マハープリサヴィタッカの教えで正しい生活
(あるいは聖人の正しい生活)

 善い、善い、アヌルッダさん。あなたが考えたマハープリサヴィタッカ(大人物について考えること)は、

1.このダンマは望みが小さい人のためで、望みが大きい人のためではありません。

2.このダンマはサンドーサ(知足)の人のためで、サンドーサでない人のためではありません。

3.このダンマは静まった人のためであり、集団と交わって喜ぶ人のためではありません。

4.このダンマは努力を始めた人のためであり、怠け者のためではありません。

5.このダンマは駆けつけるサティがある人のためであり、サティを忘れた人のためではありません。

6.このダンマは心が安定した人のためであり、心が安定していない人のためではありません。

7.このダンマは智慧のある人のためであり、智慧の劣った人のためではありません。 

 アヌルッダさん。あなたは、

8.このダンマは遅滞しない(註1)ことに満足する人、遅滞しないことを喜ぶ人のためであり、遅滞を喜び、遅滞することに満足する人のためではないという、このマハープリサヴィタッカの八番目の項目を考えるべきです。

註1: 涅槃への到達を遅らせるダンマは、タンハー(欲望)、マーナ(慢)、ディッティ(邪見)で、彼は欲望と傲慢と偏見・邪見のないことを喜ぶ人です。




マハープリサヴィタッカで正しく生きる功徳

1.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカ(大人物について考える)の八項を考えれば、その時はいつでも愛欲が静まり、すべての悪が静まり、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(継続して考えること)、遠離から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、望みどおり常にその感覚の中にいることが期待できます。

2.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカの八項を考えれば、その時あなたはいつでも、心の中を明るくする物であり、すべてのヴィタッカとヴィチャーラが静まって、サマーディから生じた喜悦と幸福があり、ヴィタッカもヴィチャーラもない二禅に到達し、望みどおり常にその感覚の中にいることを期待できます。

3.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカの八項を考えれば、その時あなたはいつでも、捨にいる人であり、サティがあり自覚があり、名身で幸福を味わい、喜悦が静まることで聖人方が「この定にいる人は捨にいる人で、サティがあり、正常な幸福でいる」と言われる三禅に到達し、望みどおりに常にその感覚の中にいることが期待できます。

4.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカの八項を考えれば、その時あなたはいつでも、幸福を捨てることができ苦を捨てることができ、苦も幸福もなく、、喜びと過去の憂いが消滅して、あるのは捨による純潔な自然であるサティだけの四禅に到達し、望みどおり常にその感覚の中にいることが期待できます。




四依の意味まで含めた功徳

1.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカ(大人物について考えること)の八項を考え、そして現生で幸福に暮らす道具である四つの定を簡単に困難でなく得られる人であり、このような四つの最高の心があれば、アヌルッダさん。

 その時驚愕しないことを喜び、涅槃に至る安楽な住まいに住んで、足ることを知っているあなたに、長者や長者の息子の衣装箱の中にある色とりどりに染められた布のように、糞掃衣が現れます。

2.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカの八項を考え、そして現生で幸福に暮らす道具である四つの定を簡単に、困難でなく得られる人で、このような四つの最高の心があれば、アヌルッダさん。その時驚愕しないことを喜び、涅槃に至る安楽な住まいに住んで、足ることを知っているあなたに、長者や長者の息子の、汁とたくさんの料理がある黒い粒のない麦飯のように、自力で手に入れた飯の塊が現れます。

3.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカの八項を考え、そして現生で幸福に暮らす道具である、四つの定を簡単に困難でなく得られる人で、このような四つの最高の心があれば、アヌルッダさん。その時驚愕しないことを喜び、涅槃に至る安楽な住まいに住んで足ることを知っているあなたに、

何度も塗り上げて隙間風が吹き抜けない、しっかりしたクサビがあり、ピッタリ閉まる窓がある、長者や長者の息子の尖った屋根のある家のように、木の根元の住いが現れます。

4.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカの八項を考え、そして現生で幸福に暮らす道具である、四つの定を簡単に困難でなく得られる人で、このような四つの最高の心があれば、アヌルッダさん。その時驚愕しないことを喜び、涅槃に至る安楽な住まいに住んで足ることを知っているあなたに、

長者や長者の息子の毛足の長い山羊の毛織物を敷いた、白い山羊の毛皮を敷いた、花輪の形状の布を敷いた、ジャコウネコの毛皮で作った敷物を敷いた、上に天蓋があり、両側に赤い脇息のある寝台のように、草を編んで作った寝台が現れます。

5.アヌルッダさん。あなたがこのマハープリサヴィタッカの八項を考え、そして現生で幸福に暮らす道具である、四つの定を簡単に困難でなく得られる人で、このような四つの最高の心があれば、アヌルッダさん。その時驚愕しないことを喜び、涅槃に至る安楽な住まいに住んで足ることを知っているあなたに、長者や長者の息子の薬、つまり透明なバターや濃いバター、蜂蜜、サトウキビ汁のように、腐尿薬が現れます。

増支部アッダカニバータ 23巻233頁120項





正しい生活は涅槃への投資

 (世尊がアングッタラーパの町の市場へ托鉢に行かれ、昼を過ごすためにその町から近い森へ行って、木の根本に座っていらっしゃると、その町に住んでいるポッタリヤという長者が、彼はかつて人生の成功者で、在家のしがらみから解放されて、財産のすべてを子孫に譲り、人々が仮定する解脱者のような生き方をし、

解脱者と見なされている服装をし、傘を持って靴を履き、憩いを求めて森の縁を歩き回っているうちに、世尊がいらっしゃる木立の所にやって来て、挨拶をして馴染んだ後も、傍らに立っていました。世尊はそのように突っ立っているポッタリヤ長者に言われました)。

 長者さん。ここに座があります。どうぞお坐りなさい。

 (ポッタリヤ長者は、自分は在家の仕事を脱したと自認しているのに、世尊に長者と呼ばれたことは、非常に見下されたも同然なので、不満に感じて腹を立て、座らずにそのまま立っていました。世尊が同じ言葉で再び座るよう勧めても、彼は怒りと不満で立ち続けて座りませんでした。世尊が三度目に座るよう勧めると、不満で答えました)。

 「ゴータマさん。私を長者と呼ぶのは間違っていますよ。ふさわしくないです」。

 長者さん。それは、あなたの様子や態度が長者であることを現しているからです。

 「ゴータマさん。私はすべての仕事を終えました。いろんな儲けのための投資を私は全部辞めました」。

 長者さん。あなたはいろんな仕事を辞め、どのようにいろんな投資を断ったのですか。

 「ゴータマさん、そのことですか。あるだけの財産、あるだけの米、金銀全部を子供全員に譲り渡しました。今後は誰にも教えず、文句を言いません。必要なのは食べる飯と衣服だけです。このようです、ゴータマさん。これが私が辞めたいろんな仕事のすべて、私が断った投資のすべてです」。

 長者さん。あなたが言われた投資を辞めることと、この聖なるヴィナヤの投資を辞めることとは違います。

 「猊下(註1)。アリヤヴィナヤの投資を辞めることは、どのようですか。アリヤヴィナヤの投資を辞めることを説いて、私に聞かせてください」。

 長者さん。それならしっかりお聞きなさい。話します。

 長者さん。この八項のダンマがこのアリヤヴィナヤの投資を辞めることです。八項とは、

1.殺生をしないカンマに依存して、殺生をするカンマを捨ててしまい、

2.人が与えた物だけを所持することに依存して、人から与えられない物は捨ててしまい、

3.真実である言葉に依存して、嘘を捨ててしまい、

4.告げ口をしないことに依存して、告げ口を捨ててしまい、

5.欲情で貪らないことに依存して、欲情で貪ることを捨ててしまい、

6.悪口を言われて怒らないことに依存して、悪口を言われて怒ることを捨ててしまい、

7.怒りで苦しまないことに依存して、怒りで苦しむことを捨ててしまい、

8.他人を見下さないことに依存して、他人を見下すことを捨ててしまいます。

 長者さん。詳しく分類せず、概略で述べたこれらの八項のダンマは、それでもアリヤヴィナヤの投資を断てます。

 「スガタ様。スガタ様がお話し下さった、概略であり、詳しく分類されなくても、それでもアリヤヴィナヤの投資を捨てる経過になる八項のダンマを、私を可愛がることに依存なさってどうぞこの八項のダンマを詳しく分類してください」。

 長者さん。それならしっかりお聞きなさい。話します。

 長者さん。私が「殺生をしないカンマに依存して、殺生をするカンマを捨ててしまう」と言うのは、次の理由に依存しています。

 この場合の聖なる弟子は、当然熟慮して「殺生をさせる原因であるサンヨージャナ(動物を輪廻に結び付ける煩悩。結)を捨てるため、断つために、私はこのように実践する。更に殺生をするカンマがあれば、殺生が縁で自分自身を非難する。知識者は熟慮して、殺生が縁で私を非難する。体が消滅して死んだ後、殺生が縁の悪趣も期待できる。

殺生こそサンヨージャナで、殺生こそ蓋だ。更に、苦しめ焦燥させるどんな漏も殺生が縁で生じる。殺生を避けてしまえば、そのように苦しめ焦燥させる漏は当然ない。だから殺生でないカンマに依存して、殺生であるカンマを捨ててしまう」と、このように見ます。

 (人が与えた物に依存して、人から与えられない物は捨ててしまうこと、真実である言葉に依存して、嘘を捨ててしまうこと、告げ口をしないことに依存して、両舌を捨ててしまうこと、欲情で貪らないことに依存して、欲情で貪ることを捨ててしまうこと、悪口を言われても怒らないことに依存して、悪口で怒ることを捨ててしまうこと、

怒りで苦しまないことに依存して、怒りで苦しむことを捨ててしまうこと、他人を見下さないことに依存して、他人を見下すことを捨ててしまうことも、殺生でないことに依存して、殺生を捨ててしまうことと同じように説明されています。

 つまり聖なる弟子は行動させる原因であるサンヨージャナ(結)があり、行動すれば自分で自分を非難し、智者も熟慮して非難し、死んだら悪趣に行くので、その行為はサンヨージャナであり、蓋であるとします。その行動を捨てれば、その後苦しめる物である漏はないと見ます。それから次の内容を話されました)。

 長者さん。この八項目のダンマはどれも(このように話したのも)まだ概略であり、詳細に分類していません。アリヤヴィナヤの投資を断つのは事実ですが、このアリヤヴィナヤの投資を全部捨ててはいません。

 「猊下。世尊。アリヤヴィナヤの投資を完全に断つダンマを、私に説いてください」。

 長者さん。それならしっかりお聞きなさい。話しましょう。

 (それから世尊は、愛欲と愛欲の凶悪な害について、空腹の犬の空腹を満たさない一本の骨、他の鳥が奪おうと狙っている鳥の嘴の中の肉片、逆風の松明、燃えている恐ろしい炭の穴、覚めれば消えてしまう夢の中の物、持ち主に返さなければならない借り物、そして熟した果物は当然自分自身を殺すことに例えられ、

聖なる弟子は熟慮して、正しい智慧で苦、憂いの害を真実のままに見、いろんな感情のある捨を捨ててしまうことができ、世界に引き止める物への取が残らず消滅する所である、一つだけの感情しかない捨に励む。その聖なる弟子は、それ以上に素晴らしい物がない、一つだけの感情があり捨ゆえに純粋なサティに依存して、いろんな過去生の有を思い出す洞察力で思い出すことができ、

そして動物が自分のカンマで来ては行くのが見える天眼があり、最後に漏のない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにし、そして常にその高い感覚の中にいると話され、そして次のように話されました)。

 長者さん。これだけの理由で、このアリヤヴィナヤ(この教団、つまり仏教でという意味)でヴォーハーラカンマ(投資)を完全に断ったと言われます。あなたはこれをどう思いますか。このようなヴォーハーラカンマを断つことが、あなたにあると思いますか。

 「猊下。私には何もありません! 猊下。私はアリヤヴィナヤのこのような断ち方と大きな隔たりがあります。

 猊下。すべてを知っていない他の教義の修行者たちをすべてを知っていると理解し、すべてを知っていない他の教義の修行者とすべてを知っている人に接すように付き合い、すべてを知っている人を知り尽してない人と見ていました。

 猊下。私はすべてを知っている比丘のみなさんをすべてを知らない人と理解し、すべてを知っている比丘と、すべてを知らない人のように付き合い、すべてを知らない人と見ていました。

 猊下。今私は、すべてを知らない他の教義の修行者はすべてを知らない人と分かったので、すべてを知らない人とすべてを知らない人に対するように付き合い、すべてを知らない人をすべてを知らない人と見ます。猊下。私はすべてを知る比丘のみなさんをすべてを知る人と知ったので、すべてを知る人とすべてを知る人に対するように付き合い、すべてを知る人をすべてを知る人と見ます。

 猊下。世尊は私のサマナへの愛をサマナの群れに生じさせ、サマナへの帰依をサマナの群れに生じさせ、サマナへの尊敬をサマナの群れに生じさせました。

 何と響きの良い。猊下。何と美しい響きでしょう。猊下。伏せてある物を裏返したようで、閉じていた物を開いたようで、道に迷った人に道を教えるようで、あるいは目のある人に形が見えるように暗闇に油の灯を置いたようです」。

 (それから彼は、自分は清信士=ブッダの教えで生きる人であると表明しました)。

中部マッジマバンナーサ 13巻33頁36項

註1: ここから彼は、ゴータマさんという呼び方から、敬称である「猊下、世尊」という言葉に変えている点を、学習者は観察して見なければなりません。

 (ここでのヴォーハーラという言葉は、いろんな訳語があると知っている読者にとって奇妙な訳語だと思います。つまり「話し言葉、成句、話し方、裁判所の起訴案件、売買、儲けを求めての投資」その他の意味があります。

 このブッダの言葉では、人間の義務は終わったと見なしている、自分の務めが最後まで終わった一人の在家の暮らし振りも意味しているので、ヴォーハーラという言葉は、自分の生き方を涅槃に到達するほど善くすることも意味すると捉えることができます。

 本当の自然について言えば、その動物も当然一つの結果、つまり命の最終目的のために自分自身に投資しています。一般の仏教教団員は自分の人生を最高に素晴らしい投資にするため、人間に生まれて、そして仏教に出合ったことを無駄にしないために、この経の意味に強い興味を寄せなければなりません。

 涅槃に到達するための正しい生き方は、正しい生業の意味があります。高すぎる正しい生業も、正しい生業と見なすことができるので、ここに挿入しました)。





ハ 正しい生業の実践規範


四依に関わる実践規範

1.チーヴァラ(衣)について

 比丘のみなさん。この場合の比丘は適切な熟慮をして、寒さをしのぎ、暑さをしのぎ、アブや蚊や風、陽射し、地を這う生き物との接触を避け、恥を感じさせる器官を隠すためだけにチーヴァラ(衣)をまといます。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻434頁329項


2.食べ物について

 比丘のみなさん。私は当然、一か所だけに座って食べ物を食べます。(つまり一回食べたら立ち上がって、その日はもう食べない)。比丘のみなさん。私は、一か所だけに座って食べ物を食べると、当然「病気が少ない人で、患いが少なく、体が軽快で敏捷で力があり、そして安楽でもある」と感じます。

 比丘のみなさん。さあ、みなさんも、一か所だけに座って食べ物を食べなさい。そうすれば病気が少なく、患いが少ない人で、軽快で敏捷で力があり、そして安楽だと感じます。

中部マッジマバンナーサ 13巻163頁160項


 あなたは絶妙な熟慮をして、遊びのためでなく、酔うためでなく、飾るためでなく、この体を維持するため、命を維持するため、苦痛を防ぐため、梵行を援けるためだけに、「私は古いヴェーダナー(受、つまり飢え)を排除し、新しいヴェーダナー(受、つまり食べ過ぎによる苦)は生じさせない。年齢を重ねること、食べ物による害がないこと、そして安楽は私にある」と考えて食べ物を食べなさい。


3.座臥所について

 あなたは絶妙な熟慮をして、ただ寒さを防ぎ、暑さを防ぎ、アブ、蚊、風、陽射し、這う生き物との接触を防ぐため、季節が原因で生じる危険を軽減するため、そして避けることを喜ぶ人であるためだけに座臥所を使いなさい。

4.医薬品について

 あなたは絶妙の熟慮をして、いろんな病気から生じる苦受を鎮めるため、そして苦に耐えなくても良い人であるためだけに、病人を支援する縁である医薬品を使いなさい。

増支部チャトゥッカニバータ 22巻434頁329項

 (これは出家のために話されましたが、在家も適宜に実践することができます)。





ニ 正しい生活の功徳 

正しい生活の結果

 大王。善人が大きな消費財(財産)を手に入れると、当然自分を十分幸福にし、両親を十分幸福にし、妻を十分幸福にし、下僕や使用人を十分幸福にし、友人や相談役を十分幸福にします。当然すべてのサマナ・バラモンに捧げる供物、報いとして幸福がある善である側、天国のためになる上方に、素晴らしい結果がある布施である供物を供えます。

 彼がそれらの消費財をこのように正しく使っていれば、国王はその財産を没収することなく、強盗も持ち去れず、火事にもならず、水害にも遭わず、嫌っている相続人も奪うことはできません。大王。このように正しく消費しているそれらの消費財は、当然無駄に消えず、消費することができます。

 大王。村や街に近い所に、緑陰と昇り降りに便利な桟橋があり、透明で清潔で水を飲むことができる池や沼があれば、人が自由に汲んで行って飲んだり浴びたりできるように、大王。善人が大きな消費財を手に入れると、

当然自分を十分幸福にし、両親を十分幸福にし、妻を十分幸福にし、下僕や使用人を十分幸福にし、友人や顧問を十分幸福にし、当然すべてのサマナ・バラモンに捧げる供物、報いとして幸福がある善である側、天国のためになる上方に、素晴らしい結果がある布施である供物を供えます。

 彼がそれらの消費財をこのように正しく使っていれば、国王はその財産を没収せず、強盗も持ち去れず、火事にも遭わず、水害にも遭わず、嫌っている相続者も奪うことはできません。大王。このように正しく消費しているそれらの消費財は、当然無駄に失うことなく消費、使用できます。

相応部サガータヴァッガ 15巻131頁388項





在家にとって完璧な正しい生活

 長者さん。その聖なる弟子が立ち上がる道具である努力で求め、体を汗で濡らして腕で集めた消費財は、四項目のカンマの行動のためにダンマで公正に手に入れた消費財です。四項目はどのようでしょうか。長者さん。この場合の四項目とは、

1.その聖なる弟子は、(冒頭で述べたように)ダンマで正しく求めた消費財を使って、自分を扶養して十分自分を幸福にし、自分が幸福であるよう正しく管理し、両親を扶養して十分に幸福にし、両親が幸福であるよう正しく気を配り、子妻下僕と使用人を扶養して十分に幸福にし、幸福で暮らすよう正しく保護し、友人や顧問を養って十分幸福にし、幸福に暮らすよう正しく気を配ります。

 これがその聖なる弟子が到達した、理由があって正しく消費する消費財の消費の一番です。長者さん。まだあります。

2.その聖なる弟子は、(冒頭で述べたように)正しく求めた消費財を使ってすべての危険を封じ、火や水や、王、強盗、あるいは愛していない相続人によって生じるすべての危険を封じて自分を安全にします。これが聖なる弟子が到達した、理由があって正しく消費する消費財の消費の二番目です。長者さん、まだあります。

3.その聖なる弟子は、(冒頭で述べたように)正しく求めた消費財を使って五つの祭祀を行います。親戚への援助、客への援助、故人への支援、国への支援、神々を祭ることです。これが聖なる弟子が到達した、理由があって正しく消費する消費財の消費の三番目です。まだ他にあります

4.その聖なる弟子は、(冒頭で述べたように)正しく求めた消費財を使って布施を維持し、報いである幸福があり、善側であり、天国のためになる、上方への素晴らしい結果があり、不注意や陶酔を避け、忍耐と柔和を維持する人、自分を静寂と滅にする訓練をする人であるすべてのサマナ・バラモンにお供え物を捧げます。これが聖なる弟子が到達した、理由があって正しく消費する消費財の消費の四番目です。

 長者さん。その聖なる弟子が当然立ち上がる道具である努力で求め、体を汗で濡らして腕の力で集めた消費財はダンマで公正に手に入れた消費財であり、聖なる弟子はその消費財をこれら四項目のカンマの行動をするために使います。

 長者さん。どんな人のすべての消費財も、今述べた四つの義務のカンマを避けて使い尽くせば、私は「その消費財はその人が使う資格のない財産であり、正しい理由がなく消費した消費財」と言います。

 長者さん。どんな人の消費財も、今述べた四つのカンマの義務で尽きれば、私は「その消費財は、その人の分にふさわしい財産であり、理由がある正しい使い方をした消費財」と言います。

増支部サッタカニバータ 21巻88頁61項





ホ その他

正しい生活は四依の話だけではない

 比丘のみなさん。この場合の比丘は十分に控えめな人で、十分にへりくだった人で、十分に冷静な人で、満足できない言葉に触れた一瞬でも、いつでも慎み深くしていることができるので、本当に慎み深いことで知られ、その上へりくだっていられるので、本当にへりくだっていると言われ、その上冷静でいられるので、本当に冷静だと言われます。

 比丘のみなさん。チーヴァラ(衣)や食べ物や住まいや医薬品を得たいために従う比丘は誰でも、私はその比丘を、素直な人と言いません。それはなぜでしょうか。それは、チーヴァラや食べ物や住まいや医薬品が得られなければ、その比丘は聞き従う人でなく、大人しい人ではないからです。

 比丘のみなさん。ダンマを尊重し、ダンマを尊敬し、ダンマを畏敬している比丘は誰でも、聞き従う人であり大人しい人です。これです。これらの人を私は、本当に聞き従う人と言います。

 比丘のみなさん。だからこのことはみなさん、「私はダンマを尊敬し、ダンマを尊重し、ダンマを畏敬して、聞き従う人、諭し易い人になる」と、このように留意なさい。

中部マッジマバンナーサ 12巻154頁266項


 


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