目覚める努力は努力の一部

 比丘のみなさん。目覚めるダンマがある比丘はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は、昼から宵が終わるまで歩いて、座って、当然心を妨害する煩悩を心から完璧に拭き取り、中更になったら師子王のように優雅に右に傾いて脚に脚を重ねて寝、起きることにサティと自覚があり、夜の終りには起き上がって、再び歩いて座って心を妨害する煩悩を心から拭い取ります。

 比丘のみなさん。このようなのを、目覚める道具であるダンマが具わっている比丘と言います。

増支部サラーヤタナヴァッガ 18巻221頁319項





努力を鼓舞する技法

 比丘のみなさん。この八種類の努力を始める基盤があります。八種類はどのようでしょうか。八種類とは、

1.比丘のみなさん。この場合比丘はしなければならない仕事があります。その比丘は「仕事はしなければならない物だが、仕事をしている時は、心の中をブッダの教えにするのは簡単ではない。それなら、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力を始めよう」とこのように考え、

まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めます。比丘のみなさん。これがアーラッバヴァットゥ(努力を始める基盤)の一番目です。

2.比丘のみなさん。まだあります。比丘が仕終わった仕事があり、その比丘は「私は仕事を終わった。働いている時は、心の中をブッダの教えにすることができない。それなら、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力を始めよう」とこのように考え、

まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めます。比丘のみなさん。これがアーラッバヴァットゥ(努力を始める基盤)の二番目です。

3.比丘のみなさん。まだあります。比丘が歩かなければならない道があります。その比丘は「道は私が歩かなければならないものだが、道を歩いている時は、心の中をブッダの教えにすることは容易ではない。それなら、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力を始めよう」とこのように考え、

まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めます。比丘のみなさん。これがアーラッバヴァットゥ(努力を始める基盤)の三番目です。

4.比丘のみなさん。まだあります。比丘が歩いた道があります。その比丘は「私は歩いた。道を歩いている時は、心の中をブッダの教えにすることは容易ではない。それなら、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力を始めよう」とこのように考え、

まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めます。比丘のみなさん。これがアーラッバヴァットゥ(努力を始める基盤)の四番目です。

5.比丘のみなさん。まだあります。比丘が村や街を托鉢して歩いて、下等でも上等でも、望みどおりに食べ物を得ることができません。その比丘は「私は村や街を托鉢して歩いたが、粗悪でも上等でも、食べ物を望みどおりに得られなかった。しかし私の体は軽く、働くに適している。それなら働くことに適している軽さに依存して、まだ到達していない物に到達するために、

まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力を始めよう」とこのように考え、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めます。比丘のみなさん。これがアーラッバヴァットゥ(努力を始める基盤)の五番目です。

6.比丘のみなさん。まだあります。比丘が村や街を托鉢して歩いて、粗悪でも上等でも、望みどおりに食べ物を得ることができます。その比丘は「私は村や街を托鉢して歩いて、粗悪でも上等でも、食べ物を得られた。体は軽く、働くに適している。それなら働くに適している軽さに依存して、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、

まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力を始めよう」とこのように考え、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めます。比丘のみなさん。これがアーラッバヴァットゥ(努力を始める基盤)の六番目です。

7.比丘のみなさん。まだあります。比丘に生じた多少の病気があり、その比丘は「多少の病気が私に生じた。この病気が悪化するということもあり得る。それなら、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、

まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力を始めよう」とこのように考え、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めます。比丘のみなさん。これがアーラッバヴァットゥ(努力を始める基盤)の七番目です。

8.比丘のみなさん。まだあります。比丘は回復して間もない病気があります。「私は病気から回復した。それなら、まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力を始めよう」とこのように考え、

まだ到達していない物に到達するために、まだ押さえていない物を押さえるために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めます。比丘のみなさん。これがアーラッバヴァットゥ(努力を始める基盤)の八番目です。

 比丘のみなさん。これらが八種類の、努力を始めることの基盤です。

増支部アッダリア 23巻355頁186項





努力に適した人

 比丘のみなさん。この五つのパダーニヤンガ(努力にふさわしい人の条件。精勤支)があります。五つはどのようでしょうか。五つとは、比丘のみなさん。この場合の比丘は、

1.信仰のある人で、如行(ブッダの一人称)の悟りを「この理由でも、世尊は自分自身で正しく悟った阿羅漢であり、明と徳行が完璧で、良く行き(逝き)、世界を明らかに知り、訓練するべき人を誰よりも良く訓練する人で、天人と人間の先生であり、ダンマを分類して動物に教えた明るい人」と信じています。

2.病気が少ない人で、常に安定して食べ物を消化でき、熱すぎず、冷えすぎない努力に適した中程度の火界があります。

3.自慢をしない人で策略がなく、教祖やすべての梵行仲間に対して、本当の自分を公開いている人です。

4.悪である物を捨てるため、善である物を完璧にするために努力を始めた人で、力があり、奮闘努力があり、非常に安定して善であるすべての仕事を投げ捨てません。

5.智慧のある人で、発生と消滅を認識できる智慧があり、煩悩を突き刺す道具であり、正しく苦の終りに至らせる物である素晴らしい智慧があります。

 比丘のみなさん。これが五つの、努力にふさわしい人の条件です。

増支部パンチャカニバータ 22巻74頁53項





ニ 正しい努力の実践原則 

死と競争で悪を捨てる努力

 比丘のみなさん。人が励んでたくさんするマラナサティ(死隨念)は当然偉大な成果、偉大な功徳あり、不死に至るダンマであり、求める不死があります。

 比丘のみなさん。(人が励んでいる)死隨念はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は昼から夜まで「私の死の縁はたくさんある。蛇に噛まれることも、サソリに噛まれることも、あるいはうっかり転倒することもある。消化不良になり、胆嚢が悪くなり、痰が悪くなり、風が害になり、あるいは人間や非人間(幽霊や妖怪など)に加害されれば私に死がある。それは危険だ」と、当然このように見ます。

 その比丘は続けて「まだ私が捨てることができない罪悪があるだろうか。あれば、今晩死ぬ私にとって危険だ」と熟慮して見ます。

 比丘のみなさん。熟慮してそのような罪悪があると感じたら、その比丘はそれらの罪悪を捨ててしまうために、必死で意欲、奮励努力、勇猛、努力、不退転、サティ、そして自覚するべきです。着ている服、あるいは頭髪に火が点いて燃え上がっている人は、着衣や頭髪の火を消すために、必死で意欲、奮励努力、勇猛、努力、不退転、常自覚しなければならないのと同じです。

 比丘のみなさん。比丘が熟慮してそのような罪悪はないと感じたら、その比丘は昼も夜も善を学習する喜びで暮らすべきです。

 (夜から昼までの比丘の場合も、同じ実践をするように話されています。違うのは時だけです)。

 比丘のみなさん。人がこのように励んでたくさんした死隨念は、当然偉大な成果、偉大な功徳がある不死に至るダンマで、求める不死があります。

増支部アッダカニバータ 23巻331頁171項





十想
(功徳として不死があるダンマを、他の経では十想で説かれています)。

 比丘のみなさん。人がこの十想に励んでたくさんすれば、当然偉大な成果、偉大な功徳があり、不死に至り、求める不死があります。十想はどのようでしょうか。十とは、

 アスパサンニャー(美しくないことを認識する。不浄想)、

 マラナサンニャー(死を認識する。死想)、

 アーハラレパティクーラサンニャー(食べ物の不潔を認識する。食物不潔想)、

 サッベエーローゲアネビラダンマダーサンニャー(世界のすべては楽しくないと認識する。一切世間不喜想)、

 アニッチャサンニャー(無常であること認識する。無常想)、

 アニッチェードゥッカサンニャー(無常は苦であると認識する。無常苦想)、

 ドゥッケーアナッタサンニャー(苦は無我であると認識する。苦無我想)、

 パハーナサンニャー(捨ててしまうことを認識する。断想)、

 ヴィラーガサンニャー(欲情が緩むことを認識する。離貪想)、

 ニローダサンニャー(完全な消滅を認識する。滅尽想)です。

 比丘のみなさん。人がこの十項のサンニャー(想)に励んでたくさんすれば、当然偉大な成果があり、偉大な功徳があり、不死になり、求めている不死があります。

増支部ダサカニバータ 24巻112頁56項





十想 Ⅱ

 比丘のみなさん。人がこの十想に励んでたくさんすれば、当然偉大な成果、偉大な功徳があり、不死になり、求める不死があります。十想はどのようでしょうか。十とは、

 無常であることを推察して知り、

 無我を推察して知り、

 死を推察して知り、

 食べ物の不潔を推察して知り、

 世界のすべては楽しくないことを推察して知り、

 骨だけの死体を推察して知り、

 うじ虫だけの死体を推察して知り、

 緑色になった死体を推察して知り、

 バラバラになった死体を推察して知り、

 膨れ上がった死体を推察して知ります。

 比丘のみなさん。人がこの十の想に励んでたくさんすれば、当然偉大な成果があり、偉大な功徳があり、不死になり、求める不死があります。

増支部ダサカニバータ 24巻112頁57項





将来の危険と競う努力

 比丘のみなさん。この五つの将来の危険があり、それが見える比丘は本当に不注意であるべきでなく、煩悩を焼く努力をし、まだ到達していない物に到達するため、まだ明らかにしていない物を急いで明らかにするために、いつでも自分をそのように追い遣るべきです。五つの将来の危険は何でしょうか。五つとは、

1.この場合の比丘は「今はまだ若くて元気いっぱいで、髪は真っ黒で、まだ成長期、つまり若さを維持しているが、いつか老いが訪れる日が来る。老いに支配された老人は、智者のみなさんの教えをじっくり考えるにも都合が悪い。それに密林などの静かな住まいに住むのも簡単ではない。

望まない物、欲しくない物、喜ばしくない物(つまり老い)が私に訪れる前に、まだ到達していない物に到達するため、まだ明らかにしていない物を急いで明らかにするために、急いで努力をする。まだ到達していない物に到達し、まだ明らかにしていない物を急いで明らかにすれば、老いても安楽に暮らせる」とこのように熟慮して見ます。

2.比丘のみなさん。比丘は「今私は患いが少なく、病気が少なく、いつでも火界が温めていて、冷えすぎず熱すぎず努力するに適している。しかしいつかこの体に病が訪れる日が来る。病に蝕まれた病人は、智者のみなさんの教えをじっくり考えるにも都合が悪い。そして密林の静かな住まいで暮らすのも簡単ではない。

望まないもの、欲しくない物、喜ばしくない物(病)が私に訪れる前に、まだ到達していない物に到達するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために急いで努力すれば、病気になっても安楽に暮らせる」と熟慮して見ます。

3.比丘のみなさん。まだあります。比丘は「今籾米は美しく、托鉢のご飯も得やすい。食べ物を得て命を繋ぐに都合が良い。しかしいつか乞食がし難く、籾米が被害を受けて食べ物が求めにくく、食べ物を求める努力をして命を繋ぐにも都合が悪い日がくる。乞食が少なければ、人は乞食が多い場所に移動する。そんな時は人の群れに混じって暮らすことになる。

人の群れに混じて暮らせば、智者のみなさんの教えをじっくり考えるのにも都合が悪い。望まない物、欲しくない物、喜ばしくない物(乞食しにくいこと)が私に訪れる前に、まだ到達していない物に到達するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために急いで努力すれば、乞食が困難になっても安楽に暮らせる」と熟慮して見ます。

4.比丘のみなさん。まだあります。比丘は「今みんなは互いに仲良く、仲違いせず、水と乳のように気が合い、愛し合う眼差しで見ている。しかしいつか災いがあり、山賊が暴れ回わる。そのような災いがあれば、土地次第の田舎の住民は散り散りに移住してしまい、全員が安全な場所に移住する。そんな時は人の群れに混じって暮らすことがある。

人の群れに混じって暮らせば、智者の教えをじっくり考えるにも都合が悪い。望まない物、欲しくない物、喜ばしくないもの(盗賊による災い)が私に訪れる前に、まだ到達していない物に到達するため、まだ明らかにしていない物を急いで明らかにするために急いで努力すれば、盗賊が暴れ回っても安楽に暮らせる」と熟慮して見ます。

5.比丘のみなさん。まだあります。比丘は「今サンガ(比丘四人以上の集団)は一致団結して仲違いがなく、同じ解説(理解)で、穏やかに暮らしている。しかしいつかサンガが分裂する日がある。サンガが分裂すれば智者の教えをじっくり考えるにも都合が悪い。

望まない物、欲しくない物、喜ばしくない物(サンガの分裂)が私を訪れる前に、まだ到達していない物に到達するため、まだ明らかにしていない物を急いで明らかにするために急いで努力すれば、サンガが分裂しても安楽に暮らせる」と熟慮して見ます。

 比丘のみなさん。この五つの将来の危険が見える比丘は、本当に油断がある人であるべきでなく、まだ到達していない物に到達するため、まだ明らかにしていない物を急いで明らかにするために、煩悩を焼く努力をし、永遠にそのように自分を追い遣るべきです。

増支部パンチャカニバータ 22巻117頁78項





将来の危険から逃げる努力 Ⅱ

 比丘のみなさん。この五つの将来の危険があり、それが見える森で暮らす比丘は、本当に不注意であるべきでなく、煩悩を焼く努力をし、まだ到達していないものに到達するため、まだ明らかにしていない物を急いで明らかにするために、永遠に自分をそのように追い遣るべきです。五つの将来の危険とは何でしょうか。五つとは、

1.この場合の森で暮らす比丘は「今、私は森に一人で暮らしている。毒ヘビやサソリやムカデが、森に一人で住んでいる私に噛みつくに違いない。私の死はそれが原因に違いない。その危険はきっとある。私は、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物を達成するため、まだ明らかにしていない物を急いで明らかにしてしまうために、急いで努力をする」と、このように熟慮して明らかに見ます。

2.比丘のみなさん。まだあります。森で暮らす比丘は「今、私は森で暮らしている。一人で森に住んでいると転落し、食べた物が毒になり、胆汁が悪くなり、痰がひどくなり、敵が暴れるように風が害になるかも知れない。私の死はこれが原因に違いない。その危険はきっとある。

私はまだ到達していない物に到達するため、まだ到達していない物に到達するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために、急いで努力をする」と、このように熟慮して明らかに見ます。

3.比丘のみなさん。まだあります。森で暮らす比丘は「今、私は一人に森で暮らしている。一人で森に住んでいれば、いろんな動物が一斉にやってくるに違いない。獅子もいるし、大トラもいるし、黄トラもいるし、熊やヒョウもいる。これらの猛獣が私の命を奪うかも知れない。

私の死はこれが原因に違いない。その危険はきっとある。私はまだ到達していない物に到達するため、まだ達成しない物を達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために急いで努力をする」と、このように熟慮して明らかに見ます。

4.まだあります。森で暮らす比丘が「私は今、一人で森に住んでいる。私が一人で森に住んでいれば、強盗をした人、あるいはまだ強盗をしていなくても(する意志のある)悪人たちが列をなして来るに違いない。それらの悪人たちは私の命を奪うに違いない。私の死はそれが原因に違いない。

その危険はきっとある。私はまだ到達していない物に到達するために、まだ達成していないことを達成するために、まだ明らかにしていない物を明らかにするために急いで努力する」と、このように熟慮して見ます。

5.まだあります。森で暮らしている比丘は「私は今、森に一人で暮らしている。森には悪い人間が住んでいる。それらが私の命を奪うに違いない。私の死はそれが原因に違いない。その危険はきっとある。私はまだ到達していない物に到達するために、まだ達成していないことを達成するために、まだ明らかにしていないものを明らかにするために急いで努力する」と、このように熟慮して見ます。

 比丘のみなさん。これら五つの将来の危険が見える森で暮らす比丘は決して油断のある人であってはならず、煩悩を焼く努力をし、まだ到達していないものに到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために、そのような行動に自分を追い遣るべきです。

増支部パンチャカニバータ 22巻115頁77項





努力をするための心の誓願

 比丘のみなさん。私はまだ二つのダンマである、すべての善に満足(サンドーサ。知足)を知らないことと、努力が後退する人であることを感じていました。

 比丘のみなさん。「この体の皮と腱と骨だけを残して、肉と血とは乾いてしまえ。力と奮闘努力によって、まだ到達していない利益に到達するまで、努力を辞めてしまうことはない」と、このように不退転の努力を続けました。比丘のみなさん。大悟は油断しないことで到達したものであり、アヌッタラヨーガッカケーマ(無上安穏)ダンマは不注意でないことによって到達したものです。

 比丘のみなさん。みなさんも「この体の皮と腱と骨だけを残して、肉と血は乾いてしまえ。力と奮闘努力によって、まだ到達していない利益に到達するまでは、努力を辞めてしうことはない」と、このように(心で誓願することで)不退転の努力を維持するべきです。

 そうすれば比丘のみなさん。みなさんも家を出て正しく家のない人になった良家の子息の利益である、それ以上に素晴らしい物は何もない梵行の終りを、生きているうちに、間もなく、最高の智慧で明らかにすることができ、そして常にその感覚の中にいます。

増支部ドゥカニバータ 20巻64頁251項





ホ その他

正しい努力の障害

 比丘のみなさん。まだ心を縛りつける五つの物を捨てられず、心を夢中にさせる物を断てない比丘は誰でも、その比丘がこのダンマヴィナヤで発展・成長することはあり得ません。

1.五つの心を縛りつける物(五結)

 その比丘が捨てることができない五つの心を縛りつける物(サンヨージャナ)はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘はまだ教祖に疑念があり、懐疑があり、納得して信頼せず、帰依しません。このような比丘は誰でも、その比丘の心は当然煩悩を焼く継続した努力に傾いていきません。(つまり正しい努力にならない)。こういうのが、その人がまだ捨てることができない心を縛りつける物の一番目です。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘はプラタム(ブッダの教え)に疑念があり、疑いがあり、納得して信頼せず、帰依しません。そのような比丘は誰でも、その比丘の心は当然継続して煩悩を焼く努力に傾いていきません。(つまり正しい努力にならない)。こういうのが、その人がまだ捨てることができない心を縛りつけるものの二番目です。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘はサンガに疑念があり、懐疑があり、納得して信頼せず、帰依しません。そのような比丘は誰でも、その比丘の心は、当然煩悩を焼く努力、継続して絶えることがない努力に傾いていきません。(つまり正しい努力にならない)。こういうのが、その人がまだ捨てることができない心を縛りつけるものの三番目です。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は学習(三学の)に関して疑念があり、懐疑があり、納得して信頼せず、帰依しません。そのような比丘は誰でも、その比丘の心は、当然煩悩を焼く継続した努力に傾いていきません。(つまり正しい努力にならない)。こういうのが、その人がまだ捨てることができない心を縛りつけるもの四番目です。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は梵行仲間に対してまだ怒りを抱く人で、喜ばず、怒りに触れる心があり、心を縛りつけるものがあります。そのような比丘は誰でも、その比丘の心は当然絶えず煩悩を焼く、継続した努力に傾いていきません。(つまり正しい努力にならない)。こういうのが、その人がまだ捨てることができない心を縛りつけるものの五番目です。

2.心を夢中にさせる五つの物

 その人がまだ捨てることができない、まだ断ち切ることができない、五つの心を夢中にさせる物はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は愛欲の貪り、欲、愛、渇き、焦燥、欲望がなくなっていない人です。述べたような比丘は誰でも、その比丘の心は当然煩悩を焼く努力、絶えず継続してする努力に傾いていきません。こういうのが、その人がまだ断ち切ることができない、心を夢中にさせる物の一番目です。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は体の貪り、欲、愛、渇き、焦燥、欲望がなくなっていない人です。そのような比丘は誰でも、その比丘の心は当然煩悩を焼く努力、継続して休みなくする努力に傾いていきません。こういうのが、その人がまだ断ち切ることができない、心を夢中にさせる物の二番目です。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は形の貪り、欲、愛、渇き、焦燥、欲望がなくなっていない人です。そのような比丘は誰でも、その比丘の心は、当然煩悩を焼く努力、絶えず継続してする努力に傾いていきません。こういうのが、その人がまだ断ち切ることができない心を夢中にさせる物の三番目です。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘は食事を満腹するまで食べ、寝ること、横になること、ぼんやりしていることに幸福を感じる人です。そのような比丘は誰でも、その比丘の心は、当然煩悩を焼く努力、絶えず継続してする努力に傾いていきません。こういうのが、その人がまだ断ち切ることができない、心を夢中にさせる物の四番目です。

 比丘のみなさん。まだあります。比丘はいずれかの天人の集団に入ることを期待して梵行をしている人です。そのような比丘は誰でも、その比丘の心は、当然煩悩を焼く努力、絶えず継続してする努力に傾いていきません。こういうのが、彼がまだ断ち切ることができない、心を夢中にさせる物の五番目です。

 これが、彼がまだ断ち切ることができない、その比丘の心を縛りつける五つの物です。

 比丘のみなさん。この五つの心を夢中にさせる物を捨てることができず、断ち切ることができない比丘は誰でも、その比丘がこのダンマヴィナヤで発展することはあり得ません。(努力があるよう促進する、反対の意味で話されているのもあります。学習者は自分で比較対照して見ることができます)。

中部ムーラバンナーサ 12巻204頁227項





怠け者の言い訳

 比丘のみなさん。この八つのクシータヴァットゥ(怠惰の基盤である物。八怠惰)があります。八つとはどのようでしょうか。

1. 比丘のみなさん。この場合の比丘は、しなければならない仕事があります。「仕事は私がしなければならないものだが、仕事をすると体が疲れる。それなら寝てしまおう」とこのように考え、彼は寝てしまって、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めません。比丘のみなさん。これが怠惰の一番目です。

2. 比丘のみなさん。まだあります。その比丘は終わった仕事があります。その比丘は「私は仕事をした。仕事をしたので疲れた。そうだ。それなら寝てしまおう」とこのように考え、彼は寝てしまい、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めません。比丘のみなさん。これが怠惰の二番目です。

3. 比丘のみなさん。まだあります。比丘は歩かなければならない道があります。その比丘は「私は道を歩かなければならない。だが道を歩くと体が疲れる。それなら寝てしまおう」とこのように考え、彼は寝てしまい、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めません。比丘のみなさん。これが怠惰の三番目です。

4. 比丘のみなさん。まだあります。比丘が歩いた道があります。その比丘は「私は道を歩いた。道を歩いたので疲れた。それなら寝てしまおう」とこのように考え、彼は寝てしまい、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めません。比丘のみなさん。これが怠惰の四番目です。

5 比丘のみなさん。まだあります。比丘が村や街で托鉢をして、下等な食べ物や上等な食べ物を求めるだけ得られません。その比丘は「私は村や街で托鉢をしたが、下等な食べ物も、上等な食べ物も、求めるだけ得られなかった。体は疲れて何もできない。よし、それなら寝てしまおう」とこのように考え、

彼は寝てしまい、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めません。比丘のみなさん。これが怠惰の五番目です。

6. 比丘のみなさん。まだあります。比丘が村や街で托鉢をして、下等な食べ物、あるいは上等な食べ物を求めるだけ得られます。その比丘は「私は村や街で托鉢をし、下等な食べ物も上等な食べ物も、求めるだけ得られた。私の体は水でふやかした豆のように重くて何もできない。よし、それなら寝てしまおう」とこのように考え、

彼は寝てしまい、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めません。比丘のみなさん。これが怠惰の六番目です。

7. 比丘のみなさん。まだあります。比丘に多少の病気が生じます。その比丘は「私に多少の病気が生じた。寝る言い訳があり、寝るべき理由がある。よし、それなら寝てしまおう」とこのように考え、彼は寝てしまい、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めません。比丘のみなさん。これが怠惰の七番目です。

8. 比丘のみなさん。まだあります。比丘は快癒して間もない病気があります。その比丘は「私は病気が治って間がない。まだ体がだるくて何もできそうにない。よし、それなら寝てしまおう」とこのように考え、彼は寝てしまい、まだ到達していない物に到達するため、まだ達成していない物に達成するため、まだ明らかにしていない物を明らかにするために努力を始めません。比丘のみなさん。これが怠惰の八番目です。

 比丘のみなさん。これが八つの怠惰の基盤です。

増支部アッダカニバータ 23巻243頁185項





努力に適さない時代

 比丘のみなさん。この五つの、努力に適さない時代があります。五つとはどのようでしょうか。

1. 比丘のみなさん。この場合の比丘は年寄で老いに支配されています。比丘のみなさん。これが努力に適さない時代の一番目です。

2. 比丘のみなさん。まだあります。比丘は病人で病いに支配されています。比丘のみなさん。これが努力に適さない時代の二番目です。

3. 比丘のみなさん。まだあります。籾米が被害を受けて乞食し難く、ご飯が得にくい時代は、快適に暮らすことができません。比丘のみなさん。これが努力に適さない時代の三番目です。

4. 比丘のみなさん。まだあります。災害があって密林が荒廃して庶民が逃げて行ってしまった時代は、努力に適さない時代の四番目です。

5. 比丘のみなさん。まだあります。サンガが分裂する時代、サンガが分裂した時は、罵り合い、非難し合い、誹謗し合い、見捨てます。そこで帰依しない人は帰依せず、帰依していた人も他の物に転向します。比丘のみなさん。これが努力に適さない時代の五番目です。

 比丘のみなさん。これらが、努力に適さない五つの時代です。



 比丘のみなさん。努力に適した時代も五つあります。五つはどのようでしょうか。

1. 比丘のみなさん。この場合の比丘は、まだ髪が黒々とした青年で、成長した若者の若々しさがある比丘です。これが努力に適した時代の一番目です。

2. 比丘のみなさん。まだあります。比丘は病気が少なく患いが少なく、いつでも安定して食べ物を消化し、熱すぎず冷えすぎない、努力に適した中くらいの火界があります。比丘のみなさん。これが努力に適した時代の二番目です。

3. 比丘のみなさん。まだあります。乞食しやすく、モミ米の被害がなく、ご飯が簡単に手に入る快適に暮らせる時代。比丘のみなさん。これが努力に適した時代の三番目です。

4. 比丘のみなさん。まだあります。すべての人間が睦み合って互いに楽しく、争い事がなく、乳と水のように溶けあい、互いに愛し合う人の視線で見ている時代は、比丘のみなさん。これが努力に適した時代の四番目です。

5. 比丘のみなさん。まだあります。サンガが団結し、睦み合って仲間割れせず、解釈が一致して穏やかに暮らしている時です。サンガが団結している時は罵り合いがなく、非難し合うことがなく、誹謗し合うことがなく、互いに見捨てることがなく、そこでは尊敬していない人も尊敬し、尊敬していた人は一層尊敬します。

 比丘のみなさん。これが努力に適した五つの時代です。

増支部パンチャカニバータ 22巻75頁54項





苦がある人のように暮らせば、善を満たすことができる

 比丘のみなさん。比丘は「快適に暮らせば悪が成長し、善が衰退する。自分を困難に維持すれば悪は当然衰退し、善が発展する。それなら自分を困難に維持しよう」と熟慮して見ていれば、その比丘は自分を困難に維持し、困難な中に自分を維持すれば悪は衰退し、善は益々発展します。

 その後その比丘は、二度と困難の中で自分を維持する必要はありません。その人が望む利益は、望んだようになるからです。矢を作る職人が炙って癖直しした矢は、その後二度と癖直しをする必要がないのと同じです。

 比丘のみなさん。刻苦勉励、奮闘努力はこのような結果もあります。

中部ウパリバンナーサ 14巻16頁15項





高度な段階の煩悩を捨てることにも幸福な暮らしがある

 ポッタパーダさん。私は当然、下品な自我を捨てるためにダンマを説きます。みなさんがそのダンマで実践すれば、すべての汚れたダンマは捨てられ、すべての清浄なダンマは益々発展し、生きているうちに、最高の智慧で智慧の発展を明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。

 ポッタパーダさん。あなたに「すべての汚れたダンマが捨てられ、すべての清浄なダンマが益々発展し、生きているうちに最高の智慧で智慧の繁栄を明らかにし、そしてその感覚の中にいるようになるには、その暮らしは辛く苦しいだろう」という考えが生じるかもしれません。

 ね、ポッタパーダさん。これはそのように考えてはいけません。すべての汚れたダンマも捨てることができ、すべての清浄なダンマを発展させ、生きているうちに、最高の智慧で智慧の発展を明らかにし、そして常にその感覚の中にいることもでき、喜悦、軽安、常自覚もあり、そしてそのようになるための暮らしも幸福です。

 (この後心で作った自我、形のない自我を得ることを捨ててしまうダンマを説かれています。そしてそれを捨てるための実践は苦しい暮らしではなく、幸福な暮らしと主張しておられます。現代の私たちは、ダンマの実践は大変で苦しいに違いないと理解しがちです)。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻241頁303項





四聖諦を明らかに知るだけでは正しい努力を極めていない

 比丘のみなさん。世界にはこの三種類の人がいます。三種類はどれでしょうか。三種類とは、膿んでいる傷のような心の人、稲光のような心の人、ダイヤモンドのような心の人です。

1. 比丘のみなさん。膿んでいる傷のような心の人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は怒りっぽい人で、恨むことが多く、人にちょっと言われると非常に不満で怒り、恨み、腹を立て、道理以上に怒りや憤懣を現します。膿んでいる傷が棒や瓦に触れると、過剰に膿が流れ出すのと同じです。比丘のみなさん。これが膿んでいる傷のような心の人です。

2. 比丘のみなさん。稲光のような心の人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は、普通に目の良い人が夜中に稲光を一瞬見るように、一瞬だけ「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知ります。比丘のみなさん。これが稲光のような心の人です。

3. ダイヤモンドのような心の人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は、すべての漏がなくなって、漏を探すことができないチェトーヴィムッティ(心解脱)、パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。

 (ダイヤモンドで傷つけられない宝石や石がないように)、その方の解脱で消滅させられない漏はありません。比丘のみなさん。これが、ダイヤモンドのような心の人です。

 比丘のみなさん。これが世界の三種類の人です。

増支部ティカニバータ 20巻155頁464項





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