解説十九 正しい努力
(二十六話)





イ 正しい努力の解説と分類


正しい努力の例

 比丘のみなさん。正しい努力はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然満足を生じさせ、当然努力をし、当然まだ生じていない罪である悪が生じないように心を支える努力を始め、当然満足を生じさせ、当然努力をし、当然生じている罪である悪を捨てるために心を支える努力を始め、

当然満足を生じさせ、当然努力し、当然まだ生じていない善を生じさせるために心を支える努力を始め、当然生じている善を維持し、当然満足を生じさせ、当然努力し、薄れさせず、更に成長させ、繁栄させ、発展させ、完成するように心を支える努力を始めます。

 比丘のみなさん。私はこれを正しい努力と言います。

長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻384頁299項





正しい努力である四正勤

 比丘のみなさん。これらの四正勤(正しい努力)があります。四つはどのようでしょうか。四つとはサンヴァラパダーナ(律義勤)、パハーナパダーナ(断勤)、バーヴァナーパダーナ(修勤)、アヌラッカナーパダーナ(随護勤)です。

 比丘のみなさん。サンヴァラパダーナ(律義勤)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、当然満足を生じさせ、当然努力し、まだ生じていない罪である悪を生じさせないために心を支え維持する当然努力を始めます。比丘のみなさん。これを律義勤=律義に勤しむと言います。

 比丘のみなさん。パハーナパダーナ(断勤)とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然満足を生じさせ、当然努力し、当然生じている罪である悪を捨てるために心を支え、心を維持する努力を始めます。比丘のみなさん。これを断勤=悪を断つことに勤しむと言います。

 比丘のみなさん。バーヴァナーパダーナ(修勤)とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然満足を生じさせ、当然努力し、当然まだ生じていない善を生じさせるために心を支え、心を維持する努力を始めます。比丘のみなさん。これを修勤=善を生じさせることに勤しむと言います。

 比丘のみなさん。アヌラッカナーパダーナ(随護勤)とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然満足を生じさせ、当然努力し、生じている善を維持するよう、ぼやけないよう、更に成長、繁栄、発展、完成するよう心を支え、心を維持する努力を始めます。比丘のみなさん。これを随護勤=善を維持することに勤しむ)と言います。

 比丘のみなさん。これが四正勤です。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻9頁69項





ロ 正しい努力の状態と同義語

四つの挙措に努力がある人の状態

 比丘のみなさん。比丘が歩いている時、愛欲の考えや復讐の考えや加害する考えが生じても、その比丘が取り合わないでそれらの考えを捨ててしまい、抜き出してしまい、残らずなくしてしまえば、このような比丘は歩いていても煩悩を焼く努力をし、(下賎な物に)恐れを知っている人で、常に煩悩を焼くことに身を捧げる努力を始めた人と言います。

 比丘のみなさん。比丘が立っている時、愛欲の考えや復讐の考えや加害する考えが生じても、その比丘が取り合わないで、それらの考えを捨ててしまい、抜き出してしまい、残らずなくしてしまえば、このような比丘は、立っていても煩悩を焼く努力をし、(下賎な物に)恐れを知っている人で、常に煩悩を焼くことに身を投じる努力を始めた人と言います。

 比丘のみなさん。比丘が座っている時、愛欲の考えや復讐の考えや加害する考えが生じても、その比丘が取り合わないで、それらの考えを捨ててしまい、抜き出してしまい、残らずなくしてしまえば、このような比丘は座っていても煩悩を焼く努力をし、(下賎な物に)恐れを知っている人で、常に煩悩を焼くことに身を投じる努力を始めた人と言います。

 比丘のみなさん。比丘が横になって目覚めている時、性の考えや復讐の考えや加害する考えが生じても、その比丘が取り合わないで、それらの考えを捨ててしまい、抜き出してしまい、残らずなくしてしまえば、このような比丘は横になって目覚めていても煩悩を焼く努力をし、(下賎な物に)恐れを知っている人で、常に煩悩を焼くことに身を投じる努力を始めた人と言います。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻17頁11項





四つの挙措に努力がある人の状態 Ⅱ

 比丘のみなさん。みなさんに戒があり、パーティモッガ(二二七戒)があり、そしてパーティモッガに細心の注意をし、行儀とゴーチャラ(よく行く場所)が完璧で、平素からどんな小さな物でもすべての罪の危害が見え、このようにすべての教条を学んで遵守すれば、まだ他にみなさんがしなければならない仕事があるでしょうか。

 比丘のみなさん。比丘が歩いていても貪りや恨みがなければ、コン(リッシンベンに昏)沈睡眠(眠気と寂しさ)、掉挙悪作(落ち着きのなさ)、疑念は、みなさんが捨てた蓋であり、努力は始めている衰退しないダンマであり、サティはみなさんが維持している忘れていないダンマであり、体は静かに鎮まってそわそわせず、心は一つの感情を維持しています。

 比丘のみなさん。このような比丘は歩いていても煩悩を焼く努力をし、(下賎なものに)恐れを知っている人、常に煩悩を焼くことに身を投じる努力を始めた人と言います。

 比丘のみなさん。比丘が立っていても貪りや恨みがなければ、コン沈睡眠、掉挙悪作、疑念は、みなさんが捨てた蓋であり、努力は始めている衰退しないダンマであり、サティはみなさんが維持していて忘れていないダンマであり、体は静かに静まってそわそわせず、心は一つの感情を維持しています。

 比丘のみなさん。このような比丘は立っていても煩悩を焼く努力をし、(下賎なものに)恐れを知っている人、いつでも煩悩を焼くことに身を投じる努力を始めた人と言います。

 比丘のみなさん。比丘が座っていても貪りや恨みがなければ、コン沈睡眠、掉挙悪作、疑念は、みなさんが捨てた蓋であり、努力は始めている衰退しないダンマであり、サティはみなさんが維持していて忘れていないダンマであり、体は静かに静まってそわそわせず、心は一つの感情を維持しています。

 比丘のみなさん。このような比丘は座っていても煩悩を焼く努力をし、(下賎な物に)恐れを知っている人、いつでも煩悩を焼くことに身を投じる努力を始めた人と言います。

 比丘のみなさん。比丘が横になって目覚めていても、貪りや恨みがなければ、コン沈睡眠、掉挙悪作、疑念は、みなさんが捨てた蓋であり、努力は始めている衰退しないダンマであり、サティはみなさんが維持していて忘れていないダンマであり、体は静かに鎮まってそわそわせず、心は一つの感情を維持しています。

 比丘のみなさん。このような比丘は、横になって目覚めていても煩悩を焼く努力をし、(下賎な物に)恐れを知っている人、いつでも煩悩を焼くことに身を投じる努力を始めた人と言います。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻17頁12項





正しい努力の同義語は四正勤

 比丘のみなさん。この四つの正勤があります。四つとはどのようでしょうか。四つとは、比丘のみなさん。この場合の比丘は、

1.まだ生じていない罪である悪が生じないために、当然満足を生じさせ、当然努力し、心を支え、心を維持する努力を始めます。

2.生じている罪である悪を捨てるために、当然満足を生じさせ、当然努力し、心を支え、心を維持する努力を始めます。

3.まだ生じていない善を生じさせるために、当然満足を生じさせ、当然努力し、心を支え、心を維持する努力を始めます。

4.生じている善を維持し、薄れないようにし、更に成長、繁栄、発展、完璧にするために、当然満足を生じさせ、当然努力し、心を支え、心を維持する努力を始めます。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻19頁13項





正しい努力である四正勤

 比丘のみなさん。これらの四つのパダーナ(努力)があります。四つはどのようでしょうか。四つとは律義勤、断勤、修勤、随護勤です。

 比丘のみなさん。律義勤とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は目で形を見ても、全部をまとめた状態で掌握する人でなく、部分に分けて掌握する人でなく、下賎な悪である、根源である根(インドリア)、つまり目に注意しない人に必ず流れて行く貪りと怒はのどれも、彼は当然その根に注意する実践をし、当然根つまり目を維持し、当然根つまり目に注意深くします。

 (耳・鼻・舌・体・心の場合も、同じように話されています)。比丘のみなさん。私はこれを律義根と言います。

 比丘のみなさん。断勤とはどのようでしょうか。この場合の比丘は生じているすべての悪である、生じている愛欲の考え、生じている恨みの考え、生じている加害の考えを受け入れず、払い捨て、抜き出して終わりにし、なくします。私はこれを断勤と言います。

 比丘のみなさん。修勤とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は当然七覚支のサティ、七覚支の択法、七覚支の精進、七覚支の喜悦、七覚支の軽安、七覚支のサマーディ、七覚支の捨に励み、それぞれが遠離に依存し、離欲に依存して手放すことに傾いていきます。比丘のみなさん。私はこれを断勤と言います。

 比丘のみなさん。随護勤とはどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の比丘は、生じている発展した(つまり六種類の死体の状態を意識することを維持する)サマーディニミッタである、アッディカサンニャー(註1)、プラヴァカサンニャー、ヴィニーラカサンニャー、ヴィプッパカサンニャー、ヴィッチッダカサンニャー、ウッドゥマータカサンニャーを維持します。比丘のみなさん。私はこれを随護勤と呼びます。

 比丘のみなさん。四種類の努力はこれらです。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻20頁項

註1: アッディカとは骨しかない死体、プラヴァカとはうじ虫しかいない死体、ヴィニーラカとは緑色になった死体、ヴィプッパカとは膿が流れ出ている死体、ヴィッチッダカとは、バラバラになった死体、ウッドゥマータカとは腹が膨れた死体のこと。サンニャーとは想で、それらの物を想うこと。





森を守る人のように努力する

 比丘のみなさん。みなさん悪を捨ててしまいなさい。すべての善をもらさず実践する努力をなさい。このような行動で、みなさんはこのダンマヴィナヤで発展、成長します。

 比丘のみなさん。町や村からあまり遠くない所に、大きな森とヒマの木で覆われた沙羅の森があり、ある男がその沙羅の森の安全を守るために、養分を奪う小さくて曲がった沙羅の木を伐採して森の外に捨て、周りをきれいに均し、真っ直ぐで美しい沙羅の木を守るのと同じです。

 比丘のみなさん。このようにすると、その沙羅の森が美しく繁るように、このような行動で、すべての善をもらさず実践する努力をすることで、みなさんはこのダンマヴィナヤで発展します。

中部ムーラバンナーサ 12巻252頁265項





ハ 正しい努力の用具と因縁

憐れは正しい努力の原因

 比丘のみなさん。この四種類の血統の良い人がこの世界にい、世界で見ることができます。四種類はどれでしょうか。四つの部類とは、

1.比丘のみなさん。この場合の発展した血統の良い人が、あの村やあの町に苦に至った、あるいは亡くなった女性や男性がいると聞くと、憐れを感じて悲しみ、悲しめば絶妙な努力を始め、ダンマの路線に自分を追い遣り、当然名身で第一義諦の真実を明らかにし、智慧で洞察します。

 比丘のみなさん。この種の発展した育ちの良い人を、パタック(馬に命令する時に使う先に鉤がついた棒)の影を見ただけで憐れを感じて悲しむ、発展した血統の良い馬に例えられると私は言います。

2.比丘のみなさん。まだ他の部類がいます。比丘のみなさん。この場合の発展した血統の良い人は、あの村やあの町に苦に至った、あるいは亡くなった女性や男性がいると聞きませんが、苦、あるいは死に至った女性や男性を自分の目で見て、憐れを感じて悲しみ、悲しめば絶妙な努力を始め、ダンマの路線に自分を追い遣り、当然名身で第一義の真実を明らかにし、智慧で洞察します。

 比丘のみなさん。この種の発展した人である血統の良い人を、パタックで毛穴を突かれて憐れを感じて悲しむ、発展した血統の良い馬に例えられると私は言います。

3.比丘のみなさん。まだ他の部類がいます。比丘のみなさん。この場合の発展した育ちの良い人は、あの村やあの町に苦に至った、あるいは亡くなった女性や男性がいると聞かず、苦、あるいは死に至った女性や男性を自分の目で見ませんが、親戚や血族が苦に至り、あるいは亡くなると憐れを感じて悲しみます。

 悲しめば絶妙な努力を始め、ダンマの路線に自分を追い遣り、当然名身で第一義の真実を明らかにし、智慧で洞察します。比丘のみなさん。この種の発展した人である血統の良い人を、パタックで皮を突かれて、憐れを感じて悲しむ、発展した血統の良い馬に例えられると私は言います。

4.比丘のみなさん。まだ他の部類がいます。比丘のみなさん。この場合の発展した育ちの良い人は、あの村やあの町に苦に至った、あるいは亡くなった女性や男性がいると聞かず、苦、あるいは死に至った女性、あるいは男性を自分の目で見ず、親戚や血族が苦に至り、あるいは亡くなることもありませんが、強烈で痛切で嬉しくない、満足できない、命が奪われるくらいの体の苦受に触れて、その人は憐れを感じて悲しみます。

 悲しめば絶妙な努力を始め、ダンマの路線に自分を追い遣り、当然名身で第一義の真実を明らかにし、智慧で洞察します。比丘のみなさん。この種の発展した人である血統の良い人を、パタックで骨まで突かれて、憐れを感じて悲しむ発展した血統の良い馬に例えられると私は言います。

 比丘のみなさん。これらの人がこの世界にい、世界で見ることができる四種類の血統の良い人たちです。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻154頁113項

 (これは、憐れを感じる出来事に憐れを感じれば感じるほど、努力をする気力が強くなると説いています)。




漏を終わらせる努力の初め

 比丘のみなさん。比丘が他人のヴァーラチッタ(心の感情の観察)に賢くない人なら、その人は「私は自分の心の観察に賢くなる」とこのように心に留めるべきです。

 比丘のみなさん。自分の心の観察に賢い人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。おしゃれ好きな若者や娘が、鏡や清潔な水を入れた器に自分の顔や姿を映して見て、埃やニキビがあればその埃やニキビを取ってしまう努力をし、埃やニキビが見えなければきれいで良かったと喜ぶように、比丘のみなさん。比丘が次のように熟慮すれば、すべての善の恩恵がたくさんあります。

 自分はほとんど貪りで生きているか、貪りがなくて生きているか。

 ほとんど恨みのある心で生きているか、恨みのない心で生きているか。

 ほとんど眠気と寂しさに包まれて生きているか、眠気と寂しさがなく生きているか。

 ほとんど散漫に生きているか、散漫でなく生きているか。

 ほとんど疑念を持って生きているか、疑念がなくなって生きているか。

 ほとんど怒りっぽい人として生きているか、怒りっぽくなく生きているか。

 ほとんど憂鬱な心で生きているか、憂鬱な心でなく生きているか。

 ほとんどダンマの実践で張り詰めた体で生きているか、緊張しない体で生きているか。

 ほとんど怠け者として生きているか、努力をする人として生きているか。

 ほとんど安定した心で生きているか、安定しない心で生きているか。

 比丘のみなさん。比丘が熟慮して「自分は大抵貪りが多く、恨みの心があり、コン沈睡眠に覆われ、散漫で、疑念があり、怒りっぽく、憂鬱な心で、緊張した体があり、怠け者で心が不安定だ」と感じるなら、

髪や着衣に火が点いて燃えている人が、髪や着衣の火を消すために、意欲、精進、奮闘努力、努力、不退転、サティと常自覚の行動をしっかりするべきなように、その比丘はそれらの罪や悪であるダンマを捨ててしまうために、強い意欲、奮闘努力、不退転、常自覚の行動をするべきです。

 比丘のみなさん。比丘が熟慮して「自分は大抵貪りがなく、恨みの心がなく、コン沈睡眠に覆われてなく、散漫でなく、疑念が終わり、怒りっぽくなく、憂鬱でなく、体が緊張してなく、努力を始め、盤石な心がある」と感じるなら、その比丘は更にすべての漏をなくすためにその善を維持し、そしてヨーガカンマ(註)をするべきです。

増支部ダサカニバータ 24巻97頁51項

註: 目的を成功させるために、それぞれの形の精一杯する体系的な努力の行動を、略してヨーガと言い、どの宗教でも使う共通の言葉です。




漏を終わらせる努力の初め Ⅱ

 比丘のみなさん。もし比丘が、他人のヴァーラチッタ(心の感情の観察)に賢くない人なら、そのような時その人は「私は自分の心の観察に賢くなる」とこのように留意するべきです。

 比丘のみなさん。自分の心の観察に賢い人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。おしゃれ好きな若者や娘が鏡や清潔な水を入れた容器に自分の顔や姿を映して見て、埃やニキビがあれば、その埃やニキビを取ってしまう努力をし、埃やニキビが見えなければ「きれいで良かった」と喜ぶように、比丘のみなさん。比丘が次のように熟慮すれば、すべての善にたくさんの恩恵がたくさんあります。

 私は内部がチェトーサマタ(註1)か。

 それとも内部がチェトーサマタでないか。

 私はアディパンニャーダンマヴィパッサナー(註2)の人か。

 それともアディパンニャーダンマヴィパッサナーの人でないか。

 比丘のみなさん。比丘が熟慮して「私は内部にチェトーサマタ(サマーディによる心の静まり)はあるが、まだアディパンニャーダンマヴィパッサナー(最高の智慧でするヴィパッサナー)はない」と考えるなら、その比丘は内部のチェトーサマタを維持して、最高の智慧でヴィパッサナーをするためにヨーガカンマ(註:3)をするべきです。

 (そうすれば)その比丘は、後で、内部にチェトーサマタがあり、最高の智慧によるヴィパッサナーもある人になります。

 比丘のみなさん。比丘が熟慮して「私は最高の智慧によるヴィパッサナーはあるが、内部のチェトーサマタはまだない」と考えるなら、その比丘は、高の智慧によるヴィパッサナーを維持して、ヨーガカンマで内部をチェトーサマタ(心寂止)にするべきです。(そうすれば)その比丘は、後で内部にチェトーサマタがあり、最高の智慧によるヴィパッサナーもする人になります。

 比丘のみなさん。その比丘が熟慮して「私は内部にチェトーサマタがなく、最高の智慧によるヴィパッサナーもない」と考えるなら、その比丘は髪や着衣に火が点いて燃えている人が、髪や着衣の火を消すために、強い意欲、奮闘、努力、不退転、常自覚の行動をしっかりしなければならないように、すべての善を得るために、強い意欲、奮闘、努力、不退転、常自覚を安定させるべきです。

(そうすれば)その比丘は、内部にチェトーサマタがあり、最高の智慧のヴィパッサナーをする人になります。

 比丘のみなさん。比丘が熟慮して「私は内部のチェトーサマタがあり、増上智慧ダンマヴィパッサナーもある」とこのように考えるなら、その比丘はそれらの善を維持し、すべての漏をなくすために一層ヨーガカンマをするべきです。

増支部ダサカニバータ 24巻104頁54項

註1: ヴィパッサナーの基礎として使えるレベルになり、サマーディの威力による心の静寂を意味します。心の問題なので「内部の成り行きである」と言います。

註2: そのものの無常・苦、無我のレベルの真実が見えるくらい最高の智慧でダンマを見ること。

註3: 目的を達成するために何らかの形で厳格に系統的にする努力のこと




根律儀は正しい努力の道具(悪が生じるのを防ぐ努力)

 大王。この場合の比丘は目で形を見ても、全体をまとめて(一つの物と)掌握する人でなく、部分に分けて掌握する人でもありません。下賎な悪であるどんな貪りも怒りも、根源である根つまり目に注意しない人に必ず流れて行きます。彼は当然その根を慎むために実践し、当然根である目を維持し、当然目である根に細心の注意をします。(耳・鼻・舌・体・心である根の場合も、目である根と同様に話されています)。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻93頁122項





悪を捨て善を増やす努力に関わる三つの受

 天人の統領である方。私は、喜びには味わうべき喜びと、味わうべきでない喜びの二種類があり、憂いには、味わうべき憂いと味わうべきでない憂いの二種類があり、捨には、味わうべき捨と味わうべきでない捨の二種類があると言います。

 味わっている時苦が成長し、善が衰えるどんな喜びも知っている人は、そのような喜びを味わうべきでなく、味わっている時悪が衰え善が成長するどんな喜びも知っている人は、そのような喜びを味わうべきです。

 すべての味わうべき喜びには、ヴィタッカもヴィチャーラ(熟考)もある喜びと、ヴィタッカもヴィチャーラもない喜びがあり、ヴィタッカもヴィチャーラもない喜びの方が緻密です。天人の統領である方。私は、喜びには味わうべき物と、味わうべきでない物の二種類があると言います。

 (憂いと捨の場合も、喜びの場合と同じように話されています。

 (「悪を成長させるので味わうべきでない」というのは、家を治めることから生じる受を意味し、「善を成長させるので味わうべき」というのは、家に関わらないネッカンマ(出離)に依存した受を意味し、「ヴィタッカとヴィチャーラがない」というのは、二禅以上の実践から生じた受を意味します。人がこの三つの受に正しく関われば、簡単に悪を捨て、善を発展させる努力ができます)。

長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻312頁257項





悪を捨て善を成長させる努力の道具と道具でないもの

1.カーヤサマーチャーラをする

 サーリプッタ。人がすると悪が成長し、善が衰えるどの種のカーヤサマーチャーラ(体の振る舞い。身正行)も、この種のカーヤサマーチャーラをするべきでありません。サーリプッタ。人がすると悪が衰え、善が成長する種類のカーヤサマーチャーラは、その種のカーヤサマーチャーラはするべきです。サーリプッタ。どんな種類のカーヤサマーチャーラをすると当然悪が成長し、善が衰えるでしょうか。

 サーリプッタ。この場合の人は殺生をする人、猟師で、手が血で汚れ、殺すことだけに忙しく動物を可愛がりません。そして町でも森でも、所有者が与えない物を窃盗行為で所有し、所有者が与えない財産と、財産の道具を所有します。そしてあらゆる愛欲の間違った振る舞いをします。

 母が大事にし、父が大事にし、兄弟が大事にし、姉妹が大事にし、親戚が大事にしている娘、夫がいる女性、借金のカタである女性、婚約者がいる娘にも間違った振る舞いをします。サーリプッタ。この種のカーヤサマーチャーラをすれば、悪は当然成長し、善は当然衰退します。

 サーリプッタ。人がどの種のカーヤサマーチャーラをすれば、当然悪が衰退し、善が当然成長するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は殺生を避け、殺生を捨てた人であり、丸太と武器を置いてしまい、恥があります。すべての動物を可愛がり、支援したい望みがあり、そして窃盗を避け、窃盗を捨てた人であり、町でも森でも、所有者が与えない財産と財産の用具を、窃盗行為で手に入れません。

 邪淫を避け、邪淫を捨てた人であり、母が大事にしている、父が大事にしている、兄弟が大事にしている、姉妹が大事にしている、親戚が大事にしている娘、夫がいる女性、借金のカタである女性、婚約をしている娘に間違った振る舞いをしません。サーリプッタ。この種のカーヤサマーチャーラをすれば、悪は当然衰退し、善は当然成長します。


2.ヴァチーサマーチャーラをする

 サーリプッタ。どの種のヴァチーサマーチャーラ(言葉による正しい振る舞い)をすれば、当然悪が成長し、当然善が衰退するでしょうか。

 サーリプッタ。この場合の人は平素から嘘を言う人で、証人として呼ばれて行った議会でも、会合でも、親戚の集まりでも、大勢の人の中でも、王族の中でも、「そうなったとあなたはどうして分かるのですか」と訊かれると、その人は知らなくても知っていると言い、知っていることは知らないと言い、見えなければ見えると言い、見えれば見えないと言い、このように分かっていて嘘を言います。

 自分の理由のこともあり、他人の理由のこともあり、報酬だけを考えてのこともあります。そして告げ口をする人でもあり、こちら側で聞いたことを、こちら側を分裂させるためにあちら側に言い、あちら側で聞いたことを、あちら側を分裂させるためにこちら側に言い、

団結している人たちを分裂させ、分裂している人たちを一層バラバラにするよう手助けし、徒党を組むことが好きで、群れていることを喜び、仲間でいることを喜び、分裂させることだけを言う人です。

 そして下品な言葉を言う人で、残酷で辛辣で、他人を怒らせる突き刺す言い方をし、怒りで悶々とし、サマーディがなく、詰まらないことをキリもなく喋る人で、ふさわしい時に言わず、真実を言わず、意味のあることを言わず、

ダンマで話さず、律で話さず、時にふさわしくなく、場所柄にふさわしくなく、終わりがなく、利益がなく、根拠のないことを言います。サーリプッタ。この種のヴァチーサマーチャーラをすれば、当然悪が成長し、善は衰退します。

 サーリプッタ。どの種のヴァチーサマーチャーラをすれば、当然悪が衰退し、当然善が成長するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は虚言を捨てた人で、証人として呼ばれた議会でも会合でも、親戚の集まりでも大勢の人の中でも、王族の中でも、

「そうなったとあなたはどうして分かるのですか」と訊かれると、その人は知っていれば知っていると言い、知らなければ知らないと言い、見れば見たと言い、見なければ見ないと、このように知っていて嘘を言いません。

 自分の理由のこともあり、他人の理由のこともあり、功徳を考えてのこともあります。そして両舌を捨てた人であり両舌を避け、こちら側で聞いたことを、こちら側を分裂させるためにあちら側に言わず、あるいはあちら側で聞いたことを、あちら側を分裂させるためにこちら側に言わず、一致している人たちを更に団結するよう助けます。一つにまとまっているのが好きな人で、一致することを喜び、一致していることに満足し、団結させることだけを言います。

 そして悪口を捨てた人で、悪口を避け、害のないこと、聞いて美しく、愛を生じさせ、心を膨らませる言葉、庶民が話す丁寧な言葉、多くの人が望み満足する言葉だけを述べます。

 そして綺語を捨てた人であり、饒舌を避け、ふさわしい時にだけ、利益がありダンマでありヴィナヤである真実だけを言い、根拠があり、依拠するものあり、終わりがあり、時間に見合う利益のあることだけを話します。サーリプッタ。この種のヴァチーサマーチャーラをすれば、当然悪が衰退し、善が成長します。


3.マノーサマーチャーラをする

 サーリプッタ。どの種のマノーサマーチャーラ(心の正しい振る舞い)をする人の悪が当然成長し、善が当然衰退するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は貪りが多く、他人の財産と財産の道具を「誰のどの財産も私の物になれ」と注目します。そして恨む心のある人で、考えが「これらの動物は殺されて欲しい。亡き者にされてしまえ。消滅しろ。破滅しろ。生きているな」と、このように加害する考えになります。

 サーリプッタ。この種の心の行動をすれば当然悪は成長し当然善は衰退します。サーリプッタ。どの種のマノーサマーチャーラをする人の善が当然成長し、悪が当然衰退するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は貪りが少なく、他人の財産と財産の道具を「誰のどの財産も、私の物になれ」と注目しません。

 そして恨む心のない人で、「これらの動物が虐められないよう。苦しみがないよう、幸福になるよう自分を守れ」と、このように悪意になりません。サーリプッタ。この種のマノーサマーチャーラをすれば、当然悪は衰退し、当然善は成長します。


4.チットゥパバーダをする

 サーリプッタ。どの種のチットゥッパーダ(心が生じること。心起)をする人の悪が当然成長し、善が当然衰退するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は貪りが多く、心に貪りのある人、恨みのある人、心に復讐心のある人で、害意があり、心に加害心のある人です。サーリプッタ。この種の心を生じさせれば悪は当然成長し、善は当然衰退します。

 サーリプッタ。心にどの種の心が生じた人の悪は当然衰退し、善が当然成長するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は貪りが多い人でなく、心に貪りがなく、恨みのある人でなく、心に復讐心がなく、害意のない人で、心に加害心がありません。サーリプッタ。この種の心を生じさせれば、悪は当然衰退し、善は当然成長します。


5.想の獲得をする

 サーリプッタ。どの種のサンニャーパティラーバ(想を得ること)をする人の悪が当然成長し、善が当然衰退するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は貪りの多い人で、貪りのある想で暮らし、恨みの多い人で、復讐心のある想で暮らし、害意のある人で、加害心のある想で暮らしています。サーリプッタ。この種の想を得れば悪は当然成長し、善は当然衰退します。

 サーリプッタ。どの種の想を得た人の悪が当然衰退し、善が当然成長するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は貪りの多い人でなく、貪りのない想で暮らし、恨みの多い人でなく、復讐心のない想で暮らし、害意のある人でなく、加害心のない想で暮らしています。サーリプッタ。この種の想を得れば悪が当然衰退し、善は当然成長します。


6.見の獲得をする

 サーリプッタ。どの種の見解を得た人の悪は当然成長し、善が当然衰退するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は、「布施をしても(結果が)ない。祭った供え物は(結果が)ない。崇拝する祭祀は(結果が)ない。動物がした善行悪行のカンマの報いはない。この世界はない。別の世界もない。親もない。オッパーティカもいない。

正しく実践して成就したこの世界と、他の世界を正しい智慧で明らかにし、公開して他人に教えたサマナ・バラモンもいない」という見解のある人です。サーリプッタ。この種のディッティ(見解)を得れば、当然悪は成長し、当然善は衰退します。

 サーリプッタ。どの種の見解を得た人の悪は当然衰退し、善が当然成長するでしょうか。サーリプッタ。この場合の人は、「与えた布施は(結果が)ある。祭った供え物は(結果が)ある。崇拝する祭祀は(結果が)ある。動物がした善行悪行のカンマの報いはある。この世界はある。別の世界もある。

親もいる。オッパーティカ(不還)もいる。正しく実践して成就したこの世界と、他の世界を正しい智慧で明らかにし、公開して他人に教えたサマナ・バラモンもいる」という見解のある人です。サーリプッタ。この種のディッティを得れば、当然悪は衰退し、当然善は成長します。


7.体の獲得をする

 サーリプッタ。どの種の体を得た人の悪が当然成長し、善が当然衰退するでしょうか。サーリプッタ。人が、苦がある体をもって生まれて、まだその人の有が終わっていなければ、当然悪は成長し、当然善は衰退します。

 サーリプッタ。どの種の体を得れば悪が当然衰退し、善が当然成長するでしょうか。サーリプッタ。人が、その人の有が終わって、苦がない体を持って生まれれば、当然悪は衰退し、当然善は成長します。


8.六感と付き合う

 サーリプッタ。人が目で明らかにするべき形を味わえば、当然悪が成長し、当然善が衰退する類の形、その種の目で明らかにする形は、人が味わうべきではありません。サーリプッタ。人が目で見る形を味わえば、当然悪が衰退し、当然善が成長する種類の形は、その種類の目で見る形を人は味わうべきです。

 (残りの五つの感情である耳で明らかにする声、鼻で明らかにする臭い、舌で明らかにする味、体で明らかにする接触、心で明らかにするダンマラマの場合も、目で明らかにする形の場合と同様に話されています)。


9.三依を使う

 サーリプッタ。人が使用すると悪が成長し、善が衰退する類のチーヴァラを、人はその種類のチーヴァラを使うべきではありません。

 サーリプッタ。人が使うと悪が衰退し、善が成長する類のチーヴァラ、人はその種類のチーヴァラを使うべきです。(食べ物と住まいである依の場合も、チーヴァラの場合と同様に話されています)。


10~13 村と町、都と田舎に住む

 サーリプッタ。人が住むと悪が成長し、善が衰退する種類の村は、人はその類の村に住むべきでありません。

サーリプッタ。人が住むと悪が衰退し、善が成長する種類の村は、人はその類の村に住むべきです。

 (町と都と田舎の場合も、同様に話されています)。


14.人と付き合う

 サーリプッタ。付き合えば悪が成長し、善が衰退する類の人、その類の人とは付き合うべきではありません。

 サーリプッタ。付き合えば悪が衰退し、善が成長する類の人、その類の人とは付き合うべきです。

中部ウパリバンナーサ 14巻155-164頁221-232項


 


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