7.罪の指摘






1967年4月15日

 また、私が何か少し話す時間になりました。今回は奇妙に感じ、あまり関心を持たれないブッダバーシタ(ブッダが言われた、という意味。ブッダの言葉)について、みなさんに教えたいと思います。それは中部ウパリパンナーサ、マハースンニャタースッタ(大空経)のブッダバーシタで、

 『アーナンダ。土鍋職人が(焼く前の)まだ濡れている土鍋を扱うように、私はみなさんを大事にしません。アーナンダ。私は休まず叱ります。アーナンダ。私は休まず罪を指摘します。芯のある人は耐えられます』とあります。パーリ語は「ナ テ アーナンダ タター パラッカミッサーミ=アーナンダ。私はあなたたちを大事にする努力をしません」。

 「ヤター クマバカーロー アーマカマッテー=土鍋職人が、濡れている生の土鍋を扱うように」、「ニッガヤホニッガハーハン アーナンダ ヴァッカーミ=アーナンダ。私は休まず叱り続けます」。「パヴァハパヴァハーハン アーナンダ ヴァッカーミ=アーナンダ。私は休まず罪を指摘します」。「ヨー サロー ソー ダッサティ=芯のある人は耐えられます」とあります。

 この状態のブッダバーシタにどんな意味があるか、みなさんはこれについて考えたことがあるかどうか、考えて見てください。つまり土鍋職人は触るにも、持ち上げるにも、置くにも大切に扱いますが、(ブッダは)叱ってばかりいて、罪を指摘してばかりいて、そして土鍋職人がまだ生の濡れている割れ物を扱うように大切にしません。

 そして最後の言葉は最後通牒のように、「ヨー サロー=芯のある人は」「ソー ダッサティ=その人は今後も居続ける」と言われています。

 全部をまとめると「ブッダは、忍耐できる人は居続け、芯がない、つまり忍耐できない人は去らなければならない硬くて厳格な篩を使われた」とまとめることができます。私たちはこれに関してどんな教えがなければならないか、どういうのが忍耐でき、腐らず、芯があると言うのか、考えて見てください。

 「芯があり忍耐できる」と言うのは、ここ三四日繰り返し話してきたように、意志が強く忍耐があることと思います。みなさんは、ブッダが叱ってばかり、罪を指摘してばかりなのは、意地悪と思いますか。それともみなさんが描いていたブッダ像は、ブッダバーシタのこの項目と一致しますか。

 この経のブダバーシタについては、本当のことを言っておかれた言葉以外に、他に考える余地はありません。中部は信頼できる経で、そしてこれらの言葉には理由があり、マハーパデーサに照らして、あるいはどんな教えに照らしても、教祖の言葉にふさわしく、私たちは教祖の言葉と見ることができます。

 このようなら、私たちは「叱ってばかり、罪を指摘してばかりで、芯のある人は腐らず、芯のある人は居続けられる」という、独裁のような制度を認めると、受け入れなければなりません。

 私の地区、私のサンガ、所属集団、小さな部分、末端の部分でも、このような教えを遵守すれば、今よりずっと善くなります。つまり先生、両親、あるいは尊敬と恭順の基盤である誰でも、かなり独裁である状態を受け入れます。だから今ここで、私たちはどこの教祖に叱ってばかり、罪を指摘してばかりしてもらうか、という項目についてもう一度考えなければなりません。

 みなさんは、教祖は二千年以上前に般涅槃なさった、いるならインドにいると言います。それでどこの教祖に私たちを常に叱りつけ、罪を指摘し続けてもらいましょう。常に叱りつけてくれる教祖がいなければみなさんはどうで、いればどうですか。

 自分の何らかの惑溺、身の程知らず、デタラメ、不安定、落ち着きの無さを熟慮して見て、自分の話すこと、考え、行動でも、まだデタラメ、不安定、落ち着きのなさがあるのを発見したら、「叱ってばかり、罪を指摘してばかり」してもらうために、自分の根性を矯正するために、美しくて好ましい芯だけが残る状態にするために、皮と辺材と美しくない部分を全部無くすために、急いで教祖を探すべきではないでしょうか。

 そうすればみなさんを芯にする行動は、益々芯にする結果になり、聖向聖果涅槃が得られます。みなさんが自分を芯にすれば、確実に芯が得られ、自分を辺材にすれば、確実に辺材が得られ、自分を皮にすればするほど皮が得られ、みなさんは外皮に、一番外側にある、乾いた薄い外皮になります。

 芯という言葉は、このような意味があります。みなさんが芯なら、芯が得られなければなりません。だからみなさんは、つききりで叱り、罪を咎めてくださる教祖がいることを喜び、満足するべきです。

 ここでみなさんはどの教祖に指揮監督し、叱ってもらうかという問題になりました。一般に「本当の教祖、本当のブッダは、どこにも消えていない」と知られているのは、二か所のブッダバーシタを知るだけで十分です。

 『タンマが見える人は如行が見える。如行が見える人はタンマが見える。タンマが見えない人は、チーヴァラか何かを掴んで引いても、如行が見えると言われない』。こういうのが一つ。

 もう一つは、般涅槃する朝に言われた『規定して説いたダンマヴィナヤが、私が亡くなった後、みなさんの教祖です』で、体は消えてしまっても、本当の教祖はまだいる、つまり「ダンマヴィナヤが教祖」という意味です。

 初めのブッダバーシタでは、体を見ても「如行が見える」と言われないように、体は外皮で、現在まで残っている本当の教祖は『タンマが見える人は私が見える。私が見えればタンマが見える』という文句の中の教祖です。

 だからみなさんは、本当の教祖につききりでしかってもらい、休まず罪を咎めてもらうことができ、そうすれば、述べたように芯だけになります。

 このようなら注意深く慎重に思い出し、考えなければならないいろんな物は、私が勤めをすることについて「朝夕の勤めをすることを、本当のブッダに拝謁に行くようにしなさい」と話したように、関わりがあると見るべきです。それが本当の教祖と名指しされている教祖であるタンマです。

 みなさんが教祖に拝謁できれば、みなさんを叱りつけてくれる教祖がいないことはありません。必ずいます。以上の理由で私たちには、常につききりで叱ってくれ、罪を指摘してくれる教祖がいると確信するべきです。

 だからみなさんは、デタラメ、不安定、落ち着きを無くす機会はありません。もしみなさんにデタラメ、不安定、落ち着きを失くす機会があれば、みなさんはきっと、常につききりで叱ってくれ、罪を指摘してくれる教祖がなく、みなさんは教祖がいない人ということで、それは気の毒で悲しいこと、他にもいろいろです。

 まとめれば、悲しいことは残念で、勿体なく、恥ずかしく、虚しく、心配などで、どれも嬉しくありません。だからみなさん、常につききりで叱ってくれ、罪を指摘してくれる教祖がいるよう、力の限り努力してください。

 みなさんはきっと、ナワコワーダの二章の至極簡単なダンマに「慙愧(恥と恐れ)が助けてくれる」とあることに満足するでしょう。そしてそれが、いつでもどこでも、つききりで叱ってくれる教祖がいるようにする道具です。慚愧がない時はいつでも、その時は確実にデタラメ、不安定、落ち着きが無くなる機会で、慙愧がある時はデタラメ、不安定、落ち着きが無くなる機会はありません。

 つまり教祖が叱りつけているので、デタラメ、不安定、落ち着きを失う気持ちになれません。これを、道具に依存すると言います。つまり慚愧は、このように叱りつけている教祖がいるくらい成功させます。私たちは満足すべきか、喜ぶべきか、どれくらい受け入れるべきか、どうぞ考えて見てください。

 さてここで、更にみなさんの話になりました。みなさんの海外タンマ大使の仕事は、現在している限りでは、今仮に教祖様がおいでになって詳細に知られたら、教祖様は何とおっしゃるか、叱り、罪を指摘すると言うほどまでか、みなさんの行動を熟慮して見なければならないからです。

 今日私は山の上で、みなさんの責務について、いろんな事にたくさん意見を言い、あるいは評論しました。みなさんは、そのたくさんの事をもう一度、「私がこうなら、教祖様がお出でになってご覧になったら、何とおっしゃるか。それを梵行、あるいはご自分の宗教と認めてくださるかどうか」と熟慮します。

 自分のため、あるいは布教のためでも、今私がしていることはブッダが望まれたことかどうか、あるいはすべてが一致するかどうか、チェックしなければなりません。一致すれば非常に喜ばしく、一致しなければ非常に悲しいことです。

 今自分は何について話しているか、何に夢中になっているか、どの部分を切望しているか、良くチェックして見なければなりません。政府のことばかり考え、サンガのことばかり考えているのは堪りません。教祖について考えないで、自分のことばかり考えているのも堪りません。みなさんは教祖のことばかり考えていますか。それとも政府、あるいは自分も含めたサンガのことばかり考えていますか。

 それとも、どうすれば全部が一致するでしょうか。つまり教祖と私たち、つまり政府と自分も含めてサンガの望みが一致するか。今みなさんが布教しようと考えていることも、布教する自分の能力も、ブッダの望みと一致しているか。私は、これは重要だと思います。まだだったら、急いで一致させてください。

 一致するかしないかは、これほど教育がある梵行仲間であるみなさんは、当然自分で判断できると信じます。自分で判断しても良いです。これらを判断しても良いです。これらの問題を片付けられれば、「ヨー サロー ソー ダッサティ=芯のある人は誰でも、その人は堪えられる」という言葉に、確実に基礎があります。

 芯でない偽物の部分があれば急いで投げ捨ててしまいます。庶民、住民、世間の人が好んでも、そして供物や名誉名声の基盤でも、何の基盤でも、放り捨てなければなりません。「ブッダ・プラタム・僧だけに身を捧げ、命を捧げ、下僕あるいは奴隷になる」、あるいは「嘘偽りの人として、まだ騙し続けるのはどうしようもない」と、私が毎日言っているような状態の教祖のことだけを考えなければならないからです。

 「ブッダッサーハスミ ハーソヴァ=ブッダの奴隷です」。プラタムにもこのように言い、サンガにもこのように言い、それで心がペテン師で、ブッダ・プラタム・僧の名誉を行使する機会や、個人の楽しさを探求するのは一致しません。このようなら、叱るよりひどい、罪を指摘するよりひどい状態になり、ケーシースッタで使われているように、殺されてしまいます。

 ケーシーという名の馬の調教師との会話で、ブッダは、調教できなければ自分の馬を殺してしまうと言われています。言われているような状態、殺さなければならないほど調教できない状態は捨て、関わりません。

 このようなのは、私は大逆罪に落ちる以上だと思います。大逆罪は、還俗してから実践して聖向聖果涅槃に到達する道もありますが、このようにタンマの状態でブッダに殺されたら、それは何もないと言うことだからです。僧でいても在家になっても、何になっても希望はありません。

 だからみなさんは、どれほど恐れなければならないか、どれほど慎重にならなければならないか、どれほど自分を律して注意深く、忍耐し、デタラメ、不安定、落ち着きがないことを犠牲にしなければならないか、確実に考えなければならない話です。

 みなさんがどうするか、議論するため、勉強するため、説明するために、交渉する元手として、このようなブッダバーシタを引用したことをお許しください。これは、タンマ大使の目的、あるいは職務にふさわしい、みなさんにとって、仏教にとって、世界全体にとって善い結果を期待するからです。

 他の話ばかりし過ぎ、このような話をしたことがないように見えます。だから欠けていたので、私は何も残さず、何でも話したと言えるようにお話したということです。

 何でも熟慮し、最高に注意深く何でも試しました。そして何よりも注意深くする項目は、教祖の系統から外れること、足跡から逸れること、みなさんの勇敢さ、能力、才能才智が教祖の足跡から外れることを恐れます。

 だから「確実に。決して間違わないと保証できる」というようにし、このようなブッダバーシタを試す道具にしました。みなさんが集まって、それをテストする道具として使い、教祖が叱ってばかり、罪を指摘してばかりいるように、芯だけになるまで何度も何度も試します。

 最後にみなさんは芯だけになり、芯が得られ、体中が芯になります。つまり聖向聖果涅槃の状態があり、聖向聖果涅槃が身中にあります。みなさんの仏教の布教が成功し、成功以上になるのは、体は声や言葉を話さなくても布教できるからです。

 「欠けているのはこの部分、あるいは心の部分」と山の上で相談したように、誰でも良く見えていて認めているように、みなさんは外国語を良く知っていても、それは公開する道具であり、公開する物がありません。

 つまりタンマがなければ不安定で流動的な公開で、外国語の知識は役に立ちません。だから良く考えなければならないのは、彼らに与える本当の価値がある宝石です。与える行動や状況は重要ではなく、何語ででもいいです。口で話す言葉でもいいし、耳と目で話す手話でもいいし、黙した言葉、つまり口を閉じ、手を止め、足を止め、体で表す、何でも良く、それも素晴らしい物を与えることが良くできます。

 みなさんはどうしますか。どれくらい本物を愛していますか。本物をすごく愛していれば、流行で、あるいは彼らが話しているように与えるだけでなく、本物を与えることができます。彼らが流行りで話しているのは教祖の本当の話でなく、結局、繰り返す詰まらないこと以外に、結果はありません。

 「なぜか外国での仏教の公開は成功しない」とたくさん聞いているのは、これに違いありません。これと同じで、公開するタンマに中身がありません。ドイツ語の知識が足りない、英語を十分知らないと責めますが、私たちは、タンマの中身がないと考えません。

 アショーカ王がインドから各方向へ使節団を送った時、大長老と協力してインドから各方向に、エジプト、シリア、ラップランドまで仏教を布教しました。ラップランド(北欧)まで行って、あちこちへ行って、そして最も重要な方向、つまり我が国、スワンナプーム(インドシナ半島の昔の呼び名)へ来て、どこの言葉を使ったか考えて見てください。

 インド人が何語を話し、スワンナプームの人々が何語を話したのか。それでどうしてタンマを与えることに成功したのか。

 これは、タンマと言葉は別ということを説明して見せています。私たちはタンマを言語として使うこと、あるいは外国語でなく、タンマ語であるタンマの行動、タンマの説明を身に着けることができたので、この言語は外国語より重要なので、それらの人々は成功しました。

 あるいはもう少し低く考えると、話をする必要はなく、真似ます。動物は話さないで真似をし、母鶏が地面をつついて見せると、すぐにヒヨコは土をつつくことができ、親鶏が虫を捕まえて食べて見せると、間もなく、子も虫を捕まえて食べることができます。

 こういうのは何語か、考えて見てください。私は簡単に「手本語」と呼びます。身に着いている手本を見せます。このような手本語は、母国語、あるいは外国語でも、ヒト語より重要です。この手本語をヒト語と同じだけ知っているか、それともヒト語、母国語、外国語を何百倍も知っているか、今私がチェック、テストして見ます。

 ヒト語を知ることは、大変な事になると知らないので、手本語を二三知り、外国語を百知るということがこのように検証されて、何も本当に知らないので、どっちの方向か知りませんが、あちこち脇道へ引っ張って行きます。だから山の上でしたように、このような話題で議論すべきかどうか、義論することができます。

 次に手本語を学ぶことは、今みなさんはしていると見えます。特にサマーディバーヴァナー、つまりアーナーパーナサティ十六段階を理解し、そして実践することです。みなさんがこれをたくさんすればするだけ、手本語を多く知り、自分の体で見せることが多くなります。もう一度繰り返させていただくと、西洋人は今どこでも、サマーディバーヴァナーに目覚め、あるいはかぶれています。

 あるいはウィパッサナー、あるいは念処に興奮し、あるいはかぶれています。しかし私は、ブッダが言われているサマーディバーヴァナーと、知らないうちに食い違いが生じていることもあると言わせていただきます。

 彼らが求めるものと私たちが与えるものが別なら、出合うことはできません。そしてヒト語を百知り、手本語は二か三だけなら、結果は非常に悲惨な状態で現れ、嘲笑されるだけです。だからどうするべきか、良く考えて見てください。

 こう述べるのは、私の観察による考えにすぎず、百パーセントの正誤を主張しません。しかし、タンマがこのように手本語として身に着いていれば、これは重要なものと考えて見るよう、熟慮して見るよう、百パーセント委ねます。この部分を早く集めて百にしてください。

 みなさんにタンマ語、あるいは手本語が百あり、話す言葉が百あれば、きっと十分です。つまりバランス、あるいはそのようなものがあれば、きっと何とかなります。サマーディバーヴァナーにどれくらい関心があるか、みなさんの個人的な真実は知りません。

 一般には非常に少ないと感じると、一括りに言わせて頂くことをお許しください。他のことよりも、つききりで叱ってくれる教祖がいない状況があります。楽な方へ流れたデタラメ、不安定、落ち着きの無さがあり、つまり叱ってくれる教祖がいません。

 これは最高に重要な基礎で、この基礎が崩れてしまえば、基礎の上にあるもの、サマーディバーヴァナーはあり得ません。最高に重要なことを遊びにするので、自分の楽しく興じる事に勝てないからです。

 このようなのは、将来増えて行く名声名誉に楽しく笑い興じるためにするだけになります。それは確実に悲しめるだけ最高に悲しい話です。だからこのブッダバーシタ(ブッダの言葉)を、みなさんを叱りつける教祖としてメモして憶えておいてください。繰り返し叱りつけ、繰り返し罪を咎め、みなさんを芯だけにします。芯とは、サマーディバーヴァナーの結果であり、他の物ではありません。

 学習の部分も実践の部分も、昼間話したように知識の部分も行為の部分も、サマーディバーヴァナーに関心を持ってください。知識の部分も行為の部分も、technic と technique を、technical が生じるまで勉強してください。それが成功の道です。

 現在は知識の部分も寝ぼけたように勉強していて、実践の部分は上手く行かず、上手く行かないに違いありません。他に道はありません。私たちを芯だけにする、つまりタンマにする本当のサマーディバーヴァナーがないので、煩悩が何を望んでも煩悩の言いなりです。これは失敗で、外国へ行く前から失敗で、行っても失敗し、帰国しても失敗します。述べたような要旨、述べたような中身がないからです。

 だからどのように中身である芯があるようにするかは、他のすべての話より、たくさん考えなければならない話です。みなさんは学んで、学習の面で正しく十分にすること、実践面で正しく十分にすることの両方を並行させます。

 みなさんは志願してこのように野宿するなど、頭陀、あるいは頭陀という言葉に集約できるすべてを実践して実践を増やし、芯を好む習性に変わり、自分を支配するために創った教祖に繰り返し叱られ、繰り返し罪を咎められるのを受け入れます。避けないで、逃避しないで、騙すような考えを何一つしないで、棒で打たれることも、罰でも何でも喜んで受け入れるほど、強さと自制と忍耐、犠牲を生じさせて基礎にし、土台にします。

 それはサンマーサンブッダの善い子、善い弟子で、私が引用して話して聞かせたブッダバーシタと一致します。

 これが、今、しばらくの間述べた重要事項、あるいは要旨で、自分を苦しめる訓練が完璧になるまで、今まで述べたことに付け足しました。すべてをまとめて、「知識と技法で完璧な実践」と言います。


 どうぞ、伏して懇願します。このような知識も技法も欠陥がないよう、成功させてください。任命した、あるいは期待している偉い人を失望させないでください。みなさんは大長老の、サンガの、政府の、何よりも上のブッダの慈しみ、思いやり、期待に応えるので、誰も失望させません。自分自身に対しても、何一つ後で後悔する必要はありません。

 自分を失望させないよう、他人も失望させないよう、後で必ず後悔しないよう、伏してお願いします。みなさんはうっかりすると芯でない物を好み、芯である物に至る機会を失うので、みなさん、これからも今までどおり自制と忍耐をしてください。

 このプラタムは、軌道に乗るようにすれば残忍な物、あるいは非常に痛みがある物ではありません。捕まえられて地獄に囚われるほどの痛みは、軌道から逸れている時だけなので、プラタムのせいにすることはできません。私たちは間違った自分を責めなければなりません。

 ブッダは教えとして『タンマは中道』と言われたので、真ん中にいなければなりません。愉快で楽しくもなく、残虐で痛みがあり、沁みるのでもなく、真ん中にあります。

 どうするかは、みなさん次第です。痛みがない方だけを選べばできます。そうすれば欺く方、あるいは世俗的な成功でなく、純粋な成功に遭遇することに楽しさが生じます。タンマ大使であるみなさんにとって、これ以上のものはありません。

 みなさん一人一人が注意深くなければなりません。非常に疲れて結果が少ないこともあり、ほとんど死ぬほどしても、結果はほんの少しのこともあります。この部分に慎重に注意深くして、最高の結果を得なければなりません。つまり間違わないで最高の結果があれば、愉快です。

 残り少ない日々を、ここで生死を共にする時間が終わるまで、タンマから委ねられた義務、教祖から委ねられた義務のために、この二三日より最多の結果を出すために時間を使うよう注意深くしてください。

 みなさんは、政府に委ねられた、サンガに委ねられたと捉えるより、タンマに委ねられた、教祖に委ねられたと捉えます。みなさんは志願してブッダ・プラタム・僧の奴隷になったので、残り少ない時間を、私たちの主人であるブッダ・プラタム・僧のために、精一杯義務を行うよう、注意しなければなりません。

 そうすれば功徳を得、ブッダ・プラタム・僧のパーラミー(涅槃に至るための善)を得、ブッダ・プラタム・僧の素晴らしさである何でも、言い表せないくらいたくさん受け取り、愉快になり、満足以上の満足があり、幸福以上の幸福があり、どんな喜び・明るさ・勇敢より素晴らしい喜び・明るさ・勇敢があります。

 深い心でこういうことを思うために、寡黙でいてください。日に日にどんどん深くなり、深遠になれば、結果は、失望は無いと信じます。タンマが失望させない保証人になります。みなさんは最高に善い物、あるいはこれだけの投資の最高の儲けである高価な物を得ると信じます。

 何も多くないこれだけの頭陀、これだけの実践、大して多くもない投資ですが、結果は反対に膨大と見なします。価値を比較すれば何百倍、何千倍、何万倍です。

 だから良く注意して、それを本当に受け取って、手から落さないでください。それは手から落としたことがある滑り易い物のように、簡単に手から落ちます。

 注意していれば、滑らず、手から落ちず、絶対に落ちて壊れません。常自覚があり、慙愧があり、ナワコワーダのタンマウィパーグの最初の、極簡単なタンマがあるからです。それは私たちが見過ごし、読経の勤めも見過ごし、しなければならないことは何もないように見えるくらいいろんなことを見過ごしてしまいがちです。

 みなさんに今日考えるよう委ねることは、このようで、これだけです。どうぞ、間に合うように考えてください。いろんなこと、いろんな物、いろんな話が間に合うよう、時間に間に合うようにしてください。これが話の要旨です。




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