解説十七 正しい業





イ 正しい業の解説と分類

正しい業の解説

 比丘のみなさん。サンマーカンマンタ(正しい行い)とはどのようでしょうか。殺生を避ける意図、所有者が与えない物を取るのを避ける意図、すべての愛欲の間違った振る舞いを避ける意図です。比丘のみなさん。私はこれをサンマーカンマンタ(正しい行い)と言います。

長部マハーヴァッガ 10巻348頁299項





正しい業の解説 Ⅱ

 比丘のみなさん。正しい業(行い)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。動物を殺すのを避け、所有者が与えない物を取るのを避け、梵行(品行)でないカンマを避ける。私はこれを正しい業と言います。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻11頁37項

 (初めの経は邪行・不品行で説き、二番目の経は梵行・品行で説いています。初めの経は在家に、二番目の経は出家に説いていると理解します。一般には初めのように説かれ、二番目のようなのは非常に少ないからです)。





三つの状況で身業を判断する教えbr>
1.行動する前

 ラフラ。あなたが体で何らかのカンマを作ろうと思ったら、その前に「私が行おうとしている身業は、自分を苦しめるだろうか。他人を苦しめるだろうか。あるいは双方を苦しめるだろうか。悪である身業か、儲けとして苦があるか、報いとして苦があるか」と、そのカンマについてこのように熟慮なさい。ラフラ。熟慮してこのように感じたら、その種の身業は決して作るべきでありません。

 ラフラ。あなたが熟慮して「私がしようとしている身業は自分を苦しめず、他人も苦しめず、両方を苦しめない。善である身業で、儲けとして幸福があり、報いとして幸福がある」と、このように感じたら、ラフラ。その種の身業の行動をするべきです。

2.行動している時

 ラフラ。あなたが何らかの身業の行動をしている時、そのカンマを熟慮して「今私が行動している身業は、自分を苦しめ、他人を苦しめ、両方を苦しめる悪である身業であり、儲けとして苦があり、報いとして苦がある」と感じたら、その種の身業を止めてしまいなさい。

 ラフラ。あなたが熟慮して「私が今行動している身業は、自分を苦しめない。他人も苦しめない。両方を苦しめない。善である身業だ。儲けとして幸福があり、報いとして幸福がある」と感じたら、その種の身業を急いで増やすべきです。

3.行動した後

 ラフラ。あなたが体で何らかのカンマを作ったら、そのカンマを熟慮して「私が作った身業は、自分を苦しめ、他人を苦しめ、両方を苦しめる。儲けとして苦がある悪の身業で、報いとして苦があるかなあ」とこのように考えたら、ラフラ。あなたはその身業を、教祖、あるいはすべての智者である梵行仲間の前で説明して公表し、行動を表沙汰にすべきです。説明して公表し、表沙汰にしたら、その後は注意して大切にするべきです。

 ラフラ。あなたが熟慮して「私が行動した身業は、自分を困らせず、他人を困らせず、両方を困らせない。善の身業であり、儲けである幸福があり、報いである幸福がある」とこのように考えたら、ラフラ、あなたはすべての善を学ぶ喜びと喜悦で暮らすべきです。

中部マッジマバンナーサ 13巻126頁129項





二種類の説明による正しい業

 比丘のみなさん。正し業はどのようでしょうか。比丘のみなさん。私は、正しい業にも二つの部分があると言います。つまりまだ漏になり、徳の部分であり、報いとしてウパティ(社会生活に必要な縁。依)がある正しい業もあり、アリヤであり、漏がなく、ロークッタラ(世界を脱す)の八正道の項目である正しい業もあります。

 比丘のみなさん。まだ漏になり、徳の部分であり、報いであるウパティがある正しい業はどのようでしょうか。比丘のみなさん。動物の命を落とすのを避ける意図、所有者が与えていない物を取るのを避ける意図、欲情に関したすべての侵害を避ける意図です。比丘のみなさん。これが徳の部分であり、報いとしてウパティがある、まだ漏がある正しい業です。

 比丘のみなさん。アリヤであり、漏がなく、ロークッタラであり、道の項目である正しい業はどのようでしょうか。それは聖なる心のある人の、漏のない心のある人の、八正道に励んでいる人アリヤマッガサマンギーの、中止し、回避し、離れ、回避する意図です。比丘のみなさん。これがアリヤ(聖人の物)であり、漏がなく、ロークッタラであり、マッガの項目である正しい業です。

中部ウパリバンナーサ 14巻184頁271項





ロ 正しい業の形

正しい業の解説 

【殺生を差し控える】 彼は殺生を捨て、殺生を避け、丸太と武器(刃物)を置いてしまい、恥を知り、慈しみと憐れみに至り、すべての生類を支援することを望んでいます。

【盗みを差し控える】 彼は盗みを捨て、窃盗を避け、人から与えられた物だけを所有し、与えられる物だけを望む盗人ではない清潔な人です。

【邪淫を差し控える(在家の場合)】 彼は愛欲の振る舞いを捨て、愛欲の振る舞い(つまり誤った振る舞い)を避け、母が愛護し、父が愛護し、兄弟が愛護し、姉妹が愛護し、親戚が愛護し、ダンマが愛護する女性、夫がある女性、借金のかたの範囲にいる女性、婚約をしている女性に対して、それらの間違った振る舞いがない人です。

【不品行を避ける(出家の場合)】 彼は梵行でないカンマを捨て、平素から梵行の振る舞いをし、庶民のものである性交を回避し、近づかない行動をします。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻83頁103項





正しい業の状態と報い

 比丘のみなさん。この場合の聖なる弟子は、殺生を捨て、殺生を避けます。

 比丘のみなさん。聖なる弟子が殺生を避ければ、当然すべての動物に対して無限に許しを施し、恨まないことを施し、加害しないことを施すと言われます。すべての動物に対して、無限に許しを施し、恨まないことを施し、加害しないことを施せば、当然無限に危険や復讐心や加害心のない部分のある人です。

 比丘のみなさん。これが初歩のレベルの布施で、素晴らしい物、ずっと前からある物、昔からずっと行動されてきた物で、一度も見捨てられたことがなく、現在も見捨てられてなく、将来も見捨てられない物で、智者であるサマナ・バラモンが否定しない物と知られている偉大な布施です。

 比丘のみなさん。これは徳の源泉であり、幸福をもたらす善の源流であり、報いとして幸福がある最高の善のためになり、天国のためになり、望ましく満足できる幸福の利益のためになります。


 比丘のみなさん。まだ他にあります。聖なる弟子は盗みを捨て、盗みを避けます。比丘のみなさん。聖なる弟子が盗みを捨てれば、当然すべての動物に対して無限に許しを施し、恨まないことを施し、加害しないことを施すと言われます。すべての動物に対して無限に許しを施し、恨まないことを施し、加害しないことを施せば、当然無限に危険や復讐心や虐待する心のない人です。

 比丘のみなさん。これが二番目のレベルの布施で、素晴らしい物、ずっと前からある物、昔からずっと行動されてきた物で、一度も見捨てられたことがなく、現在も見捨てられてなく、将来も見捨てられない物で、智者であるサマナ・バラモンが否定しない物と知られてい偉大な布施です。

 比丘のみなさん。これは徳の源泉であり、幸福をもたらす善の源流であり、報いとして幸福がある最高の善になり、天国のためになり、望ましく満足できる幸福になり、利益があります。


 比丘のみなさん。まだあります。聖なる弟子は邪淫を捨て、邪淫を避けます。比丘のみなさん。聖なる弟子が邪淫を捨てれば、当然すべての動物に対して、無限に許しを施し、恨まないことを施し、加害しないことを施すと言われます。すべての動物に対して無限に許しを施し、恨まないことを施し、加害しないことを施せば、当然無限に危険や報復心や加害心のない人です。

 比丘のみなさん。これが三番目のレベルの布施で、素晴らしい物、ずっと前からある物、昔からずっと行動されてきた物で、一度も見捨てられたことがなく、現在も見捨てられてなく、将来も見捨てられない物で、智者であるサマナ・バラモンが否定しないものと知られている偉大な布施です。

 比丘のみなさん。これは徳の源泉であり、幸福をもたらす善の源流であり、報いとして幸福がある最高の善になり、天国のためになり、望ましく満足できる幸福の利益になります。

増支部アッダカニバータ 23巻250頁129項





ハ 正しい業の害と功徳

誤った業の報い

 比丘のみなさん。めいっぱいして、励んでたくさんした殺生は、当然地獄のためになり、畜生に生まれるためになり、餓鬼の境域のためになります。人間である人のすべての報いより軽い殺生の報いは、短命のためになります。

 比丘のみなさん。めいっぱいして、励んでたくさんした窃盗は、当然地獄のためになり、畜生に生まれるためになり、餓鬼の境域のためになります。人間である人のすべての報いより軽い窃盗の報いは、財産の衰徴のためになります。

 比丘のみなさん。めいっぱいして、励んでたくさんした邪淫は、当然地獄のためになり、畜生に生まれるためになり、餓鬼の境域のためになります。人間である人のすべての報いより軽い邪淫の報いは、敵による復讐のためになります。

増支部アッダカニバータ 23巻251頁130項





苦闘である結果を受け取らせるカンマ

 比丘のみなさん。私はみなさんに、(人間集団の)カンマによる苦闘に関したダンマの話をします。みなさん良くお聞きなさい。カンマで苦闘することに関したダンマの話はどのようでしょうか。

 比丘のみなさん。すべての動物は自分の物であるカンマがあり、カンマの相続者であり、生まれさせるカンマがあり、血縁になるカンマがあり、頼れるカンマがあり、善でも悪でも、どんなカンマの行動でも、そのカンマの結果を受け取る人になります。

 比丘のみなさん。この場合の人は、平素から殺生をする野蛮な人で、掌が血で汚れ、殺害と殴打しかなく、動物を可愛がることがありません。彼は体(のカンマ)で苦闘し、言葉(のカンマ)で苦闘し、心(のカンマ)で苦闘します。

 彼の身業は曲がり、彼の口業は曲がり、彼の意業は曲がり、彼の行く道は曲がり、彼の有に至ることは曲がっています。比丘のみなさん。私は、曲がった道、曲がった生まれの人が行く途は、二つのうちの一つと言います。つまり苦しかない地獄の動物か、苦闘する畜生、ヘビ、サソリ、ムカデ、マングース、猫、ネズミ、フクロウ、あるいは人間が見て悪戦苦闘していると見えるその他の畜生類です。

 比丘のみなさん。動物には、当然このような状況があります。つまり当然その動物は有に至ります。何らかのカンマを作ってあるので、当然そのカンマで有に至り、すべての触は当然生まれたその動物に触れます。

 比丘のみなさん。私は「すべての動物は、このようにカンマの相続者になる」と言います。

増支部ダサカニバータ 24巻309頁193項

 (この人の窃盗行為、邪淫行為についても、殺生の場合と同じように話され、不正な言葉四つと、不正な心三つの話をされています。次は善の側についてです)。





苦闘しない結果を受け取らせるカンマ

 比丘のみなさん。すべての動物は自分の物であるカンマがあり、カンマの相続者であり、生まれさせるカンマがあり、血縁になるカンマがあり、拠り所になるカンマがあり、善でも悪でも、どんな行為でもそのカンマの結果を受け取る人になります。

 比丘のみなさん。この場合の人は殺生を捨て、殺生を避け、丸太と刃物を置いてしまい、恥を知り、すべての動物を慈しみ憐れみ、支援するに至ります。彼は体(のカンマ)で苦闘せず、言葉(のカンマ)で苦闘せず、心(のカンマ)で苦闘しません。

 彼の身業は真っ直ぐで、彼の口業は真っ直ぐで、彼の意業は真っ直ぐで、彼の行くことも真っ直ぐで、彼のウッパティ(有に至ること。発生)も真っ直ぐです。比丘のみなさん。心が真っ直ぐで、ウッパティが真っ直ぐな人が行く道は、二種類の途のどちらかと私は言います。

 つまり幸福しかない動物(註1)、あるいは高い家系、偉大な武家、バラモンの家系、あるいは財産があり消費財があり金銀が豊富で巨万の富のある長者の家系です。

 比丘のみなさん。動物は当然このようになっています。その動物は当然ウッパティがあり、何らかのカンマを作ってあるので、当然そのカンマで有に至ります。すべての触は当然生まれたその動物に触れます。比丘のみなさん。「すべての動物は、このようにカンマの相続者になる」と私は言います。

 (窃盗をしない人、邪淫をしない人の場合も、殺生をしない人と同じように話され、そして正しい言葉四つ、正しい心三つについても同じように話されています)。

 比丘のみなさん。これが(動物の)カンマによる苦闘についての説明です。

増支部ダサカニバータ 24巻311頁193項

註1: この言葉は、ビルマ版とヨーロッパ版の三蔵では、「幸福しかない天国」になっています。


 


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