アーナーパーナサティの特別な功徳

1.体が揺れない

 (ある時世尊が体が揺らがない人であるプラマハーカッピナに視線を投げ、それからすべての比丘に言われました)。

 比丘のみなさん。みなさんはプラマハーカッピナの体が揺れる、あるいは揺らぐのを見たことがありますか。

 「猊下。僧の中に座っている先輩を見ても、一人でいる時でも、弟子のみなさんはその先輩の体が揺れているのを見たことはありません。猊下」。

 比丘のみなさん。何らかのサマーディに励んでたくさんすれば、体の動揺も心の動揺もあり得ません。マハーカッピナはサマーディを、望みどおり簡単に難しくなく得る人です。

 比丘のみなさん。体の動揺でも心の動揺でも、どのサマーディに励んでたくさんすれば当然あり得ないでしょうか。比丘のみなさん。体の動揺も心の動揺も、アーナーパーナサティサマーディに励んでたくさんすれば当然あり得ません

 比丘のみなさん。人がどのようにアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、体の動揺も心の動揺も、あり得ないでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合、森へ行っても、木の根元へ行っても、空き家に行っても、結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持します。その比丘は息を吸う時にサティがあり、息を吐く時にサティがあり、長く息を吸った時は長く息を吸ったと全身で感じ、

(一一八一頁の「偉大な成果があるアーナーパーナサティの仕方」で16のものがあるアーナーパーナサティを説かれ)http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-1.html・・・常に返却が見える人になることを課題にして息を吐きます。

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、体の動揺も心の動揺も当然あり得ません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻399頁1322項



2.すべての受を知る

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナー(呼)パーナ(吸)サティ(念)に励んでたくさんし、その比丘が幸福(喜び)である受を味わうと当然その受は無常であると気づき、当然その受に自分は陶酔して平伏しないと気づき、当然その受に恍惚としないと、このように気づきます。

 その比丘が苦である受を味わうと当然その受は無常であると気づき、当然その受に自分は平伏して陶酔しないと気づき、当然特に恍惚とならないと、このように気づきます。

 その比丘が苦でも幸福でもない受を味わうと、当然その受は無常であると気づき、当然その受に自分は平伏して陶酔しないと気づき、当然その受に特に夢中にならないと、このように気づきます。

 その比丘が幸福である受を味わっても、その受を夢中になって味わう人でなく、苦である受を味わっても、その受を夢中になって味わう人でなく、苦でも幸福でもない受を味わっても、その受を夢中になって味わう人ではありません。

 その比丘が体の終りである受を味わえば、当然体の終りである受を味わっていると自覚し、命の終りである受を味わえば、当然命の終りにある受を味わっていると気づき、体が消滅し、最後に命の掌握が終るまで、当然すべての受は「私は陶酔しない。ここで消滅した物になった」とこのように気づきます。

 比丘のみなさん。油のランプは油と芯に依存して燃えることができ、油が尽き芯が尽きれば、燃料が尽きた火であるように、その比丘が体の終りである受を味わえば、当然体の終りである受を味わっていると気づき、

命の終りである受を味わえば、当然命の終りにある受を味わっていると気づき、体が消滅し、最後に命の掌握が終るまで、当然すべての受は「私は陶酔しない。ここで消滅した物になった」と、このように気づきます。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻404頁1346項




3.鎮まったスッカヴィハーラがある

 比丘のみなさん。このアーナーパーナサティサマーディは、人が励んでたくさんすれば、当然鎮まった物、緻密な物、冷えた物、スッカヴィハーラ(幸福という精舎)になり、当然生じた下賤な悪、そして生じてくる下賎な悪を消滅させ、それにふさわしく鎮めます。

 比丘のみなさん。夏の終りに飛散する埃は、季節外れの強い雨が降れば当然消え、適度にその埃を静めるように、比丘のみなさん。人が励んでたくさんしたアーナーパーナサティサマーディは、緻密な物であり、冷えた物であり、スッカヴィハーラであり、そして当然生じた下賤なな悪と、生じてくる下賎な悪を、それにふさわしく抑え、消滅させます。

 比丘のみなさん。緻密な物であり、冷えた物であり、スッカヴィハーラであり、そして当然生じている下賎な悪と、生じてくる下賎な悪を状況にふさわしく消滅させるのは、どのように励んでたくさんするアーナーパーナサティでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合、森へ行っても木の根元に行っても空き家に行っても、結跏趺坐して体を真っ直ぐに維持し、サティをしっかりと据えます。その比丘は…(一一八一頁の「偉大な成果のあるアーナーパーナサティの仕方」http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-1.html のアーナーパーナサティを説かれ)、常に返却が見える人になることを課題にして息を吐きます。

 比丘のみなさん。人がこのように励んでたくさんしたアーナーパーナサティは、当然静まった物であり、緻密な物であり、冷えた物であり、幸福な精舎です。そして当然生じている下賎な悪と、生じてくる下賎な悪をそれにふさわしく消滅させます。

 (これは、アーナーパーナサティは焦燥がある人、落ち着きがなく日常生活や境遇に不満がある人、様々な倦怠だけを生じさせる日常生活に満足しない人、することなすことが何一つ上手くいかない人に涼しさを生じさせ、幸福の精舎を生じさせる道具であると言うことがきます)。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻407頁1352項




4.幸福になり、漏の終りに進む

 比丘のみなさん。みなさんが異教の出家に「ゴータマサマナは雨安居の間のほとんどを、どのヴィハーラダンマで過ごすのですか」と訊かれたら、みなさんは「先輩。世尊は雨安居の間のほとんどをアーナーパーナサティサマーディで過ごされます」と答えるべきです。

 比丘のみなさん。この場合、私は吸う息にサティがあり、吐く息にサティがあり、長く息を吸った時は長く息を吸ったと知り、長く息を吐いた時は長く息を吐いたと知り、(「偉大な成果のあるアーナーパーナサティの仕方」http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-1.htmlのアーナーパーナサティを説かれ)、常に返却が見える人になることを課題にして息を吐きます。

 比丘のみなさん。アリヤヴィハーラ(聖住)でも、ブラフマヴィハーラ(梵住=無私無欲)でも、タターガタヴィハーラ(如行住)でも、いつ誰でもダンマで正しく言うなら、このアーナーパーナサティサマーディこそ聖住、梵住、如行住と呼ぶべきです。

 比丘のみなさん。まだ有学で、それ以上に素晴らしい物はないヨーガケーマダンマ(捕縛を解くもの。解縛)にまだ到達していない、まだ到達を望んでいる比丘は誰でも、その比丘がアーナーパーナサティサマーディに励んでたくさんすれば、当然すべての漏の消滅になります。

 漏が終り、梵行をするのが終り、しなければならないことが成功し、重荷を下ろし、到達した自分の利益があり、すべてのサンニョージャナ(結)がなくなって正しく解脱した阿羅漢である比丘は誰でも、それらの比丘のみなさんがアーナーパーナサティサマーディに励んでたくさんすれば、当然完璧な常自覚のための、現生でのスッカヴィハーラです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻412頁1364項




5.聖住、梵住、如行住という名にふさわしい

 比丘のみなさん。だから誰かがダンマで正しく「聖住」「梵住」「如行住」と言うなら、彼はこのアーナーパーナサティサマーディを「聖住」「梵住」「如行住」と言うべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻413頁1368項




6.結を終わらせ、随眠を駆除し、漏の終りの遠い道を知る

 比丘のみなさん。人が励んでたくさんしたアーナーパーナサティは、すべてのサンニョージャナ(結)を捨てます。

 比丘のみなさん。人がどのようにアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、すべてのサンニョージャナを捨てるのでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は森へ行っても、木の根元に行っても、空き家に行っても、結跏趺坐して体を真っ直ぐに立て、サティをしっかりと据えます。その比丘は(一一八一頁の「偉大な成果があるアーナーパーナサティの仕方」http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-1.html のアーナーパーナサティを説かれ)、私は常に返却が見得る人になることを課題にして息を吐きます。

 比丘のみなさん。このように人が励んでたくさんしたアーナーパーナサティは、当然すべてのサンニョージャナを捨てるためになります。

 比丘のみなさん。このように人が励んでたくさんしたアーナーパーナサティは、当然随眠を排除するためになります。

 比丘のみなさん。このように人が励んでたくさんしたアーナーパーナサティは、当然遠い道(無明)を知り尽すためになります。

 比丘のみなさん。このように人が励んでたくさんしたアーナーパーナサティは、当然すべての漏を終わらせるためになります。

 (これらはすべて、アーナーパーナサティは、概要としてサンニョージャナを捨てさせ、随眠を捨てさせ、遠い道つまり無明、無明を生じさせる原因、無明の消滅、そして無明の消滅に至る道を知り尽させる結果があり、最後に漏を終わらせると説明して見せています。要旨の意味も同じで、つまり煩悩をすっかり消滅させます。

 と言うのは、一二四九頁の「アーナーパーナサティの普通の功徳」、一一九八頁の「アーナーパーナサティが完璧なら四念処も完璧」「七覚支が完璧なら明と解脱も完璧」に引用したブッダパーシタにあるように、アーナーパーナサティバーヴァナーは四念処を完璧にし、四念処が完璧なら七覚支が完璧になり、七覚支が完璧なら当然明と滅が完璧になるからです)。

増支部マハーヴァーラヴァッガ 19巻425頁1406項




7.最後の息を知って心が滅す 

 (一一八一頁の「偉大な成果があるアーナーパーナサティの仕方」http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-1.htmlのアーナーパーナサティを説かれた後、)

 ラフラ。人がこのアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、心が消滅する時に最後に吸う息吐く息は、彼が良く知らないものでなく、彼が明らかに知った物になって消滅します。

中部マッジマバンナーサ 13巻140頁14項




8.ブッダの死後、仏教が維持する原因

 「ゴータマ様。如行様(ブッダのこと。漢訳では如来)が般涅槃された後、正法が長く存続しない原因と縁は何ですか。ゴータマ様。如行様が般涅槃された後、正法が長く存続する原因と縁は何ですか」。

 バラモンさん。四念処に励むことがなく、四念処をたくさんしなければ、如行が般涅槃した後、当然正法は長く存続しません。

 しかしバラモンさん。四念処に励んでたくさんすれば、如行が般涅槃した後も正法は長く存続します。四念処はどのようでしょうか。この場合の比丘は常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、(この後は、他のあちこちで述べられている内容と同じです)。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻232頁778項





不注意でないことの功徳はサティ

 比丘のみなさん。私は不注意でないこと以外に、まだ生じていない善を生じさせ、生じている悪が当然消滅するダンマは見えません。比丘のみなさん。人が不注意でなければ生じていない善が生じ、生じている悪は消滅します。

増支部エカニバータ 20巻13頁60項

 (他の経では、不注意でないことの功徳を「偉大な利益がある」20巻18ページ84項

 「正法が薄れて消滅しないようにする」20巻23頁116項

 「内面の偉大な利益を生じさせる原因」20巻21頁100項:と説かれています)。





四念処は過去と未来の見依を捨てる道具

 ジュンダさん。私は過去のも未来のも、すべてのディッティニッサヤ(見依)を捨てるため、越えるために四つの念処を規定して説きました。

 四つの念処はどれでしょうか。ジュンダさん。四つとは、この場合の比丘は平素から体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、サティがあり自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまい、平素からすべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力があり、サティがあり自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまい、

平素から心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、サティがあり自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまい、平素からすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、サティがあり自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 ジュンダさん。この四つの念処を、私は過去と一緒にするのも、未来と一緒にするのも、すべての見依を捨てるため越えるために、このように四つの念処を規定して説きました。

長部パーティヴァッガ 11巻155頁128項

 (四つの念処がある比丘は、当然「動物、人物、私、他人」という感覚がないので、過去の有で自我があったという見を生じさせて、「自我と世界は不変」という見解が生じる余地はありません。)





念処に励めば自分と他人を護る

 比丘のみなさん。以前にあった話です。軽業師の男が竿を持ち上げて(頭や体のどこかの部分の上に)立てると、油の皿を持った助手に「油の皿を持った友よ来なさい。竿に登って私の体の上でバランスを維持しなさい」と叫びました。比丘のみなさん。助手は「合点です、師匠」と師匠の言葉を受け、それから師匠の体の上でバランスを保っている竿に登って行きました。

 比丘のみなさん。その時、師匠である軽業師が助手に「友よ、君が私を支えれば私は君を支える。我らがこのように支え合えば見世物の芸になり、投げ銭もあり、そして竿から無事に下りることもできる」と言いました。

 比丘のみなさん。このように聞いた助手は師匠に「師匠、それはできません。師匠は自分を護ってください。私は私を護ります。私たちがこのように互いに自分で自分を護れば見世物の芸になり、投げ銭もあり、無事に棒から降りることもできます」と言いました。

 (これは私たちが理解しなければならない秘訣です。つまり世尊は、助手が師匠に答えたように、次のように言われました)。

 比丘のみなさん。みなさん「自分で自分を護る」と考えて念処をなさい。みなさん「私は他人を護る」と考えて念処をなさい。比丘のみなさん。自分を護れば他人を護り、他人を護れば自分を護ります(註1)。

 比丘のみなさん。自分を護れば他人を護るとはどのようでしょうか。これは、ダンマを実践し、ダンマに励み、ダンマを増やすことで自分を護るという意味です。これです。自分を護れば他人を守る結果があります。

 比丘のみなさん。他人を護れば自分を護ると言うのはどのようでしょうか。これは、忍耐で、困らせないことで、慈しみの心で、愛し可愛がることで他人を護るという意味です。これです。つまり他人を護れば、自分を護る結果があります。

 比丘のみなさん。自分を護ろうと考えたら念処に励み、他人を護ろうと考えたら念処に励みなさい。自分を護るために念処に励むことは他人を護ることであり、他人を護ると考えて念処をすることは自分を護ることだからです。このようです。

 (これは自分を護る念処を生じさせるという意味で、その念処はブラフマヴィハーラ=梵住を想起するので、他人を護ると見なします)。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻224頁758項

註1: これは、竿を支えている人と、竿の先にいる人が互いに自分を善く守れば失敗して落ちないように、自分の利益のために四念処をすれば、自分に関わる他人にも利益があるという意味。




ニ 正しいサティに欠ける害

サティに欠ける心は、当然森に住んでも財産を望む

 比丘のみなさん。この八種類の人が世界にいます。八種類とはどのようでしょうか。八つとは、

 比丘のみなさん。この場合の比丘は静かに暮らしていても、継続して慎みのある行動をしなければ、蓄財の望みが生じます。蓄財のためにせっせと努力を積んで、貰い物がないと、貰い物がないことで悲しみ、苦悩し、嘆き、胸を叩いて泣き、呆けた人になります。比丘のみなさん。これを「貰い物を望んでいる比丘は蓄財のためにせっせと努力をし、貰い物がないと悲しみ嘆き、そして正法から離れる」と言います。

 比丘のみなさん。更に比丘が静かに暮らしても、継続して慎みのある行動をしなければ、貰い物の期待が生じます。蓄財のためにせっせと努力をして貰い物が生じれば、貰い物を手に入れて夢中になり、不注意になり、目一杯不注意になります。比丘のみなさん。これを「蓄財を望む比丘は蓄財のためにせっせと努力をし、貰い物を得ると夢中になり、不注意になり、そして正法から離れる」と言います。

 比丘のみなさん。更に比丘が静かな暮らしをしていても、継続して慎みのある行動をしなければ期待が生じます。彼が蓄財のためにせっせと努力をし、貰い物が生じれば貰い物を得たことで悲しみ、苦悩し、嘆き、胸を叩いて泣き、呆けます。比丘のみなさん。これを「貰い物を期待する比丘は、蓄財のためにせっせと努力をし、貰い物があると悲しみ嘆き、そして正法から離れる」と言います。

 比丘のみなさん。更に比丘が静かに暮らしていても、継続して慎みのある行動をしなければ望みが生じます。彼は貰い物のためにせっせと努力をしなくても貰い物が生じ、貰い物を得ることで夢中になり、不注意になり、目一杯油断します。比丘のみなさん。これを「貰い物を期待する比丘が、貰い物のためにせっせと努力をしないで貰い物があると、夢中になり、不注意になり、そして正法から離れる」と言います。

 (この後、反対の意味の四種類の比丘について話されています。つまり、静かな場所に暮らしていて、貰い物を期待して貰い物を得る、あるいは得ない、あるいは夢中になって不注意に陥らない、あるいは悲しみ嘆いて苦にならず、正法から離れない四種類の比丘です。)

 比丘のみなさん。これが世界にいる(静かな場所に暮らしていてもまだ財産を望んでいる)四種類の人です。

増支部アッダカニバータ 23巻302頁151項





ホ その他

四念処ができる人とできない人

 比丘のみなさん。人が平素から体の中の体が見えないのは、六つのダンマを捨てないからです。六つのダンマはどのようでしょうか。六つとは、

 仕事を喜ぶ人であること、

 無駄話を喜ぶ人であること、

 秘密を喜ぶ人であること、

 集団との交際を喜ぶ人であること、

 すべての根を慎まない人であること、

 消費する程度を知らない人であることです。

 比丘のみなさん。この六つのダンマを捨てないから、人は普段から体の中の体が見えない人です。

 (内部、外部、内部と外部の体の中の体が普通に見える人、受の中の受が普通に見える人、心の中の心が見える人、ダンマの中のダンマが見える人になれない人の場合も、すべて同じように話されています)。

 比丘のみなさん。平素から体の中の体が見える人になれるのは、その人が六つのダンマを捨てるからです。六つはどのようでしょうか。六つとは、仕事を喜ぶ人であること、無駄話を喜ぶ人であること、秘密を喜ぶ人であること、集団との交際を喜ぶ人であること、すべての根を慎まない人であること、消費する程度を知らない人です。

 比丘のみなさん。この六つのダンマを捨てることで、人は普段から体の中の体が見える人になります。

 (内部、外部、内部と外部の体の中の体が普通に見える人、受の中の受が普通に見える人、心の中の心が見える人、ダンマの中のダンマが見える人になれる人の場合も、すべて同じように話されています)。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻499頁388項





新米も有学も無学も、念処に励むべき

1.新米

 比丘のみなさん。出家したばかりの、出家して間もない、このダンマヴィナヤに来たばかりの比丘は誰でも、みなさんはそれらの比丘が四念処に励んでその中にいるよう誘うべきです。

 四念処はどのようでしょうか。「おいでなさい先輩。平素から体の中の体が見える人になり、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがある人になりなさい。一つのダンマであるサマーディを現し、明るい心、安定した心があり、体を真実のままに知るための一つだけの感情のある心になさい」と誘うべきです。(受、心、ダンマの場合も同じように話されています)。


2.有学

 比丘のみなさん。それ以上の物がない努力から生じた安全なダンマに、まだ到達していない、まだ心に望みがある有学の比丘は誰でも、その比丘も体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がある人になり、一番のダンマであるサマーディを現し、明るい心安定した心があり、体を知り尽くすための一つだけの感情がある心になさい。(受・心・ダンマを見る場合も同じように話されています)。


3.無学

 比丘のみなさん。梵行が終わり、するべき仕事が成功し、重荷を下ろし、自分の利益に到達し、有のサンニョージャナ(結)がなくなって正しく知ることで解脱した阿羅漢である比丘は誰でも、それらの比丘も、まだ体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がある人になり、一番のダンマであるサマーディを現し、明るい心安定した心があり、体に関わらない人になるための一つだけの感情がある心になさい。

 (受、心、ダンマを見る場合も同じように話されています)。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻194頁691項

(仏教教団員は「阿羅漢になっても、阿羅漢に到達する前に阿羅漢に到達するために実践した、阿羅漢になるためのダンマの実践をする」とある特別な教えについて知るべきです。このようにするのは、まだ阿羅漢に到達していない人への手本であり、気力であり、自分の幸福のためでもあります。

 そしてこの経の場合、かつて執着や喜びや憂いの基盤だった物から離れるためであり、ましてまだ阿羅漢に到達していない人が阿羅漢に到達するために懸命の努力をするべきでないことがどうしてあるか、このような形の教えの不思議な点を見るべきです)。





四念処は無学、有学、在家にもふさわしい

 カンダラカさん。これは本当にそうです。カンダラカさん。これは本当にそうです。遠い昔に存在したすべての阿羅漢サンマーサンブッダは、それらのサンマーサンブッダの方は現在私が比丘サンガを正しく運営しているように、比丘サンガを最高に正しく運営しただけです。

 カンダラカさん。遠い未来のすべての阿羅漢サンマーサンブッダは、今私が比丘サンガを正しく運営しているように、比丘サンガを最高に正しく運営するだけです。

 カンダラカさん。この比丘集団には、梵行が終わり、するべき仕事が成功し、重荷を下ろし、自分の利益に到達し、有の結が終り、正しく知ることで解脱した阿羅漢キーナーサヴァである比丘がいます。カンダラカさん。更にこの比丘集団には、(阿羅漢になるために実践中の)有学である比丘がいて、絶えず戒があり、絶えず品行があり、自分を維持する智慧があり、自分を維持する智慧になる品行があります。

 それらの比丘は(註1)、四つの念処で心を維持しています。四つはどのようでしょうか。四つとは、この場合の比丘は平素から体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。平素からすべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 平素から心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。平素からすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 (世尊がこのように話されると、ペッサハターロープッタが世尊に申し上げました)。

 「不思議です、猊下。今までにありません、猊下。それは世尊がすべての動物の純潔のため、悲嘆を越えるため、苦しみを消滅させるため、ニャーナダンマに到達するため、涅槃を明らかにするために良く規定されたこの四念処です。猊下。白衣をまとっている私たち在家も、それなりの時間、この四念処の中に心を置いています。

 つまり私たち全員は、平素から体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。平素からすべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 平素から心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。平素からすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 不思議です、猊下。今までにありません。猊下。つまり人間が公開する動物でなく、動物のカスであり、自慢する動物である時、世尊はすべての動物の利益になること、ならないことをお知りになりました。猊下。秘された動物は人間たちで、開かれた動物は家畜で、・・・・・・」

中部マッジマバンナーサ 13巻2頁2項

 (タイの先祖が昔したように、在家も四念処をするにふさわしいと認める教えです)。

註1: これは阿羅漢でもまだ有学でも、すべての比丘は四念処に励むという意味です。阿羅漢になってもなぜ四念処に励むのかと疑念があるかもしれません。答えは、その方のそのような安楽のためです。





本当の善の固まりと悪の固まり

 比丘のみなさん。五蓋はどれも悪の固まりと言う人は、正しく言っている人です。比丘のみなさん。悪の固まりは五つの蓋です。五つはどのようでしょうか。五つとは、欲貪、瞋恚、コン(リッシンベンに昏)沈睡眠(眠気と寂しさ)、掉悔(心の浮つきと苦悶)、疑法です。

 比丘のみなさん。四念処は善の固まりと言う人は正しく言う人です。比丘のみなさん。その善の固まりは四念処です。四つは何でしょうか。

 この場合の比丘は普段から体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。(受、心、ダンマの場合も同じように話されています)。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻196頁697項

 (学習者は、悪の固まりについて話す時、一般の人は殺生やいろんな不正を思い浮かべ、善について話す時、一般の人は布施や寄進などを思い浮かべますが、この場合は毎日各人を煩わせている蓋が悪の固まりであり、四念処が善の固まりだと明言されていることを観察して見なければなりません。そしてこの種の善の固まりには、一銭もお金を使わないという興味深い点を熟慮して見てください)。





誰もがするべき救済

 比丘のみなさん。友達でも部下でも親戚血族でも、あなたを「聞き従うべき人」と理解している人たちを援けようと考えるなら、比丘のみなさん。彼らを四念処の中にいるように誘うことで援けなさい。四つの念処はどのようでしょうか。

 この場合は常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。常にすべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 常に心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。常にすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 比丘のみなさん。これが、あなたが誰かを救済しようと考え、その人もあなたを聞き従うべき人と理解しているなら、友達でも部下でも親戚血族でも、あなたはこのように四念処の中にいるよう誘うことで救いなさいという項目です。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻251頁834項

 (一般に物質やお金による救済ばかり考えるので、私たちの親戚友人は苦の中に沈んでいます。このようにダンマによる救済を考えれば、世界はもっと幸福になります)。




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