初禅だけでも悪魔の危険からの脱出と言われる

 (世尊は天人と阿修羅の戦いについて、どちらかが負けて自分が住んでいる界まで追い詰められると、どちらの側も追跡から脱すことに言及され、自分の界は一般大衆にとって拠り所、踏ん張りどころであると結論され、比丘にとっては次のように話されました)。

 比丘のみなさん。同じように比丘は愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(熟慮)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。比丘のみなさん。その時その比丘は当然「私は臆病に勝った。悪魔は何もできない」と考えます。比丘のみなさん。罪のある悪魔もまた「この場合、臆病に勝った人である比丘に、私は何も手出しできない」と考えます。

 (二禅、三禅、四禅に到達する場合も、同じように話されています)。

 比丘のみなさん。比丘が形想をすべて越えることができ、瞋恚想が消滅して、心の中をいろんな想にしない時はいつでも、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達し、その感覚の中にいます。比丘のみなさん。私はこの比丘を「悪魔を追い詰め、道をなくし、罪のある悪魔の眼を見えなくした」と言います。

 (その次の定、つまり識無辺処、無所有処、非想非非想処の場合も同じように話され、想受滅の場合は、次のように、)

 比丘のみなさん。比丘が非想非非想処をすべて越えて想受滅に到達し、常にその感覚の中にいれば、その人の漏は智慧で見ることで終わりになります。比丘のみなさん。この比丘を私は「悪魔を追い詰め、道をなくし、罪な人である悪魔の眼を見えなくした」と言います。

増支部ナヴァカニバータ 23巻450頁243項

 (学習者は、心が初禅にあるとき、それだけで悪魔つまりその苦を鎮めるに十分な初禅の威力で、永遠でなくても、最高になるまで実践する機会を得るために、心は一定期間だけでも、五蓋と他の苦である感覚の妨害や攻撃から、脱すことができると観察して見るべきです。だから私たちはいつでも悪魔の危険から脱せるように、少なくとも初禅の練習をするべきです)。





初禅でも心を悩ます煩悩を排除できる

 (このブッダヴァチャナの冒頭で、周りにまとわりついて柔らかい草を先に食べてしまう、折って落とした木の枝の先端を先に食べてしまう、先に水に入って濁し、水から上がる時押し合う若い雄象や子象の妨害に悩まされている群れの雌象が、群れを離れて一人で住めば、その後は煩わしさに耐える必要がなく、木の枝を折って体を擦れば、痒みは快適に治まるという話をされた後、この場合の比丘について話されました)。

 比丘のみなさん。これも同じで、比丘がたくさんの比丘(註1)や比丘尼や清信士、清信女、王や王の側近、(異教の)教祖と教祖の弟子と一緒にいるような時代は、そんな時その比丘は「今私はたくさんの比丘や比丘尼や清信士、清信女、王や王の側近、(異教の)教祖と教祖の弟子と一緒にいる。それなら群れから離れて一人で暮らすべきだ」とこのように考え、その比丘は静かな住まい、つまり林、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、野外、藁山などに住みます。

 彼は森へ行っても、木の根元に行っても、廃屋に行っても、結跏趺坐して座り、体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据え、彼は世界の喜びを捨て、喜びのない心があり、心から喜びを拭い、加害する復讐心を捨て、復讐心のない心があり、憐れむ人であり、すべての動物を支援したいと望み、心から加害するものである復讐心を拭い、眠気と寂しさを捨て、心の明るさだけを目指し、

眠気と寂しさのない心があり、自覚する常自覚があり、心から眠気と寂しさを拭い、落ち着きのなさを捨て、散漫でなく、内面が静まった心があり、心から落ち着きのなさを拭い、疑念を捨て、疑念を越えてしまい、すべての善を(疑念で)「これは何? これはどう?」と訊く必要がなく、心から疑念を拭っています。

 その比丘は心を憂鬱にし、智慧を後退させる五蓋を捨て、愛欲が静まり、悪が静まり、愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ(熟考)、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。その比丘は心を煩わす煩悩を、満足できる状態まで排除することができます。(二禅、三禅、四禅から非想非非想処までに到達する場合も、初禅と同じように話されています)。

 その比丘は非想非非想処をすべて越えることができたので想受滅に到達し、常にその感覚の中にいます。彼の漏は智慧で見ることで消滅します。彼はこのように満足できる状態まで、心を悩ます煩悩を駆除することができます。

増支部ナヴァカニバータ 23巻453頁244項

註1: この場合の比丘とは、ブッダの含めて、輪廻の害が見えてダンマの実践をする人なら誰でもという意味ですが、ブッダの言葉どおり、比丘とだけ訳しておきます。





チェトーサマーディは体の安楽を増やす

 アーナンダ。如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳は如来)が心の中でどんなニミッタも作らないので、ニミッタがないチェトーサマーディに到達し、そしてある種類の受が消滅した時、如来の体はより安楽になりました。

 アーナンダ。だからみなさん、拠り所である自分があり、帰依する自分があり、拠り所であるダンマがあり、帰依するダンマがあるようになさい。他の物に帰依してはいけません。

 (この後拠り所である自分、帰依する自分としての四念処の実践について説かれ)、

 アーナンダ。現在でも、去った時代でも、拠り所である自分、帰依する自分、拠り所であるダンマ、帰依するダンマがあり、他に帰依する物がない比丘は誰でも、その比丘は、学習を望む比丘の中の最高に素晴らしい人と言われます。

長部マハーヴァッガ 10巻118頁93項





天の座臥所、立ち歩く場所

 「ゴータマ様。ゴータマ様が今簡単に望んで得られる、高くて大きな座ったり寝たりする寝台はどのようですか」。

 バラモンさん。この場合、私が村や町に住んで、朝チーヴァラ(衣)をまとってその村や町へ托鉢に行き、食事が終わったら森へ行って、そこに何かあれば、草でも木の葉でも持って来て(敷き)結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据えます。

 愛欲が静まり、すべての悪が静まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラがあり、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ・スッカ(喜悦・幸福)がある初禅に到達し、

ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一番のダンマであるサマーディが現れ、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、

喜悦が薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり、自覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然、聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に到達し、

幸福と苦とを捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消滅することで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 このようである時、歩いていればその時そこを天の歩く場所と言い、立っていればその時そこを天の立つ場所と言い、座っていればその時そこを天の座る場所と言い、眠っていればその時そこを天の寝床と言います。バラモンさん。これが、私が望んで簡単に難しくなく手に入る、天の大きくて高いベッドです。

増支部ティカニバータ 20巻234頁503項





心より威力のある人にするダンマ

 比丘のみなさん。七つのダンマがある比丘は、当然心を(自分の)管理下に置くことができ、そしてその比丘は心の威力下に落ちません。七つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。七つとは、この場合、

1.比丘はサマーディに賢いで人、

2.サマーディに入ることに賢い人で、

3.サマーディを維持することに賢い人で、

4.サマーディから出ることに賢い人で、

5.サマーディにふさわしいものに賢い人で、

6.サマーディのゴーチャラ(良く行く場所)であるダンマに賢い人で、

7.サマーディの威力に賢い人です。

 比丘のみなさん。この七つがある比丘は当然心を(自分の)威力下(管理下)に置くことができ、そしてその比丘は、心の威力下に落ちることはありません。

増支部サッタカニバータ 32巻35頁37項

 (別の経:増支部チャッカニバータ 22巻348頁296項では、如行について、ダンマ、僧、戒、布施、天人にする七項目のダンマについて思い出すことは、心が貪り・怒り・愚かさに覆われないようにし、直行して欲望から解脱し、それは煩悩の包囲から心が出ることでもあると言われています。関心のある人は原書を読んでください)。





定は自然にある愛と憎しみを鎮める

 比丘のみなさん。これらのダンマラマナ(心を引き止める物)は当然四つあります。四つはどのようでしょうか。四つは愛から生じる愛、愛から生じる憎しみ、憎しみから生じる愛、憎しみから生じる憎しみです。

 比丘のみなさん。愛から生じる愛と言うのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合、誰か(訳注:たとえば娘)を気に入って愛している人(訳注:たとえば男)がいて、他人がその人(娘)に対して望ましい可愛げのある振る舞いをすると、男は「あの人は私が愛したい娘に対して、望ましい可愛げのある振る舞いをする」と満足が生じ、男は当然その人に対して愛を生じさせたと言われます。比丘のみなさん。これが愛から生じる愛です。

 比丘のみなさん。愛から生じる憎しみと言うのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合、ある人(たとえば娘)を気に入って愛したい人(男)がいて、他の人がその人(娘)に対して望ましくない憎たらしい振る舞いをすると、男は「あの人は私が愛したい人(娘)に対して望ましくない可愛げのない振る舞いをする」と不満が生じ、男は当然その人に対して憎しみを生じさせたと言われます。比丘のみなさん。こういうのを愛から生じる憎しみと言います。

 比丘のみなさん。憎しみから生じる愛と言うのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合、誰か(娘)を気に入らず不満がある人(男)がいて、他の人がその人(娘)に対して望ましくない可愛げのない振る舞いをすると、男は「あの人は私が嫌いな人(娘)に対して、望ましくない可愛げのない振る舞いをする」と満足が生じ、男は当然その人に対して愛を生じさせたと言われます。比丘のみなさん。これが愛から生じる愛です。

 比丘のみなさん。憎しみから生じた憎しみと言うのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合、ある人(たとえば娘)を気に入らず不満な人(たとえば男)がいて、他の人がその人(娘)に対して望ましく可愛げのある振る舞いをすると、男は「あの人は私が嫌いな人(娘)に対して望ましい可愛げのある振る舞いをする」と不満が生じ、男は当然その人に対して憎しみを生じさせたと言われます。

 比丘のみなさん。こういうのを憎しみから生じる憎しみと言います。比丘のみなさん。これが、当然生じる四つのダンマラマナ(心を引き止めるもの)です。

 比丘のみなさん。比丘が愛欲とすべての悪が静まって、ヴィタッカとヴィチャーラ、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいれば、その時愛から生じるどんな愛もなく、愛から生じるどんな憎しみもなく、憎しみから生じるどんな愛もなく、憎しみから生じるどんな憎しみもありません。

 比丘のみなさん。ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一番のダンマであるサマーディが現れ、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、そしてその感覚の中にいれば、その時愛から生じるどんな愛もなく、愛から生じるどんな憎しみもなく、憎しみから生じるどんな愛もなく、憎しみから生じるどんな憎しみもありません。

 比丘のみなさん。喜悦が薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり、自覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然、聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に到達し、その感覚の中にいれば、その時愛から生じるどんな愛もなく、愛から生じるどんな憎しみもなく、憎しみから生じるどんな愛もなく、憎しみから生じるどんな憎しみもありません。

 比丘のみなさん。幸福と苦とを捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消滅することで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいれば、その時愛から生じるどんな愛もなく、愛から生じるどんな憎しみもなく、憎しみから生じるどんな愛もなく、憎しみから生じるどんな憎しみもありません。

 (この後、愛と憎しみが根を抜いたように鎮まった解脱への到達について話されています。詳しくは673頁の「愛と憎しみの根を抜いた人」http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/3-3-5.htmlを参照してください)。

増支部チャトゥカニバータ 21巻291頁200項





如行力智は心がサマーディで盤石な人にだけある

 比丘のみなさん。この六つの如行力智の中の、道理か道理でないかを知るヤターブータニャーナ(真実のままに知ること。如実智)は、そのニャーナ(知ること)は心がサマーディで安定している人にあり、心が盤石でない人にはないと言います。

 私は、過去と未来と現在の業の報いを受け取る原因と条件を真実のままに知るニャーナ、そのニャーナは、心がサマーディで盤石な人にあり、心が盤石でない人ではないと言います。

 私は憂鬱、清浄、禅定から出ること、ヴィモッカ(解脱)、サマーディとサマーバッティ(無形禅定)を真実のままに知るニャーナ、そのニャーナは心がサマーディで盤石な人にあり、心が盤石でない人ではないと言います。

 私はブッベーニヴァーサヌササティ(過去にいた有を思い出すこと。宿住髄念智)を真実のままに知るニャーナ、そのニャーナは心がサマーディで盤石な人にあり、心が盤石でない人ではないと言います。

 私はすべての動物の死と誕生を真実のままに知るニャーナ(生死智)、そのニャーナは心がサマーディで盤石な人にあり、心が盤石でない人ではないと言います。

 私はすべての漏の終わりを真実のままに知るニャーナ(漏尽智)、そのニャーナは、心がサマーディで盤石な人にあり、心が盤石でない人ではないと言います。

 比丘のみなさん。このようにサマーディはマッガ(道)であり、アサマーディ(無三昧)は偽のマッガです。

増支部チャッカニバータ 22巻469頁335項





喜悦の薬である想(サマーディの威力による治療)

 アーナンダ。あなたがギリマーナンダ比丘を訪ねて十の想を説けば、それはあり得ます。つまりギリマーナンダ比丘が十の想を聞いて、非常に辛い病気が十想、つまり無常想、無我想、不浄想、過患想、断想、離貪想、滅尽想、一切世界不喜想、一切不好想、アーナーパーナサティにふさわしく、沈まることはあり得ます。

 アーナンダ。無常想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は森や木の根元、あるいは廃屋へ行って、「形は無常、受は無常、想は無常、行は無常、識は無常」とこのように熟慮して、このように五取蘊すべての無常を見ます。これを無常想と言います①。

 アーナンダ。無我想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は森や木の根元、あるいは廃屋へ行って、「目は無我、形は無我、耳は無我、声は無我、鼻は無我、臭いは無我、舌は無我、味は無我、体は無我、接触は無我、心は無我、想念は無我」とこのように熟慮して、このように六内処と六外処すべての無我を見ます。これを無我想と言います②。

 アーナンダ。不浄想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は、足の下から上まで、頭の天辺から下まで体を見て「周りを包んでいる皮膚があり、いろんな汚い物がいっぱいだ」と明らかに見ます。

 つまりこの体は髪、体毛、爪、歯、皮膚、肉、腱、骨、骨髄、肝臓、腎臓、心臓、脾臓、肺臓、腸、直腸、胃の中の食べ物、大便、胆汁、痰、膿、血液、汗、脂、涙、リンパ液、涎、鼻汁、唾液、尿があると、このようにこの体が美しくないことが見えます。これを不浄想と言います③。

 アーナンダ。過患想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は森や木の根元、あるいは廃屋へ行って、「この体は苦が多く害が多い。つまりこの体はいろんな病気になる。目の病気、耳の病気、鼻の病気、舌の病気、体の病気、頭の病気、口の病気、歯の病気、咳、喘息、風邪、熱毒、潜伏熱、胃病、卒倒、血便、差し込み、激痛、慢性病、出来物、たむし、呼吸切迫、てんかん、かいせん、

インド痘、舌苔病、血液の病気、黄疸、糖尿、単純疱疹、複雑疱疹、痔、胆嚢が原因の病気、痰が原因の病気、風が原因の病気、三害病(風と痰と血が原因の熱病)、季節の変化による病気、運動不足による病気、動き過ぎによる病気、業の報いによる病気、寒さ暑さ、飢え、渇き、排便、排尿の不調などがある」とこのように熟慮して見ます。これを過患想と言います④。

 アーナンダ。断想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は、生じた愛欲の考えを受け入れず、当然捨て、当然軽減して終わらせ、その後は無い状態にする行動をし、生じた恨みの考えを受け入れず、当然捨て、当然軽減して終わらせ、その後は無い状態にする行動をし、

生じた加害の考えを受け入れず、当然捨て、当然軽減して終わらせ、その後は無い状態にする行動をし、生じたすべての悪を受け入れず、当然捨て、当然軽減し、その後は無い状態にする行動をします。これを断想と言います⑤。

 アーナンダ。離貪想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は森や木の根元、あるいは廃屋へ行って、「その自然は静まった。その自然は緻密だ。つまりすべてのサンカーラ(作り出すこと。行)が静まった自然は、すべてのウパディ(しがらみ。依)を返却したもので、欲望の終った物で、弛緩、消滅だ」とこのように熟慮して見ます。これを離貪想と言います⑥。

 アーナンダ。滅尽想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は森や木の根元、あるいは廃屋へ行って、「その自然は静まった。その自然は緻密だ。つまりすべてのサンカーラが静まった、すべてのウパディを返却した、欲望の終わった物、弛緩、消滅である自然だ」とこのように熟慮して見ます。これを滅尽想と言います⑦。

 アーナンダ。一切世間不喜想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は、世界の何らかの欲望取で潜り込んでいるアヌサヤ(随眠)があり、彼はそのアヌサヤを捨てて、執着しないようにしています。これを一切世間不喜想(世間のすべては喜ばしくないと思うこと)と言います⑧。

 アーナンダ。一切不好想はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は、当然すべての行に当然胸がつまり、当然倦み、当然嫌悪します。これを一切不好想(すべての行を無常と思うこと)と言います⑨。

 (九番目の想を一切世間不喜想、あるいは一切行苦想と呼ぶべきで、そうすれば内容と一致します。そして一切世間不喜想と呼ばれている八番目は一切世間取想と呼ぶべきです。そうすれば述べられている内容と一致します)。

 アーナンダ。アーナーパーナサティ(呼吸念)はどのようでしょうか。アーナンダ。この場合の比丘は森や木の根元や廃屋へ行って、結跏趺坐して体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据え、吸う息にサティがあり、吐く息にサティがあります。

 長く息を吸った時は長く息を吸ったと知り、長く息を吐いた時は長く息を吐いたと知り、短く息を吸った時は短く息を吸ったと知り、短く息を吐いた時は短く息を吐いたと知り、すべての体を知り尽す学習をしながら息を吸い、すべての体を知り尽す学習をしながら息を吐き、カーヤサンカーラ(体を作る物。つまり呼吸)を鎮める学習をしながら息を吸い、カーヤサンカーラを鎮めて息を吐きます。

 ピーティ(喜悦)を知り尽す学習をしながら息を吸い、喜悦を知り尽す学習をしながら息を吐き、幸福を知り尽す学習をしながら息を吸い、幸福を知り尽す学習をしながら息を吐き、チッタサンカーラ(心を作る物。つまり受)を知り尽す学習をしながら息を吸い、チッタサンカーラを鎮めて息を吐きます。

 心を知り尽す学習をしながら息を吸い、心を知り尽す学習をしながら息を吐き、心を喜ばす学習をしながら息を吸い、心を喜ばす学習をしながら息を吐き、心を安定させる学習をしながら息を吸い、心を安定させる学習をしながら息を吐き、心を解放させる学習をしながら息を吸い、心を開放する学習をしながら息を吐き、

 無常を見る学習をしながら息を吸い、無常を見る学習をしながら息を吐き、薄れることを見る学習をしながら息を吸い、薄れることを見る学習をしながら息を吐き、消滅を見る学習をしながら息を吸い、消滅を見る学習をしながら息を吐き、返却を見る学習をしながら息を吸い、返却を見る学習をしながら息を吐きます。これをアーナーパーナサティと言います⑩。

 アーナンダ。あなたがギリマーナンダ比丘を訪ねて十の想を説けば、それはあり得ます。ギリマーナンダ比丘が十の想を聞いて、非常に辛い病気が十想にふさわしく鎮まることはあり得ます。

 (その時アーナンダさんがブッダの住まいでこの十想を憶えてからギリマーナンダさんを訪ね、そして十想について話すと、十想を聞いたギリマーナンダさんは然るべき条件によって病気が静まり、病気が治って病気は捨て去られたも同然になりました)。

増支部 24巻115頁60項

 (このブッダの言葉によって、七覚支経と同様に、病人にギリマーナンダ経を唱えて聞かせる習慣が生まれました。カンマの法則、あるいは四聖諦の原則で苦の原因が消滅しないのに苦が消滅するのは、因縁に反すと疑われる方がいるかもしれません。

 これは、ダンマを聞いたギリマーナンダが強烈な喜びを生じさせ、その喜悦の威力が苦受を鎮めることができたことで、病気が治ったように苦受が静まったので、苦の消滅の縁はあると言うことができ、カンマの法則、あるいは因果の法則に違わないと理解してください。一つの滅苦の方法なので、ここに引用しました)。




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