解説二十 正しいサティ





イ 正しいサティの説明と分類


正しいサティの説明

 比丘のみなさん。正しいサティはどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、当然常に熟慮して、体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜き取ってしまうことができます。当然常に熟慮して、すべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜き出してしまうことができます。

 当然常に熟慮して、すべての心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜き出してしまうことができ、当然常に熟慮して、すべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の満足と不満を抜き出してしまうことができます。

 比丘のみなさん。私はこれを正しいサティと言います。

長部マハーヴァッガ 10巻349頁299項





四念処は一乗道

 比丘のみなさん。この道はすべての動物の純潔のため、悲しみと憂いを越えてしまうため、怒りと苦が維持できないようにするため、ニャーナダンマを越えるため、涅槃を明らかにする一乗道(最高の乗り物のように直行できる道)で、その道は四つの念処です。四つとは何でしょうか。四つとは、比丘のみなさん。この場合比丘は、

1. 常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界(世俗)の喜びと憂いを出してしまえる人で、

2. 常にすべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人で、

3. 常にすべての心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人で、

4. 常にすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

長部マハマッガ 10巻125頁273項





ロ 正しいサティの状態と譬え

比丘に常自覚がある状態

 大王。サティ サンパッチャンニャ(常自覚)のある比丘はどのようでしょうか。

 大王。この場合の比丘は、前進、後退、振り向く、視線を投げる、屈む、伸びる、大衣や中衣の持つ、食べ、飲み、齧り、嘗める、排便、排尿を周到に自覚する人で、行く、止まる、寝る、眠る、起きる、話す、黙していることを自覚する人です。

 大王。こういうのを、常自覚がある比丘と言います。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻94頁123項





最高レベルの常自覚の状態

 比丘のみなさん。サンパッチャンニャ(自覚)のある比丘はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合受が生じると、その比丘にはそれ(その状態)が明らかで、受が維持されているとそれ(の状態)が明らかで、受が消滅するとそれ(の状態)が明らかです。

 ヴィタッカ(一つのことを継続して考えること)が生じるとその比丘にはそれ(の状態)が明らかで、ヴィタッカが維持されているとそれ(の状態)が明らかで、ヴィタッカが消滅するとそれ(の状態)が明らかです。

 サンニャー(想)が生じると、その比丘にはそれ(の状態)が明らかで、想が維持されているとそれ(その状態)が明らかで、想が消滅するとそれ(の状態)が明らかです。

 比丘のみなさん。こういうのを、自覚がある比丘と言います。

 相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻242頁804項

 (一般のパーリ=ブッダの言葉のサンパッチャンニャという言葉は普通のレベルで、788頁で言っているように、一つ一つの挙措の変化を自覚することを意味します。しかしここのサンパッチャンニャは最高レベルで、ヴェーダナー、ヴィタッカ、サンニャーが、生じて維持して消滅する時を明らかに自覚することで、より大きな漏の終りを生じさせます)。





自分を拠り所にする道具である正しいサティ 

 アーナンダ。みなさん島(註)である自分があり、拠り所である自分があり、他に拠り所はない人、島であるダンマがあり、拠り所であるダンマがあり、他に拠り所はない人におなりなさい。

 アーナンダ。島である自分、拠り所である自分があり、他に拠り所はない人、島であるダンマがあり、拠り所であるダンマがあり、他に拠り所はない比丘と呼ばれるのはどのようでしょうか。

 アーナンダ。この場合の比丘は、常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。常にすべての受の中の受が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 常に心の中の心が見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。常にすべてのダンマの中のダンマが見える人で、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 アーナンダ。こういうのを、島である自分があり、拠り所である自分があり、他に拠り所はない人、島であるダンマがあり、拠り所であるダンマがあり、他に拠り所のない比丘と言います。

 アーナンダ。私でも誰でも、現在でも過去でも、島である自分があり、拠り所である自分があり、他に拠り所はない人、島であるダンマがあり、拠り所であるダンマがあり、他の拠り所がない人は、それらの比丘は最高に素晴らしい状態である比丘で、シッカー(三学の遵守)を欲す人たちです。

 長部マハーヴァッガ 10巻119頁93項

 訳注: 原語のパディーパには「島」という意味と「灯火、明かり」という意味があります。苦の海を航海して涅槃の岸に辿りつくまでの拠り所と捉えれば島であり、無明つまり闇の中の道、八正道を歩いて涅槃へ向かう旅の拠り所と捉えれば灯火になり、解釈次第です。

 大乗では灯火と訳し、南伝では拠り所、駆けていく場所という意味で島を訳すことが多いようです。例えられた物質が何であるかは重要な問題ではないので、「拠り所になる物」という要旨を捉えてください。





四念処はサマナの遊び場

 比丘のみなさん。みなさん、父親の領域である遊ぶべき場所で遊びなさい。みなさんが父親の境域である遊ぶべき場所で遊べば、悪魔にチャンスはなく、悪魔が自由にできる機会はありません。比丘のみなさん。父親の境域である遊ぶべき場所とは何でしょうか。それは四つの念処です。四つとは何でしょうか。四つとは、この場合の比丘は、

1. 常に体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人で、

2. 常にすべての受の中の受が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人で、

3. いつでも心の中の心が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人で、

4. 常にすべてのダンマの中のダンマが見え、煩悩を焼く努力があり、自覚がありサティがあり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。

 比丘のみなさん。これが、父親の領域である遊ぶべき場所です。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻198頁700項





明と解脱の結果になる四念処

 クンダリヤさん。この場合の比丘は常に体の中の体が見える人で、煩悩を焼く努力があり、サティがあり自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまえる人です。(受・心・ダンマの場合も、体の場合と同じように話されています)。

 クンダリヤさん。人が四念処に励んでたくさんすれば、当然七つの覚支が完璧になります。クンダリヤさん。人がどのように七覚支に励んでたくさんすれば、明と解脱が完璧になるでしょうか。クンダリヤさん。この場合の比丘は当然遠離に依存し、離欲に依存し、滅に依存し、振り捨てることに傾いていく七覚支のサティに励みます。

 (七覚支のダンマヴィチャヤ=択法、七覚支のヴィリヤ=精進、七覚支のピーティ=喜悦、七覚支のパッサッティ=軽安、七覚支のサマーディの場合も、同じように話されています)。

 クンダリヤさん。人が七覚支に励んでたくさんすれば、当然明と解脱が完璧になります。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻108頁398項





偉大な成果のあるアーナーパーナサティの仕方

 比丘のみなさん。人が励んでたくさんすれば偉大な成果があり、偉大な功徳がある一番のダンマは何でしょうか。それはアーナーパーナサティです。

 比丘のみなさん。人がどのようにアーナーパーナサティに励めば、偉大な成果、偉大な功徳があるでしょうか。


(第一番目の方法)

 比丘のみなさん。この場合の比丘は森や木の根元や廃屋に行って結跏趺坐し、体を真っ直ぐにしてサティを現前に据え、吸う息、吐く息にサティがあります。

 長く息を吸ったら長く息を吸ったと遍く自覚し、長く息を吐いたら、長く息を吐いたと遍く自覚し、短く息を吸ったら短く息を吸ったと遍く自覚し、短く息を吐いたら、短く息を吐いたと遍く自覚し、

 当然、すべての体(呼吸のこと)を知り尽くした人になることを課題にして息を吸い、すべての体を知り尽くした人になることを課題にして息を吐き、

 当然ピーティ(喜悦)を知り尽した人になることを課題にして息を吸い、当然喜悦を知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

 当然スッカ(幸福)を知り尽した人になることを課題にして息を吸い、当然幸福を知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

 当然チッタサンカーラ(心を変化させる物。受と想)を知り尽した人になることを課題にして息を吸い、当然チッタサンカーラを知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

 当然チッタサンカーラを静めたことを知り尽した人になることを課題にして息を吸い、当然チッタサンカーラを静めたことを知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

 当然心を知り尽した人になることを課題にして息を吸い、当然心を知り尽した人になることを課題にして息を吐き、

 当然心を喜ばす人になることを課題にして息を吸い、当然心を喜ばす人になることを課題にして息を吐き、

 当然心を安定させた人になることを課題にして息を吸い、当然心を安定させた人になることを課題にして息を吐き、

 当然心を手放した人になることを課題にして息を吸い、当然心を手放した人になることを課題にして息を吐き、

 当然常に無常が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に無常が見える人になることを課題にして息を吐き、

 当然常に薄れることが見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に薄れることが見える人になることを課題にして息を吐き、

 当然常に消滅が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に消滅が見える人になることを課題にして息を吐き、

 当然常に返却が見える人になることを課題にして息を吸い、当然常に返却が見える人になることを課題にして息を吐きます。

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、当然大きな成果があり、大きな功徳があります。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻394頁1305項



(第二番目の方式)

 比丘のみなさん。この場合の比丘は当然遠離に依存し、離欲に依存し、涅槃に傾いていく滅に依存する七覚支である、アーナーパーナサティと並行している七覚支のサティに励み、

 当然遠離に依存し、離欲に依存し、涅槃に傾いていく滅に依存する七覚支である、アーナーパーナサティと並行して行く七覚支の択法に励み、

 当然遠離に依存し、離欲に依存し、涅槃に傾いていく滅に依存する七覚支である、アーナーパーナサティと並行して行く七覚支の精進に励み、

 当然遠離に依存し、離欲に依存し、涅槃に傾いていく滅に依存する七覚支である、アーナーパーナサティと並行して行く七覚支の喜悦に励み、

 当然遠離に依存し、離欲に依存し、涅槃に傾いていく滅に依存する七覚支である、アーナーパーナサティと並行して行く七覚支の軽安に励み、

 当然遠離に依存し、離欲に依存し、涅槃に傾いていく滅に依存する七覚支である、アーナーパーナサティと並行して行く七覚支のサマーディ(三昧)に励み、

 当然遠離に依存し、離欲に依存し、涅槃に傾いていく滅に依存する七覚支である、アーナーパーナサティと並行して行く七覚支の捨に励みます。

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、偉大な成果、偉大な功徳があります。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻195頁1308項





賢い人の四念処の訓練

 比丘のみなさん。この場合の比丘は愚かな人で、鋭くなく、賢くない人ですが体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚があり、世界の喜びと憂いを出しているサティがあります。彼が体の中の体を見ても、(愚かなので)心を安定させることができず、随煩悩を捨てることができず、そのニミッタ(相)を意識できません。

 (受・心・ダンマの場合も、体の場合と同じように話されています)。

 比丘のみなさん。だから愚かで、鋭くなく、賢くない比丘は、現生でスッカヴィハーラ(幸福という精舎)に暮らす人でなく、常自覚のある人ではありません。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それはその比丘が愚かな人で鋭くなく、賢くなく、自分の心のニミッタ(相)を意識できないからです。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は博学者で鋭く、賢く、体の中の体が見え、煩悩を焼く努力があり、自覚があり、世界の喜びと憂いを出してしまうサティがあります。体の中の体が見えれば(その人は賢いので)心を安定させることができ、随煩悩を捨て、そのニミッタを意識することができます。

 (受と心とダンマの場合も同じように話されています)。

 比丘のみなさん。だから博学者で、鋭く賢いその比丘は、スッカヴィハーラを得て、常自覚がある人です。それはどうしてでしょうか。比丘のみなさん。それはその比丘が博学者で鋭く、賢く、自分の心のニミッタを意識できるからです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻201頁705項





ハ 正しいサティの自然の用具と原因と縁

サティを発展させる基盤であるダンマ

 比丘のみなさん。サティで心を維持するダンマである、不注意でないことは、人が自分に適した四つの行動をするべきです。四つはどのようでしょうか。四つとは、

1. 比丘のみなさん。不注意でないことはサティで心を維持するダンマで、人は「私の心は、欲情の基盤であるすべての物に欲情してはいけない」と、このように自分にふさわしい行動をするべきです。

2. 比丘のみなさん。不注意でないことはサティで心を維持するダンマで、人は「私の心は怒りの基盤であるすべての物に怒ってはいけない」と、自分にふさわしい行動をするべきです。

3. 比丘のみなさん。不注意でないことはサティで心を維持するダンマで、人は「私の心は、愚かさの基盤であるすべての物に迷ってはいけない」と、自分にふさわしい行動をするべきです。

4. 比丘のみなさん。不注意でないことはサティで心を維持するダンマで、人は「私の心は、陶酔の基盤であるすべての物に陶酔してはいけない」と、自分にふさわしい行動をするべきです。

 比丘のみなさん。比丘の心に貪りがないから、すべての欲情の基盤であるダンマに欲情しない時、憤慨の基盤であるダンマに憤慨しない時、愚かさの基盤であるダンマに迷わない時はいつでも、その時その比丘は当然驚愕せず、動揺せず、震撼せず、驚くに至りません。そしてこのダンマに至るのは、サマナの言葉によってではありません。(この四つで正しく心を維持することによってです)。

増支部チャトゥカニバータ 21巻161頁117項





アーナーパーナサティバーヴァナーに恩恵のあるダンマ Ⅰ

 比丘のみなさん。次の五つのダンマがある人がアーナーパーナサティをしようと目指せば、当然間もなく不動のダンマを洞察できます。五つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。五つとは、この場合の比丘は、

1. 願望が少なく、用事が少なく、生活にうるさくなく、どんな暮らしもでき、八物(比丘に許された生活用具)に満足を知る人で、

2. 食べ物が少なく、腹が縮んでいる人で、

3. ぼんやりすることがなく、覚醒の中に自分を維持する人で、

4. スタ(学ぶこと)がたくさんあり、スタを維持してスタを集める人です。初めが美しく、中間も美しく、終わりも美しい、意義も細部も純潔で完璧な梵行を説いたどんなダンマも、このようなダンマはその人が記憶するまで耳を傾けて聞き、ディッティで良く洞察したダンマで、

5、心がどのように解脱したか、観察して見える人です。

 比丘のみなさん。この五つのダンマがある比丘がアーナーパーナサティに励めば、当然間もなく不動のダンマを洞察できます。

増支部パンチャカニバータ 22巻135頁96項





アーナーパーナサティバーヴァナーに恩恵のあるダンマ Ⅱ

 比丘のみなさん。次の五つがある比丘がアーナーパーナサティに励めば、当然、間もなく不動のダンマを洞察できます。五つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。五つとは、この場合の比丘は、

1. 願望が少なく、用事が少なく、簡素な生活で、八物に満足を知る人で、

2. 食べ物が少なく、腹が縮んだ人で、

3. ぼんやりすることがなく、覚醒の中に自分を維持する人で、

4. 心を広々とすっきりさせるダンマにとって快適な、煩悩を研き落とすカター(説明)である、無欲の話、知足の話、人と交わらない話、集会しない話、精進に努める話、戒の話、サマーディの話、智慧の話、滅智見の説明を望みどおりに簡単に、難しくなく得る人で、

5. 心がどのように解脱したか観察して見える人です。

 比丘のみなさん。この五つがある人がアーナーパーナサティに励めば、当然その後間もなく、不動のダンマを洞察します。

増支部パンチャカニバータ 22巻136頁97項





アーナーパーナサティに恩恵のあるダンマ Ⅲ

 比丘のみなさん。次の五つがある比丘がアーナーパーナサティに励めば、当然その後間もなく不動のダンマを洞察できます。五つはどのようでしょうか。比丘のみなさん。五つとは、この場合の比丘は、

1. 願望が少なく、用事が少なく、生活に煩くなく、どんな暮らしもでき、八物に足るを知る人で、

2. 食べ物が少なく、腹が縮んだ人で、

3. ぼんやりすることがなく、覚醒の中に自分を維持する人で、

4. 森の静かな住まいに暮らす人で、

5. 心がどのように解脱するか観察して見る人です。

 比丘のみなさん。この五つのダンマがある比丘がアーナーパーナサティに励んでたくさんすれば、当然その後まもなく不動のダンマを洞察できます。

増支部パンチャカニバータ 22巻136頁98項





自覚があることの十九の基盤

 アーナンダ。心の内部を一定に維持している、休息させている、一つの感情がある、盤石な心にしていると言われる比丘はどのようでしょうか。

 アーナンダ。この場合の比丘は愛欲が静まり、悪が静まって初禅・・・二禅・・・三禅・・・四禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。アーナンダ。このような人は、内部の心を休息している心、一つだけの感情のある心、盤石な心に安定して維持している比丘と呼ばれます。

 その比丘は当然心の内部を空にしますが、心の中を内部の空にしても心は内部の空に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾かなければ、アーナンダ。このような時その比丘は「心を内部の空にしても、心は内部の空に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾かない」とこのように明らかに知ります。このような場合その比丘は、心が内部の空に傾かない場合を完全に自覚している人と言われます。

 (これが自覚の基盤の一番目です)。

 その比丘は当然心を外部の空にします。彼が心を外部の空にしても、心は外部の空に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾かなければ、アーナンダ。そのような時その比丘は「心を外部の空にしても、心は外部の空に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾かない」と、このように明らかに知ります。このような場合その比丘は、心が外部の空に傾かない場合を完璧に自覚する人と呼ばれます。

 (これが自覚の基盤の二番目です)。

 その比丘は当然心を外部と内部である空にします。彼が心を外部と内部の空にしても、心は外部と内部の空に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾かなければ、アーナンダ。そのような時その比丘は「心を外部と内部の空にしても、心は外部と内部の空に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾かない」と、このように明らかに知ります。このような場合その比丘は、心が外部内部の空に傾かない場合をすべて自覚する人と呼ばれます。

 (これが自覚の基盤の三番目です)。

 その比丘は当然心を不動にします。彼が心を不動にしても、心は不動に駆けて行かず、帰依せず、維持せず、傾かなければ、アーナンダ。そのような時その比丘は「心を不動にしても、心は不動に駆けて行かず、帰依せず、維持せず傾かない」と、このように明らかに知ります。このような場合その比丘は、心が不動に傾かない場合をすべて自覚する人と呼ばれます。

 (これが自覚の基盤の四番目です)。

 アーナンダ。その比丘は心の内部を、すでに得たことがある(四つの形禅定の)サマーディニミッタ(三昧状態)に安定して維持するべきで、休んでいる心にするべきで、感情が一つしかない心にするべきで、安定した心にするべきです。

 彼は心を内部の空にします。彼が心を内部の空にすると、心は内部の空に駆けて行き、当然帰依し、当然維持し、当然解脱します。アーナンダ。このようになった時、その比丘は当然「心を内部の空にすると、心は内部の空に駆けて行き、当然帰依し、当然維持し、当然解脱した」とこのように明らかに知ります。このような時その比丘は、心が内部の空に傾く場合をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である五番目です)。

 その比丘は心の中を外部の空にします。彼が心の中を内部の空にすると、心は外部の空に駆けて行き、当然帰依し、当然維持し、当然解脱します。アーナンダ。このようになった時その比丘は、当然「心を外部の空にすると、心は外部の空に駆けて行き、当然帰依し、当然維持し、当然解脱した」とこのように明らかに知ります。このような時その比丘は、心が外部の空に傾く場合を完全に自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である六番目です)。

 その比丘は心の中を外部と内部の空にします。彼が心の中を内部と外部の空にすると、心は外部と内部の空に駆けて行き、当然帰依し、当然維持し、当然解脱します。アーナンダ。このようになった時その比丘は当然、「心を外部と内部の空にすると、心は外部と内部の空に駆けて行き、当然帰依し、当然維持し、当然解脱した」とこのように明らかに知ります。このようになった時その比丘は、心が外部と内部の空に傾く場合を完璧に自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である七番目です)。

 その比丘は心の中を不動にします。彼が心の中を不動にすると、心は不動に駆けて行き、当然帰依し、当然維持し、当然解脱します。アーナンダ。このようになった時その比丘は当然「心を不動にすると、心は不動に駆けて行き、当然帰依し、当然維持し、当然解脱した」とこのように明らかに知ります。このような時その比丘は、心が不動に傾く場合を完璧に自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である八番目です)。

 アーナンダ。その比丘がこのヴィハーラダンマ(精舎であるダンマ)にいて、心が歩くことに傾くと、彼は「すべての罪悪、つまり喜びと憂いは、このように歩いている私に流れて来ない」と、このように心して歩きます。このような場合その比丘は、心が、歩く場合をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である九番目です)。

 アーナンダ。その比丘が、このヴィハーラダンマにいて、心が維持することに傾くと、彼は「すべての罪悪、つまり喜びと憂いは、このように維持している私に流れて来ない」と、このように心して維持します。このような場合その比丘は、心が維持する場合をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十番目です)。

 アーナンダ。その比丘がこのヴィハーラダンマにいて、心が座ることに傾くと、彼は「すべての罪悪、つまり喜びと憂いは、このように座っている私に流れてこない」と、このように心して座ります。このような場合その比丘は、心が座る場合をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十一番目です)。

 アーナンダ。その比丘がこのヴィハーラダンマにいて、心が寝ることに傾くと、彼は「すべての罪悪、つまり喜びと憂いは、このような状態で寝ている私に流れてこない」と、このように心して寝ます。このような場合その比丘は、心が寝る場合をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十二番目です)。

 アーナンダ。その比丘がこのヴィハーラダンマにいて、心が話すことに傾くと、彼は「私は王様の話、盗賊の話、大臣の話、兵隊の話、怖い話、戦いの話、米・水・衣服・寝床・花の規則・香りの物の話、親戚、乗り物、村、県、都、田舎の話、男女の話、勇者の話、道路の話、港の話、死んだ人の話など、

下劣な話、庶民の話、凡夫の話、聖人が話す話題でないこと、利益のない話、倦怠、欲情の弛緩、消滅にならない話、全てを知り尽すこと、涅槃のための静まらない話をしない」と、このように心して話します。このような場合その比丘は、心が話す場合をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十三番目です)。

 しかし心が最高に煩悩を削る話であり、心のヴィチャラナニャーナ(考察智)にとって快適な物であり、倦怠する一方であり、欲情の弛緩、消滅、鎮静、最高に知ること、知り尽すこと、涅槃のためになるどんな説明も、つまり無欲の話、知足の話、隠遁の話、会合しない話、精進に努める話、戒の話、サマーディの話、智慧の話、滅智見の話のどれも、彼は「これらの話をする」と、このように心します。

 このような場合その比丘は、話すべき説話をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十四番目です)。

 アーナンダ。その比丘がこのヴィハーラダンマにいて、心が考えることに傾くと、彼は「下劣な話、庶民の話、凡夫の話、聖人の話でないこと、利益のない話、倦怠、欲情の弛緩、消滅にならない話、全てを知り尽すこと、涅槃のために鎮まらない話である、愛欲の考え、復讐の考え、加害する考えをしない」と、このような決意で考えます。このような場合その比丘は、心が考える場合をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十五番目です)。

 しかしこれらのヴィタッカ(考えること)が聖人の物なら、そのヴィタッカは考える人にとって、当然正しく苦から脱す道具である、愛欲の考えから出る考え、復讐しない考え、加害しない考えであり、彼は「私はこのヴィタッカで考える」と心して考えます。このような場合その比丘は、心が考えるべきヴィタッカの場合をすべて自覚している人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十六番目です)。

 アーナンダ。これらの五欲があります。五欲はどのようでしょうか。五つとは、可愛くて欲しくなる満足すべき物であり、可愛らしい状態があり、願望の住処であり、欲情の基盤である眼で明らかに知るすべての形、耳で明らかに知るすべての声、鼻で明らかに知るすべての臭い、舌で明らかに知るすべての味、体で明らかに知るすべての接触があります。これらが五欲です。

 比丘がこの五欲を「私、あるいは何らかの処入に、これらの五欲の増加があるだろうか」と、絶えずこのように自分の心を熟慮します。アーナンダ。比丘が熟慮していれば、当然「私、あるいは何らかの処入に、これら五欲の増加が生じている」と明らかに知ります。

 アーナンダ。このような時その比丘は「五欲のチャンダラーガ(満足によって貪ること。欲貪)を、私はまだ捨てることができない」と、このようにハッキリと知ります。このような場合その比丘は、まだ捨てることができないチャンダラーガをすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十七番目です)。

 アーナンダ。しかし比丘が熟慮して、当然「私、あるいはいずれかの処入に、五欲の悪化が生じていることはない」と、このように明らかに知れば、アーナンダ。その時その比丘は、当然「五欲のチャンダラーガ(五欲に満足して欲しがること)を、私は捨てることができた」と明らかに知ります。このような場合その比丘は、捨てることができた欲貪をすべて自覚する人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十八番目です)。

 アーナンダ。これらの五取蘊があり、比丘はこの五取蘊の発生と消滅を、「形・受・想・行・識はこのようで、形・受・想・行・識の発生はこのようで、形・受・想・行・識の消滅はこのようだ」と平素から見える人でなければなりません。

 比丘が普通にこれら五取蘊の発生と衰退が見えれば、五取蘊のアスミマーナ(私という慢。我慢)を、彼は捨てることができます。アーナンダ。このような時その比丘は、当然「五取蘊のアスミマーナを、私は捨てることができた」と、このようにハッキリと知ります。このような場合その比丘は、五取蘊のアスミマーナの場合をすべて自覚した人と言われます。

 (これが自覚の基盤である十九番目です)。

 アーナンダ。(十九種類の自覚の基盤である)これらすべてのダンマは善になるばかりで、聖人の物であり、罪のある悪魔が踏み込めないローグッタラです。

中部ウパリバンナーサ 14巻236頁347項

 (自覚の基盤は、ビルマ版と欧州版を基準にすると十九あり、タイ版では十四しかありません。編者が今まで見た限りでは、すべて他のパーリ(ブッダの言葉)より深く、高く、緻密に自覚する人の状態を説明してあります。

 まだ他に学ぶべき項目が、766頁の「ふさわしい想があれば心は不死になる」という題であります。そして1178頁の「最高度のサンパチャンニャ(自覚)」も見るべきです)。




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