八解脱

 比丘のみなさん。これらの八つのヴィモッカ(解脱)があります。八つはどれでしょうか。八つとは、

(1) (サマーディの感情である)形がある人は、当然(サマーディニミッタである)すべての形が見えます。これが一つ目の解脱です。(当然解脱、つまりすべての蓋の威力からの脱出があります)。

(2) (サマーディの感情である)内部の形がない人は、当然外部の物であるすべての形が(サマーディの感情として)見えます。これが二番目の解脱です。(当然解脱、つまりすべての蓋の威力からの脱出があります)。

(3) 「美しい」という感覚だけで(サマーディのルーパニミッタ=形相に)心を傾ける人です。これが解脱の三番目です。(当然解脱、つまりすべての蓋の威力、特に不浄な物を不浄と感じる感覚の妨害から脱出があります)。

(4) 形想をすべて越えてしまうことができるので、瞋恚想がすべて消滅するので、様々な想を気に掛けないので、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達した人になり、常にその感覚の中にいます。これが解脱の四番目です。(当然解脱、つまりすべての形に夢中にさせ、その形である物に衝撃を与える形想の威力から脱します)。

(5) 空無辺処をすべて越えてしまうことができるので、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいます。これが解脱の五番目です。(当然解脱、つまり一番目の無形に夢中にさせる空無辺処の威力から脱します)。

(6) 識無辺処をすべて越えてしまうことができるので、心の中を「無」にする無所有処に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいます。これが解脱の六番目です。(当然解脱、つまり二番目の無形に夢中にさせる識無辺処の威力から脱します)。

(7) 無所有処をすべて越えてしまうことができるので、非想非非想処に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいます。これが解脱の七番目です。(当然解脱、つまり三番目の無形に夢中にさせる無所有処の威力から脱します)。

(8) 非想非非想処をすべて越えてしまうことができるので、想受滅に到達した人になり、そして常のその感覚の中にいます。これが解脱の八番目です。(当然解脱、つまり四番目の無形に夢中にさせる非想非非想処の威力から脱します)。

 比丘のみなさん。これらが八解脱です。

増支部アッダカニバータ 23巻315頁163項





形禅定と無形禅定はまだ愚かさを削るダンマではない

 ジュンダさん。これはあり得ます。この場合の比丘はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ・スッカ(喜悦と幸福)がある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいると、「私は愚かさを削り落とすダンマで暮らしている」という考えがあるかもしれません。

 ジュンダさん。しかし私は、このアリヤヴィナヤ(宗教という意味)では初禅はまだ「愚かさを削り落とすダンマ」と言いません。このアリヤヴィナヤでは、現生で幸福に暮らす道具であるダンマと言うだけです。

 ジュンダさん。更にこれはあり得ます。この場合の比丘は熟慮熟考が静まって、心の内面を明るくする物であり、一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、熟慮・熟考はなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に入り、常にその感覚の中にいると、「私は愚かさを削るダンマで暮らしている」という考えになるかもしれません。

 ジュンダさん。しかし私は、このアリヤヴィナヤでは二禅はまだ「愚かさを削り落とすダンマ」と言いません。このアリヤヴィナヤでは、現生で幸福に暮らす道具であるダンマと言うだけです。

 ジュンダさん。更にこれはあり得ます。この場合の比丘は喜悦が薄れることで、捨にいる人になり、サティがあり、全身に行き渡った感覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然聖人の方々が「到達した人は捨にいる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に入り、常にその感覚の中にいると、「私は愚かさを削るダンマで暮らしている」という考えになるかもしれません。

 ジュンダさん。しかし私は、このアリヤヴィナヤでは三禅はまだ「愚かさを削り落とすダンマ」と言いません。このアリヤヴィナヤでは、現生で幸福に暮らす道具であるダンマと言うだけです。

 ジュンダさん。更にこれはあり得ます。この場合の比丘は幸福と苦を捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消滅することで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいると、「私は愚かさを削るダンマで暮らしている」という考えになるかもしれません。

 ジュンダさん。しかし私は、このアリヤヴィナヤでは四禅はまだ「愚かさを削り落とすダンマ」と言いません。このアリヤヴィナヤでは、現生で幸福に暮らす道具であるダンマと言うだけです。

 ジュンダさん。更にこれはあり得ます。この場合の比丘は形想をすべて越えてしまうことができ、すべての瞋恚想が消滅したことで、様々な想を気に掛けないことで、心の中を「無限の空」にする空無辺処に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいると、「私は愚かさを削るダンマで暮らしている」という考えになるかもしれません。

 ジュンダさん。しかし私は、このアリヤヴィナヤでは空無辺処はまだ愚かさを削り落とすダンマと言いません。このアリヤヴィナヤでは、現生で幸福に暮らす道具であるダンマと言うだけです。

 ジュンダさん。更にこれはあり得ます。この場合の比丘は空無辺処をすべて越えてしまうことで、心の中を「無限の識」にする識無辺処に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいると、「私は愚かさを削るダンマで暮らしている」という考えになるかもしれません。

 ジュンダさん。しかし私は、このアリヤヴィナヤでは、識無辺処はまだ「愚かさを削り落とすダンマ」と言いません。このアリヤヴィナヤでは、現生で幸福に暮らす道具であるダンマと言うだけです。

 ジュンダさん。更にこれはあり得ます。この場合の比丘は識無辺処をすべて越えてしまうことで、心の中を「無」にする無所有処に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいると、「私は愚かさを削るダンマで暮らしている」という考えになるかもしれません。

 ジュンダさん。しかし私は、このアリヤヴィナヤでは、無所有処はまだ「愚かさを削り落とすダンマ」と言いません。このアリヤヴィナヤでは、現生で幸福に暮らす道具であるダンマと言うだけです。

 ジュンダさん。更にこれはあり得ます。この場合の比丘は無所有処をすべて越えてしまうことで、非想非非想処に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいると、「私は愚かさを削るダンマで暮らしている」という考えになるかもしれません。

 ジュンダさん。しかし私は、このアリヤヴィナヤでは、非想非非想処はまだ「愚かさを削り落とすダンマ」と言いません。このアリヤヴィナヤでは、現生で幸福に暮らす道具であるダンマと言うだけです。

中部ムーラバンナーサ 12巻72頁102項





五蓋のない心のたとえ

 大王。他人から借金してした仕事が成功し、借金をすべて返済してもまだ妻子を養うに十分な儲けが残っている男が、自分の幸運を、「以前私は借金をしたが、それでした仕事が成功し、借金を全部返済してもまだ妻子を養う儲けが残っている」と考えると、当然嬉しくなり、それが原因で喜ぶように、(これが一つ)

 大王。重病で苦に耐え、食べ物も喉を通らない体力のない男が、その後病気から快復し、食べ物も食べられるようになって体力がつくと、「以前私は重い病気で苦に耐え、食べ物も食べられず体力も衰えたが、今は病気が治り、食べ物も食べ始め体力もついた」とこのように振り返り、当然それが原因で嬉しくなって喜ぶように、(これが一つ)

 大王。監獄に囚われていた男が、その後無事に、財産を失わずに監獄から放免され、彼は「以前私は監獄に囚われていたが、今は無事に、財産を失わずに出ることができた」とこのように過去を思い出し、当然それが原因で嬉しくなって喜ぶように、(これが一つ)

 大王。自立できなくて他人に依存しなければならない、自分勝手に遊んではいけない奴隷(江戸時代の年季奉公人と同じ)の男が、その後他人に依存しなければならない、自分勝手に遊んではいけない奴隷から解放され、「私は以前、他人に依存しなければならない、自分勝手に遊んではいけない奴隷だったが、

今は奴隷から脱して自立したので、他人に依存する必要がなく自由に遊ぶことができる」と回顧すると、それが原因で嬉しくなって喜ぶように(これが一つ)

 大王。財産を持って、乞食し難い悪路で危険な長旅をした男が、その後悪路から無事に脱し、危険のない(財産を失う必要のない)安全な村に到着すると、「以前私は財産を持って、乞食し難く危険な悪路の長旅をしたが、今は無事に悪路から脱し、危険のない安全な村に着いた」と考え、それが原因で嬉しくなって喜ぶように、(これが一つ)

 大王。比丘は自分がまだ捨てることができない五蓋を、借金のよう、病気のよう、監獄に囚われるよう、奴隷(奉公)に出されるよう、財を作って悪路を越えるようだと熟慮して見、そして自分が捨てることができた五蓋を、借金が終わったよう、病気が快癒したよう、監獄から出たよう、奴隷から脱したよう、危険を脱したようだと見ます。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻96頁126項





初禅への到達とその例え

 大王。その比丘は、自分が捨てることができた五蓋を見ると、当然歓喜が生じ、歓喜が生じれば当然喜悦が生じ、心に喜悦がある人の体は当然静まり、体が静まった人は当然幸福を味わい、幸福がある人の心は当然安定し、その比丘はすべての愛欲と悪が静まって、当然ヴィタッカとヴィチャーラ、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 彼はその体に、遠離から生じた喜悦と幸福の水を振り掛けて全身を隈なく湿らせ、、彼の体のどの部分も、遠離から生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 大王。沐浴職人やその助手である賢い人が、水を浴びる時体を擦る粉を、青銅のタライに撒いて水を振りかけて寝かせておくと、夕方には粉から出たヤニが全体に沁み渡ってくっ付いて流れなくなるように、大王。その比丘はこの体に遠離から生じた喜悦と幸福の水を振り掛け、全身を隈なく湿らせると、彼の体のどこも、遠離から生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻98頁127項





二禅への到達とその譬え

 大王。まだありますヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)が静まって、心の内面を明るくする物であり、一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、熟慮・熟考はなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 彼はこの体にサマーディから生じた喜悦と幸福の水を振り掛けて全身を隈なく湿らせ、彼の体のどこも、サマーディから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 大王。東にも南にも西にも北にも流れ込む水口がなく、そしてその渕の水を増やす雨が一年中降らない深い渕は、底から冷たい水が湧き出して渕に水を撒き散らすので、その渕のどの部分も冷たい水に触れない部分はありません。

 同じように、比丘のみなさん。彼はサマーディから生じた喜悦と幸福で全身を濡らして全身を湿らせると、彼の体の部分で、サマーディから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありませせん。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻98頁128項





三禅への到達とその例え

 大王。まだあります。喜悦が薄れることで比丘は捨にいる人になり、名身で幸福を味わい、常自覚があり、聖人の方々が「この禅定に達した人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言われる三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は喜悦のない幸福だけの沐浴で全身を湿らせ、一回り湿らせます。彼の全身のどの部分も、喜悦のない幸福に触れない部分はありません。

 大王。青蓮の沼、紅蓮の沼、白蓮の沼の青蓮、紅蓮、白蓮の花は、水の中で生まれて水面下で成長してまだ水から出ないで水面下に沈んでいる群れもあり、それらは先端から根まで冷たい水に浸かっていて、その蓮のどの部分も水に触れない部分はありません。

 同じように、大王。比丘はその体を喜悦のない幸福で全身を湿らせ、隈なく湿らせるので、彼の体のどの部分も喜悦のない幸福に触れない部分はありません。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻99頁129項





四禅への到達とその例え

 大王。まだあります。幸福と苦を捨ててしまえたことで、憂いと過去の憂いが消滅したことで、苦も幸福もなく、捨による純潔な自然であるサティしかない四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は座って明るく澄んだ純潔な心を全身に行き渡らせ、彼の体のどの部分も、明るく澄んだ純潔な心が触れない部分はありません。

 大王。座って頭からすっぽり全身を白い布で覆っている男は、全身布に触れて(覆われて)いない部分がないように、大王。比丘は座って全身に明るく澄んだ純潔な心を行き渡らせ、彼の全身のどの部分も、明るく澄んだ純粋な心に触れていない部分はありません。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻100頁130項





如行の寝相と呼ぶ定にいる状態

 比丘のみなさん。この四種類の寝相があります。四種類はどのようでしょうか。四種類は死人の寝相、愛欲を貪る人の寝相、獅子の寝相、如行の寝相です。

 比丘のみなさん。死人の寝相はどのようでしょうか。比丘のみなさん。ほとんどの死人は当然仰向けに寝るので、これを死人の寝相と言います。

 比丘のみなさん。愛欲を貪る人の寝相はどのようでしょうか。愛欲を貪る人のほとんどは左に傾いて寝るので、これを愛欲を貪る人の寝相と言います。

 比丘のみなさん。獅子の寝相はどのようでしょうか。比丘のみなさん。百獣の王である獅子は当然右に傾いて脚に脚を重ね、脚の間に尾を挟んで寝、目覚めたら当然、体の前を伸ばして後ろを観察し、(寝ている時に)身じろぎした跡が見えれば当然悔み、見えなければ当然喜びます。これを獅子の寝相と言います。

 比丘のみなさん。如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳は如来)の寝相はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての性欲が静まり、すべての悪が静まって、当然ヴィタッカとヴィチャーラ、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に入り、そして常にその感覚の中にいます。

 ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一つだけのダンマであるサマーディを生じさせ、ヴィタッカもヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの、心の内面を明るくする物である二禅に入り、常にその感覚の中にい、

 喜悦が薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり、全身に行き渡った感覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に入り、常にその感覚の中にいます。

 幸福と苦とを捨てることができ、そして過去の喜びと憂いが消滅して、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。これを如行の寝相と言います。

 比丘のみなさん。これが四種類の寝相です。

増支部チャッカニバータ 21巻331頁246項

 (学習者は、四種類の寝相の大きな違いを観察して見ると、識、あるいはダンマの核心が何を目指しているか、自然よりどれくらい高いかということから、1345頁の「天の寝床、立つ場所、歩く場所」にあるように、寝る行動ではなく、識が眠ることである定にいることまで、寝ることの一つと呼ぶと理解できると観察しなければなりません)。





ハ 正しいサマーディの用具と因縁

心を訓練する知識

 比丘のみなさん。この心は清浄な自然ですが、訪問者として訪れるウパキレーサ(随煩悩)によって憂鬱になります。聞いたことがない凡夫は、当然それを真実のままに明らかに知らないので、私は、聞いたことがない凡夫はその真実をありのままに知らないと言います。だから聞いたことがない凡夫には当然チッタバーヴァナー(心を発展・向上させること)がないと言います。

 比丘のみなさん。心は無垢な自然ですが、訪問者として訪れる随煩悩から最高の解脱をする心でもあります。聞いたことがある聖なる弟子は、当然これを真実のままに知っているので、その聞いがことがある聖なる弟子は、チッタバーヴァナー(心を発展させること)があると私は言います。

増支部エカニバータ 20巻11頁52項

 (このブッダバーシタには、幾つか深い意味があるので、「心が清浄な自然なら、なぜ随煩悩で憂鬱になるのか」、そして「心が随煩悩から脱して元の清浄な心になるなら、後でまた随煩悩によって憂鬱になり、際限がない」と誤解させます。

 しかし真実は、自然の清浄さは随煩悩に支配されるので、バーヴァナーをしなければなりません。つまり心を訓練して、二度と随煩悩が支配できない、断ち切った清浄な状態にします。だから「この真実を知った人だけが心の訓練に励むことを望み、そして望みどおり訓練できる」と言われています)。





聖なる正しいサマーディの七つの部下

 比丘のみなさん。この七つのサマーディの部下があります。七つはどのようでしょうか。七つとは、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業(生活)、正しい努力、正しいサティです。

 比丘のみなさん。これらの七つが囲んでいるエカッガターチッタ(感情が一つだけの心。一境心)を、私は「住む場所があるアリヤサマーディ」とか「部下がいるアリヤサマーディ」と呼びます。

増支部アッダカニバータ 23巻42頁42項

 (学習者は、前の七つの項目を、最後の項目である正しいサマーディの部下の立場に置かれたのには深い意味があり、ダンマの実践の最高の秘訣であると観察して見るべきです。学習者は「七つの部下がいる聖なるサマーディ」「七つの部下が連携する義務」を参照してください)。
 http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-9-1.html





サマーディの力を満たすダンマ

 比丘のみなさん。この六つがある比丘は、サマーディの力を持つにふさわしくない人です。六つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の六つは、

1.サマーディに入ることに賢くない比丘

2.サマーディを維持することに賢くない比丘

3.サマーディから出ることに賢くない比丘

4.平素から愛顧(でサマーディを)しない比丘

5.平素から継続(してサマーディを)しない比丘

6.平素から(サマーディに)都合の良いダンマの行動をしない比丘

 比丘のみなさん。この六つがある比丘は、サマーディの力を持つべき人ではありません。

 比丘のみなさん。この六つがある比丘は、サマーディの力を持つべき人です。六つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の六つは、

1.サマーディに入ることに賢い比丘

2.サマーディを維持することに賢い比丘

3.サマーディから出ることに賢い比丘

4.平素から愛顧(でサマーディを)する比丘

5.平素から継続(してサマーディを)する比丘

6.平素から(サマーディにとって)快適なダンマの行動をする比丘

 比丘のみなさん。この六つがある比丘は、サマーディの力を持つにふさわしい人です。

増支部チャッカニバータ 22巻477頁343項





歩行によるサマーディは長持ちする

 比丘のみなさん。歩くことの功徳は五つあります。五つはどのようでしょうか。五つとは、

 長く歩くことに忍耐がある人で

 努力することに忍耐がある人で

 病気が少ない人で

 食べた物、飲んだ物、嘗めた物が当然良く消化し

 歩いている時に得たサマーディは当然長持ちします。

 比丘のみなさん。これが歩くことの五つの功徳です。

増支部パンチャカニバータ 22巻21頁29項





サマーディになりやすい人の状態

 比丘のみなさん。五つがある比丘は、サマーディに入って、その感覚の中にいるにふさわしくない人です。五つはどのようでしょうか。五つとは、この場合の比丘は

すべての形に忍耐がなく、

すべての声に忍耐がなく、

すべての臭いに忍耐がなく、

すべての味に忍耐がなく、

すべての接触に忍耐がありません。

 比丘のみなさん。この五つがある比丘は、サマーディになって、その感覚の中にいるにふさわしくない人です。

 比丘のみなさん。五つがある比丘は、サマーディになって、その感覚の中にいるにふさわしい人です。五つはどのようでしょうか。五つとは、この場合の比丘は

 すべての形に忍耐があり、

 すべての声に忍耐があり、

 すべての臭いに忍耐があり、

 すべての味に忍耐があり、

 すべての接触に忍耐があります。

 比丘のみなさん。この五つがある比丘はサマーディに入って、その感覚の中にいるにふさわしい人です。

増支部パンチャカニバータ 22巻155頁133項





ニ 正しいサマーディの実践原則

サマーディに励む前半五つの段階

 大王。その比丘は①アリヤである戒があり、②アリヤである根律儀があり、③アリヤである常自覚があり、④アリヤであるサンドーサ(知足)があり、⑤静かな住まい、つまり森、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、野外、藁の山のいずれかに住んでいます。

 彼は食事が終わり、托鉢から戻ると、結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据え、貪りを捨て、心から貪りを捨てようと身構えています。悪意の道具である恨みを捨て、恨みのない心があり、憐れみのある人で、すべて動き物を援けたいと願う心があり、加害する恨みを心から拭おうと身構えています。

 眠気と寂しさを捨て、心の明るさだけを目指し、眠気のない心があり、自覚する常自覚があり、心から眠気を拭おうと身構えています。落ち着きのなさを捨て、散漫でなく、内面が鎮まった心があり、心から落ち着きのなさを拭おうと身構えています。疑念を捨て、疑念を越えることができ、すべての善について「これは何? これはどのよう?」と(疑念で)聞く必要がなく、心から疑念を拭おうと身構えています。

 長部シーラカンダヴァッガ 9巻95頁125項





正しいサマーディの縁の限定的部分

 比丘のみなさん。その比丘はすべての梵行仲間に敬意がなく、畏敬せず、平等な振る舞いがないので、増上行儀を完璧にすることはあり得ません(註1)。増上行儀を完璧にしなければ、セカダンマ(高くなるために学ぶべきダンマ)を完璧にすることはあり得ず、

セカダンマを完璧にしなければ、すべての戒を完璧にすることはあり得ず、すべての戒を完璧にしなければ、正しい見解を完璧にすることはあり得ず、正しい見解を完璧にしなければ、正しいサマーディを完璧にすることはあり得ません。

 比丘のみなさん。その比丘はすべての梵行仲間に対して敬意があり、畏敬し、平等な振る舞いがあるので、増上行儀を完璧にすることはあり得ます。増上行儀を完璧にすれば、セカダンマを完璧にすることがあり、セカダンマを完璧にすれば、すべての戒を完璧にすることがあり、すべての戒を完璧にすれば、正しい見解を完璧にすることがあり、正しい見解を完璧にすれば、正しいサマーディを完璧にすることがあります。

 増支部パンチャカニバータ 22巻15頁16-21項

註1: 学習者は増上行儀、つまり一般の善人が家庭内や友人間、そして一般社会で実践しなければならない勤めや礼儀は、高いレベルのダンマに到達するダンマの実践にとって小さなことではないと観察して見なければなりません。簡単に言えば、学習者になるにふさわしくないことを生じさせます。どうぞみなさん、まず初めに、自分の増上行儀を可能な限り清浄に拭ってください。





サマーディニミッタ・パッガーハニミッタ・ウペッカーニミッタにとって時にふさわしい行動

 比丘のみなさん。アディチッタ(高い心)がある人は、ふさわしい時に心の中を三つのニミッタにするべきです。つまり、

 ふさわしい時に心の中をサマーディニミッタにし、

 ふさわしい時に、心の中をパッガーハ(程よい努力)ニミッタにし、

 ふさわしい時に心の中をウペッカー(捨)ニミッタにするべきです。

 比丘のみなさん。高い心がある比丘が心の中をサマーディニミッタだけにすれば、そのような状態は倦怠になります。

 比丘のみなさん。高い心がある比丘が心の中をパッガーハニミッタ(努力の相。精励相)だけにすれば、そのような状態は心を散漫にします。

 比丘のみなさん。高い心がある比丘が心の中をウペッカーニミッタ(捨の相)だけにすれば、そのような状態はすべての漏を終わらせるために、心を正しく安定させません。

 比丘のみなさん。高い心がある比丘がふさわしい時に心の中をサマーディニミッタにし、ふさわしい時に心の中をパッガーハニミッタし、ふさわしい時に心の中をウペッカーニミッタにすれば、その時心は、当然仕事にふさわしい柔軟な心、純潔な心で、不安定でなく、当然すべての漏の終りのための正しい安定があります。

 比丘のみなさん。金細工師や金細工師の助手はるつぼがあり、るつぼの口を塗って、それからヤットコで金の棒を掴んで吹き口に置き、適当な時に風を入れ、適当な時に水を振り掛け、適当な時に試して見るのと同じです。

 比丘のみなさん。金細工師または金細工師の助手が、その金に休みなく風を入れるだけなら、そのような場合の金は燃えてしまい、休みなく水を掛けるだけなら、その金は冷えて(註1)しまい、休みなく調べてばかりいれば、その金は適度に練れません。

 比丘のみなさん。金細工師や金細工師の助手が、ふさわしい時に風を入れ、ふさわしい時に水を掛け、ふさわしい時に調べて見れば、そうすればいつでもその金は、当然細工をするにふさわしい柔らかい金になり、照りがあり、脆くなく、そして細工師が細工をするのにふさわしくなり、首飾りや耳飾りや胸飾りや冠などの、装飾品を望む人の望みを叶えることができます。

 同じように、比丘のみなさん。高い心がある比丘が心の中をふさわしい時に三つのニミッタにするべきです。つまり心の中をふさわしい時にサマーディニミッタにし、ふさわしい時にパッガーハニミッタにし、ふさわしい時にウペッカーニミッタにするべきです。

 比丘が最高の智慧で明らかにするべきダンマを、最高の智慧で明らかにするために心を傾ければ、その人は当然まだ六処があるうちに、そのダンマの証人になる能力に到達します。

増支部ティカニバータ 20巻329頁542項

註1: この「冷える」という言葉は、パーリ経典ではニッバーナ=涅槃という言葉が使われています。涅槃とは冷えるという意味だと知らない方は、ここで知ってしまってください。




サマーディの実践で日に三回確認しなければならないこと

 比丘のみなさん。三つがある市場の店の人は、まだ手にしていない儲けを得るべき人、あるいは手に入れた儲けを発展させる人です。三つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。三つとは、この場合の市場の店の人は、当然朝最高に良く仕事の手配をして仕事をし、当然昼間最高に良く仕事の手配をして最高に良く仕事をし、当然夕方最高に良く仕事の手配して最高に良く仕事をします。

 比丘のみなさん。この三つがある市場の店の人は、まだ手にしていない儲けを手に入れ、あるいは手に入れた儲けを増やすにふさわしい人です。

 比丘のみなさん。同じように三つがある比丘は、まだ到達していない善に到達するのに、あるいは到達した善を更に発展させるにふさわしい人です。三つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。三つとは、この場合の比丘は、当然朝、援護でサマーディニミッタを意識し、昼間は愛護でサマーディニミッタを意識し、夕方愛護でサマーディニミッタを意識します。

 比丘のみなさん。この三つがある比丘は、当然まだ到達していない善に到達するにふさわしく、あるいは到達した善を更に発展させるにふさわしい人です。

増支部ティカニバータ 20巻145頁458項





アヌサティバーヴァナーはすべての挙措で励むことができる

 マハーナーマさん。あなたは如行を「このような理由で世尊は煩悩から離れた人であり、自分で正しく悟った人であり、明と品行が完璧な人、良く行った人、世界を明らかに知った人、訓練するべき人を誰よりも良く訓練できる人、天人とすべての人間に教える先生、知る人、目覚めた人、ダンマによって明るい人、ダンマを分類して動物に教える発展した人」と、このように思い出しなさい。

 マハーナーマさん。聖なる弟子が如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)を思っている時、その時その聖なる弟子には覆っている貪りがなく、覆っている怒りがなく、覆っている愚かさがないので、その時その人の心は、実に直行する心です。

 マハーナーマさん。如行のことを考えて心が直行する聖なる弟子は、当然アッタ(義)に対する気持ちがあり、当然ダンマに対する気持ちがあり、当然ダンマのある喜びがあります。喜べば当然喜悦が生じ、心に喜びがあれば当然体が静まり、体が静まった人は幸福を味わい、幸福になれば当然サマーディになります。

 マハーナーマさん。あなたはこの仏隨念に励みなさい。歩いている時も立っている時も励み、座っている時も寝ている時も励み、仕事をしている時も励み、寝床の上で子供に寄り添って寝ている時も励みなさい。

増支部エカダサカニバータ 24巻361頁214項

 (法隨念、僧隨念、戒隨念、捨隨念、天隨念の場合も、仏隨念と同じように話されています)。

註:アヌサティとは常に心で思い出していること。念。




著作目次へ ホームページへ 次へ