ブッダヴァチャナによる四聖諦


-編集部からの声明-






 本書は、これを見た人が「なぜこれほど厚いのだろう。それに何の目的で作ったのだ」と疑問に思われるほど厚いので、編集局の考えを表明します。

 本書がこのように厚いのは、四聖諦はブッダが『比丘のみなさん、如行は過去でも現在でも、苦と苦の消滅の話しか(教えるために)規定しません』と言われた唯一の話であり、すべてのレベル、すべての段階、すべての角度の苦と滅苦の話だからです。

 ブッダが『教えないことを森全部の木の葉に例えれば、教えることはほんの一掴みだけ』と言われていても、読者は「一掴みの木の葉が、どうしてこのように多いのだ」と理解するべきではありません。

 三蔵全部はこの本の三、四十倍の分量があると知れば、本書はまだ一掴みに相当します。教えない部分がどれくらいあるか、私たちに知る術はありません。ブッダが話されなかったので、誰も記録していないからです。

 私たちが知ることができるのは、教えなかったことは森全体の木の葉くらいあり、教えたことは一掴みほどだと言うことだけです。この四聖諦の話に、度重なる重複、あるいは矛盾はないと理解できます。だから私たちは四聖諦の学習に、本書のすべての要点を使わなければなりません。

 もう一つ、四聖諦を拡大すると縁起になると知るべきです。ある智者は縁起を「大聖諦」、一般の四聖諦を「小聖諦」と呼ばれています。学習者は「ブッダヴァチャナによる縁起」と並行して学習するべきです。小聖諦でもどれくらいの分量があるか考えて見てください。編者は最高に完璧で便利なように、関連のある物をすべて本書にまとめました。

 本気で学ぶ決意のある人は、タンマの実践の基礎であるパリヤッティダンマ(タンマの学習)に成功します。良く観察すれば、すべての項目は学習ばかりでなく、ブッダの時代に非常に多く実践されたタンマの実践の記録でもあることに気付きます。現代の実践にも必要なものと見なします。実践者は熟慮して、実践原則としてできるだけたくさん選択してください。

 もう一つ、読者は「四聖諦はブッダが悟った教え」あるいは「仏教の本質は、仏教教団員が日常的に実践しなければならない教えである四聖諦」と聞いています。しかし本書がこのように分厚いのを見ると、「こんなに多くては実践できない」と、戸惑いや挫折が生じます。

 話された四聖諦の説明はどんなに多くても、本当の実践は決して多くはないとお知らせさせていただきます。つまり本書の1176頁、89頁、1417頁にあるように、根(六処)に衝撃があった時、あるいはアーヤタニカダンマである感覚があった時、サティと智慧で実践するだけです。

 また120頁には、四聖諦のいずれかの項目が見える人は、他の三項目も見えると言われています。だから直接実践である四聖諦は、心の感覚のタンマを見て知らせる実践です。この場合、戸惑って挫折するほど多くはありません。要するに実践の形の四聖諦は、何もたくさん知る必要はありません。あるいはたくさん実践する必要はありません。

 六処に刺激があった時サティがあること、真実のままに知る智慧があることだけです。八項目が揃っている、あるいはマッガニャーナ(道智)であるアリヤダンマの形の聖諦は、同時に認識し‐捨て‐明らかにし‐最高に発展させる義務をします。一度に真実を洞察するなら、更にある物、あるいは見える物です。学習の形の聖諦は、本書に見られるように様々な角度の説明があります。

 最後に私のような年寄が、どうしてこのように膨大な仕事ができたのかと疑問に思われる方がいるかもしれません。それについては、たくさんの若い梵行仲間の協力によって完成したことを公表させていただきます。その方々が力を合わせて三蔵のすべての頁を開き、四聖諦に関わる話を探して集め、求めに応じて私が選び、彼らの下訳を加筆修正し、本書の形に編集しました。

 最後は協力して索引を作り、言葉を拾い出して辞書を作りました。そして内容を集めてタンマ集を作ることから、正誤票の作成まで、昼も夜も選別、印刷、校正したこともあります。本書から利益を得られるみなさん、彼らの奉仕を喜び、感謝なさってください。

 その方々の協力がなければ、どんな形にせよ本書が出来上がることはありませんでした。一九五七年に「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記」の編集を手掛けた時から、二十七年間集め続けたのでこのように膨大になったと知っていただくために、ここに記します。

 私は六十年ほど前に、スリランカのある島に住んでいたドイツ人僧が作った、A5判で小指くらい分厚い「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記」をいう本を見た時から、本書を作りたい、そしてその本の名を「ブッダヴァチャナ」にしたいという夢を温めて来ました。これは世界で初めての本であり、私と友人の心を団結させた物と言いたいと思います。

 初版は一九五九年で、二十六年の歳月が経っています。第一部の内容は、当時のスアンモークで一緒に住んでいたプラマハーサムルーン・スダワーシーが苦労して最も多く選び出し、書き写してくれました。ここに協力者として記させていただきます。

 最後にこの「ブッダヴァチャナによる四聖諦」が、『タンマが見える人は如行が見える。如行が見える人はタンマが見える』と言われた類の、ブッダ亡き後、永遠に私たちと共にある教祖であるタンマを生じさせるものであるよう願っています。


O.P

法施会教書局の名において
モーカパラーラーム、チャイヤー
1984年マーカブーチャー






前書き




 編者は次のことを皆さんにお知らせするべきだと思います。 《変革》  一九五九年の初版は編纂が完全でなく、三〇八頁でしたが、この完全版は一五七二頁あります。初版の序章は五三頁、今回は一四〇頁、初版の苦諦は九五頁、今回は一二九頁、初版の集諦は五八頁、今回は一二六頁、初版の滅諦は九五頁、今回は四〇九頁、初版の道諦は九五頁、今回は六七一頁、それにまとめと付録が七九頁あり、全部で七部一五七二頁、九六二項あり、他に索引とタンマ集があります。初版と比べてどれくらい内容が充実したか、当然読者自身で実感していただけます。

 四聖諦は、分厚い二冊に分けなければならないほど項目が多くて、持って読むのに、あるいは調べるのに不便かもしれません。特に二冊同時に索引する時など、どうぞ自分自身でこの不便を無くす方法、つまり置く場所などを考えてください。

 本書は、重要な教えを集められるよう、特に初歩の教えの提言を特に増やしました。初心者が自分で比較できるように百項の見本を並べたので、自分で比較対照でき、この種の教えの重要項目を、後で学習するために集めることができます。

 他にもまだ、学生、学習者、研究者、説教者、そしてタンマを教える先生方からタンマの実践者まで、それらの方々に生じる問題を解決するために、より深く広く学習する方法を提言しています。

 これには、理解が一致していない項目、まだ反論し合う問題である項目もあります。パーリ(経典)と、あるいは真実と違うので有益に利用できないものもあります。一部はヒト語で話し、一部はタンマ語で話し、一方は深く話し、もう一方は浅く話しているのもあります。読者のみなさん、どうか深く熟慮熟考なさってください。十分に明らかにすれば、きっとほとんどの問題は片付くと思います。

 もう一つ、四聖諦全体の終わりに「本書の語句と正字法に関する付属説明」という題で記した文章は饒舌に感じさせ、ご迷惑をお掛けしたことを、読者のみなさんにお詫びをしなければなりません。これは欠陥になるほど、あるいは何らかの曖昧さを後に曝すほど長いので、ここでその欠陥についてお詫びしなければなりません。


《様々な角度から理解しなければならない引用》

 本書の制作に使った三蔵は、サヤームラット・パーリ三蔵・ラーマ七世記念版で、本書にある巻数、頁、項は、当然他の版のものと異なります。同じセットでも版が違えば初版と数字が違うかもしれません。この問題が生じたら、自分で調べていただけば、さほど難しくなく見つかると思います。

 中にはタンマコート(プッタタート全集のような叢書)から引用しなければならない項目もあります。例えば「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記」や「ブッダヴァチャナによる縁起」です。多分みなさんはこれらの本をお持ちのことと思います。それは、本書にその項目について書く時間の節約になります。

 経典の名前の略表記の説明を増補改革したので、版によって違うのは手違いによるものでなく、ケースに合わせて増やし整理するためなので、略表記や説明が変化しているのを見つけても、利用者は懐疑を抱くべきではありません。編者は末長く使える完成したものにする努力をしています。

 本書は「ブッダの言葉集」ですが、テーラ(長老)やテーリー(長老尼)の言葉も入れたのは、それらを「ブッダの言葉」と見なさせるためではなく、比較するため、あるいはブッダバーシタをより鮮明に説明するためにだけ引用しました。

 あるいは、もしブッダがご自身がこの話をされたら、この弟子と同じように言われるという理由からで、目先をごまかすためではありません。


《「ブッダの言葉」の範囲》

 この場合の「ブッダの言葉による」とは、直接のものと間接のものがあるとご理解ください。直接とは直接話された言葉で、たとえば道とは何かと言えば、八項目全部です。間接とは「いつも正しいサティがあれば、八正道も自然に完璧になる」というような言葉です。

 このような状態の道も、同じくブッダの言葉の「道」と捉えてください。間接的な言葉も意味や重要さに変わりはありません。学習者は、本書の至る所にあるこのような語句を観察しなければなりません。

 読者の中には「なぜこの本はヒト語の地獄天国について話していないのだ。通常一般では話されているのに、四聖諦と関係ないはずはない」と疑問に思われる方がいるかもしれません。これは、四聖諦は苦と滅苦の話だけで、幸福や天国については話さないと理解してください。天国はまだ取の威力下にあるので、苦と関わっています。だから「愛欲」と「愛欲の害」の形で天国について話されています。

 地獄の話は直接苦の話と言うことができます。しかしヒト語で話されている話、あるいは地下にある国である物質的な話は、心の苦の説明である四聖諦の範囲外です。しかしそれでも「地獄は六処の過ちで、心が火のように熱くなっている時」で、地下の地獄も本当の意味は「苦のある心にある」と言うことができます。ですから正しい地獄天国の話も、この四聖諦の中で完璧に語られていると見てください。

 本書を編集している時、編集者も「正しい言葉」「正しい業」「正しい生活」の説明がなぜ少ないのだろうと感じました。読者のみなさんもそのように感じられると思います。最後には、このような道徳レベルの話はカーヤスチャリタ(正しい体)、ヴァチースチャリタ(正しい言葉)などの呼び方で知られて、どこででも実践していることと気付きます。

 時には説明を飛ばされていることもあります。基本的な道徳であり、普通にあるものと見なすからで、誰も知らないこと、あるいはあまり話す人がいない、もっと良い話をたくさん話されています。学習者にこの真実が見えるよう願っています。


《四聖諦の価値》

 読者の方が偉大で広大で深遠な四聖諦の価値を、ブッダの願いどおり洩らさず完璧に見るよう、切に願っています。それはみなさん自身の利益になります。初めに「ブッダが話そうとされた」と言われる四聖諦の意味深さです。つまり他の話、例えば死んで生まれるか否か、世界は変わるか否か、世界に終わりはあるか否かは「話そうとなさらなかった」問題で、質問されても宣託なさいませんでした。

 これは四聖諦だけが核心である話であること示唆しています。どれくらい価値があるかについて言えば、価値がありすぎて直接言葉で言うことはできません。だから「四聖諦を知ることと引き換えなら、朝昼晩、毎回百回、百年間槍で刺されても良い」などという、あり得ない例で譬えなければなりません。みなさん、ブッダがこの話の価値をどのようにご覧になっていたか、考えて見てください。

 「非常に急ぐこと」についても、同じように「髪や着衣が燃えていても、髪の毛や着衣の火を消すために使う力と努力を、四聖諦を知ることに使う方が良い」と普通ではあり得ない例えで話されています。

 ヨーガカンマ、つまり「本気でする行動としてしなければならないこと」について言えば、四聖諦を知る行動以上にするべきことはありません。四聖諦を知るためのヨーガカンマを強調なさっている時ほど、ヨーガカンマをするよう強調なさっているのを見たことがありません。これも四聖諦に関わる行動の価値を推測できるものです。

 四聖諦の価値がどれほどあるか説明するにはこの四つで十分です。

 苦労を投資しなければならないことを考えると、四聖諦を知る努力は却って快適で、苦行と呼ぶ類の行動をする必要はないと分かります。反対にその間中、タンマを知ることと少しずつ増えていくピーティ(喜悦)の威力で、時々幸福と喜悦があります。

 もう一つ四聖諦を知るには、膨大な時間の浪費であるアビダンマの学習に関わって苦労し、混乱する必要はありません(一五二七頁参照)。直接四聖諦の要旨を勉強するために、時間を大切にするべきです。遅滞と苦労の節約になり、誰にでもできる範囲にあります。奇跡の教えとして知られているすべての奇跡より高度な奇跡を望む方は、他人に四聖諦を教える奇跡を見せてください(1522頁参照)。これも四聖諦を知ることの価値を表しています。

 四聖諦を知る価値はまだあり、他人を援ける物として使うことができます。これ以上に高い物がない「最高の支援」です。「最高の支援で誰かを支援するなら、その人に四聖諦を教えることで救いなさい」と言うことができます(44頁参照)。

 それから決して忘れてはならない最高の恩人は、自分に四聖諦を教えてくれた人と捉えてください。尊敬し崇拝すること、あるいは物質で恩返しをするだけでは十分ではなく、他の人に四聖諦を教えることで恩返しをしなければなりません(1530頁参照)。


《四聖諦の科学性》

 論理の面から見れば、四聖諦は素晴らしい論理構造をしていることが分かります。つまりそれぞれの場合に完璧な問があり、「A.それは何か。B.何が原因か。C.何のために。D.どのようにして」という構造になっています。これは自分が知ろうと決意した、あるいは行動しようと決意したどんな問題も、この四項の問題に答えられれば、知識も実践も問題ないということです。

 この原則はどんな問題にも、世界のどんな仕事にも応用することができ、細かい質問項目は、無限に拡大することができます。科学の面から見れば、四聖諦の四項は、宇宙の最高の自然の法則である因果の法則になります。すべての物には原因と縁があり、原因と縁の威力で変化し、原因が消え、縁が消えれば結果も消えるという法則があります。

 それらの「原因と縁の法則」で正しい行動をすれば、創造神や神々など神聖なものに依存する必要はなく、そして現代の科学で証明することができます。

 心や識の面なので、心の面の科学と呼ばなければなりませんが、自然の自然による自然の真実なので、物理的な科学と矛盾せず、反対に人類の利益になります。人間の問題を本当に、十分に解決することができるからです。

 「心理学」の状態もありますが、仏教は現代の心理学のように利益を求める心理学でなく、人間の心の問題を解決する心理学です。別の形の科学であり、神学の状態は全くありません。だから仏教は基本として神学がある宗教に属しません。勝手に呼ばせてもらうなら「真理の科学」と呼びたいと思います。

 宗教、あるいは「崇高な存在と人間を結び付けるもの」という意味の Religion の面から見れば、仏教で最高のものは、もう一つの科学の法則である四聖諦に従った正しい実践によって、苦が終わった状態です。だから仏教には、Creationist、つまり「いろんな物は神様が創造した」と見なす状態はなく、Evolutionist 、つまりいろんな物は因果と呼ぶ自然の法則によって生まれ、変化していると見なします。

 それは四聖諦の重要な教えです。だから「四聖諦は仏教を宇宙の真理の宗教 Cosmic Religion にする」と言うことができます。これは仏教独特、あるいは独自の状態で、観察すべき点です。

 話さなければならない最後は、仏教は(仮定して思考することで真実を探求する)Philosophy ではありません。仏教は哲学(つまり思考に依存することなく、最高の真実を見る智慧)であり、例えば苦などの今問題であることを、掌に載っている物を見るように四聖諦の教えで真っ直ぐ見ることで、(結果は、一つの考えの結論である「見方」しかなく、さらにそれが際限なく繋がっていく哲学でも最高の智慧でもない)Philosophy の技法で思索推測しません。

 Philosophy の手法で仏教の話をしたい人は話すこともできますが、「それは滅苦ができない」と主張させていただきます。本当の仏教は Philosophy でなく、哲学、つまり思索しないで、本物を明らかに見ることから生じる智慧だからです。

 Philosophy にはできない、煩悩を突き刺すことができる智慧です。厄介な問題が生じるのは、(西洋の)Philosophy という言葉を(東洋の言葉である)哲学と一緒にしてしまうからです。本物の四聖諦は Philosophy にはなれません。しかし完璧な哲学で、単なる展望ではありません。

 学習者が最後まで自分でこの四聖諦の本を学べば、すぐに「四聖諦は滅苦の形で述べられている。思考に依存する Philosophy ではあり得ない。行動の仕方の教えであり、哲学、あるいはダンマサッチャと呼ばれるものを生じさせる行動を教えている」と、自分自身で見ることができます。


 すべては完璧な結果のために、時間を惜しまず、読者のみなさんに熟慮していただきたい問題です。


O.P
法施会教書局の名に於いて
チャイヤー モーカパラーラーム
1984年マーカブーチャー





「前書き」初版



 仏教全体の頂点に四聖諦があり、すべての教えは四聖諦に集約することができます。すべての実践項目は、四聖諦を智慧で知るためにあります。四聖諦を最高の智慧で知った時、漏煩悩から解脱し、苦の終わりを明らかにした人になります。そして完璧に苦から脱し、二度と苦に戻ることはありません。心がそれまで執着していた物から解脱するからです。

 自分自身で四聖諦を完璧に知り、そして他人にも教えた人をサンマーサンブッダと言います。自分で知り、自分が解脱することだけに精通していても、他人に教えることができない人を独覚ブッダと言います。サンマーサンブッダから聞いて知った人を小ブッダ、あるいは聖なる弟子と呼びます。

 三種類のどれも四聖諦を智慧で知った人です。四聖諦はタンマの頂点であり、四聖諦を知ることは梵行(正品行)の頂点であり、四聖諦を智慧で知る行動はすべての行動の頂点です。

 この世界、あるいはどの世界、何千の世界でも「苦から脱す」以上の善はありません。四聖諦を完璧に知ること、つまり苦と、苦の原因と、苦の消滅と苦を消滅させる方法を知ることで苦から脱します。このような聖諦の四項は、他の何よりも生きるために知らなければならない知識です。他の知識は騙して動物を夢中にさせるだけで、人間の心から苦を、根も種も諸共に吐き出すことはできません。

 法施会教書局の担当者が、長い間四聖諦の話を集める努力をし、非常に苦労して探して編集し、ブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)による四聖諦完全版の形にしました。法施会は一九五七年から本書の印刷を始め、一部と二部の一部分は製本しました。今は三部の「滅諦」が終わったので、製本しています。四部の道諦とまとめは、引き続き印刷します。


法施会
1959年11月23日




祝辞 



 ブッダ自身の口から発せられた言葉で四聖諦を伝承することによって、ブッダヴァチャナを繁栄させ、永続させる原因であり縁である物を作られた、今回の善なる意図に、心からお喜び申し上げます。

 これはパッチャッタン(自分で自覚するべき物)として明らかに見るため、そしてそれを勤勉に次の世代へ教え、先々まで伝承していくために、ブッダの教えを学習し実践して、ダンマと意味を検証する人が存在するよう望まれたブッダの御心に適う、ロークッタラのレベルの未来のテクノロジーです。

 ダンマのお仕事をなさったすべてのお弟子のみなさんが目指し、力と心を合わせて編纂、校閲された不滅の業績である至高の作品は、元のパーリ三蔵から、誰の考えも混じっていないブッダヴァチャナの部分だけを選り分けて翻訳したものです。これはターン・プッタタートの永年の努力による、ダンマとヴィナヤの正しい実践経験と、お弟子たちの繊細で緻密な研究と探求の賜物です。

 この縁に依存して、お弟子のみなさん及び協賛者のみなさん、そしてすべての学習者のみなさんが、望みと力と、このように良く作られた縁にふさわしく、ダンマを見る目を得、涅槃を成就なさるよう。


プラクックリット・ソータティパロー
2010年6月





 ブッダの規定と、ブッダのご意志と一致する形と方法で、

 サッダンマ(正しい教え)を盤石にするために編纂する。


 比丘も在家も、すべての仏教徒が、

 ブッダが発せられた言葉であるブッダヴァチャナだけに関心を寄せて学習することは、

 ブッダによって公開されたダンマヴィナヤ(教えと律)の正しさを維持するために、

 ブッダの時代に使用されていた本来の基準に還ることであり、


 ブッダを崇拝し、そして今後の人間と天人の幸福のために、

 再び仏教徒の心に、

 阿羅漢サンマーサンブッダをお招きすることと確信する。



要旨

 王位を捨て、四つの大洋に接する領土を治める皇帝になる規模の愛欲を味わう機会を捨て、ゴータマサマナは苦からの解脱である素晴らしい知識に到達するために、困難を極める努力をなさいました。

 その結果、六月の満月の夜、菩提樹の木陰でアヌッタラサンマーサンボーディ(無上正菩提)を悟られ、壮大で無限の光が生じました。


 すべての天人の威力が生じさせる光より更に偉大で、この光の明るさはありとあらゆる所、すべての世界を照らし、闇の中間地獄にもこの光は届きます。

 大悟されたのは四つの素晴らしい真実(四聖諦)、つまり苦諦、集諦、滅諦、道諦です。

 本書に収めたのは、ブッダご自身が話された言葉であるブッダヴァチャナだけを厳選して翻訳した四聖諦です。

 この版では、誤植と、未だに疑問である脚注、あるいはブッダヴァチャナとしっくりしない脚注を修正し、新たに見つけたブッダヴァチャナを追加しました。ターン・プッタタートと法施協会教書局編の初版で学習する方の便宜のために、そして学習者やパーリ経典を知る人が更に正確に完璧にするために、調査確認できるよう、元のページ番号を維持しました。





日本語訳者より

 仏教の聖典である三蔵は分厚い本が七十巻もあるので、普通の人はもちろん、時間と環境に恵まれている出家でも、母国語版であっても、すべてを読むのは並大抵ではありません。だから仏教を学ぶには直接ブッダの言葉を学ぶのが最善であると知っていても、どの国の言葉も大抵は文語で難解であることと、分量が多いために、ほとんどの仏教徒や仏弟子は、生涯触れる機会がありません。

 手に入りやすく読みやすい経を幾つか読んでも、ブッダの教えの中でそれがどんな位置にあるのか、繰り返し説かれているのか、あるいは稀なのか、あるいは対機説法で反対のことを言われている経はないのかなど、他の経との比較や全体との関係が分かりません。

 中にはブッダの言葉ではない、仏教の物ではない経もありますが、初心者には判断できません。だから全貌を知らないで一部だけを読むと、盲人が象に触るような誤解が生じます。

 ブッダの言葉がそのまま残されているのに、ブッダの教えを学んで実践しようとするほとんどの人が読むことができないのは、開かない宝箱と同じで、本当にもったいないです。

 2500年もそのような状況が続いていましたが、ターン・プッタタートが着想を得てから何十年もの歳月を費やして、ブッダの言葉の中から四聖諦の話だけを選び出し、学びやすく編集されたので、これ一冊(厚さの都合二冊ですが)で、ブッダが話された四聖諦の要旨すべてを読むことができます。

 この本に収められた言葉は本物のブッダの言葉であり、簡潔であり、要旨であり、理解を援けるよう編集されていて、そしてパーリ語からの訳文がどの訳の物より明解で、教えの要旨と一致しているので、ブッダの教えの実践者にとって、生涯の宝になる一冊と確信します。

 ターン・プッタタートの法話、あるいは講義も稀有な価値のあるものですが、それらはブッダの教えの解説であり、時代説法であり、長く残るものと言っても、百年か二百年、あるいは数百年で時代に合わなくなって消えて行くかもしれません。しかしこのブッダの言葉を集めた本書は、永遠に輝きを失うことなく、学僧以外の一般僧と一般学習者のためのブッダヴェチャナの精髄として、今後何千年でも、仏教がある限り読み継がれる本と思います。

 ブッダヴァチャナの本という着想は、「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記」という、スリランカにいたドイツ人僧の本から得たと言われていますが、ブッダの伝記だけでなく、最も重要な教えである「四聖諦」と「縁起」をブッダヴァチャナで作ろうと考えた着眼と、人生の非常に長い時間、講義と並行してその仕事に関わられたことこそが、ターン・プッタタートの偉大さではないかと思います。

 一般の人は体のある人物しか見えないので、どんなに高いレベルの教えを学ぶ人でも、説いているお坊さんを称賛して信仰することから脱せませんが、ターン・プッタタートは常にブッダの弟子であることを表明し、仏教の教えである素晴らしい真実は、現在説いている人の教えでなく、教祖ブッダの教えであると常に表明し、崇拝者たちの崇拝と信仰を喜ばず、ブッダ以外の人に帰依することや信仰する愚かさを指摘し続けました。

 その態度は、ブッダヴァチャナの本の制作に比丘生活のほとんどの時間、関わってきたという事実からも知ることができます。

 ブッダは「善友は梵行のすべて」と言われ、『私という善友に依存して涅槃に至りなさい』と言われています。この本が、熱心なキリスト教徒が毎日寝る前にバイブルの一節を読むように、毎日一つでもブッダの言葉を読んで、ブッダを善友にする縁になることを願っています。

 最後に、ターン・プッタタート訳のブッダヴァチャナの和訳に関して、従来の仏教用語と異なる訳語が幾つかあるので、読者の方が当惑なさらないようお知らせしておきます。

 まず初めに、従来「色」と訳されて来たパーリ語の「ルーパ」ですが、この言葉は形という意味で、「色」という意味はありません。五蘊のルーパは動物、特に自分の体を意味している言葉で、「第一部 解説一の2」に「なぜ形と呼ぶのかは、崩壊する動きがあるので形と呼ぶ」とあるように、意味として形であることは明らかであり、色という訳語は誤りなので、正しく「形」にしました。

 この間違いは「第一部 解説二」の『形の害』で繰り返し使われている「色」という言葉が、五蘊の「形」と混同されたのが原因ではないかと推測します。

 四大種の「土・水・火・風」は、従来「地・水・火・風」と訳されてきました。地と土は質的には同じものですが、地は地球と繋がっている地球の一部であり、足の下にあります。一方土は、地球の一部でも土と呼べますが、地と分離している少量のものでも土と呼びます。

 地界または土界は、特に自分の体を構成する要素なので、「土・水・火・風」の方がイメージに合っています。「地・水・火・風」では、自分の体ではなく、大自然の構成要素のような誤解を生むので、ブッダの説明に適した「土」という語にしています。

 従来の仏教書では、三学の「戒・定・慧」、八正道の「正定」などに、「定」という語が使われてきましたが、この語の原語は「サマーディ」であり、定という訳語の原語は「ジャーナ」であり、同じではありません。サマーディは意味が広く、心が集中した状態、心に一つの感情しかない状態を意味しますが、定という言葉は初禅から四禅まで四つの形禅定を呼ぶ言葉で、無形禅定は、ブッダの言葉では定と呼ばれないそうです。

 すべてのレベルに使えるのは、サマーディとサマーパッティという言葉だと言うターン・プッタタートの解説に従って、正確さを期すため、ブッダの言葉のまま「サマーディ」あるいは「三昧」にしました。

 日本の従来の仏教用語の、ほとんど二千年も前の中国で訳された語句で、日本語の感覚と一致しないもの、理解できないものも多いです。気づいた語句に関しては、現代日本人が読むと同時に、耳にすると同時に正しい感覚をイメージできる語に変更しています。

 初めは戸惑われるかもしれませんが、ブッダヴァチャナの理解に、より適した語と、慣れれば、従来の語を使うより的確で鮮明な理解に導くと確信します。

 もう一つ、日本では「不放逸」と訳されている「アッパマダー」を、パーリ語の意味で「不注意でない」と訳しました。放逸とは、大辞林によれば、「①節度をわきまえず,勝手気ままに振る舞うこと。生活態度がだらしがないこと。またそのさま。②情容赦もないこと。乱暴なこと」とあるので、反対の「不放逸」は生活態度が真面目で、規律があり、秩序があると言うような意味になります。

 不注意でないことは、サティやサマーディを必要とするので第一義で、不放逸は生活態度で世俗諦なので、文章の途中に「不注意でない」という言葉があったら、「不放逸でない」と、どちらがブッダの目的にふさわしいか比較なさって見てください。

 如来と訳されて知られている「タターガタ」は、パーリ語で「そのように行った」という意味で、深い意味は「そのように行き、そのように来た動物」という意味で、ブッダのみならず、すべての動物を意味するそうです。だからそのように行き、そのように来た動物の一人であるという意味で、ブッダは自身を呼ぶ時に「私」という言葉の代わりにこの言葉を使われました。

 つまり語句の意味は「そのように行く」という意味ですが、中国では来たようなと取れる「如来」という訳語を当てています。「来たような」は、仏国から遣わされたという意味があるようにも感じます。そこで本書は、タターガタの直訳で「そのように行く」という意味の「如行」としました。

訳者  


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