ブッダヴァチャナによる四聖諦




 仏教の心臓部である四聖諦を学ぶにふさわしいように、

 最高に十分に、ブッダ自身が話された言葉を集め編纂しました。

 すべて、大衆と天人の利益のために、協力して広めるようブッダが望まれた、ブッダヴァチャナを集めたものです。





導入部




四聖諦に関して知るべきこと



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世界の動物と四聖諦




大悟して衆生を思われる

 世界の動物は困難が生じると、目隠しする触(註1)があり、当然実体がある物として病気(突き刺すこと)について話す。

 人が何かを何かと理解しても、当然それは彼が(真実のままに)理解している物ではない。

 世界の動物はバヴァ(有。三界)に関わり、有に目隠しされ、(真実ではない)有があるので、そのバヴァに非常に陶酔する。

 その人が非常に陶酔しているものは(彼が気付かない)災いで、彼が何かを恐れれば、それは苦になる。人が梵行を行うのは、当然有を捨てるため。

 「有からの解脱は有ゆえにある」と言うサマナ・バラモンを、私はそのすべてのサマナ・バラモンは有から解脱した人ではないと言う。

 「有からの解脱は非有(ヴィバヴァ)(註2)によってある」と言うサマナ・バラモンは誰でも、そのすべてのサマナ・バラモンは、まだ有を振り捨てることができないので、私はすべてのウパティ(依)に依存した苦が生じると言う。

 すべての取(ウパダーナ)の消滅は苦がないことから生じる。この世界をご覧なさい。すべての動物は厚い無明で目隠しされている(と見える)。そしてその時の有を喜ぶ動物は、当然有から解脱できない。何らかの有は、すべての場所、あるいはすべての時の利益(註3)になる。すべての有は無常であり、苦であり、当然変化する。

 このように正しい智慧で真実のままに見れば、当然彼は有欲を捨てることができ、無有欲にも陶酔しない。

 すべての欲望が消滅することで(すべての有を)残らず吐き出して消滅させれば、それが涅槃だ。新しい有は当然ない。その比丘は執着がないので完全に静まった人であり、悪魔を支配できる人で、戦いに勝ち、すべての有を侵略し、確定した(二度と変化しない)人だ。

小部ウダーナ 25巻121頁84項



 (これは、大悟なさって七日後に、大悟した菩提樹の木の下で詠嘆された言葉です)。


註1: その人が触に触れた時、その人の心全部がその触に執着するので、髪の毛が山を隠すように、どんなに大きな物も見えないという意味です。彼はその旨味だけに執着して恍惚となるので、他の物が見えません。こういうのを「触が隠す」と言い、目を隠して真実と違う状態に見せることです。

註2: ここで言うヴィバヴァ(無有)は有の反対、つまり直接断滅論あるいは虚無論の威力による有がないこと、つまり因果の法則によって変化しないことです。だから彼が何もないと感じても、無有欲の基盤である「ヴィバヴァ、虚無」と呼ぶ類の、有である無があります。

註3: 「すべての場所、あるいは時」から「すべての利益があるために」までの文章は、有の執着の基盤である価値です。どのような存在も、ふさわしい時、適当な場所、魅力的な利益に関わることで、執着するもの、あるいは誘惑して執着させるものになるので、どんな有も当然この三つに関わりがあります。しかし結局それはブッダが詠嘆されているように、無常であり、苦であり、当たり前に変化して行くものにすぎないという意味です。






四聖諦を知らずに苦から脱すことはあり得ない

 比丘のみなさん。誰かが「私は家の基礎を造る必要はないが、家を建てことができる」と言っても、これは不可能なように、誰かが「私は素晴らしい真実である苦と、苦を生じさせる原因と、苦の消滅と、苦の消滅に至る道を知る必要はないが、それでも私は正しく苦を消滅させる」と言うのは有り得ません。

 比丘のみなさん。誰かが「私は先ず家の基礎を作らなければならない。そうすればその上に家を建てられる」という人は、これは可能なように、誰かが「私が素晴らしい真実である苦と、苦が生じる原因と、苦の終わりと、苦を残らず終わらせる道を知れば、そうすれば正しく苦を終わらせることができる」と言うのはあり得ます。

 比丘のみなさん。だからこの場合、みなさん「これが苦、これは苦が生じる原因、これが苦の消滅、そしてこれが苦の消滅に至る道」と真実のままに知る努力をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻564頁1735頁






四聖諦を知らないから輪廻する

 比丘のみなさん。四つの聖諦を良く知らなかったから、洞察できなかったから、私もみなさんもこれほど長い間、輪廻を回遊しなければなりませんでした。比丘のみなさん。四聖諦の四項はどれでしょうか。

 比丘のみなさん。聖諦である苦、聖諦である苦が生じる原因、聖諦である苦の消滅、そして聖諦である苦を消滅させる道を知らず、洞察できなかったから、私もみなさんも、これほど長い間輪廻の中を回遊しなければなりませんでした。

 比丘のみなさん。聖諦である「苦・苦が生じる原因・苦の消滅、そして苦を消滅させる道」を私とみなさんが知り、そして洞察できる真実になった時、有の欲望は抜き取られ、有に導く欲望も終わり、今再び生まれることはありません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻541頁1698項




 (別の経では、輪廻をしなければならない原因は四つの素晴らしいダンマを知らないからと話されています)。

 比丘のみなさん。四つのダンマを段階的に知らなかったから、洞察できなかったから、私もみなさんもこれほど長い間、輪廻しなければなりませんでした。四つのダンマとは何でしょうか。比丘のみなさん。聖人の戒、聖人のサマーディ、聖人の智慧、聖人の解脱を段階的に知らず、洞察できなかったから、私もみなさんも、これだけ長い間、輪廻しなければなりませんでした。

 比丘のみなさん。聖なる戒、聖なるサマーディ、聖なる智慧、聖なる解脱を、私もみなさんも段階的に知り、洞察できるダンマになった時、有を欲望することが抜き取られ、有の欲も抜き取られたので、今、再び生まれることはありません。

増支部チャトゥカニバータ 21巻1頁1項





四聖諦を知らないから人間に生まれる動物が少ない

 比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。爪の先で掬った僅かなホコリと、大地とどちらが多いですか。

 「猊下。大地の方が多いです。爪の先で掬ったホコリは少ないです。ホコリと大地は比較になりません。測れません」

 比丘のみなさん、この例えも同じです。人間に生まれ戻ってくる動物は少なく、人間以外に生まれる動物が実に多いのはどうしてでしょうか。比丘のみなさん。それは、それらの動物は四聖諦が見えないからです。四聖諦はどのようでしょうか。苦である聖諦、苦が生じる原因である聖諦、苦の消滅である聖諦、苦の消滅に至る道である聖諦です。

 比丘のみなさん。だからこれは「苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の消滅はこのよう、苦の消滅似たる道はこのよう」と知る行動をするヨーガカンマ(註1)がなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻578頁1757項


註1: ヨーガカンマとは、目的を達成するために何らかの形で厳格に系統的にする努力のこと。一般に使われている「ヨーガ」という言葉は、どの宗教でも使われる。





(四聖諦が見えない場合の結果、

 「中程度の田舎に生まれる動物が少ない」 19巻578頁1758項

 「智慧の目がある動物が少ない」 19巻579頁1759項

 「中毒物質を嗜まない動物が少ない」 19巻579頁1760項

 「陸の生物に生まれる動物が少ない」 19巻579頁1761項 

 「母を援ける動物が少ない」 19巻579頁1761項

 「父を援ける動物が少ない」 19巻579頁1762項

 「サマナを支援する動物が少ない」 19巻579頁1763項

 「バラモンを支援する動物が少ない」 19巻580頁1764項

 「謙虚な動物が少ない」 19巻580頁1765項


 ブッダはこの他にもたくさん、私たちが良く知っている十善業を維持していない動物など、望ましくない動物の状態を説明されています。編者は必要を越えていると見るので引用しません)。






如行が生まれるまで世界には闇があった

 比丘のみなさん。まだ世界に太陽と月が生じる前は、その間中、偉大な光、偉大な明かりが照らすことはありませんでした。その時代は盲目にする闇しかなく、昼も夜もなく、一月も半月もなく、季節も年もありませんでした。

 比丘のみなさん。しかし世界に太陽と月が現れた時、偉大な光、偉大な明るさが現れました。その時、当然盲目にする闇はなくなり、昼と夜が現れ、一月と半月が現れ、季節や年も当然現れました。

 比丘のみなさん。同じように阿羅漢サンマーサンブッダである私が世界に生まれるまで、まだ偉大な光、偉大な明かりはありませんでした。その時代は闇ばかりで、盲目にする闇でした。四聖諦を教え、説明し、規定し、公開し、分類し、簡単に理解させる行動は、その時はまだありませんでした。

 比丘のみなさん。しかし世界に阿羅漢サンマーサンブッダである如行が生まれた時は、いつでも偉大な光、偉大な明かりがあり、その世界を盲目にする闇は当然ありません。その時当然四聖諦を教え、説明し、規定し、開示し、分類し、簡単に理解させる行動があります。四聖諦とはどのようでしょうか。それは苦諦、集諦、滅諦、道諦です。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさん「これが苦、これが苦の原因、これが苦の滅、これが苦を滅す道」と知るヨーガカンマ(体系的に厳格に、本気で努力すること)の行動をしなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻553頁1721項






四聖諦は変化を知らない不変のもの

 比丘のみなさん。不変で、別のものに変化しないものが四つあります。四つとは何でしょうか。四つとは「これが苦、これが苦の生じる原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」の四つは、不変であり、不変でなくなることはなく、別のものになることはないと真実のままに知ることです。比丘のみなさん。これが、不変で、不変でなくなることがなく、他のものに変化しない四つです。

 比丘のみなさん。だからこの場合みなさんは「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦を消滅させる道」と真実のままに知る努力をするべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻539頁1697項






世界の動物が恐れるべき幸福と恐れるべきでない幸福

 私が「人は幸福を判断することを知らなければならない。幸福を判断することを知ったら、内面の幸福があるようにするべきです」と言ったのはなぜでしょうか。比丘のみなさん。これらの五欲には何があるでしょうか。

 五つとは目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で感じる接触で、(それらすべては)望ましく、愛らしく、満足し、目や心を魅惑して虜にするもの、欲望の住処、愛欲の住処です。

 比丘のみなさん。喜びはこれらの五欲に依存して生じます。その喜びを、私は凡夫の幸福・カーマスッカと呼びます。それは愛欲の幸福で、素晴らしい幸福ではありません。私はその幸福を、味わうべきでない、発展させるべきでない、恐れるべき幸福と言います。

 比丘のみなさん。このダンマヴィナヤ(法と律。宗教という意味)の比丘は初禅、二禅、三禅、四禅に達し、常にその感覚の中にいます。

 これを私は、出離(淫欲から脱すこと)に依存した幸福、静寂から生じる幸福、鎮静から生じる幸福、知り尽くしたことから生じる幸福と呼びます。私はその幸福を、人が残さず味わうべき幸福、発展させ増やすべき幸福、恐れるべきでない幸福と言います。

 私が「人は幸福を判断することを知るべきで、幸福を判断することを知ったら、内面である幸福があるようにするべきだ」と言うのは、こういう理由からです。

中部ウパリバンナーサ 14巻427頁659項






凡夫の感覚は常に四聖諦の教えと違う

 長者さん。あなたの顔は、心がここにないことを表しています。あなたの顔は普通ではありません。

 「猊下。正常な顔をしてはいられませんよ。たった一人の可愛い幼子が亡くなってしまいました。小さな子が亡くなったので、仕事も真っ暗、食事も真っ暗です。私は子の屍を焼いた所へ行って、幼い子一人でどこへ行ったと、嘆くばかりです」。

 それはそのようです、長者さん。悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みは愛する物から生じます。愛している物が発生源です。

 「猊下。悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが、愛する物から生じるなんてことはありませんよ。愛している物からは喜びと恍惚が生まれるんです。喜びと恍惚の発生源です」。

 長者はブッダの言葉を受け入れも反論もしないで立ち上がり、去って行きました。彼は遠くで賭博をしていたゴロツキの所へ行ってその話をし、ゴロツキたちから、「そのとおりだ、旦那。恍惚と喜びは愛する物からしか生まれねえ。絶対に愛している物が発生源だ」と、自分の主張を支持する答えを得て、自分の考えとゴロツキの考えが一致したことに満足して去って行きました。

中部マッジマバンナーサ 13巻489頁536項


 (これは、凡夫たちの考えは常に一致し、四聖諦の真実と一致しないことを表しています)。





世界の餌に夢中になっている人は愛欲の話を好み、
静かさの話を聞かない

 スナッカッタさん。五欲はこの五つです。五つとは何でしょうか。目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、舌で味わう味、体で感じる触で、すべては望ましいもの、可愛くて欲しがるもの、満足するもの、目や心を魅了して愛させるもの、欲望の住処、欲情の基盤です。スナッカッタさん。これらが五欲です。

 スナッカッタさん。これはあり得ます。つまりこの世界の人は世界の餌(つまり五欲)に傾いていく性情があるので、五欲についてだけ際限もなく会話する言葉は、当然世界の餌に傾く性情がある人によって維持されます。

 彼は当然五欲に追従する物について考え、当然それと付き合い、夢中になります。一方彼は(五欲で)動揺しないサマーパティ(訳注:禅定と同じだが、禅定より範囲が広い)がある言葉を聞こうとせず、耳を傾けて聞かず、知ろうとしません。

 その人はその種の言葉に馴染みがないので、その種の言葉に興味がありません。スナッカッタさん。長いこと自分の村や町を離れている人が、自分の村や町から来たばかりの人を見れば、彼は当然その人に、その村や町の幸福や安否、食糧や病気について質問し、その人も答えて教えるのと同じです。

 スナッカッタさん。あなたはどう理解しますか。彼は当然その人の話を良く聞き、耳を傾けて聞き、知ろうとし、その人に関心を向けるのではないですか。

中部ウパリバンナーサ 14巻62頁71項






洗浄した心だけが、四聖諦を聞くにふさわしい

 比丘のみなさん。その時首都パンドゥマディの大衆八万四千人が町を出て、カーマミガダーヤワンにいるヴィパシ世尊に拝謁に行き、拝礼して片側に座りました。ヴィパシ世尊は人々に次第説法、つまり布施の話、戒の話、天の話、すべての欲の害と憂欝、それらから出る功徳を説きました。

 人々の心がしとやかで蓋がなく、明るく澄んでいてふさわしいと知られた時、すべてのブッダが説明される話、つまり、苦・集・滅・道について話されました。汚れのない清潔な布は当然染料が良く沁みるように、「生じた物には当然終わりがあり、消滅がある」と、ゴミやホコリのないダンマの目が、そこに座っている八万四千人の人々に生じました。

 その人々はダンマが見え、ダンマに到達し、明らかに知り、すべてを洞察でき、疑念が消え、不確かさがなく、勇敢になり、自分の教祖の教えに関して他人を信じる必要がなくなり、ヴィパシ世尊に「何て美しい。何て響きが良い。伏せた物をのを裏返すようで、閉じた物を開けたようで、道に迷った人に道を教えるようで、目のある人に形が見えるように、闇の中で明かりを灯したようです」とこのように申し上げました。

長部マハーヴァッガ 10巻49頁49項





まだ洗浄していない心が滅諦を見るのは非常に困難

 王子。これらの動物は喜びの元である懐かしむ気持ちがあり、思い偲んで喜び、思い偲んでうっとりします。喜びの元である懐かしむ気持ちがある動物は、その懐かしさに対する恍惚が、縁起、つまり「これはこれの縁である」(因果の法則・縁起)と見るのを非常に困難にします。

 そしてすべての行が静まったものであるダンマ、すべてのウパディ(依。しがらみ)を返却したダンマ、欲望の終わり、緩むこと、苦の消滅である涅槃も、非常に見るのが難しくなります。私がすべてを知る必要のない動物にダンマを説かなければならないとすれば、それは徒労であり、難儀です。

 王子。「今、苦難の末到達したダンマを公開すべきではない。このダンマは、欲と怒りに隔てられている動物が簡単に知ることができるものではない。闇に覆われ、貪りで欲情する動物は、緻密で深遠で見え難い極微であるダンマ、流れに逆らうダンマは見えない」と、私が今まで聞いたことがない、この哀しい詩が私に鮮明に現れてきました。

中部ムーラバンナーサ 12巻461頁509項






欲情に対して自立していない動物は、愛欲に迷う

 マーガンディヤさん。遠い昔もすべてのカーマ(愛欲)は苦である接触があり、強烈に焼き炙ることがあり、非常に焦燥がありました。遠い未来もすべての愛欲は苦である接触があり、強烈に焼き炙ることがあり、非常に焦燥があります。現在もすべての愛欲は苦である接触があり、強烈に焼き炙ることがあり、非常に焦燥があります。

 マーガンディヤさん。しかしこれらの動物は、まだすべての愛欲の欲情が無くなっていないので、愛欲に噛まれ、愛欲の焦燥に焼き炙られていて、愛欲が排除した根(つまり自分の権威)がありるので、苦である接触があるすべての愛欲を「幸福」と、奇怪な理解をします。

中部ムーラバンナーサ 13巻279頁284項






世界の生動物が本当の幸福を知るのは、智慧が生じた時

 マーガンディヤさん。生まれつき目が見えない人は、黒や白や緑や黄色や赤などのいろんな形を見ることができず、同じか同じでないかも見えず、星や月や太陽も見えません。

 その人は目の良い人が「旦那。生地の良い白布は、美しくて疵がなく、清潔ですよ」というのを聞いて、白布を探し歩きます。彼が白布を探し回っていると、ある男が煤で汚れた粗悪な布を「旦那。これですよ、質が良くて美しい、汚れのない清潔な布は」と騙すと、その人はその布を買って身にまといます。

 その後、友達や親戚や肉親が腕の良い医者を呼んで来て手術をし、熟練した人が看護します。医者は上の害を排泄する薬、下の害を排泄する薬、点滴薬、垂らして噛ませる薬、鼻薬を使い、その人はそれらの薬で目が良くなり、煤で汚れた粗悪な布への愛と満足を捨てることができます。

 その人の目が良くなった途端に、騙した男にとって敵になり、狙う敵になります。あるいは、私はこの人に騙されて、煤で汚れた粗悪な偽物を『旦那。これは質が良く美しくて疵のない清潔な布です』と長い間騙されていた恨みで、「命を奪うべきだ」と理解することもあります。

 この例えも同じです。マーガンディヤさん。「こういうのが病気のないことで、こういうのが涅槃です」と私があなたにダンマを説いて、あなたが病気のない状態を知ることができ、涅槃を見ることができるのは、あなたにダンマの眼が生じると同時に、五取蘊の陶酔と欲情を捨てることができる時です。

 そしてあなたは、「発展した方。この心に騙され、ごまかされ、騙し取られていたのは本当に長かった。だから執着していた時は、形・受・想・行・識に執着し、執着が原因で、老、死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、そして悩みが一斉に生じた。すべての苦の山の発生は、このようにしてあった」という感覚が生じます。

中部ムーラバンナーサ 13巻284頁290項

 


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