解説十五 正しい考えについて





イ 正しい考えの解説と分類


正しい考えの解説

 比丘のみなさん。正しい考えはどのようでしょうか。愛欲から出る考え、害意のない考え、苦しめない考えです。比丘のみなさん。これを正しい考えと言います。

長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻348頁299項





正しい考えの二つの例え

 比丘のみなさん。正しい考えはどのようでしょうか。比丘のみなさん。正しい考えにも二つあると言います。漏になり、徳の部分であり、報いとしてウパディがある正しい考えもあり、アリヤ(聖)であり、漏がなく、ロークッタラ(世界から出ること。第一義諦)であり、マッガの項目である正しい考えもあります。

 比丘のみなさん。漏になり、徳の部分であり、報いとしてウパディ(依)がある正しい考えはどのようでしょうか。それは各種の正しい考え、復讐心のない正しい考え、加害しない正しい考えです。比丘のみなさん。これが漏になり、徳の部分であり、報いであるウパディのある正しい考えです。

 比丘のみなさん。アリヤ(聖人の物)であり、漏がなく、ロークッタラ(涅槃に至る)であり、マッガ(道。八正道)の項目である正しい考えはどのようでしょうか。それは聖なる心のある人、漏がない心のある人、八正道がある人、八正道に励んでいる人の、タッカ(註1)、ヴィタッカ、サンカッパ、アッパナー、ビャッパナー、チェタソビニローパナー、そして口行です。

中部ウパリバンナーサ 14巻182頁361項

註1: これらの言葉の意味は、心が何らかの考えとして意識し、そして発言させる働きのある感情の安定という意味です。

 つまりタッカ(熟考)、ヴィタッカ=ヴィタッカ(一つのことを継続して考えること)、サンカッパ(考えること)、アッパナー(素晴らしい安定)、チェタソアビニローパナー(心の考えの最高の繁栄)、ヴァチーサンカーラ(言葉による行。口行)です。





ヴィタッカの二つの例
(涅槃のためと涅槃のためでない)

 比丘のみなさん。この三種類の悪の考えは盲目の行動をさせる物であり、目を生じさせる行動でなく、ニャーナ(知ること。智)を生じ指せる行動でなく、智慧を消滅させる行動であり、困窮の側であり、涅槃になりません。三種類とは何でしょうか。

 カーマヴィタッカ(愛欲の考え)、ビャーパーダヴィタッカ(復讐の考え)、ヴィヒンサーヴィタッカ(加害する考え)。比丘のみなさん。この三種類の悪である考えは、盲目の行動をさせる物であり、目を生じさせる行動でなく、ニャーナを生じさせる行動でなく、智慧を消滅させる行動であり、困窮の側であり、涅槃になりません。

 比丘のみなさん。この三種類の善の考えは、盲目にする行動でなく、目を生じさせる行動であり、ニャーナを生じさせる行動であり、智慧を発展させる行動であり、困窮の側でなく、涅槃になります。三種類とは何でしょうか。

 三種類とは、ネッカンマヴィタッカ(愛欲から出る考え。出離の考え)、アビャーパーダヴィタッカ(復讐しない考え)、アヒンサーヴィタッカ(加害しない考え)です。比丘のみなさん。この三種類の善である考えは、盲目にする行動でなく、目を生じさせる行動であり、ニャーナを生じさせる行動であり、智慧を進歩させる行動であり、困窮の側ではなく、涅槃になります。


経末のガーター(詩)

 三つの善の考えをするべきで

 三つの悪の考えを生じさせるべきではない


 雨が舞い上がるホコリを静めるように、

 その方は拡散する考えを静めることができる


 その方は思慮が静まった心があり、

 この世界の平安に至った

小部イティウッタカ 24巻293頁266項





四種類の出離に関わる人

 比丘のみなさん。この四種類の人がこの世界にいます。四種類とは何でしょうか。四種類とは、

①体は出ても心は出ていない。
②体は出ていないが心は出た。
③体も心も出ていない。
④体も心も出ている。

 比丘のみなさん。体は出たが心は出ていないと言われる人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は静かな住まい、つまり森や密林に住み、そこで彼は愛欲の考え、復讐する考え、加害する考えをします。比丘のみなさん。こういうのを、体は出たが心は出ていない人と言います。

 比丘のみなさん。体は出ていないが心は出た、と言われる人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は静かな住まい、つまり森や密林に住んでいませんが、そこで彼は、愛欲から出る考え、復讐しない考え、加害しない考えをします。比丘のみなさん。こういうのを、体は出ないが心は出た人と言います。

 比丘のみなさん。体も心も出ていない人と言われる人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は静かな住まい、つまり森や密林に住まず、愛欲の考え、復讐する考え、加害する考えをします。比丘のみなさん。こういうのを、体も心も出ていない人と言います。

 比丘のみなさん。体も心も出た人と言われる人はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この場合の人は静かな住まい、森や密林に住み、そこで彼は愛欲から出る考え、復讐しない考え、加害しない考えをします。比丘のみなさん。こういうのを、体も心も出た人と言います。

 比丘のみなさん。この四つの分類の人が、この世界にいます。

増支部チャトゥッカニバータ 21巻185頁138項





ロ 正しい考えの状態


正しい考えとしての聖諦の考え

 比丘のみなさん。みなさんは罪であるすべての悪い考えである、愛欲の考え、復讐する考え、加害する考えをしてはいけません。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それは、これらのヴィタッカ(断続的に考えること)には利益がなく、梵行の初めでなく、倦怠、欲情の弛緩、滅、鎮静のためにならず、最高の智識、悟りのためにならず、涅槃にならないからです。

 比丘のみなさん。みなさんが考える時は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」とこのように真実について考えなさい。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。これらのヴィタッカには利益があり、これらのヴィタッカは梵行の初めであり、これらのヴィタッカは倦怠、欲情の弛緩のため、滅、鎮静のため、最高の智識、悟りのため、涅槃のためになるからです。

 比丘のみなさん。だからみなさん。「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、このように真実のままに明らかに知る行動であるヨーガカンマ(目的を達成するために何らかの形で厳格に、系統的にする努力のこと)がなければなりません。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻524頁1660項





正しい考えとしての聖諦の思慮

 比丘のみなさん。だからみなさん。「世界は不変だ。世界は不変ではない。世界に終わりがある。世界に終わりはない。命と体は同じ。命と体は違う。如行が死んだ後当然存在する。如行が死んだ後は当然存在しない。如行が死んだ後、当然いるのでもなく、当然いないのでもない」という、罪であり不善である思慮をしてはいけません。

 それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。それらの思慮には利益がなく、梵行の初めでなく、倦怠、欲情の弛緩のため、滅、鎮静のため、最高の智識、悟りのため、涅槃のためにならないからです。

 比丘のみなさん。みなさんが考える時は「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、このように真実について思慮なさい。それはなぜでしょうか。比丘のみなさん。これらの思慮には利益があり、梵行(正しい行動。品行)の初めであり、これらの思慮は倦怠、欲情の弛緩のため、滅、鎮静のため、最高の智識、悟りのため、涅槃になるからです。

 比丘のみなさん。だからみなさん。「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と、このように真実のままに明らかに知る行動であるヨーガカンマ(目的を達成するために何らかの形で厳格に、系統的にする努力のこと)があるべきです。

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻524頁1661項





ハ 正しい考えの支援

悪い考えについて知るべきこと

 タパティさん。アクサラサンカッパ(悪の考え)はどのようでしょうか。愛欲の考え、復讐の考え、加害する考えです。私はこれを悪であるサンカッパ(考え)と言います。

 タパティさん。この悪の考えは何が発生源でしょうか。これらの悪の考えの発生源は彼らが言っているもの、想が根源と言うべき物です。

 想はどのようでしょうか。想も沢山あり、一種類ではありません。色々あります。すべての悪の考えは愛欲想、復讐想、加害想が根源です。

 タパティさん。これらの悪の考えはどこで消滅するでしょうか。これらの悪の考えは、彼が言っている物です。タパティさん。この場合の比丘は愛欲が静まり、悪が静まって、ヴィタッカ・ヴィチャーラ(考えること)があり、ヴィヴェカ(遠離)から生じた喜悦と幸福がある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。これらの悪の考えは、当然そこで、その初禅で消滅します。

 タパティさん。どんな実践をする人が、すべての悪の考えの絶滅のために実践する人と言われるでしょうか。タパティさん。この場合の比丘は当然満足を生じさせ、当然まだ生じていない罪である悪を生じさせないため、生じている罪である悪を捨てるため、まだ生じていない善を生じさせるたに努力を始め、生じている善が薄れないよう更に発展させ、完璧にするために心を支え、維持します。

 タパティさん。このような実践をする人を、すべての悪い考えの消滅のために実践をする人と言います。

中部マッジマバンナーサ 13巻349頁364項





善い考えについて知るべきこと

 ね、タパティさん。善である考えはどのようでしょうか。愛欲の考えから出る考え、復讐しない考え、加害しない考え、私はこれを善である考えと言います。

 タパティさん。これらの善である考えは何が発生源でしょうか。それらの善である考えが生じる所は、彼らが言っている物で、想が発生源と言うべき物です。

 想はどのようでしょうか。想にもたくさんあり、一つではなく、いろいろあり、すべての善い考えは、出離想、無瞋恚想、無害想が発生源です。

 タパティさん。これらの善の考えはどこで消滅するでしょうか。これらの善の考えの消滅は、彼が言っている物です。

 タパティさん。この場合の比丘はヴィタッカ・ヴィチャーラ(熟考)が静まることで、心の内部を明るくするものであり、一つのダンマであるサマーディが現れ、ヴィタッカはなく、ヴィチャーラもなく、あるのはサマーディから生じた喜悦と幸福だけの二禅に到達し、そして常にその感覚の中にいます。この善い考えは、当然その二禅で消滅します。

 タパティさん。どんな実践をすれば、すべての善い考えの消滅のために実践する人と呼ばれるでしょうか。タパティさん。この場合の比丘は当然満足を生じさせ、当然努力し、まだ生じていない罪である悪が生じないため、生じている罪である悪を捨てるため、まだ生じていない善を生じさせるために努力に言及し、、生じている善が薄れず、更に成長発展、完成させるために心を支え、維持します。

 タパティさん。このような実践をする人を、すべての悪である考えの消滅のために実践をする人と言います。

中部マッジマバンナーサ 13巻350頁365項





愛欲の味より素晴らしい味を知れば本当の出離がある

 マハーナーマさん。すべてのカーマ(愛欲)は喜びが少なく、苦が多く、多くの困難を生じさせ、愛欲が原因の害(罪)は非常に多いです。これを聖人である弟子が正しい智慧で真実のままに見ても、その人がまだ愛欲を避け、すべての悪を避ける喜悦と幸福に至らず、愛欲が静まった幸福に至っていなければ、その人がすべての愛欲に戻らない人になることはあり得ません。

 マハーナーマさん。聖人である弟子が「すべての愛欲は喜びが少なく苦が多く、困難を多く生じさせ、愛欲が原因の害(罪)は非常に多い」と、このように正しい智慧で真実のままに良く見ていて、そしてその人が愛欲を避け、すべての悪を避ける喜びと幸福に至り、愛欲が静まった別の幸福に至っていれば、その時その人は、二度とすべての愛欲に戻りません。

 (この後、大悟する前に生じた出来事について、もう一度確認として話されています)。

中部ムーラバンナーサ 12巻180頁211項





ニ 正しい考えの実践原則について


正しい考えを生じさせる熟慮法

 比丘のみなさん。大悟する前、まだ私が悟ってないボーディサッタ(菩薩)だった時、すべてのヴィタッカ(断続的に考えること)を二つに分類しようという考えが生じました。比丘のみなさん。愛欲の考え、復讐する考え、加害する考えを一つの部類に、愛欲から出る考えと復讐しない考えと加害しない考えをもう一つの部類にしました。

1.誤った考えの害

 比丘のみなさん。私が不注意でない人で努力があり、自分をそのように後押しすると、愛欲の考えが生じて「私に愛欲の考えが生じた。愛欲は当然自分を困らせ、他人を困らせ、あるいは自分と他人の双方を困らせることになり、涅槃にならない」と明らかに知りました。

 比丘のみなさん。私はこのように熟慮して見えた(註1)ので、愛欲の考えは当然維持できませんでした。比丘のみなさん。私は生じて来る愛欲の考えと生じている愛欲の考えを捨て、そして軽くすることができ、終わらせることができました。(復讐の考え、加害する考えの場合も、愛欲の考えの場合と同じ熟慮のし方で、文末は「終わらせることができました」です)。

 比丘のみなさん。比丘が何らかの感情について熟考すれば、心は当然そのような状態に傾いていきます。比丘が愛欲の考えをたくさんすれば、出離の考えを捨ててしまい、愛欲の考えをたくさんしたことになり、彼の心は当然、愛欲の考えに傾いていきます。

 比丘が復讐する考えの熟慮をたくさんすれば、復讐しない考えを捨ててしまい、復讐する考えをたくさんしたことになり、彼の心は当然、復讐する考えに傾いていきます。比丘が加害する考えをたくさん考えれば、加害しない考えを捨ててしまい、加害する考えをたくさんしたことになるので、彼の心は当然、動物を苦しめる考えに傾いていきます。

 比丘のみなさん。秋節の頃、つまり雨季の終り頃は、どこもかしこも籾がいっぱいで、牛飼いには、籾が原因で捕まえられたり、補償したり、非難される害が見えるので、棒で叩いてその籾に近づかないようにし、牛の群れを狭い場所で飼わなければなりません。同じように比丘のみなさん。私も、すべての悪の低劣さ、憂鬱さが見え、愛欲から出ることの、すべての善の清浄さの側の功徳が見えました。

註1: 「このように見る」とは、例えば自分を困らせることなど、話されたように見ること。




2.正しい考えの恩恵

 比丘のみなさん。私が不注意でなく努力がある人で、自分をそのように後押しすると、当然愛欲から出る考えが生じ、当然復讐しない考えが生じ、当然加害しない考えが生じました。私は当然加害しない考えが生じたと明らかに知り、その加害しない考えは自分も苦しめず、他人も苦しめず、同時に智慧の進歩になり、苦しめる側ではなく、涅槃になると明らかに知りました。

 私が一晩中加害しない考えについて考え続けても、その加害しない考えが原因で生じる危険は見えませんでした。一日中加害しない考えを考え続けても、その加害しない考えが原因で生じる危険は見えませんでした。

 比丘のみなさん。しかし私は非常に長すぎる熟考をしたので、体が疲れ果て、体が疲れると心も衰弱し、心が衰弱すると、それが原因でサマーディから離れたので、私は心の内部を安定した一つの感情にして維持しました。それはなぜでしょうか。それは、自分の心が散漫にならないよう望んだからです。

 比丘のみなさん。何らかの感情を熟慮する比丘は、当然心がそのような状態に傾いていきます。比丘が出離の熟慮をたくさんすれば愛欲の考えを捨ててしまい、愛欲の考えを捨てる考えをたくさんすることになるので、その人の心は当然愛欲から出る考えに傾きます。

 比丘が復讐しない考えの熟慮をすれば、復讐の考えを捨ててしまい、復讐しない考えをたくさんすることになるので、その人の心は当然復讐しない考えに傾きます。比丘が加害しない考えをたくさんすれば、加害する考えを捨ててしまい、加害しない考えの行動をたくさんすることになるので、その人の心は当然生き物を苦しめない考えに傾きます。

 比丘のみなさん。暑季の終りの月には、稲をすっかり家に運び終わっているので、牛飼いは牛を飼うことができ、彼は木陰へ行っても、あるいは野原へ行っても、これが牛の群れだと確認するだけのように、比丘のみなさん。比丘もこれがすべてのダンマだと思うだけです。

中部ムーラバンナーサ 12巻232頁252項





出離の考えが生じる様相

 如行は初めも美しく中間も美しく終わりも美しいダンマを説き、意義も細部も完璧な梵行を説きました。

 長者、あるいは長者の息子、あるいは後でどこかの家に生まれる人は、当然そのダンマを聞き、その人が聞くと当然如行を信仰し、如行を信仰することで後を追い、当然「在家は窮屈で、埃の道。出家は開かれた機会。家を治めて良く磨かれたほら貝のように純潔な梵行を行うのは簡単ではない。それなら髪と髭を落として袈裟(渋染めの布)をまとい、家を出て出家して家のない人になろう」と、このように熟慮して見ます。

 その後大小の財産を捨て、大小の親戚を捨て、髪と髭を落とし、袈裟をまとって家を出て家のない出家になります。

 このように出家したその比丘は、パーティモッガ(二二七戒)に細心の注意を払い、行儀とゴーチャラ(好んでいく場所)が完璧になり、どんな小さなものでも、普段からすべての罪の害が見え、すべての教条を学んで遵守し、善である身業と口業と意業が揃い、純潔な生活があり、戒が完璧で、すべての根で管理している門があり、サティと自覚があり、サンドーサ(知足)があります。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻82頁102項





悪い考えを排除する熟慮法

 比丘のみなさん。増上心学の訓練をする比丘は、ふさわしい時に心の中を五つのニミッタ(相)にするべきです。五つはどのようでしょうか。五つとは、

1.比丘のみなさん。この場合の比丘がどんなニミッタに依存して、心の中をどんなニミッタにしても、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えが生じたら、その比丘はそのニミッタを捨ててしまい、心の中を善であるニミッタにするべきです。

 その比丘が心の中を善であるニミッタにすれば、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪の考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。それらの悪の考えを捨ててしまうことで、その人の心は善くなり、良く静まり、一つだけのダンマ、内面のサマーディになります。

 比丘のみなさん。板を作る職人や、その賢い助手が叩いたり揺すったりすると、小さなクサビで大きなクサビを抜くことができます。比丘のみなさん。(その比丘が、善であるニミッタに依存して悪のニミッタを捨ててしまい、心をサマーディにすることができるのは)それと同じです。

2.その比丘がそのニミッタを捨て、心の中を善であるニミッタにしても、まだ貪りや怒りや愚かさがある、罪である悪の考えが生じたら、その比丘はその悪の考えの害について「この考えは悪だ」とか、「この考えは罪がある」とか、「この考えは報いとして苦がある」と熟慮するべきです。

 比丘がこれらの悪の考えの害を熟慮すれば、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪の考えを当然捨て、当然維持できなくなります。それらの悪の考えを捨ててしまうのでその人の心は善くなり、良く静まり、一つだけのダンマが現れて内面のサマーディになります。

 比丘のみなさん。おしゃれ好きな若い娘や若者が、他人にヘビの死骸や犬の死骸、あるいは人の死骸を首に掛けられると、息が詰まり、恥ずかしくなり、嫌悪を感じます。比丘のみなさん。(その比丘が悪の考えの罪に息が詰まり、恥ずかしくなり、嫌悪を感じるのは)それと同じです。

3.比丘のみなさん。その比丘がそれらの悪い考えの害をこのように熟慮しても、まだ貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えがこのように生じたら、その比丘はそれらの悪の考えをするべきでなく、心の中を悪の考えにするべきではありません。

 その比丘がそれらの悪の考えをせず、心の中を悪の考えにしなければ、貪りや怒りや愚かさのある罪である悪の考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。それらの悪の考えを捨ててしまえることでその人の心は善くなり、良く静まり、一つのダンマが現れて内部のサマーディになります。

 比丘のみなさん。目があっても、一連の目の流れになる形を見たくない人は、目を閉じてしまうか、あるいは別の方向に目を向けてしまいますが、比丘のみなさん。(その比丘が心の中を悪の考えにしないのは)それと同じです。

4.比丘のみなさん。その比丘が心の中をこのように悪い考えにしなくても、まだ貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えがこのように生じたら、その比丘は心の中をすべての悪い考えの全貌(訳注1)にするべきです。

 その比丘が心の中を、それらすべての悪い考えの全貌(訳注1)にすれば、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。それらの悪い考えを捨ててしまえるので、その人の心は善い状態になり、良く静まり、一つのダンマが現れて内部のサマーディになります。

 比丘のみなさん。歩くのが早い人が不意に「私はどうして歩くのが早いのだろう。ゆっくり歩く方が良い」と考えてゆっくり歩き、そして不意に「私はどうしてゆっくり歩くのだろう。立っている方が良い」と考えて立っています。そして不意に「私はどうして立っているのだろう。座ってしまう方が良い」と考えて座り、そして不意に「私はなぜ座っているのだろう。寝てしまう方が良い」と考え寝るようなものです。

 比丘のみなさん。人が粗野な挙措から丁寧な挙措に変わっていくのはこのようです。比丘のみなさん。(その比丘が順に、それらの悪い考えをする様相(訳注1)を熟慮するのは)これと同じです。

訳註1: 元の言葉はルーパパンナサンターナという言葉で、タイ語では「姿形と色つや」「全貌」などという意味です。「心の中を悪い考えを作る全貌にすれば、悪い考えが捨てられる」と言うのは、「悪い考えをする心の過程の全貌が見えれば、悪い考えが捨てられる」という意味と理解します。

5.比丘のみなさん。その比丘が心の中を、それらすべての悪い考えをする全貌(訳注1)にしていても、まだ貪りや怒りや愚かさのある、罪である悪い考えがこのように生じてきたら、その比丘は歯で歯ぎしりをし、舌で口蓋に触れ、心で心を脅圧し、心で心を強制し、最高に心で心を焼くべきです。

 比丘がこのように行動すれば、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。それらすべての悪い考えを捨てられることでその人の心は善い状態になり、良く静まり、一つのダンマが現れて内部はサマーディになります。

 比丘のみなさん。剛腕な男が力のない男の頭や首や体を捕まえて押さえつけ、虐め、最高にイライラさせるようで、比丘のみなさん。(その比丘が心で心を抑えつけ、心で心を虐め、最高に心で心を焼くのも)これと同じです。



悪い考えを排除した結果

 比丘のみなさん。比丘が何らかのニミッタ(心の感情である物)に依存して、心の中を何らかのニミッタにしている時はいつでも、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えが生じます。その比丘がそのニミッタを捨て、心の中を善であるニミッタにすれば、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。

 それらの悪い考えを捨ててしまうことで心は善い状態になり、良く静まり、一つのダンマが現れて内面のサマーディになります。

 その比丘がそれらの悪い考えを熟考すれば、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。それらの悪い考えを捨ててしまえることで、心は善い状態になり、良く静まり、一つのダンマが現れて内面のサマーディになります。

 その比丘がそれらの悪い考えを思い出さず、心の中を悪い考えにしなければ、貪りや怒りや愚かさのある罪である悪い考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。それらの悪い考えを捨ててしまえることで心は善い状態になり、良く静まり、一つのダンマが現れて内面のサマーディになります。

 その比丘が心の中をそれらすべての悪い考えをする全貌(訳注1)にすれば、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。それらの悪い考えを捨ててしまえることで心は善い状態になり、良く静まり、一つのダンマが現れて内面のマーディになります。

 その比丘が歯で歯ぎしりをし、舌で口蓋に触れ、心で心を脅圧し、心で心を強制し、最高に心で心を焼けば、貪りや怒りや愚かさがある罪である悪い考えは当然捨てられ、当然維持できなくなります。それらの悪い考えを捨ててしまえることで心は善い状態になり、良く静まり、一つのダンマが現れて内面のサマーディになります。

 私は、その比丘はいろんな種類のヴィタッカ(継続して考えること)の威力がある人で、その人が何らかのヴィタッカについて熟考したいと望めば、そのヴィタッカを熟考することができ、何らかのヴィタッカの熟考を望まなければそのヴィタッカをしないこともでき、欲望を断つことができ、サンヨージャナ(動物を輪廻に結ぶ煩悩。結)を壊すことができ、マーナ(慢)を正しく知ることで、苦を終わらせる行動をしたと言います。

中部ムーラバンナーサ 12巻241頁257項





愛欲の考えを追放するために人間がするべき義務

 比丘のみなさん。この三種類のカーマ(愛欲)への到達があります。三つはどのようでしょうか。三種類とは、自分が維持している愛欲がある人、自分が作った愛欲を喜ぶ人、他人が作ってくれた愛欲を権力で経過させる人です。比丘のみなさん。これらが、三種類の愛欲への到達です。

経末のガーター(詩)

 自分が維持している愛欲がある人たち

 他人が作った愛欲を権力で経過させる天人

 自分で作った愛欲を喜ぶ天人

 そして他の愛欲を味わう人たちも

 すべてはこの種あの種の愛欲を味わう人


 天のものも、人間のものも

 人はすべての愛欲を避けるべきである

 離れ去るのが難しい喜ばしいものと

 愛らしいものになる愛欲の流れを断つべきである


 そうすれば当然残りのない般涅槃で、

 すべての苦を越えた博学者であり

 素晴らしいダンマが見え、

 正しい智慧でヴェーダ(知識)に至り

 生の終りを最高に良く知るので、新しい有に至らない

小部イティウッタカ 25巻302頁275項




 比丘のみなさん。カーマヨーガ(愛欲に繋がれること)とバヴァヨーガ(有に繋がれること)がある人は、当然アーガーミー(戻って来る人)で、このよう(愛欲を嗜む人間)になる人です。

 比丘のみなさん。カーマヨーガはないけれど、まだバヴァヨーガある人は、当然アナーガミー(戻って来ない人。不還)で、このようにならない人です。

 比丘のみなさん。カーマヨーガがなく、バヴァヨーガもない人は、当然漏が終わった阿羅漢です。

経末のガーター(詩)

 カーマヨーガとバヴァヨーガがあるすべての動物は

 当然、生と死に至る輪廻に行く

 カーマを捨ててもまだ漏の終りに至らず

 まだバヴァヨーガがある動物を

 アナーガミー(不還)と呼ぶ


 疑念を断つことができ、マーナ(慢)と有が終り

 世界の外の岸に至った人たちは

 漏の終りに至る

小部イティウッタカ 25巻303頁276項





ホ 正しい見解の功徳

愛欲を避けることは梵行の夜明け

 王子。私が聞いたことがない、私にとって明らかでない、不可思議な三つ目の例えです。王子。水から離れた陸上に置いてある完全に乾いた木を、男が「私は願を掛けた火つけ木を擦って火を点ける」と決意したら、王子。あなたはこれをどう理解しますか。男は願を掛けた火つけ木を擦って、火を生じさせることはできますか。

 「猊下。本当にできます。それはカラカラに乾いた木で、水から離れた陸上に置いてあったからです」。

 王子。それと同じです。いずれかの集団のサマナ・バラモンも、愛欲の物質から体を離し、心も愛欲煩悩と混じらなければ、その人はすべての愛欲の物質への満足、未練、惑溺、渇き、焦燥を捨てることができ、その内面の愛欲煩悩を静めた人になります。

 そのサマナ・バラモンが強烈な苦受を味わっても味わわなくても、当然それ以上の智慧はない知る智慧、見る智慧を生じさせるにふさわしいからです。王子。これが、私がそれまで聞いたことがない、そして私が明らかにした三番目の不可思議な例です。

中部ムーラバンナーサ 12巻449頁416項

 (初めの例と二番目の例は、体や心で愛欲に沈むために、梵行が成功しないことについて話されています。「ブッダヴァチャナによるブッダの伝記」の「明らかに現れた例え」で読むことができます)。





善の考え、あるいは正しい考えが生じる様相

 比丘のみなさん。愛欲から出る考えは、当然原因が生じさせるように生じ、生じる原因なしに生じる訳ではありません。復讐しない考えは、当然生じさせる原因があるように生じ、原因なしに生じる訳ではありません。加害しない考えは、当然生じさせる原因があるように生じ、原因なしに生じる訳ではありません。

1.愛欲から出る考えの場合

 比丘のみなさん。ネッカンマヴィタッカ(愛欲から出る考え)は当然生じる原因があるように生じ、生じる原因なしに生じるのではありません。それはどのようでしょうか。比丘のみなさん。

ネッカンマダートゥ(出離界)に依存してネッカンマサンニャー(出離想)が生じ、

 出離想に依存してネッカンマサンカッパ(出離する考え)が生じ、

 出離の考えに依存してネッカンマチャンダ(出離する満足)が生じ、

 出離の満足に依存してネッカンマパリラーハ(出離をするための焦燥)が生じ、

 出離するための焦燥に依存してネッカンマパリイェーサナー(出離の探求)が生じます。

 比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子が出離を求めるように求めれば、当然三つの部分、身、口、意で正しい実践です。


2.復讐しない考えの場合

 比丘のみなさん。アビャーパーダヴィタッカ(復讐しない考え)は、当然原因があるように生じ、原因なしに生じるのでないのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。

 無瞋恚界に依存して無瞋恚想が生じ、

 無瞋恚想に依存して復讐しない考えが生じ、

 復讐しない考えに依存して復讐しない満足が生じ、

 復讐しない満足に依存して無瞋恚になるための焦燥が生じ、

 復讐しなくなるための焦燥に依存して無瞋恚の探求が生じます。

 比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子が復讐しないことを求めるように求めれば、当然三つの部分、身・口・意で正しい実践です。


3.加害しない考えの場合

 比丘のみなさん。アヴィヒンサーヴィタッカ(加害しない考え)は、当然原因があって生じるように生じ、原因なしに生じる訳でないのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。

 無加害界に依存して無加害想が生じ、

 無加害想に依存して加害しない考えが生じ、

 加害しない考えに依存して加害しない満足が生じ、

 加害しない満足に依存して加害しないための焦燥が生じ、

 加害しないための焦燥に依存して加害しないことの探求が生じます。

 比丘のみなさん。聞いたことがある聖なる弟子が加害しないことを求めるように求めれば、当然三つの部分、つまり身、口、意で正しい実践です。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻182頁358項





正しい考えはサンガの団結を生じさせる

 比丘のみなさん。比丘たちの気持ちが一つで互いに楽しく、喧嘩や仲違いをせず、水と乳のように心が溶け合えば、互いに愛の視線で見ている方向はどの方向でも、比丘のみなさん。その方向は、たとえ(苦労して)足を運ばなければならなくても、私にとって考えるだけでも幸福な場所であることは言うまでもありません。

 この場合、その比丘たちは三種類のダンマを捨ててしまい、揃って三種類のダンマを遵守して、たくさんしていると確信します。彼らが捨てた三種類のダンマはどのようでしょうか。

 1.愛欲の考え

 2.復讐の考え

 3.自分と他人に困難を生じさせる考え

 この三種類のダンマは彼らが捨ててしまった物です。

 彼らが揃って遵守しているダンマはどのようでしょうか。

 1.愛欲に関わるのを避ける考え

 2.復讐しない考え

 3.自分と他人を苦しめない考え

 この三種類のダンマは、彼らが遵守して、たくさんしているものです。

 比丘のみなさん。その方向は、たとえ(苦労して)足を運ばなければならなくても、私にとって考えるだけでも幸福な場所であることは言うまでもありません。この場合その比丘たちは三種類のダンマを捨ててしまい、そして揃って三種類のダンマを遵守してたくさんしていると確信します。

増支部ティカニバータ 23巻35頁564項

 (これは、サンガの団結はブッダの望みと好誼に叶うと見せる物です)。



ヘ 正しい考えに欠ける害について

悪の考え又は誤った考えが生じる様相

 比丘のみなさん。愛欲の考えは、当然原因があって生じるように生じ、原因がないように生じる訳ではありません。復讐する考えは、当然原因があって生じるように生じ、原因がないように生じる訳ではありません。加害する考えは、当然原因が生じさせるように生じ、原因がないように生じる訳ではありません。

1.愛欲の考えの場合

 比丘のみなさん。愛欲の考えは当然原因があって生じるように生じ、原因ないように生じる訳でないのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。

 愛欲界に依存して愛欲想が生じ、

 愛欲想に依存して愛欲の考えが生じ、

 愛欲の考えに依存して愛欲の満足が生じ、

 愛欲の満足に依存して愛欲を得るための焦燥が生じ、

 愛欲を得るための焦燥に依存して愛欲の探求が生じます。

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫が愛欲を追求するように追求すれば、当然三つの条件、つまり身・口・意で間違った実践です。


2.復讐の考えの場合

 比丘のみなさん。復讐の考え、当然原因があって生じるように生じ、原因なしに生じる訳でないのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。

 瞋恚界に依存して瞋恚想が生じ、

 瞋恚想に依存して復讐する考えが生じ、

 復讐する考えに依存して復讐する満足が生じ、

 復讐する満足に依存して復讐するための焦燥が生じ、

 復讐するための焦燥に依存して復讐の探求が生じます。

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫が復讐を追求するように追求すれば、当然三つの条件、つまり身・口・意で間違った実践です。


3.加害の場合

 比丘のみなさん。苦しめる考えは、当然原因があって生じるように生じ、原因なしに生じる訳でないのはどのようでしょうか。比丘のみなさん。

 加害界に依存して加害想が生じ、

 加害想に依存して加害する考えが生じ、

 加害する考えに依存して加害する満足が生じ、

 加害する満足に依存して無加害するための焦燥が生じ、

 加害するための焦燥に依存して加害の探求が生じます。

 比丘のみなさん。聞いたことがない凡夫が加害を追求するように追求すれば、当然三つの条件、つまり身・口・意で間違った実践です。

相応部ニダーナヴァッガ 16巻181頁355項





ト その他

愛欲の考えに於ける愛欲の自然

 比丘のみなさん。そうです、そうです。私が説いたダンマのみなさんの理解は正しいです。比丘のみなさん。危険なダンマを、私はいろんな説明でみなさんに話しました。そしてそれらのダンマは隠れて嗜む人を本当に危険にします。私は、すべての愛欲は旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、その愛欲の害は甚だしいと言います。

 私は、すべての愛欲は、骨の棒切れのように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲の害は甚だしいと言います。

 すべての愛欲は、草で作った松明のように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲の害は甚だしいと言います。

 すべての愛欲は、炭の穴のように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲の害は甚だしいと言います。

 すべての愛欲は、夢の中の物のように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲の害は甚だしいと言います。

 すべての愛欲は、借り物のように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲の害は著しいと言います。

 すべての愛欲は、木を枯らす果物(訳注)のように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲の害は著しいと言います。

 すべての愛欲は、ひき肉用のまな板のように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲の害は著しいと言います。

 すべての愛欲は、槍と金槍のように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、愛欲の害は著しいと私は言います。

 私は、すべての愛欲は、雷魚のように旨味が少なく苦が多く、困ったことが多く、カーマの害は著しいと言います。

 比丘のみなさん。その無益の人がこのように愛欲(煩悩)を避け、愛欲想を避け、愛欲の考えを避けて愛欲と関わらないことは、それはあり得ません。

  中部ムーラバンナーサ 12巻267頁277項

訳注: バナナなどの植物は、実が成ると木が枯れる。




衆生の心には出離の考えがない

 ヴァーセッタさん。水がいっぱいあって、カラスが止まって飲むことができるアジラワディー川に、その時男がやって来て、向こう岸に利益があり、向こう岸へ行きたいと願い、向こう岸へ渡りたいと望みますが、彼はこちら岸にいて丈夫な紐で後ろ手に縛られているようなものです。ヴァーセッタさん。あなたはこれをどう思いますか。その男はアジラワディー川のこちら岸から向こう岸へ行けると思いますか。

 「絶対に行けません。ゴータマ様」。

 ヴァーセッタさん。これも同じです。このアリヤヴィナヤ(この場合は仏教という意味)では五欲を「足枷」とか「捕縛具」と言います。どんな五種類でしょうか。

 五種類とは、望ましい物であり、欲しくなる物、満足すべき物で、可愛い状態ががあり、欲情の住処であり、欲情の基盤である目で明らかに知る形、耳で明らかに知る声、鼻で明らかに知る臭い、舌で明らかに知る味、体で明らかに知る接触です。ヴァーセッタさん。この五欲をアリヤヴィナヤでは「足枷」とか「捕縛具」と言います。

 ヴァーセッタさん。すべてのトライヴェーダ(ヒンドゥー教の根本経典)のバラモンは五欲に沈んで平伏し、惑溺して低劣な害が見えず、払い捨てる智慧がなくそれらの五欲を味わっています。

 ヴァーセッタさん。それらのトライヴェーダのバラモンは、バラモンにしているダンマを捨ててしまい、バラモンでなくするダンマを維持し、五欲を味わって惑溺して平伏し、深く沈んで低劣な害が見えず、振り払う智慧がなく縛り付ける欲貪がある人が、体が消滅して死んだ後梵天の友人になることはあり得ません。

 ヴァーセッタさん。水がいっぱいあって、カラスが止まって飲むことができるアジラワディー川に、その時男がやって来て、向こう岸に利益があり、向こう岸へ行くことを求め、向こう岸へ渡りたいと望みますが、彼は自分の頭を抱えてこちら側で寝ているようなものです。ヴァーセッタさん。あなたはこれをどう理解しますか。その男はアジラワディー川のこちら岸から向こう岸へ行けると思いますか。

 「行けるはずはありません。ゴータマ様」。

 ヴァーセッタさん。これも同じです。これらの五蓋を、アリヤヴィナヤでは「隠す物」「遮る物」「包む物」「締め付ける物」と言います。どんな五種類でしょうか。

 五種類とは、貪欲蓋、瞋恚蓋、コン沈睡眠(眠気と寂しさ)蓋、掉挙悪作(落ち着きがないこと)蓋、疑蓋です。ヴァーセッタさん。五蓋を、アリヤヴィナヤでは「隠す物」「遮る物」「包む物」「締め付ける物」と言います。

 ヴァーセッタさん。すべてのトライヴェーダのバラモンは、これらの五蓋に隠され、遮られ、包まれ、締め付けられています。ヴァーセッタさん。それらのトライヴェーダのバラモンは、バラモンにするダンマを捨ててしまい、バラモンでなくするダンマを遵守して暮らしています。

 五蓋に隠され、遮られ、包まれ、締め付けられている人が体が消滅して死んだ後、梵天の友人になることはあり得ません。

長部シーラカンダヴァッガ 9巻305頁379項





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