サマーディバーヴァナーはそれぞれ七段階できる
「スガタ様。世尊。私がそれをしたら静かな場所に隠遁する人になり、不注意でなく、煩悩を焼く努力があり、自分を高いダンマに追い遣り、常にその感覚の中にいる人になれるダンマを、簡略に話してください」。
同じことですよ。無益な人は、今あなたが質問したようなダンマを説くよう懇願し、私がそのダンマを説くと、彼は私に付いて回ることばかり考えます(隠遁して一人で実践することに関心がない)。
「スガタ様。世尊のパーシタ(ご発言)にふさわしく内容を理解したら、世尊のパーシタの相続者になれる形でダンマの概要をを説いてください」。
比丘。このように心に留めるべきです。
1.準備段階
「私の心は、内面で良く維持し、すべての罪悪が生じて覆われない心になる」と、比丘、このように心に止めなさい。
2.ブラフマヴィハーラ(梵住)
比丘。あなたの心が内部で良く維持している心であり、そしてすべての罪悪が生じて心を覆わなければ、その時あなたは「私は慈心解脱に励んでたくさんし、乗り物のようにし、居場所があるようにし、急停止させず、一通り集め、良く安定させる」と、このように心に留めるべきです。
比丘。このようにこのサマーディに励んでたくさんしたら、いつでもあなたはこのサマーディに励んで、
1. ヴィタッカ(考え)・ヴィチャーラ(心に掛けて置くこと)があるダンマにし、
2. ヴィタッカはないがヴィチャーラはあるダンマにするべきで、
3. ヴィタッカ・ヴィチャーラがないダンマにするべきで、
4. 喜悦になるダンマにするべきで、
5. 喜悦のないダンマにするべきで、
6. 喜びと並行するダンマにするべきで、
7. 捨と並行するダンマにするべきです。
比丘のみなさん。あなたが励んでいるサマーディが良く励んでいるダンマである時はいつでも、その時あなたは「私は悲心解脱に励んでたくさんし、乗り物のようにし、居場所があるようにし、急停止させず、一通り集め、良く安定させる」とこのように心に留めるべきです。
比丘。あなたがこのようにサマーディに励んでたくさんしたら、その時あなたはこのサマーディに励んで、
ヴィタッカ・ヴィチャーラがあるダンマにしすべきで、
ヴィタッカはないがヴィチャーラはあるダンマにするべきで、
ヴィタッカ・ヴィチャーラがないダンマにするべきで、
喜悦になるダンマにするべきで、
喜悦のないダンマにするべきで、
喜びと並行するダンマにするべきで、
捨と並行するダンマにするべきです。
(喜心解脱、捨心解脱の場合も同じように七段階で話されています)。
3.四念処
比丘。あなたがこのようにサマーディに励んだら、その時あなたは「私は常に体の中の体が見える人であり、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になる」とこのように心に留めるべきです。
比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んでたくさんしたら、その時あなたはこのサマーディに励んで,
ヴィタッカ・ヴィチャーラがあるダンマにし、
ヴィタッカはないがヴィチャーラはあるダンマにするべきで、
ヴィタッカ・ヴィチャーラがないダンマにするべきで、
喜悦になるダンマにするべきで、
喜悦のないダンマにするべきで、
喜びと並行するダンマにするべきで、
捨と並行するダンマにするべきです。
比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んだら、その時あなたは「私は常にすべての受の中の受が見える人であり、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になる」とこのように心に留めるべきです。
比丘。あなたがこのように良くサマーディに励んでたくさんしたら、その時あなたはこのサマーディに励んで
ヴィタッカ・ヴィチャーラがあるダンマにし、
ヴィタッカはないがヴィチャーラはあるダンマにするべきで、
ヴィタッカ・ヴィチャーラがないダンマにするべきで、
喜悦になるダンマにするべきで、
喜悦のないダンマにするべきで、
喜びと並行するダンマにするべきで、
捨と並行するダンマにするべきです。
(「心の中の心を見る」と「すべてのダンマの中のダンマを見る」場合も、同じように話されています)。
4.功徳
比丘。あなたがこのように良くサマーディに励めば、その時あなたはどの方向の地域へ行っても安全に行き、どこに立っても安全に立ち、どこに座っても安全に座り、どこで眠っても安全に眠れます。
(学習者は「それぞれのサマーディバーヴァナーは七段階で完璧に励むことができる」と観察して見るべきです。もう一つ興味深いのは、抽象物であるサマーディニミッタ、例えばメッター(慈)に励むとか、カーヤーヌパッサナーサティパターナなどのヴィパッサナーの状態は、この経のような七つの段階に分けられるサマーディで励むことができると観察するべきです。
これは、初めはヴィパッサナーの形のバーヴァナーに励み、それから七段階の状態で繰り返せば確実なものにできるということをです。サマタを先導できるヴィパッサナーがあると言うことができます)。
ニャーナは自分を維持するサティと智慧のある人のサマーディから生じる
比丘のみなさん。計り知れない効果があるサマーディに励んで、自分を維持する智慧があり、現前にサティのある人におなりなさい。計り知れない効果があるサマーディに励んで、自分を維持する智慧があり、現前にサティがある人になれば、当然五つのニャーナ(知ること。智)が自分だけに生じます。五つとはどのようでしょうか。五つとは、
「このサマーディは現在の幸福を生じさせ、後で報いである幸福もある」というニャーナ(知ること)が自分だけに生じ、
「このサマーディはアーミサ(財や食、物や味。つまり餌)のない素晴らしいダンマだ」というニャーナが自分だけに生じ、
「このサマーディは、悪人や下賎な人が味わうことはできない」というニャーナが自分だけに生じ、
「このサマーディは、精緻に静まって穏やかになり、同一性に到達した。サンカーラダンマ(作ること)を禁止して到達したのではない」というニャーナが自分だけに生じ、
「私はこのサマーディに入るサティがあり、このサマーディから出るサティがある」というニャーナが自分だけに生じます。
比丘のみなさん。無限の効果があるサマーディに励んで、自分を維持する智慧があり、現前にサティのある人におなりなさい。みなさんが計り知れない効果があるサマーディに励んで、自分を維持する智慧があり、現前にサティがある人になれば、当然このような五つのニャーナが、自分だけに生じます。
体と言葉で侵害された時に心のサマーディを維持する
比丘のみなさん。他人があなたを非難する言葉はこの五種類あります。
①時にふさわい発言かどうか。
②事実である発言かどうか。
③丁寧な発言か粗暴な発言か。
④利益がある発言か、利益がない発言か。
⑤心に慈しみがある発言か、怒りがある発言かどうかです。
比丘のみなさん。人がこのように言ったた、その場合あなたは「私の心は変化しない。私は罪な言葉を言わない。私は可愛がり支援する心があり、内部に怒りのない慈しみの心がある。他人に慈しみを広げる心があり、そして恨みがなく、慈しみと並行する心を、加害心のない無限に広い心を、感情であるその人がいる世界のどの方向にも最高に広げる。そして常にその感覚の中にいる」とこのように心に留めるべきです。
比丘のみなさん。あなたはこのように心に留めるべきです。
一番目のたとえ
比丘のみなさん。スコップとモッコを持った男が来て、「私はこの大地を大地でなくする」と言ってそこを掘り、そこに撒き散らし、そこに痰を吐き、そこを足で踏み崩し、口では「テメエはもう大地でなくていい。テメエはもう大地でなくったっていい」と言います。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。その男はこの大地を大地でなくすことができますか。
「それはできません。スガタ様」。
どうしてですか。
「スガタ様。この大地は無限に深いので、誰も簡単に大地でなくすることはできません。その男は骨折り損をするだけです。スガタ様」。
比丘のみなさん。この五つの非難の言葉も同じです。彼らがどんな言葉で非難しても、その場合みなさんは「私の心は変化しない。私は罪な言葉を言わない。可愛がり支援する心になり、内部に怒りのない慈しみの心になる。
他人に慈しみを広げる心になり、そして恨みはなく、加害心のない無限に広い心、慈しみと並行する心を、感情である、その人がいる世界のどの方向にも最高に広げ、そして常にその感覚の中にいる」とこのように心に留めるべきです。
比丘のみなさん。あなたはこのように(誰も変化させられない大地のような心があると)心に留めるべきです。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めるべきです。
二番目のたとえ
比丘のみなさん。男がえんじ色や黄色や緑色や橙色の顔料を持って来て、「私は空中にいろんな絵を描いて現して見せる」とこのように言うのと同じです。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。その男は空中にいろんな絵を描いて現すことができますか。
「それはできません。スガタ様」。
どうしてですか。
「スガタ様。それは、空は形のない物なので形を現すことができないからです。空に絵を描いて現すのは、誰も簡単にできることではありません。その男は骨折り損をするだけです」。
比丘のみなさん。この五つの非難の言葉も同じです。彼らがどんな言葉でみなさんを非難しても、その場合みなさんは「私の心は変化しない。私は罪な言葉を言わない。可愛がり支援する心になり、内部に怒りのない慈しみの心になる。
他人に慈しみを広げる心になり、そして恨みはなく、加害心のない無限に広い心、慈しみと並行する心を、感情である、その人がいる世界のどの方向にも最高に広げ、そして常にその感覚の中にいる」とこのように心に留めるべきです。
比丘のみなさん。あなたはこのように(誰も絵を描いて現せない空のような心があると)心に留めるべきです。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めるべきです。
三番目の譬え
比丘のみなさん。燃えている松明を持った男が、「私はこの松明でガンガ(ガンジス川)を炙って熱して煮えたぎらせる」と言うのと同じです。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。その男は、燃えている草の松明でガンガを焼いて熱し、煮え立たせることができますか。
「それはできません。スガタ様」。
どうしてですか。
「スガタ様。ガンガは計り知れないほど深いので、誰も簡単に焼いて熱し、煮え立たせることはできません。その男は骨折り損をするだけです」。
比丘のみなさん。この五つの非難の言葉のすべても同じです。彼らがどんな言葉で非難しても、その場合みなさんは、「私の心は変化しない。私は罪な言葉を言わない。可愛がり支援する心になり、内部に怒りのない慈しみの心になる。
慈しみを広げる心になり、そして恨みはなく、加害心のない無限に広い心で、慈しみと並行する心を、感情である、その人がいる世界のどの方向にも最高に広げ、そして常にその感覚の中にいる」とこのように心に留めるべきです。
比丘のみなさん。あなたはこのように(誰も焼いて沸騰させられないガンガのような心があると)心に留めるべきです。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めるべきです。
四番目の譬え
比丘のみなさん。良く叩いて揉み、隅々までなめした、しなやかで音がしない、音が共鳴しない毛の多いヤマネコの皮(註1)を、棒きれ、あるいは鉦を叩く棒を持って来て、「私は毛の多いヤマネコの皮を、この棒で鳴らしてみせる」と言うようなものです。比丘のみなさん。みなさんはこれをどう理解しますか。その男は棒切れや鉦を叩く棒で、毛の多いヤマネコの皮を鳴らすことができますか。
「それはできません。スガタ様」。
どうしてですか。
「スガタ様。その毛の多いヤマネコの皮はなめしてあり、良く叩いて隅々まで揉んでありしなやかなので、カポックの綿毛のように音がせず、音が響くこともありません。誰も簡単に、棒切れや鉦を叩く棒で音を出すことはできないからです」。
比丘のみなさん。この五つの咎める言葉のすべても同じです。彼らがどんな言葉で非難しても、その場合みなさんは「私の心は変化しない。私は罪な言葉を言わない。可愛がり支援する心になり、内部に怒りのない慈しみの心になる。
慈しみを広げる心になり、そして恨みはなく、加害心のない計り知れない広い心で、慈しみと並行する心を、感情であるその人がいる、世界のどの方向にも最高に広げ、そして常にその感覚の中にいる」とこのように心に留めるべきです。
比丘のみなさん。あなたはこのように(誰も音を出すことができない毛の多いヤマネコの皮のような心がある)心に留めるべきです。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めるべきです。
註1: この言葉は、何かを包むためのなめし皮なのか、それとも衣服を入れる袋を作る皮なのか、まだ釈然としないので、「音がしない物」という要旨だけを捉えてください。
五番目の譬え
比丘のみなさん。盗賊が隙を狙って、両側に取っ手がある鋸で大なり小なりの体の部分を切ったら、その盗賊に加害する心のある人は、その盗賊に加害する気持ちがあることで、私の教えで行動しない人と言われます。
比丘のみなさん。この場合みなさんは、「私の心は変化しない。私は罪な言葉を言わない。私は可愛がり支援する心になり、内部に怒りのない慈しみの心になる。慈しみを広げる心になり、そして恨みはなく、加害心がなく、
無限に広い心、慈しみと並行する心を、感情であるその人がいる世界のどの方向にも最高に広げ、そして常にその感覚の中にいる」とこのように心に留めるべきです。比丘のみなさん。みなさんはこのように心に留めるべきです。
比丘のみなさん。みなさんは心の中を絶えずこの鋸の譬えにしておきなさい。比丘のみなさん。心をその喩え話にしておけば、あなたが我慢できない、大なり小なりの誹謗が見えるでしょうか。
「それはありません。スガタ様」。
比丘のみなさん。だからこれは、みなさん。心の中を、いつでもこの鋸の譬えにしておきなさい。それはみなさん全員の利益と永遠の幸福のためになります。
執着の基盤でない物の想もある(ローグッタラサマーディ)
「スガタ様。比丘が土に土想がなく、水に水想がなく、火に火想がなく、風に風想がなく、無限の空に空無辺想がなく、無限の識に識無辺想がなく、無限の無に無所有想がなく、想があるでもなく、ないでもないことに非想非非想想がなく、この世界に此世想がなく、他の世界に彼世想がなく、
見た物、聞いたこと、感じたこと、明らかに知ったこと、到達したこと、探求したこと、心で追跡したことにも想がなく、それでも想がある類のサマーディを得ることはありますか」。
アーナンダ。質問のようなサマーディはあります。
「スガタ様。比丘がそのようなサマーディを得るのはどのようですか、スガタ様」。
アーナンダ。この場合の比丘は「それは静まった。それは精緻だ。それはすべての行が静った自然であり、すべてのウパディの返却、欲望の終わり、弛緩、消滅、涅槃だ」とこのような想がある人です。
アーナンダ。こういうのを、比丘が土に土想がなく、水に水想がなく、火に火想がなく、風に風想がなく、無限の空に空無辺想がなく、無限の識に識無辺想がなく、無限の無に無所有想がなく、想があるのでもなくないのでもないことに非想非非想想がなく、この世界に此世想がなく、他の世界に彼世想がなく、
見た物、聞いたこと、感じがこと、明らかに知ったこと、到達したこと、探求したこと、心が追跡したことにも想がないけれど、それでも想がある類のサマーディを得ると言います。
(次にプラアーナンダが、ブッダにしたのと同じ質問をプラサーリプッタにすると、プラサーリプッタの答えがブッダの答えと語句も内容もまったく同じなので、プラアーナンダは、教祖と弟子の言うことが意味も言葉もまったく同じであることは非常に不思議だと称賛しました。
しかし他:増支部ダサカニバータ 24巻10頁7項では、サーリプッタがプラアーナンダの質問、つまり執着の基盤である物に想がないサマーディの話ですが、最後の感情がない、つまり見たこと、聞いたこと、感じたこと、明らかに知ったこと、到達したこと、探求したこと、心で追跡したことについての質問に答えています。
この教えでは同じ言葉で、つまり「これは静まった。それは緻密だ、等々の涅槃想のあるサマーディを得ること」と答えるべきですが、反対に、想のあるサマーディを得ることを、「有の消滅、つまり涅槃であり、連続して生じる炎のように繰り返し絶えることなく生じた想の消滅であり、サーヴァッディーの都に近いアンダヴァンの森に住んでいた時に得たサマーディ」と答えています。
学習者は、最初の答えは涅槃の状態をいろんな角度から説明したものであり、この経の答えは、有の消滅である観点、一つの観点だけを明示していると観察するべきです。そして、涅槃は執着の基盤ではありませんが、想の感情であり、想は執着の基盤である感情の中にも、執着の基盤でない感情の中にもあると、深く見てください。それが涅槃です。
想は有為の物にも無為の物にも正反対の状態であり得ると結論します)。
サマーディは無為作意
「スガタ様。心の中を目と形、耳と声、舌と味、体と接触にしないで、心の中を土・水・火・風にしないで、心の中を空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処にしないで、心の中をこの世界、他の世界にしないで、心の中を見たもの、聞いたこと、感じたこと、明らかに知ったこと、到達したこと、探求したこと、心で追跡したことにしないで、それでも心の中の行動があるサマーディを得ることはありますか」。
アーナンダ。比丘があなたが質問したようなサマーディニミッタを得ることはあります。
「どのようにあるのですか、スガタ様」。
アーナンダ。この場合の比丘は当然心の中を「それは静まった。それは緻密だ。それはすべてのサンカーラが静まった自然で、すべてのウパディを返却したものであり、欲望の終り、弛緩、消滅であり涅槃である」とこのようにします。
アーナンダ。このようなのを、「比丘が心の中を目と形に、耳と声に、舌と味に、体と接触にしないで、心の中を土・水・火・風にしないで、心の中を空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処にしないで、心の中をこの世界、他の世界にしないで、心の中を見たもの、聞いたこと、感じたこと、明らかに知ったこと、到達したこと、探求したこと、心で追跡したことにしないで、それでも心の中の行動があるサマーディを得る」と言います。
(これは感情として涅槃があるサマーディに励む状態があり、十隨念の止息隨念の良い説明に使うことができ、今までの曖昧な説明より良いです。その上誰でもすべての物から心を隔てて無為である物だけを意識することが簡単にでき、それによって幸福、あるいは涅槃の涼しさを探求させる点が素晴らしいです)。
形禅定から直接漏尽智へ
比丘のみなさん。どこかの村や町に住んでいる比丘が、朝チーヴァラ(衣)をまとって鉢を持って托鉢のためにその村や町へ行くと、体を維持し、言葉を維持し、サティを維持し、すべての根に集中することで彼は目で形を見ても全体を一つとして捉える人でなく、部分に分けて捉える人でもありません。
下賎な悪、つまり喜びと悲しみは根源である根、つまり目に集中しない人に流れていくので、彼は当然その根を慎む実践をし、当然根つまり目を維持し、当然根つまり目を慎みます。(耳根・鼻根・舌根・身根・意根の場合も同じように話されています)。
その比丘が食事を終わって戻ると、当然静かな住まい、森や木の根元や山、谷間、洞窟、墓地、野外、藁の山などで、当然結跏趺坐して体を真っ直ぐに立ててサティを現前に据え、彼は世界の喜びを捨て、喜びのない心があり、心から喜びを拭い、加害する物である復讐心を捨て、復讐心のない心があり、憐れみの心ですべての動物を支援したい願いがあり、、
心の復讐心を拭い、眠気と寂しさを捨て眠気と寂しさのない心があり、自覚するサティと自覚があり、落ち着きのなさを捨て、散漫でなく、内部が静まった心があり、心の不安定さを拭い、疑念を捨て、疑念を越えてしまうことができ、すべての善を「これは何? これはどのよう?」と(疑念で)訊く必要がなく、心の疑念を拭おうと待ち構えています。
その比丘が心を憂鬱にし、智慧の力を後退させる五蓋を捨てることができれば、愛欲が静まり悪が静まって、彼はヴィタッカ・ヴィチャーラがあり、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ・スッカ(喜悦・幸福)がある初禅に到達し、ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一番のダンマであるサマーディが現れ、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、
喜悦が薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり、自覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然、聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に到達し、幸福と苦とを捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消滅することで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。
(四つの定についての詳細は、1278頁を参照してください)。
http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-9-1.html
彼は心が安定し、純潔で明るく澄み切って煩悩がなく、随煩悩がなく、仕事に適したしなやかな自然になり、このように動揺しない状態を維持できれば、心は漏尽智に傾いていき、彼は当然「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知り、そして「これが漏、これが漏の原因、これが漏の消滅、これが漏の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。
このように知り、このように見れば、心は欲漏、有漏、無明漏から解脱し、心が解脱すれば解脱したという智が生じ、彼は当然、「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。
ホ 正しいサマーディの功徳
サマーディに励む利益
1.アーヤタニカダンマの無常を見る
比丘のみなさん。みなさんサマーディに励みなさい。比丘のみなさん。比丘にサマーディの心があれば、当然真実のままに現れます。比丘のみなさん。何が真実のままに現れるでしょうか。
目は無常であると真実のままに現れ、
すべての形は無常であると真実のままに現れ、
眼識は無常であると真実のままに現れ、
眼触は無常であると真実のままに現れ、
目触が縁で生じる受、幸福や苦や苦でも幸福でもない受は、当然無常であると真実のままに現れます。
(耳・鼻・舌・体・心の場合も同じように話されています)。
比丘のみなさん。みなさんサマーディに励みなさい。比丘にサマーディの心があれば、当然(ダンマの状態が)真実のままに現れます。
2.五蘊の生滅を見る
比丘のみなさん。みなさん、サマーディに励みなさい。心がサマーディである比丘は当然真実のままに知ります。比丘のみなさん。当然何を真実のままに知るでしょうか。その比丘は当然形、受、想、行、識の発生と消滅を真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。形、受、想、行、識の発生はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。この場合の比丘は当然夢中になり、当然褒めちぎり、当然陶酔します。その比丘は何に当然夢中になり、当然称賛し、当然陶酔するでしょうか。
比丘のみなさん。その比丘は、当然形に夢中になり、当然褒めちぎり、当然陶酔し、その比丘が形に夢中になって褒めちぎって陶酔すれば、当然ナンディ(歓喜)が生じます。形への陶酔は取で、取が縁で有が生じ、有が縁で生が生じ、生が縁で生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが揃って生じます。苦の固まりの発生はこのようにしてあります。
(受・想・行・識の場合も形と同じように話されています)。
比丘のみなさん。これが形の発生、受の発生、想の発生、行の発生、識の発生です。
比丘のみなさん。形・受・想・行・識の消滅はどのようでしょうか。
比丘のみなさん。この場合の比丘は、当然夢中にならず、当然褒めちぎらず、当然陶酔しません。その比丘は当然何に夢中にならず、当然称賛せず、当然陶酔しないのでしょうか。
比丘のみなさん。その比丘は当然形に夢中にならず、当然褒めちぎらず、当然陶酔しません。その比丘が形に夢中になって褒めちぎって陶酔しなければ、当然その形のナンディ(歓喜)は消滅します。
その比丘のナンディが消滅することで取が消滅し、取が消滅することで苦が消滅し、有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みが揃って消滅します。苦の固まりの消滅はこのようにしてあります。
(受・想・行・識の場合も形と同じように話されています)。
比丘のみなさん。これが形の消滅、受の消滅、想の消滅、行の消滅、識の消滅です。
サマーディの威力
比丘のみなさん。みなさんサマーディに励みなさい。心がサマーディで安定している比丘は、当然真実のままに知ります。比丘のみなさん。何を当然真実のままに知るでしょうか。その比丘は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と当然真実のままに明らかに知ります。
比丘のみなさん。みなさんサマーディに励みなさい。心がサマーディで安定している比丘は、当然真実のままに知ります。
比丘のみなさん。だからこの場合は、みなさん「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、このように真実のままに明らかに知る努力をなさい。
(別の経で、五蘊の発生と消滅を明らかに知ることでサマーディの偉大さを説いているのもあります。17巻18頁27項)
隠遁する功徳
比丘のみなさん。みなさん、喜びの元である隠遁(静かな場所に一人で住んで、人と群れない)する人におなりなさい。隠遁を喜んで、内部に無視して放置してない心の静かさがあり、ヴィパッサナー(ダンマで観察すること)があるチェトーヴィムッティ(心解脱)のある人になり、空き家を喜ぶことを増やしなさい。
比丘のみなさん。このように行動すれば、二つの結果のいずれか一つが期待できます。つまり生きているうちに阿羅漢果を得るか、まだ種が残っていればアナーガミー(不還)になります。
(隠遁する威力を、五蘊の発生と消滅を明らかに知ると説かれているのもあり、四聖諦を明らかに知ると説かれているのもあり、六内処入の五つの状態、つまりたとえば目、形、眼識、眼触、眼触から生じる受で、合計三十の物は無常であると明らかに知ると説かれているのもあります)。
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