当のタンマサートの人たちの本当の弥勒菩薩の世界で、身勝手な人は誰もなく、資本家も労働者もなく、独占もなく、余剰部分を掻き寄せる人もいません。

 私たちの子供は、親から貰った五十サターンのうち、十サターンを友達に分けてやれます。タンマサートがその子供の心を支配すれば、一日に昼食代五十サターン貰えば、余分として十サターンを分けることができます。彼の十分は四十サターンで、十サターンは友達に上げます。今は特別の子、あるいは友達に恩がある子、あるいは特に友達を愛している子以外は、誰もそのようにしません。そうする必要がありません。

 一般レベルはもっと要求し、五十サターンでは足りず、一バーツ、二バーツ、三バーツ欲しがっても足りず、ニ三バーツ貰って友達に一バーツ分けることができません。分けてやる余分がありません。身勝手と言うものは、身勝手ゆえに一心不乱に攻めるだけで余分がなく「私たちは余分があったら友達に分けなさい」と言うのはありません。

 徳を積んだ昔のようなら、昔の人は分ける分があり、他人に分け、仲間に分けました。例えば時間を犠牲にして、昔式にね、一日お寺の仕事をしました。あるいは財産をお寺に分け、あるいは大衆に分けて支援しました。

 私はこの目で見聞きしました。私が子供の頃の年寄りは、豆や何かの種を土に蒔く時に、ある文句を唱えました。彼らは「鳥が食えば徳になり、人が食えば布施になる」と叫んで種を摘まんでへこみに埋め、「鳥が食えば徳になり、人が食えば布施になる」と叫んでその穴に埋めました。そして育てて実を収穫できれば、スイカでもパイナップルでも何でも、泥棒に腹を立てたことはありません。あるいは彼の作物に穴を開けて食べた動物に腹を立てることもありません。

 彼らの心はこのようで、ピストルを買う必要はありません。そして全員がこのようにすれば、どの町もどの町も「鳥が食えば徳になり、人が食えば布施にな」れば、国はどのようでしょうか。すべての田とすべての畑が愛し合い、妥協し合い、タンマで兄弟になれば、ドアに鍵を掛ける必要はなく、家に鍵をかける必要はなく、近所の家に「家を見ていてください」と言い、閉めるだけで田んぼでもどこでも出かけられます。鍵はありません。

 これです。タンマサートが身勝手、不正、泥棒やら何やらの問題を、これほどまで断つと言うのは。みなさん、タンマサートという言葉を見てください。これほど鋭利で、タンマでない物を切ることができます。さて、私たちはタンマサートという言葉を基礎として掌握します。今みなさんは新しく来たタンマサートの人たちがいるので、私はこの機会に、みなさんが忘れてはならない、憶えられる言葉を話しました。

 まとめると、人間は生まれた時から問題があり、人類は人間になった初めから、何万年か分からないほど前から問題があるので、問題を切る道具であるサートと呼ぶ刃がある物を求めました。そしてタンマに由来しなければならず、タンマの形をしていなければなりません。そうすればサートと言い、タンマサートと言います。

 人間は人間の問題を切るタンマサートを欲しがり、今はまだなく、まだあまり知らないので、勉強する努力をしなければなりません。だからここから何らかの利益を求めるなら、本当にこのような意味でタンマサートになる話だけを学び、訓練し、話す以上に善いことは何もないと考えます。だから私たちの教祖であるブッダの望みどおりにタンマサートと呼ぶものを呼び戻し、本当の利益に使うために、後日続きをお話します。

 ここに座っているみなさん全員の今回出家は、ブッダだけに捧げます。ブッダはみなさんがタンマサートを知ることを望まれ、そして時にはパンニャーウットと言い、アーウット(武器)は智慧で、みなさんは武器である智慧で悪魔と戦います。

 悪魔とは、実体がある人物である悪魔や鬼と理解しないでください。悪魔と言う時、この言葉を聞いておとぎ話のように長い牙がある鬼の顔を考えれば、世界で最高に愚かな人です。悪魔はそのようではありません。

 人間を消滅させる人間の心の中の感覚を、人は悪魔と呼び、武器である智慧で悪魔と戦い、悪魔に勝ち、悪魔を全滅させなさいと言います。パンニャーウット(智慧の武器)とはタンマサートと呼ぶ物で違いはありません。

 さて、学ぶため、今後の講義の理解のためにこの言葉を基準にするということです。時間になりましたので、今日はこれで終わらせていただきます。



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