8.チャンカンマ(歩く)






1967年4月16日

 今、一九六七年四月一六日、午前五時になりました。いつものように、サマーディバーヴァナーについて、何かお話します。

 今日は歩くこと、あるいは神聖な言葉で「チャンカンマ(経行)」「チョンクロム(タイ語読み)」と言う物について話したいと思います。歩くことについては、「歩く・立つ・座る・寝る」あるいは「立つ・歩く・座る・寝る」、あるいは「座る・寝る・立つ・歩く」の四つの威儀、人間の四つの挙措の一つを思い浮かべ、理解しなければならない幾つかの項目があります。

 初めの項目は、四つの挙措に自覚、あるいはサマーディバーヴァナーがなければなりません。大念処経などは、カーヤーヌパッサナーのサンパッチャンニャパッバについての項目で明示されていて、立つ、歩く、座る、寝る、食べる、飲む、沐浴する、噛む等々に、全身に感覚があります。すべての挙措に自覚があり、全身に感覚があり、ぼんやりして煩悩、取蘊、あるいは苦である物を生じさせないという意味です。

 こういうのを自覚と言い、「歩いている」と感じていても、それも取蘊が生じるのを防ぐことです。だから初めの項目は、「すべての挙措に、サマーディバーヴァナーがある」、あるいは少なくとも「自覚がある」と確認します。

 次にアーナーパーナサティバーヴァナーについては、歩いている動作の中でもアーナーパーナサティができる、ちょっとした違いがあります。歩いていても呼吸をしているので、歩いていると呼吸をしない訳ではないので、歩いていてもでき、そして便利で、他より有利な項目があります。

 カシナ(十辺処)、あるいはアスバ(不浄念処)などをするには、その感情がある場所に座っていなければならず、立って歩いたらできません。その感情に関わるウッガハニミッタ(取相)を保持するのも、常に体にある呼吸でするより難しいです。これは有利な点です。だからみなさん、歩きながらする物も、アーナーパーナサティバーヴァナーに関心を持ってください。

 次に歩くという言葉について熟考します。パーリ(ブッダの言葉)を見ると、歩くという言葉は、「普通に歩くこと」を意味すると感じます。多少準備や調整することはあっても普通の話ですが、後の時代になると、現代でも、多少神聖になりました。

 その結果、チャンカンマのための道を造るほど神聖な物になり、記念すべき物になったのもあります。あるいは歩くという言葉は「チョンクロムで歩く」という言葉になり、神聖になり、神聖になった意味もあります。

このような感覚があれば煩悩です。仏教の最高の聖向聖果に到達する修行で捨てなければならない煩悩であり随眠である「戒禁取と呼ぶ物がある」と言います。だから歩くことの重要性を見るなら、神聖な物と見ないで、歩く功徳から知ることができる、理由がある普通の方法と見ます。

 カンマターナバーヴァナー(念処の努力)をするのを観察して見ると、ほとんどすべての人は、何でもかんでも神聖な物と感じ、神聖と見る考えがあり、これは以前より多くなっているので、智慧に関わる、あるいはニャーナ(智)に関わる、あるいは仏教の正しい智見に関わる障害の一種と見なします。だからみなさん、歩くことまで、歩くための物まで神聖と考えないで、正しく考えてください。

 みなさんは歩くべき所、あるいは歩ける所どこでも歩きますが、昼間の時間には便利でも、夜は暗くて歩くのに便利でない道は、慣れていなければ当然歩けません。それに明かりを点ける、あるいはランプを使わなければならないことではありません。

 だから歩く場所は、昼でも夜でも便利に使える場所であるべきです。そして大抵広々した場所を使います。広々とした場所は、歩かなければならない道筋、あるいは形が簡単に見えるので、月明かりがなくても、星の光だけでも十分見えるからです。

 野原などは、少し歩くと簡単に観察するための跡ができ、たくさん歩くと白い土になって、観察しやすいです。しかしそこで暗闇だったら、あるいは雨降りだったら、あるいは歩くのを困難にするアリや虫がいたら、これらの注意に関わる実践は、この問題を解決するために、チャンカンマの道と呼ぶ特別の道を造る考えが生まれる、という問題があります。

 例えば地面を高くしてぬからないようにし、時にはレンガを並べてセメントを塗れば便利が良くなります。時々うっかり通り過ぎないように、初めと終わりに柱を立てて、棒のような物で遮断すれれば、安全のために更に便利になります。

 次に歩道はどれくらいの長さが必要かという、もっと小さな問題があります。歩道はふさわしい長さと、道理が教えています。これに関した本で聞き慣れているのは、八メートルか十メートルです。これは良い理由があり、遠すぎず近過ぎませんが、かなり短いです。

 大変でなく無駄でなく、作れる物にするために話しておけば、作らなければならないなら、それより少し長くてもいいです。しかし一本が二十メートル、あるいはこれくらいはふさわしくありません。何かを意識し難いからです。だからふさわしい比率を知って使います。

 最低でも八メートル、最高でも十二から十四メートルで、二十メートルを越えません。八から十メートルが、行ったり来たりする時、簡単に初めと終わりを見極めるのにちょうど良く、目を閉じても、歩いて行ったり来たりできます。つまり目を閉じていても、何かを意識して歩くことができ、こちらとあちらの端を知って、目を開けずに歩いて行ったり来たりできます。

 しかし一本が二十メートルも長いと、それはできません。あるいはするのが難しいです。これが知らなければならないことの一つです。他の小さなことは、自分の自由にしても良いです。そして、ふりかかってくる危険はありません。あるいはアリや虫に関わる困難を生じさせないことは小さな問題で、自分で片づけられる例です。


 次に歩くことの利益について話したいと思います。みなさんが知りたい重要な話だからです。歩くのは四つの挙措の一つで、誰でも自然に知る一般的な利益は、行動を快適に変えることです。私たちは一つだけの姿勢でいることはできないので、すべての挙措を適度に混ぜ合わせなければなりません。

 パーリ語では「体の四つの挙措は、一つの車の四輪は同じだけ働かなければならないように、この身体の四つの挙措も、バランスが良くなければならない」と言います。そうすれば四輪車に例えられる体は順調になります。だから私たちは、この「座る・寝る・立つ・歩く」のバランスを整えなければなりません。

 たくさん寝れば寝ぼけ眼で、歩きたくなり、長く座っていると疲れ、立って手足を伸ばしたくなり、長く立っていると我慢できなくなって歩かなければならず、たくさん歩くと歩けなくなり、立つか座るか寝るかしなければなりません。

 だから行住坐臥はそれ自体が非常に重要で、特別な技術があり、良くできる人は、その人にとって非常に利益があります。だから仏教のバーヴァナーの実践に関わる史跡には、住まいの周辺に歩道があるのを見ることができます。

 仏教の善い修行をした比丘の歴史で有名なスコータイ、ピサヌロークのアランジック寺を観察したことがあります。修行僧の住まいであるアランジック寺は、ラームカムヘン大王のお気に入りで、見えるのはチョンクロム(チャンカンマ。経行)の物の史跡ばかりで、住まいも歩道も石造りですが、作ることができました。インドでもその跡を見ることができます。だから歩道は住まいと同じだけ重要と結論することができます。

 しかし今、私たちのクティは豪華で大きく広く美しく、たくさん投資しますが、歩道は見えないと観察します。これは欠陥かもしれないので、住まいであるクティが大きければベランダに、あるいは内部に、そのようにできなければ、クティの横に歩道があるべきです。

 そうすれば長者の住まいでなく、仏教のサーカヤプッタサマナのクティにふさわしくなります。すべての挙措がなければならないサマーディバーヴァナーの四威儀の実践に必要な物だからです。そうすれば、それから功徳が得られます。


 次に歩くことの利益、あるいは功徳についてお話します。パーリ(ブッダの言葉である経)のブダバーシタ(ブッダが言われた言葉)で、どのような功徳があるか明示されています。憶えている限りでは、二つに分け、一つは健康で、もう一つは直接サマーディバーヴァナーです。

 健康に関しては「元気がある良い体で、病気が少なく、活力があり、歩くことで食べ物の消化が良い」とあり、私たちが自分で正しく推測できるようなことです。これらが、健康に関わる歩くことの功徳です。

 次にサマーディバーヴァナーの部分は、自覚を生じさせ、歩いている時に生じるサマーディは、他の挙措の時に生じるサマーディより長く安定します。もう一度繰り返させていただくと、歩く動作から生じるサマーディは、他の動作から生じるサマーディより長く、あるいは安定して維持できます。これに慣れていない人は、聞くと疑わしく感じます。見本を挙げればより簡単に理解でき、直接常自覚に繋げることができます。

 例えば寝て考えるのと比較すると、寝床で寝て考えると、考えることができ、そして湾曲した枝葉の考えになり、西洋人のようにベランダを歩いて行ったり来たりして考えると、仕事で考えなければならないことを考えます。私たちはチャンカンマの場所で考えることができ、そして同じように湾曲した、枝葉の考えになります。

 しかし比較して見ると、歩いている時に考えることは、寝ている時に考えることより正しく、安定していて信頼でき、寝ている時は良い考えでも湾曲し、枝葉であり、漠然としていて厚みがなく、歩いている時考えるような正しさ、あるいは道理が十分ないという真実を発見します。試して見てください。寝て考えると、明晰な心と道理で考えるというより、むしろ夢見がちな話で安定しません。

 寝ている時の最高に正しく、最高に満足な考えは、立ち上がってもう一度考えると、却ってぼやけてしまい、、十分でも正しくもなく、たくさんこぼれてしまい、歩く時考えると正しく安定すると、私自身に明らかに現れています。寝る動作は、歩く動作と大きな違いがあるからです。

 そして更に眠いか、あるいは神経があまり正常でなければ、寝ている時の考えはふわふわした寝言ばかりですが、歩いている時の考えはそのようにならないので、寝ている時の考えより正しく安定しています。

 だからブッダは『歩いている時に生じるサマーディは、他の動作から生じるサマーディより当然長く、そして安定している』と言われています。これは、ブッダが座って大悟されても、この真実を覆す理由にはなりません。だから、歩きながら大悟できれば、より豊かな悟り、あるいはより安定している悟りと言わなければなりません。

 しかしそこまでである必要はありません。ブッダの生活は四つの威儀(挙措)が完璧であり、そして、すべてのサマーディバーヴァナーは、当然歩く・立つ・座る・寝る動作の中のサマーディバーヴァナーに管理されているからです。そして寝る動作は休息なので、重みはありません。

 今私は歩くことについて話しているので、「歩いている時に、いずれかのレベル、いずれかの部分の、何らかのサマーディを生じさせることができれば、他の動作から生じるものより、常に安定している」と、この項目を観察しなければなりません。その方が難しいから、あるいは鮮明で明るく安定しているからと、常識で簡単に検証することができます。

 座っている姿勢で呼吸を意識するのは、歩いて呼吸を意識するより簡単なので、歩いている行動で呼吸を意識できれば、その方が上手で、より安定していなければなりません。これを「最後には常識の道理で見れば理解できる」と言います。だから試して見てください。そして歩いている時でも、心に何かを生じさせる強さがあれば、他の動作の結果より安定した結果を受け取ることができます。


 時々私に、この真実がたくさん現れます。例えば何かの本を書いている時、立ってすぐに書けるよう、あるいは立ってタイプできるよう、机の上に紙またはタイプライターを置いておき、そしてその部屋の周りを歩くと、考え付かなければ机で書くことはできませんが、考えが浮かべば書けます。

 座って考えるとあまり考えが浮かばず、歩く方がより簡単に、より早く、何でもより良い考えが浮かびます。そして歩いて行く準備ができているので、そのままタイプするか、紙に書けるので消えません。忘れません。このようです。

 座っていると、あるいは寝ていると立ち上がらなければならないので、立ち上がった瞬間に何かを忘れます。あるいは書く机、あるいはタイプする机が準備できないので、ぼやけさせる区間があります。だから準備を整えて机の近くを歩き、思い付いたらすぐに立って書きます。椅子に座って書く机から、立って書く机、立ってタイプする机になりました。立っている動作から生じるいろんな考えを、良く保存できると言います。

 考え、あるいは熟慮する知識がこのようなら、直接サマーディバーヴァナーもこのようなので、歩いている時、心を強制して静めるにも、あるいは何かにするにも、歩く方がより本当に安定し、より依存できます。つまり Dependability (頼りになること) が、他の所作より多いです。だから歩くことに満足すべき、関心を持つべき、そして探求するべきです。

 部屋の中を歩くのでも、ベランダを歩くのでも、外のチャンカンマ用の歩道を歩くのでも、歩くことは関心を持つべき興味深いことです。部屋の中やベランダを歩くのは、雨が降って外を歩けないなど必要がある時で、外を歩ければ外が一番良いです。広々していて空気が良く、良い物が沢山あります。そして室内を歩くより、ベランダを歩くより、自然に親しみます。

 これが歩くということの功徳です。非常にたくさんあって膨大で、あまり見過しすぎるにふさわしくありません。少なからぬ間違い、あるいは欠陥があると言います。梵行仲間であるみなさん。これについての考えを持ち、これを十分たくさん求め、サマーディバーヴァナーにとって非常に重要な物として、バランスをとることができるよう希望します。

 これが歩くと言うこと、あるいはパーリ語でチャンカンマと言う物、神聖なタイ語ではチョンクロムと言う物です。本当の神聖はありますが、戒禁取の神聖ではなく、完全に苦を消滅させる実践を成功させる神聖です。どうぞ関心を持ってください。




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