イ 正しい言葉の解説と分類
(13話)
正しい言葉の解説
比丘のみなさん。正しい言葉はどのようでしょうか。真実でないことを言うのを避ける意図、告げ口を言うのを避ける意図、粗暴な言葉を避ける意図、キリもなく無駄話をするのを避ける意図です。比丘のみなさん。私はこれを、正しい言葉と言います。
アリヤとアナリヤの話し方原則
比丘のみなさん。この八つのアナリヤオーハラ(聖人のでないロクデナシの話し方)があります。八つはどのようでしょうか。八つは、
人はよく、見ていないことを見たと言い、
人はよく、聞いていないことを聞いたと言い、
人はよく、感じていないことを感じたと言い、
人はよく、明らかに知らないことを明らかに知ったと言い、
人はよく、見たことを見ていないと言い、
人はよく、聞いたことを聞いていないと言い、
人はよく、感じたことを感じていないと言い、
人はよく、明らかに知ったことを明らかに知っていないと言います。
比丘のみなさん。これがアナリヤオーハラです。
比丘のみなさん。この八つのアリヤオーハラ(聖人の話し方で、ロクデナシのではない)があります。八つはどのようでしょうか。八つは、
人はよく、見ていないことを見ていないと言い、
人はよく、聞いていないことを聞いていないと言い、
人はよく、感じていないことを感じていないと言い、
人はよく、明らかに知っていないことを明らかに知っていないと言い、
人はよく、見たことを見たと言い、
人はよく、聞いたことを聞いたと言い、
人はよく、感じたことを感じたと言い、
人はよく、明らかに知ったことを明らかに知ったと言います。
比丘のみなさん。これがアリヤオーハラです。
二通りの説明による正しい言葉
(ローギヤとロークッタラ)
比丘のみなさん。正しい言葉はどのようでしょうか。比丘のみなさん。正しい言葉も二種類あると私は言います。漏になり、徳の部分であり、報いとしてウパティ(世俗の生活に必要な縁。依)がある正しい言葉もあり、アリヤ(聖人の物)であり、漏がなく、ロークッタラ(世界を脱す話)であり、マッガ(道)の項目である正しい言葉もあります。
比丘のみなさん。まだ漏になり徳の部分であり、報いとしてウパティがある正しい言葉はどのようでしょうか。真実でないことを言うのを避ける意図、告げ口を言うのを避ける意図、悪口を言うのを避ける意図、下品なことを言うのを避ける意図です。比丘のみなさん。これがまだ漏になる、徳の部分であり、報いとしてウパティがある正しい言葉です。
比丘のみなさん。アリヤであり漏がなく、ロークッタラであり、道の項目である正しい言葉はどのようでしょうか。それは、聖人の心のある人の、八正道のある人の、八正道で発展している人の、(述べたような)四つすべての不正な言葉を止め、避け、回避し、そして避ける意図です。比丘のみなさん。これがアリヤであり、漏がなく、ロークッタラであり、マッガの項目である正しい言葉です。
三つの口業の判断原則
行動しようとする時
ラフラ。あなたが言葉で何らかのカンマを作ろうと思ったら、「今作ろうとしている口業は自分を苦しめることになるだろうか。他人を苦しめることになるだろうか。双方を苦しめるだろうか。悪の口業か。苦を受け取るか。報いである苦があるか」と、このように前もって熟慮するべきです。熟慮してそのように考えたら、その種の口業を作るべきではありません。
ラフラ。熟慮して「私が行動しようとしている口業は、自分を苦しめず、他人を苦しめず、自他双方を苦しめない。善である口業で、得る善があり、報いとして幸福がある」と考えたら、ラフラ。あなたはこの種の口業の行動をするべきです。
行動している時
ラフラ。あなたが言葉で何らかのカンマの行動をしている時、「今作っている口業は、自分を苦しめることになるだろうか。他人を苦しめることになるだろうか。双方を苦しめるだろうか。悪の口業か。苦を受け取るか。報いである苦があるだろうか」と、このように熟慮するべきです。熟慮してそのように考えたら、その種の口業は捨ててしまうべきです。
ラフラ。熟慮して「私が今行動している口業は、自分を苦しめず、他人を苦しめず、双方を苦しめない。善の口業であり、善を受け取り、報いとして幸福がある」と考えたら、ラフラ。あなたはこの種の口業の行動を増やすべきです。
行動し終わった時
ラフラ。あなたが言葉で何らかのカンマの行動をし終わったら、「私が今作った口業は、自分を苦しめることになるだろうか。他人を苦しめることになるだろうか。双方を苦しめるだろうか。悪の口業か、苦を受け取るか、報いである苦があるだろうか」と、このように熟慮するべきです。
熟慮してそのように考えたら、あなたはその口業を、教祖やすべての智者である梵行仲間に説明し、公表し、公開すべきです。説明し、開示し、公表したら、その後は注意するべきです。
ラフラ。熟慮して「私が今行動している口業は、自分を苦しめず、他人を苦しめず、双方を苦しめない。善の口業であり、善を受け取り、報いとして幸福がある」と考えたら、ラフラ。あなたは昼も夜も、すべての善を学ぶ歓喜と喜びで暮らすべきです。
正しい言葉に関して褒めるべきこと、非難すべきこと
ポッタリヤさん。この四種類の人が世界にいます。どんな四種類でしょうか。四種類とは、
ポッタリヤさん。この場合の人は非難すべき人を、ふさわしい時に事実に基づいて非難しますが、褒めるべき人を、ふさわしい時に事実に基づいて褒めません。
ポッタリヤさん。この場合の人は褒めるべき人を、ふさわしい時に事実に基づいて褒めますが、非難すべき人を、ふさわしい時に事実に基づいて非難しません。
ポッタリヤさん。この場合の人は非難すべき人をふさわしい時に、事実に基づいて非難せず、そして褒めるべき人をふさわしい時に、事実に基づいて褒めません。
ポッタリヤさん。この場合の人は非難すべき人をふさわしい時に、事実に基づいて非難し、そして褒めるべき人をふさわしい時に、事実に基づいて褒めます。
ポッタリヤさん。この四種類の人が世界にいます。ポッタリヤさん。この四種類の中のどの種類が、あなたにとってより美しく緻密ですか。
「ゴータマ様。この四種類のうち、非難すべき人をふさわしい時に、事実に基づいて非難せず、そして褒めるべき人をふさわしい時に、事実に基づいて褒めない人たちが、私は美しく緻密だと思います。それは捨であり、美しいからです」。
ポッタリヤさん。この四種類のうち、非難すべき人をふさわしい時に事実に基づいて非難し、そして褒めるべき人をふさわしい時に事実に基づいて褒める人たちが、それらすべての部類の中で一番美しく、一番周到です。なぜなら、ポッタリヤさん。その人は時と場合を知っているので、美しく、そして緻密です。
ロ 正しい言葉の状態について
四正語の説明
【アムサーヴァーダ=虚言】 彼は真実でない言葉(虚言)を捨て、虚言を避け、真実だけを話し、誠実を維持し、言うことが一定して、信頼できることを話し、世間をわざと誤らせることを言いません。
【アピスナヴァーダ=両舌】 彼は告げ口(両舌)を捨て、両舌を避け、こちら側で聞いたことを、こちら側を分裂させるためにあちら側に隠さず、あちら側で聞いたことを、あちら側を分裂させるためにこちら側に隠しません。分裂した人たちを一致団結させ、一致している人たちを更に団結させ、心を一つにすることが好きな人で、一致していることを喜ぶ人で、一致していることに満足する人で、心を一つにすることだけを言う人です。
【アバルサヴァーダ=粗語】 彼は粗暴(悪口、暴言)な言葉を言うのを捨て、粗暴な言葉を言うのを避け、害がなく耳に美しい、愛を生じさせる言葉、心を膨らます言葉、庶民が話す丁寧な言葉、大衆が望み満足する言葉だけを言います。
【アサムバッパラーヴァーダ=綺語】 彼はキリもない話を捨て、際限ない話を避け、時にふさわしいこと、本当のこと、利益があり、ダンマであり、ヴィナヤであることだけを話し、根拠のあること、証拠のあること、終わりのあること、時にふさわしい利益のあることだけを話します。
正しい言葉である善い言葉
比丘のみなさん。五つがある言葉は悪い言葉でなく善い言葉であり、害がなく、智者が非難しない言葉です。五つとは何でしょうか。五つとは、
時にふさわしく言う
真実にしたがって言う
丁寧に言う
利益になるように言う
慈しみの心で言う
比丘のみなさん。この五つのある言葉は悪い言葉でなく、善い言葉であり、害がなく、智者が非難しない言葉です。
正しい言葉である善い言葉 Ⅱ
比丘のみなさん。四つがある言葉は悪い言葉でなく善い言葉であり、害がなく、智者が非難しない言葉です。四つとは何でしょうか。四つとは、
意味のある善い言葉(箴言)だけを述べ、悪い言葉を述べない
ダンマだけを述べ、ダンマに反すことは述べない
(聞き手にとって)可愛らしいことだけを述べ、憎たらしいことを述べない
真実だけを述べ、いい加減なことを述べない
比丘のみなさん。四つがある言葉は、悪い言葉でなく、善い言葉であり、害がなく、智者が非難しない言葉です。
善人の言葉と悪人の言葉
1.悪人の言葉
比丘のみなさん。四つのダンマがある人は悪人ということが知られています。四つはどのようでしょうか。四つとは、
比丘のみなさん。この場合の悪人は、誰も他人の悪について訊いていないのに、公表して明らかにし、誰かに訊かれた時は言うまでもなく、誰かに他人の悪について訊かれると問題を取り上げて避けて減らす余地をなくし、他人の欠点を精一杯詳しく述べます。比丘のみなさん。この人は悪人と知りなさい。
比丘のみなさん。他にも悪人がいます。誰かが他人の善について訊くと公表して明らかにせず、誰にも訊かれない時は言うまでもなく、誰かに他人の善について訊かれると問題を小さくしてはぐらせ、他人の善を十分詳しく話しません。比丘のみなさん。この人は悪人と知りなさい。
比丘のみなさん。他にも悪人がいます。誰かに自分の悪について訊かれると隠し、公表して明らかにせず、誰かに訊かれなければ言うまでもなく、誰かに自分の悪について訊かれると問題を小さくしてはぐらせ、自分の悪について十分詳しく述べません。比丘のみなさん。この人は悪人と知りなさい。
比丘のみなさん。他にも悪人がいます。誰にも自分の善について訊かれなくても自慢して公表し、誰かに訊かれれば言うまでもなく、誰かに自分の善について訊かれると、問題を小さくして避ける余地をなくし、自分の善について十分詳しく話します。比丘のみなさん。この人は悪人と知りなさい。
比丘のみなさん。この四つがある人は、悪人ということが知られています。
2.善人の言葉
比丘のみなさん。この四つがある人は、善人ということが知られています。四つとはどのようでしょうか。四つとは、
比丘のみなさん。この場合の善人は、誰かに他人の悪について訊かれても公表して明らかにせず、誰にも訊かれない時は言うまでもなく、誰かに他の人の悪について訊かれると問題を避けて小さくし、他人の悪について十分詳しく述べません。比丘のみなさん。この人は善人と知りなさい。
比丘のみなさん。別の善人もいます。誰も他の人の善について訊かなくても公表して明らかにし、誰かに訊かれた時は言うまでもなく、誰かに他人の善について訊かれれば問題を避けて小さくしないようにし、他人の善を十分詳しく話します。比丘のみなさん。この人は善人と知りなさい。
比丘のみなさん。別の善人もいます。誰にも自分の悪について訊かれなくても、公表して明白なものにし、質問された時は言うまでもなく、誰かに自分の悪について訊かれれば問題を小さくせず、自分の悪について十分詳しく話します。比丘のみなさん。この人は善人と知りなさい。
比丘のみなさん。別の善人もいます。誰かに自分の善について訊かれても公表して明らかにせず、誰かに訊かれない時は言うまでもなく、誰かに自分の善について訊かれれば問題を小さくして回避し、自分の善について十分詳しく言いません。比丘のみなさん。この人は善人と知りなさい。
比丘のみなさん。この四つがある人は善人であると知られている人です。
3.新嫁の言葉と古嫁の言葉
比丘のみなさん。嫁いでまだ一日だけ、一晩だけの新しい嫁は、姑や舅や夫、使用人にさえ、まだ固持している恥らいと恐れがあります。しかし時を経ると慣れによって、その嫁が「どいて、どいて。あんたたちは何も知らないんだから」と、姑や舅や夫を怒鳴りつけるように、比丘のみなさん。
家を出て出家して家のない人になってまだ一日、一晩だけのこのダンマヴィナヤの比丘は、比丘、比丘尼、清信士、清信女、寺にいる人や沙弥にさえ、彼の慚(恥)と愧(恐れ)はまだ強く維持されています。
時を経ると慣れによって、その人はアーチャンや戒師に「どいて、どいて、あなた方は何も知らないんだから」と大声で怒鳴ります。
比丘のみなさん。だからこのことは、みなさん。「私はまだ来たばかりの嫁のような心でいる」と、このように学び、注意するべきです。比丘のみなさん。みなさん、このように学び、記憶するべきです。
最高レベルの正しい言葉の原則
王子。真実でなく、利益がなく、そして他人に愛されず、心の拠り所にならないどの言葉もハッキリと分かるので、如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)は当然その言葉を言いません。
真実であっても利益がなく、そして他人に愛されず、心の拠り所にならないどんな言葉もハッキリと分かるので、如行は当然その言葉を言いません。
真実であり、利益があっても他人に愛されず、心の拠り所にならないどんな言葉もハッキリと分かるので、如行は当然その言葉を言う時を選びます。
真実でなく、利益がなく、しかし他人に愛され、心の拠り所になるどんな言葉もハッキリと分かるので、如行は当然その言葉を言いません。
真実であっても利益がなく、それでも他人に愛され、心の拠り所になるどんな言葉もハッキリ分かるので、如行は当然その言葉を言いません。
真実であり利益があり、そして他人に愛され、心の拠り所になるとハッキリ分かるどんな言葉も、如行は当然、その言葉を言うにふさわしい時を知る人です。
最高レベルの正しい言葉(ブッダのレベル)
ダンダパージサッカが、世尊に「プラサマナは日頃どのような言葉でどのように話されるのですか」と質問しました。
友よ。私は天人界と悪魔界と梵天界と動物界と、サマナ・バラモンと人間と天人も含めた世界の誰とも争うことがない話し方です。
もう一つ、私が日頃どのように話しても、(今は)罪が終わった人であり、愛欲の自分がなく、疑念で「これはどうか」と言う必要がなく、体と心の煩わしさを断ってしまい、どんな有にも欲望がない人の、心に想(過去の話)が貼りついていない話し方です。友よ、私は日頃このような言葉でこのように話しています。
リ 正しい言葉に欠ける害
先生レベルの綺語(くだらない話)の例
例1
「ゴータマ様。道、または道でない物について、多くのバラモンが違う規定をし、アッダリアバラモンも規定し、ティッティヤバラモンも規定し、チャンドーカバラモンも規定し、プアハリダーバラモンも規定していますが、それらはすべて、その道を行く人を、梵天の友達になれるよう導くことができる道です。街や都に近い沢山の道はどれもすべて街のどこかに至るのと同じです」。
ヴァーセッタさん。それらヴェーダの三バラモンの中に一人でも、梵天を明らかに見た人はいますか。
「それはおりません。ゴータマ様」。
ヴァーセッタさん。それならそれらヴェーダの三バラモンの先生の一人でも、梵天を明らかに見た人はいますか。
「いいえ、おりません。ゴータマ様」。
ヴァーセッタさん。それらヴェーダの三バラモンの大先生の一人でも、梵天を明らかに見た人はいますか。
「おりません。ゴータマ様」。
ヴァーセッタさん。それらの七代続いているヴェーダの三先生の一人でも、梵天を見た人はいますか。
「おりません。ゴータマ様」。
ヴァーセッタさん。すべての古い仙人、つまりアッダカ仙人、ヴァーマカ仙人、ヴァーマデーヴァ仙人、ヴァーッサミッタ仙人、ヤマタッギー仙人、アンギーラサ仙人、ヴァーラダヴァー仙人、ヴァーセッタ仙人、カッサパ仙人、バグ修行者の中で、
呪文を綴ってすべてのバラモンに教え、唱えさせ、続唱させ、追唱させ、復唱させ、現在まで続けている仙人の中に、「梵天はどこのどんな所にどのような状態でいるか私は知っている」と主張できる人が一人でもいますか。
「それはおりません。ゴータマ様」。
ヴァーセッタさん。バラモンとバラモンの先生と仙人の誰一人明らかに梵天を見た人がいないのに、そのようにバラモンの友達になる道を説くのを、あなたはこれをどう思いますか。ヴェーダの三バラモンたちの言葉は、当然威力のある言葉ではない(訳註:それを聞いた人を信じさせるだけの理由がない)のではないですか。
「確かに、ゴータマ様。それなら、そのヴェーダの三バラモンの言うことは、当然威力のない言葉です」。
そうです、ヴァーセッタさん。すべてのバラモンが梵天を知らず見えないのに、それで梵天と友達になる道を説くことはできません。
ヴァーセッタさん。盲人が一列に並んでいると先頭の人は何も見えず、中間の人も何も見えず、列の終りの人も何も見えないように、ヴァーセッタさん。すべてのヴェーダの三バラモンの言うことも、盲人の列のように、初めに言った人も梵天が見えず、次に言った人も梵天が見えず、最後に言った人も梵天が見えません。
だから彼らの言うことは滑稽な言葉、下賎な言葉、中身のない言葉、いい加減な言葉になります。
(これが、最高レベルの綺語の例です)。
例2
ヴァーセッタさん。ヴェーダの三バラモンすべてに太陽と月が見え、他の集団の人のほとんどの人が太陽と月を見ることができ、太陽と月はどっちの方角から昇ってどっちの方角へ沈むと言い、揃って祈願し、称賛し合い、合掌してグルグルと周りを歩いていたら、あなたはこれをどう考えますか。
「確かに。ゴータマ様。そのようなら、それらっトライヴェーダのバラモンの言う言葉は、当然神通のない言葉になります」。
どちらも、ではないですか。
「そうです。ゴータマ様」
ヴァーセッタさん。あなたはこれをどう考えますか。ヴェーダの三バラモンたちも、他の人たちの多くも、このように太陽と月が見えていれば、ヴェーダの三バラモンたちは、月や太陽と同じ場所に行く道を説くことができますか。
「それはできません。ゴータマ様」。
ヴァーセッタさん。ヴェーダの三バラモンとその他のほとんどの人たちに、このように太陽と月が明らかに見えても、月や太陽と同じ場所に行く道を説くことができないなら、そしてバラモンたちも、バラモンの先生たちも、バラモンに呪文を教える仙人たち全員が明らかに梵天を見たことがないなら、そのように梵天と友達になる道を説くのを、あなたはどう考えますか。
それらのヴェーダの三バラモンの言うことは、当然神通のない言葉になるのではないですか。
「確かに、ゴータマ様。そうならば、それらのヴェーダの三バラモンの言葉は神通のない言葉です」。
その通りです、ヴァーセッタさん。バラモンの誰もが梵天を知らず見たことがないのに、このように梵天と友達になる道を説くことは、できません。
例3
ヴァーセッタさん。それはまるで「私はこの田舎で、田舎の美人を探している」と言う男がいて、みんなが「発展した方。あなたが探している田舎の美人は武士の娘か、バラモンの娘か、あるいは町人の娘か、賤民の娘か知っていますか」と訊くと、知らないと答えます。
人々が再び「あなたが探している田舎の美人は何という名、何という氏で、背は高いか低いか、あるいは中背か、色は黒いか小麦色か、それとも金色か、向こうの村に住んでいるのか、それとも町か、あるいは都ですか」と訊くと、彼は「まったく分からない」と答えるようなものです。
ヴァーセッタさん。あなたはこれをどう思いますか。この人の言葉は、当然威力のない言葉になるのではないですか。
「確かに。ゴータマ様」。
例4
ヴァーセッタさん。四つ角に建っている城に掛ける梯子を作った男に、みんなが「発展した方。あなたは城に掛ける梯子を作ったが、その城は東にあるのか、南にあるのか、西にあるのか、それとも北にあるのか。高いか、低いか、それとも中くらいか」と訊くと、その男は「まったく分からない」と答えます。
人々が再び「発展した方。あなたは見たことがない城に掛けるために、梯子を作ったのかね」と訊くと、「そうです、みなさん」と答えるようなものです。ヴァーセッタさん。この男の言う言葉は、効力のない言葉になるのではないですか。
「確かに。ゴータマ様」。
例5
ヴァーセッタさん。カラスが止まって飲めるほど水が溢れているアジラワディー川に、その時男がやって来て、男は向こう岸に利益があり、向こう岸を求め、向こう岸へ行きたい、向こう岸へ渡りたいと望んで、こちら岸に立って「向こう岸よ、来い。向こう岸よ、来い」と叫んでいるようなものです。
ヴァーセッタさん。あなたはこれをどう思いますか。叫んで呼ぶことで、懇願することで、願うことで、あるいはその男が満足することで、アジラワディー川の向こう岸がこっちへ来ると思いますか。
「ゴータマ様。それはできません」。
(この例のような威力のない言葉は、先生レベルの綺語=くだらない話=の見本です)。
誤った言葉の報い
比丘のみなさん。めいっぱいして励んでたくさん言ったムサヴァーダ(虚言)は当然地獄のためになり、畜生に生まれるためになり、阿修羅の領域のためになります。人間である人のすべての報いより軽い虚言の報いは、真実でない嘘を言われることです。
比丘のみなさん。めいっぱい励んでたくさん言ったピスナヴァーダ(仲違いさせる言葉。両舌)は、当然地獄のためになり、畜生に生まれるためになり、阿修羅の領域のためになります。人間である人のすべての報いより軽い両舌の報いは、友達と仲違いすることです。
比丘のみなさん。めいっぱい励んでたくさん言ったパルサヴァーダ(暴言。粗語)は、当然地獄のためになり、畜生に生まれるためになり、阿修羅の領域のためになります。人間である人のすべての報いより軽い暴言の報いは、満足できない(理不尽な)言葉を聞くことです。
比丘のみなさん。めいっぱいして励んでたくさん言ったサムパッラーヴァーダ(くだらない話。綺語)は、当然地獄のためになり、畜生に生まれるためになり、阿修羅の境域のためになります。人間である人のすべての報いより軽いくだらない話の報いは、誰にも言うことを信用されなくなることです。
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