離れて一人で念処をする人のための重要な教え

 「猊下。世尊にお願い申し上げます。私がそれを聞けば静かな場所に行って一人になり、不注意でない人になり、煩悩を焼く努力があり、高いダンマに自分を追い遣り、そして常にその高い感覚の中にいられるようになるダンマの概要を説明してください。猊下」。

 それはこれと同じです。無益な人たちはあなたが今言ったようなダンマを聞きたいと言い、私がそのダンマを話しても彼らは私について来ようと思うだけです(遠離して一人で実践することに関心がない)。

 「猊下。私が世尊の言葉の内容を理解できる形で、私にダンマの概要を説いてください。世尊が言われた言葉の相続者になります」。

 比丘のみなさん。それならこの場合、あなたはすべての善の初めであるダンマを極めて良く拭いなさい。すべての善の初めは何でしょうか。すべての善の初めであるダンマは、純潔清浄な戒、真っ直ぐなディッティ(見解)です。

 比丘のみなさん。あなたの戒が純潔清浄、真っ直ぐなディッティになったら、あなたは戒を維持し、戒に依存し、そして三つの方法で四念処に励みなさい。三つの方法で四念処に励むとはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合あなたは、常に内部である体の中の体が見える人、煩悩を焼く努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になりなさい。

 そして常に外部である体の中の体が見える人、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になりなさい。常に内部と外部である体の中の体が見える人、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人になりなさい。

 (受・心・ダンマの場合も、同じように話されています)。

 比丘のみなさん。あなたが戒を維持し、戒に依存してこのように三つの方法で四念処に励めば、そのすべての善の発展は、あなたが一日中一晩中期待できることで、衰退することはありません。

 (その比丘は喜んでブッダバーシタを受取って立ち上がり、タクシナ(敬意を表す作法)をして辞去し、一人になって静寂な場所へ行きました。

 そして不注意でなく、煩悩を焼く努力があり、高いダンマに自分を後押しして梵行の終りを明らかにし、生きているうちに最高の智慧で、家を出て出家して家のない人になった良家の子息が望むべき利益であり、それ以上に素晴らしい物がないダンマに到達し、そして常にその高い感覚の中にいました)。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻192頁686項





サティと自覚を平行させる

 比丘のみなさん。比丘は自覚するサティがある人でいるべきです。これはみなさんへの私の教えです。

 比丘のみなさん。サティのある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。常に心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 常にダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。比丘のみなさん。このような人をサティがある比丘と言います。

 比丘のみなさん。自覚がある比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は前進、後退、見ること、振り向く、屈む、伸びる、外衣やチーヴァを維持する、食べる、飲む、噛む、嘗める、排便、排尿、行く、止まる、座る、寝る、眠る、目覚める、話す、黙ることを周到に自覚します。こういうのを、自覚がある比丘と言います。

 比丘のみなさん。自覚があるようなサティのある人でいなさい。これがみなさんへの教えです。

長部マハーヴァッガ 10巻112頁90項





完璧な常自覚の訓練

 比丘のみなさん。励んでたくさんしたサマーディバーヴァナー(サマーディの努力)が当然サティサンパッチャンニャ(常自覚)のためになるのはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合、受が生じて、維持して、消滅したら、それはその比丘にとって明らかな物であり、想が生じて、維持して、消滅したら、それはその比丘にとって明らかな物です。ヴィタッカ(熟考)が生じて、維持して、消滅したら、それがその比丘にとって明らかな物なら、比丘のみなさん。励んでたくさんしたサマーディバーヴァナーは、当然常自覚のためになります。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻58頁41項





常自覚のための直接・間接的訓練

 アーナンダ。アヌサティ(思い起こすこと。隋念)の基盤は幾つありますか。

 「五種類あります、猊下」。

 どんな五種類ですか。

 「猊下。この場合の比丘は愛欲が静まり、悪が静まって、当然ヴィタッカとヴィチャーラ(熟考)、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、ヴィタッカとヴィチャーラが静まることで、心の内面を明るくする物であり、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、一番のダンマであるサマーディが現れ、サマーディから生じた喜悦と幸福しかない二禅に到達します。

 喜悦が薄れることで、彼は平然と注視できる人になり、サティがあり、全身に行き渡った感覚(常自覚)があり、そして名身で幸福を味わい、当然聖人の方々が「到達した人は平然としていられる人で、サティがあり、全身に感覚が行き渡っている」と称賛する三禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。猊下。これがアヌサティの基盤で、人が励んでたくさんすれば、当然現生で幸福になります。

 猊下。まだあります。比丘は心の中をアーロカサンニャー(光明想)にし、「夜は昼のように、昼は夜のように」とディヴァーサンニャー(昼想)を思います。彼はこのように心を開き、何も覆う物がなく、その上発展させる広い光がある心です。これが、人が励んでたくさんすれば当然ニャーナダッサナ(知ること、見ること。智見)を得るアヌサティ(隨念)の基盤です。

 猊下。まだあります。比丘は当然、足の下から頭まで、髪の毛先から下まで、周囲を覆っている皮膚があり、色んな種類の不潔な物がいっぱい詰まっている体を、「この体には髪、体毛、爪、歯、皮膚、肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、筋膜、脾臓、肺臓、腸、直腸、胃の中の食べ物、大便、胆汁、痰、膿、血、汗、脂、涙、リンパ液、涎、唾液、鼻汁、尿がある」と熟慮して見ます。

 猊下。これがアヌサティの基盤で、人が励んでたくさんすれば、当然カーマラーガ(愛欲の貪り。欲貪)を捨てます。

 猊下。まだあります。比丘は、死んで一日か二日か三日経って、腹が膨れ、醜い緑色になり、膿がおぞましく流れている、死体捨て場である墓地に捨てられた死体を見るように、その体を「この体も当たり前にそのようになる。そのような状態になる。そうなることから逃れられない」とこのように引き比べて見るべきです。

 比丘は、死体捨て場である墓地に捨ててある死骸を、カラスの群れがつついて喰っていたり、ハゲタカの群れがつついて喰っていたり、ハゲコウの群れがつついて喰っていたり、犬の群れが齧っていたり、狐の群れが齧っていたり、各種のうじ虫の群れが中から食っていたりするのを見るように、彼はこの体を「この体も当たり前にそのようになる。そのような状態になる。そうなることから逃れられない」とこのように引き比べて見るべきです。

 比丘は死体捨て場である墓地に捨ててある、肉と血があり、まだ繋いでいる腱がある死体、肉はなく、まだ血で汚れている骸骨である死体、肉も血もないけれどまだ腱で繋がっている骸骨、繋いでいる腱がない骨の欠片が四方八方に、つまり手の骨は一方に、足の骨は一方に、脛の骨は一方に、腰の骨は一方に、背骨は一方に、肋骨は一方に、胸骨は一方に、腕の骨は一方に、

肩甲骨は一方に、喉の骨は一方に、顎の骨は一方に、歯は一方に、頭蓋骨は一方に散らばっているのを見るように、彼はこの体を「この体も当たり前にそのようになる。そのような状態になる。そうなることから逃れられない」とこのように引き比べて見るべきです。

 比丘は、死体捨て場である墓地に捨ててある、ほら貝のように真っ白なたくさんの骨の欠片が、一年以上散らばって山になっているのを見るように、この体を「この体も当たり前にそのようになる。そのような状態になる。そうなることから逃れられない」とこのように引き比べて見るべきです。これがアヌサティの基盤で、人が励んでたくさんすれば、当然アスミマーナ(私という慢。我慢)を抜き取ることができます。

 猊下。まだあります。比丘は幸福を捨てることができ、苦を捨てることができ、喜びと憂いが消滅することで苦も幸福もなく、あるのは捨による純潔な自然であるサティだけの四禅に到達し、そしてその高い感覚の中にいます。猊下。これがアヌサティの基盤で、人が励んでたくさんすれば、当然いろんなダートゥの洞察のためになります。猊下。これらが五つのアヌサティの基盤です」。

 善い、善い、アーナンダ。それならあなたはアヌサティの基盤である六つ目を憶えなさい。この場合の比丘は前進するサティ、後退するサティ、立っているサティ、座っているサティ、眠っているサティ、仕事を思うサティがあります。アーナンダ。これは、人が励んでたくさんすれば当然サティと自覚になるアヌサティの基盤です。

増支部チャッカニバータ 22巻360頁300項

 (上の五項目のアヌサティは間接的な常自覚で、弟子の言葉であっても、世尊に話した言葉であり、世尊も容認されているのでブッダバーシタ(ブッダが話したここ)と同じ重みがあると見なし、ここに引用しました。常自覚は、六番目のアヌサティで、明らかにブッダバーシタの意味があります)。





褒められた時、非難された時にサティがあること

非難された時

 比丘のみなさん。私を非難し、ダンマを非難し、サンガを非難する反対派も必ずいます。このような場合みなさんは、そのような人たちを恨んで嫌い、悔しがるべきではありません。

 比丘のみなさん。私を非難し、ダンマを非難し、サンガを非難する反対派も必ずいます。このような場合にみなさんがそのような人たちに腹を立てて不満に思えば、それが原因でみなさんに危険があります。

 比丘のみなさん。私を非難し、ダンマを非難し、サンガを非難する反対派も必ずいます。このような場合、みなさんがそのような人たちに腹を立てて不満に思えば、みなさんは彼の言葉が善い言葉か悪い言葉か知ることができるでしょうか。

 「分かる術はありません、猊下」。

 比丘のみなさん。私を非難し、ダンマを非難し、サンガを非難する反対派も必ずいます。このような場合みなさんは「これは、これこれの理由で事実ではない。これはこれこれの理由でそのようではない。これは私たちにはない。この種のことは私たちの中ではしてはいけない」と、このように真実でないことを真実でないと宣言して分からせるべきです。


褒められた時

 比丘のみなさん。あるいは反対に私を褒め、ダンマを褒め、サンガを褒める側も必ずいます。このような場合みなさんはその称賛の言葉に酔って喜んで心を躍らせるべきではありません。

 比丘のみなさん。反対に私を褒め、ダンマを褒め、サンガを褒める側も必ずいます。このような場合みなさんが酔って喜んで心を躍らせれば、みなさんにそれが原因の危険があります。

 比丘のみなさん。反対に私を褒め、ダンマを褒め、サンガを褒める側も必ずいます。このような場合みなさんは「これはこれこれの理由で事実です。これはこれこれの理由でそうです。このような物は私たちにあり、その種の物は私たちの中にあります」と、真実であることを真実であると知らせる行動をするべきです。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻3頁1項





悪意を抱かれた時にサティがあること

 パッグナさん。あなたを目前で非難する人がいたら、パッグナさん。このような場合あなたは、庶民の領域であるチャンダ(満足して欲しがること。欲貪)とヴィタッカ(熟考)を捨ててしまいなさい。パッグナさん。このような場合、あなたは「私の心は異常にならない。私は下品な言葉で怒鳴らない。その上私は可愛がって支援する人であり、慈しみの心があり、内部に罪はない」とこのように心に留めなければなりません。

 パッグナさん。もしあなたを素手で、石で、棒で、あるいは武器で叩く人がいたら、パッグナさん。そのような場合、あなたは庶民の領域であるチャンダとヴィタッカを捨ててしまいなさい。

 パッグナさん。そのような場合あなたは「この心は異常にならない。下品な言葉で怒鳴らない。自分は可愛がって支援する人であり、慈しみの心があり、内部に罪はない」とこのように心に留めるべきです。パッグナさん。あなたはこのように心に留めなければいけません。

中部ムーラバンナーサ 12巻250頁264項

 (庶民の領域のチャンダとヴィタッカが悪意で攻撃を受けると、復讐や復讐を企てることに満足し、出家の領域のは、同じようにサティがあるようにする、このブッダの言葉のようにします)。





血統の良い馬のように素早いサティをもちなさい

 比丘のみなさん。教戒は、その後その比丘たちにする必要のない物です。それらの比丘たちには、サティが生じる心があるからです。

 比丘のみなさん。良く訓練した血統の良い馬を、必要な道具を揃えて繋いだ車は、お屋敷街の四辻に止めてある車で、勤勉な先生レベルの御者が車に乗れば、左手で手綱を握り、右手で仕置き棒を持って合図である棒を上げるだけで、思いどおりに馬車を前進、あるいは後退できます。同じように比丘のみなさん。その教戒は、その後それらの比丘たちには、その後教える必要のない物です。

 比丘のみなさん。だからこの場合、みなさんは悪を捨ててしまい、すべての善に広く努力なさい。そのようにすることで、みなさんはこのダンマヴィナヤ(法律。この宗教という意味)で発展、成長、繁栄に至ります。

中部ムーラバンナーサ 12 巻251頁265項





聖なる弟子が世界の物と遭遇する時のサティ

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫に財産が生じると、彼は詳細に熟慮して見ないので、「私に財産が生じたが、この財産は無常であり、苦であり、変化するのは当たり前」とこのように真実のままに知りません。

 (財産の減少、階級と階級の降下、悪口と称賛、幸福と不幸の場合も同じように話されています)。

 財産は彼の心を支配し、財産の減少も彼の心を支配し、昇級も彼の心を支配し、降級も彼の心を支配し、悪口も彼の心を支配し、称賛も彼の心を支配し、幸福も彼の心を支配し、苦も彼の心を支配し続けています。

 その凡夫は当然生じた財産を喜び、当然財産の減少を悲しみ、当然生じた昇級を喜び、降級を悲しみ、当然生じた称賛を喜び、非難を悲しみ、当然生じた幸福を喜び、苦を悲しみます。

 彼にはこのように喜びと悲しみがあり、当然生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから脱せません。私は「その人は苦から脱せない」と言います。

 比丘のみなさん。聞いたことがある聖人である弟子に生じた財産は、彼は詳細に熟慮して見るので、「私に生じた財産は無常であり、苦であり、当たり前に変化する」とこのように真実のままに知ります。

 (財産の減少、昇級と降級、悪口と称賛、幸福と不幸の場合も同じように話されています)。

 財産は彼の心を支配せず、財産の減少も彼の心を支配せず、昇級も彼の心を支配せず、降級も彼の心を支配せず、悪口も彼の心を支配せず、称賛も彼の心を支配せず、幸福も彼の心を支配せず、苦も彼の心を支配しません。

 その聖人である弟子は当然生じた財産を喜ばず、当然財産の減少を悲しまず、当然生じた昇級を喜ばず降級を悲しまず、当然生じた称賛を喜ばず、当然非難を悲しまず、当然生じた幸福を喜ばず苦を悲しみません。

 彼はこのように喜びと悲しみを捨ててしまうことができるので、当然生・老・死・嘆き・悲しみ・苦・憂い・すべての悩みから脱します。私は「彼は苦から脱すことができた」と言います。

経末のガーター(詩)

 財産の獲得、財産の減少、昇級、降級、

 悪口、称賛、幸福、苦の八種類は、

 人間集団の無常の物で、

 永遠でなく、当たり前に変化する。

 智慧がありサティがある人は、

 当然、世界の物の当たり前の変化に注目している

増支部アッダカニバータ 23巻159頁96項





ハ 正しいサティの功徳

アーナーパーナサティの通常の功徳

1.二つの功徳

(一一八一頁から一一八四頁の「偉大な成果のあるアーナーパーナサティの仕方」にあるように十六段階のアーナーパーナサティを話された後、アーナーパーナサティの功徳について話されました)。
http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-1.html

 比丘のみなさん。人がアーナー(呼)パーナ(吸)サティ(念)に励んでたくさんすれば、二つの結果のどちらかの功徳が期待できます。つまり生きているうちに阿羅漢果に到達するか、もしくは、まだウパディ(依)が残っていればアナーガミー(不還)になります。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻396頁1311項



2.通常の七つの功徳

 (一一八一頁から一一八四頁の「偉大な成果のあるアーナーパーナサティの仕方」にあるように十六段階のアーナーパーナサティを話された後、アーナーパーナサティの功徳について話されました)。
http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-1.html

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、七つの功徳が期待できます。七つの功徳はどのようでしょうか。七つとは、

1.現生で阿羅漢果に到達する。

2.そうでなければ、死の時に阿羅漢果に到達する。

3.そうでなければ、サンニョージャナ(動物を輪廻に結び付ける煩悩。結)の下五結がなくなって、当然アンタラパリニパージ(寿命半ばで般涅槃する人。中般涅槃者)になる。

4.そうでなければ、サンニョージャナの下五結がなくなって、当然ウパハッチャパリニパージ(亡くなる寸前に般涅槃する人。生般涅槃者)になる。

5.そうでなければ、サンニョージャナの下五結がなくなって、当然アサンカーラパリニッパージ(努力しなくても般涅槃する人。無行般涅槃者)になる。

6.そうでなければ、サンニョージャナの下五結がなくなって、当然ササンカーラパアリニパージ(努力して般涅槃する人。有行般涅槃者)になる。

7.そうでなければ、サンニョージャナの下五結がなくなって、当然ウッダンソトアカニッダガーミー(有頂天に行って般涅槃する人。上流色究竟者)になる。

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、この七つの功徳が当然期待できます。

相応部19巻397頁1314項


3.四念処、七覚支、明、解脱が完璧になる

 比丘のみなさん。人が励んでたくさんすれば、当然四つのダンマを完璧にし、四つのダンマに励んでたくさんすれば、当然七つのダンマが完璧になり、七つのダンマに励んでたくさんすれば、当然二つのダンマが完璧になる一番のダンマがあります。

 比丘のみなさん。アーナーパーナサティは、人が励んでたくさんすれば、当然四つのダンマを完璧にし、四つのダンマに励んでたくさんすれば、当然七つのダンマが完璧になり、七つのダンマに励んでたくさんすれば、当然明と解脱が完璧になる一番のダンマです。

(この後の詳細は、一一九八頁の「アーナーパーナサティが完璧なら四念処も完璧」「四念処が完璧なら当然七覚支も完璧になる」「七覚支が完璧なら、当然明と解脱が完璧になる」を見てください)。
http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-2.html

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻424頁1412項



4.ブッダ自身に現れた功徳

 (「偉大な成果のアーナーパーナサティの仕方」にあるように十六段階のアーナーパーナサティを説かれた後、アーナーパーナサティの功徳を次のように話されました)。
http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/4-8-1.html

 比丘のみなさん。私自身も、まだ私が悟っていない時、まだボーディサッタ(菩薩)だった時、当然、ほとんどこのヴィハーラダンマ(ダンマの住まい)に住んでいました。比丘のみなさん。このヴィハーラダンマにいれば体は苦しくなく、目も苦しくなく、そして心が取で関わらないので、すべての漏から解脱しました。

 比丘のみなさん。だからこのことは、比丘が「私の体は苦しむべきでない。目は苦しむべきでない。心が取で執着しないことですべての漏から解脱するべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきはアーナーパーナサティです。

 (これは、アーナーパーナサティの実践は、他の念処のように体が大変ではなく、目などの妨害がなく、カシナなどを目で注視する必要もないこと、そして心を良く解脱させるという意味です)。



5.家に依存する考えを捨てる

 比丘のみなさん。だからこのことは、比丘が「自分の心にある、家に依存するどんな思いも考えも終わらせるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきはアーナーパーナサティです。

 (これは、アーナーパーナサティは愛欲の考えに傾くのを防ぎ、離欲に傾くだけという意味です)。



6.不浄に関する感覚を管理できる

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は不浄でない物を不浄という識のある人になるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティです。

 (これは、アーナーパーナサティに励むことは、色や臭いでは不浄でないが、マヤカシ、無常、苦、無我、そして苦しか生じさせないという点で、不浄であるサンカーラを熟慮して見る助けになるという意味です)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は不浄な物を不浄でないと見る識がある人になるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティです。

 (これは、アーナーパーナサティは、その不浄物は、本当は臭いや醜い色としては不浄ではないが、幻であること、無常、苦、無我、そして苦を生じさせる点では不浄であるという、正しい知識を生じさせるという意味です。だからおぞましい色や臭いのする物が煩悩や苦を生じさせる原因でなければ、おぞましい色と臭いの物でも不浄ではありません)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は不浄な物も不浄でない物も不浄という識がある人になるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティです。

 (これは、アーナーパーナサティのサティとニャーナ(知ること)は、苦を生じさせる厭わしい物を通常不浄と見なす物と、不浄でないと見なす物のどちらにもあると見ることができるという意味です。言い方を変えれば、不浄な物も不浄でない物も、それを自分と、あるいは自分の物と捉えるべきではないという意味です)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は、不浄な物も不浄でない物も不浄でないという識がある人になるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティです。

 (これは、空を見させる高いレベルのアーナーパーナサティのサティとニャーナは、当然不浄な物も不浄でない物も、同じように平然としていることができるという意味です)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は不浄という感覚と不浄でないという感覚のどちらも厳格に避けてしまい、捨にいる人になり、サティと自覚があるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティでです。

 (これは、完璧なサティと自覚があり、そして本当のウベカー(捨)にいる段階には、当然不浄という感覚、不浄でないという感覚のどちらもないという意味です。特に高い段階のアーナーパーナサティ、つまり第四部の結果は、自分がないこと、あるいは執着の基盤としての意味がないことを、本当にすべて見せるという意味です)。



7.四つの形禅定を得させる原因

 比丘のみなさん。だからこれは「私はすべての愛欲が静まり、すべての悪が静まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟慮熟考)と、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福のある初禅に到達した人になり、そして常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、アーナーパーナサティは、望みどおり初禅を生じさせるという意味です)。

 比丘のみなさん。だからこれは「私はヴィタッカ・ヴィチャーラが静まり、ヴィタッカ・ヴィチャーラがなく、遠離から生じた喜悦と幸福があり、心の内部を明るくする物である二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、アーナーパーナサティは望みどおり二禅を生じさせるという意味です)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が喜悦が静まることで、捨にいて、サティがあり自覚があり、名身で幸福を味わい、聖人方が、捨にいる人はサティがあり自覚があると言われる三禅に到達した人になり、常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、アーナーパーナサティは望みどおり三禅を生じさせるという意味です)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「苦と幸福を捨てることができ、過去の喜びと憂いを捨てることで、苦も幸福もなく、あるのは捨によって純潔なサティだけの四禅に到達し、そして常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、アーナーパーナサティは望みどおり四禅に到達させるという意味です)。



8.四つの無形禅定を得させる原因

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「形想をすべて越えることができ、すべての瞋恚想が消滅して、心の中をいろんな想にしないことで心の中を無限の空にする空無辺処に到達し、そして常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、アーナーパーナサティは形禅定を生じさせることができ、ニミッタ、つまり呼吸を明らかに意識し、ニミッタから呼吸を抜き取り、代わりに空を残し、そしてその空をここでの一時的な無形の感情として維持すれば、空無辺処を生じさせることができるという意味です。このようにしても、その空無辺処はアーナーパーナサティと直接関わっていると言うことができます。

 無形禅定を十六の段階があるアーナーパーナサティに入れるなら、第四段階であるカーヤサンカーラを鎮める所に入れるべきです。冒頭で述べてきた限りでは、無形禅定に関した言及はありません。特に漏を消滅させるアーナーパーナサティの直接の目的ではないからです)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は空無辺処をすべて越え、心の中を無限の識にする識無辺処に到達し、そして常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、述べたような空無辺処が安定して生じるようにしてしまい、それから空を意識することを抜いて、識を意識するという意味です。形のない識を意味し、それは形のない名界であり、ナーマダートゥ、あるいはナーマダンマと規定されます。アーナーパーナサティに続いてするので、アーナーパーナサティで達成すると言います)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は識無辺処をすべて越え、心の中を無にする無所有処に到達し、そして常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、識無辺処が安定して生じるようになったら、無限の識という感情を抜き出して、代わりに無を感情にするという意味です。アーナーパーナサティが基礎にあるので、アーナーパーナサティで達成すると言います)。

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は無所有処をすべて越え、心の中を無にする非想非非想処に到達し、そして常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、無所有処が安定して生じるようになったら、何もないことを感情として意識することを抜き出してしまい、益々緻密になっていく静かさを引き止めるという意味です。つまり何も感じないことですが、昏倒でも死でもないので、非想非非想処と呼びます。識があるというのでもなく、識がないと言うのでもなく、アーナーパーナサティの四つの段階が基礎にあるので、アーナーパーナサティで達成すると言います。

 もう一つ、無形禅定の時、直接呼吸をすることがなくても、間接的に呼吸があると見なさなければなりません。つまり感じません。前の段階で、すべての呼吸に何らかの物を意識する熟練、あるいは習慣があるので、当然無形の感情と無形禅定から生じる静けさを意識することから、自覚するのと自覚しないのと、直接、間接のすべての呼吸ごとに、無形のすべての状態を熟慮、あるいは判別する、と言うことができます)。



9.想受滅を得る原因

 比丘のみなさん。だからこれは、比丘が「私は非想非非想処をすべて越えることで、想受滅に到達し、常にその感覚の中にいるべきだ」と望むなら、その比丘が心の中を良くしておくべきは、アーナーパーナサティサマーディです。

 (これは、非想非非想処を安定して生じさせられるようになったら、非想非非想処の感覚を捨て、更に静かさに心を傾けます。つまり想という心所と受に何も働きをさせないことで想と受を滅してしまうので、普通の想と受の感覚は現れないという意味です。

 それを想受滅と言い、その間中想と受は消滅しています。略して滅禅定に入った、あるいは滅に入ったと言います。この行動はアーナーパーナサティから始めるので、アーナーパーナサティで達成すると言います)。

 すべてはアーナーパーナサティは直接漏を終わらせる道具として使うだけでなく、心の面になる実践、あるいはサマタで想受滅に至るまでの実践として使うこともできます。どちらになると言う必要はありませんが、どの系統の実践にとっても一般的な利益があります。つまりアーナーパーナサティで暮らすことは体が苦しくなく、目も苦しくないので、自分自身の最高の休息と見なし、アーナーパーナサティの功徳の一部と見なします。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻400頁1327項




10.四方の悪を退治できる

 アーナンダ。大きな道の四辻にある大きな埃の固まりは、「東から牛車や車が来ると粉々になり、西から牛車や車が来ると粉々になり、北から牛車や車が来ると粉々になり、西から牛車や車が来ると粉々になるように、

アーナンダ。人が常に普通に体の中の体が見えれば、当然、本当にすべての罪悪を駆除でき、人が常に普通にすべての受の中の受が見えれば、当然すべての罪悪を本当に駆除することができ、人が常に普通にすべてのダンマの中のダンマが見えれば、当然すべての罪悪を本当に駆除することができます。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻411頁1362項





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