ヴェーダーヌパッサナーの形のサティをする

1.アーナーパーナサティ経の意味

 比丘のみなさん。比丘は

(1)当然ピーティ(喜悦)を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、当然喜悦を知り尽した人になることを課題にして、息を吐き、

(2)当然スッカ(幸福)を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、当然スッカを知り尽した人になることを課題にして、息を吐き、

(3)当然チッタサンカーラ(心行。受)を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、当然チッタサンカーラを知り尽した人になることを課題にして、息を吐き、

(4)当然チッタサンカーラを静めた人になることを課題にして、息を吸い、当然チッタサンカーラを静めた人になることを課題にして、息を吐く時はいつでも、

比丘のみなさん。その時比丘は常にすべてのヴェーダナー(受)の中のヴェーダナーが見え(註1)、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。私は当然、吸う息と吐く息に関連させて心の中を良くすることを、すべてのヴェーダナーの中のヴェーダナーと言います。比丘のみなさん。だからこれは、その比丘は当然、常にすべてのヴェーダナーの中のヴェーダナーが見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

14巻196頁289項

註1: 上で述べた体の中の体を見る方法と同じように見ますが、この場合は受、つまり喜悦と幸福を見ます。





大念処経の意味

 比丘のみなさん。受の中の受が見える人はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は

(1)幸福の受を味わえば当然「幸福である受を味わっている」とハッキリと知り、
(2)苦の受を味わえば「苦である受を味わっている」とハッキリと知り、
(3)苦でも幸福でもない受を味わえば「苦でも幸福でもない受を味わっている」とハッキリと知り、
(4)アーミサ(餌)のある幸福の受を味わう時は「アーミサのある幸福を味わっている」とハッキリと知り、


(5)アーミサのない幸福の受を味わっている時は「アーミサのない幸福の受を味わっている」とハッキリと知り、
(6)アーミサで経過する苦である受を味わっている時は「アーミサのある苦である受を味わっている」とハッキリと知り、
(7)アーミサのない苦である受を味わっている時は「アーミサのない苦である受を味わっている」とハッキリと知り、
(8)アーミサがある苦でも幸福でもない受を味わっている時は「アーミサがある不苦不幸受を味わっている」とハッキリと知り、
(9)アーミサのない苦でも幸福でもない受を味わっている時は「アーミサのない不苦不幸受を味わっている」とハッキリ知ります。

 このような状態で、比丘が平素から受を熟慮して見るのは、内部であるすべての受もあり、外部であるすべての受もあり、内部と外部であるすべての受であることもあります。そして平素からダンマを熟慮して見る人である比丘は、(この)すべての受の中の(受)が生じる原因であるダンマを見ることもあり、(この)すべての受の中の(受)の衰退の原因であるダンマを見ることもあります。

 だからその人の「受がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、彼は、本当は欲望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。

 比丘のみなさん。すべての受の中の受が見える人と呼ばれる人はこのようです。

10巻332頁288項





チッターヌパッサナーの形のサティをする

1.アーナーパーナサティ経の意味

 比丘のみなさん。比丘は

(1)当然心を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、当然心を知り尽した人になることを課題にして、息を吐き、

(2)当然心を喜ばすことを課題にして、息を吸い、当然心を喜ばすことを課題にして、息を吐き、

(3)当然心を更に安定させることを課題にして、息を吸い、当然心を安定させることを課題にして、息を吐き、

(4)当然心を放した人になることを課題にして、息を吸い、当然心を放す人になることを課題にして、息を吐く時はいつでも、

比丘のみなさん。その時その比丘は、常に心の中の心が見え(註1)、煩悩を焼く努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。私は、アーナーパーナサティはサティを忘れている人、自覚のない人にあると言いません。比丘のみなさん。だからこれは、比丘は当然、常に心の中の心が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

14巻196頁289項

註1: 体の中の体を見る方法と同じように見ますが、ここでは心を見ます。





大念処経の意味

 比丘のみなさん。この場合の比丘は

(1)貪りのある心を「心に貪りがある」とハッキリと知り、
(2)貪りのない心を「心に貪りがない」とハッキリと知り、
(3)怒りのある心を「心に怒りがある」とハッキリと知り、
(4)歓喜のある心を「心に歓喜がある」とハッキリと知り、

(5)愚かさのある心を「心に愚かさがある」とハッキリと知り、
(6)愚かさのない心を「心に愚かさがない」とハッキリと知り、
(7)委縮した心を「委縮した心」とハッキリと知り、
(8)散漫な心を「散漫な心」とハッキリと知り、

(9)偉大さに達した心を「偉大さに達した心」とハッキリと知り、
(10)偉大さに達していない心を「偉大さに達していない心」とハッキリと知り、
(11)最高に良い別の心がある心を「心に最高に良い別の心がある」とハッキリと知り、
(12)最高に良い別の心がない心を「心に最高に良い別の心がない」とハッキリと知り、

(13)安定した心を「安定した心がある」とハッキリと知り、
(14)安定していない心を「心が安定していない」とハッキリと知り、
(15)解脱した心を「解脱した心がある」とハッキリと知り、
(16)解脱していない心を「心は解脱していない」とハッキリと知ります。

 このような状態で、平素から心を熟慮する人である比丘が見るのは、内部である心もあり、外部である心もあり、内部と外部である心であることもあります。そして平素から心を熟慮する人である比丘は(この)心の中に(心が)生じる原因であるダンマを見ることもあり、(この)心の中で(心が)消滅する原因であるダンマを見ることもあり、(この)心の中で(心が)生滅する原因であるダンマを見ることもあります。

 だからその人の「心がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は欲望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。

 比丘のみなさん。すべての心の中の心が見える人と呼ばれる人はこのようです。

10巻334頁289項





ダンマーヌパッサナーの形のサティをする


アーナーパーナサティ経の意味

 比丘のみなさん。比丘のみなさん。比丘は

(1)当然、常に無常が見える人になることを課題にして、息を吸い、当然常に無常が見える人になることを課題にして、息を吐き、

(2)当然常に薄れるのが見える人になることを課題にして、息を吸い、当然常に薄れるのが見える人になることを課題にして、息を吐き、当然心を喜ばすことを課題にして息を吐き、

(3)当然常に消滅が見える人になることを課題にして、息を吸い、当然常に消滅が見える人になることを課題にして、息を吐き、

(4)当然常に返却が見える人になることを課題にして、息を吸い、当然常に返却が見える人になることを課題にして、息を吐く時はいつでも、比丘のみなさん。その時その比丘は、常に心の中の心が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。私は、アーナーパーナサティはサティを忘れている人、自覚のない人にあると言いません。比丘のみなさん。だからこれは、比丘は当然常にダンマの中のダンマが見え(註1)、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。その比丘は、すべての喜びと憂いを智慧で捨てたのを見て、良く注視する人です。比丘のみなさん。だからこれは、その比丘は当然、常にすべてのダンマの中のダンマが見え、その時煩悩を焼く努力がり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と言われます。

14巻196頁289項

註1: 何にも執着しなくなるまで、最も低い物から最高の涅槃まですべてのダンマの中のダンマの真実を見ます。




大念処経の意味


 比丘のみなさん。常にすべてのダンマの中のダンマを熟慮して見える人はどのようでしょうか。

イ 蓋(つまりダンマ)

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、常にすべてのダンマの中のダンマ、つまり熟慮して五種類の蓋が見える人です。比丘のみなさん。常にすべてのダンマの中のダンマ、つまり熟慮して五種類の蓋が見える人である比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、

 内部にあるカーマチャンダ(愛欲を貪ること。欲貪)を「ある」とハッキリと知り、

 内部にないカーマチャンダ(欲貪)を「ない」とハッキリと知り、

 まだ生じていない愛欲の貪りがどう生じたかをハッキリと知り、

 生じた愛欲の貪りをどう捨てたかをハッキリと知り、

 捨てた愛欲の貪りが二度と生じないのを、どう二度と生じないかハッキリと知り、

 (五蓋の場合、瞋恚、こん沈睡眠=眠気と寂しさ、掉悔=興奮と後悔、疑法の場合も欲貪の場合と同じように話されています)。

 このような状態で、比丘が平素から熟慮して見るのは、内部であるすべてのダンマの中のダンマもあり、外部であるすべてのダンマもあり、内部と外部であるすべてのダンマであることもあります。

 そして平素からダンマを熟慮して見る人は(この)ダンマの中に(ダンマが)生じる原因であるダンマを見ることもあり、(この)すべてのダンマの中で(ダンマが)消滅する原因であるダンマを見ることもあり、(この)ダンマの中で(ダンマが)生滅する原因であるダンマを見ることもあります。

 だからその人の「ダンマがある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は欲望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。すべてのダンマの中のダンマが見える人と呼ばれる人はこのようです。

10巻334頁289項





ロ 蘊(つまりダンマ)

 比丘のみなさん。まだあります。比丘が普通にすべてのダンマの中のダンマ、つまり五取蘊を熟慮して見る人です。比丘のみなさん。比丘はどのように普段からすべてのダンマの中のダンマ、つまり五取蘊を熟慮して見える人でしょうか。比丘のみなさん。

 この場合の比丘は当然「形はこのよう、形を生じさせる原因はこのよう、形の消滅はこのよう、形の消滅に至る道はこのよう。受はこのよう、受が生じる原因はこのよう、受の消滅はこのよう、受の消滅に至る道はこのよう。想はこのよう、想が生じる原因はこのよう、

想の消滅はこのよう、想の消滅に至る道はこのよう。行はこのよう、行が生じる原因はこのよう、行の消滅はこのよう、行の消滅に至る道はこのよう。識はこのよう、識が生じる原因はこのよう、識の消滅はこのよう、識の消滅に至る道はこのよう」と熟慮して見ます。

 このように比丘が平素からダンマを熟慮して見るのは、内部のすべてのダンマもあり、外部のダンマもあり、内部と外部のダンマであることもあります。そして平素からダンマを熟慮して見る人は(この)受の中に(ダンマが)生じる原因であるダンマを見ることもあり、(この)ダンマの中で(ダンマが)消滅する原因であるダンマを見ることもあり、(この)受の中で(受が)生滅する原因であるダンマを見ることもあります。

 だからその人の「ダンマがある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は欲望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。すべてのダンマの中のダンマが見える人と呼ばれる人はこのようです。




ハ 処入(つまりダンマ)

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は平素からすべてのダンマの中のダンマ、つまり六つの内処入と外処入を熟慮して見る人です。平素からすべてのダンマの中のダンマ、つまり六つの内処入と外処入を見る人である比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、

  目を明らかに知り、

  すべての形を明らかに知り、

  目と形に依存して生じるサンニョージャナ(輪廻に結びつける煩悩。結)を明らかに知り、

  まだ生じていないサンニョージャナがどう生じるかを明らかに知り、

  生じているサンニョージャナをどう捨てるかを明らかに知り、

  捨てたサンニョージャナがどのように再び生じないかを明らかに知ります。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も、同じように話されています)。

 このように比丘が平素からダンマを熟慮して見るのは、内部のすべてのダンマのこともあり、外部のすべてのダンマのこともあり、外部と内部のすべてのダンマのこともあります。

  そして平素からダンマを熟慮して見る人は(この)ダンマの中に(ダンマが)生じる原因であるダンマを見ることもあり、(この)ダンマの中で(ダンマが)消滅する原因であるダンマを見ることもあり、(この)ダンマの中で(ダンマが)生滅する原因であるダンマを見ることもあります。

 だからその人の「ダンマがある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は欲望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。すべてのダンマの中のダンマが見える人と呼ばれる人はこのようです。




ニ 七覚支(つまりダンマ)

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は平素からすべてのダンマの中のダンマ、つまり七種類の覚支を熟慮して見る人で、比丘は平素からすべてのダンマの中のダンマ、つまり七覚支が見える比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、

  内部にある七覚支のサティを、あると明らかに知り、

  内部にない七覚支のサティを、ないとを明らかに知り、

  まだ生じていない七覚支のサティが、どう生じるかを明らかに知り、

  生じている七覚支のサティの最高の発展を、どう最高に発展するかを明らかに知ります。

 (七覚支の択法、七覚支の精進、七覚支の喜悦、七覚支の軽安、七覚支のサマーディの場合も、同じように話されています)。

 このように比丘が平素からダンマを熟慮して見るのは、内部のすべてのダンマのこともあり、外部のすべてのダンマのこともあり、外部と内部のすべてのダンマのこともあります。

 そして平素からダンマを熟慮して見る人は(この)ダンマの中に(ダンマが)生じる原因であるダンマを見ることもあり、(この)ダンマの中で(ダンマが)消滅する原因であるダンマを見ることもあり、(この)ダンマの中で(ダンマが)生滅する原因であるダンマを見ることもあります。

 だからその人の「ダンマがある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は欲望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。すべてのダンマの中のダンマが見える人と呼ばれる人はこのようです。




四聖諦(つまりダンマ)

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は平素からすべてのダンマの中のダンマ、四つの聖諦を熟慮して見る人です。平素からすべてのダンマの中のダンマ、つまり四聖諦が見える比丘はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。

1.苦諦

 比丘のみなさん。苦である聖諦はどのようでしょうか。生まれることも苦、老いも苦、死も苦、悲しみ、嘆き、体の苦、心の苦、困窮も苦、愛していない人と混じることも苦、愛している人と離れるのも苦、望んで叶わないのも苦、要するに執着の基盤である五蘊は苦です。

 比丘のみなさん。生はどのようでしょうか。(この後の詳細は129頁の「詳細に説かれた四聖諦」を参照してください)。http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/0-6.html

2.苦集諦

 比丘のみなさん。苦を生じさせる原因である聖諦はどのようでしょうか。欲望は何でも、普通に再び生まれさせ、陶酔の威力による欲情で経過し、その感情に最高に陶酔します。これが愛欲、有欲、無有欲です。

 比丘のみなさん。欲望が生じる時は、当然どこに生じ、存在する時はどこで存在するのでしょうか。世界の愛らしい状態、喜ばしい状態がある物は何でも、欲望が生じる時は、それに生じ、存在する時はそれに存在します。(この後の詳細は、129頁の「詳細に説かれた四聖諦」を参照してください)。http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/0-6.html

3.苦滅諦

 比丘のみなさん。苦の消滅である聖諦はどのようでしょうか。欲望が残らず緩むこと、残らず消滅すること、捨てること、振り払うこと、通り過ぎること、未練がないことです。

 比丘のみなさん。欲望を捨てる時はどこで捨て、消滅する時はどこで消滅するのでしょうか。世界の愛らしい状態がある物、喜ばしい状態がある物、人が欲望を捨てる時は、当然それで捨て、消滅する時は当然それで消滅します。(この後の詳細は129頁の「詳細に説かれた四聖諦」を参照してください)。http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/0-6.html

4.苦滅道諦

 比丘のみなさん。苦の消滅に至る道である聖諦はどのようでしょうか。それは八項目の素晴らしい道です。八項目とは、正しい見解、正しい考え、正しい言葉、正しい業、正しい生業、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディです。

 比丘のみなさん。正しい見解はどのようでしょうか。比丘のみなさん。苦の知識、苦を生じさせる原因の知識、苦の消滅の知識、苦の消滅に至る道の知識です。(この後の詳細は129頁の「詳細に説かれた四聖諦」を参照してください)。http://buddhadasa.hahaue.com/siseitai/0-6.html

 このように比丘が平素からダンマを熟慮して見るのは、内部のすべてのダンマのこともあり、外部のすべてのダンマのこともあり、外部と内部のすべてのダンマのこともあります。

 そして平素からダンマを熟慮して見る人は、(この)ダンマの中に(ダンマが)生じる原因であるダンマを見ることもあり、(この)ダンマの中で(ダンマが)消滅する原因であるダンマを見ることもあり、(この)ダンマの中で(ダンマが)生滅する原因であるダンマを見ることもあります。

 だからその人の「ダンマがある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、本当は、彼は欲望とディッティが住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。すべてのダンマの中のダンマが見える人と呼ばれる人はこのようです。

10巻335頁290項





心を念処で維持する方便

 アーナンダ。これはあなたの言うとおりです。アーナンダ。これはあなたの言うとおりです。比丘や比丘尼の誰でも心が四念処で安定していれば、その比丘、または比丘尼が期待できるのは、既に到達している徳より更に偉大な徳に到達することです。四念処とはどのようでしょうか。

 アーナンダ。この場合の比丘は平素から体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人で、その時彼は体の中の体が見えています。体に生じる身体の感情がある焦燥でも、心の委縮が生じるのでも、心が外部に飛散するのでも、アーナンダ。その比丘は、心を何らかの喜びの基盤であるニミッタにしておくべきです。

 彼が心を何らかの喜びの基盤であるニミッタにしておけば、当然歓喜が生じ、心に歓喜がある人は当然喜悦が生じ、心に喜悦がある人の体は当然静まり、体が静まった人は当然幸福を味わい、幸福のある人の心は当然安定します。

 その比丘は当然「心を、何らかの自分の利益になるようにできた。それなら今私は、(喜びの基盤であるニミッタで維持されている心を)抜こう」と熟慮して見ます。だからその比丘は抜き、ヴィタッカ(継続した考え)をせず、ヴィチャーラ(気にかけて置くこと)をせず、「今私はヴィタッカもなく、ヴィチャーラもなく、内面の幸福であるサティがある」と明らかに知ります。

 (受と心とダンマの場合も、同じように話されています)。

 アーナンダ。こういうのを、バーヴァナーは当然心を維持することによってあると言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻207頁716項





四念処をする時の注意事項

 アッギヴェッサナさん。比丘にサティと自覚があれば、如行は当然彼に「おいでなさい比丘。あなたは静かな住まい、つまり林、木の根元、山、谷間、洞窟、墓地、密林、野外、あるいは藁の山に住みなさい」と、提言します。

 その比丘が当然静寂な住まいに住み、托鉢から戻ったら、食後は結跏趺坐して体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据え、彼は当然世界の喜びを捨て、喜びのない心があり、絶えず心の喜びを拭おうと待ち構えています。怒りを捨て、怒りのない心があり、すべての動物を援けたいと望む心がある憐れみの人で、常に心の怒りを拭おうと待ち構えています。

 こん沈睡眠(眠気と寂しさ)を捨て、こん沈睡眠のない心があり、心の明るさだけを目指し、サティと自覚があり、常に心のこん沈睡眠を拭おうと待ち構えています。掉挙悪作を捨て、散漫でなく内面が静まった心があり、常に心の掉挙悪作を拭おうと待ち構えています。疑法を捨て、疑法を越えてしまうことができ、すべての善を「これは何? これはどう?」と疑念で聞く必要がなく、常に心から疑法を拭おうと待ち構えています。

 その比丘が、心を憂鬱にし智慧の力を衰えさせる五蓋を捨てれば、彼は平素から体の中の体が見える人で、平素からすべての受の中の受が見える人で、平素から心の中の心が見える人で、平素からすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 如行は当然彼に、更に、

 「おいでなさい比丘。あなたは平素から体の中の体が見える人におなりなさい。しかし体があるヴィタッカ(考え)をしてはいけません。

 おいでなさい比丘。あなたは平素からすべての受の中の受が見える人におなりなさい。しかし受があるヴィタッカをしてはいけません。

 おいでなさい比丘。あなたは平素からすべての心の中の心が見える人におなりなさい。しかし心のあるヴィタッカをしてはいけません。

 おいでなさい比丘。あなたは平素からすべてのダンマの中のダンマが見える人におなりなさい。しかしダンマのあるヴィタッカをしてはいけません」とこのように忠告します。

 その比丘が、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(継続して考えること)が静まることで、心の内面を明るくする物であり、一つだけ現れるダンマであるサマーディ(三昧)を生じさせ、ヴィタッカ・ヴィチャーラはなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。

 (パーリの至る所で述べられているように、三禅、四禅、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処についても述べられています)。

中部ウパリバンナーサ 14巻268頁396項

 (四念処に励む注意点は、体などの四念処の感情を、五つの定の一つの定であるヴィタッカの感情にしないと言うのは、ヴィタッカと呼ぶものは初禅から二禅に移行する時、あるいはヴィタッカのない高い定に移る時に捨てなければならないからです。

 体などをヴィタッカの感情にすると、いつでも熟慮していなければならないので定の移動ができません。だから体をヴィタッカの感情にしないで、ヴィパッサナーの感情として熟慮するべきです。そうすればこのブッダヴァチャナで述べられているようにバーヴァナー(修行)に励むことができます。それは直接四念処をすることでもあります)。





カーヤガターサティは根律儀の道具

イ カーヤガターサティがないことの害

 比丘のみなさん。棲む場所が違い、餌を探す場所が違う六種類の動物を捕えて、丈夫な紐で縛ります。ヘビ、ワニ、鳥、犬、狐、猿を捕まえて、それぞれを丈夫な紐で繋いで、全部の紐を一つに結んで放します。比丘のみなさん。

 六種類の動物は棲む場所と餌を探す場所が違うので、その時自分が棲む場所、餌を探す場所へ行くために引っ張り合い、ヘビは巣穴へ向かおうとし、ワニは水へ行こうとし、鳥は空へ飛び立とうとし、犬は村へ行こうとし、狐は墓地へ行こうとし、猿は森へ行こうとし、六種類全部が疲れ果てた時、一番力が残っている動物が、他の動物を引っ張っていくのと同じです。

 比丘のみなさん。同じようにカーヤガターサティ(サティを体に行き渡らせる。身至念)の訓練をたくさんしていない比丘は誰でも、眼は満足できる形を求めてその比丘を引っ張り、不満な形は鬱陶しく厭わしい物になり、耳は満足する声を求めてその比丘を引っ張り、満足できない声は厭わしい物になり、鼻は好ましい臭いを求めてその比丘を引っ張り、

嗅ぎたくない臭いは厭わしい物になり、舌は好ましい味を求めてその比丘を引っ張り、好ましくない味は厭わしい物になり、体は魅惑的な接触を求めてその比丘を引っ張り、魅惑的でない接触は厭わしい物になり、そして心は好ましい考えを求めてその比丘を引っ張り、不満な考えは厭わしい物になります。



ロ カーヤーガターサティの恩恵

 比丘のみなさん。比丘のみなさん。棲む場所が違い、餌を探す場所が違う六種類の生物を捕えて、丈夫な紐で縛ります。つまりヘビ、ワニ、小鳥、犬、狐、猿を捕まえて、それぞれを丈夫な紐で繋ぎ、それを頑丈な杭や柱に結わえておくと、比丘のみなさん。六種類の生物は棲む場所と餌を探す場所が違うので、その時自分が棲む場所、餌を探す場所へ行くために引っ張り合います。

 ヘビは巣穴へ向かおうとし、ワニは水へ行こうとし、鳥は空へ飛び立とうとし、犬は村へ行こうとし、狐は墓地へ行こうとし、猿は森へ行こうとします。六種の類動物すべてが疲れ果てた時、どれも杭または柱の周りにしょんぼり立ち、しょんぼり座り、しょんぼり寝転んでいます。

 比丘のみなさん。同じようにカーヤガターサティ(身至念)の訓練をたくさんしている比丘は誰でも、眼は満足できる形を求めてその比丘を引っ張らず、不満な形も厭わしい物にならず、耳は満足する声を求めてその比丘を引っ張らず、満足できない声も厭わしい物にならず、鼻は好ましい臭いを求めてその比丘を引っ張りません。

 嗅ぎたくない臭いも厭わしい物にならず、舌は好ましい味を求めてその比丘を引っ張らず、好ましくない味も厭わしい物にならず、体は魅惑的な接触を求めてその比丘を引っ張らず、魅惑的でない接触も厭わしい物にならず、そして心は好ましい考えを求めてその比丘を引っ張らず、不満な考えも厭わしい物になりません。

 比丘のみなさん。杭や柱というのは、カーヤガターサティ(身至念)の代名詞です。

 比丘のみなさん。だからこれはみなさん、「私はすべてのカーヤガターサティをたくさん練習して、乗り物にし、住める物にし、継続させる努力をし、注意深く増やす努力をし、いつでも始める努力をする」と心に留めなければなりません。比丘のみなさん。このように心に留めておきなさい。

相応部サラーヤタナヴァッガ 18巻246頁348項





著作目次へ ホームページへ 次へ