ヘ サマーディに欠けることの害

蓋はサマーディの敵

 ヴァーセッダさん。アジラヴァディー川の水が満ちていて、カラスが止まって水を飲めるくらいの時、その時向こう側に利益があり、向こう側に行きたい、向こう側へ渡りたいと望んでいる男が来ますが、彼はこちら側の縁で頭を抱えて寝そべっているようです。ヴァーセッダさん。あなたはどう考えますか。その男はアジラヴァディー川のこちら岸からあちら岸に行くことができると思いますか。

 「絶対に出来ません。ゴータマ様」。

 ヴァーセッダさん。これも同じで、この五蓋をアリヤヴィナヤでは「隠す物」「妨害する物」「包む物」「縛る物」と言います。五種類はどのようでしょうか。五種類とは、欲貪(満足による貪り)蓋、瞋恚(復讐心)蓋、こん沈睡眠(眠気と沈鬱)蓋、掉挙悪作(散漫)蓋、疑蓋で、この五蓋をアリヤヴィナヤでは「隠す物」「妨害する物」「包む物」「縛る物」と言います。

 ヴァーセッダさん。ヴェーダの三バラモンはこれらの五蓋に隠され、妨害され、包まれ、縛られています。ヴァーセッダさん。ヴェーダの三バラモンはバラモンにするダンマを捨ててしまい、五蓋が隠している、妨害している、包んでいる、縛っているバラモンにしないダンマを実践しているので、体が壊れて死んだ後、梵天の友人になれる人になることは、それはあり得ません。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻306頁378項





蓋は心を集中させない物

 比丘のみなさん。この五種類の心を妨害し智慧の力を後退させる蓋があります。五種類はどのようでしょうか。五種類とは、

 妨害する蓋、つまり貪欲が心を支配すると智慧の力を弱め、

 妨害する蓋、つまり瞋恚が心を支配すると智慧の力を弱め、

 妨害する蓋、つまりコン沈睡眠(眠気でしょんぼりすること)が心を支配すると智慧の力を弱め、

 妨害する蓋、つまり掉挙悪作(散漫)が心を支配すると智慧の力を弱め、

 妨害する蓋、つまり疑法(疑念)が心を支配すると智慧の力を弱めます。

 比丘のみなさん。この五種類の妨害する蓋を捨てない比丘が、自分の利益、他人の利益、自分と他人の利益を知ること、あるいは聖人にふさわしい普通の人間より卓絶した素晴らしい智見(見識)を、力のない智慧で明らかにすることはあり得ません。

 比丘のみなさん。遠い山にある源流から流れてくる、いろんなものを掻っ攫って行く急流がある川を、両側から沢山の人が鍬やスコップで孔を掘れば、川の流れが殺がれて別の方向へ流れ、遠くへ流れて行かず、色んな物を掻っ攫う急流が失われるように、比丘のみなさん。

 心を妨害する五蓋を捨てない比丘が、自分の利益、他人の利益、自分と他人の利益を知り、あるいは卓絶したアリヤにふさわしい、普通の人間より素晴らしい智見を、力のない智慧で明らかにすること、それはあり得ません。

 (この後反対の意味、つまり人が両側に掘った孔を埋めてしまえば急流が生じるように、比丘が力のある智慧で五蓋を捨てて、素晴らしいニャーナダッサナ(智見)を明らかにする話をされています)。

増支部パンチャカニバータ 22巻72頁51項





ケチな心は、定への到達や聖果を明らかにするには低すぎる

 比丘のみなさん。人が五つのダンマを捨てなければ、初禅、二禅、三禅、四禅に入るにふさわしくなく、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を明らかにするにふさわしくありません。五つのダンマはどのようでしょうか。

 五つとは住まいをケチること、名家(支援者である在家)をケチること、財産をケチること、身分(善)をケチること、(聖果に到達させる)ダンマをケチることです。

 (その後、五つのダンマを捨てれば、定に入ること、そして聖果を明らかにするにふさわしいと、反対側から話されています)。

増支部パンチャカニバータ 22巻302頁256項





ト その他

心のサビと金のサビ

 比丘のみなさん。この五つの、金を曇らせ、肉を堅くし、金細工師の仕事に適さず、照りがなく、もろくて細工師の加工にふさわしくない金のサビがあります。五つのサビはどのようでしょうか。五つとは鉄、金属、錫、鉛、銀です。

 比丘のみなさん。この五つのサビがなければ、その金は当然肉が柔らかく、細工師の仕事に適し、照りがあり、もろくなく、細工師が細工するにふさわしく、指輪や耳飾りや首飾りや腕飾りなど、いろんな装身具を作りたい人がいれば、その人の利益になります。

 比丘のみなさん。同じようにこの五つの心のサビは、心を曇らせ、柔和でなくし、心の仕事に適さず、清浄でなく、不安定で、漏を終らせる正しい安定がありません。五つの心のサビはどのようでしょうか。五つとは、貪欲、瞋恚、こん沈睡眠、掉挙悪作、疑法で、比丘のみなさん。心にこの五つの曇りがなければ、その心は当然柔和で、心の仕事に適した清浄な心で、もろくなく、漏を終わらせる正しい落ち着きがあります。

増支部パンチャカニバータ 22巻18頁23項





自然に敵同士であるもの

 比丘のみなさん。そうです、そうです。それらの大弟子が託宣する時は正しく託宣するように、比丘のみなさん。私は「声は禅定(ジャーナ)にとって本当に敵(あるいは棘)である」と言います。比丘のみなさん。この十種類の敵があります。十種類はどのようでしょうか。十種類とは、

 集団に混じる喜びは遠離を喜ぶ人にとって敵であり、

 スバニミッタ(清浄相)があることはアスバニミッタ(不浄相)がある人にとって敵であり、

 芝居を観ることはすべての根を管理する人にとって敵であり、

 女性と関わることは梵行にとって敵であり、

 声は初禅にとって敵であり、


 考えは二禅にとって敵であり、

 喜悦は三禅にとって敵であり、

 呼吸は四禅にとって敵であり、

 想と受は想受滅にとって敵であり、

 貪りは敵であり、怒りは敵です。

比丘のみなさん。みなさんは敵のない人でいなさい。比丘のみなさん。みなさんは敵が全滅した人でいなさい。比丘のみなさん。すべての阿羅漢は敵がいない人、敵が全滅した人です。

増支部ダサカニバータ 24巻145頁72項

 (十番目は貪りと怒りが敵とありますが、前の九項のように何にとって敵か明示されていないので、ダンマ全般の敵であると理解します。愚かさを敵と言われないのは、愚かさは敵(棘)のように、あるいは貪りや怒りのように突き刺す状態がないからと理解します)。





ある比丘にとっての森に住むこと

 「スガタ様。私は静かな住まい、森か寂しい森に住みたいと思います」。

 ウバーリさん。静かな住まい、つまり森や寂しい森は暮らし難く、離れて住むのは大変です。一人でいることを喜ぶのは難しいので、森は比丘の心を落ち着かなくすることが多いです。ウバーリさん。「サマーディを得られないから、静かな住まい、森や寂しい森で暮らす」と言う人は、その人はこの結果、つまり心が沈むか、あるいは心の散漫が期待できます。

 ウバーリさん。大きな渕があって、背丈七ラタナ(四米余り。註1)、あるいは七ラタナ半の雄象がそこへ来て、「この渕へ下りて水遊びをしたり、耳や背中を洗ったりして、浴びて飲んでから水から上がり望みどおり去って行こう」とこのように考えます。その象がそのようにするのはなぜでしょうか。ウバーリさん。その象は体が大きいので、深い淵に降りることができるからです。

 その時、ウサギかヤマネコが来て「象がどこで何をしても、私も同じようにする。だからこの渕に下りて水遊びをし、耳や背中を洗い、そして水を浴びて飲んでから、水から上がって望みどおり去って行こう」とこのように考えます。そのウサギあるいはヤマネコが熟慮せずにその渕に飛び込めば、期待できる結果は水に沈むか、あるいは浮いて流れて行きます。。

 それは何故でしょうか。ウサギやヤマネコは体が小さくて、深い渕に下りられないからです同じようにウバーリさん。「サマーディが得られないから、静かな住まいつまり森や寂しい森に住む」と言う人は、この結果、心が沈むか、あるいは心が流される結果を期待しなければなりません。

 (上記の言葉は、森に住むことは誰にでも向いているわけではないと説いています。森に住むだけで初禅、二禅から漏のない想受滅まで到達しようと考える人は、森に住むだけでは自分の利益に至った人と呼ばれないので、成功しません。だから世尊は言葉を続けます)。

 ウバーリさん。あなたはサンガの中にいなさい。そうすればサンガにいるあなたに安楽があります。

増支部ダサカニバータ 24巻216頁99項

註1: 1ラタナは2ヴィダッティで、タイで試した限りでは、1ヴィダッティは1フットであることが分かっています。つまり1ラタナは約61㎝、7ラタナは約4.2mです。





油断なく暮らす人の心の次第

 比丘のみなさん。普段油断なく暮らす人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。人が眼根に心を集中していれば、心は当然目で明らかに知るべきすべての形で汚れません。汚れていない心があれば当然歓喜が生じ、歓喜が生じれば当然喜悦が生じ、心に喜悦があれば当然体が静まり、体が静まれば当然幸福があり、幸福のある人の心は当然安定し、心が安定すれば当然すべてのダンマが現れ、すべてのダンマが現れれば、その人は当然、普段から本当に不注意でなく暮らす人と見なされます。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も同じように話されています)。

 比丘のみなさん。こういうのを、平素から不注意でなく暮らす人と言います。

 (普段から不注意で暮らす人の場合も、反対の意味で説かれています)。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻98頁144項





四つの形禅定で緻密になっていく諦想

初禅の場合

 ポッタパーダさん。その比丘が自分が捨てることができた五蓋を見ていれば、当然歓喜が生じ、歓喜が生じれば当然喜悦が生じ、心に喜悦のある人の体は当然静まり、体が静まった人は当然幸福を味わい、幸福な人の心は当然安定します。

 その比丘は愛欲とすべての悪が静まり、ヴィタッカとヴィチャーラ(熟考)、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 それまでその人にあった愛欲想は当然消滅し、遠離から生じた喜悦と幸福の緻密な諦想が、当然その時生じ、その人は当然、その時遠離から生じた喜悦と幸福に精緻な諦想がある人です。このような学習で一つの想が当然生じ、一つの想が当然消滅します。これも学習です。


二禅の場合

 ポッタパーダさん。まだあります。比丘はヴィタッカとヴィチャーラが静まって、心の内面を明るくする物であり、一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラがなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 その人にそれまであった、遠離から生じた喜悦と幸福の精緻な真想は当然消滅し、サマーディから生じた喜悦と幸福の精緻な真想が、当然その時生じ、その人は当然、その時のサマーディから生じた喜悦と幸福の緻密な真想のある人です。このような学習で一つの想が当然生じ、一つの想が当然消滅します。これも学習です。


三禅の場合

 ポッタパーダさん。まだあります。比丘の喜悦が薄れることで、捨にいる人であり、常自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人の方々が、「この定を得た人は捨にいて、サティがあり幸福に暮らす」と言われる三禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 それまであったサマーディから生じた喜悦と幸福の真想は当然消滅し、捨による幸福の緻密な真想が、当然その時生じます。このような学習で一つの想が当然生じ、一つの想が当然消滅します。これも学習です。


四禅の場合

 ポッタパーダさん。まだあります。比丘が幸福と苦を捨てることができ、過去のすべての喜びが薄れて、苦も楽もなく、あるのは捨ゆえに純粋な自然であるサティだけの四禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。

 その人にそれまであったウベカースッカの精緻な真想は当然消滅し、苦でも幸福でもない緻密な真想が当然その時生じます。その人はその時苦でも幸福でもない緻密な真想のある人です。このような学習で当然一つの想が生じ、当然一つの想が消滅します。これも学習です。

 (空無辺処、識無辺処、無所有処の場合も同じように話されています)。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻226頁279項





まだ障害物のある心解脱

 比丘のみなさん。この四つの部類の人が世界にいます。四つの部類はどのようでしょうか。四つとは、

1. 比丘のみなさん。この場合の比丘は何らかのチェトーヴィムッティ(心解脱)に到達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は当然(その心解脱に依存して)心の中を有身滅にし、彼が心の中を有身滅にしても、心はまだ駆けて行かず、帰依せず、維持せず、有身滅に傾いて行きません。その比丘のこのような状態は、彼に有身滅を期待できなくさせます。

 トリモチで汚れた手で木の枝を掴んでいる男は、掴んで引っ付き、貼り付いている(自由でない)ように、比丘のみなさん。何らかの心解脱に到達し、そして常にその感覚の中にいる比丘は、当然心の中を有身滅にしていますが、心の中を有身滅にしても彼の心が有身滅に走って行かず、帰依せず、維持せず、傾いて行かなければ、その比丘のこのような状態は、彼に有身滅を期待できなくさせます。

2. 比丘のみなさん。この場合の比丘は何らかの静かなチェトーヴィムッティ(心解脱)に到達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は当然(その心解脱に依存して)心の中を有身滅にし、心の中を有身滅にすると彼の心は有身滅に駈けて行き、帰依し、維持し、傾いて行く時、その比丘のこのような状態は、彼に有身滅を期待させます。

 手が清潔な男が木の枝を掴むと、彼の手は引っ付かず、貼り付かない(自由)ように、比丘のみなさん。何らかの静かな心解脱に到達した比丘が当然心の中を有身滅にすると、心が有身滅に駈けて行き、帰依し、維持し、傾けば、その比丘のこのような状態は、彼に有身滅を期待させます。

3. 比丘のみなさん。この場合の比丘はいずれかの静かな心解脱に到達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は当然(その心解脱に依存して)心の中を無明の絶滅にし、そして常にその感覚の中にいます。彼が心の中を無明の絶滅にしても心がまだ駆けて行かず、帰依せず、維持せず、無明の絶滅に傾かなければ、その比丘のこのような状態は、彼に無明の絶滅を期待できなくさせます。

 作って何年もたっているゴミ捨て場である池の水の流入口を塞ぎ、水の流出口を全部塞いでしまい、そして季節の雨も降らなければ、そのような時その池の土手から流れ出る水を期待できないように、比丘のみなさん。いずれかの心解脱に到達し、そして常にその感覚の中にいる比丘は、当然心の中を無明の絶滅にしています。

 彼が心の中を無明の絶滅にしても、彼の心が無明の絶滅に走って行かず、帰依せず、維持せず、傾かなければ、その比丘のこのような状態は、彼に無明の絶滅を期待できなくさせます。

4. 比丘のみなさん。この場合の比丘はいずれかの静かな心解脱に到達し、そして常のその感覚の中にいます。彼は当然(その心解脱に依存して)心の中を無明の絶滅にし、そしてその感覚の中にいます。彼が心の中を無明の絶滅にすると心が駆けて行き、帰依し、維持し、無明の絶滅に傾けば、その比丘のこのような状態は、彼に無明の絶滅を期待させます。

 作って何年もたっている町のゴミ捨て場である池の、水の流入口を開け、水の流出口を全部塞ぎ、そして季節の雨が降れば、そのような時その池の土手から流れ出る水を期待できるように、比丘のみなさん。いずれかの心解脱に到達し、そして常にその感覚の中にいる比丘は、当然心の中を無明の絶滅にします。

 彼が心の中を無明の絶滅にすると彼の心は無明の絶滅に駆けて行き、帰依し、維持し、傾きます。その比丘のこのような状態は、彼に無明の絶滅を期待させます。

 比丘のみなさん。この四つの部類の人がこの世界にいます。

増支部チャッカニバータ 21巻223頁178項





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