神様がいる宗教の教典の誕生


1979年12月27日

 タンマに関心がある善人のみなさん。マーカブーチャー期の土曜講義の第四回である今日は、仏教教団員が知るべきキリストダンマの要旨と題してお話します。特に今日は、神様がいる宗教の教典の誕生について述べるつもりです。しかしここへ来て、多くの若者がこの講義の時間ギリギリに来たのを見たので、今日の講義の幾つかの項目を変えるつもりです。つまりこれらすべての若者、学生にとって最高に利益になる状態で講義します。しかし元々決意した内容は捨てません。

 神様がいる宗教の教典の誕生というものは、学生のみなさん、宗教は二種類に分類できると知らないかもしれません。つまり直接神様がいるのと、神様がいないか、間接的な神様がいるのとで、私たちは仏教には神様はいないと教えられてきました。仏教には他の宗教のように直接神様はいなくても、それらの宗教にある神様と同じ義務を行うことができる何等かのものがあり、これを「間接的な神様がいる」と言うと、理解を新たにしてしまいます。

 直接神様がいる宗教は、考えや感覚があり、罰を下したり寵愛したりする人物のような神様の状態を述べます。仏教は言葉で述べられない神聖な、簡単に指摘して見せることができない深遠で秘された神様、しかし勉強すれば感じることができる神様について述べます。

 直接神様がいるすべての宗教、特に、今私たちが理解するために学ぶ努力をしているキリスト教は、すべての教典は神様の心によって書かれたと見なさせるとハッキリ書いてあります。だから神様が著者と見なします。つまり教典を書いて宗教的権威に委ね、神様によって書かれたと同じと見なします。

 天国の父である神様が聖なる著者の手を通して伝達して書いたと言い、どの宗教の教典を誰が書いた人か、言い方次第です。その著者は神聖な手がある聖なる著者で、直接来てハッキリと見たような状態で、天国の神様の言葉を人間に伝達します。共に生きているので、理解し合わなければならない物として理解しておくべきです。

 比丘・沙弥でも、清信士・清信女でも、人間にとって利益のある他の宗教についての知識があることは、この理解は人間にとって利益があります。もし宗教間で理解合わなければ人間にとって害、世界にとって害があり、この世界は互いに無理解があり、嫌悪があり、宗教的にも軽蔑し合って暮らします。正しい理解があれば、和合する考えがあり、世界を共にし、同じ考えがある人の同じ世界のようになります。

 今世界にはたくさんの宗教があり、政治の道具に使っている宗教もあり、政治に関わらずに直接宗教同士の衝突になっているのもあり、共に生きる良い結果ではありません。だから宗教間の理解をどのようにするか、良く熟慮して見てください。

バイブルの誕生

 今日はキリスト教の教典の誕生について話すと、キリスト教は、経典は神様の御心の見えない力によって書かれたと見なします。イエスに関した教典は西暦四十一年に書かれたばかりと知られていても、つまりイエスが亡くなって九年後にマタイ、ルカなどの弟子が書きました。もっと古い教典、ユダヤ人たちの教典はバイブルの初めの部分で、直接著者の名前は明らかでなく、全部合わせてバイブルと呼ぶキリスト教の経典です。

 三蔵と比較すると、三蔵の十二分の一くらいで、非常に少ないです。しかし述べられている内容は、セントマタイによって書かれたマタイの教典のように名前が明らかになっている人物が書いたのではないと見なさせ、誰が書いても神様の御心の威力によって書かれたと見なさせます。

 この「神の御心」は、私たち仏教徒には奇妙な言葉ですが、キリスト教では三つに分かれた神様がいて、最高の神様である父である神と、心である神、あるいはどこへでも行ってどことでも連絡でき、どこで何を現すこともできる父である神の精霊、そして子である神、つまりイエスで、父と子と、精霊です。

 その教典は神の御心によって著者の手によって書かれ、そのように書かれ、合わせて教典になりました。古い教典は、西暦四十一年に書かれたばかりのイエスの話である新しい教典よりずっと前に書かれました。

 しかし興味深いのは、神様の見えない力によって書かれれば、この世界で書かれても天国で書かれたと見なさせることです。そしてこの世界の筆者の手によって伝達され、合わせて神聖な教典になり、直接天国から来て、この世界の神聖なものとして、触れることが許されない最高に神聖なものと執着しなければならない宗教的権威になります。これがキリスト教側の教典です。

 しかし歴史学の学生が書いている、あるいは認める限りでは、書かれたのはキリスト教の言葉であるヘブライ語で書かれ、ラテン語になり、いろんな言葉になって英語になるまで、何度も翻訳を繰り返し、どのような間違いや異常があるかしれませんが、神様の支配によって神様によって書かれたと見なせば、異常やゆがみは何もないと見なさせます。常に神様が筆者を支配しているからです。これが私たちの宗教の友達の教典の由来、あるいは誕生です。

仏教とキリスト教の教典を書くことの比較

 一方仏教は、ご存知のようにブッダは庶民の言葉、つまりブッダが滞在され、そして教えている地域、ほとんどはコーサラとマガタ地方の庶民が話しているプラークリット語で、庶民の言葉で教えの言葉を話されました。

 ブッダが般涅槃すると、弟子たちは確実不変な文章にして暗唱したいと望んだので、集会を開いて、誰がどのように聞いたかをサンカヤナーである集会で放させ、話すことができる人を選び、庶民の言葉で言ったのでは暗唱できないので、サンギーティと呼ぶように一同に暗唱できないので、話した言葉を詩に綴って、庶民の言葉から文書の言葉、あるいは文学の言葉に変えなければなりませんでした。それで今の三蔵のように、パーリ語と呼ばれる暗唱文が生まれました。

 暗唱文は、文法的に相応しい言葉の規則に則った状態で綴られ、暗唱するに相応しい詩文で、暗唱しやすく、そして口で暗唱して、第一回のサンカヤナーから第二回、第三回のサンカヤナーまで三百年文字で書かれませんでした。四百年くらい後からスリランカなどで明文化されたと書かれています。何百年も後に文字で書かれたということです。

 ここで違いは、神様自身が書いた教典は神聖で批判の上にあり、変化、改革、あるいはそれらの文言と違うどんな解釈も認めず、それだけで永遠に不変の言葉と言います。

 仏教のすべての教典は、ブッダはそのように話されていません。ある部分の内容が他のほとんどの部分と一致しなければ、つまりそのスッタと一致しない、律のほとんどに近くなければ、その内容は間違っていると見なし、変えてしまい、矛盾しない大部分の内容と一致させなさいと言われています。そしてまだ、解釈する自由を公表する発言があります。

 パーリ(ブッダの言葉)であるカーラマスッタで、「教典にあるという理由で信じてはいけない。主張してはいけない。自分で見えた真実を基準にしなさい」言われています。このような基準にすれば、三蔵の内容を批評することができ、新しい解釈ができるので、誰が解釈する人かという厄介な問題が生じます。

 ここで私たちも、何が間違いで何が正しいか解釈するこれらの厄介な問題に関わる部分があります。教典の解釈、あるいは何でも重要な話の解釈で、間違いか正しいかは、それが人の利益、あるいは一人の人、あるいはすべての人の利益があり、そのように行動すると利益があるなら、正しい解釈と見なしてくださいと言いたいと思います。もし解釈して、その意味に利益がない、あるいはそのように行動して誰の利益にもならないと明らかになれば、正しくないと見なします。

 文面で、話す言葉で、明らかな理屈がある人の理屈で、あるいはなんであろうと正しいとしないで、行動したら本当に望ましい利益があるとハッキリと見でたことを、正しい解釈としなさいという意味です。今私たちが何をどう解釈するにも、本の翻訳でも、間違いか正しいか、どちらかという問題が生じたら、このような教えを遵守しなければなりません。どう訳しても、どう解釈しても、行動して、はっきりと利益が見えれば、それは正しいと見なしてください。少なくともそれは、たくさんの正しさの中の一つで、利益がたくさんあっても、どれも正しです。

 しかし本当の利益の一つなら、一つの正しさであり、ほとんどは一つの内容に一つの正しさがあります。しかし偶々幾つも正しければ、つまり幾つもの利益があれば、幾つもの解釈ができると見なします。このように捉えれば、記憶して伝承してきた、そしてそれは非常に大量で、非常に長く、意図的にも意図が無くても、間違いを生じさせない、あるいは汚れさせないよう防ぐことはできない教典がある仏教の教えで正しいです。

 これらのものが時代時代に、人から人へ伝承されても、誰かが近寄って触れ、介入して何かをすることができます。だから後になって間違いが生じることもあるので、私たちにはこのように吟味して出してしまえる方法があります。

 ここで私たちはどのようにしたら、同じに教典があっても、生じ方、あるいは維持し方が違うことを協調理解できるでしょうか。一方の教典は神様が書いて下したので、一文字たりとも間違うことはなく、私たちのは人間が書き、変化させることもでき、挿入させることもできる因と縁で経過してきたので、どのような教えを守れば安全か、そして神様がいると信じる人たちと一致させることができるか。これが誰もが知るべき、そして答えられるべき問題です。

 最初に学生のみなさんが理解できるだけ神様について話し、仏教にも神様がいるという項目について述べることは、すべてに有益に使うことができ、述べたような教典の正しさや誤りを判断するにも、私たちは神様と呼ぶもの、あるいは神様からもらったものに依存することもできます。

 仏教には、イエスやキリスト教の父である神様のような人物である神様はいませんが、一つの物があり、人物ではなくても、人物である神様が持っているすべての威力があります。仏教の側の言葉ではダンマダートゥと言います。聞いて変に感じても、ブッダは神様に譬えられるものをダンマダートゥと呼ばれたと憶えておいてください。
 
 ダンマダートゥとはダンマのダートゥ、あるいはダンマであるものという意味で、たくさんの種類、あるいは多くの形があります。しかしその形は執着する形で、最高の物もダンマダートゥです。だからダンマダートゥという言葉を使わなければなりません。

 ブッダは、『如行、つまりすべてのブッが生まれても、すべての如行が生まれなくても、そのダンマダートゥはある』と言われています。つまりブッダがそのダンマダートゥを作ったのではなく、ブッダがそのダンマダートゥを知り、そしてそのダンマダートゥを教えて公開し、ブッダに続いて教えだけです。そのダンマダートゥこそ、何よりも崇高なもの、つまり神様のように誰にも依存せず、ブッダでさえそのダンマダートゥを尊重しました。

 最高に悟った人であるブッダは、通常誰も尊敬するべきではなく、私たちの普通の感覚では、猶更誰も尊敬すべきでないと見えます。しかしブッダでも、私たちがブッダを尊敬するように尊敬するものがあり、ブッダもプラタムあるいはダンマダートゥと呼ぶものを尊敬し、すべてのブッダはプラタムを尊敬すると言われました。

 ここでタンマと呼ぶものは一体何でしょうか。それはブッダが「そのダンマダートゥ」と呼ばれるもので、そのダンマダートゥはタタター、つまりそのように確定であり、他のようになりません。この言葉もあちらの、神様がいる人たちの神様の状態で、タタターは「そのようであり、他に変化しない」という意味で、アヴィタタターは「そのようであること違わないこと」、アンニャニャタターは「そのようであること以外でないこと」です。ダンマッティタッターは「当たり前であること」、ダンマニヤマターは「当たり前で不変の規則」、まだいくつでも話すことができます。

 しかし他に変わりようがない不変の規則とまとめることができます。これがそのダンマダートゥです。私が普通の言葉で話す時、彼らの名前は出しません。明示できないから、名前がないからです。私たちはこの人、この旦那、その医者と話さなければならないなら、そのように話せば、聞いて正しく分かります。ブッダも同じで、それについて話される時、相応しい言葉、あるいは可能な限りの言葉で、ダンマダートゥと呼ばれました。ここでそのダンマダートゥは、あちら側の、神様がいる側と同じように何でもあるもので、これから話します。

 さて、そのダンマダートゥについて先に話します。そのダンマダートゥには何があるかは、因果の法則があり、これがあるからこれがあり、これがあるからこれがある。つまりすべてはそのダンマダートゥになります。苦である人間に関しては、縁起の話と言います。苦はどのように生じるか、自分で本を読んでください。その規則を因果の法則、そしてそのダンマダートゥと言います。

 もう一つのものを素晴らしい真実、聖諦と言います。苦は必ずこのようで、苦が生じる原因は必ずこのようで、他ではありえず、滅苦は必ずこのようで、他ではあり得ず、滅苦に至る道は必ずこのようで、他ではあり得ません。これをそのダンマダートゥと言います。短くタターと呼ぶものはタタターと同じで、四聖諦は、タタターなどのダンマダートゥです。

 次は三相の規定です。すべてのサンカーラは不変ではなく、すべてのサンカーラは苦の状態があり、そしてすべてのダンマは無我で、これを私たちは三相と呼びます。この三相の法則はタタターであるダンマダートゥです。

 パーリに現われているだけで三つの話があり、縁起の話、四聖諦の話、三相です。それがダンマダートと呼ぶもので、タタターであり、つまりそのようで、アヴィタタター=そのようと違わず、アンニャニャタター=そのよう以外にありません。

 これらの言葉は神様の状態で、人物である神様がいる側は、このような状態がなければならない人物がいます。しかし人物にならなければ、説明し直します。しかし彼らは人物として説明したがるので、私たちは反対すべきでなく、反論して時間を無駄にすべきではありません。何よりも威力がある最高のものは神様と呼ぶような状態がなければならないと認め合います。

 神様が良いか悪いか、本当か嘘か、正しいか間違いか、私たちは判断できません。私たちは、神様がいるのは良いか悪いか、神様がいると利益があるかないか、神様を持つことは利益があるか、利益がないか、そして支配する神様がいるのは良いか悪いか、つまり利益があるか利益がないか、新たな問題にします。学生のみなさんは神様がいるかいないか、自分で選ぶことができます。しかしいるかいないか選ぶ前に、いればどんな利益を受け取るか、いなければ何を失うか、明らかに見るべきだと言いたいと思います。

 支配するものである神聖なものを持たずに生きることはどのようでしょうか、徳とカンマ任せで、基準も規則もないのはどのようでしょうか。もし支配する神様がいれば、どのような利益を受け取るでしょうか。

神様がいる人といない人の違い

 現代社会の人は神様、あるいはダンマダートゥを踏みつけて何かをする人がたくさんいるので、やくざ者が増え、悪者が増え、警官が捕まえられないほどだと観察して見てください。警官を増やし、法律を増やし、刑務所が何百倍、何千倍もあっても、この種の人の悪を止めさせることはできません。この種の人たちには信じる神様がいないからです。もしこれらの人に信じる神様がいれば、警察官も、裁判所も、刑務所も必要ありません。

 これらの人が信じる神様がいて、そして本当に信じれば、私たちは快適に暮らせ、今私たちの国、あるいは世界にどんどん増えているような悪質で、恥じであり、恥知らずに侵害するやくざ者はいません。

 なぜそのようでしょうか。それは、もし神様がいれば、神様を信じている人は誰でも神様を恐れ、神様の教え、あるいは望みに反すことをする人はいません。神様が自分を愛すように他人を愛したいと望めば、誰でも同じ神様の子と見なしたいと望めば、侵害することはできません。このような神様を信じれば、他人を侵害する人は誰もいません。

 神様が、神に仕えるなら他人に仕えなさいと教えれば、神様の望みに従うために他人を援けたいと望むという意味ですが、そうすれば互いに助け合う人ばかりになり、世界は幸福で、天国のように素晴らしい暮らしになります。互いに助け合うからです。人に神様がいればこのようで、神様がいなければ物質だけで、何をしても物質のため、俺のためなので、他人より有利になり、他人を侵害し、あるのは身勝手だけなので誰も援けようと考えません。それでこの世界はどうなるでしょうか。

 この神はダンマダートゥでしかなくても、つまり人物でなく、話さず、他の宗教の神様のように人物と仮定しなくても、仏教にもその状態の神様がいて、誰もが自分と他人の利益になる種類の正しい行動をするよう望んでいる神がいます。他の宗教の神様は簡単に話して聞かせることができ、子供でも聞いて分かり、教育の無い農民でも、最高に神聖な神様は天にいて、私たちを支配していると、聞いて意味が分かり、信じ、恐れ、神様が望むことだけをします。

 一方仏教は、その種の神様について話さず、そのダンマダートゥと呼び、自然の法則として存在し、すべてを管理している、つまりすべての物に潜伏している自然の法則である神様について話します。
 
 みなさんは学生なので、学生であることを損ねないで、「すべての自然は自然の法則が支配していて、それらは自然の法則で正しく経過しなければならず、そうでなければ死んでしまうと、自然の話を適度に知るべきです。自然の法則で正しく経過すれば、それは生き続け、発展します。人だけでなく、樹木や植物も自然であり、支配している自然の法則があり、自然の法則で正しく経過しなければならず、そうすれば生き延びることができます。

 畜生も自然の法則で経過し、それ自身の行動を自然の法則で正しくすれば生きていることができ、死にません。人間も同じで、厳格で最高の法則である自然が支配しています。私たちは法則で正しくしなければなりません。そうすれば生き抜くことができ、死にません。

学んで自然の法則を知れば苦はない

 今私たちは死なないことだけを望まず、それより良くなりたいと、つまり苦がない暮らしをしたいと望むので、生き抜くため、そして苦がないために、どんどん緻密になっていく特別なレベルの自然の法則がなければなりません。つまり清潔で明るく静かで穏やかな心があり、そして最高に幸福でもある、私はここまで望みます。だから私たちは神様、あるいは自然の法則をもっともっと知らなければなりません。先ほど少なくとも三あると言った神様の法則を憶えて、忘れないでください。

 初めは因果の法則の話で、「これがあるからこれがある、これがあるからこれがある」は、自分で説明しても良いです。体、言葉、心の行動をその法則で正しくしなければなりません。そうすれば私たちはまったく苦のない暮らしができます。

 短い要旨では、目・耳・鼻・舌・体・心が形・声・臭・味・接触・考えに触れると目・耳・鼻・舌・体・心を通して眼識・耳識・鼻識・舌識・体識・心識が生じ、その時この刺激を触と呼ぶと言います。私たちが愚かなら愚かな触で、私たちが賢ければ賢い触になります。愚かな触なら、愛させたり憎ませたりする愚かな受を生じさせ、執着して苦がある自分になります。

 賢い触なら、それが触れると何が何かを知っているので、美しい、美しくない、良い香り、臭い、美味しい、不味いなどの感覚が生じても、感覚以上の何物でもないと迷って執着しないので、欲望、つまりあれこれ望んで苦を生じさせる欲が生じません。私たちには私たちの生活を支配しているこの法則があるので、この規則に従って正しくしなければなりません。そうすれば苦になりません。

 二番目は、短く言えば四聖諦で、苦とはそのよう、愚かさによる欲望が苦を生じさせる原因で、欲望を消滅させてしまえば苦はなく、八正道と呼ぶ八つの正しい行動をすれば、私たちは苦である必要はありません。この法則は常に私たちを支配していて、いつでも私たちが間違いをすれば苦が生じ、正しくすれば苦は生じません。これが人間にとって最高に特別の神様である四聖諦の法則で、このように私たちを支配しています。

 三番目の三相の法則は、すべてのサンカーラは不変でないと言います。つまり不変でなくなければなりません。自分を見てごらんなさい。身体全体を見れば、頭髪、体毛、爪、歯、皮膚でも何でも不変ではありません。それに対して、不変でない状態に正しく振舞わなければ、間違った振舞いをすれば、苦になります。このサンカーラは苦である状態が、つまり見ると哀れで、迷って愛し、迷って「自分、自分のもの」と執着すべきでない状態があり、それは常に変化しているので苦になるからです。

 これらのものに対して、心の中を正しくしておかなければなりません。それを支配することはできないので、心の中を正しくしなければなりません。自分の心を、これらのもので苦にしないでください。生まれなければならない、老いなければならない、病まなければならない、死ななければならないなどは放っておき、成り行きに任せ、受け取って自分の物にしないでください。そうすればこのように苦になる必要はありません。

 すべてのタンマは無我で、何でもすべて無我なので、それ自体の実体と捉えることができない、厳格に自然のものです。心をそのようにしておけば、自分のものにできないものを迷って愛す必要もなく、自分で支配できない物を迷って憎む必要もなく、そして何かが壊れて死んでも、泣く必要はありません。それは無我の法則などの経過になるからです。

 だから夢中になって「無常・苦・無我」と唱えているお爺さん婆さんを嘲笑しないでください。それはすべての人が「無常・苦・無我」というものを知るよう、そしてこれらの物、あるいは無常・苦・無我であるすべてのものが苦を生じさせないよう、代々教え継いで来た仏教の最高の法則です。

 みなさんは勉強だけ、職業だけしか勉強しないので、仏教のタンマを知らず、それで「私は無常・苦・無我と唱えてばかりいるお爺さんお婆さんより何でもたくさん知っている」と自慢します。お爺さんお婆さんは、「すべての生き物は生老病死を共にする友人ばかり」と唱えてばかりいます。

 みなさんはそのように知るよう、あるいはそのようなことを知るよう教えられたことがありません。みなさんは、私たちの友達は生老病死の友と保証しない暮らしなので、他人より有利になり、自己中心的で、援け合わず、団結しません。それはタンマに反し、そしてタンマの神様がふさわしい罰を与えるので、気を付けて見守りましょう。

 タンマの規則と違ったことをすれば、結果である苦を受け取らなければならず、タンマの規則で正しいことをすれば、結果である満足を受け取らなければならないので苦はない、あるいは幸福と、このように観察しておいてください。これが、私たちの身に付いてる本当の神様です。

 こう話して意味が分かるか分からないか、ここに座っているみなさん、私が「神様が自分と一緒にいる」と言ったら、自分の身の中にいる、自分の命の中、心の中にいると、少し復習させていただきます。それは本当か嘘か考えてみてください。この法則はタンマの法則という意味で、あるいはそのダンマダートゥは私たちの体のすべての分子に、すべての原子にあり、この規則で支配しているので、神様は私たちの中にいると言います。あるいはその自然の法則はすべての原子を支配していて、何も例外はありません。

 だから行動しなければならないすべての行動を、正しく行動しなければなりません。そして必要なのは卑近なことで、食べること、眠ること、寝ること、いろんな物を消費することを、自然の法則で正しくしなければなりません。そうでなければ時には泣かなければならず、時には狂ったように笑い、必ず苦になります。

 「それは自然にすぎない」と知らないので、迷って愛し、自分の思い通りになったと迷って喜びます。これは狂人のように笑っている愚か者です。このことを良く知っていれば正常で、笑いもせず、泣きもせず、平常で冷静な心があります。これを「私たちは神様といる」と言い、神様の規則で正しい実践行動をして暮らしています。

 神様はいるかいないか、良く観察して見てください。それは本当よりも本当に、真実より真実に居、すべての分子にいます。この世界、この宇宙、自分の中だけでなく、私たち以外の宇宙全体、すべての分子にもそのダンマダートゥはあります。タタターであり神様であるそのダンマダートゥは、すべての物に潜在していて、全ては神様の法則にならなければなりません。何かの利益が欲しい人は、行動をその法則と一致させれば、その利益を得ることができます。だから、神様がいないように、神様を避けることはできないと見ることができます。神様の法則がないように避けることはできません。

 みなさんはなぜ勉強するのか、学生のみなさんはなぜ勉強するのか知りません。勉強するために「あいうえお」を習い、口や腹を養うために職業を学び、それだけでも神様の法則で、神様の法則でし、勉強をしなければならないのも神様の法則が強制するからで、勉強できないのも神様の法則の成り行きで、勉強できれば何か利益がある、それも神様の法則になります。しかしそれだけでは十分ではありません。

学校の教育はまだ不十分、タンマも知らなくては

 まだ眠くならないでください。私たちは同じ人間なので、苦なら同じに苦しく、幸福なら同じに幸福なので、この話から最高に多くの利益を得なければならないと、友達のように話します。学校で勉強させる教育だけでは十分ではありません。人間になるためには足りません。ここには先生もいると思います。私は、みなさんが勉強させている今ある教育は、人間として不十分だと、忌憚なく言います。

 この世界の教育省が制定している教育は、勉強を知るのが一つ、職業を知るのが一つだけで、それで善い人間にはなれません。汚職をする人、薬物中毒の人を見てください。この世界全体、世界中、全員が勉強をし、多くの人が大学を出ていて、それでも悪人で汚職をし、この世界を困窮させています。彼らは全部大学を出ています。これは、教育だけでは十分でないことの証明です。

 勉強と職業を知っているだけでは十分でなく、もう一つ知らなければなりません。つまり神様の望みどおりの正しい人間であること、述べたような神様、正しい人間でなければならない最高の基準、身体と言葉と心の正しさがあり、苦がなく、自分を苦しめず、他人を苦しめず、汚職をしないで暮らし、堕落がなく、薬物に依存せず、いろんなものがなくこの世界で共に暮らします。そこまで高くしなければなりません。学問知識と職業の知識を知っているだけでは、大学を出てもまだ人間ではなく、まだ人間に至っていません。

 今彼らには economic animal と呼んでいる良い名前があります。 Economic とは経済的で、animal とは畜生のような動物で、economic animal は経済的動物です。今世界の人の多くは経済的動物にすぎず、人間には届きません。それらの経済を崇拝する人は夢中になってお金を作り、お金を崇拝し、お金を掻き集め、お金の話だけを製造し、それは経済的動物であり、まだ人間ではありません。人ならまだ人間でない人、人間の段階より低い人です。

 二番目の言葉は、彼らはpolitical animal と言い、政策的動物で、political とは政治的、animal とは動物で、政策的動物、政策の頭があり、何でも俺の利益、俺たちの利益のためにし、正義や真実に注目する必要はなく、神様もなく、これらの政治家には神様はいません。これらの政治的動物もまだ人間ではありません。まだ人間のレベルに達していない動物で、まだ人、人間のレベルに達していない人だけです。

 よく聞いてください。人と人間は違います。人間とは高い心があり、煩悩より上、問題より上、苦よりも上にいて、人なら誰でもいい普通の人です。こちらの政治的動物はまだ人間でなく、人間より低い人です。

 もう一つ social animal つまり社会的動物ということばがあり、それは社会の動物で社会の好みばかりで、ファッションに夢中になり、社会の熱狂に従っていろんなことをし、それも低い心があり、社会の様式で楽しいこと美味しいことだけを考えます。社会の上流という人たちを崇拝しないでください。まだ社会的な動物にすぎず、まだ人間であるレベルに達していません。

 みなさんがわざわざ勉強し、小学生、中学生、大学生になったら、それだけで塞がってしまわないよう注意してください。つまり勉強と職業知識を知るだけでは不十分です。タンマを知り、正しく満ち足りた人間であるためのタンマを知らなければなりません。そうでなければ経済的動物、政策的動物、社会的動物群に入るだけです。

 世界はほとんどこのような動物だけになってしまい、まだ宗教を信じていた、まだ神様を信じていた昔のようではありません。彼らはまだ人間で、人間がいて、政策を崇拝し、経済を崇拝し、社会を崇拝する動物ではなく、彼らは神様を崇拝し、プラタムを崇拝し、宗教を尊重し、道徳で暮らしました。

 このように言うのは内内で、このように言うのは最高に善意で言っていると受け止めてください。みなさんが安全であるよう、経済的動物に、政策的動物に、社会的動物にならないで、神様あるいはどの宗教の神様のでも、正しく善い人間になってください。神様のものにしてください。どれも身勝手でない状態、他人を同じ人間同士としえ認めるよう教えています。

宗教があれば必ず神様がいる

 宗教があればどんな宗教でも、必ず神様がいて、避けることは出来ません。直接教えているような人物である神様がいても良く、あるいは仏教には「そのダンマダートゥが神様なので、それを尊重する。それが仏教の神様です」と、今話しているような神様がいます。

 ここですべての神様は人間が人間であるよう望んでいます。話しても面白味も何もありません。経済的動物、政策的動物、社会的動物の種類の人だけでなく、人間が人間であるよう望み、それ以上望みません。人間であってください。それだけで十分、人間とは煩悩より上、そして苦よりも上の高い心があるという意味です。神様はそのように望むので、誰でも神様の望みに応えさせます。

 みなさんが生物学のように、科学のように勉強して来たなら、進化の法則は高くなることを目指す、あるいは強制していると知るべきです。高くならなければ死、つまりふさわしくないので死ななければならず、存在できるなら、必ず高くならなければなりません。例えば危機を脱すことができる面の何か良くなるものがあれば、死なずに済みます。

 だから、この進化の法則は神様の望みのように良くさせたいと望んでいるので、科学の原則と矛盾しないと言って終わらせることができます。神様を良く理解すれば、それは科学の原則に反しないと知り、正しく理解しなければ、神様の話は古臭いバカみたいなもので、科学の原則と矛盾すると感じます。このように理解したことがある学生は誰でも、急いで勉強し直してください。学んで本当の神様を知れば、科学の規則と矛盾しないと感じます。特に、タタター、アヴィタタター、アンニャニャタターであるダンマダートゥと呼ぶ仏教の神様は、更に科学の原理と矛盾がなく、そして最高に科学です。

 私たちは人間に生まれたら人間に生まれた機会を無駄にしないで、仏教に出合ったら仏教に出合った機会を無駄にしないでください。人は、猿が水晶を手に入れると、何に使うか知らないと揶揄するので、水晶を手に入れた猿にならないでください。私たちは人間に生まれ、そして仏教に出合ったので、仏教を知って有益に使ってください。

 仏教は、私たちが正しく実践して苦を消滅させ、苦を残らず消滅すれば涅槃と呼び、涅槃で終わる神様の法則の話、知識です。涅槃で終わるとは、苦が残らず消滅し、どんな種類も、何でも、どんなにあっても残らず消滅します。これが全滅で、人間に生まれて仏教に出合った機会を無駄にしないと言います。

 神様が人物なら、すべての動物にこのような行動をさせたいと望む人物で、人物でない法則だけの神様なら、すべての生き物をこのようにさせる、強制させる法則です。

キリスト教の神様も仏教の法則と同じ特徴がある

 キリスト教では、神様は純潔なヴィンニャーナと言います。Pure spirit は純潔なヴィンニャーナ(識。魂。霊)で、どう訳したら良いか分からないので純潔な識(霊)と訳します。目・耳・鼻・舌・体・心のような識は正しくなく、それ以上の何かであり、タンマ、プラタム、あるいはタンマの法則は純潔なものです。しかし私たちは識とは呼ばず、そして人のように話しません。

 キリスト教の神様は何にも依存せず自立していて、self existence 、何にも依存せず自力で存在することができると信じています。これこそダンマダートゥです。法則であるダンマダートゥです。それは何にも依存しないで自立しています。何かに依存しなければならず、それにつれて変化しなければならないなら、それはそのような本当の法則ではありません。

 そして彼らは、神様は一人だけ、その中に何かが混じった二つ三つでないと言います。幾つもの部分、あるいは何体も含まれていれば本当でなく、それは最高の真実ではありません。この黄金は金だけの純粋な地がなければならず、そうすれば金と呼ぶことができます。神様は、真実があるなら本当の真実だけで、善があるなら本当に善だけで、彼らは一種類だけしかないと言います。

 そしてその神様は終わりがありません。これは法則である物の状態で、どこかで始まり、そしてどこかで終わる必要がないことを意味します。これは、私たちは今、まだ理解できません。私たちはどこかで始まり、そしてどこかで終わる物だけを見ているからです。もし私たちに神様がいるなら、それはどこでも始まらず、どこでも終わらないので、終わる場所がない物があると認めなければなりません。

 そしてその神様は変化できず、つまり変化できないタタター=そのようで、そしてアヴィタタター=そのようである状況と違わず、アンニャニャタター=そのようであるここと違うことはありません。これが仏教のパーリ(ブッダの言葉である経)であり、ダンマダートゥと呼ぶものについて話されたブッダバーシタで、私が「これが仏教の神様です」と話して教えるそのダンマダートゥです。

 次にその神様は知るものであり、何もかも知っていて、神様が知らないことはありません。これは、人間が知っているすべてのことは自然であり、自然の法則であり、神様です。真実でも、真実と反対でも、それは自然の法則の中にあるので、その自然の法則の中にはすべての知識があります。だから彼らは、神様は何でも知っていて、神様が知らないことはないと言います。だから神様は何より大きく、すべてより大きいです。

 ここで説明しにくい言葉になりました。それは、神様は「すべての人間を愛す」です。これはどう説明したら良いでしょうか。自然の真実の法則は、どのようにすべての人を愛せるでしょうか。心がなく、識がなく、人のような感覚がないので、その自然の法則はすべての動物に、善であり美しく利益がある方に進化するよう常に機会を与え、あるいは準備ができていると見なします。

 そうでなければすべての行、すべての生き物、すべての人間、すべての人はここまで良くなって来ません。良くなく、発展せず、ここまで進化していません。進化の法則がすべての人を良くさせる目的がなければ、法則に合っていない物は何でも死んでしまいます。この法則は悪と見なすことはできません。それはあるべきでない物を排除して無くさせ、良い物だけを残し,そして更に良くします。

 神様についてのもう一つの言葉は、すべての人が危機を脱すよう望むと言います。本当の神様ならすべての動物、すべての人を危機から脱出させます。神様にある任務は、すべての生き物を危機から脱出させるという意味で、一方その生き物が実践しようとしなければ死ぬのは神様の責任ではなく、神様を信じない生き物は神様の法則で実践したがらないので、愚かな生き物の責任です。だから神様と手を繋ぐ人は、神様と呼ぶものの望みで危機を脱します。

神様に従って実践すれば苦から脱す

 だからこれらの生徒、学生、若者のみなさん「これは最高に知る必要があり、知らなければならない。そうでなければ生き延びられない」と知ってください。すべての人が危機を脱すよう望んでいる神様を知らなければ、私たちは危機を脱すことはできません。私たちはどのように危機を脱すのか知らないという意味です。私たちはどのように危機を脱すか、急いで神様の話を勉強してそれで実践すれば、危機を脱すことができます。

 この「危機を脱す」とは、ただ生きているだけでなく、生き物を侵害する苦から脱すことで、死なないで生き延びても、苦に侵害されていればそれも堪りません。すべての苦から脱出しなければ本当の脱出とは言いません。パーリではヴィムッティ(解脱)と言い、普通の意味の死から脱すだけでなく、煩悩から脱し、死から生じる苦から脱し、死は侵害できず、生老病死は彼を侵害できず、貪・瞋・痴はその人を侵害できません。その人はこれらの侵害から脱出した暮らしをするので脱出と呼ぶことができ、そして神様もすべての人を脱出させたいと、つまりこれらのものから脱出させたいと望んでいます。

 だからみなさん、苦がなく、清潔で明るく静かで穏やかな生活をしてください。神様が祝福し、あるいは神様がそうなるよう援けるのは、望んで神様の教えに従う時だけです。神様は、ブッダも同じようなものを尊敬しています。神様を仏教では法則であるプラタムと呼びます。あるいはブッダが「そのダンマダートゥ、あるいはそのダンマ、そのダンマダートゥはある」と言われたもので、ブッダが生まれても生まれなくてもそのダンマダートゥはあり、そして神様のようにあります。

 つまり永遠にあり、何にも依存せずにそれだけであり、そして変化せず、初めも終わりもありません。そのダンマダートゥはそのようで、ブッダも尊敬し、つまりタンマを尊敬しました。だから私たちは、ブッダを尊敬するならプラタムも尊敬します。プラタムで、他の人たちが神様と呼ぶプラタムの法則で正しく行動させたい同じ話だからです。
 
 今私たちはタイに住んでいると、どこの県のどこにもいろんな宗教を信じる人がいるので、このことで間違った行動をする人にならないで、他の宗教を軽蔑しないで、他の宗教の神様を軽蔑しないでください。そのようにすれば、私たちは自分の宗教を知らないことで、自分の宗教さえ知らず、自分の宗教の神さも知らず、私たちが他の宗教の神様を軽蔑して回れば、ますます知らなくなります。
 
 誰一人例外なく、すべての物には最高に公正で厳格で不変の法則である最高のものがあると捉え、あるいは信じてくださいとまとめます。これが、私たちが受け入れて実践しなければならない神様の法則であり、私たちも神様を恐れて悪をしません。それは警察を恐れるのでない、誰かに見られて非難され揶揄されるのを恐れるのでない、本当に悪を避けることです。先ほどすべての人に神様がいれば、世界には誰も悪をする人はなく、この世界は人間が問題なく暮らす最高に素晴らしい世界になると話したように私たちは、悪事をしないよう強制する法則である神様を恐れます。

 今人には神様がなく、人はますます神様を持たない経済的動物、政策的動物、社会的動物になっているので、過ちを認めなければ、過ちを認め、神様がいて、神様に従って行動する正しい世界にしなければ、確実に破滅しなければなりません。

 学生、生徒、若者のみなさん。この最高に初歩である物を良く理解したと思います。私は今、これは最高に初歩であり、正しく始めなければならないと言っています。そうすればそれから先はずっと良くなります。どうぞみなさん、神様のように最高の法則であるプラタムを受け入れて遵守してください。それをからかってはならず、本当でなければならず、真っ直ぐでなければならず、最高に忠実でなければならず、全身全霊で実践しなければなりません。

 そして全身全霊でプラタムを愛さなければならず、崇拝しなければならず、神様の目的で正しく実践行動をしなければなりません。それが本当に気に入られること、あるいは祈願することです。線香と蝋燭に火をつけてぶつぶつ独り言を言って懇願するだけ、これは本当ではありません。本当の祈願はプラタムの法則に対して最高に正しく、最高に真っ直ぐに実践行動をすることです。これをプラタムを尊重する、プラタムを崇拝する、プラタムに懇願する、プラタムを拠り所にし、そして本当の拠り所にすると言います。

 神様と呼ぶのは、神様と呼ぶべきだから、最高のものだからです。神様と呼ぶのは、自分たちの物を神様を呼ぶ他の人間同朋と争いをしなくて済むからです。私たちは彼らを嫌わず、一つの同調できる同じ話にし、そうすれば世界中同調できる人間になり、神様の世界になり、毎日毎晩あるのは安楽だけです。

 今日は、みなさんが知らなければならない神様についてお話しました。そしてこの話の要旨は、神様が宗教の教典を書いた、あるいは宗教の教典を書かせた原因、あるいは宗教の教典は神様の望みで書く以外に、他に書きようがないということです。みなさん、このような状態の神様と、世界中のいろんな宗教の教典の出来方を知れば、正しい理解になり、明るい目や耳になり、もう一つ正しい見解になり、そして一方的に善のためだけになります。

 時間になりましたので、これで終わらせていただきます。


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