解説二十一 正しいサマーディ





イ 正しいサマーディの説明と分類

正しいサマーディの説明

 比丘のみなさん。正しいサマーディはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって当然ヴィタッカとヴィチャーラ(考えること)、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に入り、その感覚の中にいます。

 ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一番のダンマであるサマーディが現れ、ヴィタッカとヴィチャーラはなく、サマーディから生じた喜悦と幸福しかない、心の内面を明るくするものである二禅に入り、常にその感覚の中にいます。

 喜悦が薄れることで、彼は当然捨にいる人になり、サティがあり全身に行き渡った感覚があり、そして名身で幸福を味わい、当然、聖人方が「到達した人は捨にいる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に入り、そして常にその感覚の中にいます。

 幸福と苦とを捨てること、そして過去の喜びと憂いが消滅したことで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。これを正しいサマーディと言います。

長部マハーヴァッガ 10巻349頁299項





サマーディバーヴァナーは四種類ある

 比丘のみなさん。サマーディバーヴァナー(サマーディの努力すること)はこの四種類あります。四種類はどのようでしょうか。四種類とは、比丘のみなさん。

人が励んでたくさんすると当然現生の幸福のためになるサマーディバーヴァナーがあり、
人が励んでたくさんすると当然智見を得るためになるサマーディバーヴァナーがあり、比丘のみなさん。
人が励んでたくさんすると当然常自覚のためになるサマーディバーヴァナーがあり、比丘のみなさん。
人が励んでたくさんすると当然漏の終りのためになるサマーディバーヴァナーがあります。

 比丘のみなさん。励んでたくさんすると、当然現生の幸福のためになるサマーディバーヴァナーはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって、当然ヴィタッカ(継続して考えること)とヴィチャーラ(その感情から離れないこと)、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達します。

 ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、一つのダンマであるサマーディが現れ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの、心の内面を明るくする二禅に到達し、常にその感覚の中にいます。

 喜悦が薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり、全身に行き渡った感覚(常自覚)があり、そして名身で幸福を味わい、当然、聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に到達し、常にその感覚の中にいます。

 幸福と苦とを捨てることで、そして過去の喜びと憂いが消滅することで、苦も幸福もなく、あるのは捨ゆえに純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。比丘のみなさん。これが励んでたくさんすると、当然現生で幸福になるサマーディバーヴァナーです。

 比丘のみなさん。励んでたくさんすると、当然智見を得るためになるサマーディバーヴァナーはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は心の中を光明想にして「昼を夜のように、夜を昼のように」と昼想を願います。彼はこのように開いた心があり、何も覆う物がなく、発展させる光がある心です。比丘のみなさん。これが、励んでたくさんすれば、当然智見を得るためになるサマーディバーヴァナーです。

 比丘のみなさん。励んでたくさんすると、当然常自覚のためになるサマーディバーヴァナーはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合、受の発生と維持と消滅はその比丘にとって明らかな物で、想の発生と維持と消滅はその比丘にとって明らかな物で、ヴィタッカの発生と維持と消滅はその比丘にとって明らかな物です。比丘のみなさん。これが、励んでたくさんすると、当然常自覚のためになるサマーディバーヴァナーです。

 比丘のみなさん。励んでたくさんすると、当然漏の終りのためになるサマーディバーヴァナーはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、平素から「形はこのよう、形の発生はこのよう、形の消滅はこのよう、受はこのよう、受の発生はこのよう、受の消滅はこのよう、想はこのよう、想の発生はこのよう、想の消滅はこのよう、

行はこのよう、行の発生はこのよう、行の消滅はこのよう、識はこのよう、識の発生はこのよう、識の消滅はこのよう」と、このように五取蘊すべての発生と消滅が見えます。比丘のみなさん。これが励んでたくさんすると、当然漏の終わりのためになるサマーディバーヴァナーです。

 比丘のみなさん。これが四種類のサマーディバーヴァナーです。

  増支部チャッカニバータ 21巻57頁41項





ロ 正しいサマーディの状態と譬え

五つの卓絶したレベルの正しいサマーディの状態

 比丘のみなさん。アリヤである五つがある、正しいサマーディに励むことについて話します。比丘のみなさん。五つがあるアリヤである正しいサマーディの仕方はどのようでしょうか。

1.比丘のみなさん。この場合の比丘は、すべての愛欲が鎮まり、すべての悪が鎮まってヴィタッカ・ヴィチャーラ、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。その人はその体にヴィヴェカから生じた喜悦と幸福の水を振りかけて湿らせ、周り中を湿らせ、体のどの部分も、ヴィヴェカから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。沐浴師やその助手で賢い人は、水を浴びる時に体を擦る粉を、ブロンズのタライに撒いて水を振りかけて寝かせておくと、夕方には、粉から出たヤニが全体に沁み渡り、くっついて流れなくなるように、比丘のみなさん。

 その比丘は、この体にヴィヴェカから生じた喜悦と幸福の水を振りかけ、全身を隈なく湿らせます。彼の体のどこもヴィヴェカから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。比丘のみなさん。これがアリヤである五つのサマーディに励むことの一つ目です。

2.比丘のみなさん。まだあります。ヴィタッカ・ヴィチャーラが静まって、心の内面を明るくする物であり、一つだけの感情があるサマーディを生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 その人はこの体にサマーディから生じた喜悦と幸福の水を振り掛けて隈なく湿らせ、その人の体のどこも、サマーディから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。水源がある深い淵は、東にも南にも、西にも北にも水が流れ込む口がなく、そして季節の雨が降らなくても、泉から冷たい水が噴き出すと、冷たい水がその淵全体に流れて、その淵のどの部分も冷たい水に触れない部分はありません。

 同じように、比丘のみなさん。その比丘はサマーディから生じた喜悦と幸福で全身を濡らし、全体を湿らせ、その人の体の部分で、サマーディから生じた喜悦と幸福に触れない部分はありません。比丘のみなさん。これがアリヤである五つがるサマーディに励むことの二つ目です。

3.比丘のみなさん。まだあります。喜悦が薄れることで、比丘は捨にいる人になり、サティがあり自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人の方々が「この禅定に達した人は捨にいる人で、サティがあり幸福に暮らす」と言われる三禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は喜悦のない幸福だけの水で全身を一通り湿らせ、その人の全身のどの部分も、喜悦のない幸福に触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。睡蓮、紅蓮、白蓮の花がある水蓮の沼、紅蓮の沼、白蓮の沼の蓮は、水中で生まれて水面下で成長し、まだ水から出ない水面下に沈んでいる群れもあります。それらは先端から根まで冷たい水に浸かっているので、その蓮のどの部分も、水に触れない部分はありません。

 同じように比丘のみなさん。彼は喜悦のない幸福で全身を湿らせ、隈なく湿らせ、その人の体のども部分も喜悦のない幸福に触れない部分はありません。比丘のみなさん。これがアリヤである五種類があるサマーディに励むことの三つ目です。

4.比丘のみなさん。まだあります。比丘のみなさん。比丘が幸福(喜び)と苦を捨ててしまえることで、憂と過去の憂が消滅することで、苦でも幸福でもなく、捨によって純潔な自然であるサティしかない四禅に達し、そして常にその感覚の中にいます。彼は座って、明るく澄んだ純潔な心を全身に行き渡らせ、彼の体のどの部分も、明るく澄んだ純潔な心が触れない部分はありません。

 比丘のみなさん。座って頭からすっぽり全身を白い布で覆っている男の全身は、布に触れて(覆われて)いない部分がないように、比丘のみなさん。比丘は座って全身に明るく澄んだ純潔な心を行き渡らせ、彼の全身のどの部分も、明るく澄んだ純粋な心に触れていない部分はありません。比丘のみなさん。これがアリヤである五つがあるサマーディに励むことの四つ目です。

5.比丘のみなさん。まだあります。ニミッタの分類はその比丘が良く捉えているものであり、心で良く行動し、良く維持し、智慧で良く洞察しています。一人の人が別の人を見たり、立っている人が座っている人を見たり、あるいは座っている人が寝ている人を見るように、ニミッタの判別はその比丘が良く捉えている、心の中で良くしている、良く維持し、智慧で良く洞察している物です。

 比丘のみなさん。これがアリヤである五つがあるサマーディに励むことの五つ目です。

 比丘のみなさん。アリヤである五つがあるサマーディを、比丘がこのように励んでたくさんすれば、当然最高の智慧で明らかにするべき何らかのダンマを、最高の智慧で明らかにする行動をします。その最高の智慧で明らかにするべきダンマで、その人は当然、まだ処入があるうちに証人になる能力に達します。

 比丘のみなさん。鍋敷きの上に置いてある、飲み口の縁までいっぱい水が入った取っ手のある水鍋を、力のある男がどちらかの方向に傾ければ、当然水はそちらへ傾くのではありませんか。

 「そうです、猊下」。

 比丘のみなさん。同じように、比丘がこのようにアリヤである五つがあるサンマーサマーディに励んでたくさんすれば、当然最高の智慧で明らかにするべき何らかのダンマを、最高の智慧で明らかにする行動に心を傾け、その最高の智慧で明らかにするべきダンマで、その人は当然、まだ処入があるうちに証人になる能力に到達します。

 比丘のみなさん。縁まで水が満ちている土手に囲まれた四角形の蓮池の縁のどこかに、力のある男が穴を開ければ、当然そこから水が流れ出すのではないですか。

 「そうです、猊下」。

 比丘のみなさん。同じようにアリヤである五つがある正しいサマーディを、比丘が励んでたくさんすれば、比丘は当然、最高の智慧で明らかにするべき何らかのダンマを、最高の智慧で明らかにする行動に心を傾け、その、最高の智慧で明らかにするべきダンマです。その人は当然、まだ処入があるうちに証人になる能力に達します。

 比丘のみなさん。よく訓練された良馬を揃っている道具で繋いだ馬車は、お屋敷街の四辻に止めてある車で、馬の調教に熟練した勤勉な師匠級の御者がその馬車に乗り、左手で手綱を握って右手で棒を持てば、棒を振り上げるだけで、思いどおりに車を前や後ろへ引かせることができるのと同じです。

 比丘のみなさん。これも同じです。アリヤである五つがある正しいサマーディを、比丘が励んでたくさんすれば、比丘は当然最高の智慧で明らかにするべき何らかのダンマを、最高の智慧で明らかにするべき行動に心を傾けます。その人は当然、その最高の智慧で明らかにするべきダンマで、まだ処入があるうちに証人になる能力に達します。

増支部パンチャカニバータ 22巻26頁28項





七人の部下がいる聖なる正しいサマーディ

 比丘のみなさん。依存する基盤があり、部下がいるアリヤである正しいサマーディについて話します。そのダンマを聞いて心の中を利益になるようになさい。

 比丘のみなさん。基盤があり、部下がいる、アリヤである正しいサマーディはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この道諦である正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティの七つが、エカッガターチッタ(一つの感情がある心。一境心)を取り囲んでいます。この一境心を、私は「依存する基盤があり部下がいる聖なる正しいサマーディ」と呼びます。

中部ウパリバンナーサ 14巻252頁253項





七つの部下の連携である義務

1.正しい見解の部

 比丘のみなさん。正しいサマーディの七つの部下の中で、正しい見解が先導するダンマです。どのように先導するのでしょうか。誤った見解を誤った見解と知り、正しい見解を正しい見解と知るその人の知識は、正しい見解です。

 比丘のみなさん。誤った見解はどのようでしょうか。

 それは「与えた人は(結果が)ない。お供えした物に(結果は)ない。祭祀しても結果はない。善行や悪行をした動物のカンマ(業の結果)はない。この世界はない。別の世界もない。母もいない。父もいない。オッパーティカ(不還)もいない。行った人、この世界と別の世界を、智慧で正しく明らかにするまで正しく実践し、他人に教えた人であるサマナ・バラモンもいない」と見る見解です。

 比丘のみなさん。これが誤った見解です。

 比丘のみなさん。正しい見解はどのようでしょうか。比丘のみなさん。正しい見解も二種類あると私は言います。つまり徳の部分であり、重い物と関わっている結果がある、まだ漏になる正しい見解もあり、漏にならず、世界を越えるレベルへ導き、涅槃への道があるアリヤである正しい見解もあります。

 比丘のみなさん。徳の部分であり、重い物と関わっていて、まだ漏になる正しい見解はどのようでしょうか。それは「与えた人には結果がある。供え物には結果がある。祭祀には結果がある。善行悪行をした動物の業の結果や報いはある。この世界はあり、別の(ロークッタラの)世界もある。母もいる。父もいる。オッパーティカもいる。

行った人、この世界と別の世界を、智慧で正しく明らかにするまで正しく実践し、他人に教えた人であるサマナ・バラモンもいる」と、このような見解です。比丘のみなさん。これが徳の部分であり、重いものと関わっている結果があり、まだ漏になる正しい見解です。

 比丘のみなさん。漏にならず、世界を越えたレベルへ導く涅槃への道がある、アリヤである正しい見解はどのようでしょうか。それはアリヤである心の人、漏のない心の人、何らかの八正道に励む人、アリヤサマンギー(聖道具足者)の智慧、智慧根、智慧力、七覚支の択法、聖道である正しい見解です。比丘のみなさん。これが漏にならず、世界を越えた段階へ導く、涅槃への道があるアリヤである正しい見解です。

 その人は誤った見解を捨て、正しい見解を完璧にする努力をします。彼のその行動は正しい努力です。彼は誤った見解を捨ててしまうサティがあり、正しい見解を完璧にするサティがあり、そして常にその感覚の中にいます。その人のサティは正しいサティです。

 このような状態でこの三種類のダンマ(註1)が、当然正しい見解を囲んでついて来ます。三種類のダンマとは正しい見解、正しい努力、正しいサティです。

註1: 三つのダンマが正しい見解を囲んでついてくるというのは、最初にある基礎である正しい見解が、その言葉の意味の完璧な正しい見解を生じさせるという意味です。


2.正しい考えの部

 比丘のみなさん。正しいサマーディの七つの部下のうち、正しい見解は先導するダンマです。どのように先導するのでしょうか。それは、誤った考えを誤った考えと知り、正しい考えを正しい考えと知ります。その人の知識は正しい見解です。

 比丘のみなさん。誤った考えはどのようでしょうか。愛欲の考え、復讐の考え、加害の考えです。比丘のみなさん。これが誤った考えです。

 比丘のみなさん。正しい考えはどのようでしょうか。比丘のみなさん。正しい考えにも二種類あると私は言います。徳の部分であり、重い物と関わっている結果がある、まだ漏になる正しい考えもあり、漏にならず、世界を越えた段階へ導き、涅槃への道があるアリヤである正しい考えもあります。

 比丘のみなさん。徳の部分であり、重いものと関わっている結果がある、まだ漏になる正しい考えはどのようでしょうか。それは愛欲から出る考え、復讐心から出る考え、加害心から出る考えです。比丘のみなさん。これが徳の部分であり、重い物と関わっている結果があり、まだ漏になる正しい考えです。

 比丘のみなさん。漏にならず、世界を越える段階へ導き、涅槃への道があるアリヤである正しい考えはどのようでしょうか。比丘のみなさん。それはアリヤである心の人、漏のない心の人、何らかの八正道に励む人、八正道のある人(道具足者)の熟慮、熟考、願い、確たる考え、最高に確かな考え、そして発言の意図です。

 比丘のみなさん。これが漏にならず世界を越えた段階へ導く、涅槃への道があるアリヤである正しい考えです。

 誤った考えを捨て、正しい考えを完璧にするために努力をする人の、彼の行動は正しい努力です。彼は誤った考えを捨ててしまうサティ、正しい考えを完璧にするサティがあり、その感覚の中にいます。彼のそのサティは正しいサティです。

 このようにこの三種類のダンマが、当然正しい考えについて来るということです。三種類のダンマは、正しい見解、正しい努力、正しいサティです。


3.正しい言葉の部

 比丘のみなさん。正しいサマーディの七つの部下の中で、正しい見解が先導するダンマです。どのように先導するのでしょうか。誤った言葉を誤った言葉と知り、正しい言葉を正しい言葉と知る、その人の知識は正しい見解です。

 比丘のみなさん。誤った言葉はどのようでしょうか。虚言、両舌(仲違いさせる言葉)、暴言悪口です。比丘のみなさん。これが誤った言葉です。

 比丘のみなさん。正しい言葉はどのようでしょうか。比丘のみなさん。正しい言葉も二種類あると私は言います。徳の部分であり、重い物と関わっている結果があり、まだ漏になる正しい言葉もあり、漏にならず、世界を越えた段階へ導き、涅槃への道があるアリヤである正しい言葉もあります。

 比丘のみなさん。徳の部分であり、重い物と関わっている結果があり、まだ漏になる正しい言葉はどのようでしょうか。それは嘘を避ける意図、告げ口を避ける意図、暴言悪口を避ける意図です。比丘のみなさん。これが徳の部分であり、重い物と関わっている結果がある、まだ漏になる正しい言葉です。

 比丘のみなさん。漏にならない、世界を越えた段階へ導く、涅槃への道がある、アリヤである正しい言葉はどのようでしょうか。比丘のみなさん。それはアリヤである心の人、漏のない心の人、何らかの八正道に励む人、八正道がある人の四つの不正な言葉を控えること、避けること、そして避ける意図です。

 比丘のみなさん。これが漏にならず、世界を越える段階へ導く、涅槃への道がある、アリヤである正しい言葉です。

 誤った言葉を捨て、正しい言葉を完璧にする努力をする人の、彼のその行動は正しい努力です。彼は誤った言葉を捨ててしまうサティ、正しい言葉を完璧にするサティがあります。彼のサティは正しいサティです。

 このように三種類のダンマが、当然正しい言葉について来ます。三種類のダンマは、正しい見解、正しい努力、正しいサティです。


4.正しい業の部

 比丘のみなさん。正しいサマーディの七つの部下のうち、正しい見解が先導するダンマです。どのように先導するのでしょうか。誤った行動を誤った行動と知り、正しい行動を正しい行動と知る、彼の知ることは正しい見解です。

 比丘のみなさん。誤った行動はどのようでしょうか。殺生・偸盗・邪淫です。比丘のみなさん。これが誤った行動です。

 比丘のみなさん。正しい行動はどのようでしょうか。比丘のみなさん。正しい行動にも二種類あると私は言います。徳の部分であり、重い物と関わっている結果がある、まだ漏になる正しい行動もあり、漏にならず、世界を越える段階へ導く、涅槃への道がある、アリヤである正しい行動もあります。

 比丘のみなさん。徳の部分であり、重い物と関わっている結果があり、まだ漏になる正しい行動はどのようでしょうか。それは殺生を避ける意図、盗みを避ける意図、間違った愛欲の行動を避ける意図です。比丘のみなさん。これが徳の部分であり、重いものと関わっている結果がある、まだ漏になる正しい行動です。

 比丘のみなさん。漏にならず、世界を越える段階へ導き、涅槃への道がある、アリヤである正しい行動はどのようでしょうか。比丘のみなさん。それはアリヤである心の人、漏のない心の人、何らかの八聖道に励む人、八正道のある人の、三つの不正な行動を控えること、避けること、そしてそれらを避ける意図です。

 比丘のみなさん。これが漏にならず、世界を越える段階へ導く、涅槃への道があるアリヤである正しい行動です。

 彼は誤った行動を捨て、正しい行動を完璧にする努力をする人で、彼の行動は正しい努力です。誤った行動を捨ててしまうサティ、正しい行動を完璧にする、彼のサティは正しいサティです。

 このように三種類のダンマが、当然正しい行動について来ます。三種類のダンマは、正しい見解、正しい努力、正しいサティです。


5.正しい生業(生活)の部

 比丘のみなさん。正しいサマーディの七つの部下のうち、正しい見解が先導するダンマです。正しい見解がどのように先導するのでしょうか。誤った生業(生活)を誤った生業(生活)と知り、正しい生業(生活)を正しい生業(生活)と知る、彼の知ることは正しい見解です。

 比丘のみなさん。誤った生業(生活)はどのようでしょうか。嘘を言うこと、騙すことを言うこと、勧誘すること、相手が受け入れるまで傷つけることを言うこと、儲け話で騙すことです。比丘のみなさん。これが誤った生活です。

 比丘のみなさん。正しい生業(生活)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。正しい生活にも二種類あると私は言います。徳の部分であり、重い物と関わっている結果があり、まだ漏になる正しい生活もあり、漏にならない、世界を越える段階へ導く、涅槃への道がある、アリヤである正しい生活もあります。

 比丘のみなさん。徳の部分であり、重い物と関わっている結果があり、まだ漏になる正しい生活はどのようでしょうか。この場合の聖なる弟子は誤った生活を捨て、正しい生活で生活しています。比丘のみなさん。これが徳の部分であり、重い物と関わっている結果がある、まだ漏になる正しい生活です。

 比丘のみなさん。漏にならない、世界を越える段階へ導く、涅槃への道があるアリヤである正しい生活はどのようでしょうか。比丘のみなさん。それはアリヤである心の人、漏のない心の人、八正道のどれかに励む人、八正道のある人の四つの不正な生活を控えること、避けること、そしてそれらを避ける意図です。

 比丘のみなさん。これが漏にならない、世界を越える段階へ導く、涅槃への道があるアリヤである正しい生活です。

 誤った生活を捨て、正しい生活を完璧にする努力をする人の、彼の行動は正しい努力です。彼は誤った生活を捨ててしまうサティ、正しい生活を完璧にするサティがあります。彼のサティは正しいサティです。

 このようにこの三種類のダンマが、当然正しい生活について来ます。三種類のダンマは、正しい見解、正しい努力、正しいサティです。

中部ウパリバンナーサ 14巻181頁254項

 (学習者は、この複雑な関係を「初めの七項は、最後の一項である正しいサマーディの家来に配属され、アリヤである正しいサマーディに格上げされて、初めの五項つまり正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業は、正しい見解、正しい努力、正しいサティに囲まれている。正しい努力と正しいサティは初めの五つを囲む義務があるので、それ自身の部がなく、七番目、八番目の部はない。

正しい見解は重要なので自分の部があり、五つの部を囲む義務がある。正しい努力や正しいサティに自分の部がないのは、他の部に隠れるように入り込んで完璧に義務を果たすからだ。しかし消えることはない。正しい見解がすべての部の先導と呼ばれるのは、それらの二つある。

つまり漏になる物と漏で経過しない物に分類された部のダンマの状態を知るからだ。そして反対である誤り、あるいは間違いの側の物もすべて知っているので、正しい努力と正しいサティを正しく進行させるから先導者と呼ばれる」と観察して見るべきです。

 学習者は、それぞれの道の義務がどのように関連して、完璧な滅苦のレベルにまで達すことができるのかを、明らかに理解するまで、その関連を観察しなければなりません)。





正しい見解は悪を捨てる先導者

 正しい見解は、どのように八正道の全項目を先導するのでしょうか。比丘のみなさん。

 正しい考えは当然正しい見解のある人に十分あり、

 正しい言葉は当然正しい考えのある人に十分あり、

 正しい業は当然正しい言葉のある人に十分あり、

 正しい生業は当然正しい業のある人に十分あり、

正しい努力は当然正しい生活のある人に十分あり、

 正しいサティは当然正しい努力のある人に十分あり、

 正しいサマーディは当然正しいサティのある人に十分あり、

 正しいニャーナ(知ること。智)は、当然正しいサマーディのある人に十分あり、

 正しい解脱は、当然正しいニャーナのある人に十分あります。

 比丘のみなさん。八項目がある有学の僧は、当然このように十項目がある阿羅漢になります。

 比丘のみなさん。このすべての道の先頭にある正しい見解は、どのように先導するのでしょうか。

 比丘のみなさん。正しい見解のある人の誤った見解は当然残らず崩壊し、誤った見解が縁で生じるその人の様々な罪悪も、同時に残らず崩壊し、そして正しい見解が縁で生じる様々な善も、完璧な発展に至ります。(正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディの場合も同じように話されています)。

 比丘のみなさん。正しいニャーナ(智)のある人の誤ったニャーナは、当然残らず崩壊し、誤った見解が縁で生じる、その人の様々な悪も同時に残らず崩壊し、そして正しい見解が縁で生じる様々な善も、完全な成長発展に至ります。

 比丘のみなさん。正しい解脱のある人の誤った解脱は当然残らず崩壊し、誤った解脱が縁で生じるその人の様々な悪も同時に残らず崩壊し、そして正しい見解が縁で生じる様々な善も、完全な成長発展に至ります。

 比丘のみなさん。このように善の側のダンマが二十、悪の側のダンマが二十ある四十のダンマの説明は、世界のサマナ・バラモン、天人や梵天の誰も反転させることができない、私が回転させたダンマの説明です。

中部ウパリバンナーサ 14巻187頁279項

 (学習者は「八正道にあと二項目、つまり正しいニャーナと正しい解脱を足すと十正道になる。そして正しい見解がすべてを先導して悪であるどんな項目も正しい項目にすることができる。すべては先導するダンマである正しい見解に依存しなければならない」と、観察して見なければなりません。

 八項目は有学のためのダンマで、十項目は阿羅漢のダンマです。学習者はよく銘じるべき教えであると観察して見るべきです)。





感情として梵住がある類の正しいサマーディ

 ヴァーセッダさん。その比丘が捨てることができた五蓋が見えれば、当然歓喜が生じ、歓喜が生じれば当然喜悦が生じ、心に喜悦がある人の体は当然鎮まって、当然幸福を味わい、幸福のある人の心は当然サマーディになります。

 彼は慈しみになる心を、当然第一の方向、第二の方向、第三の方向、第四の方向へ広げ、世界中のすべての方向に、上も下も、投げる方へも、慈しみになる心、悪意がなく復讐心がなく、偉大な徳のある、広大で限度のない心を広げ、常にその感覚の中にいます。

 ヴァーセッダさん。体力がある人がほら貝を吹くと、当然楽に四方に聞こえるように吹くように、このように励んだメッターチェトーヴィムッティ(慈心解脱。註1)には、限度があるようにする(註2)類のカンマは残っていません。ヴァーセッダさん。これがすべての梵天と一緒に暮らせる人になる道です。

 (次に悲、喜、捨についても同じように述べられています。これもすべての梵天と一緒に暮らすための道です)。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻310頁383項

註1: メッターチェトーヴィムッティとは、慈しみがあるアッパナーサマーディ(完全な三昧)です。

註2: 限界があるとは、場所的限界があるメッターであり、述べているような形界である善にならない、まだ欲界の善です。





著作目次へ ホームページへ 次へ