イ 同義語
八正道の同義語
比丘のみなさん。サーマンニャ(サマナであること)について話します。比丘のみなさん。サーマンニャとはどのようでしょうか。サーマンニャとは、この八正道、すなわち正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。比丘のみなさん。私はこれをサーマンニャと言います。
他の経:19巻30頁105項で八正道を、ブラフマンニャ(梵天であること)と言われ、
他の経:19巻31頁111項で八正道を、ブラフマチャリヤ(梵天の行動)と言われ、
他の経:19巻20頁61項で八正道を、サムマッタ(正しさ)と言われ、
他の経:19巻20頁64項で八正道を、クサラダンマ(善であるダンマ)と言われ、
他の経:19巻20頁67項で八正道を、サンマーパティパダー(正しい道)と言われ、
他の経:19巻20頁91項で八正道を、サンマーパティパッティ(正しい実践)と言われ、
他の経:19巻528頁1664項で八正道を、マッジマパティパダー(中道)と言われ、
他の経:19巻534頁829項で八正道を、サマタとヴィパッサナー(止と観)と言われています。
素晴らしいダンマヤーナである八正道
(ある時ジャーヌッソニーバラモンが、どこもかしこも真っ白な装飾を施した車に白馬を繋いで、白い団扇を持って座っていると、それを見た人々が「ブラフマヤーナ(梵天の乗り物)」「ブラフマヤーナの状態だ」と叫んでいるのをプラアーナンダが見て、その後世尊に拝謁して言いました)。
「スガタ様。このダンマヴィナヤのブラフマヤーナの規定はできますか」。
できるとも、アーナンダ。ブラフマヤーナ(梵天の乗り物。最高の乗り物という意味)という言葉は、八正道の代名詞で、ブラフマヤーナと言ったり、ダンマヤーナ(ダンマの乗り物)と言ったり、アヌッタラサンガーマヴィチャヤ(至上戦勝)と言ったりします。
アーナンダ。人が励んでたくさんした正しい見解は貪りを取り出して終わらせ、怒りを取り出して終わらせ、愚かさを取り出して終わらせます。人が励んでたくさんした正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディは、貪りを出して終わらせ、怒りを出して終わらせ、愚かさを出して終わらせます。
アーナンダ。この説明を「ブラフマヤーナという言葉は八正道の代名詞であり、ブラフマヤーナと呼ぶこともあり、ダンマヤーナ(ダンマの乗り物)と呼ぶこともあり、アヌッタラサンガーマヴィチャヤ(無上の戦勝)と呼ぶこともある」と知るべきです。
(学習者は、ブラフマヤーナという言葉はバラモン教で最高の言葉なので、プラアーナンダはこの宗教でもそのような言葉が欲しいと思って質問しましたが、世尊はダンマディターナ(物事を主語にした叙述法)の形で八正道がブラフマヤーナだとお答えになり、おまけにダンマヤーナとアヌッタラサンガーマヴィチャヤという言葉まであったと知るべきだと言われています。
私はダンマヤーナという言葉の方が重要と見るので、題に使いました。更にこの八正道は意味をいろいろに分類することができ、例えば「八正道は善友」という題で、ヴィヴェカニッシタン ヴィラーガニッシタン ニドーラニッシタン ヴォッサッガパリナーミに分類され、
そして「励んだ八正道はそれ自体が四聖諦をすること」という題等の中では、ラーガ-ドーサ-モーガヴィナヤ-パリヨーサナに分類され、本書の1419頁、1421頁,1458頁の註では、アンマトガダ アンマタプラーヤナ アンマタパリヨーサナや、ニッバーナニンナ ニッバーナポーナ ニッバーナパッバーラに分類されています)。
八正道はサンマーパティパダー
比丘のみなさん。ミッチャーパティパダー(誤った道)について話します。みなさん、これをお聞きなさい。
比丘のみなさん。誤った道はどのようでしょうか。誤った道は誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生業、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディで、比丘のみなさん。これを誤った道と言います。
比丘のみなさん。サンマーパティパダー(正しい道)はどのようでしょうか。正しい道とは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディで、比丘のみなさん。これを正しい道と言います。
(上の経では、八正道を正しい道と言われ、他の経:19巻28ページ89項では正しい実践と呼ばれています。更に別の経:相応部ニダーナヴァッガ 16巻5頁19項では、滅側の縁起を正しい道と呼ばれているのもあります。
滅側の縁起を苦滅諦と呼んでいるのもあり:増支部ティカニバータ 20巻227頁401項、八正道と滅側の縁起は、どちらも正しい道ということです。学習者は特に関心を寄せるべきです)。
聖道という名のサンマッタ(正しさ)
比丘のみなさん。私はみなさんに聖道であるダンマの話をします。みなさん、お聞きなさい。
比丘のみなさん。非聖道はどのようでしょうか。それは誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生活、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディ、誤ったニャーナ、誤った解脱で、これを非聖道と呼びます。
比丘のみなさん。聖道はどのようでしょうか。それは正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディ、正しいニャーナ、正しい解脱で、これを聖道と呼びます。
(上のブッダの言葉は、十サンマッタと十ミッチャッタを聖道と非聖道と説かれています。他のブッダの言葉では、対で説明されているのもあります。幸福道、邪悪道と呼んでいるのもあり、善いダンマ・善くないダンマ、聖道・非聖道、善のダンマ・悪のダンマ、利益のあるダンマ・利益のないダンマ、ダンマ・アダンマ、漏にならない・漏になる、
害のないダンマ・害のあるダンマ、焼き炙らないダンマ・焼き炙るダンマ、煩悩を集めない道具・煩悩を集める道具、儲けとして幸福がある・儲けとして苦がある、報いとして幸福がある・報いとして苦がある、静めるダンマ・静めないダンマ、善人のダンマ・善人のダンマでない、生じさせるべきダンマ・生じさせるべきでないダンマ、味わうべきダンマ・味わうべきでないダンマ、
励むべきダンマ・励むべきでないダンマ、たくさんするべきダンマ・たくさんするべきでないダンマ、思い出すべきダンマ・思い出すべきでないダンマ、明らかにするべきダンマ・明らかにするべきでないダンマと呼んでいるものあります。24巻4258~265頁134~154項)
涅槃に至る道であるダンマ
比丘のみなさん。みなさんに涅槃に至る道を説明します。みなさんこれをお聞きなさい。
比丘のみなさん。涅槃に至る道はどのようでしょうか。(この後涅槃に至る道と呼ぶ物をたくさんの経で説明されていますが、ここでは説明されたダンマの名前だけを挙げます)。
身隨念: 比丘のみなさん。私はこれを涅槃に至る道と言います。
サマタとヴィパッサナー: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
サヴィタッカ・サヴィチャーラ(考えることがある。有尋有伺)サマーディ: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
サンニャタ(抑制)サマーディ、アニミッタ(無相)サマーディ、アッパジヒタ(無願)サマーディ: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
四念処: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
四正勤: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
四如意足: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
五根: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
五力: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
七覚支: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
八正道: 比丘のみなさん。これを涅槃に至る道と言います。
比丘のみなさん。私はこのように、涅槃に至る道を説いたということです。
比丘のみなさん。可愛がる教祖が可愛がることの利益を求めて弟子たちにするべきことは何でも、私はみなさんにしました。比丘のみなさん。ほら、すべての木の根元、ほら、すべての空き家。比丘のみなさん。みなさんは煩悩を焼く努力をし、油断をしてはいけません。みなさん後で焦燥することになってはいけません。これが、私がみなさんに繰り返し教える言葉です。
確実に正しくなる道
比丘のみなさん。六つがある人はサッダンマ(正法)を聞いても、すべての善(註1)の中の正しいダンマの確定(確実な結論)に至ることはできません。六つはどのようでしょうか。六つとは、
妨害するカンマがある
妨害する煩悩がある
妨害するカンマ(註2)の報いがある
信仰がない
満足がない
貧弱な智慧がある
比丘のみなさん。この六つがある人は、正法を聞いてもすべての善の中の正しいダンマの確定に至ることはできません。
※
比丘のみなさん。六つがある人が正法を聞けば、すべての善の中の正しいダンマの確定に至ることができます。六つはどのようでしょうか。六つとは、
妨害するカンマがない
妨害する煩悩がない
妨害するカンマの報いがない
信仰がある
満足がある
智慧がある人
比丘のみなさん。この六つがある人が正法を聞けば、すべての善の中の正しいダンマの確定に至ることができます。
註1: ここでの「すべての善の状態」とは、八正道、あるいは正しいニャーナと正しい解脱を加えた十正道を意味します。要するにこの経の六項は正道の核心に直行する広い道です。
註2: 妨害するカンマがあるとは「悪いカンマを作った後の後悔」という意味で、妨害する煩悩とは「心の基本である誤った見解」のことで、妨害するカンマの報いとは「ダンマを理解できない動物に生まれさせるカンマの報い」という意味です。
八正道でない聖道
比丘のみなさん。みなさんに聖道と非聖道の説明をします。みなさんこれをお聞きなさい。
比丘のみなさん。非聖道はどのようでしょうか。殺生、盗み、邪欲、虚言、告げ口、悪口、貪欲、復讐心、誤った見解です。比丘のみなさん。これを非聖道と言います。
比丘のみなさん。聖道はどのようでしょうか。殺生を避け、盗みを避け、邪欲を避け、虚言を避け、告げ口を避け、粗暴な言葉を避け、貪らず、復讐しない心、正しい見解です。比丘のみなさん。これを聖道と言います。
(ここで聖道、非聖道と呼ぶ十善業と十悪業を、別の経:24巻300頁179項では、白道、黒道と呼んでいます)。
ロ 道諦の所属
八つの聖道は三学に集約される
「お母さん(尊敬する女性という意味)。八正道はどのようですか」。
ヴィサーカ先輩。八正道はこれだけの物です。つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。
「お母さん。八正道は有為の物ですか、無為の物ですか」。
ヴィサーカ先輩。八正道は有為の物です。
「お母さん。三つの蘊(戒、サマーディ、智慧)は八正道に集約されますか。それとも八正道が三学に集約されますか」。
ヴィサーカ先輩。三学は八正道に集約されませんが、八正道は三学に集約されます。つまり正しい言葉、正しい業、正しい生業の三つは戒蘊に、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディの三つはサマーディ蘊に、正しい見解と正しい考えは智慧蘊に集約されます。
(上の内容はダンマディンナー長老尼が清信士ヴィサーカに答えた言葉で、その清信士がその内容を世尊にお話しすると、世尊は「ヴィサーカさん。ダンマディンナー比丘尼は博学者で、智慧が多いです。私に質問しても、私は彼女と同じように託宣します。あなたはその内容を記憶しておきなさい」と言われたので、ダンマディンナー比丘尼のこの内容は、ブッダバーシタ=ブッダが言われた言葉と同じ価値があるので、ここに引用しました)。
三学の詳しい状態
1.詳細な戒蘊
「アーナンダさん。ゴータマサマナが称賛し、大衆に遵守させ、維持させる聖戒はどのようですか」。
青年。如行は阿羅漢であり、知識と行儀が完璧で、正しく悟り、良く行き、世界を明らかに知り、訓練するべき人を誰よりも良く訓練する人、ダンマを分類して動物に教える明るい人として、この世界に生まれました。
如行は最高の智慧で、天人と悪魔と梵天のこの世界と、サマナ・バラモン、天人と人間を含む動物の群れを明らかにして、明らかに分かるように教えました。如行は初めも中間も終わりも美しいダンマを説き、言葉も意味も完璧で純潔な梵行を公開しました。
長者や長者の子息、あるいはこれからどこかの家系に生まれる人でも、そのダンマを聞けば如行への信仰が生まれ、信仰がある人は当然「在家は窮屈で埃の在り処。出家は極めて(すっきりする)チャンス。家を治めて、僧のように完璧で純粋な梵行をするのは容易ではない。それなら髪と髭を剃って袈裟をまとい、家を出て出家し、家に関わらない人になろう」と、このように熟慮して見ます。
その後彼は大小の財産と大小の親戚を捨て、髪と髭を剃って家を出て出家し、家に関わらない人になります。その良家の子息がこのように出家すると、パティモッカ(二二七戒)に集中することで慎重な人になり、行儀とゴーチャラ(好んで行く場所)が完璧で、普段どんな小さな物でも、すべての罪の危険が見え、すべての教条を遵守するべき物と受け入れて遵守し、善である身業、口業があり、純潔な生業があり、戒があります。
青年。戒がある比丘はどのようでしょうか。青年。この場合の比丘は殺生を捨て、殺生を避け、丸太と武器を置いてしまい、恥があり、可愛がることと憐れみに至り、すべての生き物を援けたいと願い、・・・・・・
(この後は、1541頁:付録の冒頭:で読むことができます)。http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-12-1.html
2.詳細なサマーディ蘊
「アーナンダさん。ゴータマサマナが称賛し、そして大衆に遵守して維持し、その中にいるよう誘われるアリヤサマーディ蘊はどのようですか」。
サマーディに励む初め
青年。すべての根を管理している門がある比丘はどのようでしょうか。
青年。この場合の比丘は目で形を見ても全部をまとめた形で掌握する人でなく、部分に分けて掌握する人でなく、下賎な悪、つまり貪りと怒りは根源である根、目に注意しない人に流れて行くので、彼は当然その根に注意する実践をし、当然根つまり目を維持し、当然根つまり目に注意深くなることに至ります。
(耳・鼻・舌・体・心である根の場合も、同じように話されています)。
青年。比丘はこのようにすべての根を管理する門がある人です。
青年。常自覚のある比丘はどのようでしょうか。青年。この場合の比丘は前進、後退、振り向く、視線を投げる、屈む、伸ばす、大衣や中衣の持ち方、食事、飲む、噛む、嘗める、排便、排尿を周到に自覚する人で、行く、止まる、寝る、眠る、起きる、話す、黙ることをすべて自覚する人です。青年。このように比丘は常自覚がある人です。
青年。サンドーサ(知足)である比丘はどのようでしょうか。青年。この場合の比丘は当然体を維持する物であるチーヴァラ(衣)に足るを知る人であり、腹を維持する食べ物に足るを知る人であり、その比丘がどの方向に回避して行くにも、当然その鉢と衣を持って回避して行ける人です。
青年。体を維持するチーヴァラに足るを知る人で、腹を維持する食べ物に足ることを知る人である比丘は、翼がある鳥はどこへ飛んで行くにも翼だけが重荷のように、チーヴァラと鉢だけを持ってどこへでも回避して行きます。青年。比丘はこのように知足の人です。
サマーディに励む
その比丘はアリヤ(聖人の物)である戒蘊があり、アリヤである根があり、アリヤである常自覚があり、アリヤである知足があり、彼は静寂な住まい、つまり森、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、野外、藁の山(のどこか)に住み、食事の後、托鉢から戻ると彼は結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据え・・・・・(この後は1553頁を見てください)。http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-12-1.html
3.智慧蘊の詳細
「アーナンダさん。ゴータマサマナが称賛し、そして大衆が遵守し、維持し、その中にいるよう誘われるアリヤパンニャー(聖智慧)蘊はどのようですか」。
その比丘は心が安定して純潔で明るく、煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事に適したしなやかな自然であり、このような安定を維持すれば、彼は心に智見を引き寄せ、当然「私の体は形があり、四界があり、両親が発生源で、ご飯と生菓子で成長し、常に揉みほぐしていなければならず、それでも当たり前に崩壊消滅するが、その体に依存し、その体と関わっている私の精神は、美しい猫目石のようだ」と(彼は明かに見えます)。
石にふさわしい八角にして良く磨けば、明るく澄み切ってすべての価値が揃い、その宝石に緑や黄色や、赤や白やオレンジ色などの筋があれば、目の良い男が掌の上に載せて見ると、「この宝石は石に適した八角にし、良く磨けば、明るく澄み切ってすべての価値が揃う。その宝石に緑や黄色や、赤や白やオレンジ色などの筋がある」と明らかに見えるのと同じです。
(この後の内容は「その比丘は心が純潔で澄み切って安定し、煩悩が無く、随煩悩がなく、仕事に適したしなやかな自然になり、このように動揺なく維持していれば、彼は心を心で作られたニラミッタカーヤに引っ張って行き、この体以外の体を脱ぎ捨てます」から、「アリヤパンニャー蘊が終わる」まで、1559頁を見てください)。http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-12-1.html
三学は段階的に上達する
(世尊が王宮内のマンゴー苑に滞在なさっている時、比丘に解説のあるダンマをたくさん話されて言われました)。
戒はこのよう、サマーディはこのよう、智慧はこのよう、戒が訓練したサマーディは当然大きな成果があり、大きな功徳があり、サマーディが訓練した智慧は当然大きな成果があり、当然大きな功徳があり、智慧が訓練した心は当然すべての漏、つまり欲漏、有漏、無明漏から正しく解脱します。
増上三学
比丘のみなさん。この三つの学習があります。三つはどのようでしょうか。三つとは、増上戒学(最高の戒)、増上心学、増上智慧学です。
比丘のみなさん。増上戒学はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は戒がある人で、パティモッカに細心の注意をし、行儀とゴーチャラ(好んで行く場所)が完璧で、普通に、どんな小さな物でも、すべての罪の害が見え、すべての教条を学んで遵守します。比丘のみなさん。これを増上戒学と言います。
比丘のみなさん。増上心学はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって、初禅、二禅、三禅、四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。これを増上心学と言います。
比丘のみなさん。増上智慧学はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。これを増上智慧学と言います。
比丘のみなさん。これが三学です。
増上三学 Ⅱ
比丘のみなさん。この三学があります。三つはどのようでしょうか。三つとは増上戒学、増上心学、増上智慧学です。
比丘のみなさん。増上戒学はどのようでしょうか。この場合の比丘は戒がある人で、パティモッカ(二二七戒)に細心の注意をし、行儀とゴーチャラが完璧で、普通に、どんな小さな物でも、すべての罪の害が見え、すべての教条を学んで遵守します。比丘のみなさん。私はこれを増上戒学と言います。
比丘のみなさん。増上心学はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲が静まり、すべての悪が静まって、初禅、二禅、三禅、四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。私はこれを増上心学と言います。
比丘のみなさん。増上智慧学はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての漏が終わって漏を探すことができない心解脱・智慧解脱を最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。私はこれを増上智慧学と言います。
比丘のみなさん。これが三学です。
経末のガーター(詩)
努力があり、力があり、安定があり、注視があり、
根に集中するサティがある人で、
増上戒と増上智慧の行動をし、
前と後、後と前も同じように、
下と上、上と下も同じように、
昼と夜、夜と昼も同じように心を広げて、
無限のサマーディですべての方向を支配しなさい。
それをあの方は有学道、あるいは純潔な振る舞いと言われる。
あの方はそれを「すべての世界を知る人で、智慧があり、実践の終りに達した人」と呼ばれる。
心の解脱は、当然欲望が終り、
火の完全な鎮火のように、識が完全に消滅して解脱した人にある。
戒の完璧な状態
さて、ジュンディーさん。戒がどれだけあっても、智者は「アリヤカンダシーラ(聖人が愛す戒)はそれらの戒よりも卓絶していると言います。つまり欠けず突き出ず、シミがなく、まだらでなく、自律して、智者が称賛し、欲望やディッティ(邪見)が撫でまわさない、サマーディになる戒です。
ジュンディーさん。聖人が愛す戒を完璧にする人は誰でも、その人は卓絶した物を完璧にすると言われます。だから卓絶した報いは、当然卓絶したものを完璧にする人にあります。
誤って規定すれば寝ている赤ん坊にも戒がある
(ウッガーハマーナ修行者がパンチャカンガという大工に、「タパティ! 私は、四つのダンマがある人は完璧な善があり、非常に善があり、誰も抵抗して負かすことができない理想に到達したサマナと規定する。四つとは何か。四つとはこの場合の人は
当然体で罪であるカンマを作らず、
当然罪であることを言わず、
当然罪である考えをせず、
当然罪である職業で生活しない」と言いました。
大工はその言葉を喜ばず反論もせず、世尊に拝謁してすべてを奏上しました)。
タパティさん。その修行者の言うとおりなら、布団の上に仰向けに寝ている赤ん坊も完璧な善があり、非常に善があり、誰も抵抗して負かすことができない理想に到達したサマナになってしまいます。
タパティさん。布団の上に仰向けに寝ている赤ん坊は「体。体」という知識もないのに、体による罪であるカンマを作ることはできません。せいぜい布団の上を転げ回るだけです。
タパティさん。布団の上に仰向けに寝ている赤ん坊は「言葉。言葉」という知識もないのに、言葉による罪であるカンマを作ることはできません。せいぜい泣き声を上げるだけです。
タパティさん。布団の上に仰向けに寝ている赤ん坊は「考え。考え」という知識もないのに、考えによる罪であるカンマを作ることはできません。せいぜい機嫌が悪くなるだけです。
タパティさん。布団の上に仰向けに寝ている赤ん坊は「生業。生業」という知識もないのに、職業による罪であるカンマを作ることはできません。せいぜい母の乳を飲むだけです。
タパティさん。布団の上に仰向けに寝ている赤ん坊が、ウッガーハマーナ修行者が言ったように完璧な善があり、非常に善があり、誰も抵抗して負かすことができない理想に到達した人になることはあり得ません。
タパティさん。私は(ウッガーハマーナ修行者が言ったような)四つがある人は、まだ完璧な善がなく、非常に善がある人でなく、誰も抵抗して負かすことができない理想に到達したサマナではないと規定します。その人はせいぜい、布団の上に仰向けに寝ている赤ん坊よりマシなだけです。
知るべき「ダンマ・アダンマ。アッタ・アナッタ」
比丘のみなさん。アダンマ(邪法)は知るべきもので、アナッタ(不義)も知るべき物で、ダンマは知るべき物で、アッタ(意味。義)も知るべき物です。人はアダンマとアナッタを明らかに知り、ダンマとアッタを明らかに知って、ダンマとアッタで実践しなければなりません。
比丘のみなさん。何がアダンマで何がアナッタでしょうか。誤った見解、誤った考え、誤った言葉、誤った業、誤った生業、誤った努力、誤ったサティ、誤ったサマーディ、誤ったニャーナ、誤った解脱。比丘のみなさん。私はこれをアダンマと言い、アナッタと言います。
比丘のみなさん。何がダンマで何がアッタでしょうか。正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディ、正しいニャーナ、正しい解脱。比丘のみなさん。私はこれをダンマと言い、アッタと言います。
比丘のみなさん。述べたような理由で、私は「比丘のみなさん。アダンマは知るべき物で、アナッタも知るべき物です。ダンマは知るべき物で、アッタも知るべき物です。人はアダンマとアナッタを明らかに知り、ダンマとアッタ(義)を明らかに知って、ダンマとアッタで実践しなければなりません」と言います。
(次の経:24巻238頁114項では、アダンマ(不法)と呼ぶ物をミッチャッタ(誤り)で、ダンマ(法)と呼ぶ物をサンマッタ(正しさ)で、アナッタ(不義)と呼ぶ物をいろんなミッチャッタが縁で生じる罪悪で、アッタ(義)と呼ぶ物をいろんなサンマッタが縁で生じるいろんな善で説かれています。
別の経:24巻273頁160項では、アダンマとアナッタを十悪行で、ダンマとアッタを十善行で説かれています。
また別の経:24巻281頁162項では、アダンマを十悪行で、ダンマを十善行で、アナッタを十悪行の報いで、アッタを十善行の報いで説かれています)。
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