9.アーナーパーナサティバーヴァナー






 このアーナーパーナサティの目的は他の念処(業処)と違って、呼吸に関わる話の中にすべての実践があるよう要求します。こういうのはどこへも移動する必要がなく、話を変える必要もなく、最初から最後まで、聖向聖果涅槃に到達するまで呼吸で実践するので、便利な念処です。何かを背負ってどこかへ行かなくてもよく、どこに座っても呼吸があるので、外部の物に依存する必要がありません。

 カシナ(十辺処)の玉に依存する必要も、死体に依存する必要も、何らかの物の助けに依存する必要もなく、呼吸に依存し、呼吸は体にあるのでどこへ行ってもできて便利です。そしてそれは上品で緻密で奥深く、恐ろしくなく、興奮せず、大騒ぎや大混乱しません。不浄(随観)やその類の物とは違うので、危険でなく、心に危険が生じる余地はありません。

 あるのは「できない」と言うだけで、できなければ危険な物は受け取りません。狂ったり、何かになったりはしません。誰かが、アーナーパーナサティをして狂ったと言うなら、それは事実ではありません。その人が言っているのは本当ですが、その人は誤解して、別のアーナーパーナサティをしています。このアーナーパーナサティではありません。私が教えとして使っているような、ブッダがパーリ(ブッダの言葉である経)で話されているようなのではありません。

 この形式のアーナーパーナサティは狂う余地はありません。できません。それはできません。狂うなら、その人は既に狂っていると言う一般原則で、狂っている人がすれば簡単に狂います。そしてもう一つは、別の物が欲しいから狂います。つまりタンマのためでなく、心を静めるためでなく、威力や神通力を生じさせるため、何かを生じさせるためにします。これも狂います。

 狂うのは二種類あります。初めから意図が純粋でなく、静かさのためにあるタンマに逆らって奇跡や威力のある神通力にし、利益を自分の物にする、これも狂います。あるいはその人はほとんど狂っていて、あるいは気づかないけれど狂人であり、それでこのように心を支配すると、大暴れすることがあります。

 次に普通に正常な人が十六段階あるこの様式のアーナーパーナサティをして狂う余地はありません。これが、知っておくべき一般的なことです。

 この様式のアーナーパーナサティは、パーリ(ブッダの言葉)に現れているように、十六段階あります。ブッダのでない物、他の人の物もあり、他の様式のアーナーパーナサティは違うかもしれません。パーリのアーナーパーナサティなら、このように十六段階ある物だけです。他で話されていても、いつでもこのような十六段階があります。みなさんは、この十六段階は何をするのか、大体分かるよう観察しなければなりません。

 第一部の四段階は、心をサマーディにするためにします。初めの四段階の訓練は、呼吸を調整して、呼吸を滑らかに静め、結果としてサマーディを得ます。初めの四段階はこのようです。

 第二部の四段階は、サマーディから得たピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)を、「こいつは考えが生じるように促す物、あるいは心を散漫にし、ヤキモキさせ、何でもいろいろにする物」と熟慮し、何が心を変化させるかを知り始めます。これも、五から八まで四段階ある一部です。

 次に第三部は、特に心だけを「心とは何か。何種類か」、心をあれこれ、思いどおりに支配して見ます。これも四段階ある一部です。

 次に最後の第四部は、無常を熟慮します。つまり心だけの話でなく、心が倦怠して欲情が緩み、心が解脱するまで、智慧で無常を熟慮します。それもこの部にあります。これが最後の部で、このようです。詳細な説明は、次のようであるべきです。



第一部カーヤーヌパッサナーサティパッターナ(身随観念処)

 第一部は呼吸、つまり体を支配して心を静め、カーヤサンカーラ(心を変調させる物)を静めれば、カーヤサンカーラが静まった分だけサマーディを得、期待どおりに幸福である結果を得ると言います。カーヤサンカーラが静まれば心はサマーディであり、たちまち幸福を受け取り、涅槃から受け取るような幸福ですが、まだ少なく、本当の涅槃と呼ぶような永久ではありません。

1.長い息を知るのが一段階。

2.短い息を知るのが一段階。

3.呼吸が体を変化させることを知るのが一段階。

4.体を調整する物である呼吸を、サマーディが生じるまで静めます。

 このような四つの段階は、目を閉じても見えるように、この教えを学んでしまわなければなりません。

第一段階。 長い息はどのようか、どのように生じるか、それは私たちの体にどんな威力があるかまで、あらゆる角度から長い息を知り尽すまで学びます。これが第一段階です。

第二段階。 短い息を、それはどのようか、どんな状態か、私たちの体にどんな威力があるか、長い息とどう違うかを見るので、それは長い息と短い息の比較です。時には長い息はどのようか、そしてどんな結果があるかを意識し、その後短いのを、どう短いか、どんな結果があるか、呼吸を知り尽すまで意識します。

 呼吸を知り、呼吸の原因を知り、呼吸の結果を知り、呼吸の威力を知り、呼吸と慣れ親しみなさい。今みなさんはこれを知らないので、知らなければなりません。第一段階は、長い息を熟知するまで見、第二段階は、短い息を熟知するまで見ます。

 第三段階では、この二種類の息が身体と関連している部分を見るので、彼らは「カーヤサンカーラ(体を変調させる物)」と呼びます。それは体と関連していて、息が荒ければ体も粗く不安定で、息が滑らかならば体も滑らかで静かになります。長い息は正常なので、呼吸を長くすれば体を正常にすることができます。

 呼吸が短いのは正常ではありません。怒り、疲労など、心が正常でないと息は短くなり、呼吸が正常でないと身体も正常でなくなります。常に身体を変調させている呼吸の秘密を知り、第三段階と呼ばれる角度、パーリで「すべての体」と言う、すべての体を知らなければなりません。

 すべての体とは、体をあらゆる種類、あらゆる状態に変調させる呼吸で、それがすべての体です。呼吸も体と呼び、身体も体と呼びます。呼吸も体と呼ぶので、二種類すべてを知らなければなりません。そうすればすべての体と言います。

 そしてそれぞれに、あれこれ多様な側面があるので、すべてを見、呼吸である体と身体である体について詳細に知り、「そうだ。二つは関連して変調させている。このように関連している」と、良く知ります。呼吸している間中このようにし、心の中で明らかにし、この真実を見ます。つまり呼吸である体が、肉体を変調させるのを見ることを、第三段階の実践と言います。

 それができたら、次に第四段階でサマーディにします。「カーヤサンカーラをする」と呼ぶ第四段階は、呼吸を静めて、静めて、静めて、息を吐き息を吸い、息を吐き息を吸います。呼吸が静まれば身体も静まり、心もサマーディにさせられます。

 これには秘訣があり、テクニックがあります。他の段階にはあまりありませんが、この第四段階には秘訣があります。第四段階は、今私たちがテクニックと呼ぶような、秘訣であり方便である方法があります。つまり呼吸を静めるには、手品と言う方便を使わなければなりません。呼吸の手品は、何としても呼吸を滑らかにする方便を用います。

 次に、吸ったり吐いたりしている呼吸を追って「追い駈ける」ように、吸う息、吐く息をサティが追い駈けるという方法があります。二か所を決め、外部は鼻の先で、内部は臍と仮定し、この二か所を決め、それだけを仮定するだけです。それで息を吸う時は鼻先から始まって、鼻を通って臍の辺りで終わるのは気に掛けず、吐く時は、臍から始まり、波あるいは振動は臍から始まって、鼻で全部吐きます。

 それで二つの知識、つまり吸う息はどこから始まりどこで終わるか、吐く息はどこで終わるかの、二つの知識を得ます。しばらくの間、座ってこのように、どこから始まるかだけを見ます。それは呼吸を追い駈けるような状態があります。

 息を吸ったらサティが鼻から臍まで意識し、息を吐いたらサティが臍から鼻先まで意識します。心が意識しやすいように鼻から臍まで管か何かがあると仮定し、その管の中を息が駈け込んで来て駈け出して行ったら心がその管の中を追い駈けます。

 このような形にすると、眠くなりません。ジッとしていると無気力になるので、意識し易くするために、呼吸が強くなったら怠惰を抑え、あるいは無気力、あるいは眠気を抑えます。

 必要なら、呼吸の音が聞こえるほど、強く息をしても構いません。呼吸に応じて音を長くすれば、耳が助太刀をしてくれます。呼吸を意識するには、耳が音を聞いたら心が出入りする感覚を意識する。こういうのでも良いです。簡単になるので良いです。

 練習の仕初めは強く息をし、ハアハアいうほどでも良いです。最後にはヒューヒューいう煩い音も軽くなり、平らになり、傍にいる人には最高に平らに聞こえるほどになります。狙えば、ここまでできます。これを「追い駈ける」と言います。出入りする息を、サティが追い駈ける状態で、しっかりと、デタラメでなく意識します。これを「追い駈ける段階に成功した」と言います。

 次は「見守る」段階で、追い駈けません。見守るのに最も適した場所は鼻腔です。そこでサティが見守っていて、息がそこに触れた時に感じ、臍まで追い駈けて行きません。息を吸ったら鼻で見守り、息を吐いたら鼻で見守るので、それも心がどこかへ逃げて行く機会はありません。見守るなら本当にします。

 しかしそれにも一定の間があり、たとえば思い切り息を吸って戻って出て行くまで、そこにサティが意識するちょっとした間があり、この間を意識しなければ、心はそこで逃げてしまうことができます。

 つまり全部息を吐いて、再び息を吸うまでに間があり、息を吸ってその息を吐くまでに間があれば、心はこの部分で逃げることができます。追い駈ける段階から良く練習していれば逃げません。これが、すべての段階を順に、最善の訓練にしなければならない、最高に重要で、最高に必要なことです。第一段階が良くできなければ、その後の段階も良くできません。

 この部分は追い駈けるのを止め、残っているのは座って鼻腔で見守るだけなので、サティがあるように訓練し、そこに人が座って見張っていると仮定し、何としても人が座って見張っているようにするので、どこへも逃げません。ずっと呼吸しつづけ、荒ければ荒いと知り、滑らかなら滑らかと知り、吸ったら吸ったと知り、吐いたら吐いたと知ります。そのようにしていることが見守る段階で、このようです。


 第一段階 追い駈ける

 第二段階 見守る

 このように分けるだけで十分です。もっと詳しく分類することもできますが、必要ありません。

 見守る段階が良くできたら、次に内部の目で見る「ニミッタを意識する」、あるいは「ニミッタを作る」と言う段階をしなければなりません。座って見守っている段階、鼻で待っていて見守っている段階では、息が通るのを観察するだけでしたが、今は安定して、空気が触れる場所を意識する代わりに、像、または星、あるいは心が意識する何かがあるようにし、鼻に空気が触れるのを意識した所に、今度は何かを生じさせます。

 しかしそれはイメージだけのニミッタ(相)であり、水晶玉のニミッタ、あるいは太陽・月のニミッタ、あるいは見るためのごく簡単なニミッタでも良いです。そしてほとんど人によって違います。目を閉じると闇の中に光が見えるように、そこに星や色や何でも、私たちの心と身体が見せる物次第です。

 陽射しを受けている露のような点のこともあり、露のような点でないこともあり、陽射しを受けてキラキラ光る蜘蛛の糸のような細い糸のこともあり、小さな月のことも、何でもあり得ます。

 それは意識するためにどう生じさせたかだけで、本物ではありません。私たちがそれらを本当に作るのではありません。心が像を作るのは、繊細な段階を意識できるようにするためだけです。このように意識できれば、呼吸も益々滑らかになり、体は益々静まっていることを意味します。

 だから私たちが追い駈けていれば、追い駈ける実践をしていれば、それはあるレベルの静かさで、次に一か所で見守るように意識すると静かになり、体、心は更に静まり、そこにニミッタが生じるまですれば、益々静まると比較して見てください。これを心を鎮める方便、あるいは秘訣と言います。これで、そこにウッガハニミッタ(取相)を作ることができたと言います。

 次に、自分の思いどおりにニミッタを変え、パティバーガニミッタ(似相)と呼ぶ物に移動します。

 仮に私たちが、そこに水晶玉、あるいは草の露を作ることができ、光を受けて白く澄んでいて、いつでも凝視しているようなのを、ニミッタを作る段階でウッガハニミッタ(取相)を作ることができたと言います。

 次に心を傾けて、ニミッタを、自分の望みどおりにパティバーガニミッタ(似相)と呼ぶニミッタに変えます。それは微妙で、最高に微妙に支えている心を支配して、見えているニミッタや小さな露をどんなに大きくもでき、再び小さくもでき、色を変えることも、形を変えることもでき、浮いて行くこともでき、浮いて戻ることもできるようにします。

 これを本当の話と考えれば狂います。しかし心を繊細に緻密にするために支配すると知れば大丈夫で、できれば良く、できなければダメで、狂いません。それ以上を望まないでください。

 心を支配してパティバーガニミッタ(似相)にする方便は、呼吸する度に内部の目に貼りついている何らかの物を、それを強制的にどのようにも、何にでも変化させることができます。これも、このように四つの部分があり、四つすべての部分ができれば、心を支配し、体を支配し、呼吸を支配することができたと言います。

 本当は呼吸を支配することには体の結果があり、体が支配されて心の結果があり、心が支配されます。だからこの段階では心も鎮まり、体も静まり、呼吸も静まり、全部静まり、残っているのはジャーナ(定。禅)と呼ばれる物を生じさせることだけと言います。

 後はジャーナ(定)と呼ばれる物を生じさせ、パティバーガニミッタに熟達しなければならないだけです。そしてそのニミッタを意識して変化を止め、ハッキリ表すことができるのが一つです。このように支配でき、この段階になれば、「ニャーナ(知ること。智)を生じさせる準備ができた。場所を得た」と言います。心はこれほどまで訓練できた、ある段階の熟練、敏捷さがあることを意味します。

 次に意識を継続して定を生じさせます。つまり見て、観察して、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エカッガター(一境心)の五つの感覚を見つけます。これらの名前は、憶えている人も憶えていない人もいます。憶えていなくても大丈夫です。

 ヴィタッカの感覚は、今心が感情を意識していること、心が感情つまりパティバーガニミッタ(似相)に止まっていると知ることです。これをヴィタッカと言います。心がその感情に行き渡ることを、ヴィチャーラと言います。次に、その時もう一つ、満足と呼ぶピーティ(喜悦)の感覚である感覚を推測して見ます。このピーティも人によって違い、強い人もいれば少ない人もいて、みんな違います。

 これを、ピーティ(喜悦)、満足と言い、成功するとピーティと呼ぶ満足があります。次に一つの感覚を見、幸福を感じます。その時は非常に幸福で、それをスッカ(幸福)と言います。次に、今心が頂点にまとまっていて、どの方向へも散漫にならないのを見ます。これをエカッガター(一境心)と言います。

 この五つの状態、ヴィタッカ・ヴィチャーラ・ピーティ・スッカ・エカッガターを見つけることを「心が初禅、一番のジャーナと言える状態まで静まった」と言います。この五種類の感覚を「心は感情を意識していて、同時に心が感情に行き渡り、ピーティ(喜悦)もあり、スッカ(幸福)もあり、その感情に心の一体感がある」と、同時に感じることができます。

 これを「この五つがある初禅」と言います。呼吸する度にこの五つの感覚で呼吸します。

 この部分は緻密で、非常に微妙で難しい部分で、面倒なことに妨害されればできません。しかし分かりません。する機会があれば、してください。家でも自分の部屋があり、一人になれる時間があれば、してください。する方法があります。普通の庶民のように忙しければ、多分できません。

 だから森の中で、あるいは特に静寂な場所でするのに適しています。このように初禅に到達すれば、カーヤサンカーラ(体を変調させる物)、つまり呼吸を、目的に十分なだけ静めたと言うことができます。

 初禅がある時は幸福を感じ、満足も感じ、心は一つの感情で安定していると感じ、心がその感情に沁み渡っているのを知ります。幾つか理解しなければならず、そうすれば簡単になります。心がその感情に止まっているのが一つ、そして心がその感情に沁み渡っているのが一つ。そしてこのようにできれば満足し、ピーティ(喜悦)と言います。

 そしてその時、満足から幸福になり、そして心がそれに安定していることをエカッガター(一境心)と言います。だから基本であるヴィタッカ(感情、つまり心の概念を意識していること)、ヴィチャーラ(心が感情に染みわたっていること)、ピーティ(満足)、スッカ(幸福)、エカッガター(心が一つに集っていること)の五つについて思うべきです。

 これがカーヤサンカーラを静める第四段階で、定と呼ぶほど安定したサマーディを得る結果があります。


第一部の復習

 もう一度復習すると、第一段階では、長い息と友達になるまで長い息を意識します。つまりつきっきりで意識して、長い息についてすべて知り尽します。

 第二段階では、同じように短い息を知ります。

 第三段階では「どの種の呼吸も体を変調させていて、体と関わっていて、一緒に荒くなり、一緒に滑らかになり、一緒に散漫になり、一緒に静まる」と知り、この面だけを見ます。

 第四段階は「追い駈ける」と「見守る」と言う方法で、呼吸を支配して滑らかにする威力下にあるようにし始めます。そしてイメージの中にウッガハニミッタ(取相)を作り、そしてそのイメージを支配します。このようにできるようになれば心は四つの定を規定する準備ができ、初禅が生じます。カーヤーヌパッサナーサティパターナと呼ぶ第一部はこれだけで、四つの段階があります。どんな問題があるか、やって見てください。

 ここで二禅、三禅、四禅にするのは難しくなく、枝葉です。つまり四つの定を出してしまったので、定は順に緻密になり、二禅、三禅、四禅になっても、説明する必要はありません。概要を説明するだけだからです。これを、カーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)と呼ぶ第一部が終わると言います。

 なぜカーヤーヌパッサナーと呼ぶかは、呼吸は体だからです。この身体は体、呼吸も体で、関わり合っていて分けることはできません。今呼吸を静めて体を最高に静めれば、体に行くサティは完璧であり、第一部は終わります。


第二部 ヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)

 次はヴェーダーヌパッサナーサティパターナと呼ぶ第二部で、この部も四段階あります。そしてヴェーダナー(受)だけに悩まされます。ヴェーダナーがどこから来るかは、初禅のピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)からヴェーダナーを持ってきます。

 憶えていれば、カーヤサンカーラを静めて初禅にする分部に、ヴィタッカ(尋)、ヴィチャーラ(伺)、ピーティ(喜悦)、スッカ(幸福)、エカッガター(一境心)があると憶えている、そのピーティとスッカを二部で使います。二部の実践で使います。

 この段階になると、他のことは考えないで、ピーティ(喜悦。満足)と呼ぶものだけを考えます。第一部の終わりで得た喜悦を持って来て、心で感じて呼吸します。この喜悦と呼ぶ感覚で呼吸すると、気持ち良く、幸福で、その結果慣れ、喜悦を良く、洩らさず知り尽します。

 前の部では呼吸だけを知り尽しましたが、今はこの喜悦を、「喜悦とは何か。その状態はどのようか。生じる原因は何か。どんな威力があるか」と、最高に良く、洩らさず知ります。これを第五段階と言います。全体の第五段階ですが、第二部の第一段階で、それを第五段階と呼びます。

 第五段階でこのように喜悦を意識できたら第六段階に移動し、幸福の部分だけを意識します。喜悦の部分は満足で、これはまだ粗いですが、ここで幸福を意識すると、より静まります。

 満足と幸福は同じではないと、比較観察して見てください。私たちは何かに成功すると、満足して体が躍ることもあります。だから喜悦、あるいは満足と呼ぶものは、まだ行儀が悪く、体が震えることもあり、強烈な結果を見せることもあると知ってしまってください。

 第六段階は幸福に移動します。満足すれば、その後幸福が生じなければなりません。

 次に、混ざっているとどれが満足でどれが幸福か分からないので、満足の症状はふるい落します。幸福は静め、緻密で、そして幸福の方が静かで爽快なので、この段階では幸福の感覚だけを意識して息を吐き、息を吸い、息を吐き、息を吸います。

 第六段階と言い、「幸福はどのようか、どんな状態か、原因は何か、結果はどのようか、どんな威力があるか」に良く習熟するまで、幸福と呼ぶ感覚に慣れるまでします。これが幸福と呼ぶものを知ることです。長い息、短い息を知るのと同じですが、今はピーティ(満足)とスッカ(幸福)の二種類を良く知ります。第五段階と第六段階はこのようです。

 次に第七段階に移動し、心を変調させる物であるチッタサンカーラを知ります。心を変調させるチッタサンカーラは喜悦と幸福です。喜悦である感覚と幸福である感覚の二種類をヴェーダナー(受)と言います。

 このヴェーダナー(受)が、ああ考え、こう考え、そう考えるように心を変調させ、幸福になると、要る、手に入れよう、独占しよう、何でも、何らかの考えを作り出し、そして心は苦になり、煩悩になります。だから私たちは、受がこのように心を変調させるのを見て、すべての受はチッタサンカーラ、つまり「心を変調させる物」と言います。

 幸福である受は心をある形に変調させ、苦である受も心を別の形に変調させ、受と名がつけば、当然すべて心を変調させます。

 この第七段階では、「ヴェーダナー(受)は心を変調させる。ピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)は心をこのように変調させ、時にはそのように変調させる」とだけ見て、心を変調させる物を知り尽して、呼吸します。

 呼吸をしている間はいつも、心を変調させる物だけを意識します。これは、第二部の最後の段階である第八段階の、力を弱めることを知るためで、チッタサンカーラを弱めるとあります。つまり心を変調させる物であるチッタサンカーラの力を弱め、それ自身が変調させるように、煩悩の方向だけに変調させません。

 例えば幸福になると執着に変調させるので、「この幸福は不変でない。それは騙す。マヤカシか何かだ」と熟慮して、幸福の力を弱めます。そうすれば幸福の力は自然に弱くなります。つまり心は騙す物、マヤカシである物に満足しません。

 普通に放置しておけば、心は幸福、あるいは喜悦である物を非常に満足して喜びますが、生じる結果は煩悩であり苦であると知れば、結果があります。つまり煮えたぎる考え、執着する考えの力を「パッサムバヤン チッタサンカーラン アッサシーサーミーティ シッカティ=チッタサンカーラを静めて息を吸い、息を吐いている」という実践で弱めます。

 これで第八段階は終わり、ヴェーダナー(受)と呼ぶものを処理する第二部が完璧になったと言います。ヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)である第二部は四段階あり、八段階、あるいは二部が終わったと言います。


第三部 チッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)

 チッターヌパッサナーサティパターナと呼ぶ第三部は、直接心に関わる実践で、九、十、十一、十二の四つの段階です。この段階を第三部と言い、直接心に関わるので、チッターヌパッサナーサティパターナと呼びます。第三部の第一段階は、全体の第九段階で、私は第九段階と言います。

 第九段階は息をする度に心はどのようか、心を意識します。私たちが息を吸い息を吐き、息を吸い息を吐き、息を吸い息を吐いている時、心はどのようか。それは、その時の心次第です。

 心に喜悦があるか、幸福があるか。あるいは心に貪りがあるか否か。心に瞋恚・イライラがあるかないか。心に恐れがあるかないか。詳しくすれば非常に多く、リストは凧の脚のように(長く)なります。つまり心が何種類になるか、心が善いか悪いか、心が高いか低いか、自分で分かるので、座って「今心はどうか」を見ましょう。これを第九段階と言います。熟達し、習熟し、良く知ったら第十段階に移動します。

 さて次は、私がお前を支配します。第十段階は歓喜するようにだけ強制し、楽しさを感じ、歓喜させます。

 「アビッパモダヤン チッタン アッサシッサーミティ シッカティ パッサシッサーミティ シッカティ」と言うのは、支配・強制、あるいは何でも、維持してアビッパモダヤだけを感じます。アビは最高の、パモダヤは歓喜という意味です。呼吸している間中最高の歓喜があるようにし、できるようになるまで息を吐き、息を吸っています。

 これはそれほど簡単ではありませんが、できれば、この段階では心を最高に歓喜させて呼吸をすると言います。第十段階は「お前はこのようにいつでも歓喜がなければならない」と、自分の威力の中にあるよう支配すると言います。

 次の第十一段階は、支配して止め、安定させ、堅固にし、歓喜を感じさせないで、黙っているよう、あるいはじっとしているように変えます。「サマーダハン チッタン アッサシッサーミティ シッカティ パッサシッサーミティ シッカティ」と言い、定に関わらない、あるいは何にも関わらない堅固なサマーディにするために、停止させ、安定させます。

 完全に止めることができれば、第十一段階と言います。しかしその間も息を吸って息を吐いています。息を吸っている間心を止め、息を吐いて心を止め、その間心を止めて、息を吸って吐いている間、止まっている心を見ます。できれば、この段階に成功し、強制して停止すること、しっかり安定させることができたと言います。

 次は第十二段階、ヴィモチャヤン チッタン アッサシッサーミティ シッカティ パッサシッサーミティ シッカティです。これは心を支配して解放します。つまり心をすっかり綺麗にし、心に掛かっている物があったら、それを脱がせてしまいます。心を感情から剥ぐでも、感情を心から剥ぐでも良く、結果は同じです。

 何かが来て心に捉まったら、除去、あるいは心に止まっている物から心を引き剥がしてしまいます。心を開放し、感情から引き剥がして息を吐き、息を吸い、この段階の実践をしている間中、心を支配して心に止っている感情を脱がせます。これを、第三部の最後、第十二段階と言います。

 第三部を復習すると、第九段階はいろんな心の状態を見守り、第十段階は支配して心を歓喜させ、第十一段階は心を支配して堅固に安定させ、第十二段階は心を支配して解放し、すっきりさせます。この部をチッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)と言います。分かりますか。サティが始終心を痛めつけているので、チッターヌパッサナーサティパターナの部と言います。

 これで十二段階まで来ました。第三部は終わりです。


第四部 ダンマーヌパッサナーサティパターナ(法隨観念処)

 第四部になりました。この部は、ダンマーヌパッサナーサティパターナと言い、タンマ、あるいはダンマと呼ばれる物を学んで、それをします。これも四段階あります。この部の初めは、全体の第十三段階で、十三、十四、十五、十六と四段階あります。

 初めは全体の十三段階で、「アニッチャーヌパッシー アッサシーサーミーティ シッカティ パッサシッサーミーティ シッカティ」と言い、すべてのサンカーラ(行)の無常を明らかに見ます。無常を明らかに見ることで息を吐き、息を吸います。

 どこで無常を見るかは、内部で無常を見なければなりません。アーナーパーナサティの実践では、外部へ見に行きません。外部の、他人の、あるいは余所の無常を見ないで、内部の無常を見ます。内部で詳細に、最高に良く見ます。

 それには「長い息も無常。短い息も無常。呼吸が体を変調させるのも無常。静まった呼吸も無常。静まったチッタサンカーラも無常。初禅も無常。ヴィタッカ(一つのことを考えること)も無常。ヴィチャーラ(考えを維持すること)も無常。ピーティ(喜悦)も無常。スッカ(幸福)も無常。エカッガター(集中している心。一境心)も無常。体に関わる何もかも無常」と見ます。

 次に第二部を「喜悦は無常。幸福も無常。心を変調させる喜悦と幸福の状態も無常。静まった心、心の静まりも無常ですぐに変化する」と見、すべての段階の無常を見ます。あるいは第三段階を「いろんな心の状態は無常。歓喜している心も無常。今安定している心も無常。今解放されている心も無常」と見ます。外部を見る必要はありません。自分で実践できる本当に実践している内部を、一つ一つ無常と見ます。

 定、サマーディも無常です。聞いて滑稽ですか。私は心をサマーディにして安定させると言い、見ると、ほら、それも無常、無常の物で、無常があります。だから外部へ見に行く必要はありません。内部のすべてを具に見れば、発見するのは無常ばかりです。これが「アニッチャーヌパッシー=無常随観」と呼ぶ第十三段階です。

 この段階は、全体で最も重要な段階です。危機を脱せるか脱せないかはこの段階で、無常が見えなければ結果はなく、無常が見えれば、その後結果があります。本当に無常が見えればどんどん重くなり、どんどん熟し、どんどん明瞭になり、どんどん緻密になり、「無常が見える」と言います。そしてその後結果があり、ヴィラーガーヌパッシーと呼ぶ第十四段階で、執着が緩むのが見えます。

 ヴィラーガ(離欲)とは、緩む、薄れる、厭きる、色が薄れるように倦怠する、煩悩が薄れるという意味です。無常が良く見えるようになると執着の薄れが生じ、執着が緩むのを見ることをヴィラーガーヌパッシー(離欲随観)と言います。座って執着が緩むこと、ヴィラーガーヌパッシーを、心の中でハッキリと規定(意識)します。

 息を吐いて息を吸い、息を吐いて息を吸い、執着が緩むのを見るだけで、執着、執着する煩悩が減るのを見、すべてのサンカーラ(行)の欲情と言うこともできる煩悩が薄くなっていくのを、「私に執着の薄らぎがある」と見ます。これがヴィラーガーヌパッシーで、第十三段階から得られる結果です。

 第十四段階は、アニッチャーヌパッシー(無常随観)の結果である「薄れること」を見ます。第十三段階で良い結果があればあるだけ、第十四段階も良い結果になります。つまり無常が見えれば見えただけ、薄れるのが見えるという意味です。この薄れは、その部分が消滅したことを意味し、薄くなって消えた部分は、煩悩の消滅、執着の消滅、苦の消滅です。

 次の第十五段階では、執着と苦が消滅している間、ニローダーヌパッシー(滅尽随観)を見ます。つまり執着が消滅し、苦が消滅するのを、どう煩悩が消滅し、どう苦が消滅したか、座って見ながら息を吐き、息を吸います。これをニローダーヌパッシーと言います。

 これで十分です。本当は第十五段階で十分です。ここで聖向聖果に到達します。第十四段階と第十五段階の間は、緩めば緩んだだけ消滅し、緩むことを聖向と言い、消滅を聖果と言います。

 しかしまだ、見るための第十六段階が残っています。成功したことを見るようなもので、これをパティニッサッガーヌパッシー(捨離随観)と言い、息を吐き、息を吸っている間中、返却を見ます。

 それは「脱出した。終わり」と見るような、そんなようなもので、苦にし、執着させたいろんな物を止めて返却することに例えられます、今までは所有して苦になり、あるいはずっとこのようにして来ましたが、滅苦をしたので投げ返すようなものです。これが最後の段階で、「所有者に返す」という最後の結果、成功の一つの比喩にすぎません。

 解りやすい譬えは「所有者」で、今まで私たちはタンマの物、自然の物を盗んで「俺の物」にしていましたが、苦がたくさん生じると滅苦の行動をして、つまり返却して所有者に返してしまい、第十六段階が終わります。

 アニッチャー(無常)も、ヴィラーガ(離欲)も、ニローダ(滅)も、パティニッサッガ(振り払うこと。捨離)も一つ一つのタンマで、四つのタンマがあり、この部は四種類のタンマだけを熟慮し意識するので、ダンマーヌパッサナーサティパターナと言います。これが最後の部です。煩悩がなくなったので、苦がないので、梵行の終わりを見たので、話は終わります。


 これを復習して見ます。

 第一部は四段階あり、呼吸の話だけ、体に関わる話だけで、カーヤーヌパッサナーサティパターナ(身随観念処)と言います。

 第二部はヴェーダナー(受)、つまりピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)だけに関わるので、ヴェーダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)と言います。

 第三部は心に関してだけで、こういう心、そういう心、このように支配し、そのように支配し、チッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)と言います。

 ここで最後の部、第四部は、タンマ、つまりアニッチャー(無常)、ヴィラーガ(離欲)、ニローダ(滅尽)、パティニサッガ(捨離)に関してだけで、これはすべてタンマの一種なので、ダンマーヌパッサナーサティパターナ(法隋観念処)と言います。

 四部を合わせて四念処と呼びます。四念処をこのように完璧にできれば、結果はすべての苦が消滅します。このように四念処に励めば七覚支も生じ、どちらも完璧になります。四念処が完璧なら七覚支も完璧と言われ、この十六段階で実践すれば、サティ・択法・精進・喜悦・軽安・サマーディ・捨が揃っています。

 だからブッダは『四念処を完璧にすれば七覚支も完璧になり、七覚支が完璧なら明と解脱が完璧になる』と言われています。明と呼ぶすべてのニャーナが煩悩を断てば解脱で、話はそれだけで終わります。解脱とはすべての苦からの脱出です。だからアーナーパーナサティの十六段階の実践は、四念処と七覚支と並行していて、呼吸と連繋ているので、最後には明と解脱になります。概要はこれだけです。

 どれほど繊細で緻密か、見えますか。みなさんは、止めるのじゃないですか。初めはしようと考えても、このように見ると、もうしないのでなければ良いですが。まだ頑張るなら、一段階ずつすれば十分、あるいは完璧です。このような十六段階あり、それぞれの段階はこのようです。熟慮して見てください。



近道である実践法

 さて、ここで新しい話をします。さっきのは完全技法で、非常に難しく、非常に高価で、たくさん投資し、眠気に抗えないので、まだマシな二番目の話をします。この話は十六の段階に明示しませんが、同じ系統です。

 つまり第一段階で心を適度にサマーディにし、何らかの方法で、心を可能な限りサマーディにする努力をし、心が十分使い物になるサマーディになったら、無常を熟慮します。これが第二段階で、第三段階は結果を得ます。ヴィラーガ(離欲)、ニローダ(滅)、何でも全部まとめて結果を受け取ります。心を爽快で明るく、強く清々しくする何らかの方法、できる方法を探します。

 さて、アーナーパーナサティをして、心を十分に爽快で明るく、強靭で清澄にしたら、このようになったら努力して無常まで引き上げ、自分の中にある何でも、それを無常と見ます。

 身体を見るには「体は無常」と、生じている幸受(幸福である受)、苦受(苦である受)を見るには「それらは無常」と、サンカーラ、考え、自分の気持ちを見るには「それらは無常」と、「想も無常、識も無常、形・受・想・行・識も無常」と見ます。

 名前を呼ばなくても良いですが、自分の中の知ることができるもの物何でも、それを無常と見、「体も無常、心も無常、土も無常、水も無常、すべてのダートゥ(元素。大種)も六処も無常、目・耳・鼻・舌・体・心も無常、形・声・臭・味・接触・考えも無常」と見ます。「この美味しさは永遠」、あるいは「この不味さは永遠」と迷わないために、内部の無常を見るだけで十分です。これが息を吐き、息を吸う度にそれらの無常を感じることです。

 だから心に「それは永久不変ではない」と知らせる物が生じたのを、瞬時に知るサティがなければなりません。形を見たら「その形は永久不変ではない」と、声を聞いたら「その声は永久不変ではない」と、臭いを嗅いだら「その臭いは永久不変ではない」と、美味しい、あるいは不味い味を感じたら「その味は永久不変ではない」と見ます。

 このようなのを、最高に近道と言います。少ない適度なサマーディから無常へ飛び級し、第一段階、第二段階をしたら、第十三段階、つまり無常に飛び級するようなものです。そして無常を見れば見ただけ、ヴィラーガ(離欲)、ニローダ(滅尽)があり、無常を見れば見ただけ緩み、無常を見ただけ解脱します。この方法は簡単で、(するべきことが)少なく、細かくなく、あるいは十六段階に分けていません。

 心を適度にサマーディにし、それから二段階目で内部の無常を見れば、自然に倦怠し、欲情が緩み、それなりに苦から脱します。三段階しかないのと同じですが、呼吸は身体を正常にし、気持ちを正常にする土台なので、呼吸を使います。この方法で呼吸を支配することには、他にも特別な結果があり、身体が健康になります。この方法で呼吸を処理すると、身体が健康になります。

 ある地域、ある人たちは、健康のためだけにアーナーパーナサティの初歩をし、他の物は求めません。心のことは求めず、身体全体を健康にするだけ。その結果のためにだけ、毎朝アーナーパーナサティをします。インドには、そういう人もたくさんいます。聖向・聖果・涅槃は望まず、望むのは安楽と、無病息災だけ。呼吸は隠れた物なので、それが正しければ、身体も息災です。



仏教以外の様式のアーナーパーナサティ

 仏教の様式でない、他の様式の説明をします。彼らは、正しく良い呼吸は、プラーナ(気息)と呼ぶ物を吸い込み、外部から気息、あるいは命を取り込んで体を養うと説明します。彼らは空気中に気息があると信じ、この方法で呼吸しなければなりません。そうすれば外部の気息を内部に取り込むことができ、元気になると言います。彼らはこのためだけにアーナーパーナサティします。

 インドには大昔からあり、「パラーナヤーマ」と呼び、命を養う気息を増やす、つまり長生きすること、長寿と健康を目指します。アーナーパラーナヤーマ。このように呼びます。呼吸の名前です。試して見てください。それも呼吸を良くし、身体を健康にする結果があります。その後高くして、ブッダ式のアーナーパーナサティをしても良いです。身体を健康にする様式を先にしても良いです。

 眠気が覚め、いろんな障害が消え、そして最後にはサティという一語に集約されます。危機を脱す正しいサティがあり、触れて来る物を喜んだり悲しんだりしなければ煩悩は生じず、いつでもサティがあります。この方式のアーナーパーナサティの訓練をすれば、いつでも最高に良い、最高に高い、最高に堅固な、何でも最高のサティがあります。



混合型アーナーパーナサティ

 他の訓練をしても良いですが、それは秘訣がなく、技術でなく、ブッダが言われているような良い秘訣はありません。時間があって能力があれば十六段階の実践をし、時間も資質もなければ、心を集中して適度にサマーディにしてから無常を熟慮し、そして熟慮した分だけ執着が緩む三段階の実践をしても良く、それで十分です。全部を細かくしないだけで要旨は同じです。これ以上できなければ、これだけします。

 これもできなければサティだけを残し、考える前、話す前、する前に思い出せるサティが自覚し、感情が触れたら、何かを話す前、する前に、あるいは何かを考え続ける前に、常に自覚しなければなりません。例えば怒る前、あるいは何でもする前にサティがなければなりません。話す前、怒鳴る前にサティがあれば怒鳴りません。人を叩く前に考えるサティがあれば叩きません。これらを「サティがある」と言います。

 考える前、話す前、する前に、常にサティがなければなりません。アーナーパーナサティ完全形の十六段階の訓練をすれば、自然にそうなり、完璧なサティがあり、何も衝動でしません。しかしそれを、内部から出た実践と言うには、ちょっと多くの問題があります。

 次に外部の実践は頑固にサティを訓練し、サティが来る前にはしない、話さない、考えないサティがあり、体、言葉、心の行動をしないで、サティが来たら体の行動、つまり行為し、言葉の行動、つまり話し、心の行動、つまり考え、あるいは感じ、あるいは何かをさせます。これもサティと言います。

 最後の結果は、良く訓練したアーナーパーナサティ十六段階と言う完全形、二段階だけの短縮形を訓練したサティから得られる利益です。それ以外のいろんな問題は、残っていても解決できます。眠くなったら立ち上がってしまい、顔を洗ってやり直します。あるいは眠くなり易かったら叩き、棒で頭を叩きます。

 禅寺ではそうしています。列になって座ってサマーディの練習をし、瞑目してサマーディをしますが、一人の僧が櫂のような棒を持って列の後ろを行ったり来たりして見張っていて、眠気で体が揺れると、合掌した後、櫂のような棒で肩をパーンと叩きます。すると眠気が覚めます。目が覚め、その日は二度と眠くなりません。

 禅寺はそのようなのを使います。薄くて軽い櫂のような棒で叩くと、パーンと大きな音がします。危険には至りませんが、眠気が覚めます。これを秘訣と言います。

 自分で考えて見てください。小さなコツが助けになり、解決になります。食べ物をたくさん食べてはいけません。たくさん食べないでください。そして身体をあまり正常でなくすることをしないでください。食べる・暮らす・座る・寝る、何でも正しくすれば、あまり眠くなりません。天気が良くても眠くなりません。天気が悪く、薄暗い場所では眠くなります。問題はこれだけ。教える必要はありません。自分で知るべきことです。


 まとめると、アーナーパーナサティ式の念処は、常に呼吸と関わらなければならず、感情である呼吸に専念するサティがあるので、アーナー(呼)パーナ(吸)サティと言います。

 体を規準にすればカーヤーヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)と言い、受を基準にすればヴェダーヌパッサナーサティパターナ(受随観念処)と言い、心を基準にすればチッターヌパッサナーサティパターナ(心随観念処)と言い、タンマを基準にすればダンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)と言います。

 そしてアニッチャーヌパッシー(無常随観)と呼ぶ項目のダンマーヌパッサナーサティパターナ(法随観念処)は、息を吐き息を吸い、息を吐き息を吸っている間はいつでも、すべてのサンカーラ(行)の無常を見ることで成功し、危機を脱すことができます。





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