アーナーパーナサティが完璧なら四念処も完璧

 比丘のみなさん。人がどのようにアーナーパーナサティ(呼吸念処)に励んでたくさんすれば、四念処が完璧になるでしょうか。比丘のみなさん。

(1)比丘が長く息を吸った時、長く息を吸った」と余すところなく自覚し、長く息を吐いた時、「長く息を吐いた」と余すところなく自覚するのでも、

(2)短く息を吸った時、「短く息を吸った」と余すところなく自覚し、短く息を吐いた時、「短く息を吐いた」と余すところなく自覚するのでも、

(3)当然余すところなくの体を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(4)当然、カーヤサンカーラ(この場合は呼吸)を静めた人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

 比丘のみなさん。その時その比丘は常に体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と言われます。比丘のみなさん。私は当然「呼気吸気は、(それぞれが)すべての体の中の一つ一つの体」と言います。比丘のみなさん。だからこの場合その比丘は、当然「常に体の中の体が見える人」と呼ばれます。

 (ブッダが呼吸を体と呼ばれたので、四つの段階の呼吸を意識することを「体の中の体」と呼び、呼吸を意識し熟慮していれば、「すべての体の中の体を意識し熟慮している」と言われます。これをカーヤーヌパッサナーサティパッターナ(身随念処)と言い、サティパターナ(念処)の第一部です)。


 比丘のみなさん。比丘が

(5)喜悦を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(6)当然幸福を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(7)当然チッタサンカーラ(受と想)を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(8)当然チッタサンカーラを静めた人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

 比丘のみなさん。その時その比丘は、常にすべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と呼ばれます。

 比丘のみなさん。息を吐いても息を吸っても、心の中を良くすることを、私は当然「すべてのヴェーダナー(受)の中の一つ一つのヴェーダナー」と言います。比丘のみなさん。だからこの場合、その比丘は当然「常にすべての受の中の受が見える人」と呼ばれます。

 (呼吸を意識することから生じるいろんな感覚を、ブッダが言われているようにヴェーダナーと呼びます。だからそれらの感覚を意識することを「ヴェーダナーを意識する」と言います。ブッダの言葉でヴェーダーヌパッサナーサティパッターナ(受随念処)と言い、念処の第二部です)。


 比丘のみなさん。比丘が

(9)当然心を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(10)当然心を最高に喜ばす人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(11)当然心を安定させた人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(12)当然心を放した人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

 比丘のみなさん。その時その比丘は「常に心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人」と呼ばれます。比丘のみなさん。私は、アーナーパーナサティはサティを忘れた人、自覚がない人にあると言いません。比丘のみなさん。だからこの場合は比丘のみなさん。当然「常に心の中の心が見える人」と呼ばれます。

 (サティを忘れた人、自覚がない人を「心がない人」と言い、当然サティまたは心で意識するアーナーパーナサティを意識できません。これをブッダの言葉でチッターヌパッサナーサティパターナ(心随念処)と言い、念処の第三部です)。


 比丘のみなさん。

(13)当然常に無常が見える人であることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(14)当然常に緩むことが見える人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(15)当然消滅が見える人になることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、

(16)当然返却が見える人であることを課題にして、息を吸い、息を吐くのでも、


 比丘のみなさん。その時その比丘は「常にすべてのダンマの中のダンマが見える人であり、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人」と呼ばれます。比丘のみなさん。その比丘は智慧で自分の喜びと憂いが見えるので、良い注目だけをする人です。比丘のみなさん。だからこの場合その比丘は、当然「常にすべてのダンマの中のダンマが見える人」と呼ばれます。

 (不変でない状態、薄れること、消滅、そして返却が見えることでも、無常・苦・無我、あるいは空の状態でも、初めの段階のすべての状態が見える結果である、煩悩から解脱する状態でも、どれもこの場合ダンマと呼びます。

 ブッダはこの部の実践の結果をダンマとされたので、喜びと憂いを捨ててしまうことを、この場合の比丘が見ている物とされ、そしてそれをダンマの中のダンマと規定されました。ブッダの言葉でダンマヌパッサナーサティパターナ(法随念処)と言い、念処の第四部です)。


 比丘のみなさん。人がアーナーパーナサティにこのように励んでたくさんすれば、当然四つの念処も完璧になります。

中部ウパリバンナーサ 14巻195頁189項

 (すべてはアーナーパーナサティの16の物、あるいは四念処は何らかの状態で、同時に自分の中にあるということを説明して見せています。その後ブッダは、その四念処がどう七覚支を完璧にするか説明しています)。




四念処が完璧なら、当然七覚支も完璧なる

 丘のみなさん。人がどのように四念処に励んでたくさんすれば、七覚支が完璧になるでしょうか。

 比丘のみなさん。比丘が常に体の中の体が見える人でも、常にすべての受の中の受が見える人でも、常に心の中の心が見える人でも、常にすべてのダンマの中のダンマが見える人でも、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえることでも、その時比丘が維持しているサティは忘れていない自然であり、その時七覚支のサティも、その比丘は始めているということです。

 その時その比丘は、当然七覚支のサティに励んでいると言われ、その時その比丘の七覚支のサティは、発展に達したと言われます。その比丘にそのようなサティがあれば、当然智慧でそのダンマを選び、当然選り出し、当然熟慮すると言われます。

 (体が見え、受が見え、心が見え、ダンマが四つの意味で見えていれば、当然それによってサティを意識しています。その意識しているサティを七覚支のサティと呼びます。要するに十六段階があるアーナーパーナサティに励めば、当然それ自体に七覚支のサティがあります。アーナーパーナサティに最高に励めば、七覚支に励むことも最高に達します。これが一つです。

 もう一つ、このような状態で七覚支のサティがあれば、当然そのダンマを智慧で熟慮して選ぶと言われます。ピーティとスッカ(喜悦と幸福)の段階の定を熟慮することで明らかに見えるように、受で熟慮することも、無常・苦・無我も、加工する原因と縁のある受も、引き続き別の物に加工する受も、そのダンマのゴーチャラを知るダンマを集めることも、そのダンマの正しさを洞察することも、アーナーパーナサティの第五段階で詳しく述べられています。

 それがダンマを熟慮して選ぶことです。それはアーナーパーナサティに励む中に、あるいは述べたように七覚支のサティがあると言う時、完璧にあります。

 要するに七覚支のサティがアーナーパーナサティの状態であれば、当然ダンマを熟慮して選びます。完璧なサティは、当然最初に意識するからです。それから次の段階で繋がっていると言われるように、アヌパッサナーで熟慮します。サティを自覚することをサティと言い、熟慮することを熟慮して選ぶと言います。

 だから世尊は「その比丘にこのようなサティがあれば、当然そのダンマを智慧で選び、当然選択し、当然熟慮する」と言われています)。


 比丘のみなさん。比丘にこのようなサティがあり、そのダンマを智慧で選択して熟慮すれば、その時七覚支の択法も、その比丘は始めているということです。その時その比丘は、当然七覚支に励むと言われ、その時その比丘の択法は、発展に達したと言われ、その比丘がそのダンマを智慧で選択すれば、緩むことのない努力は、比丘が始めているダンマと言われます。

 (十六の段階があるアーナーパーナサティに七覚支と七覚支の択法の形で励めば、当然どれだけ勉励努力で勤勉にしなければならないかが分かります。これは当然、十六の段階があるアーナーパーナサティに励む時の努力で、上記の判断のように考えて見ることができます。だからブッダは「その比丘がそのダンマを智慧で選択し熟慮すれば、弛まぬ努力は、その比丘が始めたダンマと呼ばれる」と言われています)。

 比丘のみなさん。智慧でダンマを選んで熟慮する比丘が始めた努力が衰えなければ、その時その比丘は七覚支の精進も始めているということです。その時その比丘は、七覚支の努力に励むと言われ、その時その比丘の七覚支の努力は、発展したと言われます。その比丘がそのように努力を始めれば、餌のない喜悦が生じます。

 (十六の段階があるアーナーパーナサティに順調に励めば、その中に当然今述べたような意味の七覚支のサティと択法があります。七覚支の努力から、ダンマチャンダ、ダンマナンディである自分の行動に満足する威力、あるいは一つの段階の実践に成功することで、アーナーパーナサティの五段階目の喜悦が生じる様相で喜悦が生じます。

 この喜悦をニラーミサ(餌のない)の喜悦と言い、アーミサである形・声・臭・味・触・考えが混じらないという意味であり、離欲である完全に愛欲を避ける喜悦、ダンマに依存する喜悦、あるいはダンマを生じさせる喜悦です。だから世尊は「その比丘に始めた努力があれば、餌のない喜悦が生じる」と言われています)。

 比丘のみなさん。始めた努力がある比丘に餌のない喜悦が生じれば、その時七覚支の喜悦も、その比丘は始めたということです。その時その比丘は、当然七覚支の喜悦に励むと言われ、その時その比丘の七覚支の喜悦は、完璧な発展に達したと言われ、その比丘の心に喜悦があれば、体も静まり、心も鎮まります。

 (十六の段階があるアーナーパーナサティに励むことは、それ自体が、七覚支のサティ、七覚支の択法、七覚支の精進、七覚支の喜悦の段階の七覚支です。述べたような喜悦の威力で、当然アーナーパーナサティの第五段階で述べているような鎮静が生じ、呼吸が更に静かになります。それはサマタ(寂止)の状態に鎮まったことを意味します。

 そして無常・苦・無我を見ることが現れ、喜悦が生じ、それで呼吸が更に静まります。それは静まった状態ですが、ヴィパッサナーの意味の静まりで、当然最高に静まります。そして喜悦から直接生じた静まりです。だから世尊は「その比丘の心に喜悦があれば、体も鎮まり、心も鎮まる」と言われています)。

 比丘のみなさん。喜悦のある比丘の体と心が当然静まれば、その時七覚支の軽安もその比丘は始めたということです。その時その比丘は、当然七覚支の軽安に励むと言われ、その時その比丘の七覚支の軽安は最高の発展に達したと言われます。その比丘の体が静まれば幸福があり、当然心が安定して、サマーディになります。

 (十六の段階があるアーナーパーナサティに励むことは、述べたように七覚支でもあり、七覚支の軽安、つまり体と心が静まり、その静まりの中に幸福と呼ぶものも含まれているので、七覚支に分ける必要はありません。体が静まれば体の幸福で、心が静まれば心の幸福で、幸福は静かさに集約され、静かさがあれば、心は当然サマーディと呼ぶ安定があります。

 定である静かさは喜悦と幸福が心を安定させ、サマタにしたことを意味します。無常・苦・無我を見ることから生じた静かさは、当然心をヴィパッサナーの意味で安定させ、安定にサマタの意味とヴィパッサナーの意味を足すと、当然ここで言う完璧な安定になります。

 アーナーパーナサティの第一段階から第四段階まではサマタの意味の安定があり、アーナーパーナサティの第五段階以上は、ヴィパッサナーの意味の安定があります。どの段階も静かさを生じさせるので、世尊は「その比丘の体が静まれば幸福があり、心は当然安定する」と言われています)。

 比丘のみなさん。体が静まった比丘の心に幸福があれば、当然心は静まりまり、その時七覚支のサマーディも、その比丘は始めているということです。その時その比丘は、当然七覚支のサマーディに励んでいると言われ、その時その比丘の七覚支のサマーディは、完璧な発展に達したと言われます。その比丘は当然、そのように良く安定した心だけを注視しています。

 (十六の段階があるアーナーパーナサティは、当然七覚支を生じさせ、七覚支のサマーディつまりサマタとヴィパッサナーの意味での心の安定を生じさせます。サマタの安定は、絶えず鼓舞する力を生じさせる静まりであり、ヴィパッサナーの安定はダンマを見る安定であり、洞察する知識の力で煩悩を鎮め、良く安定します。

 この二種類の安定は、本当に安定した時にあるので、高いダンマに到達するまで、いつでも一定であるよう維持します。「馬と車といろんな物の調子が良ければ、御者は手綱を握っているだけ」という例えで、アーナーパーナサティの十一段階とその他の段階で何度も繰り返し話したように、この安定を守ることを安定した心を注視すると言います。

 心が安定している時は、いつまでもそのままに維持すれば、それ自体に、煩悩がなくなるまで煩悩を焼くことがあります。だから世尊は「その比丘は、当然そのように良く安定した心だけを注視している」と言われています)。

 比丘のみなさん。比丘がそのように良く安定した心だけに注目している時、その時七覚支の捨は、その比丘は始めていることになります。その時その比丘は、当然七覚支の捨に励んでいると言われ、その時その比丘の七覚支の捨は、発展に達したと言われます。

 (十六の段階があるアーナーパーナサティで、サマタとヴィパッサナーが軌道に乗ったことに注視して、ずっとその状態を管理すれば、ここでは注視と呼びます。あるいはパーリでは、ウベカー(捨)と言い、その安定が煩悩を焼くこと、そして煩悩が無くなる時を注視すること、あるいはずっと見ていることを意味します。

 最後に煩悩が尽きることをサティの感情として注視します。アーナーパーナサティの第四部、つまり七覚支の段階である十四、十五、十六段階にあり、それが本当に最高に完璧になります。だから世尊は、最後の段階の実践として、七覚支の捨が完璧になることだけを話されています)。

 比丘のみなさん。人がこのように四念処に励んでたくさんすれば、当然七覚支を完璧にします。

 (十六の段階があるアーナーパーナサティに精一杯励めば、精一杯四念処に励むと言われ、四念処に精一杯励めば、七覚支に精一杯励むことであり、実践の意味で三つうちの一つについて話せば、あとの二つについても話しているということです)

中部ウパリバンナーサ 14巻197頁290項

 (七覚支が完璧なら、当然明と解脱を完璧にするのも簡単です。しかし七覚支に励むには、極めて正しい方法でなければなりません。ブッダは、励んでいる七覚支は必ず「遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存しなければならない」と限定され、三つすべてはヴォッサッガ(捨てること。涅槃)に傾きます。

 今まで取で執着していた物を、すべて振り捨てる、あるいは払い捨てるだけで、アーナーパーナサティの十六段階目は、直接これになるので、アーナーパーナサティに励むことで生じるいろんな七覚支は、ブッダが次に話されているように、明と解脱に到達する望みにふさわしい七覚支です)。





七覚支が完璧なら、当然明と解脱が完璧になる

 比丘のみなさん。人がどのように七覚支に励んでたくさんすれば、明と解脱に到達できるでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、当然ヴィヴェガ(遠離)に依存し、ヴィラーガ(離欲)に依存し、ニローダ(滅)に依存してヴォッサッガ(捨てること。涅槃)に傾いていく七覚支のサティに励み、

 当然ヴィヴェガに依存し、ヴィラーガに依存し、ニローダに依存して、ヴォッサッガに傾いていく七覚支のダンマヴィチャヤ(択法)に励み、

 当然ヴィヴェガに依存し、ヴィラーガに依存し、ニローダに依存してヴォッサッガに傾いていく七覚支のヴィリヤ(精進)に励み、

 当然ヴィヴェガに依存し、ヴィラーガに依存し、ニローダに依存してヴォッサッガに傾いていく七覚支のピーティ(喜悦)に励み、

 当然ヴィヴェガに依存し、ヴィラーガに依存し、ニローダに依存してヴォッサッガに傾いていく七覚支のパッサッティ(軽安)に励み、

 当然ヴィヴェガに依存し、ヴィラーガに依存し、ニローダに依存してヴォッサッガに傾いていく七覚支のサマーディ(三昧)に励み、

 当然ヴィヴェガに依存し、ヴィラーガに依存し、ニローダに依存してヴォッサッガに傾いていく七覚支のウペッカー(捨)に励みます。

 比丘のみなさん。人がこのように七覚支に励んでたくさんすれば、明と解脱に到達します。

中部ウパリバンナーサ 14巻201頁291項





ハ 正しいサティの実践原則


カーヤーヌパッサナーの形のサティにする

1.アーナーパーナサティ経の意味 

 比丘のみなさん。比丘が

(1)長く息を吸った時は、長く息を吸ったと遍く自覚し、長く息を吐いた時は、長く息を吐いたと遍く自覚するのでも、

(2)短く息を吸った時は、短く息を吸ったと遍く自覚し、短く息を吐いた時は、短く息を吐いたと遍く自覚するのでも、

(3)当然、すべての体を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、当然すべての体を知り尽す人になることを課題にして、息を吐き、

(4)当然私はカーヤサンカーラ(この場合は呼吸)を静める人になることを課題にして、息を吸い、当然呼吸を静めた人になることを課題にして、このように息を吐く、比丘のみなさん。その時比丘は「常に体の中の体が見える(註1)人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、喜びと憂いを出してしまえる人」と言われます。

 比丘のみなさん。私は当然、吸う息、吐く息を、すべての体の中の一つ一つの体と言います。だからこれは、その比丘は当然常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人と言われます。

註1: 体の中の体を見るとは、体の真実が見えることと、体の細部と体全体である、体のすべての部分が見えること、そして呼吸は体の一つであり、そしてすべての体を作り、定があれば名身の幸福を作るなど、このように作ること(加工)が見えることです。

14巻195頁289項



2.大念処経の意味

 比丘のみなさん。平素から熟慮して、体の中の体が見える比丘はどのようでしょうか。

イ 呼吸(つまり体)

 比丘のみなさん。この場合の比丘は森や木の根元や空き家へ行き、当然結跏趺坐して体を真っ直ぐにし、サティを現前に据え、彼は息を吸う時に安定したサティがあり、息を吐く時にサティがあり、

(1)長く息を吸った時は、長く息を吸ったとハッキリと知り、長く息を吐いた時は、長く息を吐いたとハッキリと知り、

(2)短く息を吸った時は、短く息を吸ったとハッキリと知り、短く息を吐いた時は、短く息を吐いたとハッキリと知り、

(3)彼は当然、すべての体を知り尽した人になることを課題にして、息を吸い、当然、すべての体を知り尽した人になることを課題にして、息を吐き、

(4)当然カーヤサンカーラ(呼吸)を鎮めた人になることを課題にして、息を吸い、当然身行を鎮めた人になることを課題にして、息を吐きます。

 比丘のみなさん。旋盤技師や熟練した旋盤技師の助手が旋盤の長い紐を引く時、「長い旋盤の紐を引いている」とハッキリと知り、短い旋盤の紐を引く時「短い旋盤の紐を引いている」とハッキリと知っているのと同じです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。

 比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

註1: 知識のためだけと言うのは、知識を熟慮する感情として体を思い出して捉えることであり、「体は、自分の物と執着できる実体のある自然物」という理解、または執着ではありません。


ロ 挙措(つまり体)

 比丘のみなさん。まだあります。比丘が

(1)歩いていれば当然「歩いている」とハッキリと知り、

(2)立っていれば当然「立っている」とハッキリと知り、

(3)座っていれば当然「座っている」とハッキリと知り、

(4)寝ていれば当然「寝ている」とハッキリ知り、彼の体がどんな状況にあっても、当然体についてこのように漏らさず知っています。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から、(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因である、ダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。

 比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘は、このようです。


ハ (体の)自覚

 比丘のみなさん。まだあります。

(1)比丘は当然、平素から(註1)前進、後退を自覚する人で、

(2)見ること、振り向いて見ることを、平素から漏らさず知る人で、

(3)屈むこと、伸ばすことを、平素から漏らさず自覚する人で、

(4)平素から外衣、鉢、チーヴァラを維持する(註2)ことを自覚する人で、

(5)食べ、飲み、齧り、嘗めること(註3)をすべて漏らさず自覚する人で、

(6)平素から大小便の排泄を自覚する人で、

(7)行く、止まる、座る、眠る、目覚める、話す、黙るのを自覚する人です。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に、(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の、(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中に(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。

 比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

註1: 平素からという言葉は、絶えず常にその行動をしていること、いつでもしていることです。この言葉を世尊は「習慣になるまでする」という言葉より重視されています。慣れるとしないこともありますが、この言葉は息が絶えるまで本性に引っ付いていると言われるように、いつでもします。 

註2: 学習者が在家なら、どんな衣服を身に着け、どんな生活用具を使っても、同じ意味を知るべきです。

註3: 「食べる」とは毎日ご飯を食べること、「齧る」とは食事以外の菓子などを食べること、「飲む」と嘗めるは同じ意味です。


ニ 不浄なもの(つまり体)を観察する

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は、周りを包んでいる毛と皮膚があり、いろんな不潔な物がいっぱい詰まっている体を、足下から頭のてっぺんまで、髪の毛の先から下の方まで、この体を熟慮して、「この体には髪、体毛、爪、歯、皮膚、肉、腱、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、筋膜、脾臓、肺臓、腸、直腸、胃の中の食べ物、大便、胆汁、痰、膿、血、汗、脂、涙、リンパ液、涎、唾液、鼻汁、尿(註1)がある」と見ます。

 各種の穀物である麦、籾米、緑豆、ライマ豆、ゴマ、米がいっぱい入った両側に口がある細長い袋(註2)を開けると、これが麦、これがモミ米、これが緑豆、これがライマ豆、これがゴマ、これが米と判別できるのと同じです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。

 比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

註1: 私たちが信じている「三十二」という数字は、後世のアッタカターあるいは論書の数え方で、脳を加えて三十二にしています。ブッダの言葉では、脳は骨髄に含めるので三十一です。

註2: 両側に口がある袋は、どちらが口でどちらが尻と規定しません。


ホ ダートゥ(四界)を観察する

 比丘のみなさん。まだあります。牛の屠殺人、あるいは屠殺人の手慣れた助手が牛を殺して、四辻に座って部位ごとに分けるように、比丘は当然、普通に存在している体、維持している体を、「この体は土界、火界、水界、風界がある」とこのように熟慮して見ます。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。

 比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。


ヘ 九種類の墓(つまり体)

 比丘のみなさん。まだあります。

(1) 比丘が、死体を捨てる墓地に捨ててある、死んで一日経ったのでも、死んで二日経ったのでも、死んで三日経ったのでも、腹が膨れ、醜い緑色をして、膿が気味悪く流れている死骸を見るように、その比丘は「この体もこのような状態があり、当たり前にこのようなことがある。このようなことから逃れられない」と、このように引き比べて見るべきです。

  この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

(2) 比丘のみなさん。まだあります。比丘は、死体捨て場である墓地に捨てられた死骸を、カラスの群れが突き、ハゲコウの群れが突き、ハゲタカの群れが突き、犬の群れが喰い、狐の群れが喰い、ウジ虫の群れが喰っているのを見るように、「この体もこのような状態があり、このようになるのは当たり前だ。このようになるのを避けることはできない」と、この体と引き比べて見るべきです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

(3) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が、死体捨て場である墓地に捨ててある、肉と血があり、まだ腱で繋がっている死骸を見ると、彼は「この体も当たり前にこのようになり、このような状態がある。このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

(4) 比丘のみなさん。まだあります。比丘は死体捨て場である墓地に捨ててある、肉はないけれど血で汚れ、まだ腱で繋がっている死骸を見て、彼は「この体も当たり前にこのようになり、このような状況がある。このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

(5) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、血も肉もないけれど、まだ繋いでいる腱がある死骸を見ると、彼は「この体もこのようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

(6) 比丘のみなさん。まだあります。死体捨て場である墓地に捨ててある死骸を、繋いでいる腱がなく、手の骨は一方に、足の骨はもう一方に、脚の骨は一方に、腕の骨は一方に、腰の骨は一方に、背骨は一方に、肋骨は一方に、胸骨は一方に、肩甲骨は一方に、喉の骨は一方に、

顎の骨は一方に、歯骨は一方に、頭蓋骨は一方に、バラバラに散らばっている骨を見ると、彼はこの体を「この体もこのようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を観察して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

(7) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、ほら貝のように白い沢山の骨の欠片を見ると、彼は「この体もこのようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

(8) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、一年以上散らばって山になっているたくさんの骨を見るように、彼は「この体もこのようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。

 この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

(9) 比丘のみなさん。まだあります。比丘が死体捨て場である墓地に捨ててある死骸、細かい粉になった骨たくさんの骨を見ると、彼は、「この体も、このようになるのを避けることはできない」と、引き比べて見るべきです。

  この(述べた)ように、比丘は平素から内部(自分)の体を熟慮して見、外部(他人)の体を見ることも、内部と外部の体を見ることもある人で、そして平素から(この)体の中に(体が)生じる原因であるダンマを見、(この)体の中の(体が)消滅する原因であるダンマを見、(この)体の中で(体が)生じて衰える原因であるダンマを見る人でもあります。

 その人の「体がある」と(思い出す)サティは、知識のためだけ(註1)、依存して思い出すためだけに維持しているサティで、その人は、本当は欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、世界の何にも執着しません。比丘のみなさん。平素から体の中の体を熟慮して見る人と言われる比丘はこのようです。

10巻325頁274項


 


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